人民戦線/レジスタンスFront Populaire/Résistance

ここでは、「人民戦線/レジスタンスFront Populaire/Résistance」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ギィ・モケ
1941年10月14日、シャトーブリアンにて。 左から右へ、Roger Sémat、Jean-Pierre Timbaud(ジャン・ピエール・タンボー)、Rino ScolariとGuy Moquet (ギィ・モケ)。(Alain Guérin 'La Résistance / Chronique illustrée /1930-1950'より)

10月22日に銃殺される8日前のタンボー、ギィ・モケらの写真が図録に掲載されていました。
胆力がみなぎっているタンボーの面構え。「最後の煙草を吸うために憲兵に火をもとめた」(『レジスタンスと詩人たち』のはこのパイプだったのですね。
ギィ・モケは優しい感じの美少年で、タバコを吸っています。映画「シャトーブリアンからの手紙」の中で、柵越しにキスを求めるモケの口にオデットがタバコを挿す印象的なシーンがありましたが、オデットの証言による実話だったのかもしれません。着ているセーターも映画と同じです。


レジスタンスにおけるキリスト者・詩人たち

ジャン・カイロール


 「詩は悲劇の第一線でたたかった。詩は多くの死者、聖者、英雄たちをうたった。そして闘いはつづいている。詩は、引き出された武器のように、まだ湯気を立てている……」
                 ジャン・カイロール

 伝説によれば、ラベンナの善女たちは、ダンテを指して言ったという。「ごらんよ、このひとは地獄からもどってきたのよ」と。ジャン・カイロールもまた地獄からもどってきた。人類はずっとむかしからこの世に地獄をつくりだしてきた。そして、レジスタンスの時代を生きた多くの人びとがこの地獄におとされた。多くの者は二度とその地獄からもどっては来なかったが、ほんのわずかな人びとがもどってきた。ジャン・カイロールもそのひとりである。
 地獄におちた詩人というのは、べつに新しいものではない。ランボーもまた「地獄の季節」を体験した。しかし、レジスタンスの詩人たちにとって、地獄におちるということは、たんなる精神的な体験ではなく、その血と肉をもって、その生身をもって、じっさいに地獄におちることであった。かれらは、レジスタンスの組織にくわわっていたゆえに、告発され、密告され、ゲシュタポに逮捕されたのである。
 すでに『ユリシーズ』『空飛ぶオランダ人』などの詩集をだしていたカイロールは、一九四一年来、レミ大佐の指揮する地下組織の一員であった。一九四二年六月十日、かれは逮捕されて、フレンヌの牢獄にぶちこまれた。一九四三年三月、かれはドイツのグッセン・マウトハウゼンの強制収容所(キャンプ)に移され、一九四五年五月に解放された。──これがジャン・カイロールの「地獄の季節」である。
 フレンヌの牢獄で、カイロールは最初の牢獄の詩を書く。「壁に書く」もそのひとつである。

  わたしは 沈黙にきき入る
  わが声の影に うずくまる
  「信仰」の ざらざらした壁に
  フランスの堅いパンに 身をゆだねる

  わたしは 帰ることに思いふけり
  閉ざされた扉のもとに うずくまる
  だれだろう 中庭で打ち叩いているのは
  だれだろう 平和をくちずさんでいるのは

  夜明けは 火の泉で
  大地を うるおし
  わたしは青空に 身をゆだねる
  大地のうえで苦しんでいる 青空に

 この詩はまさに、囚われた詩人が独房の壁に書いたものである。かれのあとにつづく人たちのために──かれと同じく、友としてはおのれ自身の声の影しかもたぬ人たちのために、声をひそめてうたった詩である。
 ところで、強制収容所(キャンプ)となると、これはまったく別のものである。これは今世紀に発明されたものであり、今世紀は、のちの世紀から、キャンプの世紀とよばれるかも知れない。キャンプは、強制労働、拷問、死刑などに役立つ。牢獄のあとにはキャンプがひかえているというわけである。まるで人類は、みずから発明した「地獄」なしには済まされないかのようだ。こうして多くの詩人たちもまたキャンプに投げこまれた。ジャン・カイロールもそのひとりである。そしてかれの詩は、キャンプに反対して闘ったものの証言として残るであろう。
 一九四七年に出版されたカイロールの詩集『人間と鳥たちとのたわむれ』のあとがきに、ピエル・エマニュエルはかく。
 「詩という稀なる天賦の才をうけ、象徴的なイメージの感覚、組織者としての息吹き、ヴィジョンなどをもった、ひとりの男──ことばの古風な意味において、深い勇気(ヴエルテュ)をもった、ひとりの男が──人間がそこにまるごと啓示されるような、並はずれたいさおしのうちに、このうえない気高さを示した。ひとりの男──友人たちのなかに身を現わすというだけで、友情をふかめることになり、友人たちに光をもたらす愛の行為となるような、ひとりの男──そしてなんという精神的布地によるのか、おそるべきキャンプの恐怖をくぐりぬけ、神の恩寵に心燃やしながら、永遠の明澄をたずさえて、生きてもどってきたひとりの詩人──かれがわれわれに示すのは、もっとも高貴な芸術は、精神(モラル)的創造につながるものであって、それは混沌たる本能にたいする勝利であると同時に、法律のおしつける諸強制にたいする勝利である、ということである。どうしてこの男の証言を必要として、むしろ天の摂理として、うけとらずにいられよう?ひとりの偉大な詩人が死にうち勝ったのである……」

 「おそるべきキャンプの恐怖をくぐりぬけ、……生きてもどってきた、ひとりの」男はつぎのように歌われている。

  腕ばかりが ひょろ長く
  痩せさらばえた男
  吐きすてられた痰のように汚らしい男は
  木の幹にしがみつき
  にがい樹皮に くちづけして
  必死に闘っていた
  立っているために

  脚(あし)が まるで
  二本の枯枝のようになり
  裸で 泥にまみれているとき
  立っているとは どんなことか
  あなたに わかるだろうか

  死が 身ぢかに
  すぐそばにあって
  まるで温かいべッドにさわるように
  死に頼をよせているようなとき
  立っているとは どんなことか
  あなたにわかるだろうか

  ひとりの男が 針のようなまなざしで
  発砲の恐怖に
  叫び声もあげず
  じっと 立っている
  いまにもかれをぶち殺す 弾丸(たま)が
  銃身のなかで うずうずしているのを
  男はもう 感じている
  そんな男とは どんなものか
  あなたにわかるだろうか

