尾池和子さんが語る

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ジャック・ゴーシュロンをフランスに訪ねて
Visitez Gaucheron en France

                          尾池和子 Kazuko Oike

 二〇〇八年六月、夏のフランスに詩人ジャック・ゴーシュロン氏をお訪ねする機会を得ました。

 パリ、サン・ラザール駅から電車で小一時間、窓の外がすっかり田園風景になったころコルメイユ・パリジーという小さな駅がありました。友人とともに降り立つと、電車を降りて来るひとびとのなかに日本からの客人を見逃すまい、まだかまだかと待っているゴーシュロン夫人の姿がありました。実は電車を乗り間違えて、約束の時間より一時間ほど遅れてしまったのです。お互いに連絡がつかず、迎えに来てくださったゴーシュロン氏を一度自宅まで送り届け、再度駅で待っていてくださったのです。白髪を短く切りそろえ、すらりとした若々しい夫人に遅れた事情を話し、ともかく会えてよかったと車でご自宅へ向かいました。

 セーヌ川に沿って開けた郊外には一軒家が建ち並び、その庭のそこここにバラの花が咲く中を縫って、辿り着いた家は道から少し階段を降りたところにあり、玄関ではゴーシュロン氏が出迎えに立っておられました。「とうとう来ました」と言うとゴーシュロン氏も、時間に遅れたということもあり「やっと来たね」というように迎えてくださいました。灰色と黒の抽象画のような模様のシャツを着た氏は痩せ形で、広い額、白髪で、ゆっくりとした動作で家の中へ招き入れてくださいました。

 中へ入ると、蒸し暑い日だったため夫人は「まずお風呂に入る?」と聞いてくださり、その気さくな態度に緊張していた気持ちがスッとほどけるようでした。さすがにお風呂はご遠慮しましたが、では早速アペリティフにと居間で改めてお互いを紹介、持参した博光氏の最晩年の写真、日本からのおみやげと、「広島・長崎原爆写真集」をお渡ししました。写真集のページを繰られた氏は一言「ほんとうに、ひどい」と。
居間に飾ってある絵や彫刻を拝見したあと、「さぁ、食事は中でする?それとも庭で?」「もちろん庭で!」と即答するほど晴れた午後の庭は、そろそろ終わりに近づいた大輪の赤いバラの花々、青りんごの木を初めとする緑に囲まれ、こじんまりと気持ちが良さそうでした。

 パラソルの下で、前菜、鴨、ポテト、チーズ四種と昼食がすすみ、デザートは日本のお盆に載ったプチ・フールと、さくらんぼ、黒すぐり、木苺などの果物を大皿に盛り、「さぁ、たくさんおとりなさい」。取り分けた果物にはエアゾール式生クリームをかけていただきます。ひげ剃りクリームのようにシュっと出てくるもので「主人はこれが嫌いなの」と笑いながらさらにクリームを出して果物にかける夫人の様子は、若い娘さんのようで、耳の遠いゴーシュロン氏に終始耳のすぐそばで話しかけ、わかりやすく言い換え、それにうなずく氏の姿に仲の良さがこちらにも伝わって来るようでした。氏は昨年大きな病気をされたと言われましたが、カメラを向けると眼差しには力がこもり、人生を抵抗詩に捧げた詩人としての誇りが感じられました。

 大島博光記念館開館へ寄せるメッセージに話が及ぶと、氏は「わたしは実際にその場にいなくても、常に共にある」と気持ちを込めて話されました。さらに「博光は怒りのひとだったと思う。わたしもそうだ。しかし怒りの背後にはいつも寛容と許し、そして愛がある」「記念館を永続させるためには、詩の朗読会やいろいろな集いを折にふれ行うことが大切だと思う」と強調されていました。

