詩集「冬の歌」

ここでは、「詩集「冬の歌」」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


断片1
断片
断片3
断片4


(詩集『冬の歌』1991年)



早鐘が鳴ったら


早鐘が鳴ったら



(『冬の歌』1991年)
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 きみが地獄の岩に 
                    大島博光

きみが地獄の岩にくくりつけられて一年六ヶ月
きみは生きながら地獄におちたエウリュディケ

運命はきみを生ま殺しになぶり殺そうというのか
いつはてるともない 長い長い残酷な責苦・拷問

きみは 生と死のあわいのうすら闇のなか
きみは 声とならぬ叫びと暗い暗い眠りのなか

しかし わたしもまたあのオルフェウスのように
きみを 地獄から連れて帰ることはできない

わたしは井戸に落ちるように 不幸に落ちた
きみの不幸は そのままわたしの不幸なのだ

不幸は わたしをなめしむしばみ傷めつける
不幸は わたしの扉を揺すり軋らせ呻かせる

不幸は わたしの眼を夢を理性をうばいさる
不幸は わたしを自然よりも小さな人間に変える

おお 不幸にひび割れた鏡よ ゆがんだ鏡よ
孤独に狂いわめき孤独を憎む男がそこに映る

わたしの手のなかには もう何んにもないのだ
わたしの腕のなかには もうだれもいないのだ

わたしももう 失うものとては鎖しかもたず
明日の日を夢みるしかない人びとのひとりなのだ

    *

オレンジ色の わたしの夕映えの空を引き裂いて
いきなり稲妻が走り 嵐が襲って来ようとは

もう擢も波にもぎとられた難破船だ わたしは
甲板のうえには 瀕死の美女をひとり乗せて

もやい綱の切れた酔いどれ船だ わたしは
星も映らない夜の河を海へとさまよいくだる

暗い夕空の糸の切れたはぐれ凧だ わたしは
きりきり舞いして闇へ落ちてゆくだけだ あとは

生きそこね死にそこねて まるで亡霊のように
冬の街をよろよろよろめきながらさまよいながら

わたしは待っているのだ 最後の幕が降りるのを
この苦しみの舞台から おのれの消えさるのを

もうすぐに 黒ぐろとした長い夜がやってくる
もう明けることのない 永遠の夜がやってくる

    *

ひとは言う 冬の日の嘆きや絶望にのめりこむな
青空の日を忘れて 雪や雹ばかりを言いふらすな

ひとは言う きみは泣き虫だ ペッシミストだ
おのれの痛みばかりを泣きわめく エゴイストだ

ひとは言う たくさんの星が落ち空が移って
世界の歴史の歯車が音を立てて廻っているとき

もっと大きな不幸や悪と 血みどろに闘っている
雄々しいたくさんの人びとを思ってもみたまえ

おのれひとりの不幸ばかりにうちひしがれて
どうして大きな死や不幸とたたかえるだろうか

かつて きみが声も高くうたってみせた あの
「鳩の歌」や未来の歌は どこに行ったのか

あれは 夏の日に鳴りひびいた夏の歌だった
あれはもう風に消えた口笛だ とでもいうのか

ひとは言う おのれの内部ばかりを覗きこんで
むらがる悪夢を描いたとて 何んになるだろう

そうだ そのとおりだ われもまたふるいたち
ひとをもまたはげますことこそ 詩人の任務だ

不幸のどん底からさえ 反抗者のように立ち上れ
きみが倒れたら ほかの人びとがあとを継ぐだろう

若木が伸び ヒコバエも芽ばえてくるだろう
新しい風が吹いて 生は死に勝利するだろう

               一九九〇年八月

(詩集『冬の歌』1991年)

