詩人

ここでは、「詩人」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




道1

道2

赤い実

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ランボオは言った


(「大島博光詩集1995〜2003」)

弓


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人間たちの歌を


(『詩学』 1950年1月号)


雪


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 わたしもすべてを
            大島博光

エリュアールがうたったように
わたしもすべてをうたいたい
おのれの内部を外部世界を
内部と外部との幸せな出会いを

わたしもすべてをうたいたい
ひとを生きさせる愛の力を
恋する娘の花咲く微笑みを
子を見やる母親のまなざしを

わたしもすべてをうたいたい
ごほごぼと流れる雪どけの川を
生毛のようなケヤキの芽吹きを
ビロードのような春の空を

わたしもすべてをうたいたい
戦争のむごたらしさについて
鳩を食いちぎる鷹について
核を世界から追放するように

わたしもすべてをうたいたい
矛盾を解消する政治について
ぺてん師どものぺてんについて
英雄たちのいさおしについて

わたしもすべてをうたいたい
わたしの党について革命について
ひろく遠く世界を見はるかし
未来をも見わたす展望台について

社会主義の名で社会主義を裏切り
世界じゅうの善男善女をあざむき
世界人民の前進を妨げねじ曲げた
犯罪的なソヴエトの巨悪について

わたしもすべてをうたいたい
生きてゆくのに大事なものを
おのれの生き方生きざまを
おのれの胸を顫わせたものを

砂でもあり砂金でもあるもの
石ころや泥さえもすべてが
翼ある詩のことば歌となり
小鳥のように飛んでゆくように

詩にとっても詩人にとっても
真実と美と善のほかには
どんなタブーも禁制もない
それが詩人の自由というものだ

わたしもすべてをうたいたい
実践的な立場でうたいたい
おのれの生き方生きざまとは
自ら実践に身を乗りだすことだ

(『詩人会議』1992年1月号 新年作品特集)

けやき






 わたしの行きたいのは
                大島博光
 ─ひとは遠くからやってくる
    ポール・ヴァイヤン・クーチュリエ
 
ひとは遠くからやってきて
さらに遠くへ遠くへとめざしてゆく
おのれの限界を越えて
崩折れようとするおのれを鞭うって
おのれの夢を追って
おのれのアルカディアをもとめて
    *
ほんとうに わたしの行きたいのは
遠いあそこだ あの高みだ

雲のうえに望み見た あの白い稜線だ
夢にまで見た あの頂上だ
空気も薄く 酸素の少ないところ
雪煙をあげて怖るべき突風の吹くところ



人間の力の限界が 問われるところ
人間の意志の強靭さが試されるところ
もしかしたら わたしの滅びるところ
力尽きて雪のなかに消えうせるところ

それでも わたしは登ってゆきたい
それが わたしの夢・生甲斐だから

        一九九一年七月
(『橋』1991年8月)

倉手山




 めくるめきを歌いたい
             大島博光

わたしはめくるめきを歌いたい
夢のような歌をつむぎたい
ひとをもわれをも立ち上らせる
奇跡のような詩をつむぎたい
新しい酒が流れるような
世界が新しく見えるような

実践的真理をうたいたい
奇跡のような歌をめざしたい
崩れた日にも立ち上らせる
疲れた眼にも光をあたえる

暗い苦しみを歌に変える
塩からい涙を虹に変える
それがわたしの選んだ詩法だ
生き残ったわたしの戦略だ

嵐にざわめく森のように
岩間でささやく泉のように
わたしは希望をもうたいたい
鳩のうたや未来をうたいたい

美と真実と 夢と現実と
鳩のうたと 雲雀のうたと
そんな矛盾を解決する詩を
奇跡のような歌のしらべを

死んでゆく子には見向きもしない
苦しみや叫