『新領土』

ここでは、「『新領土』」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 失われた愛の歌

夜の閾(しきい)をとび越えて
君はとび降りてしまったのか
地球の外へ

君のうしろ姿は語らない
醜悪に奪われてしまった
君の眼は閉じている

残された君の椅子に
風は腰かけ
残された広場に
君の足跡は踏まれている

君を呼ぶ唇の中に
星の光りは流れ込み
君を探す手の中に
稲妻は閃く

ただ草葦(アルピスト)の葉は告げた
君が《出かけた》ことを
しかし君は戻って来るだろうか
肩を振り手を振りながら

君の椅子を満たすために
君の針をふり撒くために
    *
炎を映した雲は蔽っている
君はまだ戻って来ない

水蒸気のように
草葦は燃えさかり
野火は私の背中に迫ってくる

しかし私は見ている
炎を映した雲を
君を映した雲を

(『新領土』第二巻一〇号)
暗い季節

 松本隆晴は「暗い季節の思い出」と題しては戦前の『新領土』の頃のことを信濃毎日新聞に書いています。当時の思想弾圧に関する貴重な証言となっていますので紹介します。
   ◇   ◇   ◇
 「思えば長い夜だった。」と僕は昭和三十二年に復刊した詩誌『新領土』第一号に載せた詩の冒頭に書いた。それは日本が太平洋戦争を戦うための思想弾圧と、物資欠乏の両面からの圧迫で雑誌発行のための紙の配給を止められ、かつては七十ページを下らなかったわれらの同人誌『新領土』が、ついには数ページのパンフレットのようにやせて、無期休刊に追い込まれた昭和十六年からの、長い空白の日々への追憶と、本質的な文化活動の上に覆いかぶさっていた激しい弾圧の、暗い思い出に対する感慨をこめたことばであった。
 僕が『新領土』に加わったのは昭和十三年で、大島博光の紹介によるものであった。間もなく上田保、村野四郎、近藤東、永田助太郎、奈切哲夫らとの親しい交友も始まった。この<詩と詩論>の後を継ぐ雑誌のグループは、ほとんどが外国文学を専攻しており、詩作のほかに海外の新しい詩と詩人の紹介や、日本の詩を海外に紹介するなかだちもつとめ、海外からの寄稿も多かった。またそこに載る詩はシュールレアリスムの実験室のような観も呈していて、それだけに自由と現実変革の意志に満ちており、時局に対する諷刺も辛らつで、それだけに戦争遂行に没頭する当局からは初めからにらまれていた。他の雑誌にはほとんどが戦争詩という名目で戦果を讃えたり、戦争を理想化した詩を載せていたのに、『新領土』には、ついに一篇もそのような詩は載らなかった。
 今から思えば、戦争詩の掲載も、実は厳しい検閲の目を免れて、出版を継続するための窮余の策であったろう。しかしそれをしない『新領土』は、月々に紙の配給を減らされて薄くなってゆくとともに、検閲は強化され、毎月警視庁へ呼び出される人が多くなった。「今度は君の番だよ」というようなことばがよく交されるようになったころ『新領土』は紙の配給を停止されて無期休刊となるのであるが、その年、昭和十六年は内務省が文芸誌の整理を決定していた。・・・
 『新領土』を失った僕は西条八十の主宰する『蠟人形』や長野県内発行の『星林』に詩を発表していたが、そこにも弾圧の手は回って来ていた。『星林』は龍野咲人が編集していたが、あの文化喪失の厳しい世相の中で、三十号まで出版されたことすら奇蹟と思われるほど、高い詩精神と抵抗の意志に満ちていた美しい詩誌であった。それに関係する詩人としてまず高橋玄一郎氏が『リアン』の関係で投獄されると、関係者はほとんど警察や裁判所に呼ばれて、厳重な取り調べを受けた。僕は最初に上田の裁判所に呼ばれた日のことを、昨日のことのように覚えている。・・・
 やがて西山克太郎がつかまった。昭和十八年である。僕は初め『新領土』など主として東京での詩の発表が多かったので、長野県での思想取り締りには他の同人より遅れて波をかぶったらしいが、そうなって見て、長野県の特高警察は警視庁のそれを上回る強力なものであると思ったほどである。・・・
 それからがたいへんだった。警察には呼ばれる。刑事はついて歩く。裁判所へは呼ばれる。『星林』もすでに休刊、僕らはもう連絡の術もなく、孤独で嵐に耐えなければならなかった。・・・呼び出されるたびに様子は悪くなる。僕はこれはいけないと思った。万一の場合を思って僕は退職願を書いて校長先生に渡し、もし起訴されるようになったら適当な日付を入れて受領してもらうように頼んだ。学校に迷惑はかけたくなかったからである。当時僕は上田市の高等科だけを入学させる国民学校にいたのであるが、他の同人たちの話と比べてみると、その学校は最後まで、職員の思想にははなはだ寛大であった。龍野咲人などは、校長が職員に、彼とは一切口をきいてはならぬと厳命し、終戦までだれひとり話しかけるものもなかったという。
 その彼はある時警察で、居並ぶ特高刑事たちに向って、「もしも後の世の歴史家が日本の近代史の中で、昭和の半ばに文化の暗黒時代があったと記すなら、その時代を作るのはあなた方です。」と言ったというウワサを聞いた。危ないなと思った。彼は蔵書を全部没収されたが、僕は木箱につめて土中に埋めたので助かった。
 その頃僕はハガキに赤インクで詩を書いて送ったりしていたが、これが問題になった。調べ官は僕にこれは思想の色ではないかと言うのである。僕は青春が内部に沸騰しているので、焔の色が出るのだと言ったが理解してくれそうもなかった。・・・
 そのうち僕は妙なことに気がついた。僕は上田市に住んでいて、時おり故郷の佐久へ帰るのであるが、村に近づくと道端になつかしい知人や友人がいる。喜んで近づいて行くとどうした訳か、彼らは何気なく身をかわして家の中やかげに隠れてしまうのである。これは村の駐在さんが僕と話をした者には、彼はどんなことを言ったのかと問いただすので、”さわらぬ神”という訳で僕を避けているのだと教えてくれた人があった。僕は暗然とした。時代の暗さを身にしみて感じた。大島博光がかつて「私の行くところ すべての扉は閉ざされ、私の去るところ すべての窓は開かれる」と歌っていたことを、そのまま私の上に味わったのである。
 その次に床屋さんが僕を拒否するようになった。「非国民の頭には触れねい」と言うのである。僕は自分の反抗精神の象徴のように、長髪を風になびかせながら終戦を迎えたのであった。
 あの暗い時代は、政府の思想統制に地方自治体が必要以上に協力し、さらに民衆がそれに輪をかけて、結局は同胞が同胞を看視するような悲しい事態になっていったのであるが、その一方で、多くの覚めた人々が、たとえ分散していながらも信じ合い、慰めとなり、力づけとなって、際限もなく崩れていくように見える文化と人間性を、絶望的な努力で支え合っていたことをまた心暖かく思い出すのである。暗い季節の中でも、悔恨は目覚めた星となって、ひそかに瞬いていたのである。(長野市篠ノ井東中学校長)

