アラゴン Louis Aragon

ここでは、「アラゴン Louis Aragon 」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


プ口セリアンドの森

 アラゴンが『殉難者たちの証人』を書いていたとき、ドイツ軍の赤と黒のポスターが、一九四二年三月、占領軍にたいする破壊活動で銃殺された七人の若者の名前を知らせた。五月には、すでに書いたように、ポリッツェル、ドゥクールらが処刑され、アラゴンは「詩法」を彼らにささげた。この頃、アラゴンは「プロセリアンド」を書く。ブルターニュの古い神話が眼の前の現実に重ねられ、新しいフランスの英雄たちの偉大さが告知される。
 「一九四一年にもまして一九四二年には、フランスじゅうがプロセリアンドの森に似ていた。森のなかで、ヴィシイの魔法使いどもとゲルマニアの龍騎兵どもが、すべての言葉に呪文めいた、ゆがめた意味あいを与えていた。もはや何ものもそのものの名前で呼ばれなかった。あらゆる偉大さが卑(いや)しめられ、美徳は嘲笑され迫害された。ああ、それは奥方たちが魔法にかけられ、姫君たちが囚われる時代であった。いたるところの路上で遭遇戦が起こった。突如として現れた騎士たちが年寄りや子どもたちを助けた。墜格子(おとしごうし)を揚げた城からは不審な呻めき声が聞こえてきた。時が進むにつれて、ますます多くの無名の騎士たちが武器を手にとって立ち上がった。かれらの名はロジェやピエールであり、ダニエルやジャンであった。ますますたくさんの勇士たちが現われ、かれらの武勲(いさおし)は武装した兵隊や首切り人や、鬼どもや大男どもの眼をかすめて口から口へと、フランスの森じゅうに伝えられた……」(「詩における歴史的正確さについて」)
 「プロセリアンド」は一九四二年十二月三十一日『カイエ・デュ・ローヌ』誌に発表された。サドゥールはこの詩の一部分を解く手がかりを与えている。

  わたしは聞く 犠牲(いけにえ)となったきみたちの声を
  わたしはきみたちを信じた
  いやわたしはきみを忘れはしなかった 鉄を曲げる男よ(タンボー)
  きみはたった一言(ひとこと)で街じゅうのものを振り向かせた
  きみをもまた忘れはしない きみは近づく車を見る
  澄んだ転轍手の眼を生に向けていた(ピエル・セマール)
  わたしはまたきみを忘れなかった 赤毛の哲学者よ(ポリッツェル)
  また白髪の年の前に休むのを潔(いさぎよ)しとしなかったきみをも(リュシアン・サンペィ)
  そして白鳥のように歌ったあの男の思い出も
  彼はあのフェニキアの粘土で作られた王子にも似ていた
  その見ごとさの秘密は古代から一度も発見されなかった(ガブリエル・ペリ)
  わたしはいつかきみらのように死ねるだろうか
  だがこれはただきみらとわたしだけのことだ
  道なかばに倒れたわが戦友たちよ

 詩句の下に書き込まれた名前が、サドゥールの示した鍵である。ここでも人間と武勲(いさおし)が歌われているのである。
 クロード・ロワは一九四二年にアラゴン夫妻と知合いになった。かれの証言は当時のアラゴンの状況をみごとに要約している。
 「アラゴンとエルザは、あの足枷(あしかせ)をはめられた不幸な数年ほど、幸福で自由だったことはかつてなかったように思われる。激しい調子でしかも闊達に発せられたアラゴンの言葉は、フランスのはじからはじへとひびき渡った……アラゴンは活動家としての生活のなかで、ハリコフ会議以来味わわなかった(とわたしの怖れる)楽しい自由を味わっていた……」(『わたし』)
 この頃、アラゴンは小説『オウレリアン』の制作で愛の夢想にふけりながら、一方ではその怒りを『グレヴァン蠟人形館』の痛烈な風刺にぶちまけていたのである。

新日本新書『アラゴン』

タンボー
タンボー(左から二人目)、ギイ・モケ(右端)ら 1941年10月14日、シャトーブリアンの収容所にて

『殉難者たちの証人』

 一九四二年の初め、パリからひとりの同志がニースにアラゴンを訪ねてきた。ジャンと名乗っていたが、それは弁護士のジォエ・ノルドマンであった。
 「ジャンは一束の書類をわたしのところに持ってきた。タイプで打った文献で、少しごちゃまぜになっていた。よくわからなかった。同じひとつの怖ろしい物語が何回となく繰り返し語られていた。それは一九四一年十月に行われた人質処刑に関するシャトーブリアンの人びとの直接の証言であった。殉難者たちの一覧表と、その役職、職業、略歴。彼らの最後の手紙、収容所の板に書きつけられた落書……この文献に短い言葉が添えてあった。『これを記念碑的文献にせよ』わたし宛ての短い言葉で、命令であった。わたしはこの筆跡に見覚えがあった……」(『共產主義的人間』1)
 その筆跡は党の指導者ジャック・デュクロのものであった。この文書類をまとめて、ひろく訴え、ひとびとに影響をあたえるには、有名な作家の方がいいと考えて、アラゴンは当時ニースのあたりに住んでいたアンドレ・ジイドとロジエ・マルタン・デュガールに頼んでみたが、二人ともこれを拒否した。そこでアラゴンはみずから筆をとることにした。こうして『殉難者の証言』が書かれた。──「恐らくこれはよく書けてはいないが、この文章を書いたことほどにわたしが誇りとするものはこの世界にない」