雪の博光
 清水のような流露

 関屋綾子夫人へ──一九八六年「赤旗」四月二十三日付
               「霧が晴れ渡る感動」を読んで

もう 長い人生を 生き抜いてきたあなたが
もう けっして若くはないキリスト者のあなたが
「誰に誘われたのでもないのに 義務や責任の
思いからでなく 自然な心の願いのままに」
「宮本百合子没後三十五周年記念の夕」へ駈けつけた

そうしてそこに見いだした感動や よろこびを
あなたは すばらしいひとつの詩のように書いた
まるで少女のような 澄んだ眼とこころで

「……まだ十代の若い日の自分の胸の中にあった
自分自身の現実の生活にはない何かと
今 長い長い年月を経て再び出会った
とでも言えばよいのかもしれない……」

それこそ 他者の中におのれを見いだすということ
それこそ 愛と呼ばれるほかはないものであろう

そうしてそこに 平和 しあわせ 真実をめざして
神を信じるものと信じないものとの出会いと共同がある

そうしてそれほどに 新たな希望をわたしに与え
人間の信頼へとわたしを奮い立たせてくれるものはない

あなたの詩 その清水のような流露の底には
何んの飾りもない もう飾りをも必要としない
砂金そのものの輝きと うるおいとがある
それに心ゆすぶられて わたしはいまこれを書いている

また 宮本百合子を語った宮本顕治の話について
あなたは深い理解に立って いみじくも書いた

「……かつて百合子と助け合いながら暮らされた
素朴で真面目な生活のひびきをきく思いがした
一つの道標をみすえて互いにいたわり尊重しつつ
そしてまた あくまで互いに一人の座をしっかりと
守りながら前進するお二人の生活を感じて
私は素直な尊敬の念を禁じ得なかった……」

おお 宮本百合子の人間 精神 文学にたいして
かつてこのような接近《アプローチ)を語ったものはなかった
宮本百合子の偉大にたいして それと言わずに
かつてこのような敬意(オマージュ)をおくったものはなかった

かつて この宮本百合子と宮本顕治を拷問にかけ
酷暑と厳寒の牢獄に投げこんで迫害した者たち
その菊の紋章をつけた体制の非人間性 野蛮 残忍と
この接近(アプローチ) この敬意(オマージュ)の清水のような流露とは
おお なんという鮮やかな対照をみせていることだろう!

「……とじ込めた霧が晴れ渡って行くように
そこにはっきりと何かが見えはじめてきた……」


<『赤旗』日曜版1986年5月11日、『冬の歌』>
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大島博光詩集「冬の歌」──その詩業と愛の詩に──
                                鈴木初江

 戦後の私の精神革命といったら大げさかもしれないが、〝戦争への抵抗″を教えてくれたのは、実にこの大島博光訳のアラゴンやエリュアールの詩であり、なかでも私を深くとらえたのは「フランスの起床ラッパ」(アラゴン)や「自由」(エリュアール)であった。
 その大島博光は、戦争中エリュアールの詩集をふところに、燈火管制の暗い新宿の街をさまよっていた。「エリュアールはわたしにとって光だった」と。また、一九九〇年版の「アラゴン」の序には、あの忘れられないことば「そこに変えるべき生があり、変革すべき世界がある限り、詩人は希望をかかげつづけた」がある。
 これらに感動し影響をうけたひとは決して少くないだろう。七月二十一日の「冬の歌」出版記念会でも、また最初の詩集「ひとを愛するものは」の出版記念会の時にも、そのことを語ったひとは何人かいた。それほど戦後の日本の荒廃した土壌と精神のなかに、反省と慙愧と、希望と光をもたらしたものはなかった。私がその後有志とともに「戦争に反対する詩人の会」の結成をよびかけたのも、下地にそれらがあったからかもしれない。〝詩人のあり方″を問うことは自らの〝生のありか″をたしかめることであった。そういう意味でも大島博光は日本の詩人に、かけがえのない贈りものをしてくれたのである。
 前おきが長くなった。本題の「冬の歌」の出版記念会では一応のお世辞をさしひいても前詩集より評価の高いものであることは、大方の一致した感概であった。
 愛について、冬の歌、鳩の歌など七章からなるこの詩集の帯に前述の「そこに変えるべき……」の40文字がしるされている。出版記念会でも「冬の歌」の九篇が絶讃された。今は再起不能といわれる静江夫人への限りなき愛の詩である。八十才をすぎた大島博光のこの溢れるような愛の泉。アラゴンがエルザを愛したように、エリュアールがドミニックをいとしんだように、はかりしれない愛の切なさでもある。次の詩は私の好きな一篇である。

