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人民戦線/レジスタンスFront Populaire/Résistance

ここでは、「人民戦線/レジスタンスFront Populaire/Résistance」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ギィ・モケ
1941年10月14日、シャトーブリアンにて。 左から右へ、Roger Sémat、Jean-Pierre Timbaud(ジャン・ピエール・タンボー)、Rino ScolariとGuy Moquet (ギィ・モケ)。(Alain Guérin 'La Résistance / Chronique illustrée /1930-1950'より)

10月22日に銃殺される8日前のタンボー、ギィ・モケらの写真が図録に掲載されていました。
胆力がみなぎっているタンボーの面構え。「最後の煙草を吸うために憲兵に火をもとめた」(『レジスタンスと詩人たち』のはこのパイプだったのですね。
ギィ・モケは優しい感じの美少年で、タバコを吸っています。映画「シャトーブリアンからの手紙」の中で、柵越しにキスを求めるモケの口にオデットがタバコを挿す印象的なシーンがありましたが、オデットの証言による実話だったのかもしれません。着ているセーターも映画と同じです。


 ドイツ軍がパリに入城して二日後の六月十六日、ペタン元帥が内閣の首班となり、翌十七日、ボルドーからラジオを通じてドイツと休戦条約をむすぶと宣言する。
 ペタン元帥は、第一次世界大戦でフランス軍を指揮して勇名を馳せたが、ヒットラー、ムッソリーニを支持する反動的な人物としても有名であった。一九三四年以来、かれは一貫して人民戦線に反対し、ヒットラーにたいして友好的であり、ヒットラーとたたかう戦争には反対してきた。ペタンの目的は、ヒットラーのドイッと妥協して、かれ自身がフランスの首領となり、あらゆる民主的制度を撤廃して、ファシズム体制をフランスにうち立てることであった。このようなペタンの腹ぐろい魂胆を、当時の多くのフランス人はまだ見抜くことができなかったとき、多くのフランス人は、「名誉ある平和」を実現すると約束したこの白ひげの老人を信頼したのである。フランスを見舞った大いなる不幸と悲劇のなかで、この軍人がフランス人を裏切ろうとは、多くのフランス人は思いも及ばなかった。大多数のフランス人は、ペタンが幸福を決意し、休戦条約をとりきめたことを知って、ほっとしたのである。
 休戦条約は、一九四○年六月二十二日、コンピニーニュの森で、フランス全権委員アンチジェ将軍とドイツ軍総司令官カイテル元帥のあいだで調印された。一九一八年十一月、ドイツ代表が幸福に署名した、その歴史的な思い出の客車で、ヒットラーの立ち会いのもとに、こんどはフランスが屈辱にみちた降伏に署名したのだった。
 だが、すべてのフランス人がペタンとその一党にあざむかれ、だまされていたわけではない。とりわけドイツ軍に破られることのなかったマジノ線のトーチカでは将校と兵隊たちが戦いつづけた。フランス共産党は、六月十日以来、パリの防衛と大衆蜂起を呼びかけていた。
 また、最初の偉大な抵抗者として、第五軍団空軍司令官コシェ将軍をあげなければならない。ペタンの対独降伏のメッセージがラジオ放送されてから二時間もたたぬうちに、コシェ将軍は部下を集めて興奮と怒りにふるえる声で、敵と戦いつづけよ、という最初の抗戦命令をあたえた。のちにコシェ将軍は語る。「一九四○年六月以来、とるべき唯一の態度は抵抗することだ、ということをわたしは知っていた。かつて軍の情報部長だった頃、わたしの集めた情報からみて、ドイツ人の意図はなんら疑う余地のないほど明らかであった。」
 コシェ将軍は、フランスの敗北を認めることを拒否した、ごく稀な高級将校の象徴であった。


  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

レジスタンス

 2 本当の戦争が始まる

 やがて「奇妙な戦争」にかわって、ほんとうの戦争が始まる。
 一九四〇年四月九日、ヒットラーはデンマークおよびノルウェーに侵入する。五月十一日、ナチス・ドイツ空軍はアンベール、アムステルダム、プロン空港、およびフランスの諸都市を爆撃する。ドイツ軍機械化部隊は電撃戦を展開し、たちまちオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの三国をふみにじった。前線でトランプ遊びにふけっていたフランスの兵隊たちは、大砲の音を青天の霹靂のように聞いた。難攻不落を誇ったマジノ線も、ランボオの故郷アルデンヌにおいて突破される。ドイツ軍は、上陸用舟艇やゴム・ボートでミューズ川をおし渡り、五月十四日、スダンを攻略して前進する。最初はフランス軍も英雄的にたたかったが、ドイツ軍の怒涛の進撃をおしとどめることはできなかった。五月二十日、ロンメル指揮下のドイツ軍はマンシュの線に到達し、英仏連合軍四十五個師団を包囲し、これを「ダンケルクのポケット地帯」に追いつめる。イギリスの遠征軍(二十二万五千名)とフランス軍(十一万五千名)は、ドイツ軍の砲撃と急降下爆撃のなかを、船による脱出作戦をつづける。戦車隊付軍医補として、このフランドル戦線に動員されていたアラゴンも、このダンケルクから脱出して、九死に一生を得る。かれはその体験を「ダンケルクの夜」のなかに歌っている。

