パリ・コミューンLes Poètes de la Commune de Pari

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 ルイズ・ミシェルの流刑の宣告の翌日、一八七一年十二月、ヴィクトル・ユゴーは、『男まさりに』という讃歌をルイズに書き贈った。しかし、ルイズがこの詩を読んだのは、十七年ものちの、一八八八年であった。ユゴーの讃歌は、きわめて調子の高いものである。

  VIRO MAJOR(男まさりに)
                           ヴィクトル・ユゴー

  塗炭の苦しみをなめる人民 地獄と化したパリ
  果てしもない大虐殺 うちつづく死闘を見て
  きみの言葉のなかには 怖るべき同情があった
  きみは熱狂した偉大な魂のように振舞った
  殺し夢み苦しむことに疲れて きみは言った
  「わたしは殺した おまえが死にたかったからだ」
  怖るべき 超人的なきみは 我にもなく嘘をついた          
  あの暗いユダヤ女のユーディット(1)もローマ女のアリア(2)も
  きみの論破するあいだ 手を叩いて讃えただろう

  きみは裁判官席に言った「わたしは宮殿を焼き払った」
  きみは踏んづけられ搾りとられる人たちをほめ讃えた
  きみは叫んだ「わたしは人殺しだ わたしを殺すがいい!」 
  群衆は倣慢な女(きみ)が自らの罪を自白する声に聞き入っていた
  きみはまるで墓石に接吻(くちづけ)を投げ送ってるように見えた
  きみの眼は蒼ざめた判事どもをじっと見据えていた
  そして厳(いか)めしいエウメニデス(3)のように夢想に耽った
  きみのうしろには蒼白い「死神」がつっ立っていた
  広い法廷じゅうが恐怖の念でみち溢れた
  血にまみれた人民は内乱を憎悪しているからだ
  外部(そと)からは 町のざわめきが聞こえていた
  彼女はいかつい拒絶の態度で 傲然と胸を張って
  そとから聞こえてくる雑音に耳を傾けていた
  そして敵への気高い侮蔑と従容とした死を思いながら
  不吉にも彼女は 墓穴への足どりを速めていた
  判事たちが囁いた「彼女は死刑だ! それが正当だ」
  「恥知らずな女だ!」「こんなに堂々とさえしていなければ」
  判事たちの良心がつぶやいた そうしてもの思わしげに
  判事たちは二つの暗礁のあいだをさまようように
  諾(ウイ)か否(ノン)か ためらいながら 厳然と構えた罪人を見つめた
  だがきみは 英雄主義と勇気以外のものには似合わない
  そう私同様に知っている人たちは また知っているのだ
  もしも神が「お前はどこから来たのか」と尋ねたなら
  きみは答えただろう「みんなが苦しみもがいている
  あの暗闇のなかから わたしはやって来たのです 神よ
  あなたが作られた義務という深淵から 出て来たのです」と
  その人たちは知っているのだ きみのふしぎな優しい詩を
  万人に捧げたきみの夜を昼を きみの心づかいを涙を
  ほかのひとびとを助けるために 我を忘れた働きぶりを
  使徒たちの炎の言葉にも似た きみの火のような言葉を
  風通しの悪い パンも火もない家に住み 粗末なべッドや
  樅(もみ)のテーブルで暮らす その人たちは知っているのだ
  庶民の女としての きみのひとの善さと 誇りの高さを
  きみの怒りの下に眠っている ほろりとさせる優しさを
  人でなしどもに向けた きみの憎悪のまなざしを 
  子供たちの足を温めてやった きみの手のひらを──
  きみがそのロのべに 苦(にが)々しげな皺を浮かべようと
  きみを呪い憎むやからが きみに襲いかかり
  法にも似合わぬ叫びを きみに投げつけようと
  きみが最後のかん高い声で自らの罪をあばこうと
  その人たちは 荒々しくも威厳にみちたきみを前にして
  メドゥサ(4)の姿から輝きでる天使の姿を見たのだ
  法廷のなかに きみはすっくと立って異様に見えた
  というのは その場の判事たちがなんともみすぼらしかったからだ
  二つの魂をひとつに合わせ持ったたましいほどに──
  仮借することない偉大な心の底にかいま見られた──
  ぼんやりとした星雲のような 聖なる渾沌(カオス)ほどに──
  そして燃え上る炎の中に見えた一条の光ほどに
  その場の判事たちを困惑させたものはないのだ
                       (一八七一年十二月)

 注
(1)ユーディット──ユダヤの寡婦ユーディットは、敵将ホロフェルネスの陣営に自ら進んで入り、その油断に乗じて敵将の首をきり、同胞を救う。この物語は、旧約外典中の一書『ユーディット書』に見られる。
(2)アリア──ギリシャ神話のアリアーヌ(アリアドネ)を指すものと思われる。
(3)エウメニデス──エウリビデスのギリシャ悲劇の人物。主人公オルステスは、父の仇を報ずるために母とその情人アイギストスを殺す。オルステスは、母を殺したために、復讐神エリニュエスに追われてアテネに着く。アテナは、復讐の女神たちの怒りを静めるために、怒りの女神たちを祀ることにする。かくて怒りの女神たちは「エウメニデス」(善意女神)となる。
(4)メドゥサ──ギリシャ神話で、見るものを石に化したという蛇髪の魔女。

 ルイズは、ニューカレドニア島に八年の流刑を科せられる。流刑を終わって故国に帰るや、彼女はふたたびその筆と声とをもって闘争を始め、示威運動の先頭に立った。 彼女は、人民からは尊敬され、ブルジョアからは憎悪される象徴的な人物となる。しかし、彼女の政治的思想は、依然として矛盾にみちたものであった。 彼女はふたたび投獄され、一九〇五年、この「コミューンの赤い処女」は、その任務を果たして死んだ。
 詩人アシル・ル・ロワは、つぎのような詩で、ルイズを讃えている。
(*「ルイズ・ミシェル」)

ルイズ・ミシェル

(新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』)


