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新日本新書『ピカソ』 "Picasso"

ここでは、「新日本新書『ピカソ』 "Picasso"」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


フランソワーズ・ジローと子供たちと

(1)
 戦争は終わり、新しい愛が始まる。新しい顔、新しい女の肉体が、ピカソの絵のなかに入ってくる。若くて美しい娘、二十二歳のフランソワーズ・ジローである。それから一九五三年まで、彼女はピカソの伴侶となり、二人のあいだにはクロードとパロマの二人の子供が生まれる。
 ピカソの作品を、もっぱら彼の愛と情念の側面からだけ説明するのは行き過ぎであろう。しかし戦争前に「オルガの時代」「ドラ・マールの時代」「マリ・テレーズ・ワルターの作品群」があったように、一九四五年から一九五〇年にいたる作品群には、フランソワーズ・ジローの反映を見ることができよう。ピエル・デックスは書く。
 「フランソワーズは、ピカソの精神にうかぶあらゆる造形的主題、あらゆる策略の新しい実験台となる。二つの黒いアーチの眉、顔の曲線の完璧な均斉、大きな丸い乳房、これらがピカソの表現におけるフランソワーズの特徴である。それに、ほっそりした体つきがつけ加えられる。ピカソは彼女の頭をひとつの円、ひとつの平らな楕円に描き、丸い小石のうえ、骨のかけらの上に彫りきざみ、あるいは石版画(リトグラフ)の柔軟さをもってデッサンする。ピカソは彼女の頭を太陽のように丸く描き、長い髪の渦巻で囲む」(ピエル・デックス「ピカソ」一九六四年)
 一九四六年五月五日付の有名な「花女」La Femme fleur の画面には、じつさいこの太陽、髪の毛の渦巻が見いだされる。花のモチーフにしたがって、太陽はひまわりの花となり、髪の毛の渦巻きはひまわりの葉になっている。その「細っそりとしたからだつき」は細い針金のよぅな花の茎として描かれ、その茎に二つの乳房が果実のようにくっついていて、多少エロチックな雰囲気をかもしだしている。
 一九四六年の秋にアンチーブで描かれた大作の牧歌「生きる悦び」においても、サチュロス(半人半獣の好色な森の神)や陽気な仔山羊たちのまんなかで踊っている女に、フランソワーズの細いきゃしゃな姿が描かれている。このギリシャ神話風な構図をもった「生きる悦び」は、そのあふれるばかりの快楽主義において、もっとも陽気なマチスの絵に伍するものである。
(つづく)

<新日本新書「ピカソ」>

生きる悦び
生きる悦び
(「朝鮮の虐殺」)

 一九五〇年の夏、朝鮮戦争が始まる。一九五一年一月、ピカソは「朝鮮の虐殺」を描いて、戦争反対の意志を表明する。画面では、なかばロボットのように描かれた銃殺班が、裸の妊婦たちと子供の一群にむかって銃口を向けて立っている。構図はゴヤの「一八〇八年五月三日」の銃殺の場面に似ている。観衆はそこから容易に画家のメッセージを読みとることができる。ピカソは、無防備の人に向けられた軍事的暴力にたいする怒り、憎悪を示している。
 一九五二年三月三十日、ギリシャ共産党の指導者で反ファシスム闘争の英雄ベロヤニスが、三人の同志とともに、貨物自動車のヘッドライトの光のなかで銃殺された。ギリシャ王党派政府とワシントンの共謀によるものであった。ベロヤニスの死を知ったピカソは憤激の声をあげ、ベロヤニスの肖像(「ユマニテ」および「レットル・フランセーズ」に掲載)をデッサンすると同時に、彼はゴヤを回想して書いている。
 「ゴヤの絵のなかで、マドリードの五月の夜、灯油ランプの光が、非道な外国兵に銃殺される人民の気高い顔を照らしだしているが、それはこうこうと照らすヘッドライトの光のなかで、死と恐怖と憎悪にみちた政府によって、開かれたギリシャの胸のうえに撒きちらされた恐怖とおなじものである。
 一羽の白い大きな鳩が、喪の怒りを地上にふりまく。」
 ここでピカソが思い出しているのは、言うまでもなくゴヤの「一八〇八年五月三日」のナポレオン軍による虐殺の図である。その虐殺を照らしていた灯油のランプの光と、ギリシャの銃殺を照らしていたヘッドライトの光とを強調するピカソの文脈のなかに、われわれはまた「ゲルニカ」の虐殺を照らしていた電球の光を見いだすことができる。

挑戦の虐殺

(この項おわり)

<新日本新書『ピカソ』 ──「パリの解放と平和の探求 」>

  (レーニン国際平和賞を受賞)

