昨日2月5日の東京新聞に狛江市の航空写真が載っていました。
狛江の土井大助さんのお宅にたびたび伺ったことが懐かしく思い出されます。
お宅は写真の右手の和泉多摩川駅から上(東)に5分ほど行った多摩川の堤防のすぐ近でした。
1974年9月に台風で多摩川が決壊し、民家19戸が流出する大被害がありましたが、最後に流出したのが土井大助さんの家でした。彼は被害住民が国を相手に起こした損害賠償請求訴訟の事務局長となって活動し、長い闘いの末に勝訴したのでした。
かつて矢野裕さんが共産党員市長として狛江市の住民自治に大きな貢献をしましたが、その誕生も土井さんが関わっていました。1996年の市長選挙の際に、市民派の候補として土井さんに説得にきたのが矢野裕市議でしたが、逆に、君なら今度の選挙は勝てる、と言って矢野さんを市長候補に押し上げた土井さん、その判断が実を結ぶことになります。
民主文学同盟や詩人会議のことをはじめ、土井さんの数々の武勇伝は自伝「末期戦中派の風来記」に語られています。

土井大助さんを偲ぶ会が東京でおこなわれました



詩人の小森香子さんが開会あいさつ

元狛江市長の矢野裕さんが狛江市長選挙の勝利で土井大助さんの果たした役割をお話し。
続いて大島博光記念館館長より土井さんへ感謝とお別れの言葉を述べました。

緒方靖夫さん(日本共産党副委員長)がお言葉と献杯の音頭。

不破さんにご挨拶。松代大本営地下壕を見学したことがあるそうです。

秋村宏さんが土井大助「十年たったら」を朗読。

新船海三郎さんが講演「土井大助さんと多喜二」
続いてスライド「土井大助さんをしのぶ」と土井大助さんの朗読CD「誕生」

絹の道合唱団による「合唱組曲 レクイエムいのちこそ」合唱。

俳優の阿部百合子さんがお言葉。夫の矢野宣さんと土井さんが大の親友で、よく一緒に飲んだり、土井さんの詩を朗読した。今頃はあの世で二人で飲んでいることでしょう。

不破哲三さん。東大ポポロ事件の話。土井さんは表で活躍、不破さんはウラで活動したが、その時はお互いに気がつかなかった。

山形民謡を披露


遺族あいさつを次男の吉澤隆さん。肺がんで自宅療養する土井さんを三人のきょうだいで暖かく介護した。土井さんは最後に呼吸が苦しくなって入院を希望したが、病院からもう少し我慢するように言われ、家で息を引き取ったそうです。

詩や文学、歌の関係、日本共産党、労働争議、多摩川水害訴訟関係、日中問題や八鹿事件の関係、故郷山形など土井さんが関わった多くの方面から180人あまりの人が参加し、土井さんを偲びました。

