西条八十

ここでは、「西条八十」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


西条八十絵はがき
西条八十絵はがき

(八月十三日 西条八十)
巴里あての便りありがたう。やっぱりアメリカとナチス王国がおもしろかった。
今夜 巴里をアディユーした。いまマルセイユ行きの汽車の中。ヂャール二つの人だのに、ねむれぬ。十二時だ。また日本へ帰って、仕事する事をおもふと ユーウツだね。
ドイツ語大分おぼえたよ。これからやるつもりだ。

東京都杉並区馬橋四ノ四八八
山崎氏方
大島博光様


◇    ◇    ◇    ◇   
西条八十は1936年(昭和9年)6月、コロムビアの派遣でアメリカを音楽行脚し、パリに寄ったところで口説かれて朝日・読売のベルリン・オリンピック特派員としてドイツに渡った。8月1日から10日間、ベルリンの競技場に通って即興詩などを書いた。パリに戻り、8月16日、マルセイユから乗船して帰国した。
博光が『蝋人形』の編集者に就いたのは前年の1935年3月。

 慶光院芙沙子編集・発行による季刊詩誌『無限』の44号(西條八十特集)は八十の愛娘・西條嫩子が関わり、多くの詩人・文化人が執筆している豊かで貴重なもの。西條嫩子が新聞に書いた紹介記事では博光の「香りのない花束」を取り上げています。

   ◇      ◇      ◇

愛惜の音 限りなく

父・西條八十の娘も知らぬ断片
                           西條嫩子

 こんど「無限」の父西條八十特集ができあがった。表紙からして……あまり見事な抽象画が父の雰囲気そのものなのは利根山光人画伯が父の早稲田の教え子の由……、また、本文の一ページ操るごとに愛情と云うよりもあまりに父に適切な、娘も知らざる父のま新しい断片が眩しく激しく浸透して、一睡もせずに朝まで読み通してしまった。
 このプランを「無限」の社長、慶光院芙沙子氏が私に依頼されたのは昨年六月、定例の詩人クラブ賞発表パーティーの帰途であった。それからまもなく彼女は心筋梗塞の発作で二度も倒れて入院してしまった。
 「血をいっぱい吐いたので、その匂いが残っているの……まるで死の匂いみたい」
 言葉は悲壮だが、彼女の瞳はつぶらに美しくてブルウのガウンがよく似合う……私はふと咽喉の病気で入院するごとに、少年のような微笑が多くなった十余年前の亡き西候の父の眼差しを想い出していた……そのさりげなさに、なんとしても、無限をまとめなければいけない、と何故か率直に決心したのである。
      *
 矢野峰人、島田謹二、佐藤朔、堀口大學(わざわざ病中を寄稿していただいた氏は悲しく既に故人になってしまわれた)の諸氏は父が傾倒し、心も寄せた方々である。また、児童文学の泰斗であられる与田準一氏、藤田圭雄氏もお優しかった。決して先輩ぶらない万年青年のような心を感じさせる平野威馬雄氏はのんびり書きなぐっておられるが、いざ評論となるとフランス知詩人の血が入っていられ故か、オリジナリティがすばらしい。日本語も実になだらかだ。
 父が非常に期待しぬいた教え子で詩人の大島博光氏は父と同じくランボウらの研究家なので、一九八〇年八月のパリのコロネル・ファビヤンの広場から心を籠(こ)めた父への愛惜の詩を寄せられている。
 ………(前略)………
 ある時 先生は言った「生きていたランボオは
 さぞつきあいにくい男だったろうねえ」と
 反抗に燃えてパリ・コミューヌをほめ讃え
 パリのブルジョワどもを罵倒したランボオを
 先生は「若者の若気のいたり」と書いた
 その「若者の若気のいたり」をわたしは
 生涯 つづけることになってしまった
 わたしはまことに不肖の弟子だった
 ………(略)………
 この夏もわたしはシャルルヴィルを訪れた
 駅前の辻公園を通りながらわたしは想った
 五十年むかしここを歩いて行った先生のことを
 大通りの紅(べに)すももの街路樹が北国(ノール)の空に
 暗いえび茶色の茂みをかざしていた
 ………(後略)………
 ランボウの故郷への父の執着は激しく、昭和三十五年、母の死の直後にフランスを訪れた時も、日本へ帰る前日、父はランボウの故郷行きを渇望したが豪雨で果たせなかった。
      *
 そのうち、予期しない程早く、慶光院氏は退院し、詩誌の巻頭に父の新鮮な未発表の詩、少年期の作文など掲載する相談をした。早稲田中学五年生の時の「問」(あひだ)と云う、現代調とは違う緩慢な心理小品には、ながながと仏教の話をする母の姿が描かれているが、事実、孫であった私も祖母の熱心な仏教の呪縛から逃れえなかった。人一倍、母思いの父なればこそ、孤独の母の願いは封じ難かったと想像するし、影響も少なからずと思う。それが父の知性と詩情の葛藤を経て、教会通い、聖書への執着、牧師職への希望ももたらしたと思う。
 大正十一年、父自ら主宰して発刊した詩誌「白孔雀」の良き友であり、同人、理解者であり、比較文学の世界的権威である島田謹二氏はこう述べていられる。──西條さんの世界は、何といっても印象を強烈に表す認識の世界です。それは情緒の世界の表現を主にする。よろこびとかなしみを鋭敏にうけとる力のあらわれでもある。あるいは後悔しはげしい憂鬱がたなびく。それだけこの心境は一そう明るさを求めます──。この心境は父の心に秘められた母の影響の宗教観であり、その神秘性がアイルランドのイエーツやシングの中に摂取せられ、フラマン作家のメーテルリンクに辿りついたように言われる島田謹二氏は、父にあまりに密着して驚くほどである。
 そして私にも難解の詩が幾つかある第一詩集「砂金」を男のひたむきな失恋の詩と述べられ、父の詩は情緒のみならず、深く読みぬくと思想的社会観や人生観が詩の裏に鮮明に隠されていると言われる。
 佐藤朔氏もランボウ論批評に心を寵められ、父の教え子の小説家、井上友一郎氏、寺崎浩氏、新庄嘉章氏なども心なつかしき思い出を寄せられている。先般、父の童話「不思議な窓」をはじめに、小川未明等三百編でアニメ映画を作り、イタリーのグランプリを獲得された木下忠司氏も童話論を下さった。この号は、慶光院氏との合作ゆえに、すべて良かった、とそれのみ思う。
         (詩人)
(『毎日新聞』1981年6月26日夕刊)