 〝そこでわたしは眠ろう きみといっしょに
 いつまでも われらの墓場の 石のしとねに

 たとえ 白いカルシウムの破片(かけら)となろうと
 ひと握りの灰となり乾いた骨くずとなろうと

 生ける日の 温かかった 春の日のように
 そこでわたしは眠ろう きみといっしょに

 なんとむかしは 二人して楽しかったことか
 なんと生ける日は二人して悦び泣いたことか

 日日 赤いバラの花ばなに埋もれてのように
 その思い出を抱いて二人して眠りつづけよう

 石のなかのくら闇のなかでも沈黙のなかでも
 わたしは死のくちびるで なお歌っていよう

 きみの愛が わたしを生きさせてくれたと
 きみの愛に わたしは死ぬことができたと″
 (わたしは眠ろう きみといっしょに)

 エリュアールがその詩に、愛するひとの名をかく代りに〝自由″とかいたというが、大島博光は、その逆に党へのうむことなき愛をうたいながら、静江さんへの愛を豊潤に高揚させたのではないのか。私が〝静江さんの元気な時にこの詩をかいていたらどんなに静江さんが喜んだろうに″といったら〝元気の時には日本の男はかけないのだよ″と誰かの野次(?)。心の片隅でそれを肯定しながら、そして「冬の歌」の限りなき哀切をかみしめながら、しかもなお妻への愛をかくまで美しくはげしくうたった日本の現代詩人はかつてなかったのではないか、と思うのである。
 もっともランボオ的であった大島博光は、ランボオ的なものへのめりこむことなく、ランボオの抵抗精神を継ぎながらランボオを超えてアラゴンやエリュアールの詩精神に入りこんだ。つねに堂々と党をうたい、ついにおおらかに妻をうたった八十一才の大島博光には〝変革すべき世界″への希望がみちみちているのであろう。
   (青磁社発行 定価一、七〇〇円)

