ポール・エリュアール Paul Éluard

ここでは、「ポール・エリュアール Paul Éluard」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


5)「苦しみの武器」──ガブリエル・ペリ

 一九四一年十二月十五日、ガブリエル・ペリがモン・ヴァレリアンにおいて人質として銃殺された。──彼はフランス共産党中央委員で、代議士で、下院の外交委員会の副委員長として、ファシズム体制に投降する政策に反対し、ファシズムにたいする仮借なき批判者であった。処刑の前夜、ペリはのちに有名になる遺書を書く。

 「わたしは最後にもう一度、じぶんの良心をふりかえってみた。少しもやましいことはない。もしも、もう一度人生をやりなおさねばならぬなら、わたしは同じ道を行くだろう。わたしはやはり今夜も信じている、『共産主義は世界の青春であり』『それは歌うたう明日の日を準備する』と言った、親愛なるポール・ヴァイヤン・クーチュリエの言葉の正しかったことを。わたしはまもなく『歌うたう明日の日』を準備するだろう。さようなら。フランス万歳!」

 その英雄的な死を讃えて、アラゴンは「責苦のなかで歌ったもののバラード」「ガブリエル・ペリの伝説」を書いたが、エリュアールもまた簡潔で感動的なペリ像を描いている。

  身を守るために生にむかって開いた
  二本の腕しか持たなかった男が死んだ
  鉄砲を憎むという道以外の
  ほかの道をもたなかった男が死んだ
  男は死んだが死に抗し忘却に抗して
  彼はいまもたたかいつづけている
  ……

  ひとを生きさせるような言葉がある
  それは無拓な言葉たちだ
  温かさという言葉 信頼という言葉
  愛 正義 そして自由という言葉
  子供という言葉や思いやりという言葉
  そしてある花々の名前や果物の名前
  勇気という言葉や見つけるという言葉
  兄弟という言葉や同志という言葉
  そしてある国や村むらの名前
  そしてある女たちや友だちたちの名前
  そこにペリの名を加えよう
  ベリはおれたちを生きさせるために死んだ
  彼とおれおまえたちで話そう 彼の胸は射(ぶ)ち抜かれた

  だが彼のおかげでおれたちは互いをよく知る
  おれたちはおれおまえで話そう 彼の希望は生きている
        (『苦しみの武器』──「ガブリエル・ペリ」)

 ここでは、選ばれた言葉、固有名詞、イメージが、状況を的確に反映している。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

赤バラ


4)「苦しみの武器」

 一九四二年四月、十七歳の高校生リュシアン・ルグロは、ビュッフォン高校のデモに参加して逮捕された。リュシアンはエリュアールの旧友の長男だった。六月、彼はヴィシイの法廷によって終身労働刑を宣告された後、ゲシュタポに引渡された。ゲシュタポは彼に肉体的にも精神的にも拷問を加える。エリュアールは書く。
 「なんとドイツは寛大だったことか。ゲーリングは彼に特赦を与えた……そしてなんとドイツは冷酷だったことか。おなじゲーリングが数日後に彼を人質として処刑したのである……彼は四人の級友とともにイヴリに葬られた……」

 数ヶ月後、エリュアールは銃殺されたこの少年を記念して「苦しみの武器」と題する一連の 詩を書く。

  あの子は嘘をつくことも
  そして助かることもできたろう
  越えられぬ柔かい平野
  あの子は嘘をつくことを好まなかった
  彼は声高く自分の罪を叫んだ
  彼は自分の真実を述べたてた
  真実を
  死刑執行人にむけて剣のように
  自分の最高の法を剣のように

  そこで死刑執行人どもは復讐した
  やつらは並べてみせた
  死 希望 死 希望 死と
  やつらは彼に特赦を与えてそれから殺した

  やつらはあの子をひどい目に会わせた
  彼の足 彼の手は踏みつぶされていた
  墓地の番人がそう言った
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

白バラ

3)詩の批評(Ⅱ)

