新日本新書『ピカソ』 "Picasso"

ここでは、「新日本新書『ピカソ』 "Picasso"」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


エリュアールの「ゲルニカ」

 一九五〇年、ピカソの「ゲルニカ」の映画がつくられたとき、エリュアールはその解説「ゲルニカ」を書いた。それはピカソの「ゲルニカ」が描かれた時代の雰囲気を生き生きといまに伝える美しい散文詩である。

 ゲルニカ         ポール・エリュアール

 ゲルニカ。それはビスカヤの小さな町だが、バスク地方の由緒ある古都である。そこにはバスクの伝統と自由を象徴する樫の木がそびえていた。だがいまやゲルニカは、ただ歴史的な、涙をそそる想い出の地でしかない。
 一九三七年四月二十六日、市(いち)のたつ昼さがり、フランコを支援するドイツ空軍がぞくぞくと編隊をくりだし、三時間半にわたってゲルニカを爆撃した。
 町は全焼し全滅した。死者は二千にのぼった。みんな非戦闘員の市民だった。この爆撃の目的は、爆弾と焼夷弾との併用効果を、非戦闘員の住民にたいして実験してみることにあった。

 火にも耐えた顔 寒さにも耐えた顔
 手荒い仕打ちにも夜にも耐えた顔

 侮辱にも殴打にも すべてに耐えた顔たち
 いまあなた方を定着させているのは空虚(うつろ)さだ

 いけにえとなった 哀れな顔たち
 あなた方の死は 模範となるだろう

 死 ひっくり返された心臓
 やつらはあなた方にパンを支払わせた  
 あなた方の生命(いのち)で

 やつらはあなた方に空と大地と水と眠りを支払わせた
 そして眼を蔽うばかりの惨(みじ)めささえをも
 あなた方の生命(いのち)で

 心優しい役者たち かくも悲しくかくもいじらしい役者たち
 はてしないドラマの役者たち
 あなた方は死などを考えたことはなかった

 生と死への恐怖や勇気などを 
 かくもむずかしく かくもやさしい死などを

 ゲルニカのひとたちはつつましやかな庶民だ。かれらはずっとむかしから自分の町で暮らしている。ほんのひと握りの金持ちとたくさんの貧乏人とで、暮らしは成りたっている。彼らはじぶんの子供を愛している。暮らしはささやかな幸福と、明日を思いわずらう、大きな心配苦労から成りたっている。明日も食わなければならないし、明日も生きなければならない。だからきょうは希望を抱き、きょうは働くのだ。
 わたしたちはコーヒーを飲みながら新聞で読んだ。──ヨーロッパのどこかで、殺人部隊が人びとを蟻の群のように踏みつぶしていると。腹をえぐられた子供だとか、首を斬りおとされた女だとか、全身の血をどっと一挙に吐きだした男だとか、ほとんど想像もつかない。だが、スペインは遠い。国境の向こうだ。コーヒーを飲んだら、自分の仕事に行かねばならない。よそでは何かが起こっていることなど、考えるひまもない。そうしてわたしたちは良心の呵責をおしころしてしまう。 

 明日(あす)は、苦悩と恐怖と死を堪えしのぶことになろう。 
 しかも虐殺をやめさせるにはもう遅すぎるだろう。

 機関銃の弾丸が瀕死の人びとの息の根をとめ
 機関銃の弾丸が風よりも上手に子供たちと戯れる

 鉄と火によって
 人間が炭坑のようにぶち抜かれ
 船のいない港のようにぶち抜かれ
 火のない竃(かまど)のようにぶち抜かれた

 女たち子供たちはおなじ宝をもつ
 春の若芽と きよらかな乳と
 生の持続を
 澄んだ眼のなかに

 女たち子供たちはおなじ宝をもつ
 眼のなかに
 男たちは力のかぎり それを守る

 女たち子供たちはおなじ赤い薔薇をもつ
 眼のなかに
 めいめいが自分の血の色を見せる

 わたしたちの多くは、なんと嵐に怖れおののいたことか。こんにち、人生とは嵐だ、ということはわかりきっている。それなのに、わたしたちの多くは、なん稲妻を怖れ、雷を怖れたことだろう。雷鳴は天使の声で、稲妻は天使の翼だなどと思うとは、なんとわたしたちは愚かなお人よしだったのだろう。だがわたしたちは、燃えあがる自然の怖ろしさを見まいとして、地下の穴倉に降りて行ったことはなかった。こんにち、世界の終りはわたしたちにかかっている。めいめいが自分の血を見せるのだ。

 ついに子供たちはぼんやり放心した風をし
 わたしたちはいやでもおうでも
 いちばん単純な表現をとる羽目になる

 なんとそこには喜びの涙があった
 男は腕をひろげて愛(いと)しい妻を迎え
 慰められた子供たちは笑いながら泣きじゃくった
 死者たちの眼は深い恐怖の色をうかべ
 死者たちの眼は非情な大地の酷薄さをたたえ

 犠牲(いけにえ)となった人たちは自分の涙を飲んだ
 毒のように苦い涙を

 飛行帽をかむり、長靴をはき、きりっとした美青年の航空兵たちが、爆弾を落すのだ。狙いをつけて。精確に。地上では上を下への大混乱となる。善に心をくだく偉大な哲学者なら、そこからひとつの理論体系をひきだすまえに、この事態をじっくり見つめるだろう。なぜなら現在とともにいま四散するのは、過去と未来なのだ。爆撃の猛火のなかで断ち切られ、焼きほろぼされるのは、過去・現在・未来という一連の連続なのだ。蝋燭のように吹き消されるのは、生の記憶なのだ。