<1975.11.25 信濃毎日新聞>
楠田一郎への悲歌
   ──彼は地球から出て行った
     歩むために飢えないために──<黒い歌>
                               大島博光

楠田一郎よ
一九三六年の春から夏へ
それは君の地獄の季節だった
朝鮮から東京への旅行者のまま
君は汗にまみれ垢にまみれ
さては襤褸ぼろになって街をさ迷った
蒼ざめた果実のやうに美しかった君の額は
街街の塵挨と日日の酩酊で
眼に見えぬ虫に蝕まれた果実のやうに
しかしさらに美しく荒廃した
君は夜から朝へ昼から夜へ
葦笛のやうな純潔を曳きずり
無限に飢えた眼をもって
街から街へ悲しい夢を追ひもとめた
そして暗い酒場の光りは
稲妻に噛まれた君の蒼い顔を照した
また君は蘆のやうな君の弱さを
夏の太陽に灼きさらし
泥のなか雨にうちたたかせた
しかし君の眼には絶えず
倦怠の影が漂ってゐた
君は裏通りの公園で眠った
君は暗い小路で喧嘩をした
また夏の夜明け
街路樹のかげに夜の影が消えのこり
牛乳配達車の音が鳴りひびく頃
われわれはロートレアモンを論じながら
場末にある友人のアトリエへ眠りに行った
やがて君は街から姿を消した
──街は最も美しい影のひとつを失ひ
空しく彷徨した永遠の旅行者は街を去った
君は再び故郷の朝鮮に帰った
君は《黒い歌》を書きはじめた
君は病床に就いた
われわれの狂気の想ひ出が
すでに肉体を蝕んでゐた
病床の君は絶えず
大陸への夢に襲はれた
──快癒したら北京か上海へ行く──
しかしそのまへに
君がまだ書きつづけてゐた《黒い歌》が
そのまま君自身への葬送曲となってしまった
そのすべての悪夢と黒い影像とをもって
一九三八年一二月七日
君が愛したモンテヴィデオの二人の詩人
イジドオル・デュカスとジュル・ラフオルグのやうに
青春の反逆と孤独のうちに
君は《純粋の沈黙》をまもってしまった
君は《地球から出て行った》
そしてわれわれの誰よりも
死者の速さで無限を歩くだろう
そしてもう飢えることはないだろう
楠田一郎よ
君の墓石にもまた
あのマルドロオルの墓碑銘が刻まれよう
──《ここに胸を病みて死せる青年眠る
   彼のために祈ること勿れ》