   ダンケルクの夜

 フランスは 擦りきれたぼろ布のように
 一歩一歩 われらの歩みをこばんだ

 死者たちが 藻にからみあう海のなか
 ひっくり返った舟は 司教の帽子さながら

 空と海のほとりの 十万の露営
 空のなかに伸びる マローの浜べ

 馬の屍臭のただよう夕ぐれ 移動する野獣の群が
 踏みならす地響きのような どよもしが起こる

 踏切が縞模様の腕木を上げる
 われらの心は またばらばらになる

 十万の「土地なしジャン」の心に高鳴る愛も
 もうずっと黙りこんでしまうのか

 人生で傷だらけになった聖セバスチヤンたち
 なんと君らは わたしによく似ていることか

 そうだ 心の傷口を愛さずにいられぬような
 ひとびとだけが わたしに耳傾けてくれよう

 せめてわたしは叫ぼう かつて歌ったあの愛を
 燃える戦火が花花のようによく見える夜の中で

 おれは叫ぼう 燃えあがる町のなかで
 夢遊病着たちを 屋根の上から呼びおろすまで

 わたしは叫ぼう おれの愛を あの朝はやく
 庖丁庖丁と歌って通る研ぎ屋のように

 わたしは叫ぼう叫ぼう わたしの愛する眼よ
 どこにいるのか わたしの雲雀 わたしの鴎よ

 わたしは叫ぼう叫ぼう 砲弾よりも強く
 傷ついた者よりも 酔っぱらいよりも激しく

 わたしは叫ぼう叫ぼう おまえの唇の杯で
 酒をのむように わたしは愛を飲んだのだと

 おまえの腕の木蔦が わたしをこの世に縛りつける
 わたしは死ねないのだ 死んだ者は忘れてしまう

 わたしは思い出す 舟でのがれた人たちの眼を
 ダンケルクヘの愛を だれが忘られよう

 とび交う曳光弾のために わたしは眠れぬ
 自分を酔わせてくれた酒を 誰が忘られよう

 兵士たちは 身をかくす穴を掘った
 まるで墓場にゆらめく幽霊のように

 並んだ石ころのような顔 ぶざまな寝姿
 みんな びくびくおびえながら眠っているのだ

 ここ 北仏の砂丘に 「五月」は死に
 ただよう春の香りを 砂は知らない

  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

アラゴン
アラゴン、壁にマヤコフスキーの肖像、スペイン共和国ポスター(1937年)


 しかし十月初め、フランス軍は西部戦線においてドイツ軍よりも優勢だったにもかかわらず、フランスの防衛線であるマジノ線まで後退して、ここに独仏両軍は対峙したまま、どちらも積極的な攻勢に出ず、こうして「奇妙な戦争」は、あくる一九四○年五月までつづくことになる。そのあいだにドイツは大規模な攻撃を準備していた。

 この期間の戦争が「奇妙な戦争」とよばれたのは、それがおかしかったからではなく、一般のフランスの市民にはまったく不可解だったからである。フランスの運命、フランス人民の運命が問われていたとき、 フランスの市民たちは何も知らなかったし、また知らせられなかったのだ。
 この「奇妙な戦争」は、フランス支配層が、ドイツに対ソ戦争開始を期待する反動的な思惑から生じたものである。フランス政府筋は、ひそかにヒットラーの使者と会って、ソヴェト攻撃を話しあい、シリアからソヴェトを攻撃することさえ提案していた。シリアにはすでに十五万のフランス軍が集結していたのである。一方、フランス政府は国内では共産党を非合法に追いやり、民主勢力に対する弾圧政策をおし進めていた。十月九日には三十九人の共產党国会議員が逮捕され、サンテの牢獄にぶちこまれる。そのなかには、のちにファビアン大佐として勇名を馳せることになるピエル・ジョルジュもいた。
 さらに翌一九四○年四月には、つぎのような新しい法令が出される。
 「共産主義第三インターナショナルノ宣伝文書ヲ流布スル目的デ、コレヲ製作シ、発行シ、保有シタコトヲ、一定ノ訴訟ニオイテ確証サレタ者ハ、死刑ニ処セラレル。」
 左翼の書籍、新聞、出版物などがねらわれた。ファシストの支配するドイツ、イタリー、スペインにおけると同じように、一九七三年九月以降のチリにおけると同じように、一九四○年のフランスでも、マルクスを読むことは死刑にあたいしたのである。(この項おわり)

