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わたしの党に

ここでは、「わたしの党に」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


日本共産党とともに 私のあゆんできた道

──大島博光氏

 大島博光さんは、アラゴン「フランスの起床ラッパ」などの翻訳で知られているフランス文学者で詩人会議の副委員長です。東京・三鷹市下連雀のお宅に大島さんをたずねると、ちょうどベトナムの詩人トー・フーの近作をいま訳し終えたところだということでした。

 あかつきの中を 光に向かって…

 ──共産党をはじめて知られたのはいつごろですか?
「昭和四年(一九二九年)、早大に入学したあとだったね。学生運動の最後の輝きともいうべき時期で、そのころ党がどこかで指導してくれてるんだという信頼をもってました」
 ──それ以前はどうでしたか?
 「長野県松代の郊外の屋代中学にいたとき、その近くに三・一五、四・一六で枚挙された人がいました。だけど、社会主義とか革命の意識がまだこっちにはなかったから……。ハイカラな新しい文学をやろうってことで東京へきて早稲田で新興文学研究会というのにはいった。そこでプロレタリア文学の世界を知ったんだな。エンゲルスの『空想よりへ』なども読んだ。それまで、ロマンチックな観念論の世界をさまよっていたのが目がさめたね。そのころ、大学の屋上では『インタナショナル』のメロディーがハミングで流れていたりしてね。あかつきの中を光に向かって歩いてゆく感じだったな。大学二年のとき、ビラまきで戸塚署につかまって二十九日ブタ箱に入れられたが、そのときも心のなかで『共産党万歳』というようなことばをくり返しながらがんばったことなど、よく覚えています。そのころはもう文学なんてまだるっこしい感じでね、勉強などしなかったな。考えが単純で一面的だったんですね」

 歴史が証明した 共産党の正しさ

 ──フランス文学をやられたのはそれからですか?
「そう、大学を退学させられそうになって、学生組織もめちゃくちゃに弾圧されてね。それからフランス語を勉強しました。革命的な情熱はあったけれども、科学的な唯物弁証法の裏づけがなくて、思想的にはごちゃごちゃだったのですね。ボードレールからシュールリアリム、それからエリュアールなどに魅(ひ)かれていったんだな、そうした詩の世界へね。それに、ブタ箱でやられていらい、すっかり胸をわるくしてしまったしね」

 ──戦争中は?
 「だから、ずっと信州の生家で病気を養っていました。戦争には反対の意志をはっきりもってたけれど、いま考えると人民の立場からというより、文化の破壊を許さないというような意識でした。だから孤独で、なにかゆきづまったような感じもあったな。そして敗戦─共産党の再建。むかし党がいっていたとおりのことを歴史が事実で証明した、これはたいへんな思想的衝撃だったね。それまで意識の底に眠っていた革命的な志向とか願望とかいったものがよみがえってきた。党への認識も、エリュアールやアラゴンなんかの動きにも間接的に励まされていたかもしれない。『党は恋人のようなものだ』とうたった詩人がいたがそんな感じだった。そして入党したんです」
 ──いつごろですか?
 「敗戦の翌年二月です。長野県のわたしの地区で、非合法時代からの古い同志とわたしと三人の青年とで地区委員会を組織しました。さいしょの総選挙のとき、雪の消えのこっている農村をビラはりなんかしながら、むかし覚えた『憎しみのルツボ』などの歌を青年たちに教えたりしたな」
大島さんは、思い出をかみしめるように話をつづけます。