  ルイズ・ミシェル

 コミューンにおいて、もっとも英雄的にたたかった女性のひとりとして、ルイズ・ミシェルを挙げなければなるまい。彼女こそ、「コミューンの赤い処女」と言われたのであった。
 ルイズ・ミシェルは、一八三〇年、パリの南東、オート・マルヌ県に生まれた。彼女は、十八世紀ヴォルテールの合理主義(ラショナリズム)的思想とルッソーの感情主義的思想のなかで育てられ、一七八九年のフランス大革命にたいする崇拝のなかで成長した。
 彼女はパリに出て、小学校の教師となったが、帝政には反対で、共和主義的な教育をおこなう。彼女は共和主義者や社会主義者たちのクラブに出入りする。 彼女は、人民を解放するには、制度を破壊せねばならぬと考え、あらゆる権力に反対する。
 彼女はコミューンを支持したが、階級闘争にたいする理解が足りなかったために、コミューンの意義をただしく把みとることはできなかった。彼女は、あの生まれながらの、自然成長的な革命家だったのである。しかし、コミューンにおける彼女の活動と闘争とは、ユゴーが歌ったように、まさに「男まさり」で不屈なものであった。
 バリケードにおける死闘で、彼女は偶然に死をまぬかれた。戦闘が終わると、彼女は、自分の身代わりに捕えられた母親を放免させるために、ヴェルサイユ側にすすんで自首する。ヴェルサイユの牢獄に、ついでサトリー収容所にぶちこまれる。軍事法廷に立たされたルイズは、毅然たる態度をとって、ヴェルサイユ政府の虐殺を弾劾し、同志とともに銃殺されることを要求した。
 ルイズ・ミシェルの流刑の宣告の翌日、一八七一年十二月、ヴィクトル・ユゴーは、『男まさりに』という讃歌をルイズに書き贈った。しかし、ルイズがこの詩を読んだのは、十七年ものちの、一八八八年であった。ユゴーの讃歌は、きわめて調子の高いものである。
(つづく)
ルイズ・ミシェル

(新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』)

パリ・コミューン関連の著作

パリ・コミューンの詩人たち』 単行本 新日本出版社 1971年
パリ・コミューンと詩人たち──パリ・コミューン百周年に寄せて」 エッセイ 1971.4 文化評論
ランボオとパリ・コミューヌ」 エッセイ 1981.3.20 赤旗
パリ・コミューヌとヴィクトル・ユゴー」 エッセイ 1982.12 文化評論
パリ・コミューヌと歌と──さくらんぼの頃」 エッセイ 1984.4 赤旗
パリ・コミューヌとヴァレース」エッセイ 1986.3.18 赤旗

パリ・コミューンの詩(自筆原稿集)
 ・お祭り騒ぎのパリ
 ・袋を縫う歌
 ・コミューヌの子供たち
 ・五月の恋びとたち
 ・嘆きの歌
自筆原稿
 ・ビフテキ一枚のパリ/エミール・ドルー
 ・銃殺された人びと/ユゴー
 ・ある女がわたしに話した/ユゴー
 ・四日の夜の思い出/ユゴー

連盟兵の壁にて
ペール・ラシェーズ墓地「連盟兵の壁」にて
 ポティエ、クレマン、シャトレェンなどの詩人たちは、「血の週間」のあと、友人たちのところに安全な隠れ家を見つけて、身をかくした。そして、数ヵ月もつづくその地下生活のなかで、敗北からくる絶望感や虐殺にたいする嫌悪・恐怖を克服しながら、かれらはなおも復讐への呼びかけと希望の歌を書きつづけたのである。

    七一年の銃殺された人たちに
      (デュポンの『百姓の歌』の曲で)
                          ジャン・バティスト・クレマン
   うろつく密偵や 憲兵どものほか
   街通りに 見えるものとては
   涙にくれる哀れな年寄りと 後家さんと
   親を失くした みなし児ばかり
   パリは 悲惨に 呻きをあげる
   運よく助かった者さえ 顛えている
   はばをきかすのは 軍法会議だ
   街まちの舗道は 血だらけだ

   前知事の 御用新聞や
   腐った奴らに ぺてん師ども
   どさくさまぎれの 成金たち
   勲章さげた奴に おべっか使い
   街角の兄いや きんちゃく切り
   あばずれ女の 情夫たちが
   岨虫のように 寄ってたかっている
   コミューン戦士の 屍(かばね)のうえに

   手あたり次第に ひっ捕え
   追い立て 縛り 射(ぶ)ち殺す
   娘をかばった おふくろまで
   年寄りの抱いた 赤ん坊まで
   赤旗の懲罰に とって代わって
   怖ろしいテロを ふるうのは
   淫売窟の ならずものども
   皇帝や王の 下僕 従卒ども

   あしたからは 警察のやつらが
   じぶんの役目を 鼻にかけ
   ピストル 腰にぶらさげて
   わがもの顔に 街をのし歩く
   パンも 職も 武器もない
   このおれたちを 抑えつけるのは
   密偵に 憲兵どもだ
   首斬り役人に 坊主どもだ

 クレマンは、この詩について、つぎのようなノートを書いている。
 「パリで、わたしがかくまわれて、七一年五月二十九日から八月十日までとどまっていた隠れ家で、わたしは毎晩、銃殺する銃声や、逮捕の騒ぎや、泣き叫ぶ女子供の声を聞いた。勝ちほこった反動が、皆殺し作戦を続行していたのである。その音を聞いて、わたしは、長い戦闘の日々に覚えたよりも遥かに深い怒りと苦悩を味わった……」

<『パリ・コミューンの詩人たち』──血の週間>

亀


 コミューンにささげる
                    クロヴィス・ユグ

「おお コミューンよ おまえがやって来た時
まさにフランスは 息も絶えだえだった
ずるがしこくて 倣慢な 三百代言や
利権漁りで肥(ふと)った奴らに ゆだねられて──
ブルジョアどもは 侮辱まで利用した
大臣どもは叫んだ 『うごめく奴は撃ち殺せ』
ヴェルサイユ軍は笑った 『この売女(ばいた)め』
おまえは恥ずかしさに顔を赤らめて泣いた
おお おまえ 赤い 偉大な 処女よ

「おお コミューンよ おまえは立ち上るや否や
おまえは やつらの将軍どもに向けて
その血が 泉の水ほどの値打もない
あのすべての餞民たちの仇を討った
おまえの瞳の中にほのぼのと明けてきたのは
人間権利の 荘厳な 夜明けだった
人民は おまえの翼の下に 抱かれた
おまえはただ 王公たちと戦ったのだ
おお おまえ すべての人びとの祖国よ!