  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

シャクナゲ開花


 1 奇妙な戦争

 一九三六年七月に始まったスペイン内戦において、イタリーとドイツはフランコを支持した。ドイツでは、一九三三年以来、ナチの首領アドルフ・ヒットラーが政権をにぎっていた。ナチ(Nazi)は、国家社会主義者(National-Sozialist)の略号であり、ヒットラーによって創立されたファシスト党であった。スペイン戦争において、ヒットラーは自分の新しい軍隊─とりわけ空軍、戦車隊を実戦に投じて実験し、その威力を試していた。
 すでに述べたように、フランスとイギリスの支配層は、「不干渉政策」の名のもとにスペイン共和派を援助することを拒み、これを見殺しにすることによって、ファシストたちに手をかしたのである。しかし、ヒットラーのフランコ支援は、ほんの小手しらべに過ぎなかった。ヒットラーは遥かに雄大な計画をたくらみ、世界征服を夢みて、営々と準備を重ね、作戦をねっていた。独仏国境のラィンラント地方は、ヴェルサイユ条約によって、無防備地帯に指定されていたにもかかわらず、一九三六年三月七日、ヒットラーは条約を破ってラインラントを再軍備する。一九三八年三月十一日には早くもオーストリアを占領。一九三八年九月には、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を奪取する。おなじ年の九月三十日、ヒットラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラディエのあいだに、恥ずべきミュンへン協定がむすばれる。これによって英仏政府は、ファシズムの侵略をみとめ、チェコスロヴァキアのズデーテン地方をヒットラーの野望の手に売りわたした。イギリスとフランスの帝国主義者たちは、ヒットラーにプラハへの道をひらいてやることは、ヒットラーのモスクワ進撃の第一歩にほかならないと考えていたのである。一方、ソヴェトはかねてから、ヒットラーの野望をおしとどめるために、英仏に協力を申し入れていたが、パリとロンドンはモスクワの提案には耳もかさなかった。ヒットラーはこの機に乗じて、一九三九年三月、チェコスロヴァキア全土を征服した。ソヴェトはフランスとイギリスに重ねて軍事同盟を提案したが、またしてもパリとロンドンはいたずらに事態をひきのばすだけであった。さらにヒットラーがポーランド侵攻の準備をすすめていたとき、ソヴェトは危険がおのれの身にせまるのを感じると同時に、フランス、イギリスが頼むに足りぬのを見てとって、一九三九年八月二十二日ドイツと「不可侵条約」をむすんだ。そして九月一日、ドイツ軍機械化部隊がポーランドに侵攻し、ヒットラーの空軍がワルシャワおよびクラコーを爆撃するに及んで、ついに九月三日、パリとロンドンはドイツにたいして宣戦を布告する。しかし、宣戦は布告されたが、戦争は始まらなかった。フランス軍ははじめ独仏国境を越えて、ドイツ軍の防衛線であるジークフリート線をめざして進撃し、ザールブリュッケンを脅かした。(つづく)

  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

シャクナゲ

 5 スペイン人民の英雄的気迫

 しかし、人民のスペインは、ばらばらに切りきざまれ、血の海のなかに投げこまれた。民主主義者たちは投獄され、拷問をうけ、絞首刑にされ、あるいは銃殺された。スペインの詩人たちもまた襲われ、銃殺され、獄死し、あるいは国外に亡命した。詩人ミゲル・エルナンデスはアリカンテの牢獄で死に、アントニオ・マチャードは亡命しようとピレネーの国境を越えて、フランス領コリウールで死んだ。ラファエル・アルベルティは亡命した。アルベルティのつぎの詩には、マドリードを死守するスペイン人民の英雄的な気迫が、音高く切迫したリズムで歌われている。

   マドリード防衛の歌

   スペインの心臓 マドリードは脈搏つ
  熱病にうかされた早い動悸で
   きのう その血はすでたぎっていたが
   きょうは さらに熱く 煮えたぎる
   マドリードはもう眠りこめない
   眠り込んだら さいご
   眼をさまそうにも
   もうマドリードに夜明けはやって来ないのだ
   おお マドリードよ 戦争を忘れるな
   敵の眼が 死のまなざしで
   じっと おまえを覗っているのを
   けっして忘れるな
   禿鷹どもがおまえの空をうろつき
  おまえの赤い屋根を
  街まちを おまえの勇敢な人民を
  襲おうとしている
   マドリードよ けっして口にするな
   言いふらしたり 考えたりするな
  スペインの心臓のなかで
  血が雪に変ってしまったなどと──
  おまえのなかには いつも
  雄々しい勇気のわきでる泉がある
  怖るべき驚異の川が
  その泉から流れでるはずだ
  すべての街が 最後の時には
   もしも そんな不幸な時が来たら
   ──そんな時は来ないだろう──
  もっとも強固な砦よりも
   もっと強く たくましくあってくれ
  ひとびとは 城のようになり
  額を 銃眼となし
  腕を 高い城壁となし
  撃ち破られることのない城門となってくれ
  スペインの心臓をのぞいて見たいものは
   やってくるがいい
   さあ急いで! マドリードはすぐそこだ
   マドリードは 足蹴にされようと
   爪でかきむしられ ひじ鉄砲をくらおうと
   ぶんなぐられ 噛みつかれようと
   マドリードはおのれを守る術を知っている
   タホ川の緑の流れのほとり
   マドリードは 腹を空(くう)にさらけ
   たけだけしく 堂々と たくましい
   ナバルペラルのあたり
   シグエンサのあたり
   マドリードのたぎる血を凍らせようと
   雨あられと砲弾は降る
   スペインの心臓 マドリード
   大地よりなるマドリードには
   掘りかえせば そのなかに
   荘厳で 深い 大きな穴がある
   待ちうけている谷間のような……
   それだけが死をうけいれることができる

