靜江の文箱

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 ナルシスの「エトナの歌」にはじまった私たちの交響曲は、もう、第四楽章に入ろうとしていますね。
一番充実した一番美しい終楽章にしませうよ。
フルートよ、純粋なフルートよ、思いきり高鳴れ、
弦はうるさくなく従いませう。
 考えてみると私も四十五才なのだけれど、体力的な衰えは感じながら、どうしても その年令の認識が出来ず、若やいだ気持ちは一杯。だから、私達の場合は老後などと言う言葉は当てはまりませんね。青春と言う交響曲の第四楽章として、生きませう。終楽章を春にしましょう。

 五月二十日も、もう近い。二十四年前の五月二十日は西寺尾村の神社の芽ぶき初め、ポプラに嵐のすぎ去った後の鮮明なみどりの芽ぶきはじめ、千曲川の土手のクローバーのしげりはじめ、それを今、池のほとりの雪の下の中に、芽吹き初めの庭の樹のみどりの枝に感じとっています。
(完)

千曲川

 「千曲川旅情の歌」にはじまった三十六才の詩人と二十二才の乙女の旅が、いざよう波に貴方はゆられただよい川底をくぐりぬけ、わたしはよくも泳ぎ切って、はるか彼方へ来りしものかな……。いぶし銀のようなたそがれ色のメロディーをあなたは口ずさみながら、桑畑をくぐり麦畑の上に髪をなびかせながら、自分自身のうたに涙をうかべながら、プシを待っていてくれたこともあった。
 世界中で一番、何よりも美しい私の黄金の詩人は、波にもまれてもさびない竿。奥の奥の純金は私が一番よく知っている。もう扉を叩きます。あせらないでもいい、いや、あせって、純金のひびきを、かすかづつ、そしてひびき高く、鳴らしはじめて下さい。私達の黄昏を、今迄になく美しく期待に満ちた最期を うたいはじめて下さい。
 あなたは黄昏の光が好きなのだから、あの美しい石切り場や戸隠の黄金いろの夕やけを格調高くひびかせて下さい。
 私には何もできない。子供たちも。出来るのは貴方だけでせう。詩を、美を、芸術を、残す事の出来るのは。
 私には馬車馬の値打しかなかったのだから、それでいい。かよわい詩人は馬車馬に引きづりまわされてきてしまった。でも、これからは雑音にまけない純金で、音をかき鳴らさなくてはいけない。おそすぎたけれど わずかな期間の故に、又より美しくかけがえのない涙をうたいあげて下さい。
    二十七日朝 小鳥の鳴き声をききつつ。

