小山清茂

ここでは、「小山清茂」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


小山清茂

小山淑子さんが11月25日に急逝されました。92歳。
11月1日に行われた小山清茂記念展示室開設コンサートでお会いした時はお元気で、記念展示室が開設されることをとても喜んでいました。
淑子さんは清茂が亡くなったあと、「私は仕事を残さずに遣り遂げ、安心して清茂さんに報告出来る様になりたい心一杯です」(「故 清茂さんとの思い出の数々」)と、清茂の仕事の整理とあわせて小山清茂記念音楽ホールの建設をめざして熱心に活動してきました。博光記念館にもたびたび訪れて、博光と清茂の交流の思い出を話されたり、行事に参加して下さいました。
長年の悲願への第一歩を目前にして、本当に無念だと思います。
天国の清茂さんは淑子さんの報告を聞いて、「よっちん、よくやってくれた。最後まで頑張り通したなあ」とねぎらっているに違いありません。

小山清茂

小山清茂

小山清茂
小山清茂

小山清茂記念展示室が来年1月、出身地の長野市篠ノ井に開設することが決まり、開設記念コンサートが開かれました。
小山清茂音楽記念館を創設したいという小山淑子夫人と地元の皆さんの熱意が貴重な一歩を踏み出すことになったと思います。
小山清茂

長野市出身の作曲家・小山清茂の記念展示室を出身地に開設することに。(長野市民新聞2015年7月9日)
小山清茂は神楽や祭囃子をベースにした土着の明るい音楽が特徴で、日本の音楽界に大きな足跡を残しました。
同郷だった博光とは戦前「消え去りし泉の歌」に作曲したのを始め、終生にわたって友情を結びました。

小山清茂
博光の詩に小山清茂が作曲した「消え去りし泉の歌」の楽譜がありました。清茂が和紙にガリ版印刷したものを奥様の小山淑子さんが提供して下さいました。
博光は新しい詩ができたといって雪の夜に清茂宅を訪れて詩を読んだが、朗読しているうちに気持が高じて涙を流したといいます。清茂も感激して、その夜のうちにこの詩に曲をつけたそうです。

消え去りし泉の歌
消え去りし泉の歌
消え去りし泉の歌

小山清茂
一昨年亡くなった作曲家の小山清茂が出版した「日本の響きをつくる 小山清茂の仕事」に、博光の詩「消え去りし泉の歌」に作曲した経緯が載っていました。作曲したのは1940年(S15)1月で、1938年から作曲の勉強をはじめた清茂の最も初期の作品になります。詩「消え去りし泉の歌」はそのあと「蝋人形」に発表しています。
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・・・その頃小山氏にとってはまだ本業であった教職の方はというと、その少し前から屋代小学校につとめていた。氏の同郷に詩人の大島博光がいる。当時早稲田の仏文出で西条八十門下の俊秀として活躍していたが、胸を悪くして故郷へ帰っていた時なので、小山氏とも行き来していた。もともと小山氏は詩心があったらしい。中学二年の時、国語の教師が宿題に短歌を作って来いと言いつけたのがきっかけで、短歌を作ることに興味をもつようになった。師範へ入ってからは、寮に皆と一緒に生活していたため、一人で静かに考えることが出来なかったことと、音楽にすっかり熱を上げていたことのため、短歌は作らなかったが、それでも詩を作って同人雑誌「星林」にのせたりしていた。屋代小学校に勤めていた時、或る雪の晩大島博光が帽子もかぶらずやって来て、真白に雪をかぶった頭のまま、自作の詩を小山氏に読んで聞かせた。だんだん気持が高まって来ると涙をながしながら詩を朗読したのだった。一説によると大島氏は涙腺が故障しているせいで、よく涙をながすのだそうだが、それはともかく、聞いていた小山氏もすっかり感激して、その晩一気にこの詩に作曲をしてしまった。これが「消えさりし泉の歌」である。これは演奏に七分以上を要し、かなり長いものだが、ガリ版に刷ってほうぼうへくばったり、大いに自信をもった作品だった。「全くいい気なもんだよ」とおっしゃるが、若い頃のそうした感激は今でも忘れられるものではないようだ。最近ではとても一晩で一曲作り上げることなど出来ないという。「消え去りし泉の歌」は終戦直後四家文子氏によって歌われ放送されたが、また、オーケストラの伴奏をつけてみたり、氏にとっては愛着を感じている作品なのだ。・・・<出典「作曲家訪問・小山清茂」/丹羽正明「音楽芸術」昭和35年1月号>
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この本は2004年3月に出版され、その際に博光に贈呈されています。ちょうど博光が杏林大学病院に初めて入院した頃であり、本人は目にしていないのではないかと思われます。
小山清茂の土着的で明るい音楽のなりたちがわかり貴重です。
「歌劇『山城国一揆』の記録」(市野宗彦、S40)はドキュメンタリー番組のように面白い。この歌劇は東京労音の委嘱をうけて小山清茂が作曲、集団的な論議で改訂され、全国で47回公演されて大きな反響をよびました。歌劇『山城国一揆』は労音運動のモニュメント的な作品だと思いました。