(『新領土詩集』1941年)


後記

 <新領土>の復刊の経緯その他については、奈切が<詩学>に書き、志村が<MENU>に書いたので、ここにはくりかえしません。──中絶以来十六年、なんとも長い睡眠でありました。すでに<新領土>という存在は、歴史という太陽のなかの芥子粒ほどに、今、遠ざかりつつある水星のように忘却されようとしていました。しかるに、隔性遺伝的にあるいは突然変異的に(メンバー諸氏よ、怒れ。)復刊の声が拡まり、かくわ陽の目をみることになりました。たしかに感慨無量です。長い冬眠から、春化の段階を経て、光線はまぶしいくらいであります。願わくば、過去の坐折を教訓として汲みとりながら、童女のはじらいと、悍馬のエネルギイを胎みながら、静かに出発しましょう。 (志村辰夫)
     *
 新領土の歩んできた道は懐しい。しかし僕たちはその歴史にあまりとらわれたくない。何故ならば僕たちの時間観念ですれば、あれから裕に一世紀を経ているからだ。
 一昨年中共を見てきた文化視察団や婦人団体連合会の人たちが、いろいろな角度から新しい中国を紹介した。昨年石川達三が朝日に連載した「世界は変った」で自由とはなんであるかを論じて、大きな波紋を投げたことは、まだ記憶に新しい。復刊第一号で、中国詩特集を試みたのも大いに意義があることと思う。 (小林)
     *
 編集が手間どったので七月号にした。直ぐ次号に追はれるからだ。第一号は中国の詩人たちを取り上げたが、スペースの関係で約半分を次号に廻した。同人の原稿も止むを得ず大分次号に廻さざるを得なかったがご了承願いたい。
 復刊に当っては、旧<新領土>の同人名簿がなく、遠い記憶をたよりに連絡したが、未だ連絡のとれていない同人も数多いと思ふ。旧同人の人で未だ通知が行かないのは右のような事情によるものですから、至急連絡して頂きたい。
 十六七年振りで顔を合わせあった同人たちも数多い。それぞれ変って来ているが、同人間のいつも変らない人間的な信頼と友情は楽しい。遠いところにいる同人諸氏との会合をもてないのが残念だが、一年に一回位、全国同人会をひらき度いものだ。  (奈切)
(『新領土』 復刊第一号 1957.7.1)
亜騎 保    岡山市原六八〇・藤原方
芦塚 孝四   相生市南本町一・副島方
鮎川 信夫   東京都港区青山南町四ノ二四
江問 章子   東京都世田ケ谷区玉川等々力町ニノ五二四
春山 行夫   東京都豊島区巣鴨六ノ一二五三
服部 伸六   宮崎市江平町二ノ七九・大和田方
広田 善夫   兵庫県西脇市北本町九五七
今田 久    下関市後田町向陽園一〇三
池田 時雄   川崎市大師河原下田町四四五四
伊藤 正斉   愛知県東春日井郡品野町中七三四ノ一
城 尚衛    東京都世田ケ谷区世田ケ谷船橋町四〇八・平田万
鹿狩 浩    c/o Y. Yuhara Cariado Hotel Going On, Thames, Oxon, England U.K.
川口 敏男   横浜市神奈川区白幡西町三
川村 欽吾   青森県弘崎市富田大野五二
菊島 恒二   東京都世田ヶ谷区世田ヶ谷ニノ一三九七
近藤 東    横浜市神奈川区六角橋上町五二五
小林 武雄   神戸市生田区相生町ニノ一七・中央生活相談所内
小林 善雄   東京都新宿区水道町一
桑原 圭介   下関市阿弥陀寺町七一
桑島 玄二   尼崎市東大島川田一三五・丸山方
丸山 豊    久留米市諏訪野町二二八○
松本 隆晴   上田市丸掘五七一六
三井ふたばこ  東京都世田ケ谷区成城町一三
宮田 栂夫   甲府市上小河原町五九五
三好豊一郎   東京都八王寺市横山町一〇〇
村野 四郎   東京都文京区林町五七
奈切 哲夫   東京都杉並区神明町一二〇・豊巻方
小田 雅彦   小倉市北方本町
尾関  栄   東京都杉並区東田町二ノ一八六
大島 博光   東京都三騰市下連雀三六八
櫻井 也十   東京都立川市羽衣町一ノ二二
志村 辰夫   東京都新宿区上落合一四〇二
宗 孝彦    東京都中野区橋場町三〇
曽根崎保太郎  山梨県東山梨郡勝沼町
滝沢 寛    東京都杉並区清水町九二
田村 隆一   東京都豊島区巣鴨七ノ一七一九
東郷 克郎   東京都台東区谷中真島町一ノ二号第二真島荘
上田 修    東京都品川区五反田五ノ一〇八・上野方
打浪 重信   兵庫県竜野市揖西町竹原二九〇
八木橋雄次郎  東京都世田ヶ谷区東玉川八九
(『新領土』 復刊第一号 1957.7.1)
新領土
新領土
新領土