石切場



久しぶりにラヴレターを書きます。
「淋しいアコーディオン」のレコードを聴いていたら、あなたの事が無性に恋しくなって、泣いてしまいました。この民謡を聴きながら榊作り**をしてたあなたの姿が浮かんで、とても申しわけない悔いで一杯でした。考えてみると結婚生活二十四年,もう半ばはとうに過ぎ、あと三分の一前後しか残されていない私たちの結婚生活、十数年しか、と言った方が適切かしら。そうだとしたら、毎週土曜日毎でいい、二人でどん底へ行きたい。又 私もえこぢを張らないで、あなたにつき合ってボルガへ行ったり、酒場へつき合って、ビールでも呑もうかしら。残りの十年を今から一刻も大切にして、二人の純金の時の結末にしたい。夏は二人でうんと海へ行きたいし、冬は温泉でもスキーでも、二人っきりで行きませう。ロシヤ民謡にも うんとつき合います。
 私も今迄、老後の為と考えましたが、もう、あなたには、今からが老後なのです。それをどんなに大切にしなければならないか。もうアパートの事***なんか考えますまい。私一人の老後なら子供が三人居るのだから、それこそ何とかなるでせう。もう今の、あなたの老後を大切にして、私はつきあいたい。今から そう考えませう。
 矢の様だった結婚生活二十四年の事を思う。あと十年なんて、とても淋しくて、泣けてきます。そのかけがえのない十年を二人でどんなに大切にしなければならないか。
 結婚して最初の五年、それは私が生まれてからこのかた、最も美しく、最も純粋に生きられた五年間でした。その次の五年は試練でしたね****。でも私は勝ち抜けた。それは愛と希望があったから。
 次の五年は子供への期待と希望で一杯でした。でもあなたは、秋の陽の中を、多摩川の枯葉の中で随分遊んでしまいましたね。一方、私はいけなくなっていました。店を持って仕事に熱中し出すと、あなたの條件もあまり考えず、めくらめっぽう前進してしまいましたもの。
 陽にやけた原書の春が悲しかった。散らされた原稿用紙、新しい本のふえない書斎。ワンマンになって行った自分。
 でも、あなたはいつも誠実でやさしく、思いやりがあった。本当に申しわけないくらい。私の仕事は面白い程どんどんひらけて行ったけど。
 そして私も四十ともなると、時には心に魔がさす事もあったけれど、あなたの純粋がいつも私の純粋を支え、私は真面目にあなたと歩調を合わせて、ここまで来られました。それが、これからの大切な十年を過ごそうと思う時の、何よりの自信であり、本当によかったと思う出発点です。 そう思うと、私は誰よりも幸せな結婚生活をしてきたと思うのですが、貴方が果たしてそうだったかどうか。それは、これから先の貴方の仕事のみのりが、すべての結着をつけるのだと思います。泣きながらここ迄書きました。もう目が真赤にはれ上って 鼻がつまってきたからやめます。
               あなたのおかあさん(プシケと書こうと思ったけれど、もうプシケではない*****。これからの名は、これから頂戴します)

 四月二十六日

◇   ◇   ◇   ◇
1969年に静江から博光に宛てた手紙が3篇見つかりました。原稿用紙9枚に書かれていました。
この時、博光は59歳、静江45歳になります。当時の静江の心境がわかりました。

*「淋しいアコーディオン」は博光がよく聴いていたソビエト歌曲。
**榊作り 神棚に供える榊の束を作る作業。毎月2回、中日と月末にやる博光の後方支援活動。分量が多いので元店員の方にも依頼していました。
***アパート 自宅を建て替えて一部を賃貸しアパートにし、収入を確保することを考えた。
****1950年、三鷹に移ってからの5年。花屋の開業、博光が肺結核で入院手術、朋光の結核入院、桃子を出産などが続いた。
*****結婚前のラヴレターで静江のことをプシケと呼んだ。

二人

雪の中の夢の日のことども いろいろと有難う御座居ました。 
 さりげない屋代の駅のお別れのあと、あまり御不自由なされずお帰り出来ましたでせうかしら。
長時間の凍えに御風邪を召されはいたしませんでしたでせうかしら。
 私の方は お見送りの隙もないホームの辷りより辷りより そろそろと襲ひ寄る悲しみに ひとりを噛みしめながら真白い平原から平原を走って居りました。時折甦りくる、あのましろい雪の中に咲きこぼれては匂い合ふた朝夕のことばの花又花を 汽車のリトムの上にそっと暖めては摘み探りながら・・・。
吸っても吸っても吸ひつくすときをしらない雪の原のひろごりの、今日もまたうすむらさきに昏れかかり、いともミスティークな匂ひを漂わせて わたしを包みにくると、もう物悲しい雪への郷愁に胸はいっぱになってしまひ、小諸、追分あたり、麦畑の畝の黒土のわずかの現れにさへ、かろい失望と焦燥とが溢れでて 汽車のリトムが又かなしき独り旅へとわたしを誘ふのでしたが、長野のお見送りの御こころを ひとすぢに胸に抱きかかへた私の情熱は、そのまま身うごきさへもさせないで、母のもとへと向はせてゆくのでした。
軽井沢あたりの寒さと云ふたら格別で、思索も夢も凍りついて了ふ程、お出でになられなかったのを まあまあよかった、と思ふのでした。
途中も無事パスで 八時少し前に高崎着、一時間程うらぶれの待合室にうづくまる間、ふと耳を襲ふビジネスびとらの話し声に、再びツンドラなる中へ帰って来て了った余りに独りの自分をひしひしと感じて了ひ、ただひとすぢの絹のきづなへの情熱をひたひたと培ひながら昇りくゆらせてゆくのみなのでした。
 九時少し過ぎ、前橋の空は、オリオンを真上にきらめかせつつ相も変らぬ鋭い風を街路に流して、わたしを清め迎へ、雪の第二夜の二重睡眠に浮かんだ母の吐息のそのまま静かなるおこたつの上へと送ってくれました。

