反核・平和 Anti-nuclear/Peace

ここでは、「反核・平和 Anti-nuclear/Peace」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。





平和行進




平和行進

[一九九四年 国民平和大行進に寄せて]の続きを読む


日本の漁夫


<『角笛』23号 1962.8>

海

 原爆をゆるすまじ
                    北條さなえ

   妻のうた

冬さり 春はきても
幸せは もう かえってこない
ビキニの怖ろしい死の灰があの人をうばっていった
やさしい笑み 力強いこえ
それはどこえ いってしまったのだろう
よべど もう 答えてくれない
ただ一人の 愛する人よ
いま われらは あてどなく 暗い谷間をたどる
ああ この心のそこの 深い 悲しみ 憤りよ

   子の声

かえしておくれ かえしておくれ
だいじな だいじな父さんを
かえしておくれ かえしておくれ

   人々の声

泣くな君よ わがはらからよ
悲しみの中から みんな立ち上ろう
涙の中から たくましい力をくみだそう

泣くな君よ わがはらからよ
手と手を 心と心を しっかり結べ
久保山さんの死を 空しくはさせまい──

泣くな君よ わがはらからよ
さあ みんなで力をあわせて おいはらおう
水爆の悪まを 死の灰を──
 おいはらおう──

(「日本のうたごえ」のうちから同人北条さなえの作をここに収録した──編集部)

(『角笛』12号 1955年1月)

ヨット

大島博光の反核の詩(2)国際的な反核運動の高まりと「鳩の歌」 /大島朋光

ベトナムの民族解放闘争と「ベトナム詩集」
 一九六〇年代、ベトナムでは民族の独立と統一をめざして解放闘争がすすめられていた。アメリカは一九六四年八月、トンキン湾事件をでっちあげて、北ベトナム本土に対する北爆を行った。翌六五年には北爆を恒常化させ、本格的なベトナム戦争に突入する。核兵器が使われる危険が高まる中で、「ベトナムを第二の広島、長崎にするな」をスローガンに日本でも広範なベトナム反戦の大衆運動がすすめられた。博光はベトナムの詩人たちが闘いの中で書いた詩を翻訳して紹介、『ベトナム詩集』(一九六八年)を刊行してベトナム戦争反対・ベトナム人民支援の運動に呼応した。
 一九七四年四月、多くの年月と犠牲を払いながらも、粘り強い英雄的な闘いにより、ベトナム人民はアメリカ帝国主義を打ち破り、祖国の解放と統一を勝ち取った。

国際的な反核運動の高まりと「鳩の歌」
 一九八〇年代初頭、NATOがソ連に対抗してヨーロッパに中距離ミサイル・戦域核配備をすすめると、核兵器による戦争、ヨーロッパ全土壊滅への危機感がヨーロッパ諸国民の間に急速に高まり、反核運動が燃え上がった。八三年十月二十二日、国際反戦デーにあわせて国際反核統一行動が行なわれ、ドイツの首都ボンの中央集会に五十万人が結集、オランダ、イギリス、イタリアなどで数十万人規模のデモや「人間の鎖」が行われた。こうした国際的な反核運動の高まりのなかで、一九八三年から八四年にかけて「鳩の歌」シリーズの四篇の詩が書かれた。「鳩の哀歌」(一九八三年)、「鳩の歌」(『文化評論』一九八四年一月)、「斧はくるな─鳩の歌」(『赤旗』一九八四年二月十六日)、「火をつけるな─鳩の歌」(『民主文学』一九八四年六月号)。
 