「コミューンよ おまえは呼びかけた
『もう にがい涙などは流すな 立ち上れ
そうして王座についてる 聖なる怪獣(シメール)に
光をあてて 白日の下にあばき出そう!』
おお おまえは追放されても夢みた
悪がほろびさり 憎しみが消えさり
人類が 豊かになるような世の中を
おお おまえ 『理想』の落穂拾いよ!

「他人の白いパンをくらう 強盗どもが
おまえをやっつけ おまえの使徒たちを
うちのめそうと またしても立ち上った
やつらが おまえを壁ぎわに追いつめた時
あの一寸法師(1)は からからと笑った
やつらは おまえをねらって 撃った
熟れた麦畑の中の 雀の群を撃つように
おお おまえ 栄光にみちた 殉難者よ

「おお コミューンよ 青い空が
岸べに口づけする波に 笑いかけた
おまえはまだ すこしばかり息をしていた
おまえは 生石灰のなかに埋められた
風はふたたび 土手に芽生えたが
おまえのお供は恐怖で散りぢりになった
風が おまえの扉をたたいたときには
もう答えるものは だれもいなかった
おお おまえはおれたちのために死んだのだ!

「いや いや おまえは死にはしない
古い世界を 根こそぎにするために
おれたちはおまえの名を叫び告げるばかりだ
唸りをあげて怒りどよめいている 群衆の耳に
さあ 飲んで 歌って 愛を語るがいい!
人民は淵のように飢えて 舞台は動く
運命はかならず 成就するだろう
人民の出番はきっと やってくるだろう
明日の日よ 来たれ! 正義よ 来たれ!」


(1)一寸法師──ティエールを指す。

(新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』)

パリ・コミューン
 こうして、この革命がブルジョアジーにとってきわめて危険なものであることを感じとったヴェルサイユ政府は、この革命を粉砕しようと決意する。ここでビスマルクは、休戦条約の条項を破って、捕虜にしていたフランス兵をチェールに返してやる(第二次大戦においても、ヒットラーは多くの捕虜をペタンに返えしてやった。返えされた捕虜たちは、ペタンの手先となって、レジスタンスの愛国者たちを追及し弾圧する役割をひきうけたのである)。そのおかげで、チェールはフランス人民にたいする残虐な戦争を始め、プロシア軍の応援を得て、勝利する。それは野蛮な弾圧で、とりわけ「血の週間」として知られている最後の期間には、バリケードの上で大量虐殺が行われ、コミューンの連盟兵たちが多数殺されたペール・ラシェーズの墓地の塀は、「連盟兵の塀」として有名である。老若男女を問わず、十万人以上の市民が虐殺され、多くの者が投獄され、あるいは南太平洋の仏領ニューカレドニア島に流刑された。パリ・コミューンにたいする弾圧は、反動が人民にしかけた、もっとも非道な、もっとも非人間的な戦争の怖るべきエピソードとして残っている。こうしてフランスの労働運動が力を回復し、一八八〇年、被追放者たちの大赦をかちとるまでには、じつに九年の歳月を必要とした。
 その怖るべき「血の週間」を、ジャン・バチスト・クレマンはつぎのように描いている。

  うろつく密偵や 憲兵どものほか
  街通りに 見えるものとては
  涙にくれる哀れな年寄りと 後家さんと
  親を失くした みなし児(ご)ばかり
  パリは 惨めさで いっぱいだ
  運よく助かった者さえ 顛えている
  はばをきかすのは 軍法会議だ
  街まちの舗道は 血だらけだ

  前警視庁の 御用記者たち
  腐った奴らに ぺてん師ども
  どさくさまぎれの 成金たち
  勲章ぶらさげた奴に おべっか使い
  街角の兄いや きんちゃく切り
  それにあばずれ女の 情夫たちが
  蛆虫のように 寄ってたかっているわ
  コミューン戦士の 屍(かばね)のうえに

  手あたり次第に ひっ捕らえ
  追い立て 縛り 射(ぶ)ち殺す
  娘をかばった おふくろまで
  年寄りの抱いた赤ん坊まで
  赤旗の 懲罰にとって代って
  怖ろしい テロをふるうのは
  淫売窟の ならずものども
  皇帝や王の 下僕 従卒ども

  あしたからは 警察のやつらが
  じぶんの役目を 鼻にかけて
  ピストルを 腰にぶらさげて
  街をわがもの顔に のし歩くさ
  パンも 職も 武器もない
  このおれたちを 抑えつけるのは
  密偵に 憲兵どもだ
  首斬り役人に 坊主どもだ

 また、コミューンの婦人革命家として有名なルイズ・ミッシェルは、ヴェルサイユの牢獄に投げこまれたが、つぎのような烈々たる復讐に燃えた詩を、獄中で書いている。題名は「革命は敗れた」である。

  兄弟たち われわれはまたくるぞ
  あらゆる道をとおって やってくるぞ
  闇から出てくる 復讐の幽霊のように
  われらは 腕をくんで やってくるぞ

  友よ すべては終った 逞(たくま)しかった者も
  勇敢だった者も みんな倒れてしまった
  そうしてもう 降服した者 卑怯者
  裏切り者たちは 這いつくばっている!

  おお わが愛するものよ 共和国よ
  おまえのために みんなが血を流した
  愛国の歌を 高らかに歌いながら
  みんなが 嬉々として 倒れて行った
  そうだ われらはまたくる 兄弟たち
  死のうが生きようが またくるぞ
  いたるところに 赤旗をなびかせて
  暴君どもを やっつけよう!

  大鎌に なぎ倒された 草のように
  たくさんの戦士たちが 倒れてしまった
  こんど われらが勝利するときには
  一騎当千で たたかわねばならぬ

  おお われらが 復讐にくる時まで
  おまえたち おのれの罪に怖れおののき
  おのれの白色テロルに 顔も蒼ざめ
  できるものなら 枕を高くして眠るがいい!

