新宿/わが春の日は

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


槍ヶ岳へよせる歌
                          大島博光

廿才の若ものの 悩みと夢をいだいて
わたしは 槍ヶ岳へのぼったことがある
燕岳から大天井へ ──岩の尾根みちを
めくるめくような 黒部の峡谷の深さよ

そのときわたしは 想いみた
この深い谷底の消えやらぬ雪のなかで
こんこんと 眠ってしまいたい
──おお くらい夢よ くらい時代よ

だが おまえのいただきから見える
雲のかなた 空につらなった日本海よ
遠く雲まに浮きあがった むらさきの富士よ

わたしは 死なずに 生きてきた
わたしは いまも 思い出すのだ
上高地の テントのすきまから見た星の光りを
(未定稿)


山
Photo: Akimitsu Oshima

 ワセダの思い出
               著述業 大島博光   昭和九年 文学部仏文専攻卒

 わたしが早稲田第二高等学院仏文科に入学したのは一九二九年(昭和四年)の春だった。
 それは嵐を前ぶれする稲妻がひらめくと同時に、一瞬陽光がまぶしく射すような時代だった。世界恐慌が始まっていた・・・しかしその当時、わたしはそんなことに気がつかなかった。
 その頃、わたしは小石川区第六天町に下宿していた。切支丹坂を登って、関口台町の灰色の表通りを歩き、坂をくだって江戸橋に降り、江戸川公園の樹木の下を歩いて、学校へ通った。公園のわきの小川にはまだ水車が残っていた。
 公園のなかで写生をしていた若い女の画家と、知ったかぶりをして、ヴァンドンゲンの話をしたことを覚えている。その頃、ヴァンドンゲンの嵐の絵などに感動していたせいかも知れない。

 その頃、第二高等学院は、道路をへだてて、安部球場の南側に建っていた。学院の正門の前に、二階建てのクラブ・ハウスがあって、その二階に「新興文学研究会」という表札をかかげた部屋があった。ロマンティクな新しい文学を夢みていたわたしは、そういう文学の研究会だと思って、そこに入ることにした。入ってみると、そこでは、ルナチャルスキーの『革命と文学』とか、エンゲルスの『空想より科学へ』いった本がテクストに使われていて、わたしはびっくりした。田舎の文学青年だったわたしは、革命という言葉もその意味も知らなかったのである・・・
 思えば、それは学生運動が最後の輝きをみせていた、その末期であった。その後、有名な学生ストライキが起った。どんな理由で起ったのか、わたしは忘れてしまった。覚えているのは、大隈侯の銅像の立っている広場を学生たちがぎっしり埋めていたことである。そうしてその前で、大山郁夫教授が演説をしている姿をわたしは見た。
 この集会のあと、戸塚町の学友の下宿で四、五人で、松茸を煮て豪勢な宴会をひらいたことを覚えている。姫路出身の学友のところに、親元から松茸が送られてきて、この宴会となったというわけだ。
   *    *    *
 やはり早慶戦は忘れられない。当時プロ野球はまだ結成されず、野球の早慶戦がもっとも華やかな時代だった。その熱狂ぶり、異常さは、こんにちのラグビー早明戦に匹敵するものだった。有名な「リンゴ事件」のときは、試合の終ったとたん、ワセダの応援団の一部がグランドを突っきって、ケーオがたにナグり込みをかけたように覚えている。おそろしく殺気立っていた。三原脩が新入生で、さっそく華麗なプレーを披露したのもその頃だった。のちには一升ビンをぶらさげて応援に行くようになった。優勝したシーズンには、神宮球場から神楽坂を通って早稲田まで提燈行列に加わったこともある。神楽坂では、道ばたにテーブルを出して、祝い酒をふるまってくれた。とにかく早慶戦の夜は、勝っても負けても、新宿で飲み、神楽坂で飲み、高田の馬場で飲んで、ワセダの青春を謳歌した。こうしてのちには、ワセダ・ラグビーの熱烈なファンともなる・・・
   *    *    *
 一九三一年の春、わたしが学院から文学部へ進んだ時、高田牧舎の前の門から入って、芝生の広場をへだてて、四階建てのショウシャな文学部の新館が完成した。屋根には、校歌にうたわれている「イラカ」を配していた。(いまは文学部ではないらしい。)そして道路ぎわの杉木立のかげには、坪内逍遥や片上伸などの伝説にみちた、緑色の木造の二階建ての古い校舎が建っていたが、それはまもなくとり拂われた。
 その頃、吉江喬松先生のフランス文学史や文学概論の講義が評判で、大きな教室がいつもいっぱいだった。それから西條八十教授の、校門近くの喫茶店での講義は、その後やはり伝説ともなった。わたしはそれを詩のかたちで書いたことがある。

 早稲田のキャンバスの近くの喫茶店で
 わたしたちは先生を囲んで座っていた
 先生のヴェルレーヌの話がおもしろかった
 ということくらいしかおぼえていない
 しかしそのとき先生の前にあった
 チキン・ライスのだいだい色だけは
 鮮やかにいまもわたしの眼に見える

 戸塚通りの中ほどに、行きつけの古本屋があった。フランス語の原書を専門に扱っていた店で、名まえももう忘れてしまった。あるとき、友だちと一杯のみたいのにカネがなかった。そこでその古本屋のひとのいいおやじに、ソフト帽を質に五円貨してもらったことがある。貧乏学生のくせに、丸善で求めたボルサリノの黒のソフトだった。それから新宿あたりに繰り出して行ったことはいうまでもない。五円あれば、二、三人でちょっと飲んで、赤線地帯をひやかすこともできたのだ。鶴巻町の居酒屋では、冷ややっこ付き銚子一本で十五銭だった・・・

(『早稲田昭和断念志』)

 きみらはどこにいるだろう
  ──むかしの友に

むかしの友よ きょうもぼくはきみらに語りかける
少しずつようやくにぶち砕いてきたばかりの
むかしの鏡の中のぼく自身をのぞき込みながら
むかしのぼく自身にも語りかけるかのように
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

ぼくらの青春は燃えずにくすぶる生木だった
ぼくらも火の粉をあげて燃え上がりたかったのに
ぱちぱちと若さを焚く火をさがしあぐねて
雪やもやのなかに夢のかけらを探しまわっていた
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