 人びとの上に血が流れ 動物の上に血が流れ
 まるでむかつくような悪臭にみちた葡萄のとりいれだ
 それにくらべれば 死刑執行人の方がまだきれいだ
 眼はすべて抉りとられ 心臓の音はみんなとだえた
 大地は死者のように冷たい

 さあ、死臭を嗅いでいる獣(けだもの)をとりおさえにゆくがいい。さあ、母親のところに行って、子供の死をよく話して聞かせるがいい。さあ、燃える炎に想いを打ち明けにゆくがいい。この世の大人たちが、子供たちを敵にまわし、まるで戦争の機械に襲いかかるように、揺りかごに襲いかかるのを、どうやって理解させることができよう。あるのは夜だけだ。それも戦争の夜だけだ。悲惨の姉で、怖ろしくもいまわしい死の娘である戦争の──

 男たちよ きみらのためにこの宝は歌われた
 男たちよ きみらのためにこの宝は浪費された

 想ってもみたまえ、きみらの母親、兄弟、子供たちの、その断末魔の苦しみを。想ってもみたまえ、あのいのちの果ての、死との格闘を、愛するひとたちの死の苦しみを。さあ、殺し屋どもからきみら自身を守るがいい。子供や老人は、この怖るべき喪の中で、とてつもない生の恐怖に腹を締めつけられるのを感じる。こうして生命(いのち)果てようとして、かれらは突然、生きたいという希いのばからしさを感じとるのだ。何もかもが泥と化し、太陽も暗くかげる。

 惨禍の記念碑(モニュマン)
 崩れ落ちた家家と瓦礫の山と
 野っ原の美しい世界
 兄弟たち あなた方はここで腐肉と化し
 ばらばらに砕かれた骸骨と変りはて
 地球はあなた方の眼窟のなかで廻り
 あなた方は腐った砂漠となり
 死は時間の均衡を破ってしまった

 あなた方はいまや姐虫と鴉の餌食だ
 だが あなた方は顫えるわたしたちの希望だったのだ

 ゲルニカの焼け焦げた樫の木のしたに、ゲルニカの廃墟のうえに、ゲルニカの澄んだ空のしたに、ひとりの男が帰ってきた。腕のなかには鳴く仔山羊を抱え、心のなかには、一羽の鳩を抱いていた。かれはすべての人びとのために、きよらかな反抗の歌をうたうのだ。愛にはありがとうと言い、圧制には反対だと叫ぶ、反抗の歌を。心からの素直な言葉ほどにすばらしいものはない。かれは歌う──ゲルニカはオラドゥールとおなじように、ヒロシマとおなじように、生ける平和の町だ。これらの廃墟は、恐怖(テロル)よりももっと力強い抗議の声を挙げているのだ。
 男はうたい、男は希望をかかげる。かれの苦しみは雀蜂のように、険(けわ)しくなった青空のなかへ飛びさってゆく。そうしてかれの歌はやはり蜜蜂のように、人びとの心のなかに蜜をつくった。
 ゲルニカよ! 無辜(むこ)の人民は虐殺にうち勝つだろう。
 ゲルニカよ!……

新日本新書『ピカソ』

母子像


アルベルティによる墓碑銘

 すでに述べたように、ピカソの遺体は南仏エクス・アン・プロヴァンス郊外ヴォヴナルグの古城に埋葬された。死んでも故国スペインに帰ることのできなかったピカソを悼んで、アルベルティはつぎのような墓碑銘を書いた。

 ピカソの記念碑のための碑銘    ラファエル・アルベルティ

フランスの大地よ 彼の根を守ってやってくれ
フランスの大地よ 彼の根を潤(うるお)してやってくれ
それが日ましに深く根を張り 遠く伸びて
ついにスペインの大地に入り込み それをつき破って
そこに新しい空気を吹きこんでくれるように
            
フランスの大地よ 
彼の上に軽やかであってくれ 彼がきみの上に
どんなに重たかったか 忘れないでくれ

かれは遠くからやってきた男だ
地上にやってきた不思議な光だ
そしてとても遠くへ行ってしまって
われわれには光が残った

彼は持ってきた以上でなくとも同じ位を持ち去った
きみが泥棒なら 足を止めずに通り過ぎたまえ
ここに眠るものは 夢みる
穂麦は 絵筆だと
彼のただ一つの収穫(とりいれ)は穀物だと

ここにはすべての色が横たわり
考えられうるすべての線が横たわる
それらは互いに噛みつき 結びつき ほぐれ
それから仲直りをし とつぜん抱き合う

ゲルニカはわたしだ 自由の木だ
さあ わたしの木蔭に坐って
歌ってくれたまえ

わたしは死にはしない
わたしの墓から青を剥ぎとり
海べに横たわって青に見とれてくれ給え
  
ここにはだれも住んでいない
ただ ひとつの名前があるだけだ
だがきみは 世界じゅういたるところで
わたしに出っくわすだろう
      
もしも夜明けに
牡牛たちの啼くのが聞えたら
それはわたしではなく
ここに閉じ込められた人たちだと 思ってくれ給え

きみは きみはもうここにはいない
土のなかに葬られるやいなや
きみは甦った 永遠に

鳩よ わたしに言ってくれ
どうして今朝(けさ)は飛ばないのか
それでは どうしてきみを描けようか?
                              