『新領土』復刊1号は1957年7月に奈切哲夫らにより発行されました。その目的や経緯について冒頭の「メッセージ」と編集後記がふれています。


メッセージ 各国の詩人諸氏に
                      新領土同人 1957年6月

 吾々は日本の詩壇に於ける、同人五十名から成る詩人のグループであり、詩芸術の新しい領土を開拓せんとするグループである。
 吾々は一九三七年から一九四一年まで詩と芸術論の月刊誌『新領土』を出し、日本の詩壇に大きな足跡を残して来たグループである。
 不幸な大戦のために休刊し、戦後の混乱のために永い沈黙を守って来たが、この六月、再びこの雑誌を復刊することになった。当時のメンバーたちと、若干の新人たちが参加することになった。
 吾々は一九三七年から一九四一年の間にもこの雑誌で世界各国の新しい詩人たちを日本に紹介したが、今後はもっと積極的に、この雑誌を日本の詩人たちだけのものにせず、全世界の詩人たちのものにしたいと思ふ。なぜならば、今日地球上のどの国に於ける出来事も、それは直ちに地球上に住むすべての人々の共通の問題となり、今や一国民の苦しみも、哀しみも、歓びも、その一国民のものだけに終らせることは不可能になった。それと同じように、芸術上の一つの問題も、最早一国の芸術家だけの問題ではあり得なくなったからである。
 吾々は一国の現実の中で芸術するのでなく、今までよりもっと意識的に、もっと具体的に、世界の広い現実の中で、世界の広い詩壇の中で、世界中の詩人たちと共に芸術を考え、批評し合い、研究し、より優れた作品を創造してゆき度いと思ふ。
 また芸術行動のみならず、人類の永遠の平和と繁栄のために、また吾々の自由を獲得するために、全世界の詩人たちの良識と良心を結集して、基本的な人間の権利を主張する立場から、現実の世界の出来事に対して、またこれから起らんとしていることに対して、人類史的な展望台に立って考え、発言してゆきたいと思ふ。
 右のような考えから、吾々の総ての善意と拍手を以って、今日地球上に住んでいる総ての優れた詩人たちの作品と芸術に対する新しい考えと、現実の出来事や世界の情勢に対する発言を招待したい。
 貴下が吾々の意見に讃同されるならは、出来るだけ早く届く方法で、貴下の作品や文章を送って頂き度たい。それは御国の出版物に載ったものでもよく、またこれから載せようとしているものでも構はない。但し吾々の『新領土』に掲載されるものに対して、私たちは物質的な報酬を差上げ得ないことを非常に残念に思ふ。何故ならば、吾々の雑誌は営利を目的としているのではなく、互に費用を出し合って出阪を続けてゆかなければならないからである。
 吾々の多くはジャーナリズムの求めに応じて一般の新開や雑誌に執筆しているが、吾々は、吾々の『新領土』にジャーナリズムに支配されず、己が内部の命ずるままのものを書いてゆきたいと思ふ。
 もし新しい作品やエッセイを送って頂けない場合は、貴下が既に発表したものを、コッピーライトなしで、自由に翻訳して、吾々の『新領土』に載せてもいゝといふ許可を頂き度い。貴下の作品や文章が載った新領土が出版されたら直ちに無代で送ります。
 世界のすべての詩人たちが、そして貴下が吾々と同じ考えの下に吾々の新領土に寄稿家として参加して下さることを期待し、御返事をお待ちしています。