ぼくらの春の日はただ苦くあふった酒だった
しびれの中に逃げ込むように夜ひる酔いしれ
狂気のはてには靴をさかづきにかえてあふり
ポンポン蒸気に乗って隅田川を越えたりもした
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

そうしてぼくらはその日ぐらしにぶらついていた
泥さえも七色にひかる新宿うらのぬかるみを
警戒警報のひびく夜空にちらつく電光ニュースが
何をまたたき告げていたのかも気がつかずに
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう


ぼくらはなんと若さをむだ使いしたことか
夜どおしわめき歌ってどろどろのどぶにもはまり
牛乳くばりの車が並木のかげにきしみ鳴る頃
鉛いろの空の下 蒼ざめた影となって帰ってきた
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

おんなじ熱病と愛とにとりつかれて病み疲れ
行きずりの垣根に匂う沈丁花などを折るばかり
もう行き行くところもなくて野ら犬のように
雪の中に穴を掘って寝てしまおうと言った
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

ぼくらの青春はまた砂地に落ちた匕首だった
ぼくらもシュルレアリストなどをまねて気どって
ほんとうの敵がどこにいるのかさえ知らずに
やみくもにうつろなこぶしを振り上げていた
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

人生はたいくつだ愚劣だとわめき散らしながら
燃える傘をかざして町通りを歩いてもみた
昇天したくて道端の電柱によじ登ってもみた
あやしげな楼屋の屋根のうえで踊ってもみた
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

そして暗い眼をおのれの内の夜にばかり向けて
絶望の黒いすみで悪夢を出まかせに書くばかり
血のにじまぬ言葉でコップの中の嵐をとらえ
女のまつ毛にそよぐそよ風なども歌っていた
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

ひとなみのしあわせにはつばを吐きかけながら
ぼくらは何かに追いまくられながら踊っていた
だが疲れた夜などにはふと襲われるのだった
まるで野らに捨てられた子猫のような不安に
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう


きみらのいくたりかはほんとうに気も狂ってしまった
「星のひかりは酒だ おれは神秘を飲みほした
宇宙の音楽がきこえてきて夜も眠れぬのだ」と
きみらは黄菊の咲く青山脳病院に閉じ込められた
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

まっ黒い遮光幕をはりめぐらした窓の外で
仲間たちが軍靴を重く踏み鳴らしていたときに
ぼくらはあの神秘めかした「ドウィノの悲歌」や
ウァレリーのつくり話などにもききほれていた
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

黒い遮光幕は内から洩れる明りを隠すばかりか
外から射し込む光をこそさえぎっていたのに
めくらだったぼくらはそれにも気がつかなかった
でたらめな号外の鈴の音などにかきたてられて
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

ひとびとが軍需工場に引っぱられてひっぱたかれ
仲間たちが軍用列車で戦場へかりたてられていた時
ぼくらはいながらにこの日本から逃げ出していた
むかしランボオはアフリカの砂漠へ脱け出したが──
むかしの友よ きみらはいまどこにいるだろう

そして銀杏並木のみどりの葉っぱを吹きちぎり
しあわせな窓まどの黄いろい灯をも吹き消した
おんなじ突風にぼくらもまた吹きまくられて
散りぢりに嵐の夜へと吹きとばされて行った
むかしの友よ 君らはいまどこにいるだろう

きみらはいまどこにいるだろう むかしの友よ
失った春の日とそのあやまちとを悔いながら
むかしのゆがんだ鏡をぶち砕いて立ち上りながら
またきみらといっしょに歌いたいと願いながら
むかしの友よ ぼくはきょうもきみらに語りかける

<掲載誌不詳 1955年、「大島博光全詩集」>

わが春の日は

  むかしぶりに

かすみのなかの 春の日は
あざみ あねもね 矢車草
すみれ たんぽぽ さくら草
花のしとねを 夢に見た

あけぼの色の 風のなか
こぶし れんぎょう じんちょうげ
すもも もくれん ゆきやなぎ
花のうたげに きき惚れた

また 若ものがやってきて
おんなじ夢を 見るだろう
おんなじ歌を きくだろう
この世の春の あけぼのに

   *

だが 春の日は長くない
狂った風が 吹いてくる
雲雀は 草に身をかくし
まっ黒い雲が たれこめる・・・

  早稲田のキャンパス

若い頃には ついぞ思いみたことはなかった
自分がいつか 老残の身になるなどとは
それほどにも 青春は忙しかったのだ
現在を生きることに 無我夢中で
わたしのはたちは四・一六の時代だった
重くて 暗い雲が 空を蔽いかくし
闇をひき裂いて 異様な明るさで
稲妻がひらめき走る 嵐の時代だった

わたしは 早稲田のキャンパスにいた
屋上からインターナショナルが響いていた
「空想から科学へ」*lを 初めて読んだ時の
あの 眼からうろこが落ちたような感動!

思い出せば かすんだ記憶の霧のなかから
黄色く色褪せた写真のなかからのように
青春の日の 友らの貌が 浮かんでくる
若木林のように美しかった 若者たち

「ナロードニーキの歌」を ロシヤ語で
教えてくれた友は 学校から追放された
二学期には 日本共和国で会おう と
禁じられた言葉で別れたきりの友もいた

銀座裏の読売講堂での プロ・キノ*2のタベ
エクランでは 襲いかかる官憲の群が
メーデーの隊列から 活動家を引っこ抜く
観衆は床を踏み鳴らして 赤旗の歌をうたう

また 上野の自治会館での P・M*3のタベ
聴衆は入りきれずに 外に溢れでていた
公園の植込みのくらがりで わたしは聞いた
ハミングのインターナショナル*4の大合唱を

