アラゴン『エルザの狂人』

ここでは、「アラゴン『エルザの狂人』」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ストラスブール

新潟青陵大学の新校舎の壁面にアラゴン「ストラブール大学の歌」の一節「教えるとは希望を語ること……」が使われています。ガラスの壁面がとても素敵ですし、教育への信頼と期待に満ちた雰囲気が感じられて素晴らしいです。

ストラスブール
                 (新潟青陵大学 高野様提供)

詩人たち──エルザの狂人──『訣別』詩集

──死──

こいつには歯がたたぬ
姿も魅せず みずから手を下さずに
すべてを変えてしまう
すべてを あらしめ
   *
そして詩人に嘆かせる
──一生は過ぎてしまった もう償えぬ……
   *

(日記1989年)


夜


『エルザの狂人』解説(第五章・第六章・エピローグ)
 
 第五章「グラナダ陥落の前夜」は王国の最後の時と降伏を物語る。
 病いを得たマジュヌーンはジプシーたちの処に身を寄せる。
 その後の一連の出来事はザイドの日記によって述べられる。

 第六章「「洞窟」(一四九二年)は一連の散文と詩から成るテクストで、いままで扱われたもろもろの主題をさらに発展させる。「サクロ・モンテのドン・ファン」「ジャロ・ド・クロワ」などの詩において、アラゴンはアラブ・アンダルシアの恋愛詩の伝統をうけつぎ、愛の観念を明らかにし、エルザの世紀における夫婦の未来を明らかにする。

 「エピローグ」(一九四二〜一九四五年)は「二〇世紀の歌」によって始まり、すでに前章でうたわれた叙情的主題による大フィナーレとなる。

(完)

<自筆原稿>

 第五章「グラナダ陥落の前夜」
えにしだ
 第六章 「洞窟」1492年 LA GROTTE
アラゴン断章
ロルカよ(XVI LES VEILLEURS)
船乗りと詩人の寓話 FABLE DU NAVIGATEUR ET DU POÈTE
 エピローグ(EPILOGUE)

シャクナゲ
姦淫の罪を犯した男1

姦淫の罪を犯した男2

姦淫の罪を犯した男3

姦淫の罪を犯した男4

姦淫の罪を犯した男5

姦淫の罪を犯した男6

(『稜線』71号 2000年3月)

『エルザの狂人』目次


 第四章「1491年」は、人間と時間との関係という主題を扱った一連の詩によって構成される。(「時計」「冬」「春」)
 アンダルシアのマジュヌーンは異端として裁判にかけられる。ひとりの女を崇拝することは、つまり神に向けるべき崇拝を女性にむけることは宗教に反する罪となるからである。それに彼の狂気はその不信心をかくす仮面にすぎないのではないか。彼は牢獄に投げこまれる。そこにはまた「姦淫の罪を犯した男」が投げこまれていた。
 その間にも、グラナダの包囲網は締めつけられて、敵は郊外に迫っていた。しかし、モール人たちのグラナダは内部抗争の舞台となっていた。「熱狂者たちが広場に現われて、ある者は、カスチリヤの侵略者にたいして武装しようと聴衆を扇動し、またある者は、大臣や軍部やユダヤ人を名指しして、攻撃すべきは裏切りの都(みやこ)であると叫んだ」
 民衆の蜂起を怖れて、警察は急いで市民たちの逮捕を始める。カサバの牢獄はあらゆる種類の人間によって溢れる。
 王ボアブディルは高官たちにイスラムの旗を掲げるように促すが、むだである。そこで昔の大臣アブール・カシムをサン・タフェに派遣して敵と交渉させる。
 牢獄のなかで、牢番はマジュヌーンに歌を強要する。軍司令官のムーサもまた彼を蒸し風呂の浴場に呼んで歌わせる。その後マジュヌーンは釈放されてふたたびおのれの愛の舞台グラナダをみいだす。(「エルザの祈り」)
 大臣アブール・カシムはグラナダ降伏に九十日間の猶予をスペイン軍のイザベルとフェルディナンドに受諾させる。
 市民たちは、未来はどうなるのか、案じて語り合う。折しもペストがグラナダの市(まち)を襲う。それはユダヤ人のせいだといって、アラブ暦二月二五日の夜、ユダヤ人虐殺が行われる。こうしてマジュヌーンの友人ザイドの婚約者の若いシムハも暴行され、犠牲となる。それにつづく詩は、この反ユダヤ主義を告発して鳴りひびく。