 食後のコーヒーのあと、ご夫妻は家の中を案内してくださいました。氏の彫像や若いころを描いた絵など彫刻や絵画が部屋のあちこちにしっくりと収まり、三階の書斎に昇ると、その窓の外には思わず声をあげるほどの風景が広がっていました。ゆったりと流れるセーヌ川をはさんで溢れるような緑、大木が風に葉をまかせるように揺らぎ、青空がどこまでも広がります。かつて氏が教鞭をとられていたというサンジェルマン・アン・レイの街も遙か遠くに見えます。「季節によって太陽が沈む場所がちがうのよ、ここに来て初めて知ったわ」と快活に話される夫人。
 このパノラマを見渡せるように置いてある書き物机の上には、博光氏の記念館のパンフレットがあり、表紙の写真をゴーシュロン氏は「とても美しい」と気に入っていらっしゃいました。また書架からポール・エリュアールの詩集を出され「これはエリュアールのサインだよ」とそのページを見せてくださり、書斎の入り口の鴨居の上に飾ってある作品を「これはエリュアールの詩『自由』をフェルナン・レジェが描いたんだよ」と示されます。博光氏が生前にこの家を訪問することができたら、きっと多くを語らずとも同じ道を歩んだ詩人として心通う時間が流れたと思います。

 ゴーシュロン氏が食事のときに言われた言葉「幸福は人生の詩だ」、その言葉とおり詩のようなひとときでした。お別れの際「またお会いしましょう」の言葉に、氏は何もおっしゃることはありませんでした。それはお耳が遠くて聞き取られなかったせいでしょうか、それとも八十八歳というお年を考えられてのことだったのでしょうか、どちらなのか、わたしにはわかりません。いつかお目にかかれる日が再び来ることを願って、ゴーシュロン氏が大好きな街だと言われたパリへと、コルメイユ・パリジーの素朴な駅をあとにしました。

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Jacques Gaucheron

@<ゴーシュロンの人となり
尾池さんと

 最晩年の祖父の身辺をお世話してくださり、また「大島博光語録」の貴重な資料を残してくださった尾池和子さんに、お話しをお聞きすることができました。尾池さんの話される祖父の姿は、私の小さかった頃に接した祖父のそれと多く重なるものでありながら、尾池さんの親しみのこもったお話しを通して浮びあがるのは、人間味の溢れたあたたかな、生き生きとした新鮮な祖父の姿でした。私の記憶の回路のなかではいくぶん遠い場所にいた祖父が、より身近になって、すぐそこにいるように思われてなりません。祖父の記憶をたぐり寄せることは、少年の頃の自分をたぐり寄せることにほかならず、そこに私は忘れ去っていたはずの自分自身の姿を、当時の祖父の姿とともにふいに垣間見ることができるのです。尾池さんのお話しを聞いていくなかで、私はこの摑んでは消えそうな記憶を蔽う靄が、少しづつ晴れていくのを、ある種の感慨をもって覚えました。自分の記憶が、ただ自分の意識のみに属しているのではなく、ある人や事物を通してはじめて明るみに出るという、あの記憶作用の法則を肌で感じた、ということなのでしょうか。
 尾池さんがフランスで、大島博光記念館オープンのメッセージをもらいにジャック・ゴーシュロンにお会いしに行かれた話しも印象に残ったものです。パリ郊外の小高い丘の上に邸宅があって、季節ごとに太陽の沈む場所が移りゆくのを眺められるのよ、と優雅にもゴーシュロン夫人が言われたという、色彩豊かな「夢のような」ところだったとのことです。尾池さんのお話しを聞いただけで、フランスの明るい風光明媚な景色が眼の前に広がるようでした。文字の上での存在でしかなったゴーシュロンが、尾池さんを通してこれまた身近な、ひとりの実際の人物として目に浮かぶ感覚には、不思議なものがあります。「今度ぜひ行かれるといいですよ」と、まるでひょいと簡単に行ける行楽地のように、尾池さんは言われました。私にとってはフランスは文字通り「夢のような」の場所なのですが…。
 尾池和子様 今後とも、記念館へのお力添えを、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 重田