時代の闇は 血なまぐさく深かったが
わたしの内部は 夢の光で明るかった
世界的な経済恐慌の嵐が 吹き荒れて
ファシズムと戦争の足音が 高くなる

やがて すべてが よってたかって
希望の光を消しさり 蔽いかくし
転向とか挫折とか 虚無とか絶望とか
いつもながらの言葉が はやり出す

ひまわりのような 若者たちの眼と心を
ひかりと未来の方に 向けさせないように
純粋な 若者たちの血に 毒を流しこみ
霞のなかを あてもなくさ迷わせるように

やがて若者たちは戦場に駆り出されて行った

 *l エンゲルスの「空想的社会主義から科学的社会主義」を指す。
 *2 プロ・キノ──当時存在したプロレタリア映画同盟。
 *3 P・M──おなじくプロレタリア音楽家同盟。
 *4 ハミングのインターナショナル──当時、インターナショナルを歌詞で歌うことは禁じられていた。

(「大島博光全詩集」、「学生新聞」1979.9.5)

戦争前夜の街で──NOVAの時代

                          大島 博光

表現主義のモダンな舞台装置の酒場
のような酒場が 夜ともなれば
新宿の 暗い狭い裏通りに
灯かげを投げていた
物語のなかでのように
映画の一コマでのように
揺れる黄色い灯かげを投げていた

思い出せば
そこにやってきた人びとも
いまはもうみんな
物語のなかの人物たちのように見える
半世紀もたてば なにもかもが
暗い歴史のなかに揺れた影絵のように見える

それは暗い嵐の海にひらいた港だった
難破をまぬかれた舟や
気ちがい舟や 酔いどれ舟がもやっていた

思い出せば あの頃
最後の自由の光のように
ロシア映画の「人生案内」がかかった
「みなし児の歌」が流行った

 「おいらが死んだら
 だれかが おいらを
 埋めてくれようさ
 でも誰も知らないだろう

 春がくりゃ
 鴬がそっときて
 啼いてくれようさ
 おいらの墓場で・・・」

われわれもどこか
暗い街に投げ出されたみなし子に似ていた
こころのよるべもなく
見えていた光もだんだん消えて
やがて灰の中の 埋れ火も火種も
根こそぎほじくり出されて

あのムスタファの前には
処女地での建設が待っていたが
われわれの前には
猿ぐつわと目隠しと
わがもの顔にのさばり歩く長靴しかなかった

わたしは夜な夜な
酒場から酒場へとさまよっていた
泉から泉へと捜し歩く野獣のように
港から港へよろめいてゆく
酔いどれ舟のように

わたしは詩を書かない詩人となり
詩の書けない詩人となり
酒びたりの酩酊のなかに
詩をいきていると思い込んでいた

戦車隊のキャタピラが街なかにとどろき
軍靴が鳴りひぴき
軍歌の合唱が夜の街にも溢れはじめた・・・

<NOVA通信 第一号 1988.7>
 

     「自由をわれらに」の雰囲気

大島 小野さん、山本さんて東大で学生運動をやってた人を覚えていますか。音楽好きの。
小野 勇ちゃんかしら。山本勇二さん。
大島 ぼくは山本さんていう名前以外はよく知らないの。でも、毎晩のようにきて飲んでいて、ベートーベンの百三十五番のカルテットを歌っていたんだよ。東大の秀才型だったな。
小野 山本さんてもう一人、下にきていたでしょう。
上野 小山アヤコさんの兄さん?
小野 それが勇ちゃん。もう一人はふとっていて。
大島 いや、スマートな美少年だったよ。背はあまり高くない。
上野 勇ちゃんも背は高くなかった。
小野 地震科にいってた人でよく来ていたじゃない。あの人も山本さんていわなかったかしら。
大島 そのグループの一人に何か山形県のひとで地主さんで、不在地主だな、その人にはあっちこっちで会うんだよ。そう磐西さん。それで、山小屋なんかに行くと。そのグループがいて、ベートーベンのカルテットをハミングでやっているんだな。あの戦争中に、アハハハ。
小野 私の知っている勇ちゃんは磐西さんよりちょっと下で、二階を始めた日から来ていました。
大島 酒も強くて、音楽も強かった。
小野 それから間島三樹夫さんも来ていました。
上野 劇団の方の。
大島 ぼくの記憶にはないんだけれど、おそらく会っているはずだね。
上野 あの頃の間島さんはずいぶん若かったでしょう。
小野 みんな若かった、お互いに。(笑い)
上野 私がNOVAで働いていたのは二十一、二のときだもの。
小野 あなたが?
上野 計算してみたらそうなの。わたし、可愛いかったでしょう。
小野 可愛いかったわね、みんな。上野さんとかさくらちゃんはフランス語ができるんで、大学生が試験だから訳してくれなんて、頼みにきていたんじゃない。
上野 できるったって、英語とフランス語の区別がわかるくらい。でも、楽しかったわ。
大島 楽しかったね。さくらさんがぼくらに「のばらを」ドイツ語で教えてくれたのよ。ちょうど、シューベルトの映画、「未完成交響曲」が上映されていて、あの中で歌う「のばら」がはやっていたんだ。
小野 久し振りに大島さんに会って、この間井出則雄さんにあったときも、わかるかしらと思いました。白髪が出ていますからね。ウチにきた頃は白顔の美少年だったのに。
大島 ちょっと思い出したけれど、宮森くんのアトリエにいったら、「マドリードを救え」っていうビラが貼ってあったんだ。あの当時はそうしたものさえあったんだ。
小野 結局、右翼が占領しちゃったでしょ。
 それで、聞いていますと、話の方が大きくなって、机を叩いてああだこうだと大議論です。読売新聞の亡くなった方(中桐雅夫)もこの戦争は必ず負けるんだからって。それから、難波英雄も主人と古い友達なもんですから来ていました。
吉井 救援会の。
大島 宮森滋は共産党中央委員をやって、いまは引退しています。
皆川 こんど、こういう会を開くなら、みんなを呼びたいね。
小野 よくあれで通ったものですね。官憲からみれば諸悪の塊みたいなところでしょう。
大島 よく通ったもんだよ。
小野 私が頑張っちゃって。
栗原 運動の渦中とまではいかなくても、運動の一端みたいなところにいらっしゃったわけでしょう。そしてだんだん暗くなっていく時代の中で、恐怖感とか不安感はないことはなかったんでしょうけれど、時代の流れに対抗しようという気持があってやられたわけですね。
小野 そうです。やっぱりひとつの意識っていうか、思想を持って店を始めてるわけです。だから経営の方はたいへんで、ちっとも儲からない、赤字だらけだったんです。でも、出来るところまではやったんです。
吉井 時期は満州事変が始まりだした頃です。でも、言う気になれば、まだ言えたということです。
上野 小野さんが戦争の体験を書いた文章の中の、「NOVAの常連の人達を思い出してみると」というところを読んでみます。呼び捨にしてご免なさい。
 「大島博光、新庄嘉章、村雲大樸子、鶴岡政男、井出則雄田、難波英雄、村松静光、大竹久一、宮原誠一、別枝達夫、島崎翁助、山本薩夫、高見順、杉本良吉兄弟、大木勇、山本勇二、野長瀬正雄、志村義雄、間島三樹夫、山下一夫の山岳グループ、万沢まき子のエスペラントグループ」という名前が出ています。
小野 これでも遠慮して出さなかった方が随分いるんです。堀田善衛さん、宇野重吉さんもそうです。
吉井 これにつけ加えておいてくださいよ。
小野 宇野重吉さんとは中学校のPTAで、彼が会長で私が副をやったこともあるんです。宇野さんも偉くなっちゃったし、戦争の怖さをもっと書かなくちゃと思っている間に、みなさんのお名前をあげる余裕がなくなってしまって。