 「翌日、殺戮の詳細が判明した。シャトーブリアンから二キロ離れた砂採り場で、彼らは銃殺された。彼らはトラックのうえでマルセイエーズを歌いながら町を横切った。かれらの通るのを見て、人びとは帽子をぬいだ。町じゅうを覆っていた感動が想像される……。
 奇妙な細心さによって、処刑は三つのグループに分けて行われた。砂採り場には、丸太の棒抗が三列、たてられていた。処刑は三回の一斉射撃によって終った。十五時五十五分、十六時、十六時十分に。
 二十七人の受刑者は、眼かくしもせず、手も縛られずに死んでゆくことを望んだ。かれらは倒れながら死刑執行人どもを驚かせた。かれらは最後の瞬間まで歌っていた。叫んでいたのだ。『フランス万歳! ソヴエト万歳! 共産党万歳!……』金属工タンボーはかれが生涯でいつも示した豪胆さで最後の言葉をえらんだ。それはフランス人である彼を銃殺した兵隊どもの心に思い出として残らずにはいないような途方もない叫びだった。──『ドイツ共産党万歳!……』彼は勇敢に生きたように勇敢に死んだ。かれはわれらの友、フランス労働者の一典型として残るだろう……」

 一九四二年二月に書かれた『殉難者たちの証人』が流布され始めたのはやっとその年の秋になってからである。それも独特の方法でひとびとの手から手へと渡った。アラゴンは書く。
 「ひとつの思いつきが浮かんだ。どうしてこのテクストをタイプからタイプへとうって国じゅうにひろめようとしないのか。〈その後まもなく、この経験にもとづいて『星』(エトワール)というシステムが考え出された。それは無限軌道のように、くりかえし継続されるシステムで、われわれはこれを南仏三十七県の非合法活動に利用した〉。こうして最初の鎖が世に現われた。ニースを通る旅行者は直接かあるいは間接にわたしからそれを受けとるが、編集してあるおかげで、それはパリからきたものだと思いこむ。こうしてツールーズから、リヨンから、モンペリエから、それはふたたびあちらこちらの地方へと散ってゆく。それがわたしの手になったものだとは、一九四四年九月まで、だれも知らなかった。よそに回すようにと、ほうぼうからわたしのところにもどってきたほどである」(『共産主義的人間』1)
 このテクストはまた、アラゴンのかつての上官レヴィ博士の手をとおして、潜水艦で国外に持ち出され、あるいはアルゼンチンの新聞特派員によって世界に知らされた。こうしてアルジュ、ブラザーヴィル、ロンドン、ボストンなどからラジオで放送され、またパンフレットに印刷されてひろく流布された。こうしてナチスの蛮行を知って、世界世論の慣激は高まってゆく。

新日本新書『アラゴン』

シャトーブリアンからの

*犠牲者の一人ギィ・モケを主人公にした映画「シャトーブリアンからの手紙」が2011年に制作されています。(シュレンドルフ監督 仏独合作)


 ニース滞在・マチスとの親交(下)

 パリからニースにもどったアラゴンは、海に面した合衆国海岸通り(ケ・ド・ゼタ・ズニ)の、レストラン・ポンシェットの上の小さな家に移る。その頃、ニースの上のシミィのレジナ荘に、アンリ・マチスがアトリエを構えていた。マチスはアラゴンにとって少年時代から敬愛してきた画家であった。十九歳の頃、ブルトンと共に過した陸軍軍医学校の部屋の壁を飾っていたのもマチスの複製であった。一九四一年の暮、アラゴンは何度かためらったのち、ついにマチスを訪問する。二人の交友が始まる。ときにマチスは七十二歳の巨匠であり、アラゴンは四十四歳の気鋭であった。
 そうしてこの訪問、対談、親交から、アラゴンはまず「マチスあるいは偉大さ」を書く。このエッセィは一九四一年十一月十二日の日付をもち、セゲールスの『ポエジイ四二』の第一号に、B・ダンベリュ B. d'Anbereuxのペン・ネームで発表された。それはつぎのように始まる。
 「吹き荒れた嵐が人家のうえを通り過ぎ、奇妙ながらくたの堆積(やま)を運んできた洪水が退(ひ)いていって、そこに黄色くなった古い写真や、ゆりかごや、日常の暮らしの道具類や、むかしの戦争の記念品などがごちゃまぜになっているとき、街道には避難民たちの波が、布団と恐怖をいっしょに積んだ異様な荷車をひき、悲劇的な荷物の山をかかえて流れて行ったとき、倉庫や広場や、駅や豪華なホテルや、そこらあたりの荒れはてた中庭で、空地のうえで、子どもたちが地べたに坐って、壊れた玩具をかぞえている。
 ……われわれはこの子どもたちだ。しかもわれわれが胸を締めつけられる思いで点検している神聖な残骸は、人形や鉛の兵隊たちではない。十九カ月以来、ほとんどいたるところで人びとは、いつも心にかかっている祖国の財産目録のなかに、おのれの存在理由を探しているのだ……われわれはわれわれの富、変質しないわれわれの財産、われわれの比類ない誇りの根拠をかぞえているのだ。それはわれわれの肺を洗い清めてくれる新鮮な空気であり、われわれの偉大さの感情をわれわれに返してくれるのである。
 われわれのこの財産評価にたいして、過去のあやまちや欠点や敗北を積みかさねてみても始まらないだろう。フランス絵画を前にしてわれわれが抱くこの偉大さの感情をわれわれから奪いとることはだれにもできないだろう。そして恐らくフランス絵画の到達点であり頂点であるあの作品ほどに、この偉大さの感情をわれわれに喚び起こすものはない。わたしはアンリ・マチスについて語りたいのだ……」
 この冒頭の部分は、映画「禁じられた遊び」の、悲惨な避難民の行列のシーン─そこへ容赦なくドイツ空軍の爆撃や掃射が襲いかかるシーンを思い出させる。しかしここで語られているのは、あの哀れなみなし子たちの禁じられた遊びではなくて、禁じられたフランス精神の偉大さ、ふみにじられたフランスの偉大さなのである。
 「……かつてルイ十四世の世紀があったが、いまマチスの半世紀がある。それはメトロ様式の時代、突如として印象主義を追い越し、印象主義に廃棄を通告することになるあの(野獸派)絵画の掲色(フォヴ)の輝きから始まって、描線(トレ)が歌となり、線(リーヌ)が踊りとなるようなあのデッサンへといたる。そこにわが歴史上もっとも暗黒な時代の、フランス的感性の純粋さと本質が要約されている。それは飛行機の数や戦車の速度には依存しない、あの精神の勝利である。わたしは言おう、それこそわれわれのもの、われわれだけのものだと。その高貴さを理解するのはわれわれの義務であると……」
 ここに、フランス精神の偉大さを呼びかけることによって、希望を高くかかげようとするアラゴンの高い叫びをきくことができる。
 こうして後年、マチスとの「会談、対話、夢想、歴史の出来事、マチスの足跡に生まれたもの、本、経験、展覧会など……」から『アンリ・マチス・小説(ロマン)』が書かれることになる。
(この項おわり)

