釣り師の歌

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


是政線
是政線
(東京新聞 2015年12月16日夕刊)

東京新聞夕刊に連載中の「テツ道のすゝめ」(野田隆)昨日は西武多摩川線でした。中央線の武蔵境駅から多摩川べりの是政駅までのローカル線で、博光が釣りで是政に行く時の愛用電車でした。三鷹市下連雀の八幡前から武蔵境駅まで小田急バスでいき、電車は是政の競艇場で降りると草むらに殿様バッタがたくさん飛んで歓迎してくれたものでした。単線といっても中央線に直通の便利さで、途中通る多磨墓地の東側には東京外国語大学が移転してきたので、今は学生にとっても便利な路線となっているのでしょう。






つりきちがい


(自筆原稿・「大島博光詩集1995-2003」)

千曲川

 釣師の歌
       ──期待について
                      大島博光

釣師は 水に向かっている
川の水は 流れている
白い泡や 水のひだや
小さな渦や うねりを浮かべて
おやみなく 流れている
風の足跡が 水面をけばたたせる
ふと大きな鯉が がばっと跳ねあがる
釣師の期待をかきたてるように
   *
いまにかかるか かかるかと
期待にこころ張りつめて
じっと竿先を見つめているときに
鯉がかかったためしはない

きようもまたあぶれかと
むなしくつぶやきながら
なかば あきらめながら
どこかにいい穴場はないかと
河べりをさぐったり
河原をぶらついたりする そのすきに
鯉はかかるのだ

遠眼にも竿先が生きもののように揺れ動く
飛んでもどったときには
鯉はもう逃げている
   *
大きな鯉がかかって
長いこと ためつすがめつして
やっと手もとに引き寄せて
たもでしやくろうとして
さいごのところで
しやくりそこなうことがある

釣り針をのがれた鯉は
身をくねらせながら
ゆっくり ゆっくり
流れへ帰ってゆく
まるで手づかみにできるようなのろさで

そんなときの釣師を
慰めてやる言葉はない
かれがとりにがしたのは
ほんとうは一尾の鯉ではなくて
一つの夢だったかも知れない

その情景を 焼けるような嫉妬で
見ていた 他の釣師たちは
内心 ほっとするのだ
逃げた鯉が いまにも
自分の竿にかかってくれでもするように
   *
釣り気違いほど純粋なものはない
かれが気違いのようになって待っているのは
ほんとうは期待そのものなのだから
だから釣師は
釣糸さえ垂れていれば気がすむのだ
魚がかからなくとも
つねに期待と希望だけはあるからだ

藻屑が糸にかかって
竿先を撓わめてさえ
かれの胸は躍るのだ
   *
朝露の光る草を踏んで
辿りついた夜明けの釣り場ほどに
釣師の胸をふくらませるものはない
まるでこれから始まる
壮大なドラマの主人公に似て

長くて短かい一日が過ぎて
早くも日が傾く

──きようも釣れなかった
不漁をかこつ釣師は
川面に映る夕焼け雲を見て
みずからを慰め
戦い敗れた兵士のように
疲れと失望にうなだれて
重い竿をふたたび肩にする

長くて短かい一日
かれにはひとつの獲ものもなく
こころに残ったものとては
川面に映った渡り鳥の影や
風に揺れる白いすすきの穂にすぎぬ
だが あくる朝
かれはまた起き上るだろう
新しい期待と希望に胸ふくらませて
   *
釣師は詩人に似ている
見えないものが
かれに働きかけるのだ
   *
わたしは見た
七〇センチほどの大物を釣り上げた
六十七歳の老人が
両手を空に上げて
万才 万才と
子供のように叫んでいるのを
まるでひとつの勝利をかちとったかのように
   *
あんまり魚や小鳥たちと
たわむれていたので
草笛は風に鳴ることを
忘れてしまった

(1980)
信州と私(5)
 秋の千曲川
                          大島博光

 戦争ちゅう、故郷の松代に疎開した。からだを悪くしていたので、毎日のように、千曲川べりでぶらぶらしていた。その頃、釣りをしてみないか、と誘われて、鯉釣りを始めた。すると、たちまち、釣り竿の先をはげしく揺すぶって、大きな鯉がかかった。竿にかかっても、どのようにして上げるものやら、わからない。タモの用意もない。あわてて引きあげようとしたから、たちまち釣針からはずれたのか、糸が切れたのか、逃げられてしまった。これがやみつきとなって、毎日のように鯉釣りに通った。たいていは、松代の西にあたる、俗称ベンケイワクというチンショウのある場所で、このあたりでも有名な釣り場となっていた。岸べには、亭亭と伸びた、みごとなポプラ林があり、北へ遠く伸びている流れと調和して、うつくしい眺めであった。
 きくところによると、このポプラ林は、数年前、建設省かどこかの役人のために、住民の反対にもかかわらず、切られてしまったらしい。ここにも血の通わぬお役所仕事があるように思われる。
 あのポプラ林は、風景のいい、松代市民の憩いの場所であっただけでなく、洪水のおりの護岸の役割を果たしていたのである。つまり、あのポプラ林は、千曲川の流れが、ほとんど直角に向きを変える、直角のところに立って、三、四百メートルつづいていたのだから、洪水が岸をけずりとるのを、その根でふせいでいたのだ。ふせぎきれずに、ポプラの大樹が、根こそぎ、洪水にうち倒されて、根株を無残にむき出していることもあった。・・あのうつくしいポプラ林が伐切された後のベンケイワクは、さぞのっぺらぼうになっていることだろう。毎年、秋になると、釣り竿をかついで、行ってみたいなあ、と思うのだが、──思うばかりか、夢にまで見るのだが、ここ数年、行けずじまいである。
 千曲川の水も汚くなって鯉も少なくなった、という風の便りもある。それにしても、ポプラの木の葉が黄いろく色づいて、それが秋の陽にちらちらと舞いながら清らかな水のうえに散りかかる頃の釣り心地はわすれられない。
  松代から北へくだって、小島田村の地域の寺尾橋の上下も、わたしのよく通った釣り場である。寺尾橋の上の左岸の小川の落ち尻には、やはり柳の巨木があって、格好の日蔭をつくっていた。あの落ち尻は、三尺級の大物が、よく釣れる釣り場だったが、いまはどうなっているだろうか。あそこでわたしが釣りあげた大物は、一貫六百匁位あった。その頃はまだ、こういう度量衡で計っていたのである。鯉が釣れずに、上流から流れてきた、青い皮をつけたままのくるみの実を拾ったことも、なつかしく思い出される。
 (詩人 長野市松代出身)