  そのすべてを 鳥は見た

 この美しい詩は、地獄のなかで、なお毅然と立っている人間の偉大さ、その本質的な高貴さを、読むものに認めさせずにはおかない。これはまた、もっともたしかな証言のひとつである。もしも、かれが心くだけて、たじろぐならば、かれは殺されるだろう。死ぬことは地獄からの解放となるかも知れない。しかしかれは生きながら自由になりたいのだ。そしてかれは、おのれを見据え、敵を見据える針のような力を、おのれのまなざしに与えることができた。そのことをこそ、詩人は告げたかったのだ。この世界で、詩人もまた鳥のまなざしによって見つめられているのである。
 その後、カイロールは主として散文による多くの作品をかいているが、それらの作品は、かれが地獄であじわった決定的な体験と無関係というわけにはいかない。あの地獄から、地獄での体験から、かれはけっして離れられなかったのである。

レジスタンスと詩人たち─第三章 レジスタンスの勝利>

カイロール
Jean Cayrol

 ロワ・マッソンはカトリックの左派であった。「神を信じたものも信じなかったものも」ともにたたかったレジスタンスの共同闘争に、かれほどマッチしたものはいない。かれは神を信じていた。教会の態度にかれは深い嫌悪をいだいていたとはいえ、やはりキリストを信じていた。そうして人間を信頼すると同様に、かれは共産党の同志たちを信頼していた。そこに矛盾はなかった。かれは遠い島からやってきて、突如としてフランス人のあいだに身をおいた。こうしてきわめて自然に、フランス人との友愛、同志愛がかれには必要であった。一方、占領下で苦しんでいるフランスもかれを必要とした。ここに、レジスタンスに参加したキリスト者のひとつの典型がある。レジスタンスにおける、このキリスト者と共産党員との兄弟的な協力の必要を、マッソンは身をもって感じとり、そこに参加し、フランスの歴史の血に染まったこの栄光のページにおのれを結びつけ、そのたたかいを歌ったのである。
 一九三四年、エリュアールは非合法出版によるアンソロジー『詩人の栄光』を編集することになった。そのときかれは、アラゴンのすすめにしたがって、キリスト者のロワ・マッソンとピエール・エマニュエルにも参加を要請したのであった。
 一九四四年の『ポエジー四四』に、マッソンは「自由を失った男の哀歌」を書く。

  わたしはもう歩きまわれぬ わが祖国(くに)の麦畑を
  わたしはもう刈りとれぬ 馬にやるからす麦を
  わたしはもう眺められぬ 雛に餌をはこぶ燕を

  屋根のへりにまで 沈黙は大きくふくれ上がった

  ああ!四十雀(しじゅうから)やうぐいすたちが 飛んでゆく
  やつらはわたしの花冠を一皿の青豆とひきかえに売ってしまった
  やつらはわたしの緋の衣を豚に投げあたえてしまった
  ……

 マッソンの詩には、フランス文化の伝統にぞくさない、遠くて深いところからやってきたあるものがある。それは、生まれ故郷モーリス島の湿ったモンスーン(季節風)から抜けることのできない素朴さと野性である。かれには、人間同士のあいだの融合が必要であっただけでなく、人間と自然との融合、人間と神との融合──いやむしろ人間とキリストとの融合が必要であった。キリストはかれにとって、神が人間の姿をとったものであると同時に、人間が神の姿をとったものであった。

<レジスタンスと詩人たち─第三章 レジスタンスの勝利>

教会
土井ノ浦教会(大島秋光撮影)


レジスタンスにおけるキリスト者・詩人たち

ロワ・マッソン


 大戦前夜の一九三九年のある晴れた朝、詩人ロワ・マッソンは、インド洋のモーリス島(当時は仏領)からフランスにやってきた。生きてゆくために、外人部隊に入隊するほかなかった。まもなくフランスは敗れ、ドイツ軍の占領がはじまった。除隊後、かれはヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンにやってきて、詩人ピエル・セゲールスと知りあい、詩誌『ボエジー』の協力者となる。
 その頃のロワ・マッソンの肖像を、クロード・ロワはつぎのように描いている。
 「かれは詩人らしい詩人のひとりで、灰色をしていた。わるいざら紙のような灰色であり、腹べこのときの灰色であり、蒼みがかった灰色であった。かれはrの音を発音することができず、子供の眼をしていた。かれは天からわれわれのところに落ちてきた。それがロワ・マッソンであった。……」
 かれはヴィルヌーヴで多くの詩をかき、『エスプリ』(精神)、『コンフルアンス』、スイスの『フォンテーヌ』(泉)などの雑誌に発表した。一九四一年、かれは「集団避難のノートル・ダム」を『エスプリ』誌にかく。

 聖母(おんはは)よ この殺戮という献納をおうけとりください
 八つ裂きにされた女たち 血にまみれた壕
 永遠に消えうせたたくさんの子供たち
 空家のように腹をえぐりとられた たくさんの死体……
 ごらんください 畑のあぜに並んでいる
 十字架もない たくさんの土まんじゅうを
 霧のしなやかな指のしたで
 それは 数殊玉のつらなりとなるのです
 ……
 聖母(おんはは)よ へロデ王は不死身です
 わたしたちのために祈ってください
 ……)