  鳩の歌

わたしは鳩だから どこへでも飛んでゆく
風のように 世界じゅう 飛びまわっている

わたしの巣立った巣は ヒロシマ ナガサキ
ゲルニカ アウシュビッツ オラドゥール

わたしはそこで焼かれて 灰のなかから
不死鳥のように また 生まれてきたのだ

そこで焼かれた人たちが血と涙の中から
仰ぎ見た あの空の虹が わたしなのだ

わたしは大きな不幸の中から生まれてきたから
わたしのほんとうの名は しあわせ幸福というのだ

わたしの名を呼んでいるところ どこへでも
わたしは三つ葉の小枝をくわ咬えて 飛んでゆく

赤ん坊に乳をふくませている母親の胸のなか  
新しい朝を迎えた 若い恋人たちのところへ

ごらんなさい ボンで ローマで ロンドンで   
うねっているわたしの波を 「人間の鎖」を

地獄の敷居にすっくと立って叫んでる人たちを
白いミサイルも赤いミサイルも まっぴらだ

この地球がまるごと ヒロシマのように
焼かれて 殺されて 瓦礫とならぬように

どんな毒矢も わたしを撃ち落せはしない
わたしは生そのもの 人類そのものだから

どんな絶望もわたしの翼を折ることはできない
わたしは 大きな死と闘うためにやって来た

わたしの またの名を 希望というのだ
わたしは大きな春と未来のためにやって来たのだから
            (一九八三年十二月)

 国際的な反核運動の大きな高まりが生み出したというべき「鳩の歌」は「わたしは人類そのものだから、どんな毒矢も絶望も撃ち落とせない」「わたしは大きな春と未来のためにやって来た」と人類の未来への希望と確信を高らかに歌っている。科学的社会主義の世界観に立ち、「鳩と未来の詩人」を自認していた博光の代表作といっていいと思う。

画期的な「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名運動
 一九八五年二月、日本原水協を含む十一カ国の反核団体がよびかけた「核兵器全面禁止・廃絶のために―ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名運動は、核兵器廃絶を目標に世界世論を結集させる画期的な運動となった。署名数は一千万筆を超え、世界の非政府組織が一致して国連に核兵器廃絶を人類生存にかかわる第一義的課題として審議するよう勧告する原動力となった。
 博光はこのアピールに応えて「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」を書いた。

  きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
  四十年後のいまも 怒り 呻き おらぶ
  ヒロシマ・ナガサキに 涙はかわかない
  四十年たったいまも その傷は癒えない
  ……
  一瞬に 過去 現在 未来が吹っ飛んだ
  生きながら 焼き焦がされた 子供たち
  生きながら 襤褸の身となった 女たち
  生きながら 蛆虫に喰われた 男たち
  ……
  きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
  虫けらのように 焼き殺された人たちの
  その 燃えた血と涙のうえを渡ってくる
  その 燃えた灰と骨のうえを吹いてくる
  ……
  ヒロシマ・ナガサキの 熱い灰の中から
  その名も希望とよぶ 不死鳥が 舞い立つ
  大きな死とたたかう 鳩たちが飛び立つ
  ヒロシマ・ナガサキから 世界じゅうの空へ
           (『赤旗』一九八五年八月)

 一九八六年二月に開催された「ヒロシマ・ナガサキからのアピール一周年のつどい」に参加した博光は、詩「鳩のねがい」を発表した。また一連の反核の詩を書いた。「鶴と鳩と」(『民主長野』一九八五年十二月)「鳩のねがい」(『赤旗』一九八六年二月)、「地球をとり巻け 平和の波よ」(『赤旗』一九八七年十月)、「戦争と平和と」(『赤旗』一九八八年一月)、「核戦争と平和と」(一九八八年六月)。

世界で取り組まれた「平和の波」(一九八七年)
 一九八七年十月、世界各地で「平和の波」行動が取り組まれた。博光は「地球をとり巻け 平和の波よ」を書いて行動への参加を熱く呼びかけた。

さあ 十月二十四日 正午
うち鳴らそう 鐘を 太鼓を
空高く飛ばそう 風船を 鶴たちを

黄色いリボンをつけて 走ろう
歌ごえをあげよう 署名をしよう
ヒロシマ・ナガサキ・アピールに

さあ 平和の波を まき起こそう
創意をこらした 一つ一つの波よ
よりあい 集まり 怒涛となれ

おお 平和の波よ 生のうねりよ
五つの海 五つの大陸をむすんで
世界をめぐり 地球をとりまこう

おお 平和の波よ 愛のうねりよ
いまこそ示そう 人類の無限の力を
人類の秘めた 無限の神秘を

かつて この世界にあっただろうか
このような 人類の連帯が 統一が
このような 人類の共同が 合唱が

おお平和の波よ 希望の波よ
これこそ 死にうち勝つ 生の
生存のための すばらしい弁証法

さあ つつみこみ のみこもう
平和の波の うねりのなかに
核にしがみつく 亡者どもを
             (一九八七年十月)

