大島生花店と静江

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


表彰状

表彰状 大島静江殿
あなたは長年業に励みつつ病夫を労わりあらゆる困難を克服して育児と家業に専心生活と経営に努力を盡くされたことは業界の範とするところであります。ここに第五回総代会の総意により表彰いたします。
昭和三十五年九月六日
東京都生花商連合協同組合理事長 嶋田親信
東京都生花商連合協同組合顧問 安井誠一郎


静江が35歳の時、生花商の組合から表彰されていました。
永年勤続などでもらえるものと違って、中身のある表彰状です。女手ひとつで必死に働く静江の姿をみて多くの同業の仲間が心を動かし、応援してくれたのでしょう。
一九九三年二月九日(火)晴
午後二時五分 静江呼吸停止
ようやく長い植物人間に終止符
     *
呼吸をしないきみがそこにいる
きみが地上にいる最後の夜のひととき

小熊さんへの手紙

小熊さんへの手紙

小熊さんへの手紙

小熊さんへの手紙

小熊さんへの手紙

<小熊忠二さんへの手紙>

花屋

店員の山本君と 昭和40年ころか


 「素晴らしき出逢い」を書いた鈴木とよさんと電話連絡がとれて、お話を伺うことが出来ました。
   ◇   ◇   ◇
 湯の丸山で静江さんにやさしくしてもらって、一生忘れられない。川崎市の小学校の同級会で文集を出すことになったので、旅の思い出として書いた。
 あの日、湯の丸山に登るとき、行けるところまで行ってみるわと言ったら、途中までいっしょに行ってあげますと言ってくれた。自分が先に歩き、静江さんは足が悪いのであとからついてきた。「○○だから・・・」と病名を言ったがよくきこえなかった。お天気もいいし、今日は帰らないことにして頂上まで行って、頂上で写真を撮ったりして帰ってきたんです。
 その後入院したと聞いて御主人(博光)の案内で病院にお見舞いに行った。自作の切り絵を額にいれて持って行ったら「ありがとう」と、話も出来た。
 自分は結婚数年で夫と父親を戦死で失い、子供をかかえて仕事してきたが、つとめあげて一人で旅に出たのです・・・。
   ◇   ◇   ◇
 「素晴らしき出逢い」のブログ記事と大島博光記念館のパンフレットや詩集「大島博光選集1」を送りましたら、御主人が立派な文学者だということは知らなかった、記念館にすぐにでもとんでうかがいたいような気持です、との言葉をそえて、布地表紙のりっぱな文集「梅の花筺(はながたみ)」と、大切にしていた静江の手紙数葉を送ってくれました。湯の丸山頂の写真を同封した静江の手紙には「さわやかで、積極的で、すべての点でお友達になりたい鈴木さんです。」と書いてありました。

梅の花筺
(発行 川崎市立御幸尋常小学校昭和九年度卒業同級会 梅和会 平成二年六月十日)
日光

鈴木とよ様
暑中お見舞い申し上げます。お元気にお過ごしでせうか。昨年湯の丸山へ御一緒に登った事が夢の様です。今年は、実力があるかどうか分かりません。足の筋肉が大分衰えています。おもての写真は、奥日光戦場ヶ原を5Km歩いた時のものですが、主人に待っててもらっては行く始末で、おさそいも出来ませんでした。7月も又、奥日光小代田原、あやめが見わたす限りでした。では又。
大島静江
84.8.6

絵はがき
 
鈴木とよ様
先日は湯の丸山で、とても楽しうございました。私たちの娘時代に得られなかった美しい自然への陶酔が山の上に待っていてくれました。写真が6日頃になりますので待ち切れずにお手紙書きました。電話番号を伺っておくのを忘れました。あの次の朝「花紋」さんの写真を撮ったお祖父さんが来て(営林署につとめています)ウイークデーでしたら誰も通らない路を通って浅間山まで連れて行ってくれると言いました。主人は行きません。鈴木さんが同行して下さったらとても嬉しいです。日時は未だ決まりませんが九月二十日前後暖かいうちにといふことです。ではお元気で。お返事お待ちします。
大島静江