 一九六〇年には、両羽根をひろげ、尾羽根をふるわせて、大きな虹のうえを舞っている鳩が描かれる。一九六一年には、三枚の木の葉のついた小枝を咥えた「青い鳩」が描かれる。・・・
 ピカソの鳩はまた、ヴァローリスの窯で焼かれた絵皿のうえにも現われる。それはまた切手となり絵はがきとなって、何百万というピカソの鳩が放たれて、世界じゅうを飛びまわっている。母親たちにはやさしい希望のことばを運び、その羽搏きで人びとを呼びさまし、戦争や原爆による死を拒否するようにはげましている。チリやコロムビアの暴君どもは、鳩の入国を禁止しようとしたが、むだだった。世界じゅうを飛びまわっているこの鳩を、どんな鳥刺しも毒矢も射落すことはできないであろう。
 一九五〇年、ピカソは「レーニン国際平和賞」を受賞した。アラゴンは一文を書いて、この賞の意義とピカソ芸術の偉大さを明らかにしている。
 「レーニン国際平和賞がパブロ・ピカソに授与された。このニュースは、この数年来、国際関係にあらわれた変化を示すものである。この偉大な画家に与えられたのは、恐らく彼が平和のためにつくした直接的な功績によるものであり、全世界で無類の栄光をになう天才が、戦争に反対する人びとの力づよい感情に支持を与えたことによるのであろう。しかしこのことはもうひとつの意義をもつ。それはまさにピカソの名の上に、二つの世界の相互理解がなされうるということであり、相ことなる社会体制も、人類の福祉的活動について、この活動の福祉的性格について一致できるという範例が、ピカソにおいて示されたということである。
 ある人びとは言うだろう、この賞はピカソの作品に与えられたものでなく、ただ彼の鳩に与えられたのだと。──たしかにピカソの名を平和のそれと結びつけることなしに、サン・マルコ広場やカルーセル庭園の鳩たちを見ることはできないということもあるが、そういう人びとにはこう答えねばならない。たとえ鳩たちが美しく感動的であろうと、もしそれがほかの人の手によって放たれたなら、もしその鳩たちが、パリのスペイン人画家の、その美しさ、絶えざる創造精神、悲劇への感覚、偉大さ等をもった作品によって支えられていなかったら、鳩たちはけっしておなじ意味をもたなかったであろうと。このパリのスペイン人画家は、ヴュラスケスとゴヤの、マネとセザンヌの継承者であって、彼は彼自身のスペイン人民の悲劇と同時に、全人類の深い願望を表現することができたのだ。ひとが望むと否とにかかわらず、ピカソはその無類の卓越した技法のゆえに、かれの芸術のゆえに、人民の希望と感謝のしるし、レーニンの肖像の刻みこまれた小さな金メダルをもつ権利をもつであろう」(一九六ニ年五月二日付「ユマニテ」)
(つづく)

新日本新書「ピカソ」
(「平和の顔」)

 この一九五〇年にはまた、鳩と女の顔をくみあわせた「平和の顔」二九点シリーズが描かれ、翌年エリュアールの二九篇の短い詩とともに、詩画集『平和の顔』が刊行される。そのエリュアールの詩の二、三を訳せば、つぎのようなものである。

  わたしは鳩の棲(す)みかをみんな知っている
  いちばん自然な棲みかは 人間の頭の中だ
      *
  大地が生みだし 大地が花咲くように
  生きた肉と血が
  二度と犠牲(いけにえ)にされぬように
      *
  平和に心奪われた人間(ひと)は 希望に包まれる
      *
  わたしの幸せは われわれみんなの幸せだ
  わたしの太陽は われわれみんなの太陽だ
  われわれは 生をわかちあう
  空間と時間は みんなのものだ
      *
  われわれは 他者をつくり出した
  他者が われわれをつくり出したように
      *
  飛んでる鳥が じぶんの翼を信頼しているように
  われわれは知っている 兄弟にさし伸ばした
  われわれの手が どこへわれわれを導くかを
      *
  われわれの歌は 平和を呼び
  われわれの答えは 平和のために行動すること

(つづく)
平和の顔
Pablo Picasso 'Le Visage de la Paix' 1950

 鳩は世界じゅうを飛びまわる

 一九四八年八月、ポーランドのブレスラウでひらかれた平和大会に、ピカソはエリュアールとともに出席する。大会でピカソは副議長に選ばれ、また発言をもとめて、当時チリで官憲の追及をうけていた友人パブロ・ネルーダの自由を訴えた。かれはまたゲットーの廃墟やアウシュヴィッツなどを訪ねてまわる。
 一九四九年四月のある朝、パリじゅうの街の壁にピカソの鳩が貼りめぐらされていた。──パリのプレイル・ホールでひらかれる第一回世界平和擁護大会のポスターで、黒地に白い鳩をうきたたせていた。
 のちにたいへん有名になるこのポスターの由来には、つぎのようなエピソードがある。大会の組織委員であったアラゴンは、大会のポスターの図案をピカソに依頼していた。ピカソはそのことを忘れていた。ぎりぎりの時間になった。そのときアラゴンは、ある日ピカソのところで、紙ばさみの中にかいま見た鳩のデッサンを思い出した。アラゴンはさっそくグラン・ゾーギュスタン街のピカソのアトリエへ走った。ピカソはそこにいた。鳩もまた紙ばさみの中にいた。
 「きみの好きなようにしたまえ」とピカソはアラゴンに言った。
 アラゴンはその足でムールロ印刷所に行って、ポスターの型や色などを決める。夕方、できあがった石版の刷見本を持って、アラゴンは大会の組織委員たちのところに見せにくる。刷見本の鳩の脚は毛ばだって風変りであったが、みんなが賛成した。こうしてピカソの最初の鳩のポスターが、パリじゅうの壁に貼られることになったのである。
 また、ピカソはこの大会の前日に生まれた自分の娘にパロマ(鳩)と名づけた。
 大会中、ポスターは何千枚となく複製され、群衆はそれをプラカードにして、バルク・デ・プランスのグラウンドを行進した。壇上にいたピカソは驚嘆と悦びにあふれてほかの組織委員たちに言った。
 「なんということだ。これは光栄だね?」
 ピカソはまちがっていなかった。この鳩ほどに、ピカソの大衆的な人気に役立ったものはないからである。
 ピカソの鳩は、その後つづいて数えきれないほど描かれる。一九四九年の最初の鳩は、黒地のうえに白く浮きたっていて、まだ飛び立っていない。彼女はメッセージをとどける人びとの方へ頭をむけて、飛びたつのを待っている。空が黒いのは、ただ鳩の白さを浮きたたせるためであったが、その白さにアラゴンはたいへん感動したといわれる。
 翌一九五〇年、ワルシャワの平和大会に現われた鳩は、左の方へむかって高く飛んでいる。この年は朝鮮戦争が起こった年であり、また全世界に希望をよびおこしたストックホルム・アピールの年である。原爆禁止を要求するこのアピールを、鳩はその力づよい翼で世界じゅうに運んだのであった。そして六億を越えたその署名が、朝鮮戦争において原爆使用もありうるとうそぶいたアメリカの手を抑えつけたのである。
(つづく)