詩人大島博光の生涯
土井大助
神を信じたものも/信じなかったものも/
ドイツ兵に囚われた あの/美しきものを/ともに讃えた
(アラゴン「薔薇と木犀草」=大島博光訳冒頭)
詩人大島博光は、二〇〇六年一月九日武蔵野の病院で肺炎のため逝去した。九十五歳。全人生的に傾倒したアラゴンより十年長命。独特の文筆で力戦奮闘した生涯だった。
戦前・戦後を通してその軌跡は多端である。一九一〇(明治43)年、信州松代の農家に生まれて、十三歳で生母に先立たれ、長じて上京、早大仏文科に進む。「わたしは暗い眼をしたはたちだった」(ソネット「はたち」)と歌った在学中、「エンゲルス『空想より科学へ』や『共産党宣言』を読んで、目のうろこの落ちる思い」で開眼。近くの工場へのビラ配りに参加して逮捕されるが、一札入れて危うく退学処分を免れ、多喜二虐殺の翌三四年に卒業する。
卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。これで西條八十教授の知遇を得、三五年(昭和10)から十年近く八十主宰の詩誌『蝋人形』の編集を任され、戦争末期の廃刊まで続けた。八十教授の令息西條八束氏は〇七年(平成19)十月に八十二歳で他界されたが、前年一月の博光通夜の席ではこう語られた。「中学生・旧制高校生時代、芸術的に啓発されたのは、詩人の家庭という雰囲気からでなく、専ら大島さんの影響だった」と。
戦時は「多かれ少なかれ芸術至上主義者であって、きわめて狭い小さな内面生活をうたうことしか知らない」ままで送り、「アナーキイな気ままさ」でモダニズムを擦過する。
博光青年は招集されても即日帰郷となるほど病弱だった。四四年(昭和19)郷里松代に疎開、翌四五年には三十四歳で群馬の人鈴木静江と結婚、敗戦を迎える。翌春長男朋光が生まれるが、同年二月には長野市の共産党演説会に行きその場で入党、近在の村々で選挙の応援演説をしていた。四八年次男秋光誕生、五〇年二月には、東京都三鷹市下連雀に転居した。夫人は四月から生花店を始め、生活を強力に支える。その年の三鷹、そこがアラゴンに衝撃的な感動を受けた詩人大島博光の出発点となった。五一年、画期的な『フランスの起床ラッパ』が訳出され、翌五二年二月には長野の小熊忠二、山形の斉藤林太郎・丹野茂らと詩誌『角笛』を発行。五月には中野の病院で、青年期からの肺結核を治療するため胸廓成形手術を受ける。九月には長女桃子出生。『角笛』は六二年まで続く。
その六二年十二月、六〇年安保闘争後の一部に生じた「挫折感」を批判し「詩的実践による詩と現実の変革」を標榜する詩人会議が結成される。直前に創立発起人の大島博光とぼくは初めて出会った。主宰格の壺井繁治も同席していた。両人ともどこか農民的な気骨の風貌を見せながら、至ってダンディ風の身なりなのに目を見張った。その春「十年たったら」というぼくの処女作が壺井選でアカハタに出たばかりだった。
こうして六三年一月号から詩誌『詩人会議』は創刊された。博光は病身のため、詩運動では控え目だったが、天職の詩才と鍛えたフランス語学力で、詩作にエッセーに詩的力量を発揮した。文学同盟(現民主主義文学会)にも早くから加盟、終生会員だった。還暦過ぎても訳筆は旺盛、『アラゴンとエルザ──抵抗と愛の讃歌』、チリのノーベル賞受賞詩人『ネルーダ詩集』、七三年この詩人が対米従属の軍事クーデター下で憤死するや翌年には『ネルーダ最後の詩集』『愛と革命の詩人ネルーダ』を刊行。同年、夫人を伴いフランス中心に待望の欧州旅行。七八年にはマドリードのチリ支援世界大会に参加した。
古稀を経た八一年には『レジスタンスと詩人たち』を上梓(八二年にはアラゴンが八十二歳で他界していた)。が、八三年には最愛の夫人がパーキンソン病の療養を始める。翌八四年、ようやく詩集『ひとを愛するものは』を発表。何とこれが詩人大島博光の処女詩集だった。病身でもあってか、自選詩集の上梓には極めて恬淡だった。あとがきに「いままで永いことわたしをささえて、詩を書かせてくれた妻静江にささげる」とあるのは、古稀過ぎてのこの処女詩集成立の背景を示している。この詩集は翌年二月、第十七回多喜二・百合子賞を受賞した。
『大島博光全詩集』が上梓されたのは八六年三月。処女詩集より数倍手間暇かかる出版だが、原資料の収集整理はすべて闘病中の夫人の丹念で懸命な助力によったものである。
以後毎年『ピカソ』『ランボオ』『エリュアール』などの評伝を続刊するが、八九年夫人は三鷹市の病院に入院。翌年には傘寿を迎え、新評伝『アラゴン』を出すが、不幸にも九三年二月、静江夫人に先立たれる。深い悲嘆と打撃に打ち勝つため、詩人は苦闘し再起したその自己鞭撻が伴侶三周忌の命日に刊行の第二詩集『老いたるオルフェの歌』である。
「きょうもわたしは書く/きみの墓碑銘を/…/太陽にむかって走りつづけた/楽天主義者ここに眠る」(墓碑銘Ⅱ)。五十一歳で妻を失い自殺の誘惑にさえ駆られながら「ひとりの地平から万人の地平へ」を書いて危機を克服したエリュアールを模範にして第二詩集を綴り、八十二歳の人生の危機は乗り越えられた。九七年ベトナムの『フイ・カーン詩集』、スペインの二詩人『マチャード/アルベルティ詩集』、〇三年にはフランス抵抗詩人ジャック・ゴーシュロン詩集『不寝番』を刊行、精力的な労作ぶりを示した。
九六年、第二詩集の出版を祝う会以後は、脚の不自由さも加わって外出できなくなり、入院生活も長かった。〇四年三月末に腸疾患で救急入院した病床でも、詩人はゴーシュロンからの手紙と同封の仏語訳大島博光詩抄(「ひろしまのおとめたちの歌」など五編)の抜刷を見せながら、近くフランスの文化誌『コミューン』に発表予定だそうだ、と明るい声だった。
詩人大島博光の詩的生命力の源泉は、日本共産党員詩人としての深い自覚と誇りだったと思う。「党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活」(市川正一)、これは処女詩集と全詩集の後記に再度記された文言である。この詩人が最も好む動詞「愛する」の湧き出るのもこの泉からにほかならない。
(『大島博光選集1 教えるとは希望を語ること』文藝出版 2008年7月)
土井大助
神を信じたものも/信じなかったものも/
ドイツ兵に囚われた あの/美しきものを/ともに讃えた
(アラゴン「薔薇と木犀草」=大島博光訳冒頭)
詩人大島博光は、二〇〇六年一月九日武蔵野の病院で肺炎のため逝去した。九十五歳。全人生的に傾倒したアラゴンより十年長命。独特の文筆で力戦奮闘した生涯だった。
戦前・戦後を通してその軌跡は多端である。一九一〇(明治43)年、信州松代の農家に生まれて、十三歳で生母に先立たれ、長じて上京、早大仏文科に進む。「わたしは暗い眼をしたはたちだった」(ソネット「はたち」)と歌った在学中、「エンゲルス『空想より科学へ』や『共産党宣言』を読んで、目のうろこの落ちる思い」で開眼。近くの工場へのビラ配りに参加して逮捕されるが、一札入れて危うく退学処分を免れ、多喜二虐殺の翌三四年に卒業する。
卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。これで西條八十教授の知遇を得、三五年(昭和10)から十年近く八十主宰の詩誌『蝋人形』の編集を任され、戦争末期の廃刊まで続けた。八十教授の令息西條八束氏は〇七年(平成19)十月に八十二歳で他界されたが、前年一月の博光通夜の席ではこう語られた。「中学生・旧制高校生時代、芸術的に啓発されたのは、詩人の家庭という雰囲気からでなく、専ら大島さんの影響だった」と。
戦時は「多かれ少なかれ芸術至上主義者であって、きわめて狭い小さな内面生活をうたうことしか知らない」ままで送り、「アナーキイな気ままさ」でモダニズムを擦過する。
博光青年は招集されても即日帰郷となるほど病弱だった。四四年(昭和19)郷里松代に疎開、翌四五年には三十四歳で群馬の人鈴木静江と結婚、敗戦を迎える。翌春長男朋光が生まれるが、同年二月には長野市の共産党演説会に行きその場で入党、近在の村々で選挙の応援演説をしていた。四八年次男秋光誕生、五〇年二月には、東京都三鷹市下連雀に転居した。夫人は四月から生花店を始め、生活を強力に支える。その年の三鷹、そこがアラゴンに衝撃的な感動を受けた詩人大島博光の出発点となった。五一年、画期的な『フランスの起床ラッパ』が訳出され、翌五二年二月には長野の小熊忠二、山形の斉藤林太郎・丹野茂らと詩誌『角笛』を発行。五月には中野の病院で、青年期からの肺結核を治療するため胸廓成形手術を受ける。九月には長女桃子出生。『角笛』は六二年まで続く。
その六二年十二月、六〇年安保闘争後の一部に生じた「挫折感」を批判し「詩的実践による詩と現実の変革」を標榜する詩人会議が結成される。直前に創立発起人の大島博光とぼくは初めて出会った。主宰格の壺井繁治も同席していた。両人ともどこか農民的な気骨の風貌を見せながら、至ってダンディ風の身なりなのに目を見張った。その春「十年たったら」というぼくの処女作が壺井選でアカハタに出たばかりだった。
こうして六三年一月号から詩誌『詩人会議』は創刊された。博光は病身のため、詩運動では控え目だったが、天職の詩才と鍛えたフランス語学力で、詩作にエッセーに詩的力量を発揮した。文学同盟(現民主主義文学会)にも早くから加盟、終生会員だった。還暦過ぎても訳筆は旺盛、『アラゴンとエルザ──抵抗と愛の讃歌』、チリのノーベル賞受賞詩人『ネルーダ詩集』、七三年この詩人が対米従属の軍事クーデター下で憤死するや翌年には『ネルーダ最後の詩集』『愛と革命の詩人ネルーダ』を刊行。同年、夫人を伴いフランス中心に待望の欧州旅行。七八年にはマドリードのチリ支援世界大会に参加した。
古稀を経た八一年には『レジスタンスと詩人たち』を上梓(八二年にはアラゴンが八十二歳で他界していた)。が、八三年には最愛の夫人がパーキンソン病の療養を始める。翌八四年、ようやく詩集『ひとを愛するものは』を発表。何とこれが詩人大島博光の処女詩集だった。病身でもあってか、自選詩集の上梓には極めて恬淡だった。あとがきに「いままで永いことわたしをささえて、詩を書かせてくれた妻静江にささげる」とあるのは、古稀過ぎてのこの処女詩集成立の背景を示している。この詩集は翌年二月、第十七回多喜二・百合子賞を受賞した。
『大島博光全詩集』が上梓されたのは八六年三月。処女詩集より数倍手間暇かかる出版だが、原資料の収集整理はすべて闘病中の夫人の丹念で懸命な助力によったものである。
以後毎年『ピカソ』『ランボオ』『エリュアール』などの評伝を続刊するが、八九年夫人は三鷹市の病院に入院。翌年には傘寿を迎え、新評伝『アラゴン』を出すが、不幸にも九三年二月、静江夫人に先立たれる。深い悲嘆と打撃に打ち勝つため、詩人は苦闘し再起したその自己鞭撻が伴侶三周忌の命日に刊行の第二詩集『老いたるオルフェの歌』である。
「きょうもわたしは書く/きみの墓碑銘を/…/太陽にむかって走りつづけた/楽天主義者ここに眠る」(墓碑銘Ⅱ)。五十一歳で妻を失い自殺の誘惑にさえ駆られながら「ひとりの地平から万人の地平へ」を書いて危機を克服したエリュアールを模範にして第二詩集を綴り、八十二歳の人生の危機は乗り越えられた。九七年ベトナムの『フイ・カーン詩集』、スペインの二詩人『マチャード/アルベルティ詩集』、〇三年にはフランス抵抗詩人ジャック・ゴーシュロン詩集『不寝番』を刊行、精力的な労作ぶりを示した。
九六年、第二詩集の出版を祝う会以後は、脚の不自由さも加わって外出できなくなり、入院生活も長かった。〇四年三月末に腸疾患で救急入院した病床でも、詩人はゴーシュロンからの手紙と同封の仏語訳大島博光詩抄(「ひろしまのおとめたちの歌」など五編)の抜刷を見せながら、近くフランスの文化誌『コミューン』に発表予定だそうだ、と明るい声だった。
詩人大島博光の詩的生命力の源泉は、日本共産党員詩人としての深い自覚と誇りだったと思う。「党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活」(市川正一)、これは処女詩集と全詩集の後記に再度記された文言である。この詩人が最も好む動詞「愛する」の湧き出るのもこの泉からにほかならない。
(『大島博光選集1 教えるとは希望を語ること』文藝出版 2008年7月)
大島博光記念館名誉館長である土井大助さんが7月30日ご逝去されました。87歳。
博光とは詩人会議の活動を通してずっと親しい友人で、楽しく交流しました。特に、博光の代表的な二つの詩集の刊行にあたって応援、詩集『ひとを愛するものは』では作品の編集に関わり、『大島博光全詩集』では解説を書きました。
博光逝去の際は「大島博光研究・序章」を10頁にわたって書いています。(『詩人会議』2006年8月号)
記念館発足にあたっては名誉館長に就任され、記念館のバックボーンとして支えてくださいました。2009年3月に開かれた記念館友の会総会では博光との交流について講演され、夜のうたごえ喫茶では韓国の若手舞踊家たちと意気に感じて熱く交流したのが印象的でした。
昨年7月の記念館開館5周年にあたっては一文を寄稿され、記念館の活況を慶びつつ、これから文化運動のセンターとして大きな意味が増すだろうこと、若い世代へ受け継がれることへの期待、創造的発展を願っていることを述べました。
「大島博光研究」の続編をはじめ、まだたくさんのことに力を貸していただかなければならなかったことを思うと無念ですが、これまでのご貢献に感謝しながら、今後も土井さんの願ったことを胸に刻んで取り組んでいきたいと思います。