    体を張って警察、右翼の立ち入りを防ぐ

皆川 NOVAを始めたのは何年頃ですか。
小野 それがこんがらかっちゃってわからないんですけれど、五年くらいじゃないかと思って。
皆川 昭和五年ね。
小野 二階はもっと早かった。二階をやっていて床屋さんが止めたので下も始めたんです。喜朔さんにやってもらって、それで人は劇団で集めてくれたんです。初めは誰もいないから結局、劇団が頼りで・・・。まりちゃんなんかが来てくれたのは始めの頃でしょ。
上野 そうそう。私はプロ美にいっていたんです。
小野 ともかく、そんな雰囲気でなにかの会みたいなもんです。欝憤晴らしにワイワイやっているんです。すると、刑事がときどき入り口から覗きにくるんです。でも、商売の邪魔だからって絶対に中に入れなかったんです。
吉井 まだそういうことができたんだ。
小野 私はちょっと少女みたいな感じだったものだから、名前ほどのおかみさんじゃないと思ったんでしょうね。
 それから右翼も初めのうちはずいぶんきました。切符を買ってくれ、でないと指を切るからという男たちもいて。じゃぁ切ってちょうだい、かまわないから切ってくださいと。こっちは必死でしたからね。
 警察は入れなかったけれど、まりちゃんが持っていかれて、さくらちゃんにも呼び出しが来たことはあるんです。さくらちゃんのときは付いていったんです。とにかく仕事をしているんだから、妨害になるからって、それで電車賃まで出してもらって連れて帰りました。
栗原 そういう主張が通った時期もあったんですね。
吉井 だから始めからいっペんにやられた訳でないんで、ジワジワとね。
大島 昭和十二年、日中事変に入ってからだね。きびしくなったのは。さっきの「パリの屋根の下」なんか、ぼくらフランス語で歌ったりしてね。まことに、大正デモクラシー、大正ヒューマニズム最後の揺洩がそこまであったんだ。
小野 だから、新聞記者もたくさん来てました。
小野 どうなんでしょうね。今の若い人は自由に政治批判なんかに口角泡をとばしてやっているような場所があるんでしょうか。
吉井 そりやあると思うけれど。

       「築地」の魅力と表現弾圧

吉井 鶴岡ってのは芝居が上手だったんですよ。だいたい、何をやっても器用なんですがね。太平洋美術研究所で、年に一度催しをやるんですけれど、アメリカの何とかという芝居をやったんです。何人かでているんだけれど、鶴岡がうまいんだな。私は田舎からのポット出でしたから、スゲエナーと思った。やっばり、築地劇場との関係で、それを仕入れてきたんです。
大島 あの当時の築地の魅力は絶大なもんだった。ぼくらも学生で金がないのに築地なら必ず行ったもの。
小野 本を質屋にもっていって・・・。
大島 「ゼンセン」、「傷だらけのワシ」、「西部戦線異常なし」「ドン底」とか、「ドン底」はよかったね。ああいう雰囲気はもうないねえ。
上野 築地の支配人は松田久米太郎さんでした。
小野 土方さんが始めてから間もなく支配人になって、事務局をずうっとやってた方です。
吉井 池袋で舞台芸術学院をやっていたのも土方さんでしょう。
上野 土方与志さんです。ヨッぺちゃんといわれていた。
吉井 築地小劇場の人は警察と喧嘩してね、ワッと来る、逃げてゆくのは始終のことです。それから、台本を検閲されて台詞が許可にならない。仕草だけで台詞がなくなったりということが続いたんです。警官が臨監席にいて舞台を見ているんだ。
小野 すぐ「中止」なんてね。
上野 幕が開くと途端に「禁止」っていうんだから、すごいものです。それで主な人間を引っ張っていきますからね。その次の日に幕を開けるまでに台本の書きかえをやらなくちゃならないでしょう。大変ですよ。
栗原 舞台美術の担当でもやはり拘引されるんですか。
上野 私はほかのことをやっていて引っ張られたんです。そのときは、左翼劇場と新築地をやっていたんですが、劇団関係者が一網打尽にやられたことも二度くらいありました。
吉井 蒲田研二っていたでしょう。彼と親しかったもんだから、劇の背景を描いたりして。
上野 私は蒲田さんにかわいがっていただきましてね、よく泊りがけでいったものです。ああ、懐かしい。
 前の奥さんはマコさんておっしゃいましたよね。家にいるのが嫌で、逃げていってたんです。マコさんが亡くなってからは、ちょっといけなくなってしまいました。でも、会えば懐かしがってくださいます。私も「とうさん、とうさん」って言ってました。
 それから、「西部戦線異常なし」をやったことをご存じですか。
吉井 帝国劇場で上演できたんですよね、あれが。
上野 ええ、でも、築地でもやったんです。そのとき、島田さん、なんていいましたっけ。
吉井 島田奎一。
上野 あの人が台詞を全部取られちゃったもんだから、仕草だけでやったのをご存じ?
吉井 いや知らない。でも、舞台の上で演技だけやって、お客さんが台詞をいれてくれるということはあったね。
上野 そんなことしたら、すぐに上演奈止ですよ。
吉井 そういうこともあったんです。
小野 「西部戦線異常なし」は、まだ店をやらない前に見たと思うわ。
上野 あれは大分前からやってましたから。
小野 三菱にいる頃で、初めて連れていってもらって、新劇ってこんなにいいんだなと思いました。三回やったでしょう。
上野 そうです。
小野 宇野重富さんが、今度の芝居で初めて台詞をいうからって、来たことがあるんです。「火山灰地」だったと思います。
皆川 宇野重さんは「火山灰地」で地の文を朗読したんです。
栗原 私たちは戦後の「火山灰地」しか知りませんが、それは何年頃だったのでしょう。
皆川 劇団が解散になったのが昭和十五年ですから、その一年前頃、昭和十四年だったでしょう。
小野 島田奎一さんの千代ちゃんもウチの二階にいたわけ。
皆川 あるいは奥さんの妹だったかもしれない。島奎さんの奥さんは例の沖田三郎の姉さん。