新日本新書『アラゴン』

マチス・ロマン

 ニース滞在・マチスとの親交(上)ドゥクールら五月の死者

 一九四一年六月、ジョルジュ・デュダックが地下の党の連絡をたずさえてニースのアラゴンを訪ねてくる。六月二十三日、アラゴン夫妻とデュダックはパリに向けて、被占領地帯と自由地帯との境界線を越える。ちょうどその前夜ヒットラーのソヴエト攻撃が開始されたので、警戒は厳重をきわめていた。運わるく彼らは三人ともドイツ軍のパトロール隊につかまって、ツールの騎兵隊の兵舎に拘留される。この監禁中にアラゴンは「獅子王リチャード」を書く。

  なんとこの世は わしらの閉じ込められた
  フランスは ツールの兵舎にそっくりだ
  外敵が うまごやしの牧場を踏み荒らし
  なんと きょう一日の長いことか
  ただ 時の経つのを数えていなければならぬのか
  かって憎んだことのないわしが ひとを憎み
  もうわが家は 心のなかにさえありはせぬ
  おお わしの国よ これでもわしの国なのか

 幸運にも七月十四日頃ツールの兵舎から釈放されたアラゴンとエルザはパリに潜入する。そこで作家の抵抗組識として「作家全国委員会」を創設するために、ジョルジュ・ポリッツェルやジャック・ドゥクールらと協議する。こうして「作家全国委員会」の機関紙として「レットル・フランセーズ」紙が、ポーランとドゥクールの編集のもとに発行されることになる。経験ゆたかなアラゴンとエルザの助言はその政治的方針の確立に決定的であった。重要なことは、思想の相違を強調することではなく、フランスのための協力、一致を重視することであった。
 しかし一九四二年一月、まさに創刊号の印刷中、ドゥクールは、ポリッツェル、デュダック、ソロモンとともに逮捕され、一九四二年五月、モン・ヴァレリアンでナチによって銃殺される。彼らの死の知らせがとどくと、アラゴンは「詩法」を書いて、彼らの死をいたむ。

  「五月」の死者たち わが友らのために
  いまよりは ただ かれらのために
  わたしの詩韻(うた)が武器のうえに流される
  あの涙のような魅力をもってくれるように

  ……
  わたしはうたう いつまでも
  「五月」の死者たち わが友らのなかで
                   (『原文におけるフランス語で』)

 この詩はスイスの「Curieux」誌(一九四二年八月号)に掲載されて、「自由地帯」に合法的にひろめられた。ここで歌われている「五月」の死者たちが、あのドゥクールたち一九四二年五月の死者たちであったことを知らなかった人たちには、一九四○年五月のダンケルクの死者たちを歌ったものと思われたであろう。さらにまた、それは一八七一年のパリ・コミューヌの五月の死者たちをも思い出させたであろう。
(つづく)

新日本新書『アラゴン』

*これら「五月の死者たち」の英雄的な肖像は、『殉難者たちの証人』のなかに描かれている。ドゥクールは死にのぞんで、つぎのような手紙を書き残した。「お察しのように、ぼくは、朝じぶんの身に起ることを三ヶ月前から予期していました。だから、それにたいする心がまえをする時間もあったのです。しかし、ぼくには宗教などなかったので、死についての瞑想に沈むということもなかったのです。ぼくはちょっとばかし、自分が木から落ちて腐葉土となる、一枚の木の葉のようなものだと思っています。腐葉土の質は、木の葉の質にかかっているのです。ぼくが話したいのはフランスの若者たちのことで、ぼくはかれらに希望のすべてを託しているのです」(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』東邦出版社)