 すでに書いたように、エリュアールがレジスタンスのなかで書いたものは、レジスタンスの歴史と重なり、ひとつとなる。
 一九四○年六月、老詩人サン・ポル・ルーが隠棲の地ブルターニュのカマレにおいて、ドイツ兵の暴行の犠牲となった。眼の前で愛娘はドイツ兵に凌辱されて殺された。
 一九四二年五月、「レットル・フランセーズ」紙の創刊者ジャック・ドゥクールがパリで銃殺された。彼はあの有名な手紙をのこして死んだ。
 「……わたしは自分をあの木から落ちて腐葉土となる一枚の木の葉のように考える。腐葉土の質は木の葉たちの質に依るだろう。わたしはフランスの若者たちのことを言っているのだ。彼らにわたしは希望のすべてをかけている……」
 エリュアールはこの二人のために「詩の批評(Ⅱ)」を書き、そこに一九三六年にファシストに銃殺されたガルシア・ロルカをあわせて追悼する。

  火は森をよび覚ます
  幹を心臓を手を木の葉たちを
  軽やかにまじりあい甘く溶けて
  ひとつの花束となった幸福
  それはすばらしい太陽や燃える森の
  緑の泉に集まる
  友だちたちの森だ

  ガルシア・ロルカは殺された
  ただひとつの言葉と
  生きるために結びあわされた唇たちの家よ
  涸れた瞳のなかに
  涙もないほんの小さなひとりの子供
  未来の光は
  一滴また一滴と人間を満たす
  まぶたの透きとおるまで

  サン・ポル・ルーは殺された
  彼の娘は踏みにじられた

  似たような街角のある凍(い)てついた町よ
  おれは夢みる 花のなかに果実を
  まるごとの空や大地を
  終りのない遊びのなかで
  見つけられた処女のような
  色あせた石よこだまのない壁よ
  おれはきみたちに微笑みを無理強いしない

  ドゥクールは殺された

(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

バラ


2)戦争中の七つの愛の詩

 一九四三年十一月、敵の追及がさらにきびしくなったので、エリュアールはパリを離れ、ロゼール県サン・タルバンの精神病院に身をかくす。そこは南仏、中央山塊の東南部に位置する僻地である。院長のリュシアン・ボナフェはトゥルーズ大学の学生時代からの共産党員であった。このサン・タルバンに、エリュアールとニューシュは一九四三年十一月から一九四四年二月まで滞在する。彼は隣りの県のサン・フルールにアマルジェという印刷屋をみつけ、そこに非合法出版の印刷を託すようになる。「戦争中の七つの愛の詩」がジャン・デュ・オーのペン・ネームで印刷されたのも、このサン・フルールにおいてである。また三ヶ月におよぶこの滞在中に、彼はのちに「狂人病院の思い出」として出版される文章を書く。

 「戦争中の七つの愛の詩」には、つぎのような忘れがたい有名な詩がある。

   戦争中の七つの愛の詩
      わたしは書くのだ 人びとが汚物と渇きのなかに
      沈黙と飢えのなかに 閉じこめられているこの国で…… 
               怒れるフランス人「グレヴァン蠟人形館」


  きみの眼のなかで 一艘の舟が
  風を自由にあやつっていた
  きみの眼は祖国だった
  ひとはたちまちその祖国を見つけだす

  辛棒づよいきみの眼はぼくらを待っていた

  森の木かげで
  雨のなかで 嵐のなかで
  山の峯の雪のうえで
  子供たちの眼と遊びのなかで

  辛棒づよいきみの眼はぼくらを待っていた

  その眼は 芽生えたばかりの
  草の芽よりも柔かい谷間だった
  その太陽はずっしりとした重みを与えた
  人間たちのわずかな収穫に

  ぼくらに会うためにぼくらを待っていた
  いつも
  なぜなら ぼくらは愛を持っていたから
  愛の若さを
  愛の理由を
  愛の知恵を
  そうして不滅を

     *

  ……
  おれたちはいつも愛し合ってきた
  そしておれたちは愛し合っているから
  おれたちは願う 凍るような孤独から
  ほかの人たちを解き放ってやりたいと

  おれたちは願う というのはおれが願い
  きみが願うということ つまりおれたちは願う
  光が永くもちこたえさせてくれるように
  勇気に輝く夫婦たちを
  大胆さで武装した夫婦たちを
  なぜなら彼らはじっと眼を向き合わせているから