*大島博光「香りもない花束──わが師西條八十の思い出に

ふたばこエッセイ
西條八十の横顔

西條八十が1970年8月12日に没して44年になります。
このたび、西條八束著、西條八峯編「父・西條八十の横顔」が増刷になりました。
当記念館でも取り扱っておりますので、ご注文ください。

西條八十
西條八十全集

西條八十全集5

西條八十全集2

西條八十全集3

西條八十全集4

西條八十全集
西條八十

西條八十全集の最終巻『別巻 著作目録・年譜』が7月に完成し、全集が完結しました。

西條八十

博光が編集会議に出たと日記に書いた1989年7月から25年になります。編集委員の多くが故人となっています。とりわけ、中心だった西條八束さんが全集完結を見られなかったのが残念です。

西條八十

内容は西條八十著作目録、主要雑誌目次一覧、西條八十年譜からなっていますが、すべて詳細なものです。
特に『蝋人形』全巻の目次(合計254頁)は役に立ちます。

蝋人形

戦争のため終刊となった1944年2・3月合併号や1月号は戦意高揚の詩が目立ちます。静江とつながりのあった楊明文の名もあります。
 香りもない花束
  ──わが師西條八十の思い出に
                    大島博光

いつか わが身もこころも老いさらばえて
遠い春の日をはるかに思いかえしても
すべては茫漠とかすんで 墨絵のようだ
だが墨絵ながらにわたしは書いておこう
わが師西條八十の思い出のはしばしを
先生にささげるには あまりに貧しく
色どりもなく香りもない花束であろうと
   *
思い出せば わが春の日も輝いていた
あの六月の 奥利根のみどりのように
われら 十人あまりの仏文科の学生を
先生は 水上温泉へひき連れて行った
まるで 小学生たちの遠足のように・・・

夕ぐれて 西日がまぶしく射していた
宿の広間には 膳と酒とが並べられ
詩人の司祭する 青春の祭りが始まった
おお 湧きあがった笑いよ 歌ごえよ
だが 若わかしかった先生もとうに亡く
あの時の若者たちは どこにいるだろう
   *
早稲田のキャンパスの近くの喫茶店で
わたしたちは 先生を囲んで坐っていた
先生のヴェルレーヌの話がおもしろかった
ということくらいしか おばえていない
しかし そのとき 先生の前にあった
チキンライスのだいだい色だけは
鮮やかにいまもわたしの眼に見える
   *
その頃わたしは やみくもに反抗を養っていた
ひとりよがりの コップのなかの反抗を──
そうして卒業論文にランボオを書いた
いかめしかった吉江先生とならんで
微笑みながら先生はそれを講評された
   *
その後 わたしは先生の近くで、八年
「蝋人形」の編集をすることになる
おお 柏木三丁目の西條邸の茶の間よ
赤松に石燈籠をあしらった芝生の庭よ
女子大生だった嫩子さんが姿を現わす

わたしは二日も三日も酔いつぶれたり
あやまちやふてぎわを犯したのに
先生は一度もわたしを叱らなかった
   *
いつか先生は 風邪でベッドに臥せていた
見舞にゆくと先生はわたしに言った
「からだじゅう 霜柱だらけだよ」──
先生はイメージで感じイメージで考え
すべては泉からのように溢れ出たのだ・・・
   *
廊下の電話ボックスがけたたましく鳴った
山本五十六大将の戦死が告げられた
そんな状況の中で「一握の玻璃」は書かれた

はじめて読んだわたしはめまいがした
やわらかい言葉の ふしぎなつらなり
イメージとイメージの ふしぎな出会い
円熟の詩技がその高みであみだしたのは
まぼろしの孔雀も猿もあらわれぬめたふおる
そして 言葉の音楽 めたふいじっく
また さんぼりすむ・しゆうるれありすむ
   *
「歌謡(うた)は あれは職業(メッチェ)だからね」と
ある時 先生は自嘲するように言った
だがわたしには「一握の玻璃」の詩人と
ランバルディヤンの先生しか見えなかった
   *
先生はアルチュル・ランボオをこよなく愛し
生涯 愛しつづけて倦むことがなかった
夏 日光の「花屋敷」へ行くときも
また 伊豆の大仁ホテルに行くときも
鞄には数冊のランボオ研究書が入っていた

B29による 東京空襲は烈しくなった
先生は 下館の旧家の別荘に疎開した
そこの書斎でも先生は 大島つむぎを着て
フランス語のランボオ研究書に向っていた

やがてそれは 大冊の「ランボオ研究」となる
長い長い持続のはての みごとな果実

ある時 先生は言った「生きていたランボオは
さぞつきあいにくい男だったろうねぇ」と
反抗に燃えてパリ・コミューヌをほめ讃え
パリのブルジョワどもを罵倒したランボオを
先生は「若者の若気のいたり」と書いた
その「若者の若気のいたり」をわたしは
生涯 つづけることになってしまった
わたしはまことに不肖の弟子だった

もしも このようなものを書く機会が
もしも わたしに与えられなかったら
わたしは 先生について何ひとつとして
書かずじまいに過ぎるところだった
わたしはまことに わるい弟子だった
   *
この夏もわたしはシャルルヴィルを訪れた
駅前の辻公園を通りながらわたしは想った
五十年むかしここを歩いて行った先生のことを
大通りの紅すももの街路樹が北国(ノール)の空に
暗いえび茶色の茂みをかざしていた
そして流れるともない濃緑のムーズの岸に
石造りの水車小屋ランボオ博物館は立っていた
遠い東洋の詩人の訪れたことなど知らぬげに・・・

(一九八〇年八月十四日 パリ・コロネル・ファビヤン広場のほとりで)