<『レジスタンスと詩人たち』─第三章 レジスタンスの勝利>

マッソン
Loys Masson


 ドイツ軍がパリに入城して二日後の六月十六日、ペタン元帥が内閣の首班となり、翌十七日、ボルドーからラジオを通じてドイツと休戦条約をむすぶと宣言する。
 ペタン元帥は、第一次世界大戦でフランス軍を指揮して勇名を馳せたが、ヒットラー、ムッソリーニを支持する反動的な人物としても有名であった。一九三四年以来、かれは一貫して人民戦線に反対し、ヒットラーにたいして友好的であり、ヒットラーとたたかう戦争には反対してきた。ペタンの目的は、ヒットラーのドイッと妥協して、かれ自身がフランスの首領となり、あらゆる民主的制度を撤廃して、ファシズム体制をフランスにうち立てることであった。このようなペタンの腹ぐろい魂胆を、当時の多くのフランス人はまだ見抜くことができなかったとき、多くのフランス人は、「名誉ある平和」を実現すると約束したこの白ひげの老人を信頼したのである。フランスを見舞った大いなる不幸と悲劇のなかで、この軍人がフランス人を裏切ろうとは、多くのフランス人は思いも及ばなかった。大多数のフランス人は、ペタンが幸福を決意し、休戦条約をとりきめたことを知って、ほっとしたのである。
 休戦条約は、一九四○年六月二十二日、コンピニーニュの森で、フランス全権委員アンチジェ将軍とドイツ軍総司令官カイテル元帥のあいだで調印された。一九一八年十一月、ドイツ代表が幸福に署名した、その歴史的な思い出の客車で、ヒットラーの立ち会いのもとに、こんどはフランスが屈辱にみちた降伏に署名したのだった。
 だが、すべてのフランス人がペタンとその一党にあざむかれ、だまされていたわけではない。とりわけドイツ軍に破られることのなかったマジノ線のトーチカでは将校と兵隊たちが戦いつづけた。フランス共産党は、六月十日以来、パリの防衛と大衆蜂起を呼びかけていた。
 また、最初の偉大な抵抗者として、第五軍団空軍司令官コシェ将軍をあげなければならない。ペタンの対独降伏のメッセージがラジオ放送されてから二時間もたたぬうちに、コシェ将軍は部下を集めて興奮と怒りにふるえる声で、敵と戦いつづけよ、という最初の抗戦命令をあたえた。のちにコシェ将軍は語る。「一九四○年六月以来、とるべき唯一の態度は抵抗することだ、ということをわたしは知っていた。かつて軍の情報部長だった頃、わたしの集めた情報からみて、ドイツ人の意図はなんら疑う余地のないほど明らかであった。」
 コシェ将軍は、フランスの敗北を認めることを拒否した、ごく稀な高級将校の象徴であった。


  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

レジスタンス

 敗戦と休戦条約と占領……

 一九四〇年六月五日、ロンメルとフォン・マンシュタイン指揮のドイツ機械化部隊は、ソンムの戦闘に突入する。ロンメルは独特の戦術で、フランスの防衝線にくさびを打ちこんで、これを突破し、フランス軍を背後から攻撃する。六月十日、フォン・ボックのドイツ軍部隊はセーヌ川を越えてエブルーに到達する。また東部戦線においてもランスが陥落し、ドイツ軍はマルヌ川を越える。もはやドイツ軍の怒涛の進撃をおしとどめるものはない。「フランス軍は陽を浴びた雪のように融けさった」といわれる。
 フランスじゅうに不安がひろがり、高まるが、真実をつたえるニュースはなく、いたずらに敗戦の事態を糊塗するニュースが流される。しかも市民たちの驚いたことに、六月十一日、フランス政府は首都パリを放棄してツールに移った。そして一九四〇年六月十四日、無防備都市を宣言したパリに、ドイツ軍が入城した。

 みんなが黙りこみ 敵は闇のなかに休んでいる
 こよいきけば パリはついに陥ちたという
               (アラゴン「リラと薔薇」)

 このフランス軍の崩壊について、アメリカの歴史家ウィリアム・L・レーンジャーは書く。
「一九四〇年六月におけるフランス共和国の敗北と降伏ほどに破局的な事件は、近代史上きわめて稀である。一八〇六年、ナポレオンがプロシャにたいして行った電撃作戦以来、ひとつの大軍隊が運命によってかくも無残に、かくも冷酷にうちのめされたことはなかった。六週間足らずのうちに、世界屈指の軍事力のひとつが国際舞台から消えさったのである……」
 灰色の朝の空に、最初のハーケンクロイツの旗が、コンコルド広場にひるがえった。十一時に、ドイツ軍レンジャー部隊がシャンゼリゼを入城行進した。拡声器から流れる金属的な声が市民に告げる。
 「ドイツ軍最高司令部は、わが占領軍にたいするいかなる敵対行為をも許さない。わが軍にたいするあらゆる破壊行為および攻撃は死刑に処せられる。二十時以降は、夜間外出を禁止する。」
 フランス北部、東部、とりわけパリの市民たちは恐慌状態におちいる。市民たちはあらゆる方法で避難を開始する。ドイツ軍から逃れようとする避難民の行列が、フランスじゅうの街道や道路を埋めた。
 詩人マックス・ジャコブは、一九四○年七月二十三日付セゲールス宛の手紙に、この恐慌状態を描いている。当時、マックス・ジャコブはパリ南方のサン・ブノワ・シュル・ロワールに隠遁して、信仰生活に身をささげていた。
 「列車も自動車ももう動いていない。ガソリンがないので、自動車のたぐいも稀なのです……わたしは動かずに、同時代人たちの気違い沙汰に立ち会っています。どこへ行くというあてもなしに出発したり、街道わきのどぶに荷物や財産を捨てたり、自動車のなかで自殺したりする、気違いじみた恐慌状態……そう、わたしも、自分で自分の静脈に穴をあけた一家族の面倒をみています……告白すれば、わたしも少なからず涙を、ほんとうの涙を流しました。わたしも看護をしました。(瓶を開けたり、べッドをしつらえたり、病人の世話をして)……」(つづく)


  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

 
水元公園

 2 本当の戦争が始まる

 やがて「奇妙な戦争」にかわって、ほんとうの戦争が始まる。
 一九四〇年四月九日、ヒットラーはデンマークおよびノルウェーに侵入する。五月十一日、ナチス・ドイツ空軍はアンベール、アムステルダム、プロン空港、およびフランスの諸都市を爆撃する。ドイツ軍機械化部隊は電撃戦を展開し、たちまちオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの三国をふみにじった。前線でトランプ遊びにふけっていたフランスの兵隊たちは、大砲の音を青天の霹靂のように聞いた。難攻不落を誇ったマジノ線も、ランボオの故郷アルデンヌにおいて突破される。ドイツ軍は、上陸用舟艇やゴム・ボートでミューズ川をおし渡り、五月十四日、スダンを攻略して前進する。最初はフランス軍も英雄的にたたかったが、ドイツ軍の怒涛の進撃をおしとどめることはできなかった。五月二十日、ロンメル指揮下のドイツ軍はマンシュの線に到達し、英仏連合軍四十五個師団を包囲し、これを「ダンケルクのポケット地帯」に追いつめる。イギリスの遠征軍(二十二万五千名)とフランス軍(十一万五千名)は、ドイツ軍の砲撃と急降下爆撃のなかを、船による脱出作戦をつづける。戦車隊付軍医補として、このフランドル戦線に動員されていたアラゴンも、このダンケルクから脱出して、九死に一生を得る。かれはその体験を「ダンケルクの夜」のなかに歌っている。