<『稜線』 No.40 1991年10月>
死ぬのはやさしいが生きるのはむつかしい
     ──エセーニンについて              大島博光

わたしの若かった頃* エセーニンが流行(はや)っていた
「月は空に(ルナ・ネーボ) 母はふるさと(マーチェンカ・ロドニーキ) おれ(ミーヤ)はボリシェヴィキ」

だが 美しくひびきあうこの詩句とはうらはらに
ついにエセーニンはボリシェヴィキにはなれなかった

あるとき エセーニンはマヤコフスキーに毒づいた
「アジ・プロ」を書いて詩を殺したのはきみだと

一八九五年 彼はコンスタンチノヴォ村に生まれ
九歳で村を出て 「ロシアの吟遊詩人」になった

一九二四年 彼は生まれ故郷の村に帰ってきた
だが村びとには 彼はただの風来坊でしかなかった

村ではすべてが変っていた コムソモールの妹たちは
聖書のかわりに部厚い『資本論』をひらいていた

村では 新しい若者たちが新しい歌をうたっていた
エセーニンはもう 若者たちには色褪せて見えた

「ああ故郷よ なんとおれは笑われ者になったことか
恥ずかしくて 落ちくぼんだ頬が乾いて赤くなる

村びとのことばが まるでおれには外国語のようだ
生まれ故郷で おれは縁もゆかりもないよそ者だ」

村には新しい風が吹いていた 共同農場があり
集会があり みんなの発言があり 笑いがあり

若者たちの歌うのは もうエセーニンの詩ではない
「ここには おれの詩もおれ自身ももう用がない」

「おれの片足は 過去のなかにはまり込んでいる」
古いロシアの歌に捉われて 彼は前へ進めない

それから二年後 彼は最後の別れの詩を書く
「友よさよなら きみの額を曇らせないでくれ

友よ この人生では 死ぬことは新しくない
だが 生きることは もっともっと新しくない」

こうしてエセーニンは 三十一歳で自ら死んだ
マヤコフスキーは それに答えてこだまを返す

「この人生では 死ぬのは 死ぬのはやさしい
だが人生を建設するのは はるかにむつかしい」

そうしてアラゴンは書く──エセーニンの悲劇は
彼が夢の転換を なしえなかったところにある──

注* わたしの若かった頃──一九三〇年代初期、このエセーニンの詩句がわたしの仲間うちで誰となしに朗誦されていた。それが正しいエセーニンの訳詩なのかどうかを、この詩の作者は知らない。『今野大力・今村恒夫詩集』(新日本出版)の扉には、一九二九年九月二四日の日付で、今野大力が書いた色紙が掲載されている。そこには「エセーニンの詩から」という肩書で、つぎのように書かれている。「月は舌/空はくろがね/母は故郷に/俺はボルシェヴィキ」。
 なお、この「死ぬのはやさしいが……」は、主としてアラゴンの『手の内を見せる』の中の、「夢の転換」Le tournant des revesに拠る。