 家族の記憶を留めた古い書物のような家の一室は、いつも温かい落ち着いた空気に満ちていました。ある日、夕刊の文化面に、パリに永く暮らした画家の随筆で、パリであろうと日本であろうと芸術や学問に関わる人の住まいには共通する匂いがあり、それらの部屋には質素な内にも知性や希望が息づいている、というような文章をみつけ、大島さんの部屋はまさにこの通りではないかと、切り抜いてお持ちすると、一読された大島さんは「善意から出てこういうものに憧れるのはいいことだよ、でも問題はその先だよ」と言われました。「知性でもって何が出来るかだよ」。大島さんにとっては「ひとがそれを読んで愛について考える詩」「ひとの生き方に影響を与える詩」「心の高みを歌う詩」を書くことこそが目的であり、その思いが前へ進もうという気概となって、この部屋に温かさや落ち着きだけではない、何ものかを与えていました。そこに思い至ったのは、大島さんの三回忌に主のいない部屋を再びお訪ねしてから後(のち)のことでした。

 三鷹駅の隣、武蔵境駅近くの、小柄な老夫婦が家の一階で営む小さな釣り具屋さんへ行った帰り道、車椅子の大島さんは「あぁやって夫婦二人で店をやっていられるうちは幸福(しあわせ)だよ、どちらかが亡くなったときに、本当の老後が始まるんだ」、そうつぶやかれていましたが、居間から見える、池のそばの夫人が植えられたという紅梅の木は、夏には池を覆うように青々と葉を茂らせ、冬にはその寂しさをはらうように、華やかな紅色の小さな花を精一杯咲かせ、部屋に途切れることなく生けられた花々とともに、原稿用紙に向かう大島さんを、そっと見守っていたのだと思います。
 肘掛椅子の背にゆったりと広い肩を寄りかからせ、じっと目をつぶり、真っ直ぐな白髪(はくはつ)の落ちかかる血色の良い額を傾け、いつも何事か考えられていた大島さんでしたが、目を開かれたとき、硝子戸越しの四季折々の梅の木の姿に、その励ましを確かに受け取られていたのでしょう。
 「わたしは寝たきり雀」と言われた晩年、寝たり起きたりの日常は、日々の体調との戦いでしたが、九十歳を過ぎてジャック・ゴーシュロン著「不寝番」の訳を完成させ、毎日一時間、二時間と机に向かわれアラゴンを始めとするフランス詩を勉強し、日本語として「その詩人と一緒になって初めから詩を作るよう」に訳し、ご自身の詩作も続けておられたのは、この三鷹の家の歴史(イストワール)の中に身をおかれていたからであったような気がします。  

  *Les Editeurs Francais Reunis ,1975
  *マリー・ローランサン 「二人の少女」       (フランス)
  *マインデルト・ホッベマ「ミッデルハルニスの並木道」(オランダ)

(尾池和子さんはヘルパーとして博光の世話をしながらフランス語の語学力を生かして秘書役もして、博光没後に「大島博光語録」を著しました。)

尾池和子さんが昨年書いたエッセイ「詩人の部屋 三鷹の家の思い出」を手直ししてくれました。部屋の様子が詳しく書かれていて、雰囲気がいっそうよく伝わってきます。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 詩人の部屋 三鷹の家の思い出     尾池和子

 「『お姉さんは三鷹が良くて、遊びに来てもすぐ帰っちゃうんだから』、静江さんの妹さんがね、そう言っていたらしいよ」大島さんは目を細めるようにして、夫人のエピソードを振り返られました。
 戦後間もなく、長野県松代から移られたという三鷹の家は、中央線三鷹駅から南へ歩いて十分ほどの距離にあり、今は住宅街となっていますが、引越をされた当時は雑木林や畑、土の香りばかりだったのでしょう。二階建ての家は、後に「静江さんの先見の明」により内装を畳から洋風に模様替えされたそうで、黄土色の一枚板の玄関ドア、濃茶色の細い飾り柱や梁には、レの字型の鑿(のみ)でつけたような彫りがあり、木材を用いた室内は、どこか武蔵野の別荘風な趣きがありました。

