三鷹の思い出

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


清瀬

私が小児結核で入院していた2年間、静江は毎週、本を持って面会にきました。
はじめの頃は帰ろうとする母親を「帰っちゃいや!』と大泣きに泣き叫んで困らせたこともありました。

清瀬
清瀬
 最後の麻雀

博光は麻雀が好きだった。博光在りし頃、正月には子供や孫たちが三鷹の家に集まり、食事(博光スキヤキ)の後、かならず麻雀をやった。

博光の麻雀はシンプルな堅実派だった。早めのリーチで主導権を握り、流れを呼び込んで連チャン(連続勝ち)を重ね、役作りにこだわる子供や孫相手にいつも勝っていた。土井大助さんに鍛えられたのではないかとふんでいた。

土井大助さんは相当つよかったようだ。家で雀卓を囲んでいるところに花屋の仕事を終えた静江さんが帰ってくる自転車の音がすると、パッと麻雀卓を隠し、何くわぬ顔で詩の話をしたと言っていた。なかなかの悪友でもあった。

博光が亡くなる前年の正月は、武蔵野の病院に入院していた。元日に外泊して家で麻雀をやることにして楽しみにしていたが、病院に迎えに行くと、寒いから家に帰るのはイヤだという。看護婦さんに理由を話してお願いしたら、昼食後の食堂で麻雀をやっていいと許可してくれた。ところが、あてにしていた孫のうちマー君だけでタカ君が到着しない。お見舞いに来ていた尾池さんは麻雀をやったことがないと言う。「わからなくても大丈夫だから(??)」といって、気が進まない尾池さんに無理にはいってもらい、最後の麻雀をやることができた。誰が勝ったかは覚えていないが、尾池さんの殊勲賞は間違いない。2005年1月1日のこと。

麻雀
ひばり園と園長先生のこと

 ひばり園は今はない幼稚園で、三鷹駅南口から10分ほど、三鷹銀座を抜け出たところにあった。向かい側には三鷹警察署があった。
 ひばり園の庭には古い小型バスの車体が置いてあり、遊び場になっていた。ピクニックで雲雀の上がる麦畑を野崎あたりまで歩き、小川で遊んだことや、親子で芋掘りをしたこと、「春の小川」やツバメやもぐらの童話の世界を楽しんだことなどをおぼろげに覚えている。

 父が前立腺肥大で入院していた1984年5月のことになる。武蔵野日赤病院に父を見舞いに行ったおり、「ひばり園の園長さんが入院している、先が長くないのでお見舞いしてあげて」と母から言われた。気がすすまないので断ったら母は残念そうな顔をしていた。
 最近、昔のことを綴った母のノートが見つかった。三鷹に引っ越して花屋を始めたが、小さい子供二人が家にいては父の仕事の邪魔になる、朋光は園長の厚意でひばり園であずかってもらい、秋光は背負って花屋の仕事をすることができた、園長のおかげで大変助かったという。静江がひばり園の園長から受けた恩義のことを初めて知り、日赤病院で見舞いの話をした母の思いがやっと分かった。

ひばり園
ひばり園にて 右端が園長先生


三鷹
後列右側黒いネクタイで黒っぽい上着の男性がひばり園園長、やや左の黒いネクタイ、大柄な女性が園長婦人

 昭和25(1950)年11月3日の三鷹市制祝賀会の時の写真がありました。三鷹駅南口の三鷹銀座入り口に「ひばり園」の子どもたちが旗を持って集合し、先生や父母と一緒に記念撮影。建物もすごいですが、なんと、駅前ロータリーが砂利道です。この年の2月に三鷹に引っ越してきた博光も三鷹市の発足に居合わせたことになります。
 昨年(2010年)11月には市制施行60周年記念のイベントが行われたそうですが、博光生誕100年記念行事の取り組みのために気が付きませんでした。

神代植物公園

神代植物公園は開園して50周年にあたり、10月20日に記念イベントをしたそうです。
三鷹の家から2-3Kmほどなので家族でよく行きました。いちばん忘れられないセピア色の思い出があります。子供たちが小学校に入るまえの頃のことです。

<神代植物公園>
 ある夏の夕暮れ、家族みんなで神代植物公園へ散歩に出かけた。大人の背たけほどの苗木が続く林に出た。その細い木々にはアブラゼミが信じられないくらいたくさんとまっていて、素手で簡単につかまえられた。金色の夕日に包まれて、夢中でセミを追う僕たちとお父さん、お母さん。夢のような恍惚の情景をいつまでも忘れられない。
(大島朋光「母の思い出」─追悼文集『大島静江を偲んで』)