釣

<「民主長野」1973.10.21>
是政
12時過ぎ、三鷹に着く。鈴木初江さんが亡くなったと。イモを煮て3時に出発。是政、涼しくていい風。
是政
是政
是政
よく釣れて、休みなし。4本あがり、3本ばらす。7時過ぎ、霧雨になるが、まだ明るい。帰りに深大寺の上の焼き肉屋「鹿の子屋」へ行く。
是政
野鯉(のごい)を釣る

                             大島博光

 この秋は、わたしにとってめずらしく大漁の鯉釣りシーズンだった。幾日か連日のように六〇センチ級の大物がかかった。わたしの釣り歴のなかでもめずらしいことだ。──夕ぐれ近く、ずっしりと重い手ごたえがあって、糸をまいてもなかなか姿を見せない。流れの方へぐつとノシてゆく。糸をのばしてやる。また手もとに巻きよせる。またノシてゆ<。……それをニ、三回<りかえしていると、鯉も疲れて、水面に姿をあらわし水を跳ねとばしながら、ぐるぐる泳ぎまわる……この数分のあいだが鯉釣りのだいご味なのだ。
 野鯉釣りのマニアたちはみんな大物をねらう。三、四〇センチの鯉では釣っに部類に入らない。せめて五〇センチ以上ぐらいから釣ったような気になる。わたしのよく行く、多摩川の是政あたりでも、稀ではあるが七〇センチ前後のものも釣れる。わたしのレコードは、数年前に釣ったものだが、七四センチである。
 ある日、長雨のあとで、多摩川は川いっばいに増水していた。しかし黄濁はもう消えて、手ごろのささにごりになっていた.三時ごろのこの釣り場に行ってみると、六〇歳こえた偉丈夫の老人が、川のなかほどに針を投げこんで、すでに七〇センチ近い大物を一尾上げていた。やがてまたわたしの眼の前で同じくらいのを釣り上げた。すると老人は、両手を空にあげて、方歳!万歳!と子どものように叫ぶのであった。まるでひとつの勝利をかちとったかのように。大げさにいえば、人類の狩漁時代のもっとも原始的な悦びが、わたしたちの無意識のなかにまだ残っているのでもあろうか。
 ところでわたしは、たいてい釣った鯉を帰りしなにまた川に放してやることにしている。「また来いよ」と言いながら……。
(詩人)

(「赤旗」)
つり
(大島博光 自筆原稿)
つり
(大島博光 自筆原稿)
釣りと私 鯉釣り賛歌
   大島博光

 晩秋の一日、是政あたりの多摩川へ鯉(こい)釣りに出かけた。台風後の増水も引き始めて、ささにごりになっていたが、本流のあたりはまだとうとうと勢いよく流れている。岸べ近くのよどみに糸を投げこんでおくと、やがて竿(さお)先が揺れ、リールがはげしく鳴る。少し離れてぼんやりしていたので、竿に手をかけた時には、鯉はもう本流のなかを走っていた。流れの重みと鯉の重みで、手ごたえもずっしりとあって、リールを巻くどころではないので、鯉の引くままに川岸をしもへ五十㍍もくだってゆきながら、少しずつ巻くと、だんだん鯉も岸へ寄ってきた。上げてみると六十センチはあって、久しぶりに豪快な鯉釣りの醍醐味(だいごみ)にひたることができた……
 釣りのおもしろさは、川の水の状態、釣り場の選定などで、思わぬ場面に出っくわすことにある。
 わたしの鯉釣り歴はもう四十年にもなる。戦争中、わたしは信州の千曲河畔に疎開していた。結核療養で、毎日河べりを散歩していた。釣りをしていた青年がわたしに釣りをすすめ、釣り針のくくり方など手ほどきをしてくれた。最初に釣り竿を出した時、たちまち大きな鯉がかかって、竿先をはげしく揺すった。それは鯉が深い水の中から送ってくる生命そのものの合図であった。この瞬間がわたしを鯉釣りのとりこにした。鯉はあわてた初心者の手から巧妙にのがれて深みに消えた。それがますますわたしを釣り気ちがいへと駆りたてた。わたしは雨の日も、傘をさして河っぶちに立っていた……
 釣り気ちがいのため、わたしは危うく一生を棒に振るところだった。人生の半分は振ってしまったかもしれない。しかし、結核を克服して望外に長生きできたのは、あるいは釣りのおかげかもしれないのだ。
 (詩人)

(「赤旗」)