空


 この沈黙の七年間は、『断腸詩集』の新しい表現形式をみいだすにいたる、詩人としての人間としての追求と模索の過程だった。それには党の書記長トレーズとの出会いも幸いしたようである。一九三三年、ソヴェト滞在から帰ってきたアラゴンは、初めて党の書記長モーリス・トレーズに会った。トレーズはそれまで党内の団結をさまたげていたセクト主義、労働者万能主義、極左主義などを一掃する政策を実施して、それまでアラゴンのような知識人党員には耐えがたかった党風を一新したところだった。さらにトレーズは、アラゴンの大いなる善意、その資質を敏感に評価して、彼を党内の強力な一グループに加える。党を豊かにし、党の民族的役割を発揮するには、その時代のもっとも優れた人物の入党が必要である──トレーズはそう考えるにいたる。党の民族的役割というのは、国際主義の「インタナショナル」とフランスの歌「マルセイエーズ」を一つに結びつけるという有名なトレーズのテーゼである。こうしてアラゴンは、トレーズの激励のもとに、詩における階級的立場とは対極にあると思われていた民族的遺産を継承し、民族的形式を発展させるという考えを次第に大胆に推しすすめる。この政治的確信こそは、その後の戦争、占領、レジスタンスという状況のなかでの、アラゴンのめざましい詩的開花にとって恐らく決定的なものであっただろう。アラゴンの天才が花ひらくこの詩的突然変異は、長いあいだに練りあげられたものであり、長いあいだの詩的および政治的な準備作業によって可能だったのである。
(この項おわり)

新日本新書『アラゴン』

ポンヌフ
ポンヌフ

 この詩集にはまたマヤコフスキーの影響がみられるが、アラゴンはマヤコフスキーから受けとった教訓について、『ソヴェト文学』のなかで明らかにしている。アラゴンがかつてシュールレアリストであったように、マヤコフスキーは未来主義者だった。しかし彼は万人のために書くという課題に「詩的解決」を与える。「宣言調の未来主義は現実の未来に譲歩したのだ」マヤコフスキーは自分の詩法を新しく変える。彼は詩のなかに会話、話し言葉を導入し、それに脚韻をつけて、音韻効果を与える。さらに脚韻そのものは、詩的表現の内容に、言いがたいものをも加えることになろう。
 それにアラゴンの定型採用は、「内容において社会主義的なものを、形式において民族的なものを」という社会主義レアリスムの理論を忠実に実践したものでもある。そしてこの「詩的解決」は、のちのレジスタンスの時代にその偉力を発揮することになる。この詩集のなかの「ナディジンスクで処刑された二十七人のパルチザンのバラード」は、すでにレジスタンスの詩を予告するものといえよう。

  二十七人の パルチザンは
  ひとりまたひとり 首くくられた
  兵士も 労働者も 農民もいた
  いちばん若いのは十四歳だった
  いさましく生きた 二十七人
  その眼は 光にかがやき
  その髪は 生前のように
  風とともに 空になびく
                 (『アラゴン選集』第一巻)

 『ウラル万歳!』は批評たちから黙殺された。「わたしは、その頃の批評家によって詩人として見きりをつけられていた……」と彼自身も書いている。
 こうして、一九三四年の『ウラル万歳!』から、一九四一年の『断腸詩集」にいたる七年のあいだ、アラゴンは一冊の詩集も出していない。もっとも、いくつかの詩を書いて、それを『共産党員は正しい』という詩集にまとめて出版する予定だったが、それはついに刊行されなかった。
 「十年間、わたしは詩を書いたが、そのほとんどは発表されず、多くは引き裂いて破られ、その他はただ失くなってしまった(とくにスペイン戦争のあいだ)。だがそれらの詩にみちびかれて、一九三九年の戦争の事態を前にしたとき、あれらの詩を九月からわたしは書き始めたのだ……」(『アラゴンは語る』)
(つづく)

新日本新書『アラゴン』
*「ナディジンスクで処刑された二十七人のパルチザンのバラード


赤バラ
アラゴン詩集 もくじ (角川書店 世界の詩集)

 初期詩篇
頭巾外套と剣の詩
社交界の唄

 詩集 ウラル万歳
讚歌
ナディジンクスで死んだ二十七人のパルチザンのバラード
マグニトゴルスク

 斷腸詩集
二十年後
ひき裂かれた恋びとたち
クロス・ワードの時
荊の冠(サンタ・エスピナ)

リラと薔薇
四○年のリチャード二世

 詩集 エルザの眼
エルザの眼
ダンケルクの夜
涙よりも美しいもの
エルザへの讃歌

 原文のままのフランス語で
詩法

 詩集 グレヴァン博物館
われらの黙示録が始まって……
わたしは書くのだ……

 詩集 フランスの起床ラッパ
薔薇と木犀草
幸福な愛はどこにもない
鏡のまえのエルザ
すべての女たちのなかのひとりの女を
むごたらしく殺された少女について
ストラスブール大学の歌
ガブリエル・ペリの伝説

 詩集 眼と記憶
最後の審判はないだろう
人生は苦しんで生きるねうちがある
人民
ひとは遠くからやってくる

 詩集 未完の物語
ホン・ヌーフの橋でわたしは会った
悪魔の美しさ
みんなの脱ぎ棄てた
戦争とそれにつづいて来るもの
青春の砂のなんと早く
わたしはあの頃の情熱や
日先の言葉だけではない愛
死がやってくるためには
幸福とエルザについての散文

 詩集 エルザ
川が海の方へ……
ひとりの男が窓の下を通りながら歌う
男の歌につれて群衆から湧きあがる歌声
おまえの愛は
いつかエルザよこれらの詩は……

 詩集 エルザの狂人

讃歌のなかの讃歌

未来の歌(ザジャール)

 解說
 年譜


アラゴン詩集

(昭和48年4月初版)



社交会

(角川書店『アラゴン詩集』─初期詩篇)

アーチ

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 『ウラル万歳!』

 一九三二年、アラゴンは二番目のソヴェト旅行に出かけ、滞在は一年近くに及ぶ。彼はそこで『国際通信(コレスポンダンス・アンテルナショナル)』誌の仕事を手伝う。
 彼はウラルのマグニトゴルスク、チェリアビンスクなど、巨大な製鉄所、トラクター工場などの建設現場を訪れ、そのときの感動から『ウラル万歳!』を書く。この詩集は、ソヴェトで遂行された革命と巨大な社会主義建設への具象的な賛歌である。