 旅の翌日、昨日は、雪の余韻のほのじろい想ひから麦ふみの音のかろくひびき、うすむらさきに桑けぶる南部の野をさまよふて二十にして逝いたセーラー服時代の絵の友のお墓に詣で、美しき死の友との長い会話のあとを、さまざまな思索の流れに身を委ねながら はるばると歩きつづけてをりました。
あなたの呼吸をほのかにも呼びおこしながら・・・。

 今日まひる いと貴きものなる 新らしき二つの詩、川原辺近ひ公園の うす黄金なるやわら枯芝生の陽の中にうちおよがせつ、しのびやかに暗誦をくり返しながら、そのうちなるものへと触れてゆくのでした。こうして更に更に わたしの旅はつづいてゆくのかもしれません。

雪のひとひらをさへ見ないわたしの故郷では、毎日やわらかい冬の陽が、風かげの芝生や土手に、或る時は、かげらふをさへ見せて やさしいかがやきを続けてゐます。 こうした光の中に、グレイのマフラーをなにげなくも泳がせつつ しづかに臥った貴方の耳へ あのラ・プランタンのその風のアフォロディテのやわら衣をさゆるがせてゆくように 貴方のポエジーの しのびやかなる真髄の音をしづかにも しづかにも お送りしてゆきたいものです。
 ではお元気に、いと澄める時を、飛翔して お送り遊ばしませ。
  一月九日
                  鈴木静江
大島博光様
静江

*昭和20年1月3日に二人が初めて長野で逢ったあとに出した手紙。静江は1月7日帰途につき、松代から屋代まで博光が見送ったことがわかった。雪の信越線を高崎まで行き、夜9時に前橋の自宅に着いた。
サークル
サークル

第二の出発・・・大島静江

 「夏の夕暮どき牧場ゆけば 辺りは一面緑に輝いて・・・」そう、緑に輝いていました丁度一年前の七月です。純粋に自分達の歌を求め、民主的な運営と、若者たちの美しい交流を求めて「りべるて」が出発したのは。はからずも、これ以上寛容で温厚な人はないのではないかと思われる伊津野さんを迎え、初めて気心の知れあった仲間たちでハモるという喜びを知りました。「平城山」「エルベ河」等のメロディに刻まれたその頃の想い出は、季節の移り変わり迄肌身に感ずる様で懐かしさはつきません。そして九月、諸井先生のすばらしいレッスンに初めて接した時の感激!レッスンそのものが、芸術から受ける感銘でした。そして十月の合宿、十一月の合唱祭と、先生にリードされながら試行期間を終わり、今年一月総会を持つことが出来ました。その間 中心となって活躍した大垣さんの苦労は並大抵ではなかったようです。総会によって全員一致諸井先生に指導をお願いしたいとの要望に対し、諸井先生の「やりましょう」との情熱にすべての活動は始まりました。組織部では適材適所といいましょうか、本当に良い人達に恵まれ、円滑な活動を進めることができました。岸本さんの温かい対心関係、重森さんの積極的な宣伝活動、森村さんの着実な名簿係。それは別記各氏の報告をご覧になって下さい。
十六世紀マドリガルのファーマー、ジュヌ、ジャンヌカン、ヴィクトリアと取り組みました。まさに「りべるて」の開花期、早春でしょうか。──が、残念なことに、諸井先生が過労で倒れ入院されました。そして内田先生が指導してくださる様になってから、毎週必ず来て下さる先生の熱意に団はすっかり安定し充実し、又時には高揚をみるコーラスを創り出すことが出来かかっている様な気さえします。今二年目を迎える「りべるて」は帆にいっぱいの風をはらんで三十数名で出発しようとしています。七月に出来る名簿の一人一人は「りべるて」を築いている大切な礎です。当初の人達にも増して音楽好きな人、技術の出来る人、美声の人、楽しい人。書くパートのその一人でも欠席すると質が違ってしまいます。一人こそが大切でりべるてを支えているのです。今年はみっちりつっこんだ質の「りべるて」を創り出してゆきましょう。不足のパートは皆の力で友達を誘い補って、理想のピラミッド型にしてゆきましょう。手に手をとって未知の合唱曲、美しい花園へと踏み込んでゆきましょう。