「戦争に反対する詩人の会」と湾岸戦争
「戦争に反対する詩人の会」は「詩人も反戦の声をあげなければならない」という鈴木初枝の音頭で始まった全国組織で、一九八二年に発足し、二〇〇二年に解散した。百人でスタートした会員が二五〇人の規模になっていた。年二回「反戦、市民と詩人の集い」を全国各地で開催し、当該地域の詩人たちの力を集めて成功させた。また、パンフレット詩集『反戦のこえ』を年二回定期刊行した。博光は当初から参加して活動し、上田、松本、前橋など各地で行われた「反戦、市民と詩人の集い」で講演した。十九年間、全国の詩人の力を結集して反戦の声をあげ、国家機密法など軍国主義復活の動きに反対して運動するなど大きな足跡を残した。
 一九九〇年に湾岸戦争が起こると、博光はアメリカの報復戦争に反対して、詩「いまは走るときだ」(『赤旗』一九九一年二月)、「恐竜ティラノザウルスが」(『平和新聞』二〇〇二年四月)を書いた。

抽象画のように 花火のように

夜空をとびかう 火の矢 火の玉

操縦席のカメラが映しだす 乾いた爆撃シーン

まるでテレビゲームと見える映像のかげで

しかし確実に流され 流れているのだ

たくさんの子どもたち女たち男たちの血が

そして放流された原油でまっ黒に ねっとりと

羽根も油まみれになったペルシャ鵜たち



猫にも 鷲にも 正義はない

いまは 猫を追い 鷲を追って

人間が走るときだ

戦争反対のデモに 署名に



サヴァンナの弱肉強食をやめろ

青い海や空を汚すな

ジャングルの論理に手をかすな

人民の汗も血も鷲のために流させるな

愚かな戦争をやめろ 
           (「いまは走るときだ」)

 また、フランスの詩人ゴーシュロンの湾岸戦争を告発した詩「湾岸戦争を見渡す岬」を翻訳し、ゴーシュロン詩集『不寝番』(二〇〇三年)を刊行した。「死を目の前にしてこんな詩集ととり組んでいることを 私じしんがしあわせだと思っています。それはまるで第一線で戦っているようなものですから」と語り、九〇歳をすぎた最晩年まで反核と平和の詩に取り組んだ。 (了)

(『狼煙』79号 2015年12月)

反戦詩人のつどい
戦争に反対する詩人のつどいにて 1983.10.29


いまは走るときだ




(『赤旗』1991年2月13日、詩集『冬の歌』)

沖縄

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リスト「大島博光の反核と平和の詩」

硫黄島」          (『角笛』1952.2)
いきどおろしい春」     (『年間現代詩集』宝文館1955.4)
もはや 杞憂ではない」   (『年間現代詩集』宝文館1955.4)
子どもたちと灰と」     (『アカハタ』1957.5.29)
ひろしまのおとめたちの歌」 (『アカハタ』1957.8.8)
「すばらしい青写真 ソ連共産党第22回大会によせて」(『アカハタ』1961.10)
鳩の哀歌」         (『大島博光全詩集』1983)
鳩の歌」          (『文化評論』1984.1)
斧はくるな──鳩の歌」   (『赤旗』1984.2.16)
火をつけるな──鳩の歌」  (『民主文学』1984年6月号)
鶴と鳩と」         (『民主長野』1985.12)
この子らに 地球は青かった」(『赤旗』1985.2.15)
平和の党の平和の道を」   (『赤旗』1985.4.21)
ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」(『赤旗』1985.8.7)
鳩のねがい」        (『赤旗』1986.2.23)
地球をとり巻け 平和の波よ」(『赤旗』1987.10.24)
戦争と平和と」       (『赤旗』1988.1.17)
核戦争と平和と」      (『冬の歌』1988.8)
「いまは走るときだ」     (『赤旗』1991.2.13)
恐竜ティラノザウルスが」  (『平和新聞』2004.4.5)