 『新領土』の詩人 大島博光
 ①
 『新領土』とは─あまりにも傷ましい詩の雑誌の題名ではないか。
一九三七年(昭和十二年)五月に詩誌『新領土』は創刊される。その七月には廬溝橋事件が起き日中戦争に突入。十二月には南京占領となり大虐殺が起る。前年の二・二六事件から、すでに戦争へと転がりはじめた歯車は止めようもない。日独共同で映画「新しい土」も製作される。すでに昭和七年には満州国も建国されている。
 なんのことはない『新領土』とは─大陸侵略と戦争の時代の「合言葉」だったはずだ。
 そんな時代の空気を気にして口ごもるように「新領土は国際主義であり《土地を奪うものではない》」と発刊に際してワザワザ断っているのだが、いずれにせよ戦争へと傾むく時代の若いモダニズム詩人の結集の基軸となった詩の雑誌である。
 ②
 『新領土』とは、同時代のイギリスのW・H・オーデンやスぺンダーらの『New COUNTRY』を、そのまま翻訳して詩誌に名付けられたものと聞くと、なんだかポカンとしてしまう。
 オーデンは「一九三〇年代の詩人」と呼ばれるが「一九二〇年代の詩人」と呼ばれるのがT・S・エリオットで、その代表作が「THE WAISTE LAND」で『荒地』と翻訳されて戦後詩誌の中心となる。
 どうでもよいことだがカントリーが「領土」で、ランドが「地」と訳されたのだが、逆に「新しい土地」や「荒れた国」でよかったのかもしれない。
 ともかく「新領土」も「荒地」も第一次世界大戦という大量殺戮の時代の、なにもかも失われた死の世界のことだ。人間も生れながらの死者であり、私達は生れる前に死んでいる。
 ③
 昭和三年創刊の『詩と詩論』を起点とし、昭和十二年創刊の『新領土』へと引継がれ、戦後の『荒地』へと至る昭和のモダニズム詩の流れは、日本の近代詩から現代詩への変容の過程である。近代の詩的なるものの死によって戦後詩が生まれ、しかし戦後詩も現代詩も老いさらばえているのが現在だろう。
 それにしても『詩と詩論』から『新領土』へと昭和モダニズム詩は分裂をくり返し、おそらく三十誌以上のモダニズム詩誌が創刊され廃刊されている。『新領土』は太平洋戦争開戦の昭和十六年五月に終刊となる。モダニズム詩の息の根が止められ「戦争詩」の時代となる。
 主な詩誌の終戦までの動向をみると、三好達治らの『四季』は昭和八年に創刊され八十五号まで続く。草野心平らの『歴程』は昭和十年創刊で二十六号まで出る。昭和十二年刊の『新領土』は四十八号まで刊行された。
 念のため付け加えると昭和五年創刊の『鑞人形』は十四年間、月刊で、平均百頁余、百六十八号まで刊行されている。その昭和十年から昭和十七年までの八年間は大島博光によって編集された。
 ④
 大島博光は『新領土』の第四号から第二十三号まで毎号のように詩や評論を発表している。昭和十二年から昭和十四年までの三年間ほどだ。
 創刊まもない『新領土』への参加は、おそらく楠田一郎の紹介や推めによるものと思われる。楠田は創刊号から詩を発表しているが第六号から十五号まで「黒い歌」を連作で書き継ぎ、昭和十三年に死亡する。「黒い歌」は『新領土』を代表する詩作品として評価されているが、楠田の死を悼む詩を第二十二号に発表した後は、大島は筆を断ったように『新領土』から遠ざかっている。
 大島博光の『新領土』に発表された詩は次の通りである。
第八号 ○抉りとられた眼は抉りとる
第九号 ○新しき愛の天体(現代における詩の意義)
第十号 ○失はれた愛の歌
第十一考 ○惨めな歌
第十二号 ○深夜の通行人
第十三号 ○深夜の通行人
第十四号 ○修道轆
第十六号 ○伐りはらわれた林
第十七号 ○幸福
第十八号 ○幸福の思想
第二十号 ○沈黙
第二十二号 ○楠田一郎
第二十三号 ○地球儀
 ⑤
 大島の『新領土』に発表された詩は、昭和モダニズム詩の知的な軽快さや異国趣味的解放感は少なく、内面的な自己凝視によって戦争への不安やおののきを表現している作品である。このような、いわば「実存的」な詩は、戦後になってようやく可能になった詩的表現といってよい。
 大島は楠田一郎と共に『新領土』の前半期に最も精力的に秀れた作品を発表した詩人であった。後半期には若い世代の鮎川信夫、田村隆一、北村太郎、中桐雅夫などが参加する。
 後に「荒地派詩人」として戦後詩の代表となる詩人たちである。
 大島博光は「荒地派」に先行する「新領土の詩人」として位置づけることができると思う。
(「狼煙」第58号 2006年10月)