<「りべるて」第2号 (昭和48年7月)>

二月二十一日
 ラジオでショスタコーヴィッチ第五番を聴く。第一楽章、大地から生えてきた様な感じ。アルツール・ルジンスキー、スラヴ的で線が太い。ハーモニーが新しい。第二楽章、テーマがとても美しい。かなり線の細い美しいところがある。最初のコントラバスのうたも美しい。ワルツ形式 第四楽章は初めて強い構成が続き、中間部にノスタルジーを感じさせる様な美しい部分がある。
 十時頃から神田へ出る。波木井で「ロダンの言葉」を見つけたので買う。三一書房で四千円貰い、三井銀行で、日本楽器に電話をかけると、今日は休みとの事。東響定期は今日買へない。それで、駿河台下迄歩いて来ながら地球堂にひっかかってしまい、八号キャンバス二枚と、絵具十六本、テレピン、サンシード、がくぶち等、三千二百円位買う。お父ちゃんに千円残して帰る。今度こそ絵具をかためさせない様、中断しない様、描いてゆきたい。夢のようにあこがれていた絵具を買ったら、今度は描かなくては、と言う重荷が出来た感じ、水道橋の掘割りを見ても、線路の道を見ても、モチーフになってしまう。家に帰ったら大島も大喜びで、俺が描く、俺が描きたくなっちゃった、と言う。バルトークのチェレスタを聴きそこなう。
<静江の日記>
 