  かれらは大地を人間に返して言った
  きみたちはもう 飢えないだろう
  きみたちはもう 飢えないだろう

  かれらは天を大地に投げすてて言った
  神々は 消えうせるだろう
  神々は 消えうせるだろう
                  (「賛歌」『アラゴン選集』第一巻)

 詩人はまた社会主義的労働をたたえて歌う。

  この世にある すばらしいものに
  勇敢なひとびとよ 耳をひらけ
  この世にあるすばらしいものに
  勇敢なひとびとよ 眼をひらけ

  ここ 社会主義の 世界では
  働くことは もう 恥ではない
  むかしのように 働くことは
  もう むなしい 苦労ではない

  働くことは 名誉なことだ
  けなげな 英雄主義的なことだ
  働くことは 労働者にとって
  名誉なことだ 光栄なことだ
               (「同志フィデレイエフは答える」前掲書)

 この詩集には、十二詩節(アレキザンドラン)の長詩のほかに、規規則正しい脚韻をふんだ八音節の四行詩がみられる。この古典的な作詩法の採用こそはこの詩集にあらわれた新しさであり、その後アラゴンによってますます追求される形式となる。
(つづく)

新日本新書『アラゴン』

ポスター
グスタフ・クルーツィス <ポスター> 1931年


マグニトゴルスク
                   ルイ・アラゴン 大島博光訳

小馬には なにもわからない 
あの 大きな鉱石入れの容器が
あの 立ち並んだ鉄の木木が 運搬車が
あのわきおこる歌ごえが
いったい なになのか
宙吊りの花ばな
といったところから
歌ごえが出てくる
ぶらぶら歩きまわるのは無用だ
電信柱に鳴る意地わるな風にむかって
道に沿って
金属の言葉が
飛びかう
小馬にはそれがなにもわからない

小馬には なにもわからない
そこにひらける風景は
工場という釘で 釘づけされた巨人だ
立ち並んだバラック網のなかに
丘をくりひろげている
その風景は 煙りの首飾りをしている
その風景には 夏の日の蝿(はえ)よりも
たくさんの足場が組まれている
その風景は 社会主義のなかでひざまずいている
そうして 電気が
その空中の繊細な指を
立ちのぼる埃(ほこり)と煤煙(ばいえん)のなかに伸ばしている

小馬には なにもわからない
これら 人間たちの家家のなかでは
誰ひとりとして眠らない
まるで犬のあとをついてゆくように
いたるところでヒューヒューと口笛が鳴る
火の豹(ひょう)が 通りかかったトロッコにとびかかる
化学的な副産物の山が並んでいる
砕鉱機に落下する鉱石の雷鳴
高炉の 爆笑のような雷鳴
未知の道化役者が鉄を吐き出すごとに
拍手喝采を送るような
堰(せき)の水の落下する雷鳴

小馬には なにもわからない
白い言葉をもった 赤い
ハンカチがある
道のうえの 空に張られたハンカチ
あるいは 機械に結びつけられたハンカチ
あるいは 建物の口の中のビフテキのような
ハンカチがある
石炭の燃える 深夜までつづく
衛生会議がある
それが山だということを見せてくれ といった風の
混乱したイデオロギーがある

小馬には それがなんにもわからない
大男たちが 大地の肩のあいだを歩きまわっている
そうして 彼らの胼胝(たこ)のできた手の下で
未来の横っ腹が 音をたてる
大男たちは 公共建物を見ながら
毎日 生産される鉄鋼とコークスの
神秘的な生産指数を読む

大男たちのために
空と山とは
夕ぐれ アコーデオンに要約される

おお こいびとよ こいびとよ サーカスへ行こう
ベスビアス火山に見送られて出航した
赤い汽船の船底にかくれて
ムッソリーニの国から逃げだしてきた
イタリア人が空中ぶらんこをするサーカスへ

それからおれたちは 社会主義の町の方へ登って行こう
製鉄はまだその詩人をもたないと思われている時
マキシム・ゴリキー班のメンバーたちは
詩について何を論じるべきか
それをきくバルコニーが まだ町にはない
小馬には なにもわからない

町なかには 陽気な世界がざわめいている
町をゆく女たちは ひとが溺れこむような黒い眼をしている
いならぶ屋台店が まるで可愛がられる女のような風をしている
ばら色のカメラ・マンだけが 声のなかで涙ぐんでいる

獣医診察所のテントのそばには
何足もの靴が 背板にぶらさがっている
それはバシキール人の眼には 自動車よりも信じがたいものだ
そしてきみには 古本屋の店先にある「反デュリング論」よりも信じがたいものだ
小馬には なにもわからない

この詩のはじめに 言ったとおり
テントからテントへと ひとが進むにつれて
とび出してくる空中の声は
ひっきりなしに くりかえしている
それがなければ たしかに
このパノラマには 何かが欠けることになる
そうして その文句は 落っこちてきて
巨大な壁画にからみついた
壁画の一隅では
細部描写のマンモスのような鍛鉄工が
小さな石膏像のレーニンを優しく見つめている
子馬には それらが なにもわからない

小馬よ きみには なにもわからない
きみは きみの最後の時にも
きみのまぐさに与えられた味と鞭(むち)とを
憎まないのか
きみは 村村で こがねにみのった処女地のそばで
ひとびとが飢えているのを見なかったのか
小馬よ きみの道を急がずに 聞いてくれ
ラジオが放送する言葉を 聞いてくれ
それは このウラルの謎をとく鍵なのだ
小馬よ よく聞いてくれ

