ゆかりの人

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 佐木秋夫先生をしのぶ
                     大島博光

 佐木秋夫先生が去る八月二十日に亡くなられた。私はすばらしい先輩を失い、すばらしい呑み友だちを失ってしまった。吉祥寺の街や井の頭公園あたりを瓢々と歩いている先生に、ひょっこり出会うことも、もうできない。そうして連れ立って呑みにゆくこともできない。
 思えば、どんなに多くの楽しい時を共にし、どんなに多くの教えやはげましをわたしは受けたことだろう。
 先生は天皇制や国家神道の虚妄、虚構、まやかしをあばいて倦きなかった。
 自民党の閣僚どもが靖国神社に大挙して公然と参拝したときなどは、憲法の政教分離の条項に違反する点を明快に論じて、それは再び天皇制軍国主義復活の道をひらくものだ言って、その腹黒い野望の本質をあばいてみせた。
 そういう時の、先生の文章が若わかしくモダンであることに、いつもわたしは驚嘆した。たとえば、敗戦後の日本の宗教的状況を先生はまるで詩のように描いてみせた。
 原子雲がタカマガハラを吹き抜けて、焦土の上に八百万の神をいちどにぶちまけた──とでもいうように町にも村にも、至るところに「神が現れた」。(佐木秋夫『宗教と時代』白石書店十二ページ)
 先生はまた「神を信じる者と信じない者」との共同について、心広い提言をもって呼びかけ、むろん自らもそれを実践した。そういう点で、先生は極めてイニシアチーブ・発案・発想に溢れた実践家でもあった。
 『宗教と時代』に収められている「死について」というエッセイを私は愛する。キェルケゴールについてこう書かれている。
 ・・・頭をあげはじめたプロレタリアートをまのあたりにして、かれら(ブルジョアジー)はふたたび中世的な暗黒の衣を身にまといはじめたのである。この二つの相闘う階級の中間に位する小ブルジョアが、敏感にこの動揺に反応を示した。
 キェルケゴールによって早くかかげられ、・・・大いに流行している実存主義的傾向はまさしくこの動揺しつつ没落していく小ブルジョアのものである・・・。
 キェルケゴール・・・においては、人間は「死に至る病」を病むものとしてこそ成り立つ、と見る・・・人間の個的主体としての一面をこのように不当に拡大する出発点においてすでに、キェルケゴールは問題を自分の土俵に引きずりこんでしまう。なぜなら、このように自然的・社会的現実から切り離された自己は、小ブルジョア的な根なし草そのものの姿だから・・・
 少し引用が長くなったが、ここには唯物史観に立っての明快な分析がきわ立っている。その分析によって、キェルケゴールの実存主義の本質がみごとにバクロされているのである。
 佐木先生はもういない。しかし先生が語ったこういう真理・真実は、これからもわたしをはげまし、わたしをたたかいへと勇気づけてれるであろう。
 佐木先生、静かにおやすみください。 (一九八八、九月)
  (フランス文学者、詩人)

<1989.2.26掲載誌不詳>
『蝋人形』14巻8号(1943年8月)に楊明文という人の詩「斎場賦」が載っている。大島博光も「詩と神話」(ネルヴィル)を書いているが、同誌の編集者だった博光が楊明文と交友していたのは自然であり、静江の手紙に出てくる「楊先生」は楊明文のことに違いない。

韓国語のサイト=ネイト百科事典(http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=264945&v=43)では次のように書いている。