 北側に玄関、南側の中庭には金魚が泳ぐ8の字型の小さな池があり、常緑の八つ手、初夏に蔓を伸ばし紫色の花をつける「クレマティート」、雨の季節には紫陽花、鮮やかな黄色の花が咲くのは「美女柳」、秋の萩、冬の水仙、そして「孤独な女王様」と呼ばれた薔薇の幾種類かと、咲くにまかせた灌木や草花に囲まれ、その中庭に面した、たっぷりと陽が入る八畳ほどの居間兼食事室を、大島さんは晩年の仕事部屋として使われていました。夫人の描かれた紫陽花の小ぶりな油彩画が、天井近くの壁に少し傾いてかかり、その下の灰色の布張りの肘掛椅子が大島さんの居場所でした。
 読みかけの本や、手紙、お知らせ、書きつけの紙が無造作に積まれ、万年筆、インク瓶、文鎮の隣には「精神と日常との出会いだ」とカップや箸立て、調味料、お茶の缶や海苔の缶、ガラスポット、おやつのピーナッツパウダー入れが並ぶ、粗い織り目の灰色の布をかけた丸いテーブルで食事をされ、同時に原稿を書かれていました。そばの大きなやかんをのせたガスストーブは、脚が冷えて原稿が書けないことのないようにと、真夏でもオレンジ色の炎が輝いていました。

 四方の壁を埋める書棚には、エリュアール、アポリネールの詩集、ブラックやレジェ、ピカソの画集、永い間フランスから取り寄せられていた文芸誌「europe(ウーロープ)」、そして『世界の最も美しい詩のひとつに数えられる』という序文(プレファース)を持つガリマール社版を始めとするアラゴンの原書の数々、大島さんが訳された詩集や評伝が、整然と、と言うよりは、入れていたらそうなったという風に並んでいました。それらの中に「des poèmes choisis pour l‘amour de toi」という愛の詩を集めたフランスの詞華集があり、大きさは十センチ四方、厚みは一センチほどでしょうか、淡い藤色がかった桜色の、紬のような光沢のある布で覆われた表紙に、紺に近い青色で表題文字を踊るように配し、同じ青色の栞紐(しおりひも)がついているという洒落た装丁の本でした。開くと右の中扉に数行、アラゴンが別れの苦しみを歌った一節が抜粋してあり、左ページには「COLLECTION PETITE SIRENE 小さな人魚コレクション」とあり、愛らしい人魚の絵が描かれていました。表紙の桜色は何かをこぼしたような染みがあり、くすんで、ページの色も褪せていましたが、それが遠い昔、この小さな詩集のほんの数行にアラゴンをみつけられたことの喜びまでを記憶しているように思えるのでした。その詩の訳は何かの紙に大きな字で書きつけられてありますが、すでにご自分が訳し出版された本のページにも、赤鉛筆で別の訳の書き込みがあったり、書きかけの原稿がはさまっていたり、アラゴンの詩への情熱と追及は尽きることが無いようにみえました。