 「だがあれはユダヤ人なのだ」ときみは言う
 そんなきみの言葉にきみは恥かしくないのか

(つづく)

<自筆原稿>

 第四章「1491年」
・姦淫の罪を犯した男
・もぐりこんでゆくもの LE FORNICATEUR
・エルザへの祈り PRIÈRE D'ELSA
・いまや語るのが作者なのかメジュヌーンなのか わたしにはわからない

シャクナゲ
むだな戦争 CHANT DES COMBATS INUTILES

わたしは見た 軍刀を振り回す手を
わたしは見た 馬が野を駈けまわり
鋭くいななくと 後脚で立ち上るのを
外套(マント)がひるがえり 拍車が当てられ
腹に血がにじんで 馬が跳びはねるのを 

わたしは見た 空にひるがえる軍旗に
怖れおののく 鷲や山鳩たちを
わたしは見た 遠く大地を吹きさる風を
戦場のチェス盤に燃えあがる火を
逃げさって 最初に倒れる犬どもを

切り落せ 手綱を振るキリスト者の拳を
削ぎ落せ その耳を 鼻を 頬を
わたしは見た かれらの泉から迸りでる血を
鍬の下の草のように 崩折れた人間を
わたしは見た 穴ごとに呻めくその肉体を

わたしは見た 棍棒と槍が支配するのを
わたしは見た くちづけを忘れた口を
わたしは見た 沈黙ののどをかっ切る刃(やいば)を
わたしは見た 踏みにじられた生を
わたしは見た 百回も拷問された死者たちを

わたしは見た 空しく向きあった敵同士が
つまらぬことで 二重の虐殺をかさね
ぶざまな臓腑をひきずって逃げてゆくのを
夜になっても 勝負はつかずに揺れて
両軍がくりひろげる おなじ残酷さを

わたしは見た あの野獣が まひる
食事を終えると 岡に逃げさるのを
そうして怪物の愛のベッドのうえに
月は 闇を布団のように押しのけて
その輝く腕のなかに肉体たちを捉えるのを

 この詩は、アラゴンの長詩『エルザの狂人』のなかの一篇である。
 『エルザの狂人』は、中世スペインにおけるイスラム最後の王国──グラナダ王国が、一四九二年、カトリック王軍によって陥落した悲劇を中心に、イスラム文化の理解と摂取、アラブの伝説的な詩人メジュヌーンなどの口をとおして、戦争、生、死、愛、とりわけ未来など、全般的な問題をうたった、もうひとつの大いなる歌といえよう。
 この詩は、一四四〇年のグラナダ郊外ベガで行われた戦いを歌ったもので、そのときスペイン側は、カトリック王フェルディナンの指揮のもとに、四万の歩兵と一万の騎兵が戦った。
 「切り落せ・・・・・・キリスト者の拳を」というのは、アラゴンがイスラムの側に立って、これを書いていることを示している。

(自筆原稿/1999)
江戸川
(第二章・第三章)

 第二章は、「大臣アブル・カシム・アブド・アルマリクの空想的な生涯」という題名もち、「国土回復戦(レコンキスタ)」の歴史を敗北したイスラムの側から描いている。「アンダルシアの哀歌」はそれを反映している。

 王ボアブディルは人夫に変装して、哲学者たちの夜の集会に出る。この「理性の手品師」たちは、ギリシャ哲学者アベロエスの理性論を信奉している。ギリシャ哲学を支持するファシファたちによれば、知の進歩は人間能力の尺度であって、一歩一歩、人間の意識を奇跡や神秘から解放するということにある。こうしてすべての人間のあいだに平等が生まれ、理性の主権が確立する。これらの進歩がひとつにまとまって、将来、理性的な人間たちの共和国が現実のものとなるだろう。この故に、未来は「アンダルシアにおける新しい理性(イデエ)」となる。
 未来についての討論会が開かれる。イスラムの狂信的純粋主義者であるファリジィトたちと、理性を信仰の助けと見るムータジリートたちとが対立する。前者は「そこには神の未来しかない」と言い、後者は「そこには人間の未来しかない」と言う。
 アンダルシアの詩人イブン・アミルがアラゴンに代って「未来の歌」をうたう。つまりアラゴンはこの詩によって討論会に参加する。そしてこの詩は『エルザの狂人』のなかの頂点のひとつであって、人間追求、死にたいする闘争というアラゴンの主題がみごとに追求されている。未来とは、進歩のひとつの過程であり、ひとつの段階であり、人類の思想が不幸から奪いとる地歩である。「男の未来は女だ」という言葉は、無神論的ヒュマニスムと生まれてくる新しい世界に切り離しがたく結びついている。