   ダンケルクの夜

 フランスは 擦りきれたぼろ布のように
 一歩一歩 われらの歩みをこばんだ

 死者たちが 藻にからみあう海のなか
 ひっくり返った舟は 司教の帽子さながら

 空と海のほとりの 十万の露営
 空のなかに伸びる マローの浜べ

 馬の屍臭のただよう夕ぐれ 移動する野獣の群が
 踏みならす地響きのような どよもしが起こる

 踏切が縞模様の腕木を上げる
 われらの心は またばらばらになる

 十万の「土地なしジャン」の心に高鳴る愛も
 もうずっと黙りこんでしまうのか

 人生で傷だらけになった聖セバスチヤンたち
 なんと君らは わたしによく似ていることか

 そうだ 心の傷口を愛さずにいられぬような
 ひとびとだけが わたしに耳傾けてくれよう

 せめてわたしは叫ぼう かつて歌ったあの愛を
 燃える戦火が花花のようによく見える夜の中で

 おれは叫ぼう 燃えあがる町のなかで
 夢遊病着たちを 屋根の上から呼びおろすまで

 わたしは叫ぼう おれの愛を あの朝はやく
 庖丁庖丁と歌って通る研ぎ屋のように

 わたしは叫ぼう叫ぼう わたしの愛する眼よ
 どこにいるのか わたしの雲雀 わたしの鴎よ

 わたしは叫ぼう叫ぼう 砲弾よりも強く
 傷ついた者よりも 酔っぱらいよりも激しく

 わたしは叫ぼう叫ぼう おまえの唇の杯で
 酒をのむように わたしは愛を飲んだのだと

 おまえの腕の木蔦が わたしをこの世に縛りつける
 わたしは死ねないのだ 死んだ者は忘れてしまう

 わたしは思い出す 舟でのがれた人たちの眼を
 ダンケルクヘの愛を だれが忘られよう

 とび交う曳光弾のために わたしは眠れぬ
 自分を酔わせてくれた酒を 誰が忘られよう

 兵士たちは 身をかくす穴を掘った
 まるで墓場にゆらめく幽霊のように

 並んだ石ころのような顔 ぶざまな寝姿
 みんな びくびくおびえながら眠っているのだ

 ここ 北仏の砂丘に 「五月」は死に
 ただよう春の香りを 砂は知らない

  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

アラゴン
アラゴン、壁にマヤコフスキーの肖像、スペイン共和国ポスター(1937年)


 7 ゲルニカ市民虐殺の衝撃

 一九三七年四月二十六日、ヒットラーのドイツ空軍は、バスク地方の小さな町ゲルニカにたいして急降下爆撃をくわえ、市民を虐殺し、町を廃墟にした。当時この事件は、スペイン戦争においてナチの犯したもっとも残酷なエピソードのひとつとして、全世界に大きな衝撃をあたえ、多くの反響をよび起こさずにはいなかった。ピカソは有名な「ゲルニカ」を描いて、一九三七年、パリ万国博覧会のスペイン館の壁を飾った。そしてエリュアールは詩で「ゲルニカの勝利」をかいた。これらの作品は、レジスタンス芸術の先駆的な役割をはたすことになる。「解放」後の一九五〇年、アラン・レスネの監修で、ピカソの「ゲルニカ」を主題とした映画がつくられたとき、エリュアールは、詩「ゲルニカの勝利」をとり入れて、映画の解説「ゲルニカ」をかいた。そこにはファシズムにたいする詩人の深い怒りが鳴りひびいている。

   ゲルニカ
              ポール・エリュアール

ゲルニカ。それはビスカヤの小さな町だが、バスク地方の由緒ある古都である。そこにバスクの伝統と自由を象徴する樫の木がそびえていた。だがいまやゲルニカは、ただ歴史的な、涙をそそる思い出の地でしかない。
 一九三七年四月二十六日、市(いち)のたつ日の昼さがり、フランコを支援するドイツ空軍がぞくぞくと編隊をくりだし、三時間半にわたってゲルニカを爆撃した。
 町は全焼し全滅した。死者は二千にのぼった。みんな非戦闘員の市民だった。この爆撃の目的は、爆弾と焼夷弾との併用効果を、非戦闘員の住民にたいして実験してみることにあった。

 火にも耐えた顔 寒さにも耐えた顔
 手荒い仕打ちにも夜にも耐えた顔

 侮辱にも殴打にも すべてに耐えた顔たち
 いまあなた方を定着させているのは空虚(うつろ)さだ
 いけにえとなった 哀れな顔たち
 あなた方の死は 模範となるだろう

 死 ひっくり返された心臓
 やつらはあなた方にパンをあがなわせた  
 あなた方の生命(いのち)で

 やつらはあなた方に空と大地と水と眠りをあがなわせた

 そして眼を蔽うばかりの惨(みじ)めささえをも
 あなた方の生命(いのち)で

 心優しい役者たち かくも悲しくかくもいじらしい役者たち
 はてしないドラマの役者たち

 あなた方は死などを考えたことはなかった

 生と死への恐怖や勇気などを 
 かくもむずかしく かくもたやすい死などを

 ゲルニカのひとたちはつつましやかな庶民だ。かれらはずっとむかしから自分の町で暮らしている。ほんのひと握りの金持ちとたくさんの貧乏人とで、暮らしは成りたっている。かれらはじぶんの子供を愛している。暮らしは、ささやかな幸福と、明日を思いわずらう、大きな心配苦労から成りたっている。明日も食わなければならないし、明日も生きなければならない。だからきょうは希望を抱き、きょうは働くのだ。
 わたしたちはコーヒーを飲みながら新聞で読んだ。──ヨーロッパのどこかで、殺人部隊が人びとを蟻の群のように踏みつぶしていると。腹をえぐられた子供だとか、首を斬りおとされた女だとか、全身の血をどっと一挙に吐きだした男だとか、ほとんど想像もつかない。だが、スペインは遠い。国境の向こうだ。コーヒーを飲んだら、自分の仕事に行かねばならない。よそで何かが起こっていることなど、考えるひまもない。そうしてわたしたちは良心の呵責(かしゃく)をおしころしてしまう。 
 明日(あす)は、苦悩と恐怖と死を堪えしのぶことになろう。 

 しかも虐殺をやめさせるにはもう遅すぎ
 女たち子供たちはおなじ宝をもっている
 春の若芽と きよらかな乳と
 生の持続を
 澄んだ眼のなかに
 女たち子供たちはおなじ宝をもっている
 眼のなかに
 男たちは力のかぎり それを守る