(『レジスタンスと詩人たち』─序章 ファシズムのスペイン介入と詩人)

マドリード

 4 国際的連帯を感動的にうたう

 フランコ軍にたいして、スペイン人民戦線の兵士、民主主義者、義勇軍は英雄的にたたかった。 スペイン人民戦線がイギリスとフランスに援助をもとめたとき、イギリス帝国主義はスペイン人民戦線政府にたいする階級的憎悪から、「不干渉」政策をとり、フランスのブルム政府もまたそれにならった。フランス共産党および労働総同盟は、政府の「不干渉」政策が、祖国の利益をうらぎり、ファシズムの侵略を助けるとして非難し、九月四日、パリのレピュブリック広場に、「スペインに飛行機を! ファシストに死を!」と叫ぶ大デモンストレーションを五日間展開した。しかし、ブルム政府は「不干渉」政策に固執した。イギリスとフランスの支配層は、スペイン人民が勝利し、人民戦線が強化されることをおそれていたからであり、さらに、ドイツ・ファシストが、やがてソヴェトに破壊的な打撃をくわえるであろうと、ひそかに期待していたからである。
 スペイン人民の英雄的な闘争は、世界人民の連帯をよびさました。すべての大陸から、ファシズムの独裁下にあるドイツ、イタリーからさえも援助と支持が寄せられた。世界じゅうの国ぐにからやってきた「自由の義勇兵」たちによって、栄光にかがやく国際旅団が編成された。スペインの詩人ラファエル・アルベルティは、この国際的連帯を感動的にうたっている。

  きみたちは遠くからやってきた……だがその遠さも
  国境を越えて歌うきみたちの血にとって何んであろう?
  避けられぬ死が毎日 きみたちを名ざしているのだ
  町なかだろうと野っ原だろうと路上だろうと
    お構いなしに

  こっちの国 あっちの国から 大きな国 小さな国から
  ほとんど地図の上に色もついていないような国から
  おんなじ根から生まれた おんなじ夢をいだいて
  素朴で無名のきみたちは 話しながらやってきた
 
  きみたちは 壁の色さえも知らぬこの城壁を
  うち破りがたい約束でもって 堅めるのだ
  その身を埋めるここの大地を 断平として守るのだ
  砲火にむかって 戦闘服をまとったままの死を賭して

  いつまでもいてくれ──木木も野っ原もそう頼むのだ
  おんなじひとつの感情をよび起こし 海をも動かす
  あの光明の小さな火花たちがそう願うのだ 兄弟たち!
  マドリードはきみたちの名前で偉大となり光り輝いている
 
(『レジスタンスと詩人たち』─序章 ファシズムのスペイン介入と詩人)

義勇兵
1979年11月 マドリードにて

 3 前ぶれ

 一九三六年に始まるスペイン戦争は、第二次世界大戦の前ぶれであった。その時、ヒットラー、ムッソリーニ、フランコに抵抗して書かれた、スペイン・レジスタンスの詩は、ナチス・ドイツ軍によるフランス占領下の、フランス・レジスタンスの詩の前ぶれとなったのであった。
 一九三一年四月十二日、スペイン各地で行われた地方選挙の結果、共和制を支持する人民が決定的な勝利をおさめた。勝利を祝う民衆がマドリードの街頭を埋めた。アルフォンソ十三世はついに王位を放棄し、ここにブルボン王朝は崩壊し、流血をみることなく平和のうちにスペイン共和国が生まれた。この偉大な夢の実現と未来への希望を、スペイン人民が歓喜をもって迎え、祝ったことは想像にかたくない。それにつづく数年は、スペイン文化、とりわけスペイン詩にとって、輝かしい開花の季節となった。
 しかし春の日は長くはなかった。国際的反動とファシストたちは、若いスペイン共和国の隙をうかがい、おのれの出番を待っていた。一九三六年七月十八日、ヒットラーとムッソリーニに支援されたフランコのモロッコ部隊が、共和国にむかって反乱をおこし、スペイン人民のうえに襲いかかった。こうしてここに三十三カ月にわたるスペイン市民戦争の幕がきって落とされた。
 ヒットラーのドイツ空軍は、マラガの町をのがれる避難民に機銃掃射をくわえた。ムッソリーニの戦車隊とオートバイ部隊が、アンダルシアの街道に姿をあらわした。
 フランコ・ファシスト軍はその黒い出発にあたって、いち早く、詩人フェデリコ・ガルシーア・ ロルカを血祭りにあげた。ファシストの手に落ちたロルカは、一九三六年八月十九日の未明、グラナダ郊外、ビスナルのオリーブ畑で銃殺された。「ピストルによるよりも、ずっと大きな害悪をペンによって与えた」─というのが、その逮捕理由だったといわれる。ファシストがロルカを最初の犠牲者に選んだのは偶然ではなかった。ロルカは、ファシズムとは相反する、自由の精神そのものだったからである。アントニオ・マチャードはさっそく、それを目に見えるような叙事詩に書いて、ファシストの犯罪を告発した。