 コミューンは敗北したが、しかし世界の労働者階級の歴史において、コミューンはきわめて高く評価されている。マルクスは、一八七一年四月十七日付けのクーゲルマン宛の手紙に書いている。
 「資本家階級とその国家とにたいする労働者階級の闘争は、このパリの闘争によって新しい段階にはいった。この事件の直接の成りゆきがどうであろうと、これによって世界史的な重要性をもつ一つの新しい出発点が獲得されたのだ」(邦訳国民文庫版『フランスおける内乱』一六九ページ)
 ところで、コミューンの詩は、労働者クラブで朗読され、街頭で歌われ、小冊子に印刷されて呼売りにされた。また、負傷した戦士たちを元気づけるために塹壕やバリケードのうえで歌われた。
 しかし、コミューンの詩の多くは、弾圧を避けるために、焼かれたり、捨てられたり、隠されたりした。こうして、ランボオの「パリの恋びとたち」「パリの死」の二編の詩は二度と発見されなかったのである。
 それにもかかわらず、プロシア軍によるパリ包囲とコミューンの七十二日のあいだに、多くの詩が書き残された。それらの詩には、プロレタリアの勝利にたいする熱烈な信頼と希望、ヴェルサイユ政府にたいする痛烈な風刺、民衆の生活のなかの喜び陽気さなどが歌われている。それら多くの詩人は無名の詩人であって、おそらく「血の週間」のバリケードのうえで死んで行ったにちがいない。大量虐殺の悪夢、亡命の困難さ、投獄の恐怖などで、コミューンの詩はだんだんと衰え、消えてゆく。しかし、ポティエの「インターナショナル」や、ジャン・バチスト・クレマンの「血の週間」などは、非合法にひろめられたのである。
 またルイズ・ミッシェルやクロヴィス・ユーグのような詩人たちは、投獄された後も、獄中の困難な条件のなかで、多くの作品を書きつづけた。ルイズ・ミッシェルのごときは、南太平洋の孤島ニューカレドニア島に流刑されたが、その流刑先でもなお書きつづけた。彼女は、ブルジョアジーの裁判官に面と向って侮蔑を投げつけたのち、敗北した革命を悲しみ、復讐と新しい革命とを、ひとびとに呼びかけたのである。
 ヴィクトル・ユゴー、ヴェルレーヌ、アルチュール・ランボオなど、有名な詩人たちもコミューンについて歌っているが、ここではそれらにふれる余裕がなかったことを付記しておきたい。
                 (おおしま ひろみつ・詩人)
(完)

(『文化評論』1971年4月号)

パリ・コミューン

パリ・コミューンと詩人たち ──パリ・コミューン百周年に寄せて──<上><中><下>


 三月二十六日のコミューン選挙によって選ばれた国民議会の構成は、雑多なものであった。議員となった、ブルジョアおよび小ブルジョアの共和主義者たちは、初めはコミューンを支持していたが、コミューンがプロレタリアートを土台とした全く新しい政治形態をとりはじめるやいなや、かれらはコミューンから離れてゆく。しかし、すぐれた指導者、労働者、第一インターナショナルのメンバーなどの推進力の下に、コミューンはその七十二日の存命ちゅうにすばらしい事業を実行する。マルクスは書いた。
 「コミューンの偉大な社会的方策は、行動するコミューンそのものの存在だった。コミューンの個別的な諸方策は、人民による人民の政府のすすむべき方向を示すことしかできなかった。……」(邦訳国民文庫版『フランスにおける内乱』九二ページ)
 レーニンは、マルクスの分析をさらに発展させて言った。
 「コミューンは、プロレタリア革命によって『ついに発見された』、労働の経済的解放をなしとげるための形態である」(邦訳国民文庫版『国家と革命』七四ページ)

 ところで、詩人たちはどのようにコミューンをうたっているだろうか。「インターナショナル」の作者、ユージュヌ・ポティエは、コミューンから十六年後の一八八七年に、「一八七一年三月十八日を記念する」という詩を、コミューンにささげている。

  どんな貧乏の どん底にいようと
  同志たちよ おれたちは心をあわせ
  酒杯(さかずき)をあわせ 歌ごえをあわせて
  この偉大な記念日を 祝おうではないか

  きょうは 人民の日だ! 蜂起した人民は
  敵の不意討ちを 撃ちくだいた
  大地は顛えとどろき 舗道は この日
  バリケードとなったことを 思い出す
       
  よみがえらせよう このすばらしい思い出を
  歴史は けっして繰り返しはしない
  三月十九日は いまにやってくる
  新しい明日(あす)の日の 序曲なのだ

  司令部の 裏切り者どもの命令に
  連盟兵たちは どよめき立った
  怒り狂った 「三十スー*」たちは
  自分の大砲を 自分の手に確保した
  すると 臆病で 愚かな 権力は
  深夜にまぎれて 姿をくらました
  パリは 首に手綱を巻きつけられながら
  新しい世界の始まったのを 感じる

  人民よ それはおまえの胎(はら)から出てきた
  名もないひとたちの 勝利の日だった
  仕事着をきて 腕もあらわな独裁者たち
  その名を聞いて 城壁までが肝をつぶした
  そうして 身ぶりも 堂々と
  売国奴たちの議会に 反旗をひるがえし
  威風りんりんとした 中央委員会**は
  プロレタリアの 集団(あつまり)だったのだ

  勝ち誇った市役所には ぎっしりと
  陽焼けした群衆が 詰めかけていた
  パリは まるで子供のように うれしそうに
  いまや 「コミューン」を宣言した
  大砲の音が 目を覚ませ ととどろき
  ブルジョアジーに 敗北を告げた
  群衆は 歌声を高らかにあげながら
  陽を浴びて さかんに練り歩いていた

  それは すべてが芽ぶく「芽月(ジェルミナール)***」の
  なんとも 輝やかしい 朝だった
  人民は その眼をそっと開いて見たのだ
  ひるがえる 赤旗の すばらしさを
  ぼろぼろの旗の縁(ふち)が 金色に輝やき
  青い地平線が 赤旗に 照り映え
  暗い地獄のような 炭坑のなかの
  一条の光までが そこに射し込んでいた
  
 *「三十スー」──連盟兵たちの日給は三十スーであった。
 **中央委員会──国民軍(民兵)中央委員会は、一八七一年一月に創設された。
 ***「芽月」──ジェルミナール。フランス共和歴第七月。三月二十一日から四月十八日までを指す。ポティエが、ここで「芽月」という共和暦を使用したのは、「コミューン」の宣言が、三月二十八日だったからである。

 「パリは まるで子供のように うれしそうに/いまや 『コミューン」を 宣言した」というポティエの詩句は、歓呼をもってコミューンを迎えた人民の歓喜を、目に見えるように描いている。
(つづく)