中央が土井大助さん。詩人会議創立50周年記念祝賀会(2012年12月8日 日本青年館)にて
博光とは詩人会議の活動を通してずっと親しい友人で、楽しく交流しました。特に、博光の代表的な二つの詩集の刊行にあたって応援、詩集『ひとを愛するものは』では作品の編集に関わり、『大島博光全詩集』では解説を書きました。
博光逝去の際は「大島博光研究・序章」を10頁にわたって書いています。(『詩人会議』2006年8月号)
記念館発足にあたっては名誉館長に就任され、記念館のバックボーンとして支えてくださいました。2009年3月に開かれた記念館友の会総会では博光との交流について講演され、夜のうたごえ喫茶では韓国の若手舞踊家たちと意気に感じて熱く交流したのが印象的でした。
昨年7月の記念館開館5周年にあたっては一文を寄稿され、記念館の活況を慶びつつ、これから文化運動のセンターとして大きな意味が増すだろうこと、若い世代へ受け継がれることへの期待、創造的発展を願っていることを述べました。
「大島博光研究」の続編をはじめ、まだたくさんのことに力を貸していただかなければならなかったことを思うと無念ですが、これまでのご貢献に感謝しながら、今後も土井さんの願ったことを胸に刻んで取り組んでいきたいと思います。