鳩のポスター

新日本新書『ピカソ』 ──「パリの解放と平和の探求 」>
 3. 屍体置場

  一九四五年になると、アウシュヴィッツをはじめとする死の収容所から、生き残った人びとがフランスに帰ってくる。フランスじゅうが、死の収容所におけるナチスの冷酷無残な虐殺を知って深い衝撃をうける。ピカソはこの言語に絶する悲劇を大作「屍体置場」(二〇〇☓二五〇センチ)を描く。詩人ギュヴィックはその頃のことをつぎのように語っている。
 「『屍体置場』という詩をどうして書いたかって? 一九四五年五月のある日、(死の収容所で)じっさいにどんなことが起きていたのか、それがわかったからだ。わかり始めたからだ。国外の収容所に連れさられた人たちが帰ってきて、屍体置場の写真が眼に入るようになったからだ。
 その頃、わたしはよくエリュアールといっしょにピカソをアトリエに訪ねて行った。ピカソは多少世俗的なアメリカ人たちの訪問にわずらわされずにいた。その日の昼、わたしたちは三人きりで話しこんだ。その朝、国外に連れさられた人たちの列車の着くのを見にピカソは行ったのだった。……その夜、家へ帰るとわたしは一気に『屍体置場』を書いた。ピカソもー枚の絵を、白い背景の大作を描いて、『屍体置場』と名づけた。」(ギュヴィック「詩を生きる」)
 こうして、いわば状況の絵画として、ピカソは「屍体置場」を描いた。部屋のなかに皆殺しになった家族が描かれている。テーブルの上には酒壷やシチュー鍋が描かれていて、食事時だったことを物語っている。男は「ゲルニカ」の死んだ戦士に似ているが、縛られた両手を空につき上げている。裸の女も「ゲルニカ」の女たちの姉妹であって、戦争による傷痕とゆがみが描かれている。赤ん坊は母親の胸から流れおちる血を手で受けとめている……。バールはつぎのように書いている。「『ゲルニカ』は運命のイメージである。その象徴はバスクの小さな町の運命を越えて、ロッテルダムとロンドン、ハリコフとベルリン、ミラノとナガサキを──われらの暗黒時代を予言していた。『屍体置場』には象徴はない。おそらく予言もない。その形象は事実である。──それはビュヘンワルド、グッハウ、ベルセンなど、強制収容所の痩せ細った蠟のような死体である。『ゲルニカ』の断末魔の苦しみを耐えうるものにしている胸を裂くような激昂と暴力は、ここでは沈黙と化している。男、女、子供にとって、この絵は苦しみのない『ピエタ像』であり、悲しみのない埋葬であり、葬式のない鎮魂曲(レクイエム)である……」
 一九四五年三月、ピカソはシモーヌ・テリのインタビューにこう答えている。
 「あなたは芸術家とはどういうものだと思いますか。画家なら眼しかもっていない馬鹿者であり、音楽家なら耳しかもたず、詩人ならあらゆる心境を奏でる竪琴しかもたず、またボクサーならただ筋肉しかもたない、そんな馬鹿者だと思いますか。まったく反対です。芸術家は同時に政治的な存在であって、世界の悲痛な出来事や、激烈な、あるいは楽しい出来事にいつも心をくばり、それらのイメージへの対応に馴れているものです。他の人びとに無関心でいることが、どうしてできるでしょう。他の人びとがもたらしてくれる人生から遊離するなどということが、どんな象牙の塔的なのんきさによってできるのでしょう? いや、絵画はアパルトマンを飾るために作られるのではありません。それは敵にたいして攻撃し、防衛する武器なのです。」(「レットル・フランセーズ」一九四五年三月二十四日付)