 この詩が書かれた時、ファシスト・フランコとフランコ体制はまだ生きていた。「ついにスペインの大地に入り込み それをつき破って/そこに新しい空気を吹きこんでくれるように」──という詩人の願いと呼びかけは、そのようなスペインに向けられていたのである。
 最後に、アラゴンの後の若い世代に属す詩人、ミッシェル・ビュトールのピカソ讃歌をかかげておこう。

▶ムージャンの魔法使いのバラード

<新日本新書「ピカソ」─ピカソの死>

画家の木村勝明さんが大島博光著『ピカソ』の書評を書いていました。
「ゲルニカ」をめぐるエリュアールとの相互啓発、革新自治体ヴァローリスとピカソの関係、共産党への入党のエピソードなど、本書のポイントを簡潔に紹介しています。

ピカソ書評

(『月間学習』1986年10月号)

 この頃の多くの作品において、愛はジャックリーヌにたいする愛の歌として取り扱われていたが、この主題はピカソの手にかかるときわめて強烈な力と多様性をもつにいたり、そうして普遍的な生の力を獲得することになる。そこに描かれている女たちの裸像は、解剖学を無視した扇情的な自由さをもって描かれ、自然体よりも女性の原型への執着をもって構成されている。彼女たちの性器(セックス)は鮮やかな山の谷のように描(か)きこまれ、彼女たちの乳房は熟(う)れた果実のように描かれている。くちづけをし抱擁しあう男と女はひとつにとけあい、その顔を陶酔にゆがめて愛の行為の成就のうちに潰えさる。
 このピカソの愛について、詩人アルベルティはつぎのように書く。
 「こんにち、パブロ・ピカソのように、愛を描き、あるいはデッサンすることは、春画(ポルノグラフ)とは反対に正当なことである。それは健康であり、青春のたくましさであり、永遠のしるしである。ピカソは限界を越える。ピカソは誇張する。ピカソはすべてを普通とはちがった尺度で現わし、われわれはそれを楽しむ。そしてすでに描かれ、あるいはデッサンされた接吻やその他の画面のなかに、(まさに破廉恥な春画(ポルノグラフ)として非難される画面のなかに)、われわれが見いだし、認識するのは、ほかならぬピカソそのひとであり、彼の持続への熱烈な欲望であり、彼の生の躍動であり、抑制である。それらは、その最高の瞬間におけるよりもいっそう大胆なファンタジーと自由さとをもって造形的に表現されているのである。画家が愛のさなかの肉体たちに与えるねじれ、ゆがみ、明らかな破壊は、情念、激情、歓喜、悲哀、優しさ、疲労、生と死であり、一言でいえば、あの美しくも怖るべき戦術的手段を試みる充実した瞬間における、愛の闘争以外のものではない。こうして青年ピカソはおのれを表現しつづける。彼の男らしさはつねに彼の全作品のうえに重くのしかかっている。われわれはそれを限りない生、すなわち永遠と呼ぶ。

 ……ピカソはこんにち版画を彫り、輪郭──とりわけきわめて露わなエロティックな場面の輪郭をデッサンする。躍動とヴァイタリティと抑制をもって。まるで八十九歳の彼の手は、現代のもっとも若わかしい手だと言われてもいいようだ……

 ここでは、すべては接吻(くちづけ)のひびきであり、えも言えぬ抱擁の開花であり、愛のなかでからみあった肉体たちの戦慄であり、定められた瞬間をのがさないように行動しようと緊張したピカソ的熱狂である。そこでは、ほんの一瞬のうちに生ぜんたいが要約され得るし、永遠の息吹がそこを吹きぬけるかも知れない。

 これらの愛のヴィジョンのあるものの中からは、やはり怪物たちの分解された唸りや沈黙が聞かれるとしても、この光景はきわめて古典的である。そこにはアンチーブの青空の下の、海辺での昼寝、砂の上での愛の襲撃など、楽しい日々の思い出がある。それらの軽やかな線のなかには、眼に見えない海の存在が感じられる。銅版のうえにラファエルとフォルナリーナの愛の闘いを堂々と描いたと同じ手の躍動が感じられる。

 ピカソのように、このようなリリスムの段階に線を高めた詩人はかつてなかった。そこには、ぴんと張った絃(いと)をとつぜん爪弾(つまび)いたときのような振動がある……ピカソはここで悪魔のペンというよりはむしろ天使のペンでデッサンしている。彼は恋人たちを破滅させていない。反対に、恋人たちの裸の肉体は、彼のギリシャ的な気晴らしのデッサンに近い官能的な美に到達しており、あるいは日本のエロティックな版画をはるかに思い出させる……」(R・アルベルティ「アヴィニョンにおけるピカソ」)
(この項おわり)