建設の
時代にあっては
技術が
すべてを
決定
する

小馬よ 小馬よ よーくわかってくれ

(角川書店『アラゴン詩集』──詩集 ウラル万歳)

ニューレンベルク
アムシェイ・ニューレンベルク 政治教育総局ポスター 1921年

 ソヴェト同盟をほめたたえる詩章では、ソヴェトの頭文字SSSRがリフレーンとなる。それはまたそのまま蒸気を噴いて全速力で走る機関車の擬音となり、リズムとなる。

  赤い列車は動き出し だれも止められはしない
  SSSR SSSR
  ……
  「五カ年計画」を四年で遂行しよう
  SSSR 人間による人間の搾取をやめさせよう
  SSSR SSSR SSSR

 『赤色戦線』は、アラゴンが詩における観念論から唯物論へ移行する過渡期の作品であり、レアリスム詩への最初の試みでもある。そしてこの作品のなかに、その後大きく発展してゆくアラゴンの詩の萌芽を読みとることができる。またそれによって、十年後レジスタンスの詩人アラゴンの詩がどのようにして生まれてきたかを理解することができよう。

 一九三〇年十二月、アラゴンとサドゥールはソヴェトから帰ってくる。彼らのハリコフ会議の報告は、とうていブルトンらによって受け入れられるものではなかった。激論が三カ月にわたって行なわれる。
 ところで、アラゴンがソヴェト滞在中、社会主義的情熱に燃えて書いた長詩「赤色戦線」が、『迫害する非迫害者』一九三一年十月)の冒頭を飾り、またモスクワで刊行された『世界革命文学』誌のフランス語にも掲載された。このフランス語版はパリで十一月に押収され、翌一九三二年一月十六日、予審判事は、アラゴンを「無政府主義的宣伝ヲ目的トシ、軍隊ニ、不服従行動ヲ挑発シタ」というかどで告発する。違犯者は入獄五年の刑に処せられるはずである。こうしていわゆる「アラゴン事件」が始まる。
 シュールレアリストたちはさっそく抗議の声明文を発表して、アラゴン告発に反対する署名運動を展開する。抗議文はブルトンの筆によると思われる。
 「アラゴン告発は……フランスにおいて前代未聞のことである。われわれは、裁判に付する目的で詩的作品の干渉する一切の企てに反対し、ただちに追及の中止を要求する」
 この抗議文には、フランスの各方面の知識人たちをはじめとして、ベルギー、ドイツ、チェコスラヴァキア、ユーゴスラヴィアなどから、たちまち三○○名を超す署名が集まる。
 ブルトンはこの告発には反対したが、『赤色戦線』にたいする作品評価の点ではまったく否定的だった。『詩の貧困』(一九三二年三月)のなかに彼は書く。「ふたたび『赤色戦線』にもどって言えば……わたしは断言せざるを得ない──この詩は、詩に新しい道をきりひらくものではなく、この詩をもって、こんにちの詩人たちが見習うべき模範とすることはむだであろうと。その主な理由は、このような(詩の)領域においては、客観的な出発点はただ客観的な到達点に達するだけであり、この詩における外部的主題、とりわけ議論を呼び起こす主題への後退は、こんにち、もっとも進んだ詩的形式から引き出される歴史的教訓とは一致しないからである……この詩は絶えず特殊な事件、社会生活の状況によりかかっている。この詩がアラゴンのソヴェト滞在中に書かれたことを思えば、この詩を、現在提起されている詩的問題にたいする時宜を得た解答と見なすべきではなく、各人がめいめい好きなように行なう習作と見るべきである。なぜなら、詩における後退の別名は、状況の詩ということである」
 この「状況の詩」という言葉は、ギロチンの刃のように落ちて、この論争にけりをつけた。そしてブルトンとアラゴンの絶交・決別は決定的となる。
 さらに「状況の詩」の問題はシュールレアリストたちの頭にこびりついて、それをめぐって一つの詩的問題を提起することになる。例えば、エリュアールはブルトンの呪縛をのりこえて、とりわけスペイン戦争以来、状況の詩を書くようになり、くりかえし「状況の詩」について論及するようになる。
 ところでアラゴンが状況の詩『赤色戦線』を書き、ハリコフ会議で弁証法的唯物論の道へはっきりと進み出て、ブルトンの「シュールレアリスム第二宣言」を否認した「アラゴン事件」は、シュールレアリスト・グループに根本的な問題を提起した。つまりシュールレアリスムの幻覚、魔法、狂気の内部世界に閉じこもるか、それとも、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級関係を正しく分析して、階級闘争、弁証法的唯物論、革命的レアリスムの道へ進みでてゆくか。これこそが「アラゴン事件」が提起した問題の本質であった。アラゴンとブルトンの決裂の逸話的な細部もこの本質をぼやかすことはできない。
(この項おわり)

新日本新書『アラゴン』

ソビエトポスター
グスタフ・クルーツィス「五カ年計画ポスター」
『赤色戦線』・アラゴン事件

 「ソヴェトから帰ってきたわたしはもはや同じ人間ではなかった。もはや『パリの農夫」の作者ではなく、『赤色戦線」の作者だった」(『社会主義レアリスムのために』)