  そして彼らの目的は ほかの人びとの生のなかにあるのだから

 ここに歌われているのはまさに新しい愛である。──夫婦愛から万人愛への移行・前進が、ここで詩的表現を与えられたのである。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

バラ

英雄・殉難者・詩人たちの名誉

 一九四三年七月十四日、この革命記念日に『詩人たちの名誉』が「深夜業書」から刊行された。匿名の二十二名の詩人たちの作品が集められていた。無署名の序文はエリュアールの書いたものだった。
 「アメリカ人民に鼓舞されたホイットマン、武器を執れと呼びかけたユゴー、パリ・コミューヌから霊感を与えられたランボオ、みずからも奮いたち、ひとをも奮いたたせたマヤコフスキー──いつかある日広大な見地に立った詩人たちは行動へとみちびかれたのだ……、闘争こそが詩人たちに力を与えることができる……」
 この詩選集にはまたアラゴンの「責苦のなかで歌ったもののバラード」がジャック・デスタンの変名で収められていて、たちまち数版を重ねるという大きな反響を呼んだ。ついで一九四四年五月に刊行された『詩人たちの名誉』第二号には、フランスの国外から送られてきた詩篇も収められていて、そのために「ウーロップ」という名をつけられた。
 この『詩人たちの名誉』は非合法出版のなかでも、「レットル・フランセーズ」とともに、もっとも有名なものとなる。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

バラ

・アラゴンとの再会

 一九四二年の末頃、抵抗詩人として有名になったエリュアールは、敵の追及をのがれるために地下にもぐる。シャペル街の住居を離れて、エリュアールとニューシュはリュクサンブール公園に近いトゥルノン街に匿名で住む。ほかにジャン・タルディウなど数人の友人の家が隠れ家となった。地下にもぐった彼は、非合法出版の作製と配布に専念する。また占領地帯──北部地帯に「全国作家委員会」を創設するために、対独協力を拒否している作家・詩人たちと連
絡をとり、その糾合につとめる。

 この「全国作家委員会」は、アラゴン、エルザ・トリオレ、ジャン・ポーラン等の発案で、まず南部地帯に創設されたものである。当時、ニースに滞在して活動していたアラゴンは、南部地帯と北部地帯における「全国作家委員会」の活動を統一し強化するために、一九四三年の初め、パリに出てエリュアールと話しあおうと決意する。二人はもう十年来、会っていなかった。長い絶交のあとの最初の再会について、アラゴンは書いている。
 「木の葉や人びとを吹き散らす風は、一九三〇年代、われわれのあいだを引き裂いた。この歴史(ものがたり)はひとりわれわれの歴史(ものがたり)にとどまらず、それは『歴史』だった。われわれをひき離したものは、ついに、永久に、ふたたびわれわれを結びつけずにはおかなかった……。
 一九四三年の初めだった。われわれはリヨン駅で初めて再会した。エルザとわたしは南部地帯から偽の通行証をもって到着する。ビエル・ヴィヨンと仕事で会うために。なんとそこに、夜のほの暗い光のなかに、彼ら二人が花束をもっているではないか。ニューシュとポールが。まるで当りまえのように。そしてニューシュのつくったケーキ。ああ、ポールよ、どうしてあんなに長いこと会わずにいたのだろう。まったく失われた時間だ、あの数年は……」(『共産主義的人間』第二卷)
 まことに「われわれをひき離したもの」──状況の詩、革命、共産主義は、ふたたび二人の詩人を兄弟として、同志として結びつけたのである。
(この項おわり)