<『無限』一九八〇年八月号、『大島博光全詩集』>
西條八十先生の思い出(上)
                              大島博光

 わたしが最初に西條八十先生に会ったのは、わたしが早稲田の仏文に入った、一九三一年(昭和六年)のことだった。
 そのとし、高田牧舎の前あたりにあった、早稲田の文学部の校舎は、たしか、むかしの坪内逍遙や片上伸などで知られる、緑色の洋風木造二階建から、四階建てのモダンな建築に変った。校舎の前に、ちょっとした芝生の広場があって、わたしたちはよくそこに横たわって、遊びのプランなどをたてたものだった。
 教壇に立った西條先生も、瀟洒な、ハイカラな背広に痩身をつつんだ壮年の教授だった。先生はすでに高名で、先生の作詞した歌が巷に氾濫していた.早稲田においても、先生は名物教授のひとりで、先生の講義をあてにして仏文に入ってくる学生もいた。先生はしばしば、わたしたち四、五名の学生を連れて、学校の近くの喫茶店に講義の場所を移した。それほどにもその頃は、仏文科の学生は少なかった。せいぜい、十七、八名だったろう。この喫茶店での講義は後に早稲田の伝説ともなった・・・

 早稲田のキャンパスの近くの喫茶店
 わたしたちは 先生を囲んで坐っていた
 先生のヴエルレーヌの話がおもしろかった
 ということくらいしか おぼえていない
 しかし そのとき 先生の前にあった
 チキンライスのだいだい色だけは
 鮮やかにいまもわたしの眼に見える

        *
 いま引用した詩は、一九八〇年、わたしが西條嫩子さんにすすめられて書いた「香りもない花束──わが師西條八十の思い出に」という詩から引用したものである。これを書いたとき、わたしも七〇歳であった.

 いつか わが身もこころも老いさらばえて
 遠い春の日をはるかに思いかえしても
 すべては茫漠とかすんで 墨絵のようだ
 だが墨絵ながらにわたしは書いておこう
 わが師西條八十の思い出のはしばしを
 先生にささげるには あまりに貧しく
 色どりもなく香りもない花束であろうと


 思えば、この詩を書いてからさえ、もう十六年もすぎて、わたしはますます老いぼれとなり、記憶もうすれ、思い出をかくペンもすすまない。結局、前に書いたこの詩をたよりに思い出をたぐるしかない。したがって、このあとにも引用するわたしの詩節はこの「香りもない花束」からの引用である.
           *
 それから忘れられないのは、二学年の六月未、先生がわたしたち仏文のクラス十数名を、水上温泉へ連れて行ってくれたことである。

 思い出せば わが春の日も輝いていた
 あの六月の 奥利根のみどりのように
 われら 十人あまりの仏文科の学生を
 先生は 水上温泉へひき連れて行った
 まるで 小学生たちの遠足のように・・・

 夕ぐれて 西日がまぶしく射していた
 宿の広間には 膳と酒とが並べられ
 詩人の司祭する 青春の祭りが始まった
 おお 湧きあがった笑いよ 歌ごえよ
 だが 若わかしかった先生もとうに亡く
 あのときの若者たちは どこにいるだろ

          *
 先生のランボオについての講義で、忘れられない一つの詩節がある.それは、「初めての夜」という詩の冒頭の一節で、およそつぎのようなものである。

 ──彼女は すっかり脱いだ
 すると 無遠慮な大樹は
 その枝葉を窓べに伸ばした
 いたずらっぽく すぐ近くへ そばへ


「すっかり脱いだ」彼女を見ようとする願望を、大樹の枝葉に託して、きわめて自然にやさしく表現したこの手法を、先生がたいへん愛していたことが、その講義とともに、いまも思い出される。たしか、先生はご自分の詩でも、どこかでこの手法を──つまり暗喩(メタフォル)の手法を活用されているはずである。
           *
 その頃わたしは やみくもに反抗を養っていた
 ひとりよがりの コップのなかの反抗を
 そうして卒業論文にランボオを書いた
 いかめしかった吉江先生とならんで
 微笑みながら 先生はそれを講評された


 ランボオについて書いたこの卒業論文のおかげで、わたしは先生の知遇を得ることになった。そうして卒業後しばらくして、先生の主宰する詩誌「蝋人形」を編集することになった。

 その後 わたしは先生の近くで 八年
 「蝋人形」の編集をすることになる
 おお 柏木三丁目の西條邸の茶の間よ
 赤松に石燈籠をあしらった芝生の庭よ
 女子大生だった嫩子さんが姿を現わす


 西條邸の茶の間が、「蝋人形」の編集室であった。いまは亡き横山青蛾、門田ゆたか、といった詩人たちがよく集まっていた。仕事が片づくと、西條夫人をかこんで、花札の遊びが始まった。そうして夕ぐれには、みんなで新宿に繰り出して行ったことが、楽しく思い出される・・・
           *
 いつか、先生は風邪でやすんでいた。お見舞いにゆくと──「からだじゅう霜柱だらけだよ」と言われた。
 この言葉を、わたしは驚きをもって覚えている。先生はいつもイメージで、詩のことばで、思考しているのだと。わたしはそこに、先生の溢れでる詩想の秘密のひとつを見る思いがした。

(「西條八十全集 月報11」1997年)

西條八十先生の思い出(下)
 昭和十一年ごろから博光は「蝋人形」の編集に携わるようになったが、西條八十について「寛大というか、ほとんど私に任せっきりで、私が自分の好きなようにしても、つまり当時私もシュールレアリスムの紹介などもしたり、そういう原稿を依頼したり、作ったりしていたが、先生は何にもおっしゃらずに任せていた、新しいものに共感を持って、積極的な、進取的な態度をいつも持っていた」と語っています。
 詩人の原子朗先生は「蝋人形」への博光の論文発表を西條八十が擁護したエピソードを紹介しています。