楊明文 1913〜1985年。詩人。平壌生まれ。劇作家ギムジャリム(金兹林)は彼の妻である。 1942年、日本の東京専修大学法学部を卒業し、1944年まで東京に滞在し、文学創作を研究した。 光復後、北朝鮮にとどまっていたが、“1・4後退”時(1951年)に越南した。
1951年11月に全国文化団体総連合会救国隊員で活躍し、1951年からは陸軍従軍作家団員で従軍した。1955年から1958年までソウル大学校文理科大学·師範大学、国防省展示連合大学、首都医科大学、清州大学などで時事評論と文芸思潮を講義し、1960年には梨花女子大学助教授として時事評論を講義した。
1966年以降は国際大学国語国文学科教授に在職した。 1970年に台湾で開催されたアジア作家会議に韓国代表として参加し、1957年に我が国で開かれた国際ペンクラブ第29回世界作家会議に韓国代表団の一員として出席した。
国内の文学団体では、韓国文学家協会会員、全国文化団体総連合会中央委員、韓国自由文学者協会中央委員、国際ペンクラブ韓国本部中央委員、韓国詩人協会理事、韓国文人協会理事などを歴任し、韓国文壇の発展に大きく貢献した。 彼の作品に現れた時精神は、主に言語の技巧を排斥して噴出される感情と考えをそのまま直線的に表現した。 また、自然と生活に対する観照の境地を見せる作品と反共と民族精神を土台にした現実参加的な作品が特徴である。
詩集では ≪花樹院 華愁園≫(青樹社, 1940)·≪頌歌≫(中央文化社, 1947)·≪火星人≫(章旺社, 1955)·≪青い伝説≫(東信文化社, 1959)·≪目鼻立ち 耳目口鼻≫(正音社, 1965)·≪黙示黙≫(正音社, 1973)と三人の信仰詩集である ≪神秘的な愛≫(演算出版社, 1983), ≪地球村≫(羊林社, 1984)があり, その他に〈韓国メトリックに関する研究〉など多くの時事評論·研究論文がある.
≪参考文献≫ 地球村(ヤングミョングムン, 羊林社, 1984)

韓国では歌曲"明太"や新アリランの作詞で知られているという。
「‘明太’の詩人楊明文」と題して韓国のブログで人柄を紹介している。
・・・日本に渡って東京専修大学法学部を卒業した後、40年、詩集 ‘花樹院’を出して日本文壇にデビューした。光復を迎え帰国し平壌で文学活動をしたが、共産主義者たちの懐柔と脅迫に負けて ‘金日成賛歌’を書いたりした・・・。(1・4後退のとき)ほとんどの平壌の文人が避難を決意した中で彼は"金日成賛歌"のせいでためらっていたが、丁寧な説得により結局避難隊列に合流した・・・。芸術家的気質と風貌は、日本留学時代から有名で女性にもかなり人気が高かったという。懇意な後輩であるギムシチョルは楊明文の風貌をこう書いた。 "人並みはずれて太く見える眉毛, オールバックで豊かにとかした髪の毛、下に向いた目つき、太いトーンのどっしりとした声、体格によく似合う韓服、でんと反らした立派な姿勢"。そんな外見だけでなく、すぐれた詩を吟じる腕前とか女性に接する洗練されたマナーなど、一つ一つが女性に好感を持たれる要素として作用するということだった・・・。
(http://blog.joinsmsn.com/media/folderlistslide.asp?uid=mulim1672&folder=36&list_id=12425945)

東京にいた時から魅力的な詩人だったようだが、静江とのつながりが何だったのかは不明。

大島博光様
 天長節の佳き日
                    龍野咲人
無事でお家へ帰られましたか
貴方が女学校へ任命されなかったのは 思想のためだと校長が昨日申しました。
貴方の思想を西條先生なり 文学報告会なりに証明してもらって 然るべき人とお逢いひになるがよいでせう
大へんな誤解が 私たちの友情に暗影を投げてをります
昨日は私に不参を命じて学校職員の秘密会議がありました
じつに残念です
この誤解が明白に滅し去るまで 私に逢はないでゐてください
ますます疑を深めるのがよいことではありません
私も苦しい立場となりました
詩の友情が 思想の同志かなんどのやうに校長は考へております
どうか よき解決をして下さい
特高の人にお逢いになり 貴方がどんな思想かを明白に申し立てられるが一番いいと存じます
小包五ケ送ります

