挽歌

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 奈良の街で
      ──大陸で戦死した友 小泉正雄の霊へ

        彼のふるさと奈良の街で

                           大島博光

奈良にきてまず私は尋ねる
便りの断えた君をたずねる
君は戦地から帰ってはいないか
君はまだ家に帰らぬまでも
明らかな消息(たより)の聞かれぬまでも
地上のどこかに生きてはいないか

だが裏切られる 私の希望は
ただ私を迎えてくれたのは
君が大陸でむなしく死んだと
嘆き沈む老いた母と妻との涙と
君の若き日の喪の写真と
そのまえに無心に踊るひとり子と

写真のなかよりなお責めるように
むなしい死を怒りむせぶように
君の面影はなおも語りかける
私のなかにはうつろにひらく
ひとつの暗い空洞(ほらあな)がひらく
そこに私の言葉はむなしく消える

夜霧に街の灯の煙るもとを
君も夢いだきさまようたものを
友よ見よ ふるさとのこの奈良の街
古塔に映えて若葉よみがえり
そのあたり見なれぬ旗ひるがえり
ひとも鹿も飢えてさまようこの街

友よなお見よ 囚われの奈良の街
その木蔭を走るジープのわだち
古代の牛車よりもなおしげく
くちびるのみ紅い夜の乙女
春日の鹿よりみじめに餌もとめ
眼を伏せ蒼ざめ溢れうごめく

青い首を締められた鳩のように
奈良の街声もなく 奴婢のように
影ふみまよう若葉ののかげに眠る
死を告げる禿鷹の唸りにも覚めず
伽藍と塔を惜しむ嘆きさえ漏れず
街とひとと深く深く眠る

ここにも白を黒という季節
ここにも血と美を裏切る季節
奈良の森奈良の庭でも私は聞いた
血と涙を売るしわ嗄れた声を
ここにで白を黒と言う狼の声を
そうして犬よりも馴らされた若者を見た

だが ここ奈良の街にも怒り立ち
清らかな眼をひらく若者たち
五月の風に明日の日を歌う
昨日と今日のくびきをふり捨て
愛国の八人の若者につずいて
自由と血と美と希望を歌う

友よさらば 君のなき奈良の街
低くうなだれる日本の沼地
詩人は過ぎゆきいらだち問う
誰か誰か血と美を継ぐのは
火と金狼から塔をまもるのは
奈良をさり友を想いなおも問う

(『詩学』9月号)

 詩人の勝利──詩人鈴木初江追悼  
                          大島博光

詩人は 十五年戦争のなかで青春を過した
戦争の悪や不条理や地獄をなめつくした

詩人は 生涯 戦争を憎んでやまなかった
反戦詩人の会を組織した 身を粉にして

たくさんの詩人たちといっしょに
二度と狂気の戦争をゆるさないために

詩人は また母親大会で長い詩を朗読した
詩人のなかの母親が 語り歌い叫んだ

詩人は 生涯 平和を愛してやまなかった
そうして沁み入るような声でうたった

平和のなかの自由を 愛を 夢を
あとからやってきたひとたちのために

その愛をうけついで 延長するように
その夢を実践して 創作するように

詩人は 生涯 戦争を憎んでやまなかった
戦争に反対する詩人たちの会を組織した

たくさんの詩人たちと人びとのなかに
そのこころざしは 眠ることなく生きている

自分がうたった夢がそこに生きている
これにまさる詩人の勝利があろうか

詩人は死んでも そこに生きつづける

         二〇〇二年七月 
 木のうえの詩人たち

     関敦子さんへの挽歌
                       大 島 博 光

あなたはひとりの男を愛した 詩人のように、
かれのなかの詩人を愛した 少女のように
その詩人のなかの詩を愛した 恋人のように
 
あなたの恋人は詩人は木に登って歌っていた
春さきの風のように鴬のようにうたっていた
空遠くあけぼの色をした未来をのぞき見ながら
 
あなたの恋人は詩人はさきに死んでしまった
こんどはあなたが木にのぼって歌いはじめた
死んだ恋人に詩人にこだまを愛を返すように
 
愛と詩とはひとつだった あなたの泉のなかで
死んだ恋人を詩人を愛することで励まされて
あなたは死をのり越える愛のうたを歌った
 
木のうえに登って歌ったひと組の詩人たち
あなたたちの声をいまも風がつたえてくれる
絶望を吹っとばそう 愛して生きてうたおうと
 
あなたはいつもまた終着駅でひとり待っていた
あの恋人の詩人の乗った目に見えない電車を
あなたはそれを目に見えるように歌ってみせた
 
ある晴れた日 その見えない電車に乗って
とうとうあなたもはるか遠くへ行ってしまった
あなたの恋人が詩人が待ちわびているところへ
 
愛して歌って遠く旅ゆくひとは幸いなるかな
              一九九七年二月

(『稜線』、「大島博光詩集1995〜2003」)


この4月はチリ連帯日本委員会事務局長だった間島三樹夫さんが亡くなって20年になります。 間島さんの告別式で博光はともに活動した思い出を弔詩にして読んでいます。

間島三樹夫さんへの弔詩
                        大島博光

あなたはいつも
チリ連帯集会や ネルーダ記念集会に
明るい微笑を浮べて立っていた
まるで 永遠の青春を誇るかのように
あんなに元気だったあなたのまえで
いま こんな悲しい詩を読まなければならないとは
そしてあの ひとをはげまし力づける
あなたの微笑みをもう見ることができないとは