*   *   *
 私がまだ小学一、二年生のころ、すでに詩を書いていた秋野さち子姉は「蝋人形」という当時有名な雑誌に、はじめて「刹那に生く」と題する詩を発表している。それは一九三一(昭和六)年十二月号の「蝋人形」で、そのとき姉は一九歳だった。
 そうした事実を私はこの「全詩集」で秋野姉の病気はもちろん、すべてを支えぬいた中村秀雄氏苦心の「年譜」と照合させて知ったわけではない。つい先だって姉のあとを追うかのように亡くなった、やはり、ずっと「蝋人形」の中心にいた(第二次大戦後は世界的に有名だったアラゴンの『フランスの起床ラッパ』の訳者としてよく知られた)大島博光氏貯蔵のバック・ナンバーの揃いで、氏の生前確認していたことである。
 秋野さち子さんを、姉と私が呼ぶのは実姉や義姉だったわけではない。形式的な敬称や墓碑銘の「姉」でもない。日本語の接尾辞はいいかげんとはいえ、正真正銘の「詩姉」だったからである。それなら大島博光もフランス語のちからをはじめ、私にはおそろしいほどの詩兄だった。「蝋人形」の紹介と再確認も、ここで最少限必要と思うのでそれもやるが、姉の二歳上だった大島博光兄のエピソードを挿むことを先にしよう。兄の『フランス近代詩の方向』(一九四〇<昭一五>年、山雅房)の戦時下とはいえ瑞々しい進歩的な思考は、既に注目されていたが、その後「蝋人形」に発表しようとした兄の戦時下の論文に対して編集委員会が「危いのではないか」と当局の取締りや忌諱にふれる内容を恐れて論議しあっているのを知り、内容を読んだ西條八十主宰が「構わないから載せなさい。何かあったら私が処理します」と断乎として皆に告げたという感動的な場面を、私は戦後門田穣(かどたゆたか)兄から聞き、当の秋野さち子姉からも同じはなしを(当時の同人間で評判にもなったらしく)聞いたことがある。門田兄から、どこで、いつごろ、はじめて聞いたかは不思議に私は憶えている。(だが、それが大島博光兄の、どの作品だったのか、忘れている私には、ほんとうは書く資格はないのだが)新宿の大衆酒場の座敷でだった。・・・
(原子朗「秋野さち子全詩集」解説より)
西條八十先生の思い出(下)

                     大島博光

     *
 先生はいつも多忙をきわめていた。そんななかで、「蝋人形」の編集しめ切りのぎりぎりに「一握の玻璃(はり)」「牡牛の夜」などの詩がとどけられた。
 初めて「一握の玻璃」をよんだときの感動をわたしは忘れることができない。それは詩人西條八十の詩のひとつの頂点を示すと同時に、詩人の自画像そのものとなっているように、わたしは思う。

 水晶の牢獄(ひとや)のなかに、鶯を
 紅き紐もて、つなぐ夜
 かなしみの雨、しぶきつつ
 一握の玻璃うすぐもる。


 詩人の内部の深みでくりひろげられるこの創造のドラマをどれほど解説しようと、このドラマをうたったこの詩のうつくしさを説きあかすことはできないだろう。

 ちひさき業をいとほしみ、
 小指に珠をめぐらせば、
 黄なる鶯、ほの透きて、
 くるしげに舞ふ、羽ばたきの。──


「黄なる鶯」は、「水晶の牢獄のなか」で羽ばたきも、「くるしげに舞ふ」のである。──うつくしい歌をひびかせるために。詩人の内面における創作のくるしみの深さを知るのは、詩人じしんのほかにはないだろう。

 かたく、つめたく、人の忌む
 技術の囚(をり)にこもるとも、
 われ、汝(なれ)を信ず、鶯よ、
 生死(しょうじ)を超えて、たかく鳴け。


 詩人は知っている、信じている──「つめたく、人の忌む/技術の囚(をり)」にこもってこそ、鶯は「たかく鳴」くことができることを。この「技術の囚」とは、詩芸術、歌う詩法そのものである。
 その詩芸術において、詩人西條八十は、日本語におけるいわゆる文語、雅語を駆使して詩を書いた最後の詩人ということになろう。
     *
 一九六七年(昭和四二年)、先生は七〇〇ページに及ぶアルチュール・ランボオ研究』(中央公論社)を刊行された。生涯を通じて、倦むことなくつづけられた研究の集大成であった。

 先生はアルチュール・ランボオをこよなく愛し
 生涯 愛しつづけて倦むことがなかった
 夏 日光の「梅屋敷」へ行くときも
 また 伊豆の大仁ホテルへ行くときも
 鞄には 数冊のランボオ研究書が入っていた

 B29による 東京空襲は烈しくなった
 先生は 下館の旧家の別荘に疎開した
 そこの書斎でも先生は 大島つむぎを着て
 フランス語のランボオ研究書に向っていた

 やがてそれは 大冊の『ランボオ研究』となる
 長い長い持続のはての みごとな果実

     *
一九八〇年(昭和五五年)八月、パリ・コロネルファビヤン広場のほとりで書いたこの詩の終わりは、つぎのようなものである。

 この夏もわたしはシャルルヴィルを訪れた
 駅前の辻公園を通りながらわたしは想った
 五〇年むかしここを歩いて行った先生のことを
 大通りの紅スモモの街路樹が北国(ノール)の空に
 暗いえび茶色の茂みをかざしていた
 そして流れるともない濃緑のムーズの岸べに
 石造りの水車小屋ランボオ博物館は立っていた
 遠い東洋の詩人の訪れたことなど知らぬげに・・・

                            (詩人)
(「西條八十全集 月報12」1999年)
*   *   *
西條八十が亡くなったのは昭和45年(1970)8月12日で、今年は没後40年になります。若い人が彼の名を知らないのも無理はありません。
ヒット流行歌の作家として一世を風靡した西條でしたが、そのために象徴詩の詩人としての評価は正当にされていないといわれています。八十自身も「ジキルとハイドのような生活(レコード会社専属の流行歌作詞家と早稲田大学文学部の教授)だった」と書いているが、分裂した才能をどうみるのか、いくつかの評論がなされています。博光は象徴詩の詩人・ランボオ愛好家としての八十しか見えなかったと「香りもない花束」で書いています。
 西條嫩子は「父西條八十は私の白鳥だった」(1978年 集英社刊)のなかで西條八十がさいごまでランボオに執着していたことを書いていますが、そこでは蝋人形時代の博光も描写されています。
*  *  *
近くて遠い人ランボオ
                           西條嫩子(ふたばこ)

・・・二、三年前に喉頭癌で虎ノ門病院に入院した時も、父は枕頭にランボオ論の草稿をうずたかくつんでいた。そしてコバルト療法でやや衰弱気味の合間にもたえまなくペンを入れていた。死んでもこれだけは残したいなどという悲壮感ではない。掌中の玉のようなマスコットをせめてもの楽しみにいじくっているような感じだった。