新日本新書「ピカソ」

屍体置場

「屍体置場」

 2. ピカソの入党──泉へ行くように

 一九四四年十月にひらかれるサロン・ドートンヌ委員会は、同展に、ピカソが戦争中に制作した絵画・彫刻の主要作品を陳列できるよう、一室を提供する。ピカソはそれまでサロン・ドートンヌに出品したことは一度もなかった。解放後、フランスの革新を期待していた人びとにとっては、どうしてもピカソの出品が必要だったのである。「首都の解放を支援したパリの芸術家たちが、レジスタンスの精神をもっとも力づよく象徴した画家に敬意をあらわそうと考えるのは当然である」(ルイ・パロー「レットル・フランセーズ」十月七日)
 出品する作品を選択している最中、ピカソは共産党への入党を決意する。それは一時の思いつきでもなければ、向う見ずなことでもなかった。その時、ピカソはもう六十三歳であった。またピカソの入党が親友エリュアールの圧力によるものだと見ることは、まったくばかげている。当時、フランス共産党は苛酷なレジスタンスの闘争によって鍛えられた党であり、銃殺された者たちの党であった。ひとりピカソだけが入党したわけではなかった。その党の隊列には、アラゴン、エリュアール、トリスタン・ツァラ、偉大な物理学者ポール・ランジュヴァンやフレデリック・ジョリオ・キュリ、心理学者アンリ・ワロン、画家フェルナン・レジェなどが加わっていた。ピカソ入党のニュースは十月五日の「ユマニテ」紙上に大きく発表された。それは、サロン・ドートンヌの開幕の二日前であった。
 会場には、「奏楽」「グラジオラスのある椅子」「アルティショを持つ女」などの大作を中心にして、近作の「静物」、ドラ・マールとマリ・テレーズの多くの肖像画、数点の「坐った女」など、絵画七四点、彫刻五点がならべられた。ピカソがサロン・ドートンヌに出品したのはこれが初めてであったが、それは異例であると同時に象徴的な大事件であった。パリの市民たちは、占領下でりっぱな態度を堅持した人間ピカソにたいして敬意をおくると同時に、それまでその作品がひどい非難の的であった画家ピカソに讃美をおくろうとした。ピカソはいまや人びとを結びつける統一と自由の象徴となった。絵画展がこれほど多くの観衆を集めたことはかつてなかった。
 しかし、ピカソが共産党へ入党したというニュースはたちまち大きなスキャンダルとなる。「サロン」の保守的な観衆にはまったく理解できない。ピカソの名声にひきつけられてやってきた観衆は、理解できない作品に顔をしかめてひんしゅくをおぼえる。反動の一味は時がきたとばかりに、フランス芸術の名においてこの「外国人」告発する。軽はずみな若者から伝統主義者の紳士までが、「ピカソの絵をとりはずせ」と叫んで、画廊を歩きまわる。それにたいして、若い画家たちと学生たちがピカソの絵の前に立ちはだかって、これを防衛する。この反動にたいする抗議文は、エリュアール、アラゴンからサルトルまで、さらにモーリヤック、ヴァレリーまでが署名する。
 ところで、政治参加を手だてとして自己宣伝をするということほど、ピカソの精神に無縁なものはない。しかしかれはアメリカの友人たちのために誤解をとかねばならぬと考える。ちょうどアメリカの「ニュウ・マッセズ」が求めてきたインタビューの機会をとらえて、かれは共産党入党の弁を語ることにした。この一文は十月二十四日アメリカで発表され、ついで十月二十九日「ユマニテ」紙上に発表された。それはつぎのようなものであった。

 「わたしの共産党への入党は、わたしの全生涯、わたしの全作品の当然の帰結である。なぜなら、わたしは誇りをもって言うのだが、わたしは絵画をたんなる楽しみの芸術、気晴らしの芸術と考えたことは一度もなかったからであり、わたしはデッサンによって、色彩によって──それがわたしの武器だったから──世界と人間への認識のなかに常により深く入りこみたかったからである。この認識が日ごとに、より一層われわれを解放してくれるように、わたしが最も真実で、最も正しく、最もよいと考えたものを、わたしはわたしの流儀で表現しようと思った。それは、偉大な芸術家たちが、よく知っているように、当然つねにもっとも美しいものだった。そうだ、わたしは真の革命家としていつもわたしの絵画のために闘ってきたことを知っている。しかし、わたしはいま、それだけでは充分でないことを理解した。この怖るべき圧制の数年は、自分の芸術をもって闘うだけでなく、わたし自身の全部をあげて闘わねばならぬことを教えた……そこでわたしは、ためらうことなく共産党へ行った。というのは、わたしは心の中ではずっと前から党とともにいたからである。アラゴン、エリュアール、カッスー、フージュロンなど、すべてのわが友人はそのことをよく知っている。わたしが公式に入党しなかったのは、それはある種の『無邪気さ』によるものであった。わたしは、わたしの作品、わたしの心による入党で充分であり、しかもそれがもうわたしの『党』だと信じていたからである。もっとも世界をよく知ろうとし、世界を建設しようとし、こんにちと明日の人びとをいっそう自覚させ、いっそう自由にし、いっそう幸福にしようと努めているのは党ではなかろうか。フランスにおいても、ソヴィエトにおいても、わがスペインにおいても、もっとも勇敢だったのは共産党員ではなかろうか。どうしてためらうことがあろう?参加するのが怖ろしかったのか?いや、わたしは反対に、かつてなく、いっそう自由に、いっそう申し分なく感じている……それに、わたしはひとつの祖国をみつけるのにひどく急いでいたのだ。わたしは、ずっと亡命者だったが、いまやわたしはもう亡命者ではない。スペインが、わたしを迎え入れてくれる日を待ちながら、フランス共産党が腕をひらいてわたしを迎え入れてくれたのである。わたしのもっとも尊敬する人たち、偉大な学者たち、偉大な詩人たちを、わたしは党のなかに見いだした。そしてあのパリ解放の八月の日々にわたしの見た、蜂起したパリ市民たちの美しい顔を、わたしは党のなかに見いだした。わたしはふたたび、わが兄弟たちに仲間入りしたのだ。」
 ピカソはここにおのれの心をひらき、党のなかに求めたものをすべて述べている。
 またこの頃、「なぜわたしは共産党員になったか」というパンフレットがつくられた。ピカソはそれにこう答えている。
 「泉へ行くように、わたしは共産党へ行った。」
 それ以来、彼はこの泉の水に溶けこんだ。「そしてこんどは人びとが、生と力、確信と想像を飲むために、ピカソのところへ行った」(マルスナック)