新日本新書『エリュアール』

若葉


  小学生の ノートのうえに
  机のうえに 樹の幹に
  砂のうえ 雪のうえに
  わたしは書く きみの名を

  読んだ すべてのページのうえに
  すべての 白いページのうえに
  石や血や 紙や灰のうえに
  わたしは書く きみの名を

  ジャングルや 砂漠のうえに
  小鳥の巣や エニシダのうえに
  子どもの頃の こだまのうえに
  わたしは書く きみの名を

  夜よるの 不思議さのうえに
  日日の 白いパンのうえに
  婚約した 季節のうえに
  わたしは書く きみの名を

  生きいきとした 小道のうえ
  遠く伸びた 大道のうえに
  ひとの溢れた 広場のうえに
  わたしは書く きみの名を

  灯(ひ)のともったランプのうえ
  また消えた ランプのうえに
  わが家の 一家団欒のうえに
  わたしは書く きみの名を

  許しあった 肉体のうえに
  友だちの 額のうえに
  差しだされた 手のうえに
  わたしは書く きみの名を

  思いがけぬ喜びの 窓硝子のうえ
  待ちうける くちびるのうえに
  沈黙の そのうえにさえ
  わたしは書く きみの名を

  欲望もない 放心のうえに
  まる裸の 孤独のうえに
  そして 死の行進のうえに
  わたしは書く きみの名を

  力強い ひとつの言葉にはげまされて
  わたしは ふたたび人生を始める
  わたしは生まれてきた きみを知るために
  きみの名を呼ぶために

  白由よ

 ルイ・パロはこの詩について書く。
「……この詩は初め『フォンテーヌ(泉)』誌に掲載されて、たちまち成功を収めた。オーディジオはマルセイユで公然とこの詩を朗読した。マックス・ポル・フーシェは、連合軍の通信員たちにこの詩を紹介し、わたしはわたしで、クレルモン・フェランにおける会議の折、これを朗読した。そこには、オーヴェルニュ地方におけるレジスタンスの最初の指導者たちが集まっていた。いたるところで、この詩はひとびとの情熱をかきたて、気力を呼びさました。それは占領地帯からわれわれのところへ送られてきた希望のメッセージであり、あの囚人たちがしばしば独房からわれわれに伝えるのに成功したメッセージにも似ていた。RAF(英空軍機)がこの詩を空からフランスじゅうにばら撤いた」(『戦時下の知識人たち』)
 またのちに、エリュアールじしんがこの詩についてつぎのように語っている。
 「わたしはこの詩を一九四一年に書いた。

  金塗りの 絵本のうえに
  戦士たちの 武器のうえに
  王たちの かんむりのうえに
  わたしは書く きみの名を

 これら最初の数節を書きながら、わたしは最後のしめくくりには、愛していた女の名まえをかかげようと考えていた。この詩は彼女にささげることになっていた。だがすぐ、わたしの頭に自由という言葉がひらめいたのに気がついた。

  力強い ひとつの言葉にはげまされて
  わたしは ふたたび人生を始める
  わたしは生まれてきた きみを知るために
  きみの名を呼ぶために

  白由よ

 こうしてわたしの愛していた女性は、彼女よりもはるかに大きな願望を具象化することになった。そしてこの自由という言葉は、わたしの詩においては、きわめて日常的な、みんなが心を傾けている、きわめて単純な意志──占領軍から自分を解放するという意志を強調するものにほかならなかった」
 一九四二年の末から、自由という言葉はフランス人民にとってほとんど空語であった。占領軍による恐怖と圧制によって、人びとのなかには絶望、屈服、卑屈さが生まれ、自由は奪われ、失われていた。その自由という言葉が、エリュアールのこの詩によってふたたび生きいきとした内実をもって、人びとに呼びかけた。「小学生のノート」や「樹の幹」や「机」のうえに、誰もが書いたような愛の名まえ、愛のしぐさ──エリュアールはこのすべての人に共同の愛のしぐさ、共同の希求によって、自由を感じとられるものとして歌いだしたのである。それはどんなにか絶望と不安のなかに落ちこんでいた人びとをはげまし、希望を与えたことだろう。
(つづく)