 父のかたわらにいて詩人ランボオの名を聞きはじめて何十年経つであろう。父がどんなにランボオの生涯に執着をもっていても、娘の私は父を通して以外ランボオとは無縁である。私はリルケやシュペルヴィエルのような、行動的でない瞑想的な詩人のほうをずっと愛しているし興味ぶかく読んでいる。しかし、昔からよく父はひとり言で呟いていた。

 <おお、季節よ、おお、城よ、
  無庇な魂なぞ何処にあろう>

 この句は若い柔軟な心にしみこんでくるし、リズムが美しいのでよく覚えていた。父の主宰する詩誌『蝋人形』の編集をやっていた大島博光氏もランボオの傾倒者で、十三、四歳のお下げ髪の私に声をかけると、
「お嬢ちゃん、季節よ、おお城よ、ランボオの詩はすばらしいですよ」
 と両手を挙げて謳歌して涙ぐみさえしていたのだ。彼はロートレアモンなどの幻想詩人にも心酔していたが、今はその情熱を左翼にささげている由である。
 およそ、父親があまり凝り固まっているものは娘はむしろ敬遠する。父は歌う唄を数知れず書いた。またランボオの作品には私がもの心つく頃から親しんでいた。私は歌う詩にはあまり興味はないし、ランボオの名は聞きあきて逃げ出したい心持ちであった。
 しかし、ランボオ論が発刊されてみると、父の書きかたは優しい筆致なので、三日ぐらいで夢中に読んでしまった。娘が言うとおかしいけれど、彼の波瀾万丈の生涯が小説以上に面白かった。まったく一生を賭けてランボオ研究のペンを休めない父の傍にいながら、ランボオの作風や生涯の大要を知ったのはそれがはじめてだった・・・

「父西條八十は私の白鳥だった」

 西條八十先生とランボオと
                               大島博光

 わたしはここで、西條先生とランボオをめぐる、わたしの思い出を書くことから始めることになろう。
 一九三〇年代の初頭、わたしは早稲田大学のフランス文学科の学生だった。西條八十教授のランボオやヴェルレーヌについての講義を聴いたことを、わたしは懐しく思い出す。先生は細身を瀟洒な洋服につつんだ、気鋭の教授だった。ランボオの初期詩篇「乳を探す女たち」 (『アルチュール・ランボオ研究』一三八頁参照)についての、その中に歌われている繊細微妙な感覚や夢心地などについての、先生の巧みな話術による講義を、半世紀以上もたったいまも、わたしは忘れないでいる。
 その頃は、世界的な不況の暗い時代だった。中国への戦争が始まっていた。ある春の終り頃、先生は、われわれフランス文学科の十数名の学生を、まるで小学生の遠足のように、水上温泉へ引き連れて行ったことがある。夜は、詩人の主祭する、若者たちの楽しい酒宴となった。   
 また先生は、しばしば、大学の近くの喫茶店に学生たちをはべらせて、そこで講義をつづけた。この喫茶店での講義は永いこと、早稲田の名物として語りつがれたものである。
 その頃、フランスでも日本でもランボオはブームであった。アラゴンの言葉をかりていえば、ランボオは世界を覆(おお)っていた。まだシュルレアリストであったアラゴンやエリュアールたちは、ランボオの詩篇「ジャンヌ・マリイの手」を、その機関誌に発表したりして、ランボオの反抗をうけつぐ詩運動を展開していた。日本でもランボオ関係の文献が数多く刊行されていた。多くの若い詩人たちが、新宿裏の酒場でランボオを論じ、ランボオを演じていた・・・
 一九三四年、早稲田大学を卒業するにあたって、卒業論文にわたしも『ランボオ論』を書いた。わたしもランボオに心酔していたもののひとりだったからである。わたしの論文の審査主任が西條教授であった。幸いに、その論文によってわたしは先生の知遇を得て、卒業後、先生の主宰する詩誌『蝋人形』の編集を担当することになった。編集室は、当時、大久保駅近くの柏木にあった西條邸の茶の間だったから、その後八年の余を先生の近くで過すことになった。
 先生はしばしば、朝の外出の前のほんの短かい時間、書斎でわたしを相手に、倦むことなくランボオ談議をされたことを、わたしは楽しく思い出す。「ランボオはさぞつきあいにくい男だったろうね」という先生の言葉が、いまもわたしの耳の底に残っている。その言葉は恐らく、ランボオがヴェルレーヌに呼ばれてパリに出てきて、しばらくカルティエ・ラタンに滞在していた頃、機嫌のわるいランボオが、パリの詩人たちに乱暴狼籍を働いたといわれるスキャンダルに関係していたように思われる。
 先生は多忙だった。高名な詩人としての仕事、多くの雑誌への執筆、大学教授としての出講・・・ そのあいだにも、ランボオへのアプローチはやむことがなかった。彪大な数にのばる詩や歌を制作する、そのかたわらで・・・ 年ごとの避暑や折々の旅行などにも、先生はランボオ研究書の数冊をたずさえてゆくことを忘れなかった。

  ・・・いつも新しい文献を旅行先に持ち歩き、耽読していた。箱根の強羅ホテル、奈良の奈良ホテル、伊豆大仁の大仁ホテル、それから日光の梅屋敷旅館など、さまざまな楽しい想い出がそれらの文献をとりまいている。
                     (前掲書「あとがき」六六三頁)

 西條先生ほど、ランボオに心惹かれ、生涯、その「謎」を追いつづけた人もめずらしい。しかも先生は、その資質、人生において、ランボオとはほとんど相反していた。先生はみずから「あとがき」のなかでこう吐露している。

  この人の詩風はわたしのそれとは正反対である。
  ランボオがわたしを惹付けたのは、なによりもその生涯だった。幼児のような純一な理想を抱き続け、その夢と苛酷な現実との接触に粉砕した彼の悲惨な一生、──つまり彼の人間像だった。