新日本新書「ピカソ」
 パリの解放と平和の探求

1. パリの解放
 一九四四年八月二十四日、ついにパリが解放され、悪夢のような戦争が終わる。ピカソは八月二十四日から二十九日までの間に、プッサンの「パンの勝利」に霊感をえて、熱狂的な「バッカス祭」──どんちゃん騒ぎを描く。それは、苦闘を経て勝ちほこる自由と生への、ピカソの讃歌である。
 ピカソはふたたび多くの讃美者にかこまれる。詩人や作家たちは、刊行する本の口絵にピカソのデッサンを依頼する。──「ゲルニカ」の画家はナチの占領からフランス国民を解放した勝利の受取人となり、勝利の象徴となり、自由の象徴となる。ルイ・バローは書く。
 「さいきんの出来事によって、もっともなつかしい思い出をかきたてられている人間がいるとすれば、それはまさに画家パブロ・ピカソである。彼は蜂起したパリのなかに、むかしのスペイン人民の英雄的なイメージを見いだした。……彼にとってヨーロッパを見すてて亡命することがきわめて容易だったときに、ピカソは自分が悲惨と栄光をあじわった都市(まち)を見すてることを拒んだ。その都市はかれの名を高からしめたが、その代り彼から多くのものを受取ったのである……パリ市庁広場で、女たちの涙の歓迎のうちに到着した最初の戦車の一台は、大きな白文字で書かれた『ゲルニカ』の名をかかげていた。戦車から降りてきた将校はスペイン人だった。」(「レットル・フランセーズ」一九四四年九月九日)

新日本新書「ピカソ」
 羊を抱いた男

 占領下の戦争の雰囲気がもっとも感じられるのは、恐らく静物においてである。貧弱でみじめな朝食、からっぽのシチュー鍋、コーヒーのはいっていないコーヒー沸し、──それらのそばにある蠟燭立てが、お通夜のような雰囲気をかもし出している。
 また、「トマトの植込み」は占領下の飢えた女たちがバルコンで丹精こめて育てたトマトにほかならない。
 さらに「アルティショを持つ女」では、若い娘が誇らかに、激しい想いを秘めて、アルティショ(サラダ用の野菜ちしゃ)を、まるで武器のように握っている。
 また友人フリオ・ゴンザレスの死後に描いた「牡牛の頭蓋骨のある風景」(一九四二年)には、戦争そのものが内在しているといえよう。ここでは戦争がピカソの絵画意識をとおして形象化されているのである。
 さて、占領下の悪条件のもとでも、ピカソは彫刻の制作を捨ててない。一九四一年にはドラ・マールの大きな頭部が彫刻される。この美しい感動的な頭部は、こんにちサン・ジェルマン・デ・プレのアポリネール辻公園の木蔭に置かれている。その迫力は一度見たら忘れられない印象をあたえる。
 一九四四年には、有名な「羊を抱いた男」が制作される。それについて、ピカソはブラッサイに語っている。
 「ボワジュール以来、わたしはちょっとばかし彫刻を放ったらかしてきた……ところが突然、占領下でわたしは彫刻にとりつかれた。わたしはもうパリを離れられなかったので、浴室を彫刻のアトリエに改造した。浴室はこの大きなバラックの中で、ただひとつ暖房のきく部屋だった。そこでわたしは大部分の彫刻をつくった。……」
「羊を抱いた男」のイメージは、最初、田舎の羊飼いの一場面のように見えるが、だんだん象徴的になる。羊の頭が悲壮な呼びかけを表現しているのに応じて、羊飼いは一種の予言者となる。ピカソは戦争が人びとのうちに呼びさます不安、希望、惨めな人間への同情、連帯、優しさなどを、この独創的なイメージのうちに結晶させたのである。ここで、あのエリュアールのうつくしい解説のなかの言葉を、もう一度思い出してみよう。
「…ゲル二カの焼け焦げた樫の木のしたに、ゲルニカの廃墟のうえに、ゲルニカの澄んだ空のしたに、ひとりの男が帰ってきた。腕のなかには鳴く仔山羊を抱え、心のなかには一羽の鳩を抱いていた。かれはすべての人びとのために、きよらかな反抗の歌をうたうのだ。愛にはありがとうと言い、圧制には反対だと叫ぶ、反抗の歌を。……」(白石書店『レジスタンスと詩人たち』三五ページ)
 ファシスムの台頭に直面して、ピカソは「ゲルニカ」によってスペイン的なものをとりあげたが、ここでも、「羊の献納」という古い地中海の伝統をふたたびうけついだのである。レジスタンスのなかで、アラゴンやエリュアールのような共産党員詩人は、古典的で平明な形式にむかい、国民的な遺産をうけついだが、「羊を抱く男」がこのような伝統的潮流と一致したとしても、偶然ではなかろう。