 女たち子供たちはおなじ赤い薔薇をもっているだろう。

 機関銃の弾丸が瀕死の人びとの息の根をとめ
 機関銃の弾丸が風よりも上手に子供たちと戯れる

 銃と火によって
 人間が炭坑のようにぶち抜かれ
 船のいない港のように凌(さら)えられ
 火のない竃(かまど)のように抉(えぐ)られる
 
 眼のなかに
 めいめいが自分の血の色を見せる

 わたしたちの多くは、なんと嵐に怖れおののいたことか。こんにち、人生とは嵐だ、ということはわかりきっている。それなのに、わたしたちの多くは、なん稲妻を怖れ、雷を怖れたのだろう。雷鳴は天使の声で、稲妻は天使の翼だ、などと思うとは、なんとわたしたちは愚かなお人よしだったのだろう。だがわたしたちは、燃えあがる自然の怖ろしさを見まいとして、地下の穴倉に降りて行ったことはなかった。こんにち、世界の終りはわたしたちにかかっている。めいめいが自分の血を見せるのだ。

 ついに
 子供たちはぼんやり放心した風をし
 わたしたちはいやでもおうでも
 いちばん単純な表現をとる羽目になる

 なんとそこには喜びの涙があった
 男は腕をひろげて愛(いと)しい妻を迎え
 慰められた子供たちは笑いながら泣きじゃくった
 死者たちの眼は深い恐怖の色をうかペ
 死者たちの眼は非情な大地の酷薄さをたたえ

 犠牲(いけにえ)となった人たちは自分の涙を飲んだ
 毒のように苦(にが)い涙を

 飛行帽をかむり、長靴をはき、きりっとした美青年の航空兵たちが、爆弾を落すのだ。狙いをつけて。精確に。地上では、上を下への大混乱となる。善に心をくだく偉大な哲学者なら、そこからひとつの理論体系をひきだすまえに、この事態をじっくりと見つめるだろう。なぜなら、現在とともにいま四散するのは、過去と未来なのだ。爆撃の猛火のなかで断ち切られ、焼きほろぼされるのは、過去・現在・未来という一連の連続なのだ。蝋燭のように吹き消されるのは、生の記憶なのだ。

 人びとの上に血が流れ 動物の上に血が流れ
 まるでむかつくような悪臭にみちた葡萄のとりいれだ
 それにくらべれば 死刑執行人の方がまだきれいだ
 眼はすべて抉りとられ 心臓の音はみんなとだえた
 
 さあ、死臭を嗅いでいる獣(けだもの)をとりおさえにゆくがいい。さあ、母親のところに行って、子供の死をよく話して聞かせるがいい。さあ、燃える炎に想いを打ち明けにゆくがいい。この世の大人たちが、子供たちを敵にまわし、まるで戦争の機械に襲いかかるように、揺りかごに襲いかかるのを、どうやって理解させることができよう。あるのは夜だけだ。それも戦争の夜だけだ。悲惨の姉で、怖ろしくもいまわしい死の娘である戦争の──

 男たちよ きみらのためにこの宝は歌われた
 男たちよ きみらのためにこの宝は浪費された

 想ってもみたまえ、きみらの母親、兄弟、子供たちの、その断末魔の苦しみを。想ってもみたまえ、あのいのちの果ての、死との格闘を、愛するひとたちの死の苦しみを。さあ、殺し屋どもからきみら自身を守るがいい。子供や老人は、この怖るべき喪の中で、とてつもない生の恐怖に腹を締めつけられるのを感じる。こうして生命(いのち)はてようとして、かれらは突然、生きたいという希いのばからしさを感じとるのだ。何もかもが泥と化し、太陽も暗くかげる。

 惨禍の記念碑(マニュマン)
 崩れ落ちた家家と瓦礫の山と
 野っ原の 美しい世界
 兄弟たち あなた方はここで腐肉と化し
 ばらばらに砕かれた骸骨と変りはて
 地球はあなた方の眼窟のなかで廻り
 あなた方は腐った砂漠となり
 死は時間の均衡を破ってしまった

 あなた方はいまや姐虫と鴉の餌食だ
 だがあなた方は顫えるわたしたちの希望だったのだ

 ゲルニカの焼け焦げた樫の木のしたに、ゲルニカの廃墟のうえに、ゲルニカの澄んだ空のしたに、ひとりの男が帰ってきた。腕のなかに鳴く仔山羊を抱え、心のなかには一羽の鳩を抱いていた。かれはすべての人びとのために、きよらかな反抗の歌をうたうのだ。愛にはありがとうと言い、圧制には反対だと叫ぶ、反抗の歌を。心からの素直な言葉ほどにすばらしいものはない。かれは歌う──ゲルニカはオラドゥールとおなじように、ヒロシマとおなじように、生ける平和の町だ。これらの廃墟は、恐怖(テロル)よりももっと力強い抗議の声を挙げているのだ。
 男はうたい、男は希望をかかげる。かれの苦しみは雀蜂のように、険(けわ)しくなった青空のなかへ飛びさってゆく。そうしてかれの歌はやはり蜜蜂のように、人びとの心のなかに蜜をつくった。
 ゲルニカよ! 無辜(むこ)の人民は虐殺にうち勝つだろう。
 ゲルニカよ!……
       (ガリマール版『エリュアール全集』より訳出)

<「レジスタンスと詩人たち」1981年 白石書店>

羊を抱いた男
ピカソ「羊を抱いた男」

 しかし十月初め、フランス軍は西部戦線においてドイツ軍よりも優勢だったにもかかわらず、フランスの防衛線であるマジノ線まで後退して、ここに独仏両軍は対峙したまま、どちらも積極的な攻勢に出ず、こうして「奇妙な戦争」は、あくる一九四○年五月までつづくことになる。そのあいだにドイツは大規模な攻撃を準備していた。