   虐殺はグラナダで行われた 
            アントニオ・マチャード

Ⅰ 犯罪

 かれは銃にかこまれ
 長い道をとぼとぼと歩き
 まだ星の残っている朝まだき
 寒い野っ原に姿を現わした
 やつらはフェデリコを殺した
 そのとき 朝日が昇った
 死刑執行人(ひとごろし)の一隊は
 かれをまともに見ることができなかった
 やつらはみな眼を閉じて祈った
 ─神さえも救えはしない!
 かれ フェデリコは倒れ 死んだ
 ─額から血を流し 腹のなかに鉛をぶち込まれて
 虐殺はグラナダで行われた─
 知ってるか─哀れなグラナダよ
 フェデリコのグラナダよ

Ⅱ 詩人と死神と

 かれは 死神の大鎌をも怖れずに
 彼女と二人きりで とぼとぼと歩いて行った
 ─すでに 塔という塔に陽が射し
 鍛冶屋の鉄床(かなどこ)という鉄床を
 鉄槌(かなずち)が打ちたたいていた
 フェデリコが口をひらいて
 思いのたけを死神に打ち明けると
 彼女はじっとそれに耳を傾けていた
 「道連れの女よ すでにきのう おれの詩のなかには
 ひからびたきみのてのひらの音が鳴っていたのだから
 すでにきのう おれの詩のなかには
 そうして きみはおれの歌に
 あの凍えるような冷たさを与え
 きみの黄金の鎌の切れ味を
 おれの芝居に添えてくれたのだから
 こんどは おれがきみに歌ってやろう
 もうきみのもっていない肉体を
 ぼんやりと 放心したようなきみの眼を
 風にふれる きみの髪の毛を
 みんながくちづけする きみの赤い唇を……
 わが死神よ うつくしいジプシー女よ 
 ああ きのうのようにきょうも きみと二人きりで
 グラナダの わがグラナダの
 この大気を吸おうとは!」

Ⅲ 

 とぼとぼと歩いてゆく二人の姿が見えた……
 友よ おれのために建ててくれ
 石と夢の墓を─アランブラに 
 詩人のために
 水のすすり泣く 泉のほとりに
 そうして永遠に伝えてくれ
 虐殺はグラナダで行われたと
 かれのふるさとグラナダで行われたと

(『レジスタンスと詩人たち』─序章 ファシズムのスペイン介入と詩人)

アルハンブラ


講演「大島博光とガリ版刷りのフランスの起床ラッパ」

3)レジスタンス運動の歴史


(西島文子さんが「フランスの歩み」を朗読したのを受けて)
お聞きいただきましたように、このアラゴンの詩は大変激しい内容を持っています。
これはドイツ軍に対して闘いを呼びかけると同時に、裏切りとか裏切り者ということばに象徴されるように──これはヴィシー政権のことを言っています──同じフランス人がフランス人にたいして敵対関係になっていることを表しています。そうなると単に祖国解放だけではすまない。それはどういう意味をもつのかが問題になります。なぜ裏切り者といっているのか簡単におさらいしたいと思います。
略年譜を見てください。

レジスタンス運動はかなり時間の経過がある。
1940年の後半からドイツ占領軍に対して闘いが始まり、
終わりは1944年8月のパリ解放、レジスタンス運動に区切りがつく。
アラゴンの『フランスの起床ラッパ』が出たのは1944年12月で、フランスでは第二次世界大戦が殆んど終戦になっていた。『フランスの起床ラッパ』が実際に書かれたのは1943年春頃から1944年秋にかけてパリ解放までで、雑誌などに発表された。