      いつの間にか手も足も出ない時代になる

吉井 なにしろ当時は農村不況のどん底時代ですから、なにかひしひしと感じているわけだ。いま、そういう状況はちょっと見当たらないから。
小野 そうです。
吉井 外国には難民とか、飯の食えない子供達がいますけれどね。あの頃はすぐ手の届くところに農村不況があって、娘さんが売られていくさまをみていたんですから。
吉田 あの時代、みなさんはやはり規制を受けて描いていたんでしよう。
吉井 こうしちゃならんてことを、まだやられた時代ではなかったけれど、ある線を越しちゃいかんという、つまり天皇を否定してはいかんとか、帝国憲法の枠があるわけです。その範囲なら何でもやっていいということなんだが、だんだん狭まってきて、そこに喧嘩があるわけです。
大島 そういうことは人によって、意識が千差万別ですよ。しっかりした人は宮本百合子のように抵抗していたし、私なんかは学生運動くずれだから左翼の気分だけでいたわけです。さっきの吉井くんの話じゃないが、NOVAのそういう雰囲気の中で、議論したり、歌ったりで僅に気分で息をしていんです。運動をしていないから、もう恐怖なんて無いわけです。でも、歌をうたったって運動したわけでない。
吉井 しかし、あなただって、ある組織からきちっと信頼できる人から、こっちへ来いといわれたら、きっと行ったんだ。若い者なら、われわれだってすれすれのところにいたと思うね。
大島 そうすりや、今は生きていないかも知れない。上の連中はみんな殺されているんだから。
吉田 私は谷中で育ったんですが、留置場が近くにあって、その塀の傍で遊んでたんですが、中から拷問をしている音とか、うめき声がよく聞えてきました。戦後になっても警察は拷問を続けていたんですね。
大島 私個人の話をすると、さっき言ったように気分的な左翼くずれで、抵抗の意識はまだあったんです。それでもだんだん戦争が深まってくると絶望してね、抵抗意識を忘れていくわけです。そんなことしても仕様がないと思って芸術至上主義に走っていったんです。詩の方でも幻想的な、シュールみたいなものになっていくわけです。
 それでも『蝋人形』でアラゴンの「ソビエト賛歌」を訳してローマ字でのせたことがあるんだ。あれは今思い出しても旨いことやったと思いますよ。
吉田 ローマ字で捕まらなかったんですか。
大島 「ソビエト賛歌」はロシア革命、社会主義建設の賛歌だからね。
 人民は大地を握った。すると大地から火が噴いて社会主義建設が始まった。というような書き出しで、ソビエトの大地に祝福あれ。という威勢のいい詩です。これをローマ字にしたものだから、わからなくて通っちゃったんだ。戦争中にね。
小野 戦争中は、洋楽はドイツのレコードしかかけられなかったですね。
大島 もうひとつの理由は西条八十の雑誌だから、そんなけしからんものがのるはずがないという、検閲側の思い込みがあって、それが隠れ蓑になったところもあるんだね。
吉田 戦後四十年もたって、こういうことをまた話合いたいという気になるのは、世の中がちょっとおかしいんですよ。
吉井 どうも私はそう思う。

    NOVAの意味を明日に語り継ぐ

吉田 そろそろ、きょうの集りについて、これからどう進めていくかをお話しあいしたいとおもいます。
 最初にも申し上げましたが、あの時代、NOVAがひとつの文化をつくる動きとなんらかの形で関わっていました。そこにいらっしやった方で、戦後になって脚光を浴びた方もいらっしゃいますが、戦争によって中断されなければ、違った形で発展した文化もあったのではないでしょうか。そうした資料を先達のみなさんからできるだけうかがって、あとは自分たちで手探りしながら、二年先でも、三年先でもよいから、まとまった形で発表できればよい。そういう夢を持ちたいと思うのです。
 そのとっかかりとしてこの会の意義があるんで、小野さまが懐かしいというお話しだけでなく、そこから拡げられる会にしていこうと思うんですが。
吉井 その頃の問題を、昔の思い出話にとどめず、今日どういう風に位置づけて、古いことばでいえば、教訓を今の時代に生かすことがどうできるかですね。
小野 大事なことですわ。当時の人はだんだんいなくなっちゃいますから。いま、吉田さんがおっしゃったように、ジャンルごとの部会をつくって集るのもいいと思います。
吉田 ですから、新聞などにお願いして呼びかけるときの窓口を吉井先生と大島先生にお願いしたわけです。それに、演劇関係は皆川さまにもご助力いただいて、一つひとつ積み上げていくといいと思うんです。
小野 今、作っておかないと、太平洋戦争みたいなことがまた起るかもわかりません。
吉田 お願いします。ライフワークと思って。
 頑張れば、一九三〇年代という企画があるんだけれど、どこかの美術館でやってくれないかということもできるんではないでしょうか。
吉井 ああ書いちゃいけない、こう書いちゃ悪かろうという遠慮はいらないから言いたいだけいってください。
大島 そりや、もういまは遠慮はいらないよ。

(完)