 ちょっと単語を調べたい時に使う、小卓の上に載せたクラウンの仏和辞典の白い表紙は手擦れて灰色になって、上に大きな点眼鏡が置いてあり、重いロベール、ラルースの仏々辞典、広辞苑の一群は家具やピアノの足もとに横になったり縦になったりして並べられていました。椅子のそばのその一群の影にはチョコレートの袋が隠れていて、時折その幾粒かを楽しそうに口に運ばれていました。
 一角にある小型のステレオからプロコフィエフを聴かれるときは、目を閉じて「一生懸命聴くから疲れる」と言われ、稀にピアノの上に目を転じられ「楽譜を取って」と、それを見ながら、シューベルトの歌曲を細い声でかすかに口ずさまれたこともありました。
 壁は葉を菱形の連続模様にした壁布で、象牙色が永年の陽射しで飴色のように変わり、木製の骨太のアームのある天井灯から差す光をしっとりと吸い込み、かすれた絵の具の跡や、野草の花図鑑も張られていました。小卓に積んである沢山のアルバムも夫人が撮られた「(山の)花の写真ばかりだよ」とおっしゃっていました。ピアノの上に飾られた、ローランサンの青と灰色と薔薇色のふたりの少女の絵葉書、ひょろひょろとした並木道の風景画の卓上カレンダー、壁にかかったヴィーナスの遠いまなざしを投げかける石膏の頭部、それらは詩人の周囲に、花や絵や音楽を心の糧にする家族がいた証しでした。何かのインタビューの折にこの部屋で撮られたという壮年期の夫妻のモノクロ写真が飾られていましたが「静江さんに生活のやつれというものが無く映っているのが、良かったよ」としばしば口にされていました。
(つづく)

詩人の部屋─三鷹の家の思い出─
                               尾池和子

 「お姉さんは三鷹が良くて、すぐ帰っちゃうんだから」静江夫人の妹さんがそう話されていた、と大島さんは目を細めるようにして語られました。
 戦後すぐ松代から移られたという家は、その後「静江夫人の先見の明」により洋風に模様替えされたそうで、黄土色の一枚板の玄関ドア、レの字型の彫刻刀で彫りつけたような飾りのある柱や梁、いくつかが点かなくなっている埃の乗った骨太の木組みのシャンデリアなどに、どこか別荘風な趣きがありました。
 金魚が泳ぐ可愛らしい池のある庭に面した南向きの、さんさんと陽が入る居間兼食事室を、大島さんは晩年の仕事部屋として使われていました。夫人の描かれた紫陽花の小さな油彩画が、天井近くの壁に少し傾いてかかり、左隣にはうつすらと埃の影のある白い石膏のヴィーナスの頭部の遠いまなざし、その下の灰色の布張りの肘掛椅子が大島さんの居場所でした。手紙やお知らせや書きつけの紙類が山と積まれた、粗い織り目の灰色の布がかかつた丸いテーブルで、食事もすれば原稿も書かれ、そばの大きなやかんをのせたガスストーブは、オレンジ色の炎が真夏でも消されることなく輝いていました。
 四方の書棚にはフランスから取り寄せたアラゴンの全集や単行本、ピカソの画集、文芸誌「europe」、それらは手擦れて、綴り糸がゆるくなっていたり、赤鉛筆の書き込みがあったり、背表紙が陽に焼けていたりしました。重い広辞苑やロベールの仏仏辞典の一群は家具やピアノの足もとに横になったり縦になったりして並べられていました。
 菱形の花つなぎ模様のくすんだ象牙色の壁紙には、かすれた絵の具の跡、花の図鑑やら何やらが積まれたピアノの上に飾られた、ローランサンの青と灰色と薔薇色のふたりの少女の絵葉書、アルジャントゥイユのひょろひょろとした並木道の風景画の卓上カレンダー、それらは詩人の周囲に絵や音楽を愛する家族がいた証しであり、その家族の歴史をまるごと抱えた古い書物のような家は、いつだったか夕刊にパリに永く暮らした画家が、書斎に漂っていた黴のような洋紙の匂いの記憶、パリであろうと日本であろうと芸術や学問に関わる人々の部屋には、共通する匂いがある、質素ななかにも知性や希望があると書いていたのを読み、ここはまさにその場所だと、大きな発見をしたようにこれをお持ちすると、一読された大島さんは「こういうものに憧れるのもいいけどね、問題はその先だよ」、と言われました。
 「その先」の、ひとのためになる詩を書きたい、という強い思いが、調度や趣味、日々の生活といったことを超えて、この部屋を緊張と温かさと清廉な空気で満たしていたのだ、そのことに気づかされたのは、三回忌の折に再びこの部屋をお訪ねしたときでした。
 夫人が植えられたという池のそばの紅梅の木は、夏には葉の緑が瑞々しく、冬にはその寂しさをはらうように華やかな濃い色の小さな花を精一杯咲かせ、部屋の花瓶に途切れることなく生けられた花々とともに、そっとその精神を励ましていたのだと思います。
(三鷹の博光宅は老朽化のため建てかえることになりました。尾池さんがその思い出をエッセイに書いてくださいました。)