 たしか一九四三年の暮、敗戦の色が濃くなり、雑誌の印刷用紙の配給がなくなり、『蝋人形』誌も休刊することになった。そして先生は、茨城の下館町の、旧家の別荘に疎開することになった。引っ越し騒ぎが落ちつくやいなや、書斎で、大島つむぎを着て、ランボオの研究書に向っている先生を、わたしは見た。
 戦後、敗戦の混乱をくぐりぬけて、ふたたびランボオヘの追求はつづけられた。そうして優に四十年にわたって持続された驚異的な知的追求は、一九六七年、大冊七〇〇頁に及ぶ『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社)となって、実をむすんだのである。
 ランボオほどさまざまな評価、相反するさまざまな解釈を与えられている詩人も少い。「生を変えよう」という反抗者と見る者、クローデルやダニエル・ロップスのように、ランボオをキリスト教の聖列に加えようとする者、ジャック・リヴィエールのように{実存主義風な立場から論ずる者、ローラン・ド・ルネヴィルのようにインド古代の教典『ウパニシャッド』などの思想を援用して、ランボオを神秘主義者に仕立てる者・・・ 百人百様と言ってもいい。『アルチュール・ランボオ研究』のなかで、先生はこれらのほとんどすべての論者批評家たちの言説を紹介し引用している。ルネヴィルの神秘主義論についてもかなり詳しく紹介したのち、その整合性、妥当性の欠如を指摘し批判している。さらにランボオの重要な詩篇は、原文対照に、みごとな訳詞が添えられていて、難解な詩を味わうのに大きな助けとなっている。
 ランボオは廿歳(はたち)で早くもその詩的天才を放棄し、その後、エチオピアの砂漠へ脱出し、熱砂の地で貿易商人として悲惨な生と死をむかえることになる。このランボオ晩年の謎にも、多くのページがささげられている。
 こうして『アルチュール・ランボオ研究』は、ランボオの詩と生についての百科全書ということができよう。
                                           (詩人)

(「西條八十全集 第十五巻 アルチュール・ランボオ研究 月報15」)

西條八十と『蝋人形』と大島博光

 『蝋人形』は西条八十の創刊し主宰した詩誌である。昭和五年から十九年にかけて月刊で百六十三号まで刊行された。戦前の昭和では十四年余も月刊で続いた詩の雑誌は他にない。しかも百頁近いボリュームであり、詩を中心とした文芸総合誌として大きな意味をもつ。大島博光は早稲田大学卒業の昭和十年から約八年にわたって編集を受けもつ。大島が二十五歳から三十三歳の青年時代であり、詩人としての自己形成を進めた時代である。
       ○
『蝋人形』が他の詩の雑誌と決定的に異なるのは、西条八十という詩人の特異性に因ると云ってよい。
 西条八十は象徴派詩人であり早稲田大学の仏文科教授であり、童謡や歌謡曲の作詞者でありという様々な顔をもち、しかもそれぞれの分野の第一人者であった。
 また詩人は貧乏が相場の時代に、流行作詞家としていわば詩で食えた詩人であった。こんな詩人は少ない。
 三号雑誌でなく『蝋人形』の出版が続けられたのも、なによりも西条八十の経済力があったからだ。
 涙ぐましいような薄っペらな詩の同人誌とは違い、グラビア頁をもち百頁を越すような詩誌によって「詩」そのものの社会的価値を高めようという西条八十の意図もあったはずだ。
 竹久夢二、河野鷹思、三岸節子と云った画家たちが表紙を描いているのも魅力の一つで、手にとって読んで見ようという気持にさせる詩の雑誌であった。
       ○
 大島博光の名が『蝋人形』に現れるのは「アルチュウル・ランボオ伝」からだが、昭和八年の九月から連載が始まっている。大島の卒業は昭和九年なので、卒業論文の「ランボオ論」が、ランボオ研究者であった西条八十に認められ『蝋人形』の編集をまかされたというより『蝋人形』の「アルチュウル・ランボオ伝」の連載が先だったかもしれない。
       ○
 『蝋人形』の編集者としてだけでなく翻訳詩、詩の批評など毎号のように大島博光の名が誌面を飾る。昭和十一年から昭和十七年にかけて西条八十は別にして大島は『蝋人形』の中心となって発表を続ける。さらに昭和十四年からは『新領土』に参加し楠田一郎と共に代表的詩人として認められてゆく。大島が二十四歳から三十二歳頃であり、最も有望な新進詩人として着実に歩みを進めていたものと思う。大島の『蝋人形』に発表した誌や翻訳については次頁に主なものをまとめてみたので参照されたい。
 『蝋人形』は詩だけでなく、短歌、民謡、歌謡曲、小唄、童謡、小曲などの投稿欄が総頁の半分近くなる。詩の同人誌というより投稿誌であり、各地に支部もあって結社誌的でもある。戦時色が強まる昭和十三年には「戦時歌謡」欄も開設される。
 国民詩人西条八十は『国民少年詩集』や『少年愛国詩集』『戦火にうたふ』『銃後』など多くの戦争詩を書く。
 「サムライニッポン」や「支那の夜」「蘇州夜曲」「そうだその意気」など時局に合わせた流行歌が続く。極めつけは予科練の「若鷲の歌」 だろう。
       ○
大島は昭和十四年から『新領土』に関わり、永田助太郎らと『蝋人形』を行き場を失ったモダニズム詩の隠れ場所のようにしてしまう。
 大島の編集した時代は『蝋人形』が最も輝いていた時代であるが、モダニズムの詩が最後の光芒を放ってゆくような時代であった。
 西条八十は戦後になっても大島の編集時代の『蝋人形』について多くを語らなかったというが、二人の間には多くの想いがあったことは確かだろう。大久保駅近くの柏木の西条八十宅での八年間の『蝋人形』の編集時代は、若い大島の青春時代でもあるが、内面的には苦しい時代であったと思う。
(『狼煙』五八号 特集「昭和モダニズム詩と大島博光」より)
卒論にランボオを書いたら 吉江孤雁先生がほめてくれたんだよ 卒論の中でもここ何年ぶりの珍しいくらいの出来だって それで 西條先生が自分の雑誌の編集に引っ張ってくれたんだよ だから わたしを落とした先生なんか知らん顔をしていたよ 合わす顔がないわけだ

西條先生もとんだのを拾っちゃったと思ったろうよ アナーキストにはなると思っていたんじゃない? それがコミュニストになっちゃったんだから
先生はランボオを研究していてね 僕がランボオを卒論にしたら 吉江先生がほめてくれたんだよ 西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね それで西條先生も評価してくれたわけだ