 「グラナダ包囲」はムーア人たちの不意をつく。王の御前会議で、高官たちは敵のカトリック王たちとの交渉を主張する。カトリック王たちは彼ら高官たちの財産を保証してくれるだろうという思わくから。それはちょうど、一九四〇年のパリ陥落およびヴィシー政権の頃を思い出させる。そのとき、フランスの支配層はヒットラーとの交渉に専念し、ヒットラーの対ソ攻撃を期待するという思惑にとりつかれていて、もっぱら国内の民主勢力を弾圧したのだ。その頃を思いあわせてアラゴンは書く。「われわれは後年、わが国の高官たちが、祖国を守ることに絶望困惑し、兵士、労働者、教師たちを汚辱のなかに投げこみながら、国を守る振りをしていたときのわれわれをそこに見る思いがする。

「無用な戦争」
 降伏を主張する大臣や高僧たちはユダヤ人を非難し、ユダヤ人狩りをおし進める。王ボアブディルはユダヤ人擁護にまわり、悪辣な大臣アブル・カシムを解任し、その代りにユースーフ・ベン・クニヤを任命し、ムーサ・ベン・アブール・ガジを精鋭部隊の司令官に任命する。この愛国的将軍はふたたび弾薬の製造を命じ、青年たちを結集して敵に当らせる。彼はグラナダの門を開かせ、そこに押しよせる難民たちを迎え入れる。一四九〇年、グラナダのレジスタンスの主要な目的は、フェルディナンド軍をゲリラ戦によって攻撃することであった。
(つづく)

<自筆原稿>

 第二章 大臣アブル・カシム・アブド・アルマリクの空想的な生涯
アル・アンダルシアの哀歌 LAMENTATION D'AL ANDALUS POUR UN JEUNE ROI

 第三章「1490年」
未来の歌 ZADJAL DE L'AVENIR
・むだな戦争 CHANT DES COMBATS INUTILES

シャクナゲ
『エルザの狂人』解説

(第一章 グラナダ GRENADE)

 『エルザの狂人』は、六つの章と一つのエピローグから成る。全体では、詩と散文などおよそ二百の断章から成り、終りには、ここで使用されているアラブの表現についての説明、および歴史的、文献学的、哲学的な重要な用語集が置かれている。

 序文と最初の歌には、この作品が書かれることになる状況が描かれている。
 最初の章は、北アフリカからやってきて、スペインを征服したムーア人たちのグラナダを、イスラム独特の相のもとに描いている。その社会では、すべての階級にわたって、ひとびとは詩作や文学にたいして旺盛な愛好を抱いていた。
 ボアブディルの肖像は、崩壊する小さなグラナダ王国の最後の王として描かれる。それはカスチリアが宣伝に用いた「ちいちゃな汪」Key chico というイメージには意を介さない。
 青年はそこではすべての王におけるように、二十歳になると暴力に走り、口づけを求め、若者の血気で神や愛を否定する。(「ちんぴらの歌」を参照)ムーア人の若者たちと現代の黒皮のジャンパーを着た街の不良たちとの類似は偶然ではない。「ファキル」Fakirというアラブの大衆扇動者は、スペイン・イスラムの反動的傾向を象徴する。
 ケイスすなわち狂人マジュヌーンが登場するのは、布地の市場アルカイセリアにおいてである。(マジュヌーン(狂人)とはケイスに与えられたあだ名である。)作者ジャミが『マジュヌーンとライラ』のなかで歌ったように、マジュヌーンは市場で恋人エルザをうたう。しかし彼は先人たちの叙情的伝統をうけつぎながら、その革新を試みる。