<『詩人会議』1986年9月号>

 孤独な散歩著

わたしたちはいつも いっしょに歩いた
道ばたのベンチに 二人ならんで坐った


それは 天城峠をくだる遊歩道であったり
人影もない 八幡平の裏歩道であったり

それは パリのリュクサンブール公園の木かげ道であったり
「花のドーモ」からシニョーレ広場への石畳であったり

それは ふるさとの千曲川の土手であったり
終(つい)の住みかの三鷹の町の裏通りであったり

夏は ひかげのベンチでやぶ蚊に刺された
冬は ヒヨドリを見て日向ぼっこをした

きみはハギの花むれに飛ぶ蜜蜂に興じ
道ばたの ハナミズキの紅葉を愛した

いまわたしは ひとりぼっちで歩いている
ひとりぼっちで わたしはベンチに坐っている

わたしはまた 孤独な散歩者になった

(『冬の歌』1991年)
 宮本百合子とマヤコフスキーと
                          大島博光

「わたしの愛の小舟は難破した」──そう書き遺して
「イリイッチ・レーニン」の詩人マヤコフスキーは
一九三〇年四月十四日 みずからの心臓を射ち抜いた

そのときモスクワにいあわせた宮本百合子の伸子は
作家クラブの広間で行われた告別式につらなった
赤い旗と花に埋もれて 詩人は棺に横たわっていた

広間の敷居を越えて棺の足もとで 伸子は見た
「棺からぬっとはみ出すように突っ立っている
マヤコフスキーの大きい大きい 黒靴の底を

そこに光っている 二つのへりどめの三角形の鋲を」
伸子はその光る鋲に見た──「革命の速度におくれまいと
つねに歴史の先頭に立とうとした」マヤコフスキーを

伸子はその光る鋲に見た──「特別大きい額と
特別大きい燃えるような眼をもって いつも
先を急いで歩いていた」マヤコフスキーの姿を

またその夜 工芸博物館の大講堂の「文学の夕べ」が
詩人を追悼し フェーディンがマヤコフスキーの詩を
朗読したのを 伸子はその耳に聞いてきたのだった

それはあの詩だった──エセーニンが自殺したとき
マヤコフスキーが答えて書いた あの詩だった
「この人生では 死ぬのは 死ぬのはやさしい

だが 人生を建設するのははるかにむつかしい」
おのれも奮いたち ひとをも奮いたたせた詩人の詩が
みずから難破した 彼自身の喪の中で読まれようとは

それは二重にも三重にも悲壮なものだったろう
百合子は書く「なまなましい傷心と生の確信とが
不思議な激情となってまじりあっているようだった」

「たたかう階級にすべての詩をささげる」と歌った
あのマヤコフスキーがみずから難破して果てた
そのわけは秘密は ああ だれにもわからぬだろう

やがて伸子は 日本に帰る決意をかためる
「もしかしたら自分の挫折があるかもしれないところ
もしかしたら自分がほろぼされてしまうかもしれないところ

しかし そこに伸子の生活の現実がある そして
伸子が心を傾けて歌おうと欲する生活の歌がある」
宮本百合子はこの伸子の決意を実践し まっとうする

愛と闘いの十二年 彼女は酷暑の牢にぶちこまれる
あらゆる迫害と拷問が 彼女のうえに襲いかかる
しかし何ものも彼女の決意を砕くことはできなかった

戦後いち早く わたしは霧のなかで聞いたのだった
「歌ごえよ おこれ」の 夜明けへの呼びかけを
地獄をたたかい抜いてきた偉大な宮本百合子の声を

<『文化評論』1987.3>

 不幸は忍び足で

不幸は忍び足でいきなり やってきた
パーキンソン病症侯群の姿をして
きみは 萎えて動かぬ身を横たえる
病院のベッドの しとねの墓場に

眼に見えぬ 得体の知れぬ病魔に
あの輝いていた眼から 光は消えうせ
子供をおぶって メーデーに行ったり
大雪(タイセツ)を歩きまわった脚も動かない

いま病いと老いとが 生きながらに
わたしたちを生ま裂きに 引き裂いた
かつて 悦びにあふれたうつわは
一挙に 悲しみのうつわと化した

四十年 きみは 優しい逞しい手で
わたしを支えて 生きさせてくれた
四十年 わたしは きみを抱いて
春の香りに酔って うたってきた

四十年も 愛して生きるものには
けっして長すぎはしない 短かすぎる
四十年の愛も 過ぎれば一瞬の夢だ
おお ひとの渇きには 限りがない

病院のベッドの しとねの墓場に
きみはもう傷ついて 傾く太陽
わたしたちには 毎日が別れなのだ
毎日が 末期に見上げる空なのだ

いつも窓には 黄色い灯がゆれていて
そこに きみのやさしい影が映っていた
いつも家には 明るい灯がともっていて
その下で きみは待っていてくれた

そこにいつも きみがいるということに