革命的情熱だけではいけないと…

「つらかったのは、五十年問題のとき。東京へ出てきたばかりでね。それに結核がまたわるくなって大手術をした。病床でマルクス・レーニン主義の勉強をしました。革命的な情熱だけじゃいけない、理論的に武装しなきゃいけない、ふたたびそのことを痛感したね」
 「大島さんはいまでも健康はすぐれていません。駅の階段などでめまいがすることがよくあるそうです。
「いま、党はほんとにりっぱになったな。なんといっても、党こそが希望だね。この希望に、わたしはしがみついてきたんです。党をはなれていった人のなかには、『大島には党は光りかがやくものに見えるらしいが、おれたちはそんな単純には見ない』などといっているものがいます。もちろん、いろいろな欠点に目をふさぐことは正しくないでしょうがね、党を人民の、歴史の希望としてたたえていく、これはむしろわたしの任務だと思ってますよ。わたしはあまり丈夫じゃないし、怠けがちですが、「ぼくたちだ、党とは。きみだ、ぼくだ、ぼくたちだ─みんなだ』というブレヒトの詩のように、どんなことがあっても、これまでのようにこれからも党といっしょに党の道をゆく、こんな気もちでいます」 (吉沢記者)
(『赤旗』1987年7月7日 <日本共産党創立45周年を記念して>)

赤旗


わたしの党に

わたしの党に


(「アカハタ」1961年4月、詩集『ひとを愛するものは』)

若葉



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夏の太陽

(『赤旗』1990年7月1日)

光をかかげて六十年
                    大島博光

おめでとう 「赤旗」創刊六十年
「赤旗」還暦 おめでとう

稲妻と波潤にみちた六十年
くらやみに光をかかげた六十年

一九二八年二月 あなたは生まれた
斧と荒縄の荒れ狂う 嵐のなか

血なまぐさい弾圧のなかから
不死鳥のあなたは よみがえる

勇敢な同志たちがあなたを守る
地下印刷で いのちをかけて

いま 雪の日も嵐の日も英雄的に
あなたを配り ふやす同志たち

くつの敷き皮の下や工具の中に
かくされて運ばれた あなたは

いま堂々と電車のなかで読まれ
街通りの掲示板に 貼られている

あなたは書く 人民の見たことを
人民にとって真実であることを

不条理と作り話と暴力がのさばり
すぐれた知性さえ雪崩れ落ちた時

あなただけが天皇制廃止をかかげ
侵略戦争反対を 叫びつづけ

いままた あなただけが叫んでいる
日米軍事同盟反対を 核兵器廃絶を

日本人民が 生きながらえる道
幸せになる道を 見抜いているから

あなたは 唯物史観の熟練工だ
鳩のとぶ 空の道さえ探しだす

あなたは 朝な朝なの目覚ましだ
人びとの眼をひらき 心を変える

あなたは前進する労働者階級と人民の
先頭にひるがえる旗だ 導きの星だ

<『グラフ・こんにちは』1988.1.17>
 「赤旗」は
                         大島博光

「赤旗」は わたしの
日日の 学校
わたしの眼に 光を与える

「赤旗」は わたしの
日日の みちしるべ
鳩の道さえ さし示す

「赤旗」は わたしの
日日の 展望台
わたしは 世界を読む

「赤旗」は わたしの
日日の 希望
わたしは 未来を飲む

「赤旗」は 日日
わたしに 与える
生きて たたかう勇気を
                             =一九九〇年六月=
<「詩人の眼」1990.7.5>

*三鷹市議の岩田康男さんが以前「大島博光さんの思い出」のなかで「配達員の詩」について書いていました。<・・・そんなに暇なら「しんぶん赤旗を配達して」と頼んだら「忙しい」と断られ、その数日後にしんぶん赤旗に大島さん作の「配達員の詩」が掲載され、全国から「感動した。配達に参加したい」の声が数多く寄せられました。私は「大島博光さんの八四歳を祝う会」に地元市議で招待され、「共産党の委員長は長い演説をして感銘を与えるが、詩人の大島さんはわずか数行で感動させる。すばらしい力の持ち主」とそのエピソードを紹介し・・・>何人かの方からこの詩を読みたいといわれて探していたら、<「赤旗」は>が見つかりました。(岩田さんは先日の市議会議員選挙で8回目の当選を果たしました。)