(封筒オモテ)
更級郡西寺尾村
 大島博光様
消印 19.4.30
(封筒ウラ)
軽井沢町矢ケ崎山
        龍野咲人
天長節(4月29日)

  ◇    ◇    ◇
友人であった詩人・龍野咲人からの手紙が博光の弟・洋さんの日記に挟まっていました。この手紙から”軽井沢の女学校”に就職できなかった真相が分かって来ました。
1)内定していた”軽井沢の女学校”は啓明学園ではなく、長野県軽井沢高等女学校(昭和18年4月軽井沢町立軽井沢高等女子校として開校、19年4月改称)だった。
2)この就職の話は龍野咲人の仲介によるものだった。
3)昭和19年4月28日に学校職員の秘密会議があり、参加を許されなかった龍野咲人は校長から博光が任命されなかった理由が思想であると告げられた。
4)”小包五ケ”は、軽井沢に赴任するため博光が東京から送った荷物だと思われる。就職にあたり龍野咲人宅に滞在したのかもしれない。
5)したがって博光が5月7日から軽井沢沓掛に逗留し、13日に鮎沢露子と清沢洌宅を訪ねたのは女学校の話が済んだあとのことになる。
6)この手紙は洋さんの日記に挟まれていたので、博光の眼にふれていないのかもしれない。4月末に就職が破談になったあとも博光はそのまま軽井沢に滞在し、手紙と荷持だけが実家に届いていたとも想像できる。

*当時の学校の様子を松本隆晴が述べている。「当時僕は上田市の高等科だけを入学させる国民学校にいたのであるが、他の同人たちの話と比べてみると、その学校は最後まで、職員の思想にははなはだ寛大であった。龍野咲人などは、校長が職員に、彼とは一切口をきいてはならぬと厳命し、終戦までだれひとり話しかけるものもなかったという。」(「暗い季節の思い出」
作家の今官一(故人)夫人の今公恵さんが1月26日ご逝去されました。
今官一が三鷹に居たときに博光がよく遊びに来たと言われ、当時の貴重な写真を下さいました。
2009年、青森県近代文学館で今宮一生誕100年展が開かれ、公恵さんは弘前市での生誕100年を祝う会で講演をされました。
今宮一と博光との縁は「想い出す人々」で触れています。

今宮一
後ろ左から鶴野峯生、大島博光、今宮一、前左から今友一、高橋彰一、津軽書房社主
(壇一雄のカメラを鶴野峯生が借りてきて今友一が自動シャッターで写した。カメラはローライフレックス。一九五五年昭和30年2月)

 
小山田二郎
奈切哲夫(左)と小山田二郎

 前衛画家の小山田二郎と博光は戦前からのつきあいでした。「蝋人形」の編集者時代に小山田二郎らにおごっていた、新宿の喫茶店NOVAに連れて行ったと語っています。
 小山田二郎は下口唇が異様に腫れていて印象に残る顔立ちでした。荻窪あたりで開いた個展に連れて行かれましたが、絵も全くグロテスクというか、異様・シュールで、小学生の眼からもこれが前衛絵画というものかと納得しました。小山田二郎が若い女性のもとへ雲隠れしたとき、奥さんで画家のチカエさんから居場所を知らないか、どうしたら戻ってくるか相談されました。博光は「もう戻ってこないよ」とつぶやいていました。

 数年前にNHK教育テレビ・新日曜美術館で「小山田二郎と鳥女」を放送していました。その女性小堀令子のもとで新しい作品をたくさん制作したことが紹介されていました。小山田二郎はチカエ夫人と小堀令子、二人の女性のささえで絵を書き続けたのでした。
シャンソン歌手の河田黎さんは博光の詩「きみがやってくると」に曲をつけています。二人の仲立ちをしたのは朗読家の西島史子さんでした。
河田黎さんは自分で歌うフランス語の歌詞を翻訳する人を探していました。朗読の師であった西島さんは相談を受けて博光を紹介、ワインを手みやげに二人で三鷹の家を訪れました。「酔いどれ船」を翻訳することに決まり、話が終わって、これからお昼を食べに行こうということになって、吉祥寺、井の頭公園入り口のフランスレストラン芙葉亭に行きました。食事のあと、三人で井の頭公園を散歩しました。すばらしい天気の気持ちのいい日でした。三人で腕をくんで、シャンソンを口づさんだり、おしゃべりをしながら池の岸辺を歩きました。博光は「こんなに楽しい日は滅多にない。楽しいね。楽しいね」と喜んでいました。