アンダルシアのマジュヌーンは大膽にも われらの詩的伝統とは逆に
無宗教者イブン・バジジャの創始した「歌(ザジャール)」という世俗的な歌を採用して
彼は黒い石の道を知らない崇拝者として
その鼻もちならない崇拝をイスラムに無縁なひとりの女に捧げる

このマジュヌーンの愛とはどのようなものであろう?女性を崇拝し、神に捧げるとは、異端ではなかろうか?この社会の敬虔な虚無が、数世紀以来、人間を疎外してきたことを詩人は暴く。その疎外をさらに助けたのは、偽善が高尚な理念や感情によって飾られ、ドグマによる支配権力の仮面のかげに守られてきたことである。

……ではきみは知らないのか きみの生きるこの世界が むかしから永遠に敬虔な虚偽のままだということを……あのひとびとの幸福を盗みとる奴らやひとびとの夢をふみにじる奴ら 飢餓をつくりだす山師どもや隠れた放蕩者ども 高利貸や牢獄の看守ども 売春宿のおやじどもやひとの肉体と汗を売る奴ら 合法的にひとを拷問にっける奴ら 暗殺者どもや王侯ども あるいは宮廷や戦争やどんちゃん騒ぎでちょっとばかり儲ける小者ども ああ やつらがその高尚な感情 寛大な心 隣人や民衆への神の愛を並べて見せる、その手助けをきみはしているのだ しかも善意の仮面の下にかくれた悪臭を放つ汚らわしい「野獣」も顔をあばきうたうひとりの歌い手いないのだ……」(「人生と呼ばれるこのグラナダ」)

 マジュヌーンの歌は、彼につき従う少年ザイドによって集められる。ザイドはそれぞれの詩に註釈をつけて、その寓意を示し、あるいはアラゴンとエルザの個人的な生活とのかかわりを明らかにする。
(つづく)

<自筆原稿>

 第一章 グラナダ GRENADE
・巻頭の歌 CHANT LIMINAIRE
・チンピラの歌
・人生と呼ばれるこのグラナダ CETTE GRENADE APPELEE VIE
・鏡 LE MIROIR
・讃歌のなかの讃歌 Cantiques des Cantiques
・座る場所の詩章 STROPHES DES LIEUX OU S'ASSEOIR
・火 LES FEUX

エルザ

 エルザの狂人

 ──巻頭の歌 CHANT LIMINAIRE


明日のない身の 最後の時を
わたしは 壕(ほり)のなかで過した
ほのかな 夜明けを待ちながら
わたしは宮殿を追われた 少年王
死が わたしの脇に坐っていた
グラナダの陥ちた 前夜

風も凍(い)てつく アランブラに
わたしは 痴呆のように生きた
うつろな眼 灰色のくちびる
つぶやく噴水 いつか傷つき
いま割れて 砕ける 鏡よ
グラナダの陥ちた 前夜

わたしは 使いはたされた夜だ
朝がた おのれの思想を探すのだ
またわたしは もう賭け金もなく
自分のシャツを引き裂く賭博者だ
すでに刺された心臓をひとが狙う
グラナダの陥ちた 前夜

グラナダの陥ちた 前夜

        (飯塚書店『アラゴン選集』)

*訳詩集『エルザの狂人

エルザの狂人中表紙

 アラゴン断章
                大島博光訳

 頂上に辿りつくのを わたしはいつも自分の 義務だと信じてきた
 まるで 全人類をこの身に担っていたかのように
 まるで 全人類をこの身で明日の展望台へとみちびいていたかのように
 まるで 全人類をそこへみちびく任務を果していたかのように
 ああ なんという子どもだろう 子どもだろう わたしらは
 群衆のなかで 色のついた紙きれで遊んでいる なんと哀れな小さな子どもだろう