(『文化評論』1971年4月号)
パリ・コミューンと詩人たち ──パリ・コミューン百周年に寄せて──

                          大島博光

 ことしはちょうど、パリ・コミューン(一八七一年)の百周年にあたる。そこで、パリ・コミューンを歌った詩人たちとその詩をとおして、その偉大なプロレタリア革命の最初の企てをしのぶことにしよう。

 パリほど、たくさんの詩人たちに歌われた都市はない。一九四四年、ナチス・ドイツの鉄のくびきから解放されたパリを、アラゴンはこう歌った。

  ポワン・デュ・ジゥルからペール・ラシェーズへと
  祖国の不滅のかがり火は 消えることなく
  その赤い燠火より よみがえり 燃えあがる
  あのやさしい薔薇の木は 八月に花咲き
  四方から集まったひとびとは パリの血だ

  硝煙のなかのパリほどに 輝やかしいものはない
  蜂起したパリの額ほどに 清らかなものはない
  どんな危険をも怖れぬ わがパリほどに
  砲火も 雷も けっしてちから強くはない
  わが抱く このパリほどに 美しいものはない

 アラゴンはここで、パリの革命的伝統をたたえ、パリ・コミューンのペール・ラシェーズの墓地の「連盟兵の塀」を思い出している。
 一八七一年のパリ・コミューンの翌日、アルチュール・ランボオは、偉大な革命の首都パリを、こう歌った。
 詩人は歌った 「パリ おまえの美しさはすばらしい!」と
 嵐は 至高の詩で おまえを祝福した

 詩人たちの熱狂と賛歌は、その背後にいる人民の熱狂と情熱の表現であり、反映である。ヴィクトル・ユゴーを始め、多くの詩人たちがパリ・コミューンを支持し、歌ったが、反動のヴェルサイユ政府の側には、ひとりの詩人もいなかったのである。ヴェルサイユ政府には、「秩序を維持する」のに、シャスポー銃と機関砲しかなかった。しかし、機関砲も、人民の声や詩人たちの歌ごえを抑えつけることはできなかったのだ。
 こんにち、全世界の革命的な労働者の歌となっているポティエの「インターナショナル」は、一八七一年六月、ヴェルサイユ軍の血なまぐさい弾圧のさなかに書かれたのであった。
            *
 ここは、パリ・コミューンの歴史をかく場所ではないが、そのあらすじだけでも書いておこう。
 一八七〇年七月、ナポレオン三世はプロシアに宣戦布告する。九月三日、ナポレオン三世は、セダンにおいて包囲され、降伏し、捕虜となる。こうして翌九月四日、第二帝制は崩壊し、共和革命の宣言とともに、「国防」政府が成立する。しかし、ブルジョア階級によって構成されたこの政府は、ひとたび共和制を宣言するや、愛国的情熱に燃えるフランス国民の要求に答えるどころか、外敵に抗戦するかわりに、九月二十日、外務大臣ジュール・ファーヴルとビスマルクとのフェリエール会見をきっかけに、ドイツとの和平交渉を始める。翌一八七一年一月、この「国防」政府は、武装したパリの労働者階級にたいする恐怖のあまり、六ケ月におよぶプロシア軍の包囲に英雄的に耐えてきたパリを放棄して、ドイツとの恥ずべき休戦条約を決意する。これは、ブルジョアジーが階級支配を確立するために、自己の階級的利益のために、祖国を裏切って、敵と協調することを意味する(さらに、一九四〇年、第二次大戦ちゅう、フランス・ブルジョアジーの代表ペタンは、ヒットラーと協力することになる)。
 詩人エミール・ドルーは、このようなブルジョアジーの裏切りの姿を、「ビフテキ一枚のパリ」のなかで、痛烈に風刺している。

 平和万才! なんとフランスがせり売りに出される
 ブルジョアども あしたはたらふく食えるぞ
 ビスマルクは フェリエールの城で待っている
 パリへご入城下され というチエール*の言葉を
 ファーヴルは 急いで最後の条文を書きあげる
 トロシュ**はわけのわからぬ計画をあきらめる
 さあ ブレバン***よ フライパンをひっくり返えせ
 諸君(メッシュー) ビフテ一枚とひきかえに パリが売り出される

 アルザスやローレンが わしにとって何んになる?
 そんな処にゃ わしの土地も財産もありはせぬ
 プロシアが ぶん取ろうと ぶんどるまいと
 構ったことか 何も失うものはないからじゃ
 ストラブールより わしの食卓の方が大事じゃ
 メッツは うずらの手羽ひとつの値うちもないわ
 そんなものには わしの情婦(いろ)さえ眼もくれぬ
 諸君(メッシュー) ビフテ一枚とひきかえに パリを売り渡そう

 気狂いどもが 抗戦に立ち上れとわめきおるわ
 祖国を 名誉を 死守しろ とほざきおるわ
 恨(うら)みを晴らす権利があるのは わしのお腹(なか)だけじゃ
 わしの心臓は へその下にさがってしもうた
 下賤のやからが 愛国者となって戦おうと
 敵の砲火で くたばろうと かまったことか
 わしは にんにくソースの方が好きなのじゃ
 諸君(メッシュー) ビフテ一枚とひきかえに パリを売り渡そう

 またこう言う奴もいる フランスは今にも死にそうだ
 両脇腹には、外国軍が くらいついている
 ドイツの槍騎兵どもが 血まみれの長靴で
 奴隷のように おれたちを踏んづけている と
 そんな苦(にが)にがしい光景の好きな奴は 泣きわめくがいい
 平和が来れば そんな泣き言もお終(しま)いになるわ!
 わしの台所にはもうひと切れの肉もないのじゃ──
 諸君(メッシュー) ビフテ一枚とひきかえに パリを売り渡そう

 さあ 決った 女中(ねえや)よ おめかしするのじゃ
 青い客間には 新しいカーテンを張るんだ
 マノンよ おまえはオムレツを焼くのじゃ
 プロシアのおかげで わしらは卵が食えるぞ
 あしたは 三人のバヴァリア人を家に招(よ)んで
 飲めや歌えや どんちゃん騒ぎと行こう。
 平和万才! 祖国なんか くそくらえだ!
 ビフテ一枚とひき替えに パリは売られちまった