 アラゴンはソヴェト滞在中、社会主義建設のはつらつとした息吹きに鼓舞されて、長詩『赤色戦線』はじめ幾つかの革命的な詩を書いた。それらは、詩集『迫害する被迫害者』に収められて一九三一年の末に刊行される。
 アラゴンはそれまで、自分の夢や個人の世界の追求・表現では、ある程度すぐれた技量に到達していた。しかしいま、彼が歌おうとしているのは、前例のない、まったくちがった世界であり、巨人のように社会主義建設を進めている人民の世界である。『赤色戦線』は、醜悪なパリのブルジョアどもへの攻撃と、彼が「東方」で見てきたこの赤いあけぼのへの賛歌──この二つの主題のうえに成りたつ。この詩に見いだされる風刺、扇動、罵倒はまさにその時代のものであり、当時の時事的問題が手当り次第にその対象となり、その鋭い筆致は効果的である。「植民地博覧会」、ロスチャイルド家、「マキシム」で夕食をとる連中、ブルジョアジーの全盛期、そのブルジョアのご機嫌をとるむかしの友人たち──「ピガール劇場のゴルフ場の背景を描きあげた」マックス・エルンストやジョルジオ・ド・キリコなど……。
 『赤色戦線』の冒頭はシュールレアリスト風な風刺で始められる。

  一九三一年 おれたちはマキシムにいる
  酒壜の下には絨毯が敷かれる
  やつら貴族の尻が
  生活の苦労とぶつからないように
  大地をかくすための絨毯……

 つぎには、この「マキシム」における夕食とは対照的に民衆への呼びかけが歌われる。

  パリよ おまえの石畳はいつでも空(くう)を飛び
  おまえの街路樹は 兵隊どもの進撃をくい止める用意ができている
  大きな図体をしたパリよ 振り向いて
  呼ぶがいいベルヴィル*を
  おーい ベルヴィルよ
  王たちが赤に囚われた町サン・ドニよ
  イヴリよ ジャベルよ マラコフ**よ
  ……
  街燈なんか 藁たばのようにひん曲げろ
  新聞売場(キオスク)も椅子も街の泉水も 放り投げろ
  ポリどもをやっつけろ

* ベルヴィルは労働者街で革命的伝統をもつ。
** パリ郊外の民主勢力の強い町で、赤いベルトとも呼ばれている。

ここに歌われているのは、もはや『パリの農夫』のパリではなく、労働者のパリ、革命的なパリである。新しい現実を歌うために、アラゴンはフランス人民の闘争と文化の遺産から学び、ヴィクトル・ユゴーの伝統をうけつぐ。
 さらに表現は詩語から遠ざかり、演説の言葉となり、ビラの言葉となり、散文的なニュースの言葉となる。

  だがすでにパンの八○パーセントは 今年(ことし) コルホーズのマルクス主義的な夢から作られた
  ヒナゲシたちは 赤旗になった
(つづく)

新日本新書『アラゴン』

パリ


ナディジンスク


(角川書店『アラゴン詩集』)

 一九三二年、アラゴンはふたたびソヴィエトを訪問し、巨大な製鉄所が建設されていたウラル地方を旅行し、詩集『ウラル万歳!』(一九三四年)を書く。それから七年間の沈黙がつづく。そのあいだに、彼は詩人としての内面のたたかいと変革を追求すると同時に、フランス詩の伝統的な詩形式をわがものにし、これを革新しようと探求していた。これらの追究こそが、『断腸詩集』を準備していたのであり、レジスタンスの時代の詩を準備していたのである。すでに、『ウラル万歳!』のなかの「ナディジンスクで処刑された二十七人のパルチザンのバラード」のような詩は、レジスタンスのもっとも苛烈な時代の詩の先どりとして読むこともできる。(飯塚書店『アラゴン選集』第一巻解説)

アラゴン

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  涙よりも美しきもの(抄) 

 わたしが呼吸をすると 或る連中の生きる邪魔となり
 何かの苛責で 彼らは夜もおちおち眠れぬのだ
 まるでわたしが詩を書けば 笛や太鼓が鳴り出して
 その音で 死んだ者までが眼を覚ますらしいのだ

 わたしが愛を語れば きみらはその愛に苛(いら)だち
 いい天気だと書けば 雨降りだと言いたてる
 きみらは言う 「おまえの野には雛菊が多すぎる
 おまえの夜には星が多すぎ おまえの空は青すぎる」と

 そこなる美女よ わたしが戸口から戸口へと回って
 さあ おん身を忘れてしまったかどうか 見ておくれ
 おんみの眼は 手にした葬いの花束の色にそっくりだ
 昔の春 おん身の前掛には花が咲きこぼれていた

 呼び起こせ 呼び起こせ 幽霊どもを追い払うため
  燦然(さんぜん)と輝く奇跡を 千とひとつのいさおしを
 サン・ジャン・デュ・デゼールから
  ブラントームの穴倉まで
 ロンスボーの峠から ベルコールの高原まで

 パリの魅惑はどこから始まるのか わからない
 レ・ザンドリのような 血のにじむ名前がある
 風景は身をのけぞらせてわれらに涙を見せる
 ああ 泣き声など立てないでくれ わたしのパリよ

 歌ごえ湧き起こるパリ 怒りに燃えたつパリ
 だが旗は 洗濯場で水びたしになったままだ
 北極星にも似た 光放つ首都パリ だがパリは
 舗道の石畳をひっペがしてこそ パリなのだ

 アラゴンはこの詩の冒頭でドリュ・ラ・ロシェルに毒舌を返している。「わたしが呼吸をすると ある連中の生きる邪魔となり/何かの苛責で 彼らは夜もおちおち眠れぬのだ」と。そして「そこなる美女」──祖国フランスにたいする愛と熱情をあかしだてるために、国巡(めぐ)りをして、地方地方の美しさや、歴史や歴史的人物、伝説などを呼び起こす。そこには『ローランの歌』のローランが祖国のために戦死したロンスボーの峠が歌われ、一七九二年のパリ・コミューヌの義勇軍による勝利の地マルヌ(ヴァルミ)が歌われる……。