<新日本新書『ピカソ』>

ピカソ画集

 アヴィニョンにおけるピカソ展──愛について

 南仏アヴィニョンには、「アヴィニョンの橋で輪になって踊る」という古いフランス民謡で知られる「アヴィニョンの折橋」が、ひろいローヌ河のなかほどで折れたままの姿を残している。この橋の岸辺近い小高い丘に、法王庁宮殿がいかめしくそびえている。一三〇九年から一三七八年まで、アヴィニョンは法王庁の所在地であった。
 この法王庁宮殿で、一九七〇年五月から十月にかけてピカソ展がひらかれた。この展覧会を思い立ったのは、クリスチャン・ゼルボスの娘イボンヌ夫人であった。前年の秋、イボンヌはムージャンを訪れて、一九六九年に制作されたピカソの絵画展を開く承諾をピカソからとりつけていた。不幸にイボンヌはそれから数週間後にとつぜん死んだ。父親のゼルボスがこの計画をうけついで実現したが、その彼も次の年には死ぬことになる。偶然、これらの不幸に会いながら、この展覧会は二十世紀における人間讃歌、生への讃歌のもっとも熱っぽい舞台のひとつとなる。
 このピカソ展には、一九六九年一月から一九七〇年二月二日までに描かれた一六七点の油絵と四五点のデッサンが陳列された。パイプをくわえた男たち、アレキザンダー・デュマの三銃士にも似た、剣や銃もった銃士たち、レンブラントに似た画家たち、それから生への讃歌をかなでる十五の接吻(くちづけ)、葡萄の葉っぱを取っぱらった十五の抱擁……。
 これらの銃士たち、恋人を抱擁する男たちを夢中になって描いていたとき、ピカソは妻に叫んだ「ジャックリーヌ!あの男がやってきたよ、またやってきたよ!」──画想はぞくぞく画家を襲ったのである。その頃、ピカソは数時間で一枚の絵を描き上げ、ある時には、一日に数点の絵を描いたといわれる。
 この展覧会に並べられた作品において支配的な主題は、やはり愛であった。それはアラゴンをしてつぎのように歌わせたものである。

 かつて絵画において 愛することについて
 これほど気高く粘り強い宣言はなかった
 欲望と悦楽の名を これほど大胆に
 声高く呼んだ声はなかった
(つづく)

<新日本新書『ピカソ』>

ピカソ 
パブロ・ピカソ「接吻」 1969年
 

 また、一九六二年十月末、キューバにたいするアメリカの軍事干渉の危機に際して、ピカソは皿の上のエビや魚などを襲おうとする獰猛な猫を描き、その翌日、ダヴィドの「サビーヌ人たちの反乱」やプッサンの「幼な子たちの虐殺」のテーマによるヴァリエーションを描く。馬に乗った戦士が剣をふりかざしながら女をふみにじっている。それはまるで「ゲルニカ」から出てきた女のように見える。右手の窓では、やはり「ゲルニカ」のもうひとりの女が叫んでいる。こうして虐殺の叫喚と狂気にみちた大作「サビーヌ人たちの虐殺」が描かれた。エレーヌ・パルムランは言う。
 「戦士たちは……楯をもち、虐殺をもたらす。彼らはプッサンの、ダヴィドの、あるいはピカソの馬に乗って、ユダヤの、ローマの、ゲルニカの女たちを殺している……この絵は善と悪について、残酷について、幼な子について、苦しみについて、弱さについて語っている。」(「画家とそのモデル」)
 これらピカソの巨匠たちとの対話についてはいろいろな見方がある。フェルミジェは言う。
 「これらのヴァリエーションは皮肉でほとんど冒涜的な攻撃性を示している。その動機は依然として神秘である。」
 またアラゴンはこの問題についてつぎのような詩句を書いている。

  亡霊たちと対話をひらくほどに
  おのれを空(むなし)うしようとしてやめなかった男のあとを
  彼自身のかなたに どのように追い辿ろう
  画布の上に降りてくる夜を拒むために悲壮に選びだされた あの人たち
  あの選ばれた好敵手たちのカタローグ
  あの チェス勝負
  会話しながら 彼らに投げる あの挑戦
  その会話も クラナッハ レンブラント・ヴァン・リジン
  「草上の昼食」あるいは
  「女官たち」とは 終ったらしい
  お坐りください アルジェの婦人方
  こんにちは ムッシュー・クールベ
  こんにちは ダヴィド こんにちは みなさん
  さあ お入りください
  いまは 出会いの季節ですから
  おお 問いを投げかける 画家たちよ
  その問いに 彼だけが答える
  絶えず自分自身を否定することで
  ……
  そしてわたしは空しく 彼の眩暈(めくるめき)のなかに
  彼の逃走のなかに 彼のあとを追い
  空しく狂人のように 炎によって火に意味を与えようとするのか
         (「パブロ・ピカソと呼ばれる若者の大いなる日のための演説」)

 ところで、注目すべきことは、ピカソによる巨匠たちの選択が行きあたりばったりではなかったことである。その晩年、ピカソがくりかえし執拗にとり組んだテーマ、画家の前の女、つまり「画家とそのモデル」──ここにこそピカソが巨匠たちのなかに見いだしたテーマの本質がある。この青春にみちた老人にとって、女はおごそかなものであると同時に、いつにもまして魅力的なものであった。この時期のピカソの多くの絵は、肉体的自由への情熱を表現している。アングルの「トルコ風呂」に霊感をえたといわれる、一九六八年のエッチングでは、画家とモデルの関係はきわめて官能的な愛を示している。「アルジェの女たち」は、ドラクロワでは退屈しているが、ピカソではいらだっている。ピカソの「草上の昼食」では、裸婦と彼女をみつめる画家とは向き合っている。
 一言でいえば、カリフォルニー荘の孤独な幸福のなかで、ピカソは過去の巨匠たちを相手に、「画家とそのモデル」のテーマを追い、それについての瞑想を遠く馳せたのであった。それは内面的なレアリティーの深い追求であって、そこにおいて円熟と充実の境地にあったピカソは、画家と妻の関係のなかに、夫婦のもっとも鋭い愛情の発露をみいだしたのである。
(この項おわり)