 *チエール!ヴェルサイユ政府の首相。
 **トロシュ──パリ防衛司令官トロシュ将軍。降伏の機会をもとめ、大砲を空に向けて射つように命令したと言われる。
 ***ブレバン──当時パリで有名だったレストランのおやじ。金もちどもは、パリがドイツ軍に包囲きれて、きびしい状態にあったにもかかわらず、このレストランでご馳走をたべていたという。

 ブルジョア政府がドイツとの和平交渉をつづけていた頃、パリの街々では、このようなシャンソンが歌われ、小冊子に印刷されて売られていたのである。ドイツに降伏したブルジョア政府は、ドイツに支払う莫大な賠償金を、労働者階級に支払わせようと企む。そのためには、すでに自ら武装し、「コミューン」を要求していた革命的なパリを──労働者のパリをたたきのめさなければならなかった。すでに一八七一年一月に結成された国民軍は、労働者、職人、小プルジョアジーの同盟から成る民兵組織であった。
 一八七一年三月十八日の明け方、憲兵隊、警官隊、歩兵部隊が、ひそかに労働者街に向って行動を起こした。労働者街には、人民の拠金でつくった国民軍の大砲が備えつけられていた。チエールは不意討ちをかけて、パリを武装解除しようとしたのである。しかし、早くも起き出していた主婦たちは急をしらせ、身をもって大砲を守った。労働者、市民の群がぞくぞくと駆けつけてくる。兵隊たちは、民衆にたいする発砲を拒否して、民衆の側に移る。さらに兵隊たちは、いきり立った二人の将軍を処刑する。これが、プロレタリア革命の合図となり、コミューンの始まりとなった。この革命においては、売国奴たるヴェルサイユ議会とチエール政府にたいする憎悪と、民族的屈辱感と、労働者階級の革命的熱情とが結びついていた。こうしてプロレタリアートは、じぶんの運命をじぶんの手に握り、権力をじぶんの手に握ったのである。
(つづく)

(『文化評論』1971年4月号)
(9)パリのドラマ

 ドイツに降伏したブルジョア政府は、ドイツに支払う莫大な賠償金を、労働者階級に支払わせようと企む。しかし、人民と労働者たちは答える。「戦争成金と敗戦の責任者どもが支払え!」と。
 こうして反動政府は、みずから武装し、「コミューン」を要求していた革命的なパリを──労働者のパリをたたきのめさなければならなかった。──すでに一八七一年一月に結成された国民軍は、労働者、職人、小ブルジョアジーの同盟から成る民兵組織であった。
 このパリ・コミューン前夜の情況を、ジャン・リッシャール・ブロックはつぎのように描いている。
 「世界でもっとも豊かで有名な国のひとつである国の首都──人口二百万の大都市が、一三○日このかた包囲されている。この都市は、怖るべき苦痛をなめ、その苦痛に英雄的に耐えている。一三〇日このかた、この都市(まち)の防衛司令官である将軍は、降伏する機会をねらっている。一三〇日このかた、首都防衛の壁塁の大砲は、将校たちの命令によって、空に向けて射たれている。一三〇日このかた、町をまもっている人民と軍隊は、あくまで抗戦することを要求している。かれらは愛国心に燃え、武装し、豊富な弾薬をもち、その数は三九万に達している。これから何が起こるのか。どんなドラマがくりひろげられるのか。
 これが一八七一年におけるパリのドラマである。……」
(この項おわり)

<『パリ・コミューンの詩人たち』>
(8)
 あの子は いつ来るんだろう
                    ポティエ

あのいとしい 美しい
美しい子を おれは待つ
あの子の名を おれは呼び
道ゆくひとに 尋ねて歩く
 おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

あの子の名を おれは呼び
道ゆくひとに 尋ねて歩く
あの子なしでは どうしよう
あの子なしでは 死にそうだ
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

あの子なしでは どうしよう
あの子なしでは 死にそうだ
はく靴もなく さまよって
口に入れる ものもない
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

はく靴もなく さまよって
口に入れる ものもない
凍(い)てつく空に 身はこごえ
身を横たえる 宿もない
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

凍てつく空に 身はこごえ
身を横たえる 宿もない
頭のなかを 風が吹き
うらみつらみが 駈けめぐる
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

頭のなかを 風が吹き
うらみつらみが 駈けめぐる
おれは売られる 奴隷の身
牛馬のように こき使われる
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

おれは売られる 奴隷の身
牛馬のように こき使われる
あの戦争は むごたらしく
高利貸めは 絞りとる
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

あの戦争は むごたらしく
高利貸めは 絞りとる
おれの生血を 吸う奴や
骨の髄まで しゃぶる奴
 ああ、おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

おれの生血を 吸う奴や
骨の髄まで しゃぶる奴
あんまりひどい 貧乏に
根生曲りに.なりかねぬ
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか

あんまりひどい 貧乏に
根生曲りに なりかねぬ
早く来てくれ いとし子よ
癒(いや)しておくれ 恋びとを
 ああ おれは待つ あの子を待つ
 まだ長いこと 待つのだろうか
                (一八七〇年 パリにて)

 この歌は、検閲の目をくらますために、巧みに恋の歌としてうたわれている。当局にも「美しいあの子」が何を意味するかはわかっていたが、恋を歌ったものとして、詩人は追及をのがれたのである。(第二次大戦中、ナチによる占領下で、アラゴンもまた同じような手法でレジスタンスの詩を書いて、検閲の目をくらましている。アラゴンはそれを詩の『密輸(コントルバンド)』と呼んだ。)
(つづく)

<『パリ・コミューンの詩人たち』>
(7)うるわしい共和主義の春

  パリよ コミューンを宣言しろ!