平和友好祭
ピカソ「世界青年平和友好祭のためのハンカチーフ」1951年

大島博光の反核の詩──反核・平和運動の発展との関わり

 「人類を数十回も全滅させうるほどの大量の核兵器が蓄積され、わたしたちは核戦争と「核の冬」が現実となりうる時代に生きている。核廃絶の道のほか、人類の生き残る道はないであろう。わたしはこれからも鳩の歌を、春の歌をうたってゆきたい。死を拒否して生きる悦びをうたい、生きる幸福をたたえ、生きる希望をかかげることこそが詩人の任務なのだから」大島博光はこう言って「鳩の歌」をはじめ反核と平和の詩を書き続けた。その最初の詩が1954年のビキニ事件を扱った「いきどおろしい春」である。

1)ビキニ事件と「いきどおろしい春」
 1954年3月1日、米国はマーシャル諸島内・ビキニ環礁で水爆実験を行った。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんが亡くなったのをはじめ、多くの人が深刻な放射能被害を受けた。

  おお またしても いきどおろしい春
  何も知らずに働く 漁師たちのうえに
  だれのものでもない海のうえ 島々のうえに
  おそろしい灰が降る 雨が降る
  ・・・
  汚されたおとめたちだけでは足りぬのだ
  七〇〇の基地だけでは足りぬというのだ
  放射能の降る空よ 海よ 大地よ
  ・・・
   (「いきどおろしい春 ──一九五四年の」)

 ビキニ事件については「死んだ女の子」で有名なトルコの詩人ヒクメットも「日本の漁夫」を書いている。
 ビキニ事件は社会に大きな衝撃を与えた。核兵器禁止の署名運動が始まり、日本中に広がった。署名は3200万筆を超え、反核運動の出発点となった。核実験をヒントにした映画「ゴジラ」が制作され、大ヒットした。米国は被害を隠そうとしたが、被害はきわめて広範囲で、半世紀後の現在も続いていることがドキュメンタリ映画等で明らかにされている。「放射線を浴びた『X年後』」(南海放送)や「除染された故郷へ~ビキニ核実験・半世紀後の現実~」(NHK)など。

2)原水爆禁止と被爆者擁護の運動が始まる
 ビキニ事件をきっかけに被爆者が声を上げるようになった。翌年1955年に日本原水協が結成され、その次の年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成され、組織的な原水爆禁止と被爆者擁護の運動が始まることとなる。こうした動きに応えて博光は1957年8月に「ひろしまのおとめたちの歌」を発表した。被曝した乙女の悲惨な様子を生々しく描き、原爆を告発している。

  消えはしない 消えさりはしない
  おとめのわたしらがくぐりぬけてきた
  あの原子地獄の傷あと焼けあとは
  わたしらの骨のなか血のなかに
  からみつき むしばむ放射能は
  いま 十年すぎた きょうの日も
  ・・・
  わたしらのこころにもひなげしがあり
  ひそかな期待にふるえる胸もあるのに
  やけどの頬は ほほえんではくれない
  ふく風になびく くろ髪もあるのに
  ささやきをかわし 手を組みあって
  五月の森へゆく こいびともない

  炎の風にやかれた肌でわたしらは叫ぶ
  もう原子地獄は わたしらかぎりに
  もうきのこ雲は ひろしまかぎりに
  そうしていま わたしらは見る
  死の太陽を こばむひとたちの
  ふりあげた 林のような手を腕を
  (「ひろしまのおとめたちの歌」1957年8月)

3)アメリカのベトナム侵略戦争拡大とベトナム人民の勝利
 1960年代、アメリカのベトナム侵略戦争が拡大し核兵器が使われる危険が高まる中で、「ベトナムを第二の広島、長崎にするな」をスローガンに日本でも運動がすすめられた。1974年4月、侵略者アメリカに対してベトナム人民が歴史的な勝利を収め、民族自決権の歩みを前進させた。