レジスタンス運動は大きく2つに分けて語られています。
1942年11月、連合軍が北アフリカ(モロッコ、アルジェリア)に上陸します。すると時を移さずにドイツ軍がフランスの全面占領に入ります。
それまではフランスの三分の二はドイツ軍の占領、残りの三分の一がヴィシー政府が名目的に支配していた。ドイツ軍がフランス全土を占領上におく。地中海を挟んで連合軍と対決する構図になる。このへんからレジスタンス運動がいっきに広まって攻勢をかける境目になる。それまでヴィシー政権の支配している三分の一では比較的レジスタンス運動はゆるやかだった。ここから状況が変わってくる。

もうひとつ、大きな変化は1842年4月にピエール・ラヴァルが首相に就任。それ以前はペタンという軍人が国家元首だった。ピエールは名だたる反共主義者で、演説で「私はナチスの勝利を望んでいる。なぜならドイツが存在しないとボルシェビキが至るところにはびこるからだ。」とあからさまにナチスの勝利を望んだ。そのあとフランスで極右団体、親独民兵団が1943年にできてナチスのために働く。

レジスタンス運動にとって大変重要なのは、1943年2月の強制労働福祉法がある。これはドイツがスターリングラードの戦いでソビエトに敗北し、大量の兵隊を失う。ドイツ人の若者はつぎつぎと亡くなっていく。ドイツの労働力をフランスからもっていく、強制労働をやらせる。これでフランスの20歳以上の若者を強制的にドイツへやる。フランスの若者はこれをのがれて山間部に逃れる。これがマキといわれ、強制労働を拒否した人たちがレジスタンス運動に参加した。レジスタンス運動はさらに強くなる。背景にレジスタンスの全国抵抗評議会が統一組織として結成され、だんだん闘いが根強い本格的なものへ成長していくわけです。
というわけでレジスタンス運動は1943年頃からが活発になり、激しくなっていく。これを背景にしてアラゴンは裏切り、裏切り者という言葉を使っているわけです。
(つづく)
川上勉


(2014年10月25日の講演より)

ドイツ軍占領下フランス略年表

1939年 9月1日 ドイツ軍ポーランド侵攻、第二次世界大戦始まる
    9月3日 英仏対独宣戦布告
    <奇妙な戦争>と呼ばれる時期(〜1940年5月)

1940年 6月14日 パリ陥落
    6月22日 対独休戦協定、フランス領土の3分の2をドイツ軍占領
    7月10日 フランス議会、ペタン元帥へ全権移譲

1941年 6月22日 独ソ開戦
    10月22・23日 シャトーブリアンで27名の人質処刑、ナントでは21名処刑
    12月15日 モン・ヴァレリアンでガブリエル・ペリなど100名処刑  
 
1942年 3月 アラゴン『エルザの瞳』出版
     3月27日 最初のアウシュビッツへのユダヤ人移送
     4月18日 ピエール・ラヴァルが首相に就任
     7月16日 ユダヤ人ドランシー収容所に送られる
    11月8日 連合軍北アフリ家に上陸。
    11月11日 ドイツ軍はフランス全面占領、イタリアコルシカ島占領

1943年 1月26日 「統一レジスタンス運動(MUR)」結成
     1月30日 親独「民兵団」(ミリス)創設
     2月2日 独軍スターリングラードの敗北
     2月16日 「強制労働奉仕法(STO)」成立
     5月27日 レジスタンスの統一組織、全国抵抗評議会(CNR)結成
    11月8日 ド・ゴール「フランス国民解放委員会(CFLN)代表となる

1944年 6月6日 連合軍、ノルマンディー上陸
     8月25日 パリ解放
     9月9日 ド・ゴール内閣成立
     12月30日 アラゴン『フランスの起床ラッパ』出版

1945年 5月7日 ドイツ降伏

(川上勉氏講演「ガリ版刷りのフランスの起床ラッパ」資料)

マキ

マキ団──1943年、強制労働奉仕法よるドイツでの強制労働を拒否した若者が山間部に逃れ、レジスタンス運動に参加した
 また、『ユマニテ』紙の文芸部長であった詩人アンドレ・シェンヌヴィエールもつぎのような詩を書いている。

  占領されたパリ
                    アンドレ・シェンヌヴィエール


 人影もなく悲しげで
 足音ばかりがひびく街通り
 ぼんやりと霞んだ夢のように
 遠い 新しい地平線が見える街通り
 剥げ落ちた壁には 癩(らい)のように
 色とりどりの大きな痣(あざ)がひろがり
 並んだ店店(みせみせ)は
 からっぽの貝殻のようだ
 顔のやつれた 暗欝な群衆
 飢えをみたそうと血眼になっている群衆
 窮乏の重みにうちひしがれたように
 まるく肩をおとした群衆
 失った思い出と悔恨にひたる
 悦びのない群衆

 死んだような 汚れた都市(まち)
 鉄槌(かなづち)をうちおろすような長靴の音が
 舗道の沈黙をつん裂く
 毒の色 死の色 鉛の色をした軍服
 ひと殺しの匂い 湿った藁の匂い
 虚偽にいつわりの匂いが ただよう
 街燈が青くまたたく 不気味な夜夜
 ひと殺しの白刃が冷たく不吉にひらめく