新日本新書『エリュアール』

雪やなぎ


 一九四二年の初め、エリュアールは非合法に追いやられていた共産党にふたたび入党する。当時、フランスでもっともきびしく追及され、弾圧されたのは共産党だった。共産党の活動家、指導者たちは特に人質とされ、まっさきに銃殺された。しかし彼は党を選んだ。彼はもう五十歳になんなんとしていた。この選択は、エリュアールの思想と反抗の論理的な到達点であった。のちに彼は述懐する。
 「一九四二年の春、わたしは共産党に入党した。それはフランスの党だったから、こうしてわたしは自分の力と生涯をあげて参加した。自由、平和、幸福をめざし、真の生活をめざして前進していたわが国の人びとと、わたしはいっしょになりたかったのだ」
 この「真の生活」というのは、「真の生活は欠落している」と叫んだランボオの言葉のこだまであって、エリュアールはそれに答える──われわれが望むなら、真の生活はここに、この地上に存在しうると。
 エリュアールの入党は、生にたいする彼の誠実さ、自分自身にたいする誠実さの現われであった。自分の詩的追求とマルクス主義の哲学的追求とを融合させてからは、エリュアールはさらに大詩人となり、彼の世界像は大きく広くなる。
 この冬、エリュアールは「罪もない」名もない犠牲者たちを想って「最後の夜」を書く。

 あの人殺しのやつばらは
 罪ない者へと差し向けられ
 その口からパンをもぎ取り
 その家に火をはなち
 その服や靴を剥ぎとり
 その暮らしや子供を奪いとる

 あの人殺しのやつばらは
 死者と生者をとり違え
 泥を白くし裏切者を特赦し
 言葉を騒音に変える

 ありがとう夜中よ十二丁の銃が
 罪ない者に平和を返す
 その血まみれの肉体と暗い空を
 地に埋めるのは群衆だ
 そして人殺しどもの弱さを
 見抜くのも群衆だ

 この詩は、極度に飾りをとり去った表現、直接的な表現の力強さ、その単純さによって、ファシストの暴虐をあばき、告発する、闘いの武器となる。この詩を収めた『詩と真実一九四二年』という題名はドイツの大詩人ゲーテの「詩と真実」を意識的にもじったものである。このざら紙の小詩集はたちまちレジスタンスの愛読書となり、ベストセラーとなる。有名な詩「自由」もここに収められていた。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

エリュアール

 『わが友、わが同志』  ピエル・ヴィヨン(元国民戦線幹事長) 大島博光訳

 「それは一九四二年の終りか、おそらく一九四三年の初めであった。
 その頃、ある同志が国民戦線作家委員会と国民戦線指導委員会との間の連絡をとっていた。彼がわたしに言ったことに、わたしが抵抗運動の幹事長という資格だけでなく、共産党の活動家として、ポール・エリュアールに会う必要があるという。エリュアールが最後のためらいを吹っきって共産党に再入党するには、わたしが彼と話し合うだけで充分だと、その同志は信じていたのだ。
 こうしてある朝、わたしはシャペル街のエリュアールの小さなアパートの扉を叩いた。われわれがどんな話をしたか。ポールの最後のためらいがどんなものだったか。わたしは忘れてしまった。それにその頃、わたしには日記をつける暇がなかった。たとえ暇があったとしても、安全を期そうとすれば、そんな印象や出来事のメモをとるわけにはいかなかったであろう。そのようなメモが、ペタンの警察やゲシュタポの手に落ちれば、彼らに情報を与える危険があったからである。
 しかしポールの書斎の壁がいまもわたしには見える。そこにはピカソの署名のある、ポールやニュシュのデッサン像が小さな額に入ってかかっていた。ニュシュが行ったり来たりしてわれわれの会話に加わる。この最初の訪問の時から、彼女の楽観的な陽気さや正しい判断力がわたしの心を打った。わたしを昼食に招いてくれたのは彼女だった。そうしてわたしたちがテーブルにつく前に、ポールが党への加盟に同意したのをわたしは思い出す。
 わたしはまた思い出すのだが、「わたしは書く おまえの名を……自由よ」と書いた詩人の入党をとりつけた、という幸福感にわたしは浸ったのである。