書斎


キャフェ・オー・レから始まる朝
尾池和子

夏の朝早く、下連雀の大島家の中庭には朝靄が明け切らず、その薄明かりの中で、花も金魚もまだ眠っているようです。
夏休みの間、朝食の支度に伺うことがありました。
庭に面した掃き出し窓から居間へ入ると、家の中はしんとして、古い本の香りがします。時にはご家族の持って来られた百合の花の香りが部屋中にひろがっていることもありました。
朝刊をお持ちして「はい、お願い」の掛け声で朝食の支度にとりかかりますが、とっくに起きられて食卓で詩を書いていらっしゃることもありました。昨夜から詩が浮かんで眠れず、朝を待ちかねるように起きて詩を書き留めるといったことも珍しいことではなかったように記憶しています。
朝食はバゲットを薄く切って冷凍にしてある袋の中から二切れ、バタを溶かしたフライパンで焼くとトースターで焼くよりずっと柔らかな口あたりになります。
ミルクパンに冷蔵庫に作り置きしてあるコーヒー(コロンビアとブルーマウンテンの豆二種をひいてドリップし、ワインの空き瓶に入れてある)とミルクを合わせ、ふきこぼれる寸前まで沸騰させ、縁が水色で小花模様のあるイギリス製のマグカップ一杯に注ぎます。台所がバタやコーヒー・・・博光氏は「キャフェ」とおっしゃっていましたが、ミルクの匂いで満たされる頃起きていらして食卓につかれます。半熟卵、カマンベールチーズをひと切れ、果物を小皿に少々、特製ジュース、これらが並ぶと朝食の支度の出来上がりです。特製ジュースはりんごのすりおろし、緑の野菜、市販のりんごジュースなどをミキサーにかけてどろっとしたら、ガラスのポットに入れて数日間飲めるよう保存してあるものです。

一日の始まり、あるいはいつでも何かするときは、「精神なんかじゃない、食べ物だ」と、食べ物からエネルギーが湧いてくると考えられていたので、一食一食を大切にされ、これは蛋白質、これはビタミンになると毎日の献立を考えていらっしゃいました。「昔は(静江夫人が生きていらした頃)ブルーチーズを食べていたよ」とおっしゃる博光氏でしたが、「ここまで来るまではミゼール(惨め)だったよ」と結婚後の苦労された頃のことも忘れてはいらっしゃいませんでした。

りんごの花ほころび 川面に霞立ち 君なき里にも春はしのびよりぬ・・・博光記念館が千曲川のほとり、りんごの里にあると思うとき浮かぶのが、博光氏が好まれたロシア民謡のひとつ「カチューシャ」です。幼いときに遊んだ千曲川のそば、博光氏亡き松代の里に季節が巡ります。「わたしは一九一○年生まれ」とおっしゃっていたので、来年は生誕百年という年になりますが、一日一日食べ物に気を配られていたのは、食いしん坊というだけでなく、ひとを励まし希望を投げかける詩を書き続けたいという思いからだったのではないでしょうか。九十五年の生涯の大半を費やし、成されたそれらの詩を次の世代にどう引き継いで行くかが、記念館の大きな仕事のひとつと思います。