 この断章は、アラゴンの長大な詩『エルザの狂人』の終りに近い部分、「洞窟」の章にある。この断章の前には、よく引用される、つぎのような有名な詩句がある。

 わたしは過去を思い描いた たちまち移り たちまち過ぎるこの現在を追い越すために
 わたしは過去を思い描いた 美しい未来を 見るために

 アラゴンがここで「思い描いた過去」は、十五世紀末、スペイン・グラナダのイスラム王朝最後の王ボアブディルの悲劇──グラナダの陥落」を中心とし、アラブの悲恋物語「ライラとマジュヌーン」を織りまぜ、とりわけマジュヌーン(アラブ語で狂人を意味する)の口をとおして詩人じしんが歌い語るという形式をとっている。こうしてこの大作では、戦争、平和、未来、人間の運命などが追求され、アラゴンの詩の集大成といわれ、その詩業の頂点のひとつといわれる。
 さて、この「断章」にもどろう。

  「まるで 全人類をこの身に掩っていたかのように……」
というのは、だれの眼にも大言壮語と見えるだろう。だから、むろん、アラゴン自身も、そういう自分自身を「なんと哀れな小さな子どもだろう」と自嘲している。それでもなお、「頂上に辿りつくのをいつも自分の義務だと信じてきた……」と言わざるを得なかった。そのとき、この大言壮語を、この大いなる善意を、だれが笑うことができよう。そうしてやはりそのとき、世界に呼びかけつづけたあの実践的な大きな詩業のなかから、アラゴンの偉大さが浮かび上ってくるのである。
(『稜線』1996年10月)

ぶどうを抱く

えにしだ1
えにしだ2
えにしだ3


(『稜線』1999年7月)
アネモネ
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 鏡
                       ルイ・アラゴン/大島博光訳
 
たとえ 鏡が映したとしても
薔薇とこがねいろのミモザを
風にそよぐ 猫柳を
赤く血にまみれた サルビアを
すみれと リラの花を
たとえ 鏡が映したとしても
鏡はそれで 疲れた眼を癒しただけだ
また 斑鳩(じゅずかけばと)の 白い羽根を映し
つるにちにち草の眼をそっと盗み
空を そのひと切れを小さく映し
太陽を映し 降る雨を映し
光に 恋いこがれたとしても
おまえが やって来たとき
鏡は 身ぶるいしたのだ
おまえの唇を 酒のように吸い
おまえの音楽に 身も世も忘れた
肉体の 楽園の奥で
おまえが 出てゆくときには
もう なんにも見えはしない
深い眠りのなかで ただ
おまえだけを夢みるのだ
ミモザにも 薔薇の花にも
ほかのものには眼もくれず
むかし酔ったものを忘れはて
いまはただ エルザを映す鏡なのだ

<訳詩集「エルザの狂人」草稿>

 讃歌のなかの讃歌 
                       ルイ・アラゴン/大島博光訳

わたしは きみの腕のなかで 半生を過した
     *
この世の始めに 神はアダムの口に
すべての物を名ざす言葉を与えた
アダムの舌の上で きみの名はじっとわたしを待っていた
薔薇の咲き出るのを待っている冬のように
    *
わたしは 丘のうえへやってきて
一羽の鶉を捕えた男にそっくりだ
その幸運をどうしていいやら 男には分らぬのだ
おお なんと羽根のやわらかいことか
しかも 胸のどきどきするこの恐さ
    *
わたしの唇が呻めいていた時 きみの花環のような腕は
わたしの魂のまわりを アネモネのお花畑にしてくれた
    *
きみは静かに テラスからテラスへと
降りてくる 月の足どりで わたしの夜の中へ
    *
わたしには 海の話はするな
きみを生涯うたいつづけてきた
  わたしには 
わたしには きみの母の話はするな
きみを生涯抱きかかえてきた
  わたしには 
    *
わたしの手のひらは きみの肩の匂いを大事に秘めてきた
    *
きみの顔は わたしの人生の星空だ
    *
きみはわたしのなかを歩いてゆく 深い音楽よ
遠のいてゆくきみの足どりの香りが聞こえてくる

 エルザへの祈り
                            ルイ・アラゴン

おお どんな言葉も おまえを捉えることはできぬ
どんな絆(きずな)も帯(おび)も おまえをつなぎとめることはできぬ
おまえの その眼は ふたたび輝やきはじめる
わたしという星が またたきをやめるというのに
そうして夕ぐれだろうと 朝だろうと わたしは
おまえの裸わな足もとに 泡のように膝まずく 
それなのにおまえは その泡のやむにやまれぬ運命(さだめ)を
  まるで霧のように 抜き散らしてしまう