小山清茂さん(作曲家)と博光先生は、生前同郷と言うだけでなく、通じるものが有ったようで交流が最後まで続いていました。お互いに訪問し合っては、議論を交わしていたようです。清茂さんが昨年亡くなられ、長野市立博物館において、展示とコンサートが開かれた折、夫人の淑子さんが記念館を訪ねて下さいました。DSC01230小山淑子さんと杏
神戸時代の教え子の友人とお二人で、杏の花を訪ねて来てくださいました。
昨日、千曲市の森を訪ねましたが,村裾にほんのわずか花開いているだけでした。
昨日、今日とお天気が良かったので東条の桜は1部咲きというところでしょうか。
咲き始めの杏の花を見ることが出来ました。
DSC01227小山さん天皇御座所見学
松代を何カ所かご案内しました。
大本営地下壕群の中の舞鶴山地下壕、天皇の地上御座所前で撮った写真です。
四方を山に囲まれ、エアーポケットになっていて低空飛行が出来ない地形。春の陽がさんさんと降り注ぎ,もしかしたら昭和天皇の住居となったかもしれない建物を浮かび上がらせていました。
<小山清茂展で配布された小山淑子さんの手記を紹介します>

故 清茂さんとの思い出の数々
                             小山 淑子 小山清茂氏令夫人

 信州の人が、一度もあったことの無い都会の娘と結婚するなんて、考えられますか?
 現在のように携帯電話やパソコン、デジカメを子供も手にし、未知の場所にはカーナビの指示どうりに運転すれば、車で何処へでも辿り着ける世の中ではない時代のお話です。
 小山清茂と徳永淑子は、結婚式を挙げる直前まで一度も顔を合わせていません。それは昭和十九年(1944)の第二次世界大戦末期頃のことでした。行きずりでは無く、立派に仲人さんがおられます。
 片や短気な男性、方やのろまな女性。海の無い山ばかりの信州育ちの人は甲種合格の折り紙が付くような立派な体格。
 山と海の見える所で大勢の人の中で育てられた小さな子は、女学校の後半でやっと身長が伸び始め、強風に会えばすっ飛んでしまいそうな体付き。
 心から信頼できる人しか心を許さない性格の持ち主に対して、イギリスの人もアメリカの人も、中国や朝鮮から移り住んだ人でも、インドがお国と言う人でも、この人は安心してお話が出来そうと直感したらお友達になれる性格の持ち主。人の面倒はあまり見ないのに対して、困った人に出会うと知らない振りは出来ない性質。
 嬉しくても表に出さないで静かな人に、飛び上って大喜びする派手な人。
 どう考えても二人は、共に生活が出来そうにない者同志でしょう。それでも赤い糸で結ばれたのは 山田龍男先生でした。
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koyama
小山清茂の奥様が来館されて、博光と小山清茂とのつきあいなどをお話くださいました。
二人は同年代で同郷、戦後東京に住んで活動をしたこと、妻の支えが大きかったことなど、共通点が多いことがわかりました。結婚は博光が昭和20年5月、小山清茂は同年7月でした。ともに95歳まで長生きしました。
小山清茂が西寺尾の博光の家に行くと体をこわしてベッドに寝ていたが、ベッドに4本棒を立てて、赤旗を掲げていたそうです。博光はコーヒーを飲んでいたが、清茂は匂いもダメで日本茶を飲んだ。
戦後、東京で食糧事情が悪かった頃、小山清茂の家には郷里から届くので食べるものがあった。それもあって博光と詩人の小林元(西山克太郎 長野市吉田)はよく連れだって小山家に寄り、小林元は宿代わりに泊まった。

二人の違いはフランス派と日本派、博光は茶碗やお椀は見るのもいやといって家に置かなかった。何故あんなにフランスがいいのかね、と清茂が言っていた。
清茂は正反対で、日本人は日本の美や伝統を大切にするべきといい、伝統音楽を土台にした曲を作り続けて巨大な業績を残しました。
小山清茂
清茂の作品のミニコンサートを聴くためと、奥様にお会いできたら博光との交友について伺いたいと思って行きました。
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小山

小山清茂から年賀状が来ていました。亡くなる前の年のものですから、終生交流していたことになります。
今年6月に亡くなった長野市出身の作曲家、小山清茂の記念館を市につくらせようと運動を始めた吉池先生がみえました。小山清茂は博光より4歳年下で東京都東久留米市在住。博光と小山清茂とつながる部分はないかと訪ねてこられたのです。

小山清茂 歌曲集に、28. 消え去りし泉の歌 (作曲: 小山清茂 作詞: 大島博光)があります。
博光が常用していた住所録を見てみると、小山清茂が載っていました。さらに小山清茂記念コンサートの招待券がはさんでありました。名前を耳にしたことも幾度かありますので、それなりのつきあいがあったものと思われます。手紙などが出てくればもっとわかるのですが。

小山