*三一書房で四千円貰い・・・「フランスの起床ラッパ」の印税を受けとったようだ。昭和35年頃のことと思われる。
二月十九日
 子供達と、家中そろって多摩川へ行く。お父ちゃんが毎日通ったところなのに、私は初めて。久しぶりに、のびのびとした気持ちですごす。
 四年六年生の絵の一体に何と暗い調子である事か。不透明水彩絵具のこなし切れないせいだという事は先づ云えませう。私達が子供の頃は、透明水彩絵具で、画用紙の生地を生かして淡彩画的写生絵を描いたものでしたが、児童画のユニークな芸術性が高く評価される様になり、従って、子供の主観を直情的に表現する手段として不透明水彩画法が恐らく、このように普及されてきたものと思われますのに、技法も昔のまま、又描く態度も淡彩的の写生法をとっており、そこに問題があるのではないかと思います。それはただ写生にとらわれており、自然と子供の心との楽しい交流が感じられません。もっと美しい子供の心の夢をのばしてやる、子供の精神の語り手としての絵画にむけていってはどうかと思うのです。一年生に於けるすばらしい児童の芸術的才能の芽生えが、一様に消えさって行く様な気がして、国際的にも日本の児童画の価値が高く評価され、又絵の教科書にも、あの様にすばらしい絵が紹介されているのに何とした事かと思いました。
<静江の日記>
二月十六日
 初めて春が訪れたような朝。目が覚めると、子供達が、雨が降った雨が降ったと言って窓のところにかけよる。自然の変化に、こんなにも敏感にかん声をあげる三人の子供達。そしてしっとりぬれた土の上にやわらかい朝の光が訪れる。背中がいたいのでね床の中で児童展評を考へる。子供の作品には、その子の生活への情熱とか知識が、夫々の体力を通じて表現されてくるのは勿論だが、その本人が意識も期待もしない、その子の心の奥底にひそむ純粋性が、色彩をかりて、さらりと画面に出てくる時、初めて大人では表現出来ない、尊い芸術性となって大人の心を打つ作品が生れるのだと思う。上級生の絵の、ただ写実にとらわれた何のたのしみもない絵。そこには自然と子供の心との何も交流もなく、つかいづらい水彩絵具をつかってくるしみながら描く、くらい子供の心の反映がある。絵とはそんなものではない筈である。もっと生き生きと、不透明水彩絵具等、色彩の出し良い絵具を使って、自然の中の美しいものを美しく、楽しく表現させる方法を教師はとるべきではなかろうか。一歩南へ出れば美しい武蔵野の畑がひらける六小*の子供達が、どうしてこんな色彩のない、暗い絵を描くのかと不思議な絵。のびのびした自然の美を心の奥底まですわせて、その、のびのびした色彩環境の中で、描かせてみせてはどうか。桃子と鼻のつけっこをする。
八時半から、シューマンのピアノソナタ第三番をきく。とても美しい。本当の音楽と云った感じ。ブラームスのバラアド、間奏曲、ロマンス、これも又すばらしい。頭のチミツさが、すみずみ迄ゆきわたり、ショパンの様な、なまの感性がなく、あくまで知的で音楽的で、ブラームスのシンフォニーより、ずっとすぐれていると思った。よき朝。

*六小 三鷹市立第六小学校。三人の子供が通学していた。
噴水

 プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第1番
 朝の光の中で聴く。
 無上の明るさ、豊かさ、第一楽章の美しさ、第二楽章、玉をころがす様な、多彩な、宝石の洞窟の中に居る様な美しさ、民族的な祭りを思わせる様なあやなすメロディ。第三楽章は、音楽的構成の多様さ、第四楽章後半のトレモロのすすり泣きは、芸術的陶酔の、歓喜のすすり泣き、フィナーレはエレガンスで、繊細で、甘美に終ってゆく。
(静江日記 2月2日)

静江の日記 1月28日土曜(ぢいやんのお葬式に行く汽車の中で)

軽井沢近い山の中で記す。やはりあなたの事を想っている。ぢいやんの家族生活よりあなたの方が幸せね、と言ったら「そうだよ、百倍も千倍も幸せだよ。」と言った言葉が、私には無上に嬉しい。過ぎ去りしとしを集積して私にも、あなたと一緒になったという状態の中には、それだけの力があったかと、自信がやっと持てた様な気がする。私はただ貴方にほれただけで生きてきてしまったがそれが一つの幸福な家庭を築いて上げてきたのかと思うと、家庭は愛のみがすべての中心だと思う。子供達にも、家庭的な遊びも面倒もしてやれない、してやれないと思い思い生きてきてしまいながら、やはり現在子供達は幸せらしい。私の気持ちも三人とも分るらしい。おやじをも結構よく理解してくれている。私達の子は私達の子らしく育ったものだなあと感がい深く思うことがある。今朝も秋光の事思いながら、エゴイズムの二人の悪い面をうけついだり、繊細な感受性を受けついだり、そして突如とした天分に恵まれ。ボーヤは二人にない寛大さをもち、お父さんに受けついだ誠実さと素直さをもちながら、やはりルーズで。桃子は又二人にないキリッとしたしめくくりおのある良い資質をもっている。彼女も実に繊細だ。やはり芸術家の子供らしい。そしてそれが喜びだ。私の精神は現在でも恋愛状態で、一六年前とちっとも変わらないのは、やはりあなたが立派で詩心があるせいね。あしたの帰りは一緒かと思うと、うんと甘えようと思った たのしみ。浅間を見ながら思う。36才のあなたは結婚生活の出発点だったけど、36才の私は結婚生活の中腹ね。みのり豊かな。でも51才になってもあなたは本当に大学生みたいだし、私も女学生みたい。あと十年位、大いにスキーや海水浴をしたいものだと思う。追分につく。例の宿をさがしながら、一体あなたも純粋だし、私も純粋だし、やはり私は精神だけを求めて結婚したから今になってこんなに幸福なのだと思う。幸福なんて精神のものなんだもの。それにしても俗な形式上のものや世間体やしきたりに全く超然としてきた自分が気持ちいい。(悪い面もあるかもしれないが)そういう面まで子供に影響してるらしい。お正月の礼儀とかしきたりなども全然しらないのだから。そういう意味で、家族的超現実派らしい。おぢいさんのお葬式の時間、黙とうを捧げよう。立派な人だったが、どうしてるかしら。もうすぐ小諸。
(昭和36年1月)
静江日記 1月20日 快晴