わたしは思い出す
マドリードでひらかれた
一九七八年十一月のチリ連帯国際会議を
あなたは 写真や資料でふくらんだ
重い旅行鞄をかかえて 参加した
その写真や資料はやがて
チリ連帯日本委員会による写真パネル展となって
会議場のホテル・コンヴェンションの廊下を飾った
それは 世界じゅうからやってきた代議員たちの目をひきつけた
ファシスト・ピノチェトの来日に反対する抗議デモ
盛大に行なわれたネルーダ追悼集会……
それらの写真のなかに
すぐれた組織者として 指導者として
あなたはいつもそこに立っていた

マドリードからパリへの帰り道
わたしたちはたいへん楽しい旅をした
グラナダのアランブラ宮殿では
ちょうど満月が 夢幻のように
あの歴史の悲劇の城壁を照らしていた

グラナダ郊外のファンテ・ヴァケ一口ス村に
ガルシア・ロルカの生まれた家を訪れもした
地中海沿岸の小さい町 コリウールに降りて
スペインの大詩人 アントニオ・マチャードの墓にも詣でた
マチャードはフランコ軍に追われてピレネエを越え
フランス領のコリウールで死んだのだった

バルセロナでは ピカソ美術館を訪れた
わたしたちの宿ったホテル・コロンは
かつて写真家ロバート・キャパが投宿したホテルであった……

そんな楽しかった思い出を
ともに語るべきあなたはもういない

もうお別れのときだ
どうか安らかにお休みください
あなたが心くだいたチリ人民は
まもなく勝利するでしょう
彼らの勝利はまたわたしたちの勝利です
なぜなら 敵はひとつなのだから

では 間島三樹夫さん
さようなら

   一九八九年 四月十五日

(「チリ人民連帯ニュース」第35号 1989.7.1)

マドリッド
マドリッド
マドリッド

佐木秋夫先生への別れのことば

佐木先生 こんなに早く
お別れのことばを述べなければならないとは
こんなに悲しいことはありません

先生はわたしにとって
すばらしい先輩であり同志であり
そしてすばらしい呑み友だちでした
どんなに多くの楽しい時間をともにし
どんなに多くの教えと励ましをうけたことでしょう

しかしもういっしょに
吉祥寺あたりを呑んであるくこともできない
ちょっと右肩を怒らせて ステッキをついて
ひょうひょうと歩く あのベレー帽姿に
ひょっこり街通りで 出会うこともできない

井の頭公園入口のバス停留所で
大きなケヤキの樹が新緑を風にそよがせたり
黄色くなった葉っぱを
木枯らしに舞い散らせたりする その下で
もういっしょにバスを待つこともできない

先生は大きな鳥のように
酒場のとまり木にとまって
天皇制や国家神道について
そのでっちあげたまやかしについて
その神秘めかした虚構について
論破し あばき出して飽きませんでした

また自民党の閣僚どもが大挙して
靖国神社に公然と参拝した折りなど
ふたたび英霊をでっちあげる
その黒い野望の本質を
先生はみごとにあばいてみせました

その明快な分析と若若しいモダンな文章は
いつもわたしを驚嘆させたものです

たとえば 敗戦後の宗教的状況を先生は
まるで詩のような言葉で描いてもみせました
「原子雲がタカマガハラを吹き抜けて
焦土の上に八百万の神をいちどにぶちまけた・・・」

そしてまた先生は
神を信じる者と信じない者との共同について
とりわけ核廃絶・平和にむけての共同について
こころひろい提言をもって呼びかけ
むろんみずからもそれを実践しました
その提言にはげまされて
わたしもそういう詩を書いたりもしました

先生は青年時代にみいだした
科学的無神論の道 共産主義の道を
ひとすじに進みつづけました
敵は先生をひっ捕えてカシの棒でなぐりつけ
牢獄にぶちこみました
しかし 先生を人民解放の道から
ひき離すことはできなかったのです

そして晩年のイデオロギーの高みに輝いていた
あの精神の純粋さ 無邪気さ 自由さほどに
わたしを魅了したものはありません

わたしはそこに見る思いでした
学問と実践をむすびつけることのできた
ひとりの共産主義的人間の模範を

その模範にはげまされて
わたしはこれからもたたかいつづけ
生きてゆくでしょう

先生はもう遠いむこうの方へ行ってしまいました
そのうちわたしもそちらへ行きますから
そうしたらそちらでまた一杯やりましょう
楽しみに待っていてください

では 佐木先生 さようなら

   (『文化評論』一九八八年八月)


佐木秋夫先生とベレー帽

博光のベレー帽に関しては、故佐木秋夫先生(宗教学者)の娘さんから電話でうかがったことがあります。「二人ともベレー帽が好きで、いいベレー帽が自慢だった。佐木先生のはフランス製、博光さんのはスペイン製だったが、スペイン製のほうが良かった」

博光も佐木先生について語っています。
「吉祥寺の東急辺へ 狐久保の裏あたりに住んでいた佐木(さき)さんという宗教学者と飲みに行ったよ 彼はわたしより三つくらい上でね 八十三くらいの時に死んじゃったよ 東大だよ でも ちっとも偉ぶらなくて 飲みに行ったところの人たちにも慕われていたよ しかも東京生まれでね 何というか エレガン(elegant)なところがあったよ」(尾池和子『博光語録』)