中央が土井大助さん。詩人会議創立50周年記念祝賀会(2012年12月8日 日本青年館)にて

名誉館長の土井大助さんの自伝出版を祝う会が東京で開かれました。

市ヶ谷の私学会館にて

「まだ生きている」を出版された田中美智子さんがお祝いのスピーチ。
ご挨拶しましたら、
「西條八束さんご夫妻の個展で博光を紹介された、美しい詩を書くので若くてハンサムな
詩人を想像していたが、着流しの和服で歯の抜けた老人だったのでイメージが違った、
そのことを八束さんに言ったら書かれてしまった。いちど記念館に行きたい」と言われました。

山下文男さん

俳優の矢野宣さんが土井さんの詩集『十年たったら』から「山で死んだ男たちよ」を朗読。
さすがに力のこもった朗読でした。
きみたちは幸せだ、誰のせいでもない、自分が決めて山へ行き、死んだのだから、
という語りを通して、戦争にかり出されて殺されていった男たちの無念を思い、
戦争へかり出した者を告発しています。

作家の吉開那津子さん

詩人の秋村宏さんの詩の朗読

詩人の小森香子さん


土井大助さんは溌剌とした口調でユーモアを交えて縦横に語られました。
本も売れているので、これからも頑張っていきたいと決意表明。


小森香子さんと長野詩人会議の石関みち子さん。右端は詩人会議編集長の佐藤文夫さん。

娘さん、息子さんがあいさつ。「父から
” 詩人がコミュニストになったのではない、コミュニストが詩人をやっているんだ ”
と言われてなるほどと納得した」と息子さん。

詩人会議編集部の高橋和子さんから真っ赤なバラの花束を。

土井さんの活動の幅の広さを反映して、大勢の方が参加しました。
学生時代にいっしょに活動したという辻井喬さんからメッセージも。
呼びかけ人は秋村宏、市田忠義、小森香子、佐藤文夫、渋谷要、鈴木瑞穂、田中美智子、
津上忠、松本善明、森敬、矢野宣、矢野ゆたか、山下文男、吉開那津子の各氏でした。