◇   ◇   ◇
「素晴らしき出逢い」を書いた鈴木とよさんと連絡がとれ、お話しを伺うことが出来ました。「素晴らしき出逢い」の載ったりっぱな文集「梅の花筺」といっしょに静江の絵はがきと手紙を送って下さいました。

素晴らしき出逢い          鈴木とよ

 昭和五十八年八月末のこと。一度行って見たいと思っていた上信鹿沢温泉の紅葉館、そこは西堀栄三郎さん(第一回南極越冬隊長)が雪山讃歌を作詩された宿とか。ここで私と美しい山野草との出逢いが始まったのです。亦それにも増して忘れられない人、大島静江さんとの巡り会い、私にとって生涯を通して大きな感動でもありました。紅葉館に宿をとって三日目、地蔵峠頂上湯の丸高原にあるロッジに昼食を取りに行きました。そのうちの一軒「花紋」さんはお店の壁にたくさんの高山植物の写真が掛けられ目を楽しませてくれました。花紋のお父さんが好きで写したものだそうです。お昼を注文して、席を取ったお隣りで食事をしていた方が大島さんでした。山草のお話しで意気投合して大島さんは今日四時のバスで小諸へ出て帰る予定なので、まだ四時間あるのできのう登った湯の丸山(二〇九五米)へ私を案内して下さるとのこと、本格的な登山の服装の大島さん。私は軽装で気楽に出掛けたもので一寸ためらいましたが空は雲1つない秋晴れ二度とない機会、何とかなるだろうと甘えて、連れていっていただくことに成りました。深い雪のなかで、じっと春を待ち、季節には美しい花を咲かせてくれる山野草に魅せられた私。今思えばあの軽装で二〇〇〇米級の山へ登れた事は大島さんのご案内が良かったのでしょう。目の前で花を見て一つ一つ教えて戴いた花。松虫草、ウメバチ草、イカリ草、白山フウロウ、ツリガネニンジン、イブキジャコウソウ、イワインチン、等まるで少女の様に嬉々として私は勿論のこと大島さんも帰ることを忘れ頂上迄登ってしまいました。頂上の眺めの素晴らしいこと言葉では言いつくせませんでした。山を下りきった頃は日も暮れてしまい、大島さんはもう一泊することになり、お宅へ電話をして、私を花紋さんの御主人と紅葉館まで車で送って下さいました。
 一期一会、大島さんと私、どの様な深いつながりがあったのでしょう。大島さんのあの心のぬくもりが思い出を深め走馬灯の様に脳裏をかけめぐります。亦近い日何処かの山野草を訪ねる約束をしました。それから間もなく、大島さんから、九月の中頃、浅間の裏道であまり知られないリンドウの咲く処があるので花紋のお父さんが案内して下さるとのこと、たのしみにその日を待ちましたが、その願いも無情の台風上陸のため、断念しなければならなくなりました。其の後大島さんは体調をくずされ御一緒に山野草を尋ねることは出来ませんでしたが、私の心の中から消えることのないこの思い出を語り合いたい。一日も早くお元気になって、亦私に花たちを見に連れていって下さい。一人旅その中で触れ逢ふ数々の思い出。大島さんとの花の友情を大切に、これからも心やさしい方々と人生を楽しんでゆきたいと思います。

登山靴
大島静江 画

   *   *   *
 鈴木とよさんという方が原稿用紙に綴った文章がみつかりました。静江の人柄がしのばれて貴重です。静江が一人で湯の丸山に登っていたこと、ロッジ花紋の主人に世話になっていたことがわかりました。
 ロッジ花紋は次男秋光の一家のスキー宿としてなじみの宿で、娘のノンちゃんがアルバイトで働くなど、秋光との関係が深い印象でしたが、山野草愛好の縁で静江もなじみ客だったようです。

静江

わたしの病気と貧乏のどん底のなかでも
きみは敢然と立ち向かって くじけなかった
ひまわりのように きみはいつも輝いていた
たたかって生きる希望に 生きるよろこびに