 この期間の戦争が「奇妙な戦争」とよばれたのは、それがおかしかったからではなく、一般のフランスの市民にはまったく不可解だったからである。フランスの運命、フランス人民の運命が問われていたとき、 フランスの市民たちは何も知らなかったし、また知らせられなかったのだ。
 この「奇妙な戦争」は、フランス支配層が、ドイツに対ソ戦争開始を期待する反動的な思惑から生じたものである。フランス政府筋は、ひそかにヒットラーの使者と会って、ソヴェト攻撃を話しあい、シリアからソヴェトを攻撃することさえ提案していた。シリアにはすでに十五万のフランス軍が集結していたのである。一方、フランス政府は国内では共産党を非合法に追いやり、民主勢力に対する弾圧政策をおし進めていた。十月九日には三十九人の共產党国会議員が逮捕され、サンテの牢獄にぶちこまれる。そのなかには、のちにファビアン大佐として勇名を馳せることになるピエル・ジョルジュもいた。
 さらに翌一九四○年四月には、つぎのような新しい法令が出される。
 「共産主義第三インターナショナルノ宣伝文書ヲ流布スル目的デ、コレヲ製作シ、発行シ、保有シタコトヲ、一定ノ訴訟ニオイテ確証サレタ者ハ、死刑ニ処セラレル。」
 左翼の書籍、新聞、出版物などがねらわれた。ファシストの支配するドイツ、イタリー、スペインにおけると同じように、一九七三年九月以降のチリにおけると同じように、一九四○年のフランスでも、マルクスを読むことは死刑にあたいしたのである。(この項おわり)

  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

シャクナゲ開花


 1 奇妙な戦争

 一九三六年七月に始まったスペイン内戦において、イタリーとドイツはフランコを支持した。ドイツでは、一九三三年以来、ナチの首領アドルフ・ヒットラーが政権をにぎっていた。ナチ(Nazi)は、国家社会主義者(National-Sozialist)の略号であり、ヒットラーによって創立されたファシスト党であった。スペイン戦争において、ヒットラーは自分の新しい軍隊─とりわけ空軍、戦車隊を実戦に投じて実験し、その威力を試していた。
 すでに述べたように、フランスとイギリスの支配層は、「不干渉政策」の名のもとにスペイン共和派を援助することを拒み、これを見殺しにすることによって、ファシストたちに手をかしたのである。しかし、ヒットラーのフランコ支援は、ほんの小手しらべに過ぎなかった。ヒットラーは遥かに雄大な計画をたくらみ、世界征服を夢みて、営々と準備を重ね、作戦をねっていた。独仏国境のラィンラント地方は、ヴェルサイユ条約によって、無防備地帯に指定されていたにもかかわらず、一九三六年三月七日、ヒットラーは条約を破ってラインラントを再軍備する。一九三八年三月十一日には早くもオーストリアを占領。一九三八年九月には、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を奪取する。おなじ年の九月三十日、ヒットラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラディエのあいだに、恥ずべきミュンへン協定がむすばれる。これによって英仏政府は、ファシズムの侵略をみとめ、チェコスロヴァキアのズデーテン地方をヒットラーの野望の手に売りわたした。イギリスとフランスの帝国主義者たちは、ヒットラーにプラハへの道をひらいてやることは、ヒットラーのモスクワ進撃の第一歩にほかならないと考えていたのである。一方、ソヴェトはかねてから、ヒットラーの野望をおしとどめるために、英仏に協力を申し入れていたが、パリとロンドンはモスクワの提案には耳もかさなかった。ヒットラーはこの機に乗じて、一九三九年三月、チェコスロヴァキア全土を征服した。ソヴェトはフランスとイギリスに重ねて軍事同盟を提案したが、またしてもパリとロンドンはいたずらに事態をひきのばすだけであった。さらにヒットラーがポーランド侵攻の準備をすすめていたとき、ソヴェトは危険がおのれの身にせまるのを感じると同時に、フランス、イギリスが頼むに足りぬのを見てとって、一九三九年八月二十二日ドイツと「不可侵条約」をむすんだ。そして九月一日、ドイツ軍機械化部隊がポーランドに侵攻し、ヒットラーの空軍がワルシャワおよびクラコーを爆撃するに及んで、ついに九月三日、パリとロンドンはドイツにたいして宣戦を布告する。しかし、宣戦は布告されたが、戦争は始まらなかった。フランス軍ははじめ独仏国境を越えて、ドイツ軍の防衛線であるジークフリート線をめざして進撃し、ザールブリュッケンを脅かした。(つづく)

  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

シャクナゲ

 5 スペイン人民の英雄的気迫

 しかし、人民のスペインは、ばらばらに切りきざまれ、血の海のなかに投げこまれた。民主主義者たちは投獄され、拷問をうけ、絞首刑にされ、あるいは銃殺された。スペインの詩人たちもまた襲われ、銃殺され、獄死し、あるいは国外に亡命した。詩人ミゲル・エルナンデスはアリカンテの牢獄で死に、アントニオ・マチャードは亡命しようとピレネーの国境を越えて、フランス領コリウールで死んだ。ラファエル・アルベルティは亡命した。アルベルティのつぎの詩には、マドリードを死守するスペイン人民の英雄的な気迫が、音高く切迫したリズムで歌われている。

   マドリード防衛の歌

   スペインの心臓 マドリードは脈搏つ
  熱病にうかされた早い動悸で
   きのう その血はすでたぎっていたが
   きょうは さらに熱く 煮えたぎる
   マドリードはもう眠りこめない
   眠り込んだら さいご
   眼をさまそうにも
   もうマドリードに夜明けはやって来ないのだ
   おお マドリードよ 戦争を忘れるな
   敵の眼が 死のまなざしで
   じっと おまえを覗っているのを
   けっして忘れるな
   禿鷹どもがおまえの空をうろつき
  おまえの赤い屋根を
  街まちを おまえの勇敢な人民を
  襲おうとしている
   マドリードよ けっして口にするな
   言いふらしたり 考えたりするな
  スペインの心臓のなかで
  血が雪に変ってしまったなどと──
  おまえのなかには いつも
  雄々しい勇気のわきでる泉がある
  怖るべき驚異の川が
  その泉から流れでるはずだ
  すべての街が 最後の時には
   もしも そんな不幸な時が来たら
   ──そんな時は来ないだろう──
  もっとも強固な砦よりも
   もっと強く たくましくあってくれ
  ひとびとは 城のようになり
  額を 銃眼となし
  腕を 高い城壁となし
  撃ち破られることのない城門となってくれ
  スペインの心臓をのぞいて見たいものは
   やってくるがいい
   さあ急いで! マドリードはすぐそこだ
   マドリードは 足蹴にされようと
   爪でかきむしられ ひじ鉄砲をくらおうと
   ぶんなぐられ 噛みつかれようと
   マドリードはおのれを守る術を知っている
   タホ川の緑の流れのほとり
   マドリードは 腹を空(くう)にさらけ
   たけだけしく 堂々と たくましい
   ナバルペラルのあたり
   シグエンサのあたり
   マドリードのたぎる血を凍らせようと
   雨あられと砲弾は降る
   スペインの心臓 マドリード
   大地よりなるマドリードには
   掘りかえせば そのなかに
   荘厳で 深い 大きな穴がある
   待ちうけている谷間のような……
   それだけが死をうけいれることができる