『深夜の通行人』くらいだね 戦争中に書いた中で いいものはできなかったよ

<『蝋人形』の編集時代に>
文壇へ出るチャンスもあったけれど その頃はそんなものと思っていたし

西條先生の誂えていた洋服屋が来て 僕も頼んだんだよ その頃八十円もしたよ
あの頃が華だったね(伊勢丹でもスーツをたのまれたのでは?)そりゃ だいぶあとのことだよ

「蝋人形」をやっている時にね 大学の先生の月給が二百円のころ 僕の月給が六十円だよ
ぼくがはたちすぎ 西條先生はそのころ四十歳くらいだよ 働き盛りだ 大正末期から昭和初にかけてね 童謡も作れば歌も作るし ひとつ書けば二百円くらいになるんだから 一晩でそのくらい飲んじゃうんだよ 西條先生と先生の奥さんと三人で銀座の何とかいう料亭へ行ったことがあるんだよ ふぐを食べたんだ 三人で行ってそれが三十円くらいだよ 僕の給料の半分だからね 今なら十万円くらいだとして一人二~三万円だよ 鹿鳴館っていったかな 大正から昭和にかけてね 童謡も作れば歌も作るし

お京たん そういっていたよ 下宿の娘さん 学生時代は小石川 江戸川を渡ると神楽坂
昔の花街だよ そして学校だ モダンな同潤会江戸川アパートがあってさ 今でもある?
ふぅーん (そこに住んでいた画家神原泰)知らない 直接は

「蝋人形」捨てちゃった 過去を捨てるように(**)その頃は 阿佐ヶ谷にいて

今でいう独身貴族だね 人力車代を残しておいて 飲んじゃうんだから 結核でさ
歩いて帰る元気がないんだから

昼間は二日酔いでぼぉーっとしていて ランボオなんか訳しているから よく誤訳だって言われたよ(***) でもいいんだよ 大切な所は誤っていないんだから そんな枝葉のところはどうだって 本筋を誤らなければ

一時頃までに(仕事に)行けばいいんだもの (下宿は)八畳くらいの離れでさ
食事は朝と夜 母屋の台所へ行って食べるんだよ 自由にね

わたしが編集者で定収があって そのころのボヘミアンたちにおごっていたわけだよ
その中に絵描きがいたんだ (どなたですか?)小山田二郎だよ
絵? 言えばくれたかもしれないけどね こっちは持つということに興味が無いからさ
革命とは清らかなものだよ

(卒論のデジタル保存願いが来て)
こういうのが来たよ つまり卒業論文だよ そういうことだ
その(ご自分の)あといないっていうことだよ それも吉江先生が認めてくれたからだよ

五月二十五日(水)
(朝日の連載中央線のうた阿佐ヶ谷の巻から) 阿佐ヶ谷の並木道 阿佐ヶ谷時代
ちがうよ 北口のほうだよ 書くものは? 万年筆でもいいよ
上林暁の家へ行ったよ 下駄をはいていたよ 青柳は慶応の仏文を出ていてね
家はこっち(南)のほうだ この辺だったかな 上林はこっち(北)だ そうピノチオだ(北口の中華料理店)
我々はちょっと下だから 仲間には入れてもらえなかったんだ
そのころは 西條八十のところへ行っていたから こっちは月給をもらっていたから背広なんか着ているんだよ そうすると木山捷平が「洋行帰りだねぇ」なんて言ったりしてさ こんなもんだよ みんな貧乏でさ
何て言ったっけ? 原爆のことを書いた ちょっと上のひとで 井伏鱒二だ 彼もいたよ


(尾池和子「大島博光語録」)
西條八十の戦争詩に関連して笹原常与氏が第3詩集『美しき喪失』の論評で次のように指摘しています。

 ・・・「現実世界との交渉」にむかった八十の姿勢は正当なものであったが、そうした姿勢に立ってうたわれた作品はしかし、詩的リアリティを持つに至らなかった。おそらくそのことは彼の詩精神が確固とした、深い思想を内包していなかったことに基因するものと思われる。
 繰り返し言うことになるが、詩における「思想」は「思想が思想として容易に認められるごとき」ものではないとしても、それでもなお八十の詩精神には思想が欠けていたように思われる。「思想」と言わずにそれを抽象化にむかう精神の働き、といい換えてもよいが、そうした営みを八十は少くともこれらの詩篇において欠いていたように思う。八十が戦時中の「現実」をもほとんど無批判な形で受け入れ、数多くの戦争詩を書き、やがて敗戦後の「現実」とも、そこに自己の主体を真撃にかかわらせることなくほとんど安易な形で融和していったのも、この抽象化の営みを欠いていたことが原因していると私には思われる。そして、そうした素地が、すでに詩集『美しき喪失』の中にはあった。
(笹原常与 『美しき喪失』について 「無限」44号)

この面での戦前・戦中の活動については竹久明子「西條八十年譜」にくわしく書かれています。

 昭和十二年十二月十一日、読売新聞社の委嘱により南京総攻撃に従軍するため、早朝羽田を出発した。南京陥落と同時に単身上海から揚子江を遡上し南京に到着。そして松井中支派遣軍最高司令官らの南京入場式を見た。この時の作詩「われ見たり入城式」は十二月十八日付の読売新聞に発表された。また新劇俳優友田恭助伍長の戦死をいたんで「呉淞クリークのほとりに立ちて」の長詩を書いた。一〇日間滞在して年末帰還した。

 昭和十三年九月、陸軍の要請で音楽部隊の隊長として中支戦線に従軍。深井史郎、古閑裕而、飯田信夫、佐伯孝夫らで、南京入りをし、そこで林芙美子、佐藤惣之助らに会った。また九江で久米正雄を団長とする文士部隊に合い、岸田国士、富沢有為男、深田久弥などと合宿した。文士部隊と別れ、廬山の麓の星子に一泊した。ここでの体験から「星子の夜襲」という詩が生まれた。
 五月、「少年愛国詩集」を講談社より出版した。

 昭和十四年九月初旬、講談社が「出征兵士を送る歌」募集の際、選者を委嘱された。
 この頃、刊行物の用紙統制も厳しくなり、印刷費は三度目の値上げで「鑞人形」の刊行も窮屈にな
り、頁も薄くなった。