   *

 わたしたちを結ぶ深い友情がその日から始まる。時どきわたしはシャペル街を訪れた。こんにち思えば、ポールとニュシュの家で過ごしたひとときは、非合法活動でくたくたに疲れた生活のさなかの、静かな憩いのひとときのように思われる……
 それらの訪問について、わたしにはいくつかはっきりした思い出が残っている。
 ある晩、わたしたちはとても永いことおしゃべりをした。そのために、外出禁止令の時間前に、私は自分の「隠れ家」に帰れそうもなくなった。ポールとニュシュは彼らのところに泊まるようにすすめてくれた。その夜、わたしが国民戦線かCNR(抵抗国民会議)」のために書いた、呼びかけか宣言の草案を彼らに読んできかせた。ポールは、その草案の形式がいい、つまり説得力があって力強い、と言ってくれたことを、私は大変誇りに思った。ポールの方は、「詩人の栄光」という題名で』、非合法の「深夜出版」から出る予定の詩集のために書いていた序文の原稿をわたしに読んでくれた
 それは闘争に参加する詩の真の宣言だった。
 自分の人民に鼓舞されたホイットマン、武器を執れと呼びかけたユゴー、コミューヌに霊感を吹きこまれたランボオ、おのれも奮いたち、ひとをも奮いたたせたマヤコフスキー……詩人たちが大きな見地に立って、いつの日か心動かされたのは、行動にむかってである。言葉に依拠する詩人の力は純粋なものではあるが、彼らの詩は、外部世界の多少ザラザラした接触をすることによって、けっして値打ちを下げることはないだろう。闘争はただ詩人たちに力を与えるだけである」
 それは同時に、共産党員の態度表明でもあった。……
 明らかに、エリュアールはここで詩人の役割について新しい概念を述べたのだ。この新しい概念は、非人間的なファシストとの闘争、生活、そして恐らくはわれわれ共産党員との接触によって、かれらのうちに熟成され、意識されたのである。
 この序文はその精神において、まだ闘争に参加せず、時代の外にあって、依然として象牙の塔にこもっていたフランスの詩人たちに、祖国と人間の危険を前にして、たたかう詩へ参加するよう、説得するものであっただろう。
 夜、みんなが寝に行く前、わたしはつぎのようなポールのふるまいを見て心打たれた。ポールは、わたしがとどけた非合法の新聞と私が持っていた危険な書類とを小さな包にして、便所の欄干の下の、小さな換気口のなかの釘にそれをつるした。家宅捜索にあってもみつけられないように。詩「自由」を本名で公表した彼がこのように、まるで非合法活動のやり方になれた活動家のようにふるまったのに、わたしは驚いた。
 彼はわたしに答えて言った──もしも今夜、警官がふみこんできて、政治的な非合法出版物所持のために彼を逮捕しても、その逮捕は何の役にもたたないだろう。しかしもし逆に、警官が彼の詩を不穏と判断して逮捕するなら、それはフランスの数千人のインテリゲンチャと世界にとって、精神にたいする攻撃として映るだろう。そしてそれは、多くのインテリゲンチャを闘争に参加させるのに役たち、ナチス体制とそのフランスの手先どもの野蛮性を明らかにするだろう。

   *

 ある日、わたしたちはむかしのこと、シュレアリスト宣言の頃のことを話していた。ポールはシュルレアリスト・グループの分裂や、彼がアラゴンと意見を異にしたことを思い出し、失われた歳月にたいする悔恨の色をうかべて言った。──「あのとき正しかったのはルイだ」

 しかし彼はスペイン戦争のあいだに態度をはっきりと表明したことを誇りにしていた。そしてその日かほかの日か、かれは自分が朗読してレコードに吹きこんだあの驚くべき詩「ゲルニカ」をわたしに聞かせてくれた。……