4)国際的な反核運動の高まりと「鳩の歌」
 1980年代初頭、NATOがソ連に対抗してヨーロッパに中距離ミサイル・戦域核配備をすすめると、核兵器による戦争、ヨーロッパ全土壊滅への危機感がヨーロッパ諸国民の間に急速に高まり、反核運動が燃え上がった。オランダ、イギリス、イタリア、ドイツなどで数十万人規模のデモや「人間の鎖」が行われた。こうした国際的な反核運動の高まりのなかで、1983年から84年にかけて「鳩の歌」シリーズの四篇の詩が書かれた。
「鳩の哀歌」(1983年)、「鳩の歌」(文化評論1984年1月)、「斧はくるな──鳩の歌」(赤旗1984年2月16日)、「火をつけるな──鳩の歌」(民主文学1984年6月号)

  わたしは鳩だから どこへでも飛んでゆく
  風のように 世界じゅう 飛びまわっている

  わたしの巣立った巣は ヒロシマ ナガサキ
  ゲルニカ アウシュビッツ オラドゥール

  わたしはそこで焼かれて 灰のなかから
  不死鳥のように また 生まれてきたのだ

  そこで焼かれた人たちが血と涙の中から
  仰ぎ見た あの空の虹が わたしなのだ

  わたしは大きな不幸の中から生まれてきたから
  わたしのほんとうの名は 幸福(しあわせ)というのだ

  わたしの名を呼んでいるところ どこへでも
  わたしは三つ葉の小枝を咬(くわ)えて 飛んでゆく

  赤ん坊に乳をふくませている母親の胸のなか
  新しい朝を迎えた 若い恋人たちのところへ

  ごらんなさい ボンで ローマで ロンドンで
  うねっているわたしの波を 「人間の鎖」を

  地獄の敷居にすっくと立って叫んでる人たちを
  白いミサイルも赤いミサイルも まっぴらだ

  この地球がまるごと ヒロシマのように
  焼かれて 殺されて 瓦礫とならぬように

  どんな毒矢も わたしを撃ち落せはしない
  わたしは生そのもの 人類そのものだから

  どんな絶望もわたしの翼を折ることはできない
  わたしは 大きな死と闘うためにやって来た

  わたしの またの名を 希望というのだ
  わたしは大きな春と未来のためにやって来たのだから
   (「鳩の歌」)

5)「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名が世界に拡がる
 1985年2月、日本原水協を含む11カ国の反核団体がよびかけた「核兵器全面禁止・廃絶のために――ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名運動は、世界世論と運動の中で核兵器廃絶のコンセンサスを創り出す重要な運動となった。署名数は1千万筆を超え、世界の非政府組織が一致して国連に「核兵器廃絶を人類生存にかかわる第一義的課題として審議」するよう勧告する原動力となる。
 このアピールに答えて「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」が書かれた。

  きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
  四十年後のいまも 怒り 呻き おらぶ
  ヒロシマ・ナガサキに 涙はかわかない
  四十年たったいまも その傷は癒えない
  ・・・
  一瞬に 過去 現在 未来が吹っ飛んだ
  生きながら 焼き焦がされた 子供たち
  生きながら 襤褸の身となった 女たち
  生きながら 蛆虫に喰われた 男たち
  ・・・
  きょう ヒロシマ・ナガサキから吹く風は
  虫けらのように 焼き殺された人たちの
  その 燃えた血と涙のうえを渡ってくる
  その 燃えた灰と骨のうえを吹いてくる
  ・・・
  ヒロシマ・ナガサキの 熱い灰の中から
  その名も希望とよぶ 不死鳥が 舞い立つ
  大きな死とたたかう 鳩たちが飛び立つ
  ヒロシマ・ナガサキから 世界じゅうの空へ
  (「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」)

反核署名
戦争と平和と

戦争と平和と2


(『赤旗』1988年1月17日、 『冬の歌』)

私のピカソ「戦争と平和」

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「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」の署名活動を報じる赤旗記事の写真に博光の姿が写っています。
この署名運動は国際的にも大きな拡がりとなり、国際世論を高める力となりました。
 博光はこのアピールに詩で答えています。「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」です。

反核署名
(『しんぶん赤旗』1985.4.29)