羊を抱いた男
羊を抱いた男"

──この項おわり──

<新日本新書『ピカソ』 ──「第二次世界大戦中のピカソ 」>
 (夜間外出禁止令)

 一九四二年の後半になると、状勢は大きく変化する。ドイツ軍はスターリングラードに釘づけにされ、連合軍の北アフリカ上陸作戦が成功する。フランス全体が占領下に置かれるようになったため、レジスタンスの運動が飛躍的に大きくなる。それは、ピカソやその友人たちにも影響をあたえる。
 一九四二年六月六日付の「コメディア」紙に、ヴュラマンクの告発が現われた。
 「パブロ・ピカソには、フランス絵画をきわめて破滅的な袋小路にひきずりこみ、筆舌につくせぬ混乱におとしいれた罪がある。一九〇〇年から一九三〇年にかけて、彼はフランス絵画を否定へ、無力へ、死へとみちびいた……ピカソは数世代の芸術家にとって、制作と生活における『創造精神』をにぶらせ、信頼や誠実さを消しさった」
 この一文は逆に、ピカソと若い画家たちやレジスタンスの知識人たちとの連帯をつよめることになる。
 ピカソはのちにフランス共産党に入党することになるが、そこへ到達するピカソの足どりを理解するためには、「ゲルニカ」以来のピカソの芸術、生活、政治情勢の推移などのかかわりあいを見ておかなければならない。
一九四二年の初め、エリュアールは共産党に再入党した。
(彼は一九二六年〜一九二七年の数ヶ月党員であった)この頃、エリュアールはつぎのような詩を書いている。

   夜間外出禁止令

 どうすればいい 戸口は見張られていた
 どうすればいい われらは閉じこめられていた
 どうすればいい 通りは柵で塞がれていた
 どうすればいい 都(まち)は抑えつけられていた
 どうすればいい 都(まち)は飢えていた
 どうすればいい われらには武器がなかった
 どうすればいい 夜がやってきた
 どうすればいい われらは愛しあっている

 一九四二年の夏、エリュアールは地下にもぐる。ピカソは親友エリュアールのこの政治活動を眼のあたりに見て、同意をあたえる。しかし、ピカソが入党を決意するまでには、さらに準備期間が必要である。
 (「奏楽」とパリの悲劇)

 さて、ナチの占領下で、ピカソはあのスペイン戦争の初めにぶつかった問題にふたたび出会い、これを徐々に解決してゆくことになる。それは芸術を破壊して、「芸術の死」をおし進めるような体制にたいして、どのようにして芸術を生き永らえさせるか、という問題である。ナチにとって現代芸術は「退廃芸術」とみなされ、非難の対象でしかなかった。このようなナチの支配下で、芸術創造をつづけることは可能なのか。ファシスムにふみにじられた人民と、その人民を支援し、ファシスムとたたかう絵画とのかかわりあいという問題について、ピカソは「ゲルニカ」以来もう馴れていた。
 ピカソは、この問題についてつぎのような解決をみいだしていたのである。
 「わたしは戦争を描かなかった。というのは、わたしは写真家のように題材(テーマ)を探しもとめてゆく画家のたぐいではないからだ。しかしあの頃わたしの描いた絵のなかに、戦争が存在することは疑いない。恐らく後年、わたしの絵が戦争の影響で変ったことを、歴史家が明らかにするだろう。だがわたしじしんには分らないのだ。」(一九四四年九月三日付「サンフランシスコ・クロニクル」)
 つまりピカソは、自分の絵画がそれ自身の道をたどるにまかせたのである。
 一九四一年には、愛人ドラ・マールの裸の半身像が小娘のように感動的に描かれている。そのほか、帽子をかむった女、椅子に腰かけた女などが描かれ、八月にはエリュアールの妻ニューシュが描かれる。それは占領下でも沈黙したくないというピカソの意志をしめしていた。
 一九四一年の秋から、ピカソは二人の女を向きあわせたデッサンを多く描き、最後には坐った女と寝そべった女との対照へと到達する。この主題は、翌年の一九四二年四月というきわめて悲劇的な時期に、大作「奏楽」(五月四日)のなかに描かれる。たちまち有名になるこの大作は、占領下におけるピカソ絵画の重要な作品とみなされる。一九五×二六五という大きさや、一九四七年に国立近代美術館のためにピカソがこの絵を選んだという事実がそれを証明している。
 この絵画が描かれた春は、ちょうどパリでレジスタンスの活動家や人質たちが、大量に銃殺され、ナチス・ドイツ軍のロシヤ進攻が成功したときである。「奏楽」はこのパリの悲劇と無縁ではないように見える。荒い縞のベッドに横たわっている裸の女を、幾何学的図形で描かれた、マンドリンを弾く女が見守っている。横たわった女はもう死んでいるようにも見える。「死休置場でのささやかな奏楽なのか」とフェルミジエも問うている。