   *

 ポールはペンだけでレジスタンスと党のために尽くすだけでは満足しなかった。彼は国民戦線内部におけるすべての国民的勢力と共産党員との愛国的同盟のために、多くの人物を獲得しようと努めた。
 思えが、国民戦線の指導委員会に入るようにモーリアックを説得したのは彼である。
 ポールは又、パリ滞在中のロマン・ローランを、モンパルナスの界隈の小さなホテルの一室にわたしを連れて訪ねた。ロマン・ローランは、レジスタンスにおける党の活動や国民戦線の性格と目的には全面的に賛成していたにもかかわらず、国民戦線の指導委員会へ参加してくれるようにとのわたしの要請を受け入れなかった。
 彼が拒否した唯一の理由は、かれの健康状態にあった。かれの許を辞するとき、彼の顔に現れていた死相に、たとえば鼻孔の透きとおるような薄さにいたく心を打たれた……

(「ウーロップ」誌一九六二年十一・十二月号)

(自筆原稿、新日本新書『エリュアール』)

エリュアール
ピカソによるデッサン「エリュアール」





 まごころ




ポール・エリュアール Paul Eluard(1895一)
シュールレアリストの中で、最もすぐれた詩人であり、その簡素、純粋な言葉は、極めて音楽的であり、また男性的な優しさをもつ。スペイン戦争までの詩はひたすら恋愛を主題とし、詩人は現実に眼を閉じて、恋人という太陽の照す、おのが内面世界を観照し、寶玉のように重く澄んだ言葉でこれを歌い出している。これらの詩集は新しい世代に最も大きな影響を輿えた。──『苦悩の首都』『直接の生』『公衆の薔薇』『豊かな眼』等。──スペイン戦争が始まるや否や、直ちに戦闘的な詩に参加、特に今次大戦中秘密出版された『開かれた書、詩と眞實』は、その力強い感情と純粋な形式によって、レジスタンスの詩の傑作とされている。これらの詩集に於いてもエリュアールは、アラゴンとは異り、シュールレアリスムの精神と形式を失っていないが、これは超現実主義の美学がエリュアールの天賦と完全に一致していることを示している。(『三笠現代世界詩選』1955年)

エリュアール





鉄かぶとを



(『エリュアール詩選』『三笠版 現代世界詩選』)


空

すべてを語ろう
                  エリュアール
                  大島博光訳

すべてが語られねばならぬのに わたしには
ことばが足りぬ 時間が 大胆さが足りぬ
わたしは夢みて あてもなく影像をくりだす
わたしは生きそこね はっきり語るすべを学びそこねた

すべてを語ろう 岩を 街道を 石だたみを
町通りと道ゆくひとを 野原と羊飼いを
春のやわらかなうぶ毛を いてつく冬の錆を
木の実をうれさせる 寒さと暑さを

わたしは歌いたい 群衆を 人間の細かいうちわけを
人間を勇気づけるものと絶望させるものを
人間がその季節きせつにあかし見せるすべてのものを
その希望と 血とを その歴史と苦しみとを

わたしは歌いたい ひき裂かれている茫大な群集を
墓地でのように しきられ区ぎられた群衆を
そうしてその汚れた影よりも強くたくましい
壁をうち破り 支配者たちにうち勝った群衆を

はたらく手の家族を 木の葉たちの家族を
そうしてひとごこちもなくさまようけだものを
大地を肥えさせる豊かな流れと つゆを
根をはったしあわせのうえに立った正義を
     *
子どもの人形や ボールや よいお天気から
その子の幸福をわたしはおしはかれるだろうか
ひとりの男の妻や子どもたちにかわつて
その男の幸福を語る勇気がわたしにあるだろうか

愛とその理性をわたしはあらわにしるだろうか
その鉛のような悲劇を わらのような喜劇を
愛を月なみなものに変えるきまりきったしぐさを
愛を永遠なものに変えるやさしい愛撫を