*「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名
 1985年2月、日本原水協のよびかけによる核兵器全面禁止国際署名提唱と推進のために協議会が開かれ、広島・長崎に12カ国の代表が集まり、「核兵器全面禁止・廃絶のために―ヒロシマ・ナガサキからのアピール」国際署名運動が開始されました。アピールは核戦争阻止を訴え、核兵器廃絶を「全人類の死活に関わる最も重要かつ緊急の課題」とし、その年の7月に1000万筆を突破、93年には34000万人、2003年9月には6000万人を超えました。署名運動は5回におよぶ「平和の波」運動など135カ国以上で取り組まれました。
 この署名運動は、開始当初はさまざまな個別的要求で運動していた世界の運動に「核兵器全面禁止・廃絶」のコンセンサスを創り出し、2000年5月、NPT再検討会議が「核兵器廃絶の明確な約束」の合意にいたる上で大きな力となりました。
(日本原水協ホームページより)

 祖国は怒り叫んでいる
                       大島博光

平和のわら屋根に火をつけようために
しぼり機をぐっと締めつけようために
われらの口に猿ぐつわをほめようために
水爆に思いのままにスイッチを入れようために

新しい首縄投縄をないなおしているやから
祖国とその息子たちを売る裏切りのやからよ
きくがいい ごうごうと祖国の松林雑木林が
そのすべての枝葉でうなりを上げているのを

もしもなお聞く耳をもつならば 聞くがいい
山々のひだ 野の穂麦のひとつひとつが
海を奪われた海べの砂のひとつひとつが
それぞれの声をあげて怒り叫んでいるのを

きくがいい 刺し殺された労働者のうめきで
英雄的な三池が山ぐるみで叫んでいるのを
だが 久保清さんの血と死をむだにするなと
怒りの腕をかたく組みなおしたその雄叫びを

きくがいい 畑という畑を原爆基地に奪われて
弾丸拾いのさなか射ち殺された若ものの叫びで
母の手から引きさかれたみなし子の声で
沖縄が毒あるそてつをたべながら叫んでいるのを

きくがいい その母も外国の泥靴にふみつけられて
基地だらけ傷だらけで怒り叫んでいるのを
だが 母を裏切りものの手から奪いかえせ
母をまもれと 立ち上がった息子たちの叫びを

おお 祖国を売りわたす裏切りのやからよ
また見るがいい 君らの模範である李承晩を
ぼくは見た テレビの白黒の映像いっぱいに
京城の街を突き進む南朝鮮の若者たちを

若者たちに銃口を向けたアメリカ製の戦車を
力まかせにこん棒をふりおろすその犬どもを
並木かげに倒れた若者の青ざめ引きつった顔を
李承晩の道をくりかえすのはもうたくさんだ

平和のわら屋根に火をつけようとするやからよ
きくがいい 日本の若者たちの決意と叫びを
おれは二どときのうの過ちをくりかえさぬ
アジアの友に向けて二どと銃をとらぬだろう

おれ達はその手首をつかんで払いのけるだろう
新しい首縄投縄をないなおしているその手首を
祖国とその息子たち売る裏切りのやからよ
君らを海のかなたであやつるワシントンのやからよ

(「アカハタ」1960年10月、『大島博光全詩集』)

海


ちぎれた歌1ちぎれた歌2


(『稜線』65号 1998年5月)
 鶴と鳩と       大島博光

子供たちは 千羽鶴を 折る
絵描きたちは 鳩を えがく
平和をねがう こころはひとつ

だれも灰になりたくない 原爆で
きのこ雲から降る 黒い雨で
みんな 長生きしたい 愛したい

ひとびとの 根深いねがいを
こころのなかの 鶴や鳩を
どんな毒矢も 撃ち落とせない

わたしたちの 美しいふるさとを
核戦場に 変えないように
核兵器を もちこませないように

党は 平和の大道を 指さした
核兵器廃絶の署名に書きこめよう
千羽鶴の祈りを 鳩のねがいを

党は 平和の大道を 指さした
党にはげまされて 何度でも
わたしは歌おう 鳩の歌を

さあ みんなの温(ぬく)い手をつないで
人間のくさりで 核を包囲しよう
鶴の祈りと鳩のねがいをひとつに

(『民主長野』1985年12月、『冬の歌』)

鳩

圓鍔勝三「和」(屋代駅前広場)