 昭和十六年十二月八日太平洋戦争に突入。国をあげての戦時体制が強化された。
 翌年、二月二八日夜、鑞人形社主催、大政翼賛会後援の「愛国詩の夕」が日本青年館で開かれた。

 九月、日比谷公会堂での、航空記念日の記念講演会に出席、自作の詩「空の軍神」を朗読。
一〇月二七日、大東亜文学者大会が開催され、詩「大東亜の友を迎へて」を朗読した。
一二月には日本文学報国会詩部会では自作詩「宣誓詩」を朗読、戦中体制が色濃くなった。
 翌十八年、戦地へ赴く学生は次第に多くなり、教室は次第に淋しくなった。
 六月、東宝映画が海軍飛行予科練習生の生活をテーマとした「決戦の大空」を制作することになり、この時に作詩したのが「若鷲の歌」である。
 一〇月二一日、あの悲壮な学徒出陣の壮行会が明治神官で挙行され、八十は早大文学部教務主任としてそれに出席した。
 用統制限で薄くなった「鑞人形」の十一月号に詩「学窓よさらば」を、十二月号に詩「学徒出陣におくる」を発表した。
一月、「詩集銃後」を交蘭社より出版。

 昭和一九年三月に早大文学部教務主任を辞した。四月からは週に二日だけ大学に出勤してフランス詩の講義を行なった。
 一月二六日に柏木町三七七番地の自邸を一八万円で売却して茨城県下館町の間々田元吉所有の別荘に疎開した。これは大学時代の友人で同人雑誌「仮面」の仲間だった外池達之助の斡旋によるものである。外池は当時下館町長の職にあった。
 この頃、八十夫妻は東京と下館を往復し、やがて義弟三村一もここへ疎開してきて近所に住むようになった。
 「鑞人形」は二・三月合併号を最後に休刊のやむなきに至った。
 一月、詩集「黄菊の館」を同盟出版社より刊行した。
 翌年、戦局は悪化の一途をたどり、大学の教職員は空襲に備えての警備員の如きものになった。
 四月二三日の空襲で東京の事務所にしていた牛込納戸町の嫩子の家が焼失した。そして東大理学部に入ったばかりの長男八束は焼けだされ、下館に帰ってきた。
 七月に、かねて懇意にしていた海軍艦政本部第四課長だった堀江大佐が、新任地の広島から作詞の依頼をしてきた。八十は古閑裕而を誘って広島まで行く予定であったが、その折悪性の夏かぜに罹り、四・五日病臥しているうちに、広島に原爆投下の大惨事を知った。堀江大佐も消息を断ち、八十はあやうく原爆の惨事からまぬがれた。
 八十はその終戦の直前に大学に辞表を提出したが、到着が遅れたため、戦後それが八十の退職にきりかえられ学苑を追われた。
 八月十五日、終戦の詔勅の放送を夫人とともに聴いた。その感慨を色紙に次のようにしたためてい
る。
 「千里の江山犬羊に付して声なく雲はゆく、かれ くちびるを噛み裂けど、血さへ流れず秋暑し」
 八十は戦中、軍に協力し、軍歌なども多く作ったという理由から、戦犯に問われる憂慮もあったが、城戸芳彦、青木明光らの奔走によって、戦犯を逸することができた。
(竹久明子「西條八十年譜」 『無限』44号 特集 西條八十 昭和56年6月)

座談会 西條八十の詩業と人間

多くの新進を輩出した「鑞人形」「ポエトロア」

土橋治重 先生のヨーロッパ留学、およびそれに関することは、このへんにして……先生が後進を育てられた雑誌の仕事がございますね。「鑞人形」、「ポエトロア」についてお話をいただきたいと思います。「鑞人形」は昭和五年、先生が三十八才のときの五月発行になりまして、戦争中の昭和十九年休刊になっています。「ポエトロア」は戦後の二十七年、先生六十才のときの監修でして、これは三十三年に終刊、七年間続きました。このことについて「鑞人形」に深い関係のある大島さんからお願いします。
大島博光 私は昭和十一年ごろから編集に携わるようになったのですが、先生は寛大というか、ほとんど私に任せっきりで、私が自分の好きなようにしても、つまり当時私もシュールレアリスムの紹介などもしたり、そういう原稿を依頼したり、作ったりしておりましたが、先生は何にもおっしゃらずに任せて下さいました。
 そういう中で逆に先生は新しいものに共感を持って、積極的な、進取的な態度をいつも持っていたという風に思われます。
土橋 山本さんどうぞ。
山本格郎 私は「鑞人形」のむしろ投書家の立場からということになりますが、大島先生は編集のほうに参画しておられましたが、とにかく当時の「鑞人形」は読者の詩と小曲、童謡、コント、短歌などがございましたが、そのうち、詩、小曲、小唄、つまり歌謡曲、それに童謡、この四つの種目がいわゆる西條八十選ということになっている。
 ずい分私ら悪口いわれたんですが、それだけのものを西條先生がみんな選なさっているのか。私はそれはそれでいいと思うのです。西條先生の精神といいますか、エスプリというものがその雑誌全体をカバーしているので、これは一々全部集ってきた原稿を一人で選ばれるということは、これは事実そんなことはできもしませんし、私は西條八十選でいいと思っているのですが、私はその当時十七、八才のころですが、とにかく十七、八才のころというのは素晴しく書けるのですね。作品の質は別として、とにかくボリュームは多いわけです。それで詩、小曲、童謡、あらゆる部門にワッと原稿書いて送るわけです。そのうちで一つでも、二つでも載っておれば鬼の首取ったように喜んだ、そういう時代でした。
 ちょうどあのころは元西條先生のやっておられました「愛誦」とか「鑞人形」、その他に「若草」とか、それに大関五郎さんのやっておられた「新日本民謡」とか、いろんな投書雑誌がこざいまして、そういう意味では投書雑誌が花咲りだったと思うのですが、そのうちでも「鑞人形」は私は際立った存在だったと思っております。その当時の投書家仲間から逐次準同人、同人とかというのが選ばれまして、そしてその人らの作品が本欄のほうに載るようになりまして、読んでお互いに大きな刺激を持って勉強したもんでした。
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