小林多喜二・伊藤千代子

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


小林多喜二_赤旗

(『赤旗』日曜版 1988年2月21日)

<胸底の枯野ひろがる虐殺忌>〈角川春樹)
多喜二虐殺から80年になります。どす黒く腫れ上がった遺体の写真は特高の残虐な犯罪を告発する資料だと思っていましたが、治安維持法の時代には特高の取り調べ室にこの写真がたくさん貼られていて、検挙された人を脅かすために使われていたことを知りました(「吉田隆子を知っていますか」〈NHK Eテレ 2012/9〉)。軍国主義へつきすすむ天皇制権力の非人間性がいっそう鮮明になりました。
明日の日のためにたたかったきみ 小林多喜二

  ──二月二十日のバラード

                              大島博光

二月二十日(はつか)が またやってくる
忘れられない 恨みの日が
五十五回めの 多喜二の日が

この日 やつらはきみをひっ捕らえ
足蹴に蹴りあげ 逆さ吊りにして
残酷な拷問で 責めたて締めあげた

しかし きみは口をひらかない
何ひとつ 敵の手に渡しはしない
不屈に きみは党をまもりとおした

そこでやつらは へし折った
「蟹工船」を書いた その指を
権力の闇をあばいた きみの手を

そこでやつらは 虐殺した
日本人民の 最良の息子のひとりを
紫腫れの 見るも無残な姿にして

「それあんちゃん もう一ど立たねか」
お母さんから やつらはもぎとった
「親孝行の うちのあんちゃん」を

こうしてやつらは復讐したのだ
「一九二八年三月十五日」の 作家に
日本共産党の星の 党員作家に

きょうは あばいて告発する日だ
天皇制の 死刑執行人どもの
血のしたたる 黒い黒い黒い手を

虐殺は 築地でおこなわれた
治安維持法の 鎖と棍棒と斧で
裁判ぬきで 多喜二は殺された

きょうは この犯罪に羽根をつけて
嵐のなかへ 投げてやる日だ
みんなにひろく 知れわたるように
あけぼののために 闘い倒れた多喜二よ
きみは描いた 工場での党の闘争を
戦争前夜の 闇を照射する光を

きみは描いた 厳しい非合法活動を
新しい人間の 誕生と前進を
そのからだを ぶつけるようにして

現実世界を描いた きみの文学世界は
涸れることのない 清冽な泉だ
おれたちはそこに 未来を飲む

明日の日のために 闘ったきみは
あとにつづく おれたちの胸に
いつまでも生きて 励ましてくれる

テロルに倒れた 偉大な多喜二よ
きみは おれたちに掲げてくれた
党への献身と 不屈の模範を

 (『赤旗』一九八八年二月二一日)
東栄蔵先生から先日のお礼にと著書「信州の近代文学を探る」(信濃毎日新聞社)がおくられてきました。治安維持法下で弾圧された伊藤千代子の手紙、浅野晃の手記など興味深い資料がのっています。伊藤千代子が亡くなるときの経緯がわかりました。
諏訪の高島小学校の桜を伊藤千代子も眺めたのだろうという最近読んだ文章を思い出しました。詩人会議4月号の確田のぼるさん「歌につながること」で、伊藤千代子が高島小学校で代用教員をしていたことにふれて書いています。
「歌につながること」から引用しますと、
・・・土屋文明が諏訪高等女学校時代の教え子、伊藤千代子を悼んで「某日某学園」と題し、

 こころざしつつたふれし少女(おとめ)よ新しき光の中におきて思はむ

 など六首の歌を詠んだことはよく知られているが、伊藤千代子は女学校を卒業後、高島小学校に二年間、代用教員をしていたことがある。日本共産党が創立された一九二二(大正十一)年であった。赤彦が校長だったり、土田耕平が生徒だったした十年余り後のことである。伊藤千代子に、この高島小学校の教師時代を回想した、

 信濃なる故里の山に教え子を思い出す日は泣かまく思う

 の一首があるのは余り知られていない。
 土田耕平が一九三三(昭和八)年に、やはり高島小学校時代を回想して次のような歌をつくっている。

 むかし見し高島小学校を今見れば木垂(こだ)るさくらも年古りにけり

 このさくらの老木は、官憲の弾圧により二十四歳で命を絶たれた伊藤千代子も見たに違いない・・・
(「詩人会議」2009年4月)

博光は「こころざしつつたふれし少女たちのバラード」を書いています。">