(『レジスタンスと詩人たち』─序章 ファシズムのスペイン介入と詩人)

マドリード

 4 国際的連帯を感動的にうたう

 フランコ軍にたいして、スペイン人民戦線の兵士、民主主義者、義勇軍は英雄的にたたかった。 スペイン人民戦線がイギリスとフランスに援助をもとめたとき、イギリス帝国主義はスペイン人民戦線政府にたいする階級的憎悪から、「不干渉」政策をとり、フランスのブルム政府もまたそれにならった。フランス共産党および労働総同盟は、政府の「不干渉」政策が、祖国の利益をうらぎり、ファシズムの侵略を助けるとして非難し、九月四日、パリのレピュブリック広場に、「スペインに飛行機を! ファシストに死を!」と叫ぶ大デモンストレーションを五日間展開した。しかし、ブルム政府は「不干渉」政策に固執した。イギリスとフランスの支配層は、スペイン人民が勝利し、人民戦線が強化されることをおそれていたからであり、さらに、ドイツ・ファシストが、やがてソヴェトに破壊的な打撃をくわえるであろうと、ひそかに期待していたからである。
 スペイン人民の英雄的な闘争は、世界人民の連帯をよびさました。すべての大陸から、ファシズムの独裁下にあるドイツ、イタリーからさえも援助と支持が寄せられた。世界じゅうの国ぐにからやってきた「自由の義勇兵」たちによって、栄光にかがやく国際旅団が編成された。スペインの詩人ラファエル・アルベルティは、この国際的連帯を感動的にうたっている。

  きみたちは遠くからやってきた……だがその遠さも
  国境を越えて歌うきみたちの血にとって何んであろう?
  避けられぬ死が毎日 きみたちを名ざしているのだ
  町なかだろうと野っ原だろうと路上だろうと
    お構いなしに

  こっちの国 あっちの国から 大きな国 小さな国から
  ほとんど地図の上に色もついていないような国から
  おんなじ根から生まれた おんなじ夢をいだいて
  素朴で無名のきみたちは 話しながらやってきた
 
  きみたちは 壁の色さえも知らぬこの城壁を
  うち破りがたい約束でもって 堅めるのだ
  その身を埋めるここの大地を 断平として守るのだ
  砲火にむかって 戦闘服をまとったままの死を賭して

  いつまでもいてくれ──木木も野っ原もそう頼むのだ
  おんなじひとつの感情をよび起こし 海をも動かす
  あの光明の小さな火花たちがそう願うのだ 兄弟たち!
  マドリードはきみたちの名前で偉大となり光り輝いている
 
(『レジスタンスと詩人たち』─序章 ファシズムのスペイン介入と詩人)

義勇兵
1979年11月 マドリードにて

 3 前ぶれ

 一九三六年に始まるスペイン戦争は、第二次世界大戦の前ぶれであった。その時、ヒットラー、ムッソリーニ、フランコに抵抗して書かれた、スペイン・レジスタンスの詩は、ナチス・ドイツ軍によるフランス占領下の、フランス・レジスタンスの詩の前ぶれとなったのであった。
 一九三一年四月十二日、スペイン各地で行われた地方選挙の結果、共和制を支持する人民が決定的な勝利をおさめた。勝利を祝う民衆がマドリードの街頭を埋めた。アルフォンソ十三世はついに王位を放棄し、ここにブルボン王朝は崩壊し、流血をみることなく平和のうちにスペイン共和国が生まれた。この偉大な夢の実現と未来への希望を、スペイン人民が歓喜をもって迎え、祝ったことは想像にかたくない。それにつづく数年は、スペイン文化、とりわけスペイン詩にとって、輝かしい開花の季節となった。
 しかし春の日は長くはなかった。国際的反動とファシストたちは、若いスペイン共和国の隙をうかがい、おのれの出番を待っていた。一九三六年七月十八日、ヒットラーとムッソリーニに支援されたフランコのモロッコ部隊が、共和国にむかって反乱をおこし、スペイン人民のうえに襲いかかった。こうしてここに三十三カ月にわたるスペイン市民戦争の幕がきって落とされた。
 ヒットラーのドイツ空軍は、マラガの町をのがれる避難民に機銃掃射をくわえた。ムッソリーニの戦車隊とオートバイ部隊が、アンダルシアの街道に姿をあらわした。
 フランコ・ファシスト軍はその黒い出発にあたって、いち早く、詩人フェデリコ・ガルシーア・ ロルカを血祭りにあげた。ファシストの手に落ちたロルカは、一九三六年八月十九日の未明、グラナダ郊外、ビスナルのオリーブ畑で銃殺された。「ピストルによるよりも、ずっと大きな害悪をペンによって与えた」─というのが、その逮捕理由だったといわれる。ファシストがロルカを最初の犠牲者に選んだのは偶然ではなかった。ロルカは、ファシズムとは相反する、自由の精神そのものだったからである。アントニオ・マチャードはさっそく、それを目に見えるような叙事詩に書いて、ファシストの犯罪を告発した。

   虐殺はグラナダで行われた 
            アントニオ・マチャード

Ⅰ 犯罪

 かれは銃にかこまれ
 長い道をとぼとぼと歩き
 まだ星の残っている朝まだき
 寒い野っ原に姿を現わした
 やつらはフェデリコを殺した
 そのとき 朝日が昇った
 死刑執行人(ひとごろし)の一隊は
 かれをまともに見ることができなかった
 やつらはみな眼を閉じて祈った
 ─神さえも救えはしない!
 かれ フェデリコは倒れ 死んだ
 ─額から血を流し 腹のなかに鉛をぶち込まれて
 虐殺はグラナダで行われた─
 知ってるか─哀れなグラナダよ
 フェデリコのグラナダよ