わたしは おまえの足跡をつけてゆく獣(けもの)だ
わたしは おまえの船跡をとどめている海だ
風に鳴るおまえの扉の前に たたずむ夜だ
わたしは おまえが通ると はたと止む物音だ
わたしは おまえをあやし 抱きしめる影だ
わたしは おまえをつくりだした伝説だ
おまえは わたしの両腕から 抜け出られずに
  いつも わたしの両腕の中で 疲れていた

わたしのうたった歌で よみがえるおまえ
わたしは手を合わせて おまえをおがむ
わたしの眼はめくるめき 気も狂わんばかり
おまえは わたしの足どりを軽くしてくれる
どうか くちびるにかがやく 紅(ルージュ)のような
おまえの顔を わたしの方に 見せておくれ
わたしの苦しみ 痛みがもっとやわらいで
  とりみださずに 静かに死ねるように

わが心臓の横たわる土の中 グラナダも滅びる
棕梠の木立も色あせる 新しいパルミールの廃墟
おまえの魔法の 優しい ふしぎな力をふるって
モウルの池に おまえの姿を映しておくれ
滅びゆくアラブの総督たちの 最後の陽の光で
そこに愛は さかさまに も一度姿を現わす
明日(あす)は そっとおまえを眠らせておきたいものだ
  夜明けの空が 赤らんできた

後の世の人にも頼もう おまえを返えしてくれと
どうかそこから わたしらの処へ戻ってきておくれ
いま イスラムの終ろうとする 最後の時に
どこからでもいい わたしの処へ戻ってきておくれ
そうすれば わたしの夢にも幕が下りるのだ
国じゅうを荒しまわった 剣と戦火に幸あれ
エルザよ せめて おまえのその膝のうえで
  わたしを死なせておくれ

<訳詩集「エルザの狂人」草稿>
 もぐりこんでゆくもの
                         ルイ・アラゴン

もぐりこんでゆくものには すべてが海だ
もぐりこんでゆくものにはすべてが苦(にが)い

やってきたかと思えば もうもぐってしまう
自分が 自分の見知らぬ者になってしまう

眼の光りも かぐろく塗りこめられ
もう愚痴や嘆きも ひっそり静まりかえる

もう何も映さぬ鏡 止(や)んでしまった音楽よ
わたし自身よ どこへ行くのだ どこへ

あんまり 海が深いので
ひとと藻とが からみあう

その瞬間は あんまり真っ暗なので
存在(ひと)は めくらめっぽうに落ちてゆくのだ

そこにも やはり心配苦労があるのだ
魂が 不滅であることを怖れるような

絶体絶命の ひとりぼっちだ
もう 心臓さえ 脈うたぬのだ

終りもなければ 始まりもない
もう 気が狂うこともありはしない

どれが わたしの手やら 心臓やら
どれが 歩(あゆ)んだ道やら あやまちやら

生まれも 履歴もはぎとられ 自分のいない
もぬけの殻の世界を歩いてゆく

もう存在しないというのに どこへ行くのか
いや 遠のかないように こっちへ来るのだ

どこもかしこも 同類ばかり
眼もない 口もない 耳もない

もう 寿命の終えた がらくたのようだ
もう 二度と出会うことのない言葉のようだ

もぐりこんでゆくものよ きみは落ちてゆくだけだ
すべての領地を 取りあげられて

残るのは きみの鋳型からの鉱滓(かなくそ)だ
消え失せた指輪 踏み消された足跡だ

きしり鳴る扉も だらりと開けた唇も
みんな 自分の死にざまに見える

時を刻(きざ)む音が 血のしたたる音にきこえ
すべての瞬間が もう自分の最期かと思う

時は わたしの手の杯からこぼれ落ちて
わたしの膝の丘に 墓穴を掘る

時ももう いままでの時とはちがう
消えて火照(ほてり)と変わった火のように

わたしは 自分のランプを吹き消すめくらだ
こめかみにも 時の搏(う)つのがきこえてくる

時の搏つのを聞きながら 待っている
生命(いのち)ありながら いのち息絶える時を

息絶える時へ もぐりこまぬうちに
時は ひとつの夢の始まる朝となる

その意味は 忘れられること
自分から 解き放たられることだった