<NOVA通信 第一号>


NOVA
NOVA通信第一号(プレ・イッシュー版)
●座談会
『NOVA』 の時代を回顧して

出席者
小野 みつ(NOVA店主)
大島 博光(詩人・仏文学者)
吉井 忠(画家)
皆川 滉(演劇人)
日下部 栄一(小野みつ氏実弟)
上野 まり子(NOVA勤務)

末松 真海子(朝日新聞記者)
NOVAの会事務務局
     吉田 ひろこ(画家・司会)
     栗原 澪子
     山県 衛

▽一九八八年七月二十六日/新宿・中村屋「レガル」


                   吉井 忠
 これから、時々NOVAの集りがあるという。
 戦前そこに集った人が何を語り合い、それぞれどんな仕事をしていたのかは私は興味がある。
 それがただの昔話でなく、現在と深い関係があることを私は感じるからである。


    NOVAに行かない日はなかった常連たち

吉田 本日はご多忙のところ、お集りいただいてありがとうございます。
 今回、私の父、鶴岡政男の展覧会が渋谷パルコで催されました。その折りに小野様から戦前、昭和十年頃の父のデッサンをお持ちだと、お手紙をいただきました。さっそく、小野様にお電話を差し上げたところ、昭和五年頃から十七年まで、新宿、いまの伊勢丹のあたりでNOVAという喫茶店をなさっていて、私の父とはそれ以前に駒込でケルンという喫茶店をおやりになっていた頃から、ご存じだったとうかがいました。
 駒込の頃というのは多分、父が太平洋研究所に通っていた時期だと思います。それから、新宿に「NOVA」をお出しになったのですが、当時、そのお店にはいろいろな、芸術家、文化人、学者の方が出入りなさいました。現在、存命の方がどれだけいらっしやるかわかりませんが、一度、小野様を囲んで、皆様の懐かしい会を持とうというところまで、お話しが進みました。
 でも、考えてみますと、それだけではもったいない、そこにある歴史的な意義もふくめて、今のうちに私たち次の世代が、先生方のお話しをうかがって、何か、形のあるものに残してみたいと思いつきました。
 それを小野様に申しあげまして、NOVAに親しく出入りされていました詩人の大島博光先生と、画家の吉井忠先生にご相談したところ、快くご賛同くださいました。
 そこで大島、吉井両先生に窓口になっていただいて、呼び掛ければ、何か繋がりとか、発見とか、拡がりとか、どんどん膨らんでいくような気もいたします。そのとっかかりの集りといいましょうか、NOVAの小野様をはじめ、この趣旨にご賛同いただいた方がた、いわば発起人の方と、この会の呼び掛けにご協力いただけるマスコミの方にお出でいただき、それに、私たち、会の雑務を受け持つ者が加わりまして、最初の会合をひらくことになりました。
というわけで、何分よろしくお願いいたします。
 大島先生はひんぱんにNOVAへ出入りしてられたのですか。
大島 行かない日は無かったんだ。
小野 入りびたって・・・。
吉田 上野様はNOVAで働いていらっしゃったんですね。
小野 「築地」の一期生。
上野 ちがうわよ、その前よ。
小野 女優さんだったんでしょ。
上野 女優じゃなかったんです。
小野 声がきれいだからそうだと思っていたの。
上野 美術部です。トンカチをぶらさげて、舞台作りをやっていたんです。
大島 店にはこの人ともう一人、さくらちゃんでしたっけ。
小野 ええ、小此木さくらさん、PMにいた。
大島 プロレタリア音楽のね。戦後CIAにつかまって苦労した鹿地亘の最初の奥さんになった人だね・・・。
吉田 そのお二人とお店をやっていられたのですか。
小野 もっといましたけれど、階下の店はこの二人でした。
大島 ぼくが一番先に知ったのはさくらさんだよ。
上野 ええ、でも私の方が早いんです。
大島 うん、あなたは早かった。ぼくが出入りを始めたのがさくらさんの来た頃なんだ。
吉田 その時代は私なんかほんとに子供だったころで、なにも知らない世代なんですけれど、ある文化があったんですよね、それが戦争で中断されてしまって、いまも、目隠しされた形になっているんですね。その時代の文化的なリーダーの方の中には、現存されていまも社会で活躍されている方もいらっしゃいます。
 でも、文化としては、日本が戦争に深入りしながら歩んでいた、その時の文化については、私たち学校でも習いませんし、このままでは私の娘とか若い人達に本当のことがわからなくなってしまう、いま、表に出すための橋渡しの役目が重要なんじゃないかと思っています。
小野 こういう機会をつくってもらって有難うございます。
 私とか、まあちゃん(上野まり子)とかがいるうちに、NOVAの会をやって、みんなで集りたいなんて言っていたんですが、発起人をどなたに頼もうかと迷っていたんです。そのうち、山本薩夫さんも、井出則雄さんもつぎつぎになくなってしまって・・・。やっぱり若い方が、先の先までつながるようにやってくださらないと、年寄りだけでは続きませんから。
  (小野みつさん一枚の写真を出席者にみせる)
吉井 NOVAの内部の写真ですか。
小野 伊藤喜朔さんが設計なさったもので、とてもハイカラでした。
大島 ハイカラだったよねえ、あの頃は。
          (皆川滉氏出席)
吉田 場所としては今でいえば・・・。
大島 今の丸井の裏・・・。
日下部 昔、帝都座っていう映画館がありました。あの裏側です。
吉田 皆川さんとNOVAとのお付き合いは。
皆川 当時は新協劇団の経宣部にいまして、同じ劇団のブタクさんに連れられてきてから、割合に出入りしていました。ただ、つきあいは芝居関係の人だけというところです。
大島 吉井さんは御存じですかね、今の歌舞伎町のあたりに「武蔵野サロン」って喫茶店があって、絵描きさんたち、とりわけ、シュルレアリズムの方たちの会なんかあったでしょう。
吉井 ええ、ええ。
大島 あなたもいらしていたんですか。
吉井 行ってました。あのときは、あなたと滝口修造の話をわれわれは聞いているんです。で、その頃、野田秀夫とか、それから寺田かな、アメリカから来たばかりのそれを聞いたことがある。だから、それ以来、大島さんと滝口修造の二人は、ずっとわれわれの間ではシュルレアリズムの開拓者になっているんです。
大島 二人ね。あれは何年頃でしたっけ。
吉井 昭和の初め、といっても十年前後かな。