主人とボーヤ、秋しょうさんは山田へスキーに行く。私も行こうと主人はしきりに言ったが、お父さんの最後の時に、とても行く気になれないのでやめにした。意識もあって、静江かと言ってくれた。上京した時、上野駅へ出迎へたり、上野博物館へ御案内すればよかった、とつくづく後悔された。お腹がずいぶんはっていて、もんだ。十一時頃、水沢へ行く。千曲川を通りながら鍬をかついで私を畠に連れて行ってくれたぢいやんを思った。あの頃の私は本当に純情だったと思う。──尤も今もそうだが──。余分、博光にほれてるのだなー。私にとって赤城の思い出より千曲川の思い出の方がどんなに美しく純粋な事か。結婚以来、本当に私は幸せになったと思う。雪景色のリンゴ畑や、四方の山々に私の思いではつきない・・。ポプラ林も雪景色の中にあって、彼に会いに来た日々を思い浮かべ・・・。水沢へ行って、おひるをごちそうになる。ここは秩序があって、かたくくらしてゆく農民のたしかさを感じた。お土産にリンゴを沢山もらう。寺尾へ帰ってぢいやんのお守りをしたら、ねてしまう。又素手でお腹をもむ。夕方、ぢいやんがよく眠ったので、又土手に上る。ぼーやを妊娠してる時、霊感を言いたい程の喜びにふるえた土手。雪の土手をポプラに向って歩きながら西畑の思い出にふけったり、雪の中のリンゴ畑、ポプラ林へスキーに行った博光の事を思って、彼は須坂の雪の中でプシの事を思っていないかしら、などと思う。去り難い思いだった土手を又北へ走り、家へ帰った。ぢいやんに、そばへ居ないと言って叱られた。
夕食のあと、「おかあちゃんまだ帰らないか」と言って、元気な声で主人が帰ってくる。一緒に東京へ帰ろうと言う。私はうれしいけど、それで病人に対していいのかしらと思ってしまう。ぢいやんが淋しいだろうに。ぼーや、秋しょう、みのちゃんも一緒に帰ってくる。二人ともとても上達したそうな。ボーヤのケンタンぶりは大したもの。我が子の大きくなったのを今更ながら眺める。「高校進学」という雑誌をむさぼるように読んでいるのを見て、よい本を身辺に置いてあげれば読む子なのになあと思う。さんざん迷ってぢいやんに別れを告げ八時二十分に出発する。主人も。ぢいやん、又来るよ、と言うと、バカヤロと言う。長野行のバスに乗る。バスの中で又話す。最期迄居てあげるのが貴方の役ぢゃないと言う。みいちゃんも山に帰ればそれこそ淋しいし、と言うと、ぢゃ、お前がそれ程言うなら帰ると言って帰ることにした。駅前で下りて、私は桃子をオンブして、彼は荷物を持ってくれて長野駅迄の雪の道を歩く。最初に会った日を思い出す。雪の長野駅だった・・。つい此の間の様な気がする。主人に言って笑いあう。次の思い出は、あなただけが上京する日、ボーヤを背負って長野駅迄見送りに来たが、あれも雪の日だった。丁度九時の汽車の時間にかっきりで、桃子とあわてて乗った。彼は無事バスで帰れたかしら。
ぢいやんも 今夜か明日か分らないのに、生きたがっているのに、よく看病してくれればよいが。
汽車、さかきに着く。信濃路奥深くの旅を感じる。寺尾の家の天井を見ながら、信州の奥深く、私は来たものだなあ、と思ったが。
(昭和36年1月)