井の頭

詩人 西山克太郎(本名小林元)について

大島博光と小山清茂の共通の友人であった西山克太郎について、長野県現代詩史に作品、略歴が載っています。
1939年 詩集「過去」(発禁) 1989年1月病没(75才) 連絡先 長野市吉田3-10-19 小林房江  

戦後、西山克太郎は上京した折には大島博光と連れだって東長崎(豊島区)の小山家に寄り、宿代わりに泊まった、と小山淑子さん(小山清茂夫人)が語っています。

西山克太郎は詩誌「角笛」の18号(1961.4)から23号(1962.8)までの全ての号に詩やエッセイを書いています。
23号の「山中拾遺抄」というエッセイには「私が教員生活の出発をした小田切小学校」とあり、教師だったことがわかります。
19号のエッセイ「詩と音楽とにかかる橋」では小山清茂の「信濃古謡・わらべうた」が圧倒的にひかっていると書いています。

死を歌いもつためには・・・わが大島博光へ    (詩)「角笛」18号
五月                  (詩)「角笛」19号
詩と音楽とにかかる橋     (エッセイ) 「角笛」19号
近代諺  神 光あれと 言いたまい・・・・旧約・創生記   (詩)「角笛」20号
乱丁本               「角笛」21号
多頭内閣への支払請求書    「角笛」22号
黄昏の町              「角笛」23号
山中拾遺抄       (エッセイ)「角笛」23号

 今年は弘前出身の小説家・今宮一さんの生誕100年にあたります。
 今さんは戦後、三鷹に住んでいて、博光と交流がありました。仲間といっしょに写っているスナップ写真を昨年、奥様が送って下さいました。
 この四月から青森県近代文学館で今宮一生誕100年展が開かれており、お祝いの花を贈りましたら奥様より著書「想い出す人々」(昭和58年・津軽書房)を寄贈いただきました。西條八十の項で博光とのつながりの一端がわかりました。

西條八十先生

 ぼくは、早稲田ではロシア文科生だったが、課外では西條八十先生のフランス詩講義の、熱心な聴講生だった。
 有名な西條先生の講義の日には、あちこちから聴講生がつめかけて来て、教室はすぐに満席になり、廊下に立って聴講する者もあったくらいだから、その人気のほどがしれよう。
・・・いったいどんな講義をうけたのか、一向に覚えていないが、まがりなりにも、ぼくがいまだにヴェルレエヌの若干の詩を、フランス語で暗唱できるのは、この時の成果である。
 西條八十門下には、すぐれた詩人たちが集まっていた。後にコロムビアの作詞家になった門田ゆたかや、赤旗の詩人となった大島博光などは、その中でも異才を放っていた。
 当時、西條先生は『蝋人形』という、洒落た詩の投稿雑誌を主宰しておられ、その編集を門下生たちに任せておられた。大島博光がその任にあたった時、ぼくに連載小説を書かないかといってくれた。ぼくは「われ極光を見たり」という小説を書いた。『尼港(ニコライフスク)事件」の夜、一人の日本婦人が極光を見るという、およそ投稿雑誌には不向な小説だったが、半年間も書かせてくれた。
 ぼくが貧乏をしているので、少し稼がせてやろうという、大島の配慮だった。毎月、きちんと原稿料を払ってくれるので、ぼくはそんな大島を恩に着たが、考えてみれば、その金は、すべて西條先生がポケットマネーから出しておられたのである。

今 今