    二階では新進画家の個展も開催

小野 NOVAでなさったお父さんの展覧会・・・。
吉田 父の年譜によりますと、昭和十年がNOVAの喫茶店で個展と書いてあります。
小野 私が始めたのは昭和五年くらいで、二階の喫茶部が最初です。内装の設計は築地小劇場の奥野文四郎で、その娘さんが今、絵を描いていらっしゃるんですね。
大島 それで、私がひとつ覚えているのは、昭和十五年頃かな、舟越さんて女の絵描きさんがいたんだよねえ。どういうグループにはいっていたのかなあ。
小野 二科の方が二人いらっしてました。一人が奥野文四郎の娘さんですよね。時期が違うんですけれど下の方をやっていたんです。上はまた違った人で鶴岡政男さんがやってらした「NOVAの会」にいて、ついこの間亡くなった・・・。
吉井 大竹久一さんですか。
小野 ええ、昭和十年頃、NOVAで知り合って大竹さんと結婚したんですが、その方が二階の喫茶部で展覧会をやっていた頃にいて、下はこちらの上野さんと二科の会の一人がいたんです。その方は中国か朝鮮に実家のある方で、もうひとりはもちょっと年のいった方で、名前はちょっと忘れてしまいまいたが、二科展で何回か入選していました。
 ともかくあの頃は女の人の働き場所がなくて、昼間何かできるっていうんで、そういう方が多かったんですね。
吉井 アルバイトにね。
小野 私がお店を始めましたのは、ウチの主人がちょっと引っ掛かって会社を辞めたもんですから、それで最初にケルンを始めたのです。
 そのとき、鶴岡さんが団子坂で焼鳥屋さんをやっていて、毎晩、店をしまってから鶴岡さんの屋台へ行ったものです。
 それが昭和三年の頃でしたか、四年頃だったかしら・・・。
吉田 父の二十二、三の頃です。
吉井 それじゃ四年頃だ。
小野 そしたら、階下の場所で床屋さんをやっていた田中って人がそこを売りたいというんで、皆さんにお話しして、お金なんかない頃ですから、私たち、皆さん、伊藤喜朔さん、奥野さんで出しあって二階を作って、下は、劇団に呼び掛けて、喜朔さんから、久米さんでしたっけ支配人の方は。
上野 松田さんです。
小野 ええ、そんな人たちがみんなで出しあって酒場にしたんです。とにかくお金がないので、家具をいれたら家具のお金を借金取りが裏で待っているような状態で始まったんです。
吉田 旦那さまがちょっと入れられたというのは、やっぱり当時の治安維持法ですか。
小野 そうです・最初は築地小劇場にいて、舞台効果をやっていたんです。その後プロ科にいたんです。だから、私たちは結婚して一ヶ月ちょっとで連れて行かれちゃって。
 それで私も被害を受けるといけないというんで、たまたま知り合いに喫茶店のことを知っている人がいて、私は何が何だかわからないけれど、ともかく始めまして、お盆をもったり何かすることを劇団の女優さんたちに教えてもらいながらやりました。
吉田 旦那さまのお名前は。
小野 小野申治です。
 NOVAは下は暗いんですが、上は三方ガラス張りで、いや二方でした。それが今はやりの大きな壁面なもんですから、展覧会には向いていたんです。
吉田 NOVAの喫茶店で個展をなさった方はどのくらいいらっしやるんですか、三十人とか。
小野 いや、そんなにはなかったですよ。だいたい、鶴岡さんのグループ、それから、ちょっと名前を思い出せない。
吉田 竣介さんとか 光さんとかいらしたんですけど、当時だったら 川さんとか・・・。
小野 やらなかったと思います。とにかく狭い。二十人入れるか入れないかでしたから。
吉田 難波多(竜)さんなんかもいらしてましたか。
日下部 姉さんの話に聞いたような気もします。
吉田 不特定多数の出入りですから、そんなに覚えているわけにもいきませんね。
小野 ええ、それに、私は仕入れ係をやっていましたから、あんまり店にでなかったんです。下にはほとんど顔を出さなかったですね。

     店の名はエスペラントからとる

吉井 NOVAという名前は誰がつけてくれたんですか。
小野 考えてみれば、鶴岡さんの絵の会がNOVAでしょう。どっちが先なのかしら。
吉井 おそらくNOVAに行ってたからNOVAの会なんですよ。NOVAってのは新しいって意味でしょ。
小野 そうです。エスペラントです。
大島 ロシア語でノーバっていうと赤いという意味もありますよ。
小野 いいえ、エスペラントです。鶴岡さんに会ったころはドイツのケルンって名前を付けたんです。それで今度、新宿へ出すんでエスペラントを使ったんです。ウチの旦那がつけたんです。
大島 その頃は早稲田の正門の前に鶴丸さんがロシア語でドームという喫茶店をやっていた。
小野 そうね、鶴丸さんあたりに経営の仕方をいろいろ聞いたりしたもんです。築地の方たちが来て、コーヒーを挽いて、こうやって出すもんだとか、うしろでそんな手伝いをしてくだすったんです。ケルンをやっていても、ケルンは小さな店でちょいと変わっていますから、その頃、「イタチハザン」の親戚とか、そういう人たちがよくきていました。
 そのときは、主人が駒込署に拘留されていて、居なかったときです。だからこんぐらかってねよくわからないんですけれど、NOVAは最後の日まで惜しまれて・・・
吉井 それで看板か何かを出しておいでになったんですか。
小野 ええ、小さな看板とそれから外灯です。ヨーロッパにあるような。それも、内装と同じように喜朔さんですから、非常に凝っていました。で、二階は狭いところから上がっていくんですけれど、そこの一段に「NOVA」って書いてありましてね。
 下の開店のときに飛行機でビラを撒いたんです。
吉井 NOVAの宣伝ビラですか。
小野 ええ、だれか知っている人が撒いてあげるっていうんで。それを拾った人が、飛行機でビラを撒くんだから、どんな大きな店だろうと思ってたら、ずいぶん捜したってね。
            (一同大笑)
小野 それで、いくらか名前も知られたんでしょうけれど、あんな狭いところですから、よっぽど捜さなくちゃ。
 で、大島さんはどうしてNOVAに見えるようになったんですか。
大島 初めはどうしていったのか、もうわからないよ。
小野 でも、ナルシスよりウチの方が早かった。
大島 ずっと早い。ナルシスでも、山小屋でもその後で、NOVAが出発点だから。