黒を憎み くらやみに組することを拒み  
絶望を拒否したきみは 楽天主義の模範だった
きみのおかげで わたしは愛を信じることができた
きみのおかげで わたしは人間を信じることができた

(「妻静江を送る」)

スキー
家族で初めてスキーに行ったのは松代の地蔵峠で、子供たちは中学生くらいでした。
千曲川べりの祖父の家からスキーを担いで歩き、2時間ほどかかって着きました。ゲレンデといってもリフトはなくて、滑っている人もほとんどいませんでした。スキー板をはいて斜面を登る方法を教わりました。別の日にいとこの稔さんと泊まりがけで行ったときは、宿の野沢菜が美味しかったこと、稔さんがストーブを囲みながら宿の人と「大人の話」をしていたのが印象に残っています。
スキースキー />


スキー
静江の部屋にはいまもスキー場のペナントが多数飾ってあります。
40歳を過ぎてから始めたスキーだったが、その面白さのとりことなって、シーズンには毎週のように出かけ、時々男どもがおともについていった。
白馬や志賀高原、蔵王、湯ノ丸、かぐら・みつまたや苗場によく行ったが、いい雪を求めて北海道やアラスカまで行った。
いまにして思えば、こうした行動力のある静江のおかげで博光も子供たちもたくさんのスキー場で滑ることが出来たのである。

スキー
スキー
スキー

静江さんの行動力は大したものだよ 逡巡が無いし懐疑的なところが無いんだから
こっちはやる前から否定的なことを考えて どうしようかと思うけれど 彼女は悪いほうには考えない 子どもたちが結核になった時もすぐ病院へ連れて行ったよ ほんとにその性質には助けられたよ

終戦の日? 軍需工場に行っていたんだよ そうでないと徴用されるから
炭坑におくられちゃうから 戦争が終わったって聞いて よかったぁと思って
もうその日の午後に釣りに行ったよ のんきなものだよ 大会があって入らなくちゃと思ってすぐ入ったんだよ それがどんな影響を及ぼすかなんて考えもしないよ 
あとは(生活のことは)マダムにまかせっぱなしだよ いい気なもんだよ

朝はブルーチーズに黒パンを食べていたよ その頃伊勢丹で二千円もしたんだよ
飲み物はミルクだったかな 忘れた 朝食の後は 散歩へ行っていたね あの小学校の辺まで行くんだよ 夜は四時か五時ころになるとバスに乗って三鷹まで飲みに行くんだ そうなるまでは聞くも涙の物語だよ trist(トリスト悲しい)じゃなくmiser(ミゼールみじめ)だよ 親のお金で結婚式もやってもらって 居候で弟たちが戦争から帰って来て 兄貴は何もしないで その上共産党だなんて冗談じゃないって で 東京へ行くからって親父にこの家を一軒買ってもらって 残ったお金が六百円 それで花を買って商売を始めた訳だ

お嫁さんがつぶしの利かないひとじゃどうなっていただろうね そんな稼ぎのない所には嫁にやれないって引き取りに来たかもしれないね 働いたこともないのに商売をして しかしマダムは悪いほうには考えない 良いほうに良いほうに考えるんだから 私なんか やりもしないで だめだぁ だめだぁって言ってるんだからねぇ 日本のバブル期にのってさ もうかったお金で一万円もするオペラの切符を買ったり スキーに行ったり
土曜日になるとさぁーと行っちゃうんだから体が休まらないよ いくらスキーでもね
五十九歳になって病気になって 体がこうなっちゃうんだもの もう商売は止めたらと言ったら 「私の生き甲斐なのに」と言っていたよ 

親父や子どもから愛を受け取るばかりで 何も報いることが出来ないよ

マダムは急行列車だよ 停まらないんだから わたしはみんなの後から
もうだめだと言いながら 息を切らしながらついて行くほうだ

マダムはね 次はどこへ行こうって しょっちゅう考えていたよ
今度の休みはどこへ行こうって 山にスキーに 世俗的なことにはあまり染まらずにね だってそうだよ 頭の中は オペラやなんかの世界にいるんだもの