千曲川べりの村で
                         大島博光

党はすでに根をおろしていた 藁屋根の下にも
すがれた桑畑のなか 炭焼き小屋の中にも
そうして党は わたしを連れもどしてくれた
ふり返ってもみなかった兄弟たちのところへ

春さきの吹雪が吹きつける城下町の電柱に
おお わたしが初めて貼って歩いた党のビラよ
そのまた吹雪に髪をさらした若者たち同志たち
岩の裂け目にひらいた青いすみれたちの眼よ

わたしは思い出す 畳もすり切れた集会所で
暗い裸電球の下で話しあった村のひとたちを
黒びかりに煤けた棟木のようなひとたち
根株のような手で土にしがみついているひとたち

谷間に見捨てられた水車のように動かぬひとたち
暗い不幸がどこからやってくるかが見えずに
畦をせせり隣り同士いがみあっているひとたち
林檎畑の柵で心をも閉ざしているひとたち

麦わらのように踏みしだかれてきたひとたち
繭の中のさなぎのようにおのれの力を知らずに
あきらめの中にうずくまっているひとたち
町はずれの一杯飲み屋でうさ晴らしをしているひとたち

ごぼごぼと音をたてて流れる雪どけ水のように
よどんだ用水池から流れ出たいと夢みながら
ただ遠い海のぎわめきばかりに心ひかれて
脱けだす水路を探しあぐねている若ものたち

だがまた 桑摘みだ桑くれだ蚕あげだと
ろくすっば夜もねずに飼って採った繭の山が
値切られ買い叩かれて いつのまにか横浜の
巨大なビルに化けたことを見抜いているひとたち

わたしは思い出す 戦争に息子と山林を奪われた
地蔵峠の炭焼きじいさんの怒りのまなざしを
流した血と汗で敵をみつめはじめたひとたち
おお 仕事着の下に埋れ火を抱いてるひとたち

そうだ かすみのかかった遠いむかしから
火はもう血のいろ 怒りのいろで燃えていた
あくせく働いて納屋に残った藁くずの中で
血と汗のとりいれを掠めとられた胸ぐらの中に

火は藁屋根ののきを這い 畦道をつっ走り
沼のへりを森から森へと燃えうつり燃えひろがり
さかはりつけにされ さらし首にされようと
百千の宗五郎たちがいた 茂左ェ門たちがいた

そうだ そのむかしのろしのように立ち上って
むしろ旗 竹槍 鍬をかぎして城をめざし
鳥打ち峠を斜めに駈けくだった祖父たちの血が
このひとたちの胸にも腕にも流れているはずだ

そうだ そこには ものの本にも書き込まれ
古い語り草ともなっている五加村のひとたちがいた
火の見やぐらの半鐘を打ち鳴らして隊伍をくみ
竹槍を手に地主屋敷へと押しかけたその人たち

そうして庭土のなか深く埋めかくした赤旗を
ふたたび掘り出してメーデーに駆けつける人たち
古い畦をぶちこわすトラクターを夢みながら
堅いうねのなかに新しい種子をまいている人たち

そうしてきょう わたしは忘れずに書いておこう
あの深いから松林におおわれた浅間の高原を
そのキャベツ畑 麦畑を 演習場に奪おうと
アメリカ帝国主義の黒い手がのびてきたとき

この村の人たちがむしろ旗をおし立てて
どしゃ降りの雨のなか 軽井沢へと駈けつけたことを
そうして労働組合の兄弟たちと腕をくんで
ふるさとの大地を敵から守りぬいたことを

党はすでに根をおろしていた 藁屋根の下にも
すがれた麦畑のなか 炭焼き小屋のなかにも
そうして党は わたしを連れもどしてくれた
ふり返ってもみなかった兄弟たちのところへ
                       (一九四八年)

(解説)「千曲川べりの村で」は1948年の作ですが、発表は詩集『ひとを愛するものは』(1984年)。1946年2月に長野で入党してからの当時の活動を鮮やかに記していて貴重な作品です。