*東京に帰って書いたのが1月21日の手紙になります。

静江の日記 1月19日 木曜 快晴 起床7時

長野行き白樺号の中でこれを書く。
赤城にまだ雪は少ない。赤城は殺ばつとした思い出。でも父母はどうしてるかしらと思う。
一昨日朝、博光は父のところへ行っているが、どうしてるかしら。淋しく胸が痛んでいるだろうと思う。父親の死を待つ気持ち・・・。悲しく落ち着かないだろう。昨日、夕食の時、秋しょうさんが、お父さんの顔、見たくなった。─あのやさしい顔─。というので笑ってしまったが、彼の感受性のこまやかさか。お兄ちゃんにどなられるとひどく怒るが、彼にはアルチストのプライドもあるのだから、両方なだめるのもむづかしい。桃子は実にしっかりしていて危なげない子だ。本当に感心する。
朋しょうさんは大人用のジャンパーを着て真面目なような、怠けたような。やはり我々の子かしらなどと思ってしまう。ボヘミアンのところもあるなあ。
やっと高崎。春めいた光をたたへた自然。昔より私の心もうるおっているのかもしれない。とにかく、今は非常に落ち着いた心で幸せに恵まれている。子供達の事が非常に楽しみ。博光も本当にいい人だし、私の仕事も当っているし。高崎駅に着く。高崎駅でのいらいらした思い出は、今のこの落ち着いた幸福に入る前の春の嵐だったかしれない。
小諸に停車する。尺八で信濃馬子唄が流れてくる。昔、蒲原有明かの詩の信濃路の追分節やと言う、なつかしさが浮かぶ。小諸から小海線で、東京を歩いた冬を思う。あの頃はボーヤを松代へ残して来て、夕方帰ったものだったが。
軽井沢を越えてから、本当に信濃路へ入ったうるおいがある。くつかけのあの宿もあった・・・。小諸をこえると左手の崖は雪景色。柿の木も信州らしい。昔何となくあこがれた小諸の彼方、信州の中央へ嫁した◯◯、思い出は夢の様なり。ゆうべ、おそくまで支度していてねむい。

*昭和36年1月、父親の確光が黄疸で臥していたため、一家で松代の実家に見舞いに行った。長野から三鷹に転居し、静江が花屋を始めて10年、商売が軌道に乗り、子供達も成長して、満ち足りた心境にあることがわかる。秋しょうさん=次男秋光、朋しょうさん、ボーヤ=長男朋光。
Anata 桃子とお風呂へ入ったあと、ベッドへもぐり込んでこれを書き初めました。
独りでさびしいでせうけど、ガマンしてください。逝ってしまえば、もっと親孝行しておけばよかったと思っても、永遠に出来ない事よ。
悔いを残さない様、最後の苦しみを、少しでもやわらげてあげる様、Hirokoはそばに居なくてはいけません。Anataが最後の水をあげる事が、お父さんにとって一番幸せなのではないかしら。
桃子と汽車に乗って、雪の長野駅に赤ん坊の朋光を背負い、Anataを東京に送った日を想いました。雪の信濃の夜は私にとって、それは数々の想い出に充ちていました。汽車は空(から)で楽に帰れました。
 夕方服部氏から電ワがあり、明日は来られないとの事でした。
 電報が来たら、すぐあなたの胸にとんでゆくから、待ってて下さい。
稲玉君は十時頃になって店から帰ってきて、いやだから、ホームコタツごと食事ぐるみ、むこうのうちへやってしまいました。
コタツの上の原稿は、ちゃんと管理してありますから大丈夫です。桃子はとても幸せそうに眠っています。
 ではおやすみ。ペーゼを送ります。
  一月二十一日          静江
 博光様