(尾池和子さん聞き書き「博光語録」より)
 私が子供だったころ、一家の大黒柱としてたくましく働き、太陽のように皆を愛し、励ます母を見て、いつか母の一生を書いたらすばらしい人間ドラマが出来上がるだろうなと思っていた。しかし自分が大人になってしまうと、生活に追われて余裕がないためか、感受性が鈍くなったためか、感動的なドラマを書くのは夢となってしまった。

<花屋のお母さん>
 父が詩人という,経済生活と無縁の職業だったので、母が花屋をやって家族を養ってきた。はじめは魚鶴という魚屋の店先に花を置かしてもらって商売していたが、やがて篠塚さんの地所に店を開いて拡大していった。おさんどんは父がやり、子供も米とぎや風呂焚きなどをやった。母が仕事から帰ってくるのはいつも夜八時過ぎだった。自転車が停まる音がすると子供たちがわっと玄関に飛び出して「今日のおみやげは何?」と、お菓子をもらうのが楽しみだった。
 クリスマスと歳末が店が一番忙しいときだった。父も夜遅くまで店に出て働くので、子供たちは家でラジオを聞きながら寝るのがクリスマスの過ごし方だった。
 子供たちが成長すると、重要な戦力として働くことになった。暮になると家中が花の桶で足の踏み場もなくなった。夜、店から帰ると父の料理を食べてから、皆で仏花作りにとりかかる。はげましに父がかけるロシア民謡のレコードを聞きながら花束を作っていった。母は一番最後に帰ってきて毎晩二時三時まで夜なべ仕事をした。大晦日は一日中、戦争のような店売りの混雑が続いた。夜になり客足も下火になると「紅白が始まったのね」といって、食事をしてあとかたずけを始める。ゴミの山を運び終わって店を閉め、除夜の鐘を聞きながら家路につくのだった。家では父がごちそうを作り待っていた。それからほくほくして売上げを数える。正月の二日問は死んだように眠り続けるのがお母さんだった。

(追悼文集『大島静江をしのんで』大島朋光「母の思い出」から)
一九五九年の秋、紀子が銀座の楡の木画廊で個展をした。そこへ雨の中を大島さんご夫妻お揃いで見にきてくださった。奥様は「雨でお客さんも少ないから思い切ってお店を閉めてきてしまったのよ」と言っておられ、そのあと、夕食をご馳走してくださった。奥様は明るい方で、お店も順調にいっているようだった。「うちの店はジャルダン・デスポアール(希望の園)というのだけれど、私が留守の時は、主人が気難しい顔をして奥で店番をしていると、せっかくお花を買いにきた人が、みんな逃げ帰ってしまうのよ」と言われると、大島さんが笑って、「僕が店番をしていると、たちまちジャルダン・デゼスポアール(絶望の園)になってしまうんだよ」と言っておられたという。
(西條八束「大島博光さんをしのんで」『詩人会議』2006年8月号)
■上京して三鷹に住み、『フランスの起床ラッパ』を出したと言っても、あの頃は大変な時代だったし、しかし一番大変なのは奥さんの静江さんだった。群馬県のイイトコロのお嬢さんだったらしいけど、とにかく大島先生は身体が悪かったということもあるが大学を出て一度も就職したことがない人だった。収入があるわけないから静江さんが花束を持って売り歩いた。少し儲かって自転車を買って、また儲かってリヤカーを買って、それから店を買って大島花屋さんを始めて評判になった。そうやって全部奥さんが生活を支えたんですよ。
 博光さんは四十二歳で胸の手術をして肺を片一方とってしまった。二階に上がってくるにもハアハア息を切らしていた。それなのにクラシックのレコードを持って聴いていた。ワレワレは誰もそんなもの持てなかった時代にです。でも、そのほかに何もない。茶碗もないんですよ。
(『狼煙』57号「よみがえる詩人 大島博光」小熊忠二)