奏楽

奏 楽

(つづく)
第二次世界大戦中のピカソ (1)

大戦が始まる

 スペイン戦争につづいて一九三九年九月には第二次世界大戦が始まる。そのときピカソは五十八歳で、ますます有名になり、「ゲルニカ」のおかげで、反ファシスト闘争の象徴ともなっていた。
 ナチス・ドイツ軍による占領下で、「ゲルニカ」の画家は生きてゆくことになる。ダラン・ゾーギュスタン街のアトリエを引越すことは不可能であった。むろん、ピカソはパリにとどまっていたわけではない。一九三九年の九月から一九四〇年の八月まで、大西洋岸の海水浴場ロワイヤン滞在をくりかえしている。その頃、何軒もの絵具屋に行って、あるだけの絵具を買いあさっていたといわれる。多くのひとびとがフランスを離れ、国外に亡命した。ピカソも、メキシコやアメリカに来るようにと招かれたが、マチスとおなじく彼は動かない。一九四〇年四月、ついにロワイヤンにもドイツ機甲部隊が進駐するのを見て、数ヶ月後、ピカソはパリにもどり、占領下のパリに、ダラン・ゾーギュスタン街のアトリエに、四年間とどまることになる。
 ピカソは、グレートハウンド種の愛犬カズベックを連れて、シテ島先端の辻公園の河岸を散歩し、ダラン・ゾーギュスタン街十六番地のレストラン「シェ・レ・カタラン」で恋人ドラ・マールや友人たちと夕食を共にした。詩人レオン=ポール・フォルグは書いている。
 「われわれは戦争下で息をひそめていた。……わたしはピカソの話に耳を傾け、それから料理皿に手をつけた。ピカソは煙草入れからブラジル煙草をとり出すように、ときどき逆説をみんなに披露した……」
 フランスの敗北後、自由地帯のヴィシー政府の周辺では、ピカソや現代芸術の支持者たちを退廃といって攻撃し、フランスの敗北の責任を彼らに転嫁した。ドイツ軍は反対に誘惑の手をひろげるが、ピカソはその手にはのらない。ペンローズの語るように、食糧や石炭を特別に配給しようというナチの甘言にたいして、「スペイン人はけっして寒がらないものです」と答えるだけであった。そのために部屋を暖めるのに一日シャベル一杯のコークスしかなかった。また、ピカソには展覧会をひらくことが禁じられていた。そこで披は、エリュアールやアラゴンと同じように、出版によって自分の作品を発表するという機会をとらえるほかなかった。ペンローズの語るつぎのエピソードは有名なものである。ナチの一将校がピカソを訪ねてきて、テーブルの上に一枚の「ゲルニカ」の写真を見つけて尋ねる。──「これをつくったのはあなたですか?」──「いいえ、それをつくったのはあなたがたです」とピカソは答えたという。ピカソはまたドイツ人の訪問客に「ゲルニカ」の写真を渡して言った。「どうぞお持ち下さい。思い出(スーヴニール)に! お土産(スーヴニール)に!」
(つづく)
あとがき

 一九三〇年代、わたしの若かった頃、すでにピカソは有名で、わたしたち詩人仲間のあいだでも、ピカソはもう関心と讃嘆の対象となっていた。わたしがとりわけピカソを知るようになったのは、やはりエリュアールの詩「ゲルニカ」をとおしてであった。
 一九三八年、フランスの美術雑誌『カイエ・ダール』(3−10号)がわたしの手もとにとどいた。それは「ピカソのデッサン」特集号で、なかでも、「叫びを挙げる雄鶏」の図が印象的だった。「ゲルニカ」が描かれて一年後で、「叫びを挙げる雄鶏」が、ファシスト・フランコ軍によって血の海の中に投げこまれたスペイン人民のイメージであることは容易に理解された。またこの号には、クリスチャン・ゼルボスが「ピカソの魔術的絵画」というエッセイを書き、エリュアールが「パブロ・ピカソヘ」という詩を書いていた。わたしはその両方を翻訳して、当時出ていた『アトリエ』という美術雑誌に載せた。その後、戦争が激しくなるにつれて、もうピカソどころではなくなったのであった……
 戦後わたしには、アラゴンやネルーダの紹介の方が忙しくて、ピカソにはなかなか頭も手もまわらなかった。
 一九七八年十一月、マドリードで「チリ支援世界大会」がひらかれた。わたしはその大会に出席したが、そこにアジェンデ未亡人とともに、ピカソ未亡人ジャックリーヌ夫人も参加しているのには感激した。そのとき、「ゲルニカ」はまだプラド美術館にはなかった……帰途、バルセロナに寄って、モンカダ街のピカソ美術館を訪れた。そこは、少年時代、青年時代のピカソのデッサン、絵画の宝庫であった。わたしはピカソの源泉にふれる深い感動に浸った。
 こうしてまたわたしのピカソへのアプローチが徐々に始まった。とりわけピカソがフランス共産党に入党した頃の事情を調べてみたいという想いが強くなった。それというのも、日本の名だたる出版社から出ている、『ピカソ全集』などの解説に、たとえば、あの世界平和擁護大会のポスターに使われたピカソの鳩について、その鳩はアラゴンがピカソのところから盗んできたもので、ピカソは共産党に利用されたにすぎない、というような子供だましの反共デマゴギーを始め、だらだらとした形而上学的なおしゃべりや「長談義」(アラゴン)によるピカソの歪曲、解毒がはびこっていたからである。そういうわたしを助け、勇気づけてくれたのは、アルベルティの『途切れざる光』やフェルミジェの評伝であった。むろんアラゴンやエリュアールの詩とエッセイもそれに加えねばならない。一九五一年のリュマニテ社発行の『ピカソ・デッサン集』や、一九七〇年四・五月号の『ウーロップ』誌(ピカソ特集号)、も役立った。それらは何れも、ピカソの革命的モダニスム、革命的レアリスムへ光をあてるものであった。そうしてスペインの詩人アルベルティがピカソに贈った詩ほど、ピカソの人間と芸術のもつ、生きた深い意味を教えてくれるものはない。
 「泉へ行くように、わたしは共産党へ行った」とピカソは言った。そうしてこんどは、人びとが泉へ行くようにピカソのところへ行って、生きる悦び、怒り、愛、真実、自由を飲むのだ……