セミの思い出は昭和26年頃のことなので、神代植物公園が昭和32年に開園する前の、東京の街路樹を育てるための苗圃だった時期になります。あの苗木は枝葉の少ないイチョウの苗のようでした。成長して甲州街道や神宮外苑を彩ってきたのかもしれません。
 三鷹の家の風呂場は玄関から入ってすぐ右にあった。もとは3畳の和室で、東大に通学していた母の弟・鈴木久男さんが下宿していた。久男さんが西伊豆の海で亡くなってから風呂場に改装された。
 4,5歳の頃のある晩、母と風呂に入っているとき、小便をしたくなった。あまりに気持ちがいいのでそのまま湯船の中でしてしまった。お湯の変化から気がついた母は「あら、おしっこをしちゃったのね」と言って、やさしく笑っているだけだった。
 あのおしっこのおかげで、柔らかい肌に抱かれて入った風呂の情景が今も甘美な思い出として浮かんでくる。
静江

三鷹の家
 井戸が見つかったがどうしますか、と解体現場の監督から連絡があった。深い井戸なので使えるかもしれないという。
 子供の頃、飲み水や生活用水につかっていた懐かしい井戸が生きていた。冬暖かく夏は冷たい水で水道よりもだんぜん美味しかった。お隣の加藤さんと共用し、その奥の山下金属の労働者たちも仕事が終わってから来て体を流していた。
 当時、お風呂の水くみと沸かしが子供の役目だった。ポンプでバケツ何十杯分もくみ上げて風呂桶まで運ぶのも、薪をナタで割って釜にくべるのも大変だったが、今にして思えば労働の充実感があった。今の子供たちは井戸のポンプにもナタにもさわれなくて少しかわいそうだ。
三鷹の家
三鷹の家
鯉のいた池はあとかたもなくなった。博光夫婦が楽しんだ梅と乙女椿とガクアジサイは残してもらった。
三鷹の家
 小学校の音楽の先生は山本先生といって少し気むずかしく、ライオンのような髪型でまるでベートーベンのようだった。授業中、子供が私語をすると厳しく注意するので、怖い先生として恐れられた。ところが母の指示で、僕はこの先生にピアノの個人レッスンをうけることになった。山本先生はクラシック音楽ファンの母と話が合ったのか、プロコフィエフのレコードを聴きに家に来たこともあった。
 山本先生の家は鉄条網で囲まれ、どう猛な犬が放し飼いにされている会社の敷地内にあった。真っ暗な中を猛犬に追いかけられながらの、悪夢のようにおそろしいレッスン通いであった。山本先生には指を直角にして鍵盤をたたくことをみっちり教えられたが、それだけではピアノを弾けるようにはならなかった。長く続かず、玉川上水の向こう側・武蔵野市にあるピアノ教室に変わった。今度の先生はお屋敷に住む小肥りのおばさまで、指の形のことは注意されなかったのでレッスンは順調に進んだ。
 ある時、山本先生が「ヴァイオリンを習っている人はいませんか?」とクラスのみんなに聞いた。誰もいなかったので、「母が習っています」と僕が言ったら山本先生はびっくりした顔をしていた。母はピアノの練習をあきらめた僕に「ヴァイオリンを教わってみない?」と誘ったのだが、ヴァイオリンのほうがもっと難しいと直感したのですぐ断った。そこで自らヴァイオリンの練習を始めたのだ。母がどこでいつまでヴァイオリンを教わったのかはわからないが、家族のまえで腕前を披露することはなかった。母がよく聴いていたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の有名な下りを耳にすると、クラシックが大好きで、音楽にもチャレンジ精神をもっていた母のことを思い出す。

ピアノ教室
山本先生とピアノ教室の子供たち


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 発動機運転会でいちばんちっちゃな発動機、よくみたら「共立」の名前が。
三鷹の自宅のすぐ近所に共立農機という大きな会社がありました。四十年ぶりの巡りあいです。
 大島生花園から生花を届けていました。共立農機のほかに、光洋精工や日本無線、アロカなどの華道部に生け花の材料を届けていました。時が流れ、今は共立農機も光洋精工もなくなってしまいました。
 戦後しばらくは中島飛行機の工場跡で、コンクリートの上にガラス片が散っていたり、アレチノギクやタンポポなどの雑草が咲いていました。黒田さんというカトレアのように綺麗な女の子がその一角に住んでいましたが、転校していってしまいました。そのあとに共立農機が建ちました。共立農機はなぜとなく街にとけ込んでいましたが、今はカード信販会社に変わって、要塞のように近寄りがたい雰囲気です。