ひとが善から美をつくるように わたしは
こやしをとりいれに結びつけうるだろうか
そうして機械的な世界とよろこびの世界とを
必要と欲望とを はっきり対照させられるだろうか

怒りの茫大なつばさのかげの 憎しみで
憎しみを清算し 犠牲者をさししめして

強圧者どもをうちくだくに足ることばが見つかるだろうか
革命ということばを色どることができるだろうか
確信にみちた眼のなかのあけぼのの自由な光り
何も似てはいない すべては新しくすばらしい
わたしはきく ささいな言葉がことわざになるのを
苦悩を越えたかなたで 知性は素朴なのだ
     *
孤独がつくりだすかずかずのおろかな狂癖に
わたしは反対だと どれほどまで言えるだろうか
あの狂癖から身が守れず すんでにわたしは死ぬところだった
縛られ猿ぐつわをはめられた英雄が狂い死にするように

わたしは すんでのことにあの狂癖のために
身も心も精神ももち崩すところだった かたなしに
しかもまた われらをとりまく腐敗とだらくと
おもねりと戦争 無関心と犯罪という形をとって

すんでにわたしは兄弟たちに追いだされるところだった
彼らの斗争を少しも理解せずに わたしはうぬぼれていた
現在というものを充分にとらえていると思いこんでいた
しかも明日の日については少しも考えつかなかつた

それにもかかわらず いまわたしがあるのは
生活のなかみを知ていたひとびとのおかげだ
じぶんの道具をたしかめ こころをたしかめ
手を握りあって立ちあがったひとびとのおかげだ

ひとびとは絶えまなく ひだのない人類にくわわる
歌ごえはわき上がり 歌ごえは告げる 死に抗し
こびと たわけと見さげられた穴倉暮しに抗して
われらの未来を高くかかげたひとたちの歌を                
     
たるが ほの暗く立ちならんだ酒倉のとびらが
ついにぶどう畑にむかってひらかれ 畑では
ぶどう酒がぶどう作りのことばをつぶやきながら
太陽をわがものにするとわたしは語れるだろうか

女たちは 水や石のように 裁たれる
やさしく或いはかたくなに 軽やかにまた重く                           
鳥たちはほかの空間をよぎつて飛んでゆき
飼い犬は ふるい骨をさがしてうろつくだろう

もう深夜も ふるびた歌まじりに秘蔵の宝を
ひねくりまわす老人にだけ こだまを返す
夜のこの時刻もむだには過ごせぬ ほかのひとびとが
眼をさましてから やっとわたしは眠るだろう

頬のうえのよる年なみのしわをしめしながら
わたしは言いうるだろうか 青春にまさるものは何もないと
花が咲き種子がとび散ってから果てしなくつづく
あの生命のつらなりにまさるものは 何もないと

卒直なことばと現実のものごとから出発して
確信は前進していくだろう もどることなど考えず
わたしは希う ひとは問いたずねる前に答えてくれるよう
そうして異国のことばを話すものは誰もいないだろう

そうして屋根をふみ鳴らしたり 町々を焼き払ったり
死者を山と積みあげようなどと誰も思わぬだろう
なぜなら 時代を信じさせ たった一つの泉のように
建設に役だつすべてのことばをわたしは見つけるだろうから

笑わねばならぬがひと人はすこやかに笑うだろう
いつでもみんなが兄弟だと笑いあうだろう
愛されることを愛しあうとき みんなほかの人たちと
うまくいくだろう ちょうどじぶん自身とのように

こころ良い身ぶるいが くるしみのうねりにとつて
代わるだろう 海よりも新鮮な生きるよろこびで
わたしがきのうを消しさるために きょう書いたこの詩を
うたぐらせるようなものは もう何もないだろう

(『角笛』21号 1961年12月)
                 

MCTSAの街頭行動:拷問反対

MCTSAの街頭行動:拷問反対
       




案じながら


(『エリュアール詩選』『三笠版 現代世界詩選』)


高原




愛する


バラ


バラ


平和のための詩



(『エリュアール詩選』1956年、『三笠現代世界詩選』1955年)