   一九八六年六月
                             著 者

新日本新書『ピカソ』


 一九二一年二月四日、オルガとピカソの息子ポールが生まれた。ピカソはオルガとポールの母子像をいくつか描く。ポールは母親の膝のうえで眠っていたり、遊んでいたりしている。一九二三年には驢馬に乗ったポール、勉強机でものを書いているポールが描かれ、一九二四年には「アルルカン姿のポール」が描かれる。三歳になったポールは、ピカソなじみのアルルカン(道化)の衣裳をつけて、父親のやさしいまなざしと感性によって、きわめてレアリスムの形象で描かれている。画家はまったく自然に、大きく育ってゆく息子の姿を、やさしい父親のまなざしで見つめている。「ポールの肖像」のこの上ない優雅さとやさしさは、寛大な父性愛と情熱から生まれた奇跡である。この頃、ピカソは珍しくむらのない気分で多くの仕事をし、それらの画には優しさと平穏にみちた悦びがあふれている。
 その後、マリ・テレーズ・ワルターとの間に生まれた娘マイヤについても、またフランソワーズ・ジローとの間に生まれたクロードとパロマについても、ピカソは同じようにそれぞれの肖像画を描くことになる。

ポール
「アルルカン姿のポール」 1924年

──この項おわり──

<新日本新書『ピカソ』 ──「新古典主義の大女たち」>
 この時期の集約的な作品として「牧神(パン)の笛」をあげることができよう。ここには、海辺の大女たちにふさわしいような、二人の若い男が描かれている。ピカソは二人の若者を、ギリシャ彫刻にみられるような二つの姿勢で巧みに表現している。ひとりは坐って笛を吹いている。もうひとりは立って笛の音にきき入っている。この人物は全身の重みを片方の足だけで支えていて、古代のアポロを思わせる。その足は武骨で大きい。背景には典型的な地中海の風景。純粋さと単純さ。逞しい脚と腕と拳(こぶし)……画面の雰囲気はあきらかに古代の田園詩や牧歌のそれではない。フェルミジエは言う。「二人の人物は、頑丈でどっしりとして、逞しい肉体をした若い農夫か若い漁師である。彼らは凝った襞のついた着物などつけずに、きわめて粗末な下着をつけていて、彼らが庶民出の人物であることを強調している。ここにはいかなる理想化もない」
 この作品は、大地に根ざした人間にささげられた大いなる讃歌であろう。
 キュビスムを追求するさなかに、このような古典主義的な大女、大男たちが出現したことは驚きであった。この突然の変化について質問したインタビュアーに、ピカソは答えている。
 「現代絵画が問題になるとき、探求という言葉に重要さが与えられるが、そんな重要さはわたしにはよくわからない。わたしの考えでは、絵画にあっては、探求するということにはなんの意味もない。大事なのは見いだすことだ。画を描くとき、わたしの目的は、わたしの見いだしたものを表現することであって、探求しつつあるものを表現することではない。……探求という考えは、さまざまな迷い、あやまちの源泉(もと)であって、まったく精神的な苦心の駄作へと芸術家を追いやってきた。ある人びとは探求の精神に毒されて、現代芸術のなかにある積極的なもの、確かなものを理解しなかった。そうして探求の精神は彼等をそそのかして、眼に見えないもの、したがって非絵画的なものを描くように仕向けたのである……。
 わたしがじぶんの芸術で用いてきたさまざまな手法(マニエール)は、未知の絵画の或る理想をめざしての一歩、あるいはひとつの発展として見なされてはならない……わたしは探求の精神を重要なものと見なしたことは一度もない。わたしは表現したい何かを見つけると、過去も未来も考えずにそれを表現した……言いたい何かがあったときにはそのつど、わたしはそれを言うに必要と感じた手法で言ってきた……」(ニューヨーク『芸術』誌一九二三年五月)

牧神の笛
牧神の笛

(つづく)