<新日本新書『ピカソ』>
 さらにヴェラスケスの「女官たち(ラス・メニナス)」の主題によるヴァリエーションにおいては、より積極的な翻案が見られる。周知のように、プラド美術館にある「女官たち」の画面は、画家のモデルになっている王と王妃と、その前にくりひろげられている情景から成っている。画家はこの絵を描くために、この情景の左側に立って、部屋ぜんたいを眺めている。この画家はヴュラスケス自身の自画像であり、彼のそばには、女官たち、小人、犬、王女がいる。背景の開いた扉からは、ひとりの貴族が外へ出ようとしている。この扉のそばの鏡には、ポーズをとる王と王妃が映っている。この鏡は人物たちの役割が逆になっていることを解く鍵である。ピカソの四四のヴァリエーションの最初の作品をみると、この逆になった舞台構造はひとつも変っていない。ピカソが変更している点は、人物たちの造形的な関係にある。ピカソにあっては、画面の中の画家は、画布とお同じくらい大きく、その頭は画面の上縁(うわぶち)に達している。ヴュラスケスからピカソへ眼を移すと、やはりこの引伸しがふかい衝撃を与える。そこに、この人物にたいするピカソの感情的な過大評価をよみとることができる。反対に鏡のなかの王と王妃はぼやけている。そして画面の右側の端役たちや犬は、下絵のままに放置されている。女官たちの衣裳の細部が、わずかにピカソの画面にも移し換えられている。画家はヴュラスケスにあってはおだやかな優雅さをたたえているが、ピカソにあっては、キュビスム風な怪物になっている。この画家こそがこの場面では真の王であって、その頭は造形的混沌のうえに抜きん出ている……。

女官たち

(つづく)
 一八三四年に描かれたドラクロワの「アルジェの女たち」(ルーヴル美術館所蔵。モンペリエ美術館にもう一つのヴァリアントがある)と、ピカソがそこから引きだしたヴァリエーション、たとえばジャックリーヌが主要人物となっている最後のヴァリエーションと比べてみれば、イメージの構造そのものがまったく違っていることがわかる。ここでは造形的な置き換えも、じっさいのヴァリエーションも問題とならない。光とヴァルール、色彩、空間の扱い方、人物の数や配置、どれひとつとっても似ていない。ドラクロワには裸(あら)わな乳房は描かれていないし、画面の右側の地面にねている女もいない。一方、ピカソの画面には、右側に立っている青い衣裳をつけた黒人の召使いはいないし、斜めに巻きあげられたカーテンもない。ただ、画面の右側の下にある絨毯の平面と背景の長方形は残っている。(この長方形は、ドラクロワでは扉であるが、ピカソでは鏡になっている。)またハレムで退屈している女たちの豊満な肉体や衣裳の細部はピカソでも描かれている。──これらのヴァリエーションを描くにあたって、ピカソはドラクロワの絵の複製さえも使わずに、ただ記憶だけで描いたといわれる。したがって、それはドラクロワにたいするピカソの記憶による敬意(オマージュ)だったばかりでなく、主題における出会いでもあったのである。
(つづく)

<新日本新書『ピカソ』>
(5)巨匠たちとの対話

 さて、ピカソは一九五〇年頃から過去の巨匠たちの傑作を彼の流儀でとりあつかい、描き直すということをしている。いわば、巨匠たちとの対話とでもいうべきものである。一九五〇年には、クールベにならって「セーヌの岸べの娘たち」を描き、同じ年にグレコにならって「画家の肖像」を描いている。
 ところが、ピカソがうるさい世間から逃れ、ジャックリーヌとともに「カリフォルニー」荘に閉じこもってから、彼はさらに、ドラクロワ、ヴェラスケス、マネなどの巨匠たちと対話し、他方、「アトリエ」と「画家とそのモデル」のテーマを追求するようになる。
 一九五四年十二月十四日から一九五五年二月十四日にかけて、ドラクロワの「アルジェの女たち」の主題による十四のヴァリエーションが描かれる。
 ついで一九五七年八月十七日から十二月三十日のあいだに、ヴェラスケスの「女官たち(ラス・メニナス)」についての四四のヴァリエーションが描かれている。
 また一九五七年にはクラナッハの「ヴィナスと蜜の盗人(ぬすびと)アモール」によって、グワッシュ画「ヴィナスとアモール」が制作される。
 一九六〇年二月二十七日から一九六一年八月十九日のあいだには、マネの「草上の昼食」の主題によるヴァリエーション二七点が描かれる。
 だが、ピカソは先輩の巨匠たちを模倣しない。彼は先輩たちを彼独得の造形的世界に招き入れる。あるいは先輩たちのテーマや構図をかりて、自分自身の絵画言語で語り直す。ピカソが巨匠たちとの対話をつづけ、そのヴァリエーションを描くのは、古典にたいする自分の違い、自分の新しさ、二十世紀の新しさを強調するためのようである。この頃の主要な作品をもっとよく見てみよう。
(つづく)
(3)ジャックリーヌ・ロック