 戦争              大島博光

戦争ー盲目の戦争は人類を喰いつぶしてしまうかも知れない
戦争ー人間の欲望の深さ・人間の愚かさを示すもの 
人間を狂気にさせるもの

この独占資本主義が生み出すもの
戦争の原動力である軍事予算
軍事予算は平和予算の名において
議会でねりあげられて 満場一致で通過する
軍部と軍需産業資本と 軍事科学者との共同体ができる
この共同体は国民から離れている
もう国民 議会からの言うことをきかない
<『梢』28号(2002.2.20) への書き込み>

*安倍政権は4月、武器輸出三原則を廃止し、防衛装備移転三原則の名称で武器輸出を解禁した。さっそく、
安倍首相は財界人を引き連れて武器の「行商」に世界を歩き、パリの陸上兵器の国際展示会には日本の防衛関連の13社が参加して商機をうかがっている。憲法の平和主義が投げ捨てられ、「儲けるために戦争をしたい国」へ突き進む危険な道に差し掛かっている。

 もはや 杞憂ではない
                          大島博光

もはや それは 杞憂ではない
天が なだれ落ちてくるのも
世界が ヒロシマになるのも
地獄も それほどの廃墟ではない

いやいや なだれ落ちてくるのではない
太陽をなげおとす やからがいるのだ
ドルとおどしのために投げおとすのだ
悪魔も それはど 冷血ではない

むなしく恐れ おののいてはいられぬ
いまこそ はっきり見ぬかねはならぬ
ビキニの風が どこから吹いてくるかを

ローゼソバーグをころしたウォール街から
松川に糸をひく ホワイトハウスから
死と悲惨の風が 吹いてくるのを

(一九五五年『年刊現代詩集』『ひとを愛するものは』)


平和行進
 ひろしまのおとめたちの歌
                           大島博光

  ひろしまよ 世界に告げるがよい
  死んだものはこのようにして死に
  生き残ったものはこのように生きていると
       ──艾 青(アイ チン)

消えはしない 消えさりはしない
おとめのわたしらがくぐりぬけてきた
あの原子地獄の傷あと焼けあとは
わたしらの骨のなか血のなかに
からみつき むしばむ放射能は
いま 十年すぎた きょうの日も

腰にまきつけた包帯をほどいて
黄いろいうみをふきとるとき
そこには軽石のようなあらわな骨
あさ 鏡のなかをのぞきみるとき
そこに映るのは おとめではなく
消えさることのない地獄の悪夢

「水を水を」の声がいまもきこえる
太田川の河原にみどりはよみがえり
かわ風に春の香りのただよう夜も
わたしらの抱くのはくらやみばかり
わたしらの身にまとわりつくのは
ただ おののきと死の影ばかり

わたしらのこころにもひなげしがあり
ひそかな期待にふるえる胸もあるのに
やけどの頬は ほほえんではくれない
ふく風になびく くろ髪もあるのに
ささやきをかわし 手を組みあって
五月の森へゆく こいびともない

わたしらにも すこやかなこころと
花びらのようなくちびるもあったのに
おとめたちを鬼あざみにかえる
そんな権利が だれにあろう
心を裂かれ うまずめにされるような
わたしらに どんな罪とががあろう

わたしらも この胸にかい抱きたい
ねじれた腕にも 乳のみごを
わたしらもまた 撫でてもやりたい
ひきつった手でさえ やわらかな髪を
だが ひとなみのしあわせさえも
わたしらにはただ むなしいねがい

わたしらの友は ひとりまたひとり
いま 十年すぎた きょうの日も
黒い血をはき もだえ 死んでゆく
わたしらの姉から生まれた鬼子たち
すこやかに見えた みどりごさえ
赤い血のうすれ 衰え なえてゆく

たとえ わたしらが幹のなかから
枯れはててゆく木にも似ていようと
わたしらは 死ぬにも死ねない
わたしらが死んだら誰が知らせよう
八月六日のきのこ雲が落として行った
この怖ろしい原子の影を 烙印を

炎の風にやかれた肌でわたしらは叫ぶ
もう原子地獄は わたしらかぎりに
もうきのこ雲は ひろしまかぎりに
そうしていま わたしらは見る
死の太陽を こばむひとたちの
ふりあげた 林のような手を腕を

       (一九五七年八月)

<『大島博光全詩集』>