屋代中学時代

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


母  暑中休暇中で一番印象の深かった事
                                大島博光
 夏休中は自分の家で1番多忙な時だ。
養蚕で自分は毎日父と桑を採りに行った。畠で何日も父は自分に、今年の春逝った母の事から、勇気を付けて下さるやうに色々とさとして下さった。自分は何日も涙で有難く受けた。そして追憶に沈むのであった。
ある時などはこんな夢を見た。
母が盛装をして、突然帰ってきた。病が全治したので退院したのだと。にこにこして言ふのではないか。自分は天に上ったやうな心持で見た。ふと目が醒めた。相変らず、自分は床の中に居るのだった。自分は悄然として、起きる元気もなく、自分の不幸を亦々考へ込んだ。そして、限りなく自分を悲しく憐に思った。
こんな事で一寸の事でも母の事を思い浮べる。そして、陰気な心持になる。
おヽこの夏休!!悲しく過ごせし休!!
自分は如何にしてこの印象深き休暇を忘れ得よう。母の逝きし日と同じく。

一九二四年(大正十三年)
我が自覚
                          大島博光
「みんな二年に進級することに決しました。」と言ふ校長先生の報告に私は、ボット胸をなで下ろした。と、共にうれしかった。併しこの喜びの裏面には進級して責任の重いことになったと、進級して下級生があるやうになると云ふことが潜んで居ただらう。
教場で長谷川先生より一時間中色々と諭された。その一部は、こうであった。
 上に上るといふことは段々と責任の重くなるといふことである。しかも、此の学校は他の中学と異って上級生がないから校風といふものがない。皆んなは不幸にして此の学校に入学してよい校風を造るも、悪しき風校を造るのもみんな君達の善し悪しにあるのだ。唯一年生は君達の真似をして行くだけである。だから僕は一年生にはいはない。勉強が出来ればよいと云ふのでは無いから、いつもこの事を忘れないで、実行しなければならない。」とあくびの出るほど迄に言はれた。これに対して私は、どうしても先生の言を服 して美しき校風を造らねばならぬと決心せずにはおれなかった。
(一九二四年春)
作文ノート
博光の屋代中学時代の作文帳がみつかりました。母親の死を悲しむ心境や家庭のこと、学校生活などが書いてあり、当時の様子を伝える貴重な資料です。

「作文清書帳」 埴科中学校2年46番 大島博光
内容
1)我が自覚・・・3ページ(2年に進級することになり、最上級生として美しき校風をつくらねばならぬ)
2.車窓より・・・2ページ 1924.4.22
3.夏の夕・・・詩 3ページ 1924.9.30
4.母 暑中休暇中で一番印象の深かった事・・・3ページ(春に亡くなった母親を思い出して)
5.戸隠登山中の飯縄山・・・6ページ
6.蜂・・・・3ページ
7.山田長政・・・2ページ
8.或る日の帰途・・・2ページ
9.今朝・・・・5ページ(自分の家はなんと不幸な家庭だろう)
10.年頭の感・・・2ページ
11.兎狩り・・・11ページ・・・(ばら林の中へ入って中腹頃まで上がった時、ばらの茎で右の目を強く打つ。いたいので目が開けられない。「ああ天の母は、自分を助けてくれないのか。」と悲しく思った・・・)