 パリはこのリフレーンをながいこと「月にむかって吠え」つづけて、ついに一八七一年三月二十七日に実現することになる。
 この詩はすでにそれを予告していたのである。

 詩人ジャン・バティスト・クレマンも、コミューンに先だつ数年前の一八六八年に、すでに革命の到来を待ち望んで、つぎのように歌っている。

  厚い霧が 降りてきて
  おれたちに手をのばす未来を
  墓のなかに投げ込まなければいいが──
  生きて おれたちはつくり出したい
  おれたち 人民のフランスに
  うるわしい共和主義の春を

 「うるわしい共和主義の春」──コミューンがやってきた時、クレマンはかれの十八区モンマルトルから選出され、人民の代表として最後までバリケードのうえで戦うことになる。
 その頃クレマンは、すでにパリ警視庁から追われる身であったが、かれは「共和主義の春」を準備するために、困難を冒して新聞『カルマニョール』、ついで『ル・カッス・テート』(棍棒)を出して、評論や詩を発表した。新聞は、マントにかくして、読者の手から手へと渡り、夜、こつそりと壁や門の扉に貼られた。
 こうして「共和主義の春」を待ち望む希望の歌は、検閲の目をくぐって、民衆にうたわれたのである。
 ポティエの 『あの子は いつ来るんだろう』も、そのような春をまつ歌である。
(つづく)
(6)一八七〇年十月三十一日

 一八七〇年十月三十一日の朝、パリは三つの衝撃的なニュースで目がさめる。パリ近郊の要衝ブールジェの陥落、十七万五千の軍隊をもつ「光栄あるバゼーヌ」がメッスで降伏したこと、そして休戦交渉のためにティエールがパリに到着したこと、の三つである。
 メッス降伏の情報は、すでに数日前の十月二十七日付『ル・コンバ』(戦闘)紙によってすっぱ抜かれていた。「バゼーヌはメッスを明け渡し、ナポレオン三世の名で講和を結ぼうとしている。かれの副官がヴェルサイユに着いた」と。「国防」政府の首相トロシュは、それは「卑劣な」デマであると否定して付け加えた。「光栄ある軍人バゼーヌは、輝かしい出撃によって包囲軍を悩ましつづけている」と。
 いまや、メッス降伏の報道が事実となり、さらに休戦条約が調印されようとしていることを知って、だまされていたのに気づいたパリ市民の怒りは爆発した。「トロシュを倒せ! 休戦反対!コミューン万歳!」の叫びとともに、怒った群衆──デモ隊が市庁舎(国防政府)に押しかけ、市庁舎前の広場をいっぱいに埋めた。
 群衆に釈明しようとしたトロシュの声は、「トロシュを倒せ!」の叫びにかき消された。デモ隊の先頭にいたブランキ派は、政府の総辞職を要求した。新しい政府を構成する人物の名前が、各派の口から飛び出して、果てしない小田原評定となった。そのあいだに、トロシュは態勢をととのえて、自分たちの部隊を市庁に呼び、また市民のデモ隊に反対する自分たちの御用デモ隊を組織した。やがて「コミューンを倒せ!」の叫びが広場に湧きあがる。
 その間、ブランキとフルーランスらの革命派は、選挙民を招集してパリ市議会の選挙をおこなうことを論議し、市議会選挙管理委員会は、翌十一月一日、各区四人ずつの議員から成るパリ市議会の選挙をおこなうという布告を掲示した。
 これが夕方の情勢であった。しかし、深夜、トロシュに忠実なブルターニュ遊動隊が地下道から市庁舎に侵入し、労働者軍を外へ追い出してしまう。よろめいていた「国防」政府は勝利をおさめ、市議会選挙を妨害する措置をとる……。

 この日、詩人ポティエも、パリ市庁舎前のデモ隊のなかにまじっていたにちがいない。かれはこの日のことをつぎのように歌っている。

 一八七〇年十月三十一日
                       ポティエ
人民は だまされたのに気がついた
空(むな)しく 月にむかって吠えていたのだ
そこで みんなで市庁に押しかけた
パリよ コミューンを宣言しろ!
      
やっちまえ あの能なしの独裁者(1)どもを
サント・ペリヌ(2)の 養老院へ
奴らの 聞くも哀れな悲しげな声に
戦士たちの方が 面くらう
フランスが 息も絶え絶えのとき
「帝政」にはめられた 口寵(くつご)(3)を
奴らは 優しく締め直していたのだ
おれたちの 革命にそなえて

奴らは 阿呆なのか 共犯者なのか
奴らの うすのろばかりの委員会は
休戦の噂のひろまる時に わめき立て
いやいやながら 大砲を鋳造(つく)る
外敵よりも 人民が怖ろしくて
奴らは 人民をおどしつけながら
そのふにゃふにゃに ふやけた手で
九三年(4)を 握りつぶそうというのだ

貪欲なやつらに 買占めされて
市場のなかは がらん洞で空っぽで
腹ぺこの人たちが 穴だらけの靴で
肉屋の店さきに 列を作って並んでいる
いつも裏切られて 食うや食わずの
惨憺たる君たち 蜂起して立ち上れ
魚雷のように 爆発するがいい
今も踏んづけられようとしている君たち

着飾った奴らの家は ひっそり閑(かん)だ
裸足(はだし)のひとたちよ 前進しよう
のぼる朝日のように 赤い
赤いコミューンを 選び出そう!
張子の虎の 将軍どもの
大砲を使わぬ戦術など うっちゃって
おれたちは突破口を 切りひらこう
ダントン(5)の亡霊に みちびかれて
こん夜から 町じゅうは大騒ぎ
ファーヴルやトロシュがやじり倒され
敵の退(の)いた 城壁のまわりで
パリは カルマニョール(6)を踊る
いまに 卑怯な ブルジョアどもは
健康な庶民に追いつめられ
古い ゴールの柏(かしわ)の 枝に
バゼーヌの輩(やから)は 吊されるだろう

人民は だまされたのに気がついた
空しく 月にむかって吠えていたのだ
そこで みんなで市庁に押しかけた
パリよ コミューンを宣言しろ!
                 (一八七〇年十一月一日)


(1)能なしの独裁者たち──「国防」政府の閣僚で、フェリー、ジュール・シモン、ピカール、およびトロシュ将軍を指す。かれらはずっと以前から降伏を決意していた。
(2)サント・ペリス──パリ十六区ミラボー街にある養老院。
(3)口籠(くつご )──動物が噛みつかないようにつける。口輪(くつわ)ともいう。
(4)九三年──一七九三年のフランス大革命を指し、ここでは新しい九三年──新しい革命を意味する。
(5)ダントン──(一七五九〜一七九四)大革命の時の、山獄党の指導者のひとり。雄弁をもって知られる。パリに迫る外国軍にたいして祖国防衛軍を組織する。一七九二年九月、外国軍のパリ進撃が予想され、コミューンの命令で警鐘が乱打され、議会ではダントンが叫んだ。「かねは警鐘ではなくて祖国の敵への攻撃のあいずだ。敵に勝つためには、勇気が、さらに勇気が、いつでも勇気がわれわれに必要だ。」(西海太郎『フランス現代政治社会史』四六ページ)ダントンは後に、ロベスピエールの恐怖政治を終らせようとして逆にロベスピエール派によって処刑される。
(6)カルマニョール──一七九二年から九五年にかけて、革命軍や大衆のなかで流行した革命歌と踊り。