     「NOVA」常連の群像

吉田 この間の父の展覧会のオープニングに見えた方が、新宿にあったNOVAという喫茶店で、鶴岡政男とか松本竣介に初めて出会った。いま、この会場で当時の人達の顔が見えないのが淋しいとおっしやっていました。
吉井 お客には劇団関係の人が多かったようですね。お話しをうかがっていると。
小野 ええ、それと文学者、早稲田が近いから。
吉井 それから、鶴岡さんの下のグループ、たとえば帝国美術、あのジャンの連中、入江亮太郎とか小山田くんたちのグループ。
小野 小山田さんも毎日のようだったわね。
大島 ぼくが連れていったわけだけれど。
上野 あの田村泰二郎もよく来ていたわ。
大島 うん、田村もよく来ていた。それから浅野晃なんていう・・・。
栗原 日本浪漫派の人ですか。
大島 そうそう、彼もよく来ていました。あの頃はそういうのと会っても、あまり話をしないでね、暗暗裡にもう、みんなごまかしてやっていたんです。
栗原 「赤と黒」の系譜の方たちは。
大島 そっちの人たちはあまり来なかったですね。
 一番最後の頃は鮎川信夫なんか二階に来ていましたね。彼はまだ学生でね。それに堀田善衛なんかも来ました。
 それで、NOVAを起点にして、そこで一杯のんで、それから向こうの三丁目の方に山小屋というのがあって、そこへ行くんです。山小屋のこっちの方に例のナルシスがあって、これがその当時の新宿の三角形というわけです。で、その三つを歩けば誰かがいる。
上野 NOVAと山小屋とナルシスですね。
大島 そりゃ、よく歩いたよ。
栗原 森川義信という方は。
大島 ああ、いたかも知れないねえ。それから後では、死んだ読売の中桐雅夫がよく来ていたね。
小野 音楽新聞だしてた方で村松静光。
上野 音楽の友という雑誌でした。
小野 島崎翁助なんかも年中きていて、閉店の日に踊ったんです。
大島 翁助っていえば、ぼくはナルシスの前で、翁助と取っ組みあいの喧嘩をした。アハハハ。
吉井 元気よかったんだ。(笑い)
富田 翁助さんは何人兄弟なんですか。
小野 三人か四人。
大島 彼は一番下でね。ちょうどドイツから帰ってきた頃でね。
吉田 父がお付き合いいただいたのは敏樹先生って、医科歯科大学の精神病医学の先生でした。
大島 翁助は藤村の三男坊です。
小野 兄さんが鶏二で絵を描いていらっしゃる。
吉田 翁助さんはまだお元気ですか。
小野 二、三年前にお会いして所を聞いたら、杉並にいらっしゃるらしいですね・皆川さんはよく知っていらっしゃるでしょう。
皆川 ぼくたちが一緒に棲んだ頃は目黒で、当時、競馬場があってその反対側の方でした。
 それからかれはプロレタリア美術の方にいって、ぼくはプロ芸に入った。それで事務所が淀橋にあって、そこで大勢、中野重治とか二十人くらいで合宿したんです。
小野 そういえば、西条八十も来たことがあったかも。
大島 そんなことありましたか。
小野 だれかが下に連れて来ました。
大島 そうそう、あの頃、私が『蝋人形』って西条八十の雑誌を編集していたんですよ。当時、西条八十は文学従軍記者として中国の揚子江へいくことになったんです。それで、ぼくは先生が持っていくピストルをある将校から借りてくることになったんです。借りた帰りに新宿へ出てNOVAへ行って、こうやって振りかざした。あんなの見つかったら大変だった。
小野 この間、野長瀬さんもも亡くなったでしょう。
吉井 だれですか。
大島 野長瀬正雄って詩人がいて、しよっちゅう新宿に出ていたもんだ。
小野 それからこの間亡くなった彫刻の井手則雄さん。亡くなる前の前の年に、窪島誠一郎さんのところで、ばったり顔が合ったんです。なにしろ四十年振りくらいですからね。そしたら、「しばらく」っていうから、「わかりますか」って聞くと、「そりゃあ、ぼくはNOVAで育ったようなもんだからわかりますよ」って。それで年質状をやりとりするようになったら、すぐ亡くなってしまわれて。本当に毎日のように二階の喫茶部に来ていたんです。
吉井 その頃は詩人、演劇人、絵描き、音楽家も含めて交流がうんとあったんです。今はそれぞれの分野に立て篭って、あんまり交流しないんだね。やっぱり時代のひとつの動きだったんですね。
小野 いま考えると、圧迫や制約はあったけれど、心の自由はあった素敵な時代でした。
 大人のいうことを若い学生さんたちも同じに話題にしていました。下のトイレの落書なんか文学の議論ばっかりでした。
栗原 ナップとかコップというのは解散させられた後ですか。
吉井 後ですけれど、プロレタリア美術なんかがまだ残っていて、上野で展覧会をやったりしていました。

(つづく)


詩を生きる
どうしてあんなに渇いたのか
                              大島博光

どうしてあんなに渇いたのか
夜な夜な 新宿の穴倉に
泉をさがして ぶらついた

夜どおし飲んで 酔いどれて
酔えば まなこはめくるめき
泥も 七色に光って見えた

ひとを愛する すべも知らずに
愛の砂漠におれもいた
そして 泥の上にもねころんだ

どうしてあんなに渇いたのか
内なる闇が 駆りたてたのか
胸のうつろを 埋めるためか

燈火管制の 夜のなかで
鶏の 頸は 締めあげられ
狂った歯車が きしんでいた

一緒にあふった むかしの友よ
酔ってみんなで 歌っていれば
夜は明けると 思っていたのか

そしておれは 詩も書かずに
思い込んでいた 酩酊のなかに
詩を 生きているのだと
どうしてあんなに渇いたのか
海の水の すべてを飲んでも
あの渇きは 癒えなかったのか

(大島博光全詩集)