 パリは静まりかえり パリはじっと待つ
 言いなりになる娘としてでなく
 拒絶する首都(まち)として
 その不気味な沈黙は
 けっして眠り込んでいるのではない
 パン粉をふくらませる酵母のように
 眼に見えぬ ほかの人びとが働いている
 これを最後にと血の流れた
 不幸な日日の仮面のかげで
 パリはじっと待ち
 パリはじっと怒りをこらえている

 しかしこの詩人じしんも、一九四四年五月、パリ東駅の前でドイツ兵の銃弾に倒れた。フランスの国旗を意味する三色の腕章を巻いていたというだけの理由で。
(この項おわり)

<『レジスタンスと詩人たち』白石書店>
  勇 気
               ポール・エリュアール

 パリは寒さに顛え パリは腹ぺこだ
 パリはもう街なかで栗も食べない
 パリは老婆のように ぼろをまとい
 空気のわるい地下鉄で立ったまま眠る
 そのうえ貧乏人にはもっとひどい不幸がのしかかる
 だが 不幸なパリの
 知恵と熱狂をしめすのは
 パリの飢えた労働者たちの
 気風(きっぷ)のよさだ 火のような激しさだ
 その美しさだ 気前のよさだ
 助けなどを呼ぶな パリよ!
 おまえは無類の生命力で生きてきた
 そしていま おまえは着るものもなく裸で
 蒼ざめ 痩せほそっていても
 なお 誇らかな人間的なものが
 おまえの眼のなかに輝いている
 わが美しい町 パリ
 針のように鋭く 剣のように強く
 無邪気で 抜け目のないパリ
 おまえは 不義不正には我慢できない
 ──おまえには 不義不正だけが唯一の罪悪なのだ
 さあ 自分を解放するのだ パリよ
 星のように顛えるパリよ
 おれたちの 生き残っている希望よ
 おれたちの生き残っている 希望よ
 さあ おのれを鎖と泥から解放するのだ
 勇気をだそう 兄弟たち 
 おれたちには 鉄かぶとも長靴もない
 手袋も お上品な行儀作法もない
 だが 一条の光がおれたちの血管(みぬち)に射すと
 おれたちの光明がもどってくる
 おれたちのなかの いちばんすばらしい人たちが
 おれたちのために死んだのだ
 そしていま その人たちの血が
 おれたちの心臓を流れる
 ふたたび朝が パリの朝がやってくる
 解放のあけぼのの光が
 生まれでる春の息吹きが やってくる
 おろかな敵軍は 落ち目だ
 おれたちの敵 あの奴隷どもが
 もしも分別を持っていたら
 分別をもつことができるなら
 やつらもまた立ち上がるだろう
                     (一九四二年)
(つづく)

<『レジスタンスと詩人たち』白石書店>
 パリは飢える

 占領下のフランスにおいて、人びとはどのような生活をしていたのか。──日がたつにつれて、食糧や生活必需品は店頭から姿を消してゆく。すべてのものが──パンから肉にいたるまで、衣料から履物、石炭にいたるまで、配給切符によってしか買えなくなる。そのうえ、当局の指示のもとに「肉なし日」「油なし日」「酒なし日」などが設けられる。例えば、一週のうち、月曜、火曜、水曜が「肉なし日」で、火曜、木曜、土曜が「酒なし日」といった按配に。
 野菜類においても、平時にはまれにしか食べないようなかぶ、ぼたん、菊芋といったものまでたべる。つまり、野草から木の根まであさってたべたのである。
 フランスは飢え、フランスは寒さに顛える……
 ナチはあらゆるものを収奪した。小麦、葡萄酒、機械類から衣料、家畜にいたるまで、あらゆるものを徴発し、これを貨物列車に満載してドイツへ送った。一九四〇年−四一年には、小麦八〇万トン、オート麦六三万七千トン、大麦一万三千トンがドイツに送られた。土地を耕す人手が少なくなって、収穫はひじょうに減少したにもかかわらずドイツ軍は収穫の大部分を徴発しつづけた。一九四一年−四二年には四二万トンの小麦、一九四二年−四三年には六四万トンの小麦、一九四三年−四四年には六六万五千トンの小麦がドイツへ持ち去られた。
 フランス人のたべるパンは灰色になり、品質が落ちてゆく。そのうえ、パンは食糧の重要な部分であるのに、毎日の配給量は一人あたり二五〇グラムしかない。少しばかりの配給の食糧では生きてゆけないので、たちまち「闇市場」が出現する。たとえば、日曜日に都市の住民は田舎の農家のところに行って、配給の煙草と卵とを交換する。しかしそれは、大都会の少数の人びとが行うだけであって、闇市場の罪のない側面でしかない。闇市場の大部分は厚顔無恥の連中によって、悪どく行われた。かれらはドイツ軍将兵やヴィシー政権の役人とぐるになって、住民に配給する物資を多量に横流しして、公定値段より十倍も二十倍も高く売りつける。だから貧乏人は闇市場では買うことができない。逆に金持ちは、依然として豪勢な暮らしをつづけることができる。パリをはじめ、その他の大都市の若干のレストランは、ひとにぎりの対独協力者や闇商人どもに、栄養ゆたかなたっぷりとしたご馳走を公然と提供していた。
 皮革類も、ドイツ軍に徴発されて姿を消した。靴の真底は木になったので、ひとびとはしばしば足をくじいた。
 木綿(もめん)はアフリカやアジアから輸入されなかったので、それにまだナイロンが発明されていなかったので、衣類はいろいろな「代用品」によってつくられた。それらの代用品による織物のなかには、木の繊維や髪の毛までがまじっていた……それらの衣料は湿気をおびると、たちまち縮むので、しばしば滑椿な場面を引き起こした。
 このような欠乏、窮迫、貧困のなかにあって、エリュアールは「勇気」と題する力強い詩をかいて、パリ市民の「針のように鋭く剣のように強い」伝統的な精神を喚起し、たたかいに立ちあがるように勇気づけ、はげました。
つづく