 アルルから吹いてくる風には 夢がある
 その夢は 私の心そのものだから声高くは語れぬ
 オニスや サントンジュの黄ばんだ沼地を
 侵略者どもの戦車の轍(わだち)が踏みにじっているとき

 このくだりは、一九三七年十二月のフランス共産党アルル大会を暗に歌ったもので、この大会では「世界における高貴な使命を忠実に守ろう」と呼びかけたモーリス・トレーズの報告が採択されたのだった。そのトレーズの「マルセイエーズ」と「インターナショナル」とを統一しょうという民族的な政策は、アラゴンが詩において民族的伝統を採用し延長するのに大きな励ましとなった。そしてこの詩を読んだ多くの同志たちは大会を思い出して、アラゴンに手紙を書いた。
 一九四二年、チュニジア総督エステヴァ提督は、独仏休戦条約におけるドイツ側の大きな権限に不満で、自分の新聞で婉曲に「愛国心を喚起する」方法を探していた。愛国主義は、対独協力派やヴィシィ派の作家たちのあいだにはほとんど見当らなかったので、提督はついにアラゴンに書かせることにした。提督の使者が、ニースに住んでいたアラゴンを訪ねてきて、週一回いろいろな問題を扱った記事を書くように求めた。非公式とはいえ、その筋からの求めをすげなく拒るのは困難でもあり、危険でさえもあった。そこでアラゴンはドリュ・ラ・ロシェル にたいする反験として書きあげたばかりの「涙よりも美しきもの」をチュニスの新聞に発表することにした。
 一九四三年の初め、ド・ゴール将軍は「涙よりも美しきもの」の数行をアルジェ放送を通じて放送することになる。   (この項おわり)

   (新日本新書『アラゴン』)

アイスバーグ


 しかし、アラゴンが復活を試みたのは伝統的な詩法だけではなく、あの中世騎士道の精神であり、愛国心であり、その「女性崇拝」である。
 「詩のなかに初めてフランスという意識、愛国心という言葉が現われたのは十二世紀においてである……」
「クレチアン(ド・トロワ)のペルスヴァルは、いくつかの点でリヒァルト・ワグナーのパルシファルとはちがっている……彼は、女たち、弱き者たちをまもる、さまよえる騎士である。彼は、ワグナーとニイチェとがそこでいっしょになるような、あの個人主義の最後の表現などではない……ペルスヴァルは真実の担い手であり、審判者である。彼は、フランス人とはかくあれと願うようなフランス人、フランス人の名に価するようなフランス人の、もっとも気高い化身である。ここで男性の使命とむすびついた女性崇拝は、あの正義と真実をまもるという使命に光を与えるのである」
 そしてアラゴンはジャン・ジオノの「這いつくばって生きよう」という敗北主義にたいして、クレチアン・ド・トロワの「辱しめられて生きるよりは潔く死んだ方がいい」という詩句を対置してこう書く。
 「こんにち、あの英雄主義、あの祖国への深い忠誠について数千の生きた模範があることは疑いない。……だがこんにちそれについて語ることができるだろうか。いや、できはしない。真紅の騎士ペルスヴァルをとおして、わたしは彼らに挨拶をおくる」
 真紅の騎士ペルスヴァルのなかにアラゴンが見ていたのは、英雄的なフランス人民にほかならない。
 「リベラックの教訓」は、一九四一年六月、アルジェで発行されていた「泉(フォンテーヌ)」誌に揭載された。 アラゴンの旧友で、いまやヴィシイ派にぞくしていたドリュ・ラ・ロシェルは、右翼団体「反共十字軍」の機関紙『民族解放』紙(一九四一年十月十一日付)でこれを取りあげて「真紅の騎士」とは赤騎兵おびソヴェトであると書いて、毒舌を加える。
 「……ここに雑誌『泉(フォンテーヌ)』四号に発表された『リベラックの教訓』という一文がある。論旨はまことに文学的で、極めて純粋な郷土愛にあふれているかに見える。それは偉大な詩の時代であったフランス中世への讃歌である。……しかしそこには一つの『しかし』がつく。いや、たくさんの『しかし』がつく。
アラゴンの激賞するのは奇妙な中世である。それは、じっさいの中世に全く反するように見える一つの中世であり、性急な弁証法によるマルクス主義的方法によって捉えられた一つの中世であって、それはすでに中世を越えているのだ。
 ……赤い糸で縫いとじられた詩文学誌で、アラゴンがレジスタンスとその強化のためにふり撤いているあの悲憤慷慨、祖国の尊厳に注いでいるあの感涙、あの片言の呼びかけなどは、排他的かつ熱狂的な讃美でフランスをほめたたえているかに見えても、けっしてフランスに奉仕するものではなかった。ここにこの一文の最後の言葉がある。
 〈……ねがわくばフランスの詩人たちが……新しい真紅の騎士の立ち現われる日のために準備されんことを。そのとき、閉ざされた芸術の実験室で準備された彼らの言葉は『言葉の一つ一つに法外の重要さを与えながら』すべての人びとに、詩人たち自身にも、明らかになるだろう。そしてそれは国境を知らぬフランスの真の夜明けとなり、その光は空高く染めて、世界の果てからも見えるだろう〉
 たしかに、国境を知らぬこの夜明けはモスクワから見えるだろう。そしてこの真紅の騎士はわたしにはむしろ赤騎兵とソヴェトに見えるのである……」
 ドリュ・ラ・ロシェルのこの歪曲、毒舌にたいして、アラゴンは「涙よりも美しきもの」を書いて答える。 (つづく

   (新日本新書『アラゴン』

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