博光追悼

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 さよなら
                  大島博光

わたしは九〇歳 ねたきり雀
最後のさよならを言ってもいいだろう

わたしはわがままで 愛に缺けて
他者(ひと)には何ひとつ 差し出せなかった

そればかりか たくさんのひとたちを
痛め傷つけてきたのではないか

なのに たくさんのひとたちの愛のおかげで
わたしは生きてくることができた

わたしの反抗の詩は売れなかった
そういうものしかわたしには書けなかった

もしも そのひとたちの愛がなかったら
わたしを生きさせてくれなかったら

生きる不器用なわたしは飢えはてて
公園のベンチでのたれ死んでいたろう

ブドウの添木のように わたしを支えて
生きさせてくれたひとたちに礼を言おう

その愛を抱いてわたしは遠くへ旅立とう
そして最後のさよならをのべよう

人間の愛をわたしは信じることができる
もしも信じないなら わたしは人でなしであろう

                 〇〇.七.一〇

(自筆原稿)
「命日のきょう、全国大学ラグビー選手権の決勝が早稲田と帝京大のあいだで行われます。<ラグビー見に行こうよ>と博光先生から電話がかかってきそうな気が。早稲田が勝つのを楽しみに観戦します」と博光の友人だった西島さんから電話がありました。
2006年は亡くなった前日が決勝戦でした。「テレビで途中までみて、早稲田の勝利を確信して休んだ、後で優勝を聞いて喜んだ」と見舞った尾池さんが話してくれました。早稲田ラグビーのファンとしては最高の臨終でした。
今日の決勝戦は帝京大の勝利におわり、早稲田ファンはがっかりでした。
一月八日(日)
病室へ伺った時は、二時をまわって大学ラグビーの決勝戦がもう始まっている時間でした。
眠っていらっしゃるので、テレビをつけてご覧になりやすい位置に向け「ラグビーですよ」と声をおかけすると、目を開かれ、すぐに見始められました。半ばうとうとされながらご覧になっていらっしゃいましたが、早稲田が三十点をとったところで「もう大丈夫だ」とつぶやかれ、試合最後のあたりは眠られていました。
試合が終わってから「優勝おめでとうございます」と、また声をおかけしますと
「何か美味いもの食べに行こう!」
(何がいいですか?)
「そうねぇ」
(お肉?)
「それもいいねぇ。どこがいい? 考えておいて」
「スープか、何か甘いものは無いの?」
(連休なので明日ご家族が美味しいものを持ってみえると思います)
「今無いの?」
今日は鼻に酸素のチューブをつけられ、腕に点滴をされています。たんがからむせいか「声が出ない」とおっしゃっていましたが、話されるうち声もはっきりし、少しむくんだようにみえたお顔も、血色が良く生気があるようにみえ、張っていた脚のむくみもひいて、あぁ、よかったと思ったほどでした。
以前の入院の時も看て下さっていた男性ナースが回診にみえ「五日に発熱...八度五分くらい...だったので、点滴になってしまいましたが、今日は熱も下がり、たんもあまり多くないよう。今日は食事は摂れないですが、だんだん、またもとに戻るでしょう」と言われました。もう少ししたら点滴がはずれ、また美味しいものを召し上がれるようになるのだと思いました。アラゴン協会のアルベルティーニ氏が送って来たフランスやスペインを巡回するというエルザ・トリオレ文学展のパンフレットをお見せすると「これは何?」と言われましたが、そうこうしているうちに寝入ってしまわれました。ふだんと変わらない呼吸で、平静にみえました。窓の外のすっかり葉が落ちた欅の高い木立には、「いつも見ているよ」と言われる鳥の巣が黒いシルエットとなっています。病室の中は温かく、頭床台に飾られた黄色いチューリップが茎や葉をおおらかに伸ばし、枕元ではピカソの鳩が小枝をくわえ、羽ばたいています。
ずっと眠っていらっしゃるので、今日は夕食が出ないのなら、このままお起こししないでおいとましようと、窓のカーテンをひき、ベッドまわりを整え病室を出ました。部屋の敷居を踏み出したところで、足が止まり、ふと引き返しました。
しばらく足許の丸い椅子に座ってご様子をみていましたが、変わらずよく眠っていらっしゃいました。落ち着いていらっしゃるし、早稲田が勝ってご機嫌も良いし、失礼しようと立ち上がり、タオルを目の上にのせられているご様子を見、初めて下連雀へお伺いした日の、目にタオルをのせて休まれていらした、書斎のあるほの暗い寝室での姿と重なりました。あの時と同じご様子だと思いながら、大きな不安の中にも小さな安心を抱き、すでに日が落ちた冬の道へと病院を後にしました。
(尾池和子「大島博光語録Ⅱ」)
二〇〇六年一月九日、父 博光は肺炎のため静かに息をひきとりました。一月十二日に偲ぶ会を、一月十三日にお別れ会を行い、父は妻の許へ旅立っていきました。詩人会議や現代詩人会の友人の皆様を始め、たくさんの方々に見送っていただき、喜んでいると思います。ありがとうございました。
 父は一九九九年六月に大腸癌の手術を受けましたが、順調に回復し、以前と同じようにフランスの雑誌を読んだり、囲碁やラグビーなどの好きな番組を見たり、多摩川で鯉釣りを楽しんだりしていました。ゴーシュロンの訳詩集を出版したほか、「アラゴン名詩集」や「人民戦線」などを出版したいと言って原稿を書いていました。二〇〇四年三月に癒着性イレウスの症状が出て入院しました。四月に一度退院しましたが、その後も同症状を繰り返し、一人暮らしで足腰が弱ったこともあって長期入院となりました。入院中もグルメぶりを発揮して「ステーキを食べたい」「寿司を食べたい」と言って看護婦さんを困らせたそうです。二〇〇六年一月二日、届いた年賀状を持っていくと、読み上げてくれというので読みきかせてあげました。一月八日、尾池さんが見舞ってくださったのが最期となりましたが、大好きな大学ラグビーをテレビ観戦し、早稲田が優勝したのをみて喜んだということです。
 博光は「鳩と未来の詩人」と自ら称して「世界の青春」の理想を胸に詩作を重ね、貴重な宝物を残してくれました。この宝物を大切にし、生かしていくのが残された私達のつとめだと思っております。皆さまのお力添えを頂きながら父の遺志を継いでいきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
 このたび寄せられたお別れの言葉や詩、エッセイなどを紹介させていただき、故人を偲びたいと思います。
二〇〇六年二月
(追悼文集「鳩・未来・世界の青春 大島博光を偲んで」序文)


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