<『レジスタンスと詩人たち』白石書店 1981年>

 しかし一九三四年に詩集『ウラル万歳!』を書いていたアラゴンは、ある意味では、すでにレジスタンスの詩を先取りしていたといえよう。たとえば、この詩集に収められている「ナディジンスクで死んだ二十七人のパルチザンのバラード」のような詩は、ひろい大衆性をもった抵抗詩の模範となっている。

  二十七人の パルチザンは
  ひとり またひとり 首くくられた
  兵士も 労働者も 農民もいた
  いちばん若いのは 十四歳だった

  最後の息に 身をふるわせても
  祈りなどは つぶやかなかった
  おお おまえたち 死者製造人どもよ
  だが おまえたちは 強くはないのだ

  もう おまえたちの剣のうえに
  早くも血が 錆びついている
  墓場が おまえたちを待っている
  弾丸が(たま) おまえたちを夢みている           .
                 (角川書店『アラゴン詩集』一六ページ)

 これらの詩句は、もっとも悲惨な一九四二年頃の抵抗詩とも思えるほどである。
 のちに(一九五四年)、アラゴンは第二回ソヴェト作家大会において、こう発言している。
 「世界大戦の前夜である一九三九年に、フランス詩の諸問題が解決されたことは、ナチス占領軍に刃向ったわが抵抗運動の戦士たちに、詩による支持と援助をあたえ、そしてこの詩は幾千幾万の愛国者を立ちあがらせて彼らの隊列にくわわらせたのである……」
 つまりこのことは、アラゴンが詩集『ウラル万歳!』以来、新しいレアリスム詩の実践的追求および理論的追求をつづけていたのであり、たんに抵抗詩の問題としてでなく、「フランスにおけるレアリスム詩の諸問題」として追求し、そして解決していたことを示している。
(この項おわり)

<『レジスタンスと詩人たち』白石書店 1981年>

6 ネルーダとアラゴン

 荒れ狂うファシズムの嵐をまのあたりに見て、スペインの詩人たちとともに、怒りの声をあげ、たたかいの詩をかきはじめたチリの詩人がいた。──パブロ・ネルーダである。ちょうどその頃、総領事としてマドリードに駐在していたネルーダは、しばしば引用される有名な詩「そのわけを話そう」をかいた。

 悪党どもは 飛行機に乗り モール人をひき連れ
 悪党どもは 指輪をはめ 公爵夫人たちを連れ
 悪党どもは 祝福をたれる黒衣の坊主どもを従え
 悪党どもは 空の高みからやってきて 子供たちを殺した
 街じゅうに子供たちの血が
 子供の血として 素朴に流れた

 きみたちは尋ねる──なぜ わたしの詩が
 夢や木の葉をうたわないのか
 故国の大きな火山をうたわないのかと

 来て見てくれ 街街に流れてる血を
 来て見てくれ
 街街に流れてる血を
 来て見てくれ 街街に流れてる
 この血を!
                   (角川書店『ネルーダ詩集』三六ページ)

 ファシストに痛罵をあびせ、英雄的なスペイン人民、義勇兵たちをたたえたネルーダの詩はやがて、『心のなかのスペイン』にまとめられて、一九三八年、人民戦線の兵士たちの手によって出版された。一九三八年八月、この詩集はさっそくアラゴンとルイ・パローの共訳によってフランスに紹介され、ひろく愛読された。
 これらのスペインの抵抗詩は、やがて始まるフランスの抵抗詩にとって、その前ぶれとなり先例となり、多くの影響をあたえずにはいなかったであろう。
(つづく)

<『レジスタンスと詩人たち』白石書店 1981年>