雪の中のわが半身からのお便りを待ちます。
   二人とも久しぶりに体を休ませてチクセキしませうよ。

(昭和36年1月22日 武蔵野局)

*父・確光がガンによる黄疸で臥していたため、一家で松代の実家に見舞いに行ったあと、博光だけ残って看病した。

履歴
大島静江履歴より


13才 群馬県立前橋高等女学校入学。かわいいのでその名全校に轟く。
  2年頃より芸術に目ざめ、燃える。
  3年、大東亜戦争で父出征、本人の芸術的意欲、意のままならず、
  4年、先生に失恋して悶々。成績は上位。
17才 封建的町家に反逆、孤独をいたい程知り、ひとり理想に燃える。
18才 上京、近藤修博さん、芳子さん夫妻の世話になる。みどりの郊外で田園に親しみながら、けん実な叔父と、温かい叔母の人情に感銘する。
西銀座朝日新聞ビルの日本教育紙芝居協会に務め、傍ら、本郷研究所へデッサンに通う。
20才、・・・・?大島博光氏と知り合う。
20才、戦争激化、前橋へ帰る。大島博光氏より詩の様な便り頻々。ギリシャ神話調でラヴレターを書く。
21才 一月三日長野駅頭にて初めて再び大島博光氏と会う。
三月、召集(赤紙)来り、彼公然と前橋へ「おいで乞う」の電報を打つ。その深夜、屋代より千曲川の土手を降って、三里、かの西寺尾の里にたどりつく。
5月20日 結婚、母につきそってもらってポプラけぶる埴科の里を、おめしのモンペ姿で、お宮で休み、婚家へたどりつく。結婚は町家への反逆からの解放であった。すべては自由で、すべては明るかった。
信州の山に、千曲川、畠、土手、限りなく美しい自然に親しみ、苦労を忘れて畠仕事を手伝う。


大島静江本人が記した履歴書により、博光との出会いから結婚までの経緯がだいぶわかってきました。
東京で最初にどこで知り合ったのかは・・・・?のみで書いていません。以前博光に尋ねたときも笑うばかりで教えてくれませんでした。昭和19年10月に文通をはじめて比較的短期間のうちに絆が深まっていった。
昭和20年5月20日、家を飛び出るようにして松代にたどりつき結婚、母親だけがつきそったようです。明るく自由な人生がスタートし、今日が結婚65周年の記念日になります。
静江が自分の葬儀のやり方を指示した遺言のような文書が文箱の中にありました。流す音楽や、花、料理、お菓子、式次第、読み上げる履歴などが書いてあります。
この遺言は誰の目にもふれなかったので、実際の葬儀には生かされませんでした。
静江遺言
シューマンのピアノ幻想曲集やブラームスのヴァイオリン協奏曲などが好きだったことがわかりました。
告別の辞が子供─親戚─来賓の順になっていることは、しきたりにとらわれない彼女らしいと思いました。実際は博光が喪主だったのに、彼の役割が書いてないのは何故かな?とふと思いましたが、元気なときに書いた(50才前後か?)ので博光より先に亡くなることは考えていなかったのだと気がつきました。

音楽や履歴読み上げ、献花の花など、葬式ではかなえてあげられなかったことを、今週行う納骨式でしてあげたいと思いました。