わたしは あまりに 慣れすぎていた
そこでいつも わたしを迎えてくれる
きみの愛に わたしは甘えすぎていた

おお 失ってみなければ わからない
しあわせの大きさと その深さと
おお 失ってみなければ 気がつかない
人間のこのうかつさと 愚かさと

わが家のなかは もう夜よりも暗い
扉をあけても だれも答えてくれない
明るい灯を ともしてくれたきみは
そこには そこには もういない

なにひとつ 思いわずらうこともなく
バラ色の夕焼け雲などに見とれながら
明日の日を夢みながら うたいながら
わたしの帰ってゆく家は もうない

運命は わたしに残しておいたのか
こんな冬の日の悲しみと 試練とを
春の歌ばかり 歌ってきたわたしに
いまは 冬の歌をうたえというのか

光薄れたわたしの眼のかいま見るのは
黒くロをひらいた 底なしの井戸穴
わたしは 柿の枯枝にとまっている
灰色のひとりぼっちのひよどりなのだ

いやいやきみはひとりぼっちじゃない
そんな泣き虫になるな かかずらうな
おのれひとりの不幸や 悲しみばかりに
雪は きみにだけ降るのではない

いま怒りが日本じゅうに渦巻いている
腐肉に群がる ハイエナや禿鷲どもが
支配者としてのさばっている国で
みんなが日日の収奪や圧制と闘っている

きみにもたくさんの仲間がいるはずだ
ひとをうちのめす死や孤独や絶望に
うち勝とうと みんなと腕を組んで
きみもまた たたかってきたはずだ

忘れるな たくさんのひとたちの手が
きみをしっかりと支えてきたことを
忘れるな たくさんの他者たちが
きみを 車座に加えてくれたことを

大事なのはいつも立ち上がってゆくことだ
おのれの傷口や 涙のなかからさえ
最後まで希望を太陽を抱いてゆくことだ
それが冬にうち勝つ きみの冬の歌だ

            一九八九年六月

詩集「冬の歌」
 おれたちの希望には

きみとぼくとは おなじ風に吹かれ
ぼくときみとは おなじ夢を語りあう

きみとぼくとは おなじ重荷を背負い
ぼくときみとは おなじ涙をながし

日日 毛をむしりとられる羊たちの
おなじ痛みと怒りを わかちあう

きみとぼくとは おなじ重石(おもし)に坤(うめ)き
ぼくときみとは おなじ敵をもつ

きみとぼくとは おなじ闇を見つめ
ぼくときみとは おなじ光をみいだす

きみとぼくとは おなじ鳩をはぐくみ
ぼくときみとは おなじ春をめざす

そしてきみとぼくとは おれたちとなり
おれたちは 同類となり同志となる

かつて ひとりものだったおれたちは
他者を見いだして 多数者となる

おれたちは学びとる 正義と真実は
多数者のなかにこそあるということを

おれたちは学びとる 春も未来も
多数者のなかで用意されるということを

そして 神秘やまやかしがあったら
あばき出して 白日にさらしてやろう

「きみたちの旗はぼろぼろになった
きみたちの夢はもう 潰(つい)えさった」 と

大道から逸(そ)れてしくじった連中を見て
おれたちに石を投げつけるやからには

破れも汚れもない おれたちの旗を
吹く風に高く ひるがえしてやろう

おれたちの希望には くもりがない

<『赤旗』日曜版 1991.1.6>

人生とボードレールの一行と

「人生は ボードレールの一行にも如かない」
これは 有名な芥川竜之介のアフォリスムだ

すでにペッシミストだった中学生のわたしは
この竜之介の一行に酔った 酔っぱらった

そのとき わたしはまだ人生を知らなかった
ボードレールについても 何も知らなかった

わたしは生きて苦労して 少しばかり人生を知った
ボードレールについても 少しばかり勉強した

そしてむかし酔ったこの一行を読みかえしてみた
 「人生は ボードレールの一行にも如かない」か

いつか老眼鏡で読みかえしてみて わたしは見た
そこにひとりの芸術至上主義者の絶望の探さを

だが竜之介には それはやはり真実だったろう
自ら生を絶って 彼はそれを実行したのだから

それでもやはり それは絶望をみずからに慰める
トリックではなかったか レトリックではなかったか

地球よりも重いとさえいわれる この人生が
どうしてボトレールの-行にも如かないものか

そのボードレールは 一八四八年*の革命を裏切って
芸術のための芸術の理論の創始者となった

そんな ボードレールの一行であるからには
人生を賭けるに足るものではありえなかろう

この世には ひとを悪酔いさせる酒も流れている
危うく わたしは人生をあやまるところだった

 反 歌

