千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 ヴィクトル・ユゴー

ユゴー

 一八五一年十二月二日、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが、第二共和政にたいしてクーデターを断行した時、ユゴーは「共和政万歳!武器を取れ」と民衆によびかけ、抵抗委員会を組織した。しかし、六月反乱の失敗の記憶がまだあざやかであった民衆は動かなかった。こうして、ナポレオン三世のクーデターに反抗したユゴーは、一八五一年十二月十二日、印刷労働者に変装して、ベルギーのブリュッセルにのがれ、その後十九年にわたる亡命生活を送る。
 その間に『懲罰詩集』『諸世紀の伝説』や、『レ・ミゼラブル』『海に働く人々』などが書かれる。
 一八七〇年九月、ユゴーは敗戦の祖国に帰る。ナポレオン三世の第二帝制は崩壊し、第三共和政が宣言された。翌一八七一年二月、「国防」政府は、とり急いで国民議会の選挙をおこない、ユゴーはセーヌ県から立候補して当選する。
 しかし、パリ・コミューンが勃発した時、ユゴーはすでにガンベッタの議員失格を口実として、国民議会の議員を辞職していた。国民議会が共和主義的でもなければ愛国的でもないのに、すっかり失望したからである。
 三月二十一日、かれはふたたびフランスを離れて、ベルギーのブリュッセルに移る。かれは、孫たちの身の安全をねがって、コミューンの動乱を遠くから見守ることにしたのである。
 かれは初めコミューンには批判的であった。かれは中立という雲のなかから、右翼にも左翼にも雷鳴を投げつける。
 四月十五日の『叫び』と題する詩では、ドイツ軍の面前でおこなっている内乱に、かれは反対の声をあげている。
 五月六日の 『二つの戦利品』という詩は、ヴェルサイユ軍とコミューン戦士とを同時に非難している。
 しかし、コミューンが敗北し、指導者たちが追及され、パリの労働者たちが大量虐殺されると、ユゴーは銃殺された人たちの側に立つ。
 ベルギー外務省が、コミューンの政治的亡命者を「犯罪人」と見なして、ベルギーへの入国を拒否する声明を発表するや、ユゴーはさっそく、五月二十七日付「ベルギーの独立」紙に一文を寄せて、ベルギー外務省の処置に抗議し、コミューンの「敗北者たち」に、自分の家を隠れ家として提供する、と書く。
 五月二十七日の夜、白い手袋をはめた一隊がユゴーの家に押しょせて、石を投げつけて叫んだ。「ユゴーをやっつけろ! ジャン・バルジャンを倒せ!‥‥」これは、ベルギーの反動的なデモ隊だったのである。さらにべルギーの王室政府から、ユゴーは国外退去を命じられて、ルクセンブルグに亡命する。
 十月の末、パリにもどると、ユゴーは、栄光にみちた老後の休養をなげすてて、コミューン戦士にたいする大赦を獲得する闘いに没頭する。ルイズ・ミシェルを歌った『男まさりに』は、その一端である。
 ユゴーは、ヴェルサイユ政府にたいして、コミューン戦士への大赦を要求したが、しかしコミューンの行動そのものは、これを正当なものとは認めなかったのである。かれの考えではコミューンは「愚かな」指導者たちにみちびかれ、貧困から起こった一揆にすぎなかったのである。つまり、かれは、パリの労働者たちの行動の正当性を理解することができず、かれらの行動は、ひたすら貧困と無知によるものだと、思い込んでいたのである。プロレタリアートの革命の権利は、ユゴーにとっては、無縁な、どうにも理解のできぬ観念であった。かれの言う「社会的問題」においては、階級闘争というものは悲劇的な誤解から起こるもので、ブルジョアジーはおのれの利益のために、これをやわらげ、なくさなければならない。ユゴーにとっては、プロレタリアートはただ同情の対象であって、プロレタリアートが歴史的な役割をになっているということを、理解することができなかったのである。
 しかし、ユゴーがぞくしたブルジョア階級が、コミューン戦士たちをたんなる強盗の集団とみなして、これを虐殺するためにティエールをひと殺しの親玉に据えたとき、ブルジョアたちは、そこにただ弾圧の戦術問題だけを見ていた。しかし、ユゴーはそこにまったく別種の問題を見ていたのだ。そのために、一時的にもせよ、かれは社会問題の領域へ一歩ふみ込むことになる。

 わたしは告発する われらの先人たちよ
 あなた方の社会は 老いぼれた犯罪者だ!

 しかし、ユゴーはこの非難より先へは進むことができない。かれの「進歩」の神話が、かれをひきとめ、かれの反省をおしとどめてしまう。つまり、このブルジョア社会の非人間性は、「過去」の不吉な遺産であり、「王制」のなごりであり、「一七八九年」の革命が断ちきることのできなかった残りかすだ、という考えである。こうしてユゴーは、ただブルジョア社会というわくのなかで、一七八九年のブルジョア民主主義革命の「論理的発展」という展望のなかに、問題の解決を見出していた。
 これはまったくの時代錯誤(アナクロニスム)である。しかし意味ぶかいアナクロニスムである。ユゴーはその天真らんまんさで、ブルジョアジーにたいして、ただその階級的原則に忠実であるようにと要求している。かれは、ブルジョアジーにほんの少しの寛大さがあれば、問題は解決するものと信じている。かれは、ブルジョアジーにたいして、ただ人間的であること、人道的であることを要求する。しかし、こういうかれの考えには反響がない。共鳴するものもいない。十九世紀の末期に、かれは革命的プロレタリアートについては何も知らず、なおブルジョアジーに信頼を託していたのだ。このユゴーの孤独は、かれはもはやブルジョアであると同時に人間的であることはできないことを示している。
 ユゴーはけっきょく、理想郷を夢みる空想家(ユトピスト)であった。しかし、ティエールのブルジョアジーは、そんなユートピアにさえがまんができなかったのだ。ユゴーは寛容な思想を信じ、りっぱな言葉や大言壮語の力を信じていた。だが、ティエールのブルジョアジーは、そんな言葉には耳もかさなかったのである。ユゴーは、社会問題を、ただ道徳的で抽象的な見地から判断して、この世の惨めさや苦役のなくなるようにとたたかった。かれの偉大さとその素朴さとは、一八四八年の革命に、小ブルジョアがみんな好んで信じたことを、一八七一年になお信じつづけた点にある。
 寛大なユートピアの思想は、それじしん典型的なブルジョア思想の所産であったが、一八七一年には、ブルジョアジーはそれを放棄してしまった。しかし、ユゴーは依然としてユートピアに忠実であり、忠実であろうとする。この時から、かれはその幻想と保守主義にもかかわらず、もはやブルジョアジーに属することをやめるのである。そして、この孤独な、時代おくれの幻想から脱け出すには、プロレタリアートの力を待つことになる。こんにちプロレタリアートはユゴーの栄光をたたえ、受けつぎ、このブルジョア詩人を自己の詩人とみなしているのである。
<『パリ・コミューンの詩人たち』──詩人たち>