(つづく)
(5)ウィルヘルムとパリ

 またつぎのようなポティエの『ウィルヘルムとパリ』と題する詩からも、当時のパリ市民の休戦反対の声をききとることができよう。
 
 ウィルヘルムとパリ
                      ポティエ
 
  ウィルヘルム
 「パリよ おまえの身の 危険のほどを知れ
 おまえの軍隊は まんまとわしの罠に陥ちた
 城門を開け さもないと 包囲してやるぞ!」

  パリ
 「勝手に 包囲しろ!」

  ウィルヘルム
 「よく見てみろ 老人 子供 女たちが
 ふらふらに やつれはてているではないか
 城門を開け さもないと兵糧攻めにしてやる」

  パリ
 「兵糧攻めにしてみろ!」

  ウィルヘルム
 「いまにも 砲口が 火を噴いて
 宮殿も家も 焼いてしまうぞ
 城門を開け さもないと大砲をぶっ放すぞ」

  パリ
 「大砲をぶっ放せ!」

  ウィルヘルム
 「みんながみんな 頑固でもあるまい
 和平を話しあい 取引をするのだ
 さあ おまえの大使は どこにいる?」

  パリ
 「和平なんか くそくらえ!」
                (一八七〇年十一月)

(つづく)

<『パリ・コミューンの詩人たち』>
(4)ビフテキ一枚のパリ

 ボナパルティストの一味にとって代わったブルジョア政府は、プロイセンと休戦してフランス人民に当たろうとする。この政府は、人民の熱烈な愛国心と、社会正義にたいする熱望とを怖れていた。かれらにとって、パリの勝利は、フランスの勝利となり、共和国の勝利となり、人民の勝利となることを意味していた。この反動政府は、いかなる犠牲をはらってもこれを阻止しようとする。
 九月二十日、この政府は外務大臣ジュール・ファーブルをフェリエールに派遣して、ビスマルクと会見させ、ドイツとの和平交渉を開始する。
 翌一八七一年一月、この「国防」政府は、パリの武装した労働者階級にたいする恐怖のあまり、六カ月におよぶプロシヤ軍の包囲に英雄的に耐えてきたパリを放棄して、ドイツとの恥ずべき休戦条約を決意する。これは、ブルジョアジーが、おのれの階級的利益をまもり、おのれの階級支配を確立するためには、いつでも祖国を裏切り、外敵と協調することを意味する。
(一九四〇年、第二次大戦ちゅう、フランス・ブルジョアジーの代表ベタンは、ヒトラーと協力することになる。)
               
 詩人エミール・ドルー(1)は、このようなブルジョアジーの裏切りの姿を、『ビフテキ一枚のパリ』のなかで、痛烈に風刺している。

  ブルジョアよ あしたはたらふく食えるぞ
  ビスマルクは フェリエールの城でお待ちかねだ
  パリへご入城下され というティエール(2)の言葉を
  ファーヴルは 急いで最後の条文を書きあげる
  トロシュ(3)は わけのわからぬ計画をあきらめる
  さあ ブレバン(4)よ フライパンをひっくりかえせ
  諸君(メッシュー) ビフテキ一枚とひきかえに パリが売出される

  アルザスやロレーヌが わしにとってなんになる?
  そんな処にゃ わしの土地も財産もありはしない
  プロシヤが ぶん取ろうと ぶんどるまいと
  知ったことか わしの失うものは何もない
  ストラスブールより わしの食卓の方が大事なのだ
  メッスなど うずらの手羽ひとつの値うちもないわ
  そんなものには わしの情婦さえ眼もくれぬ
  諸君(メッシュー) ビフテキ一枚で パリを明け渡そう

  気違いどもは 抗戦に立ち上れとわめきおる
  祖国を 名誉を 死守しろ とほざきおるわ
  恨(うら)みを晴らしたいのは わしのお腹(なか)の方だ
  わしの心臓は へその下に さがってしもうた
  下賤のやからが 愛国者面(づら)をして戦おうと
  敵の砲火で くたばろうと かまったことか
  わしは にんにくソースの方が 好きなんだ
  諸君(メッシュー) ビフテキ一枚で パリを明け渡そう

  またこう言う奴もいる フランスは今にも死にそうだ
  両脇腹に 外国軍が くらいついている
  ドイツの槍騎兵どもが 血まみれの長靴で
  おれたちを 奴隷のように踏んづけている と
  そんな苦(にが)い光景の好きな奴は 泣きわめくがいい
  平和が来れば そんな泣き言もお終(しま)いになる
  わしの台所には もうひときれの肉もないのだ
  諸君(メッシュー) ビフテキ一枚で パリを明け渡そう

  さあ 決(きま)った 女中(ねえや)よ おめかしするのだ
  青い客間には 新しいカーテンを張るんだ
  マノンよ おまえはオムレツを焼くのだ
  プロシヤのおかげで わしらは卵が食えるぞ

  あしたは 三人のバヴァリア人を家に招(よ)んで
  飲めや歌えや どんちゃん騒ぎと行こう
  平和万歳! 祖国なんか くそくらえだ!
  ビフテキ一枚とひきかえに パリは売られちまった

 注
 (1)エミール・ドルー──Émile Dereux 不詳。コミューンの詩人の中には、ドルーのような無名詩人が多くいる。
 (2)ティエール──ヴェルサイユ政府の首相。コミューンの圧殺者。
 (3)トロシュ──パリ防衛司令官トロシュ将軍。降伏の機会をもとめて、大砲を空に向けて射つように命令したと言われる。
 (4)ブレバン──当時パリで有名だったレストランの経営者。金持ちどもは、パリが包囲きれて、きびしい状態にあったにもかかわらず、このレストランでご馳走をたべていた。

 ブルジョア政府がドイツとの休戦交渉をつづけていたころ、パリの街々や、労働者たちのクラブではこのようなシャンソンが歌われ、小冊子に印刷されて売られていたのである。
(つづく)

<『パリ・コミューンの詩人たち』>