Ⅱ 詩人と死神と

 かれは 死神の大鎌をも怖れずに
 彼女と二人きりで とぼとぼと歩いて行った
 ─すでに 塔という塔に陽が射し
 鍛冶屋の鉄床(かなどこ)という鉄床を
 鉄槌(かなずち)が打ちたたいていた
 フェデリコが口をひらいて
 思いのたけを死神に打ち明けると
 彼女はじっとそれに耳を傾けていた
 「道連れの女よ すでにきのう おれの詩のなかには
 ひからびたきみのてのひらの音が鳴っていたのだから
 すでにきのう おれの詩のなかには
 そうして きみはおれの歌に
 あの凍えるような冷たさを与え
 きみの黄金の鎌の切れ味を
 おれの芝居に添えてくれたのだから
 こんどは おれがきみに歌ってやろう
 もうきみのもっていない肉体を
 ぼんやりと 放心したようなきみの眼を
 風にふれる きみの髪の毛を
 みんながくちづけする きみの赤い唇を……
 わが死神よ うつくしいジプシー女よ 
 ああ きのうのようにきょうも きみと二人きりで
 グラナダの わがグラナダの
 この大気を吸おうとは!」

Ⅲ 

 とぼとぼと歩いてゆく二人の姿が見えた……
 友よ おれのために建ててくれ
 石と夢の墓を─アランブラに 
 詩人のために
 水のすすり泣く 泉のほとりに
 そうして永遠に伝えてくれ
 虐殺はグラナダで行われたと
 かれのふるさとグラナダで行われたと

(『レジスタンスと詩人たち』─序章 ファシズムのスペイン介入と詩人)

アルハンブラ


講演「大島博光とガリ版刷りのフランスの起床ラッパ」

3)レジスタンス運動の歴史


(西島文子さんが「フランスの歩み」を朗読したのを受けて)
お聞きいただきましたように、このアラゴンの詩は大変激しい内容を持っています。
これはドイツ軍に対して闘いを呼びかけると同時に、裏切りとか裏切り者ということばに象徴されるように──これはヴィシー政権のことを言っています──同じフランス人がフランス人にたいして敵対関係になっていることを表しています。そうなると単に祖国解放だけではすまない。それはどういう意味をもつのかが問題になります。なぜ裏切り者といっているのか簡単におさらいしたいと思います。
略年譜を見てください。

レジスタンス運動はかなり時間の経過がある。
1940年の後半からドイツ占領軍に対して闘いが始まり、
終わりは1944年8月のパリ解放、レジスタンス運動に区切りがつく。
アラゴンの『フランスの起床ラッパ』が出たのは1944年12月で、フランスでは第二次世界大戦が殆んど終戦になっていた。『フランスの起床ラッパ』が実際に書かれたのは1943年春頃から1944年秋にかけてパリ解放までで、雑誌などに発表された。

レジスタンス運動は大きく2つに分けて語られています。
1942年11月、連合軍が北アフリカ(モロッコ、アルジェリア)に上陸します。すると時を移さずにドイツ軍がフランスの全面占領に入ります。
それまではフランスの三分の二はドイツ軍の占領、残りの三分の一がヴィシー政府が名目的に支配していた。ドイツ軍がフランス全土を占領上におく。地中海を挟んで連合軍と対決する構図になる。このへんからレジスタンス運動がいっきに広まって攻勢をかける境目になる。それまでヴィシー政権の支配している三分の一では比較的レジスタンス運動はゆるやかだった。ここから状況が変わってくる。

もうひとつ、大きな変化は1842年4月にピエール・ラヴァルが首相に就任。それ以前はペタンという軍人が国家元首だった。ピエールは名だたる反共主義者で、演説で「私はナチスの勝利を望んでいる。なぜならドイツが存在しないとボルシェビキが至るところにはびこるからだ。」とあからさまにナチスの勝利を望んだ。そのあとフランスで極右団体、親独民兵団が1943年にできてナチスのために働く。

レジスタンス運動にとって大変重要なのは、1943年2月の強制労働福祉法がある。これはドイツがスターリングラードの戦いでソビエトに敗北し、大量の兵隊を失う。ドイツ人の若者はつぎつぎと亡くなっていく。ドイツの労働力をフランスからもっていく、強制労働をやらせる。これでフランスの20歳以上の若者を強制的にドイツへやる。フランスの若者はこれをのがれて山間部に逃れる。これがマキといわれ、強制労働を拒否した人たちがレジスタンス運動に参加した。レジスタンス運動はさらに強くなる。背景にレジスタンスの全国抵抗評議会が統一組織として結成され、だんだん闘いが根強い本格的なものへ成長していくわけです。
というわけでレジスタンス運動は1943年頃からが活発になり、激しくなっていく。これを背景にしてアラゴンは裏切り、裏切り者という言葉を使っているわけです。
(つづく)
川上勉


(2014年10月25日の講演より)

ドイツ軍占領下フランス略年表

1939年 9月1日 ドイツ軍ポーランド侵攻、第二次世界大戦始まる
    9月3日 英仏対独宣戦布告
    <奇妙な戦争>と呼ばれる時期(〜1940年5月)

1940年 6月14日 パリ陥落
    6月22日 対独休戦協定、フランス領土の3分の2をドイツ軍占領
    7月10日 フランス議会、ペタン元帥へ全権移譲

1941年 6月22日 独ソ開戦
    10月22・23日 シャトーブリアンで27名の人質処刑、ナントでは21名処刑
    12月15日 モン・ヴァレリアンでガブリエル・ペリなど100名処刑  
 
1942年 3月 アラゴン『エルザの瞳』出版
     3月27日 最初のアウシュビッツへのユダヤ人移送
     4月18日 ピエール・ラヴァルが首相に就任
     7月16日 ユダヤ人ドランシー収容所に送られる
    11月8日 連合軍北アフリ家に上陸。
    11月11日 ドイツ軍はフランス全面占領、イタリアコルシカ島占領

1943年 1月26日 「統一レジスタンス運動(MUR)」結成
     1月30日 親独「民兵団」(ミリス)創設
     2月2日 独軍スターリングラードの敗北
     2月16日 「強制労働奉仕法(STO)」成立
     5月27日 レジスタンスの統一組織、全国抵抗評議会(CNR)結成
    11月8日 ド・ゴール「フランス国民解放委員会(CFLN)代表となる

1944年 6月6日 連合軍、ノルマンディー上陸
     8月25日 パリ解放
     9月9日 ド・ゴール内閣成立
     12月30日 アラゴン『フランスの起床ラッパ』出版

1945年 5月7日 ドイツ降伏

(川上勉氏講演「ガリ版刷りのフランスの起床ラッパ」資料)

マキ

マキ団──1943年、強制労働奉仕法よるドイツでの強制労働を拒否した若者が山間部に逃れ、レジスタンス運動に参加した