しかし死刑執行班の 銃声のひびく地獄の中でも
頭を高くあげて 希望を歌いつづけた詩人がいた

アラゴンはわたしに教えて はげましてくれた
「人を愛することだ 人生は生きる値うちがある」

 注* 一八四八年──「一八四八年、フランス人民が一瞬、積年の圧制を永遠にくつがえしたかに見えたとき、そしてひとびとが社会的共和制の最初の夜明けのひかりを見たとき、詩人たちさえも一瞬、自分のまえに現実世界の展望のひらけるのを見た。そしてボードレールも、そう、あのシャルル・ボードレールさえも、労働者詩人ピエール・デュボンの熱心な擁護者となり、かれの作品のなかの詩の未来をほめたたえたのだった。しかし、フランス人民がとりのけようとした暗鬱な重石(おもし)が、ボナパルチスト一味の長靴によってふたたびおろされてしまうと、それだけでボードレールは、一八四八年に書いた自分の論文を、革命の日の熱狂だといって、恥知らずにも投げすててしまった。こうしてかれはじつに、あの詩の歴史をゆがめるという構想の創始者となり、(芸術のための芸術の理論の創始者となり)あらゆるレアリズムを否定し、この分野における恥ずべき議論の公認の供給者となった・・・」 (アラゴン「第二回ソヴエト作家大会における発言」飯塚書店『アラゴン選集第二巻』七七ページ)

<『詩人会議』1986.4>


夕映え

いつか わが日も たそがれて
ひとり わたしは 酔いしれて

むなしく 想い 恋うるのは
遠い 春の日の バラの花

暑い 夏の日の 遠い旅
モンパルナスの 恋人たち

歌い そこねた 詩のことや
書き そびれた 思い出や

空に オレンジの うろこ雲
いつまで つづく このかがよい

だが うすら明りの あるかぎり
まだ 闇ではない 夜ではない

(1984.3)
<詩集「冬の歌」>
あとがき

 この詩集には、『大島博光全詩集』(一九八七年)後の作品が収録されている。ただし、「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」「ランボオ」などが『全詩集』から再録されている。
 わたしは「八○歳になった」という詩で書いたように、いくらか長生きすることができた。そのおかげで、老いの日の不幸や悲しみや苦しみをなめることにもなった。数年前、妻の静江がバーキンソン氏病という難病にかかって、病院のベッドにくくりつけられることになった。もう口もきけず、顔の表情もほとんどなく、ミイラのようになってなお生きている。こうして毎日が生き別れ、死に別れのような数年をわたしは過した。初めはこの不幸にわたしはうちのめされた。わたしは危うくおのれを見失うところだった。この危機をきりぬけるためのように、しかしそんな意識もなしに、この不幸をわたしは詩に書いた。あるいは不幸がわたしに詩を書かせた。こうして「冬の歌」は書かれた・・・。
 ところで、一九八九年に始まった、東欧の社会主義諸国における激動─崩壊、混迷ほどに、スターリン体制─スターリンの逸脱と犯罪の結果をまざまざと見せつけたものはない。それは社会主義・共産主義に希望を託していた、世界じゅうの善意の人びとの夢と期待を無残にもふみにじるものだった。スターリンの逸脱と犯罪は、社会主義の名における民主主義の圧殺、社会主義そのものの否定にほかならなかった。それはまさに「人類にたいする犯罪」ということができよう。すでに一九六三年、アラゴンはスターリン批判を念頭においてこう書いたのだった。
 「・・・マルクス主義はすべての人びとに語りかける。科学的仮定としての賭から語りかける。したがってこの賭を危うくするような誤りは人類にたいする犯罪の色合いをもつ。本来、マルクス主義のなかには、逸脱や犯罪の席はないし、あってはならない。それはマルクス主義の否認であり、裏切りであり、背反である。重要なことはマルクス主義の修正ではなく、反対にマルクス主義の復元である。」(拙著『アラゴン』新日本新書二一一ページ)
 わたしの詩もこの東欧の状況をいくらか反映しているが、どこか受け身の態度であるように思われる。科学的社会主義の生命力、唯物史観の威力はいささかもそこなわれていないのだから、もっと積極的に、この立場を詩のなかでも押し進めてゆく必要があるだろう。そしてわたしは、アラゴンについて語った言葉(拙著『アラゴン』まえがき)を、未来形にしてふたたび書いておきたい。──そこに変えるべき生があり、変革すべき世界があるかぎり、詩人は希望をかかげつづけるだろう。

 一九九一年四月
                              著 者