 シルヴェットとのエピソードがそのまま終わった後、こんどはペルピニャンで出会った、栗色の髪をした若い女、ジャックリーヌ・ロックがピカソの人生のなかに入ってくる。ピカソは七十三歳であった。
 ジャックリーヌは、小さな娘のある、離婚した若い女で、ちょうどフランソワーズとシルヴェットのあいだの年齢であった。一九五五年二月、オルガ・コクローヴァが死んだ後、彼女はピカソ夫人となり、ピカソ最後の伴侶となる。彼女はドラ・マールの時代以後、ピカソが描いたもっともうつくしい肖像画のモデルとなり、ピカソを鼓舞する。(「手を組んだジャックリーヌ」「トルコ衣裳のジャックリーヌ」「ロッキング・チェアのジャックリーヌ」など。)
 この年、ピカソは初めて全国作家委員会の恒例の書籍販売会に、「戦争と平和」(解説クロード・ロワ)をもって参加し、共産党員および支持者たちから大衆的な支持をうけ、成功をかちとる。

 一九五五年六月、ピカソはカンヌの丘の上の別荘「カリフォルニー」荘を手に入れ、そこに移る。この海に面したロココ風の別荘は、棕梠とユーカリの大樹の植わった広い庭園にかこまれていた。その庭園にピカソは自作の彫刻を並べた。
 ここでピカソは、秋から翌年の春にかけて、有名な「アトリエ」の連作を描く。陽光に輝く庭園のうえにひらいた窓、棕梠の木々、ひろいアトリエには、立てかけた画布、家具、日常品など。それらの簡潔な構図がかもしだす、ニースのエキゾチックな雰囲気。そこにはまた、先年亡くなったマチスヘの敬意(オマージュ)をよみとることができる。「アトリエ」のきわめて東洋的な、ほとんどムーア風な様式は、その数ヶ月前に描かれた「アルジェの女たち」のいくつかのヴァリエーションを思い出させる。これら二つの作品の主要人物は、いずれもジャックリーヌである。
(つづく)
(2) シルヴェット・ダヴィド

 一九五四年の春、ピカソはヴァローリスの通りで、若い娘シルヴェット・ダヴィドを知り、一連のたのしい肖像画を描いている。彼女は二十歳で、魅惑的な肉体をしていた。しかし彼女にはイギリス人の婚約者がいて、彼女がピカソのアトリエでポーズをとっている間も、彼女につき添っていて、一歩も離れなかった。シルヴェットの挑発的な魅力は、フランソワーズの次の世代にぞくする、新しいタイプの女のものであった。彼女はピカソに青春の秘密を提供し、ピカソはシルヴェットを変形して描く。
 それから十五、六年後、シルヴェットがムージャンを訪れた。ピカソはアトリエから彼女の肖像画を探してきて、彼女のかたわらに置いた。いまや、真のシルヴェットは、この絵の方であった。シルヴェットが去ったあと、ピカソは満足げな、皮肉な微笑をうかべた。──「絵がいちばん強いのだ……」
(つづく)

シルヴェット・ダヴィット

「緑の椅子のシルヴェットの肖像」1954年

ジャックリーヌ・ロックと「カリフォルニー」荘

(1) 画家とモデル

 フランソワーズ・ジローに去られて、ひとりぼっちになったピカソは急に老けこんだ。一九五三年末、ピカソは、坐っているモデル女とその前の毛むくじゃらの画家という主題にとりくむ。つまり有名な「画家とモデル」という主題のデッサンは、一九五四年二月三日までつづけられ、一八〇点のデッサンが描かれる。それは青春と愛を失った老人の嘆きであり、その内心を語る、哀れで皮肉な日記である。スペイン風でコミックでさえある、「女と猿」「猿とりんご」は、若い女と老人の物語を辛辣に描いている。
 それについてフェルミジエはつぎのような小さな物語を書いている。
 「……彼女は若い。わたしは老人だ。彼女はそこにいて、自分じしんの若さにうっとりと酔いながら冷淡で、わたしは手もさわれない。愛までが彼女におもねる。わたしにはすべてわかっている。だが彼女の美しさをほしそうに眺める以外、何ができよう? 彼女はわたしを離れてわたしを見ない。芸術と人生と、どちらに値うちがあるのか。われわれの仮面をとり換えよう。絵画は退屈だ。おお絵画! そして絵画の愛好者たちは、うるさくて、ばかもので、のぞき魔で、鼻眼鏡をかけた老いぼれだ。わたしは画家だ。そしてシャルダンがいみじくも言ったように、画家は猿だ。絵画はサーカスのようなものだ。われわれはとんぼがえりをうち曲芸をする。そこにはいつも、われわれに拍手を送るばかものがいる。そのうえ女たちは猿が大好きだ……」
(つづく)

<新日本新書「ピカソ」>
スターリン肖像事件

 一九五三年、スターリンの死去に際して、いわゆるスターリン肖像事件が起こる。アラゴンの要請にこたえて、ピカソはスターリンの肖像を木炭で描く。それは三月十二日付の「レットル・フランセーズ」紙の第一面に掲載された。一般の読者が優しい白髪の老人を期待していたのに、ピカソの描いた肖像は青年時代の若いスターリン像であった。それは一部の読者の抗議をよび起こすことになる。そして当時、フランス共産党書記長モーリス・トレーズがソヴェートに滞在中で、その留守中オーギュスト・ルクールとアンドレ・マルチィに指導されていた書記局は、肖像の公表から一週間後、公式の声明を発表した。
 「偉大な芸術家ピカソの心情を疑うものではないが、フランス共産党書記局は、レアリスム芸術の発展のために勇敢にたたかっている党中央委員、同志アラゴンが、この肖像の公表を許したことを遺憾とする。……」
 これはスターリンの肖像事件に乗じた、ルクールとマルチィらの分派主義的陰謀であった。さらに当時現われていた狭量な社会主義レアリスの信奉者たちが、その火に油をそそいだ。
 ピカソはAAP通信のインタビューに答える。「スターリンが死んだ時、アラゴンは電報でスターリン追憶に何かを描くようにと言ってきた。わたしは作家ではないので、一枚のデッサンを描いた。わたしは自分が感じたとおりに描いた。わたしはスターリンに会ったことがなかったから。わたしは(写真に)似るように努めた。」
 しかし、この抗議、攻撃のなかで、これを機会にピカソの大衆への共感を思い出し、彼の作品をその時代のドラマの反映とみなし、彼の寛大さ、善意をたたえることを忘れなかった人びともいた。とりわけイタリヤの画家たちは、ピカソの作品におけるヒューマニスムを高く評価した。
 「きみは人間を描いた、貧しい者、流浪者、狂人、英雄、殉難者、そしてまた怪物、反人間、殺し屋を……人間侮蔑のはびこるご時世に、きみは人間について語った」(『レアリスモ』一九五三年三・四月号、レナート・グットーソ「ピカソ礼讃」)
 アラゴンは「大きな声で」を書いて事態を収めようとする。
 「……ピカソの描いたジョルジャ人の民族的性格の目立つ、若いスターリン像をわたしは見た。わたしはピカソの感覚を疑わなかった。まさしくスターリンの死はピカソをほんとうに悲しませたにちがいないから、ピカソはスターリンの肖像を描こうとしたのだ──ということに、わたしは感激した……このイメージのなかには、ピカソが人物像にたいしてしばしば用いる歪曲、ゆがめがひとつもない。さらにこのデッサンの線のひとつひとつは、髪の描き方といい、ポール・エリュアールの肖像におけるような下地の線といい、署名とおなじようにピカソの特徴を示している。そしてわたしはまた、このデッサンがわたしの眼の下を通過する短い瞬間に、ピカソの四十もの署名を見た。そしてそれはわたしに重要なことに思われたのだが、ピカソがスターリンのイメージのために彼の技法をふるい、彼の誠実な経験を傾けようとした証しを見たのである……
 どうかわたしを許してほしい。われわれの途上には、この討論のほかになすべき多くのことがあるのだから……最後につぎのことを言うことを許されたい。この途上でわれわれは、われわれの戦列に、敵がひどくわれわれを羨んでいるひとりの人間をもっている。それは全世界に有名な偉大な芸術家であり、「ゲルニカ」と「鳩」の画家であり、制作、探求の長い生涯の果てにいる人間であり、きわめて謙虚なつつましい人間である。わが友、われらの友、パブロ・ピカソである」(一九五三年四月九日付「レットル・フランセーズ」)
 五月に帰国した共産党書記長トレーズは困惑を表明し、九月、党は三月の声明をとり消すことにした。次の年ルクールは党から除名されたのである。

スターリン

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(3)
 しかし、この楽園での幸福も、そう永くはつづかなかった。
 一九五三年三月八日に描かれた「たわむれる女と犬」の画面は、その意味で、きわめて興味ぶかい。頭のうしろに髪を束ねたフランソワーズが、両手で犬の足をつかんで、悲鳴をあげる犬のうえに、立体主義風な顔でのしかかっている。造形的均衡によって分割された二つのブロックから成る立体主義的な構図は、画面のはげしい動きを定着している。ピカソは迫りくるフランソワーズとの訣別を予感しているかのように、たわむれという外観にもかかわらず、怒りと反抗にみちた恋人の姿を描いている。この絵のなかで、おびえて叫んでいる犬はむろんピカソじしんである。この絵はその頃の二人のあいだの険(けわ)しい関係を物語っているのである。
 この絵が描かれた日の三日前に、スターリンが死に、つづいてスターリン肖像事件が起こる。このとき、フランソワーズはピカソの「スターリンの肖像」を非難して彼を深く傷つけ、二人の仲はますます悪くなる。
 九月、「歴史的記念物(モニュマン)との生活」に疲れたと言って、フランソワーズ・ジローは二人の子供を連れて、ピカソから去ってゆく。かつて、オルガ夫人も息子ポールを連れて同じふるまいに出た。しかしその時、ピカソは五十歳だったが、こんどは七十二歳である。いまやクロードとパロマを失い、誇りを傷つけられたミノトールは、ただひとり茫然としてあとに残された。
(この項おわり)

*参照「わたしとピカソ 12 犬とたわむれる女──恋人との険悪な葛藤のドラマ

(2)
 一九四七年、息子のクロードが生まれる。六十歳を越えたピカソは、父親の悦びをもって子供を描く。子供は新しいテーマとなる。ゆりかごのなかのクロード、母親の腕に抱かれたクロード、ベビー・ベッドに寝て、玩具を握っているクロード……そこには父親の愛情がにじみでている。
 一九四九年四月十九日、ちょうど第一回世界平和擁護大会の前日に娘が生まれ、鳩にちなんでパロマと名づけられる。二人の子供が大きくなるにつれて絵も増える。二人の子供が遊んでいるところ、歩いているところ、食事をしているところ、眠っているところなどが描かれる。「描くクロードを見るパロマ」では、ピカソの手法はさらに変わる。かつてパピエ・コレ(貼り紙)で用いられた手法がふたたび採用され、一九二八年の一連の絵に見られるような、形と色との分離、対照がみいだされる。
 ちょうどこの時期、一九五四年にひらかれたピカソ展のカタログにアラゴンが序文を書いている。そこにはアラゴンのレアリスムに立っての絵画批評が見られよう。
 「ここには一九五〇年から一九五四年にいたるピカソが展示されている。それはひとりの抽象的な人間ではない。彼はヴアローリスに住んでいる。彼の庭には牝山羊が一匹いる。彼には二人の子供がある。男の子のクロードは一九五〇年には三歳である。『鳩』の名をもつ娘のパロマは、一九四九年の春、第一回世界平和擁護大会の開会の朝、パリで生まれた。いたるところで、ピカソを特徴づけるのは自由だと吹聴されているが、この画家のきわめて独特な性格をなすものは、少なくともわたしにとっては、それはあの自由ではなくて、彼が現実に属しているという点である。……
 たしかに、この展覧会に見られる最近の作品では、二つの作品群、つまり二つのテーマ──子供たちのテーマ、若い女のテーマが、結局その他を圧倒している。
 わたしはいまテーマ……と言った。それは誤解されるかも知れない。『艶(えん)なる宴(うたげ)』Fêtes galantes はひとつのテーマであり、あるいは牧歌も林檎もそうである。しかし、この子供たちは一般化されたものではなく、ひとつの口実、きっかけではない。それは一定の子供たち、画家の子供たちである。この絵は、自分の子供を前にした画家の驚きをあらわしている。……この驚きはまさにピカソの言葉で表現されている。それについてひとは好きなように思いを馳せるだろう。わたしを捉えるのはその人間的性格である。……
 牧神は消えうせた。われわれは相変らず地中海の海辺にいる。……そこには相変らず家族がいる。一九五〇年の『描く妻と子供たち』では、やっと大まかに描かれた母親が、横になって、ソファから子供たちを見守っている。『二人の子供たち』(一九五一年)では男の子が誇らかに自分の自転車をつかんでいる。『オレンジをもった母親』(一九五一年)そして一九五四年の絵では、地面に画を描いているクロードをパロマが見つめている、その場面を母親が腕でとり巻いている……等々。それはもはや象徴的な幸福の図ではない。それは家のなかに子供たちが、母親が、出現したということである。子供たちはもはやたんに何もわからずに生きているあの肉体ではなく、すでに兄と妹の関係が現われ、すでにパロマは絵を描くクロードを見つめている。すでにその手は考え、クロードは描く。そしてパロマはこの不思議なことがら、この始まり、絵を描き始めたクロードを見つめている。すでに彼女は自分じしんでやってみようと思い始める……
 もちろん、それらすべては、ピカソの画法(グラフィスム)において、あの光の配分、あの色彩の配分をもって表現されている。あの色彩のスペイン風な大胆さ、画面の他の部分の灰色や白ときびしい対照をなしている紫色、赤、太い黒い線のデッサン、あるいは暗い地のうえの白いチョーク。こんどはパロマが絵を描いている図では(『パロマといっしょに絵を描くクロード』)、画家は、はじめて自分の息子のなかに少年を、小学生をみとめている。……このことは、この手法、描き方の物語とは別のことをわたしに夢みさせる。ひとはそれをわたしに許してくれるだろう。それとも否か。……」(一九五四年、パリの「思想の家」でひらかれた「ピカソ二つの時期一九〇〇年──一九一四年および一九五〇年──一九五四年」展のカタログの序文)
 注目していいことば、アラゴンがここで、ピカソの絵画に彼じしんの家族が出現したことを強調している点である。むろんここで強調されている家・家族は、人間の自由な発展を束縛するような桎梏としての家・家族ではない。アラゴンがここで念頭においている家族とはつぎのようなもので、それはポール・シュワットのインタビューで語ったものである。
 「……わたしは共産主義をつぎのようなものとして想い描いている。つまり、よく結びつき、おたがいに忠実で、愛しあう、幸福な男女の一組が、社会の基礎となるような社会として想い描いている……」
 家族を描いたピカソの絵が、アラゴンの眼に、「象徴的な幸福」以上のものに映ったのはこのためであろう。
 じっさい、その頃のピカソは、満ちたりた家族の優しい父親ぶりを発揮し、肉体的にも若返った老人としてふるまっている。彼は地中海の海辺に居をかまえ、太陽と浜辺の悦びに浸る。
 一九五一年七月三十一日の『芸術』誌の「ヴァカンス」特集号は「海辺のピカソ」を掲載している。
 「毎朝十一時半になると、大きなイスパノ・スイザ種の黒と灰の牝犬がヴアローリスから降りてくる。牝犬はゴルフ・ジュアンの浜辺、レストラン・ヌーヌーの前にとまる。つづいてピカソの全家族が降りてきて海水浴をする……ピカソは子供たちのために砂のうえに画を描いてみせる……日々の海水浴は彼にとって、体操や精神的休養におとらず、彼の生命力と自然との欠くことのできぬ接触となる……」
 ミノトールはアンチーブの市民となり、アルカディヤ(古代ギリシャの楽園)の羊飼いとなり、粘土と火の労働者となる。
(つづく)

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