おくやみ

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


詩人の山岡和範さんが5月6日ご逝去されました。84歳。
詩人会議会員で、増岡敏和さん、長岡昭四郎さん、山本隆子さんらと「戦争に反対する詩人の会」を支え、最後は事務局をしていました。会が出していた詩集『反戦のこえ』最終号に「あたらしい憲法のはなし」を書いています。



 あたらしい憲法のはなし
             山岡和範(東京)

昭和二十二年八月二日発行
著作権所有文部省とある
「そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これを戦力の放棄といいます。」

次のページには絵図がある
壺のかたちをした釜の中に
軍用機や戦車や大砲などを入れて溶かし
そこから明るいビルディングや
明るい電車や平和な船が出てくるという
ぼくらは学校の先生から
供出させられて大砲や爆弾になった
寺のつり鐘や銅像やナべやカマも
暮らしの中にもどってくるのだと
教えられたものだったが

若い友人はこの絵図を見て
「戦争放棄」という袋に
兵器を閉じ込めたのだと言った
壺のかたちは袋のかたちにも見えるので
読みちがえたのだろう
ぼくはそのまちがいを
若い友に教えようとしてふと思った
ほんとうは彼の見方が当たっているのではないか
戦後五十年余袋のひもがゆるんで
戦車や軍用機や砲弾などが
警察予備隊・保安隊・自衛隊と名を変えながら
「戦争法」ではみ出しているのが現実だから

「もう一つは、よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。」
と「あたらしい憲法のはなし」にはある
さいきんアジアの国々は
この平和の方向に大きく動いたが
日本政府は「戦争法」の具体化をすすめている

今日の新聞は
「侵略美化の教科書合格─教育勅語全文を掲載」
と文部省の教科書検定合格を報じた

「あたらしい憲法のはなし」を
文部省がまちがいとしたという話は聞かないが
「君が代」「日の丸」の押しつけなど
文部省は教育への統制を強め
二十一世紀の教育に背を向けて走っている
文部省も変わったものだ
昭和二十二年八月二日発行
著作権所有文部省とある
「あたらしい憲法のはなし」を
ぼくはいま改めて読んだ


(詩集 反戦のこえ 39号 2001.12)

お見舞い

2004年夏、杏林大学病院にて。左から山岡和範さん、増岡敏和さん。撮影宮本勝夫さん
松本の池田錬二さんが10月30日ご逝去されました。96歳。
長野県歴史教育者協議会をはじめ、平和運動や文学運動などで長く活動してきました。
大島博光とは詩人会議や反戦詩人の会などを通じて交流があり、博光没後、大島博光記念館を創設するおりには「記念館をつくる会」の呼びかけ人となって応援され、2008年7月13日、大島博光記念館の開館式では講演と詩の朗読をしてお祝いして下さいました。
これまでのご支援に感謝するとともに、『小説「二・四事件」赤いホオズキ』(長野県教員弾圧事件を題材)など、教育と平和をめぐる労作を学んでいきたいと思います。


池田錬二さんの詩

開館式
群馬の詩人・久保田穣さんは昨年12月21日ご逝去されました。

久保田穣さんは2009年4月、群馬の桐生から桜の咲く記念館へ初めて訪れ、記念館の様子をとても美しい詩にして、新聞に発表されました。(「信州松代」)

博光とは2回会っている、1回は博光が群馬を訪れたおりに宿を訪ねて会ったが、西条八十の話に及ぶと「小林多喜二も詩を沢山書いていて、その詩を評価したのが西条八十だった」と語っていたそうです。久保田穣さんは『群馬の夭折の詩人たち』で島田利夫について書いているので、島田利夫のことも話題になったのかもしれません。

1992年11月1日に前橋で開かれた「戦争に反対する詩人の会・群馬集会」では、久保田穣さんが司会をされ、博光が講演をしていますので、二人が会ったのはこの時でしょう。なお、この会は予想を超える盛況で、丸山亜季先生と群馬音楽教育の会の皆さんの「ぼくはパルファン川のうたごえをきく」「春が来たら」「自由」などの合唱もあり、たいへんな盛り上がりをみせて大成功となりました。新井隆雄さんが集会の実行委員と記録の編集委員を受け持ち、増岡敏和さんが詩の朗読、鈴木初江さんがアピールをしています。
この集会で活躍し、記念館を応援された4人の方(新井隆雄増岡敏和丸山亜季・久保田穣)が昨年にかけてご逝去されたことは大変残念です。
「戦争に反対する詩人の会・群馬集会」については別の紙面であらためて紹介します。

久保田
左から二人目が久保田穣さん(2009年4月)
葬儀

博光の末の妹の丸山美恵さんが3月25日ご逝去されました。享年90歳。
博光13歳の時に母親が産褥熱で亡くなったことが人生観を変え、博光が文学青年になるきっかけとなりましたが、その時生まれたのが美恵さんでした。母親の愛情を知らないで育ったので可哀想だったが、そのぶん父親・確光が優しく育て、博光もかわいがったということです。
美恵さん自身も優しい人で、母親から一度も叱られたことがないと娘の房子さん。

「ある夏の夜、東京の大学から帰省していた兄さんが千曲川の土手にさそい、月見草の咲く中でヴァイオリンを弾いて聞かせてくれた」と、若き日の博光のエピソードを語ってくれました。
博光記念館をぜひ見たいと言っていましたが、体が不自由なこともあってお住まいの神奈川から訪れることは叶いませんでした。

丸山美恵さん

千葉県船橋市在住の前田小枝子さんが1月29日ご逝去されました。享年80歳。
長年千葉民医連で医療事務の仕事をされ、退職後は南浜診療所健康友の会で活動しました。明るくて山歩きが好きな活動的な方でした。博光記念館が気に入って、何回も訪れました。
2009年9月、健康友の会の旅行の下見で小布施にご一緒し、岩松院や北斎館界隈を見て回り、桜井甘精堂会長の桜井佐七さんにお会いしたこと、栗おこわやモンブランを頂いたことが懐かしく思い出されます。

岩松院
前田

宮澤民司さんご逝去

長野県長水地区。10月11日死去、95才。47年入党。元党支部長。

<戦後わたしも加わって「更埴地区委員会」を創った頃は 同志も少なく しかし夢にみちたロマンチィクな頃でした>と大島博光が書いています。
<わたしがいつも映画のひとこまのように思い出すイメージある。冬枯れた山の村の斜面の道を、小さな赤旗をおし立てて若者の一団が革命歌をうたいながらつき進んでゆく・・・。たしか1947年の戦後二回目の総選挙のときのイメージである。そのときわたしは信州の松代にいて、若い同志たちといっしょに周辺の村村を選挙闘争の演説をしたり、集会をひらいてまわって歩いた。まだ自動車(くるま)も何もない時代であったから、あのような牧歌的(?)な、叙事詩的なイメージが成り立ったのかも知れない。そのときの燃えたつような高揚と希望をわたしはいまも忘れることができない。それはいわば、わたしの戦後の出発の原体験となった。(「第17回多喜二・百合子賞 受賞の感想」『赤旗』1985年2月20日)>

 大島博光が入党したのが1946年、宮澤民司さんはその翌年に党員になり更埴地区の同志として活動しました。
当時牛を飼っていて、乳価闘争や様々な闘いをしてきました。その後、株式会社長野ビニール加工を設立、仕事でも誠実さを貫きました。党の活動資金のために牛を手放すことも厭わなかった・・・と話を聞いた記憶があります。
社会の進歩への確信は揺るがず、みごとなものでした。赤旗のおすすめに歩いても、日頃のその誠実さを知っている人は、耳をかたむけてくれました。全てに誠実さの人でした。
大島博光記念館設立の時は、同じ時を同じ村で過ごしたことの有る同志として、心から喜んでくれ、最後まで応援をしてくれました。夫婦なかよくいつも一緒に出かけていた、宮澤さんの静かな笑顔を思い浮かべながらご冥福をお祈りいたします。
船橋市の佐久間マサさん(元千葉県母親連絡会会長)がご逝去されました。94歳。
夫の佐久間春さんと共に教師の立場から「子どもたちを再び戦場に送ってはならない」と平和教育のために熱心に活動し、千葉県の運動に大きく貢献しました。90歳を過ぎてもとても活溌で、電動車椅子で駅に乗りつけ、電車で東京や大阪の集会に参加、津田沼九条の会の集会にも毎年参加して下さいました。
大島博光記念館には家族の車で訪れるなど、友の会に入って熱烈に応援してくださいました。
永年のご活躍にたいして、多くの知人・友人・仲間が別れを惜しんでいることでしょう。

佐久間マサ
2010年4月、大島博光生誕百年の集い(船橋市)にて

佐久間マサ
2010年11月、「まもろう平和!習志野市民の集い 2010」(船橋市)にて小嶋昌夫先生らと

佐久間マサ
2011年9月、「まもろう平和! 習志野市民の集い2011」(習志野市)にて講演された弁護士の笹本潤さんと

佐久間マサ
2009年10月、南浜診療所健康友の会バス旅行にて大島博光記念館を見学


 元群馬高教組委員長の新井隆男さんが9月17日ご逝去されました。新井さんは大島博光記念館をつくる会のとき建設資金に協力されたのをはじめ、ずっと記念館友の会会員として声援を送ってくださいました。博光記念館ができたとき、いち早く記念館見学のバスツアーを薦めてくださいました。著書「詩の可能性を求めて」には生涯をかけて学校・教育の現場に立ちながら「詩」に情熱を傾けられた思いが溢れています。大島博光の訳したネルーダの詩を愛し、「詩的実践を通して現実を変革する」言葉の通りを生き抜かれました。
 今年頂いた賀状に「記念館の発展を祈っています。」とありました。
 ご冥福をお祈りいたします。
大島博光記念館をつくる会発会の時から参加していただいた久保田衛さんが6月14日逝去されました。
半月前、体調を崩されていると聞き、それでは狼煙の発行を楽しみにされているだろうとご自宅へ届けました。
奥様が「小林さんよ」と呼んでくださると、久保田さんはいつものようにちょっとはにかんだ笑顔で玄関まで出てきてくださいました。
「自分で歩いて出かけられなくなっちゃったよ」とおっしゃったのですが、そんなにお加減が悪くなっているとは気づきませんでした。
写真と俳句の個展の開かれたのに、その感想も充分お伝えしてなかったことも気にかかっていました。
「そのうちに狼煙の代金も持って行くから」と言われたので、その約束をして帰りました。
病気の状況もよくお聞きしないまま、またすぐお会いできると思っていました。
狼煙に寄せていただいた最後の原稿ーあれはご自分で記念館まで持ってきてくださったのですよ。
もう少し何か言ってください。
狼煙の代金は、カラーページだからと割り増し料金で前払いして下さっていたこと思い出しました。
享年75才。

久保田衛

詩人の小熊忠二さんが12月3日ご逝去されました。享年84歳。
戦後、長野市で博光と出会ってからずっと詩の仲間、同志として親しくつきあってきました。
とくに博光が詩誌「角笛」を発行した1952年から10年間は、「角笛」のために長野と三鷹の間を往復して活動しました。(「角笛の時代」
博光が亡くなったおりには、長野詩人会議「狼煙」特集号に貴重な証言「よみがえる詩人大島博光」を載せています。大島博光記念館ができた時は我が事のように喜び、記念館運営委員長として記念館の活動を支えてくださいました。
ご冥福をお祈りいたします。

小熊忠二と
 歴史学者で横浜市立大名誉教授の遠山茂樹さんが8月31日、逝去されました。岩波新書の「昭和史」は支配層に対する人民の階級闘争という視点から書かれてベストセラーになり、多くの学生が読んでいました。
 実は遠山茂樹さんに朋光はお世話になっています。茂樹さんは大島静江の母親といとこ関係であり、静江が練馬にいたときから親しくしていました。朋光が早稲田か横浜国大かを決めるとき静江と相談に行き、「勉強をするのなら横浜国大がいい」と茂樹さんに言われて横浜国大に決めたのでした。勉強したかどうかは別にして、丘と港の横浜で多くの人々と出会い、ベトナム反戦や大学闘争に参加して、こころさわぐ青春時代を送ることが出来ました。

 遠山茂樹さんのご遺体も博光や静江と同じ多磨霊園近くの多磨斎場で火葬されました。
 国士舘大学文学部名誉教授の西尾邦夫先生が11月24日ご逝去されました。享年81歳。船橋市の病院のときからのおつきあい。近世文学が専門で「愛と死の道行―近松の女、梅川と小女郎―」を送って下さいました。文学部長を歴任され、退官してからも文部省から大学関係の委員を委託されて忙しいと話していました。共産党の志位委員長が好きだとおっしゃり、博光記念館建設の際には募金に協力され、記念館友の会にも入会して下さいました。
 ご冥福をお祈り致します。

大島洋
博光の2番目の弟にあたるが大島洋さんが5月6日、入院先の松代総合病院で亡くなりました。享年91歳。
春先から風邪をこじらせて入院していました。

長兄の博光が東京に出て家を継がず、次兄の尚行さんが松代町に出て大富農機を経営したために、洋さんが西寺尾の農家と畑を継いで農業を続けました。
戦後の食糧難のころ、じいやん(確光)に命じられて米俵を三鷹の博光宅まで届けたと言っていました。夏休みに帰省したときには3輪トラックに乗せて千曲川の畑にスイカ採りに連れて行ってくれました。伊勢湾台風(?)で千曲川が氾濫したときには、子供たちだけ三鷹に帰らないで洪水後の千曲川で遊びました。水たまりに取り残されたフナとりに夢中になり、1~2週間ほど居座って、まだ帰らなくていいのか、と言われたことがありました。
大島洋
大島洋
はなや開店からいろいろ心配し、助言して下さっていた原宗助さん(86)が2月18日逝去されました。
原さんは長野市の料飲組合の役員を長くしておられて顔役でした。はなやの営業許可申請の折、保健所の検査の前に点検をして下さり、気配りをしてくださいました。その後も飲食店経営上の心得や注意事項を指導していただきました。
駅前で焼鳥屋をやりながら不動産屋をやり、民主団体、選挙の事務所探しなどでも常に世話になっていました。
昔の長野駅前の焼鳥屋「鳥元」の赤提灯を思い出します。2階のせまい一部屋で学習会をしたことも懐かしい思い出です。
うたごえ喫茶「ともしび」の店のことでも大変世話になったそうですね。
昨年まで県の国民救援会の事務局長をされていて、全県を自ら運転して回られていました。
サンライズホテル1階の、山と積まれた書類(一部山が崩れたりしていました)、「救援新聞」の束。たくあんをかじりながら(私たちにはくださいませんでした)話して下さったことも忘れられません。
戦後長水地区委員長をされていた時期もありました。大島博光の事は「勿論知っている」とおっしゃっていましたが、具体的なことは聞かないままになってしまいました。
多くの人から「原宗さん」と親愛と敬愛の思いを込めて呼ばれていました。
今頃「ああ困ったもんだ」と私たち後輩の心配をしながら、ゆっくりゆくり歩いていらっしゃるでしょうか。あまり心配をかけないように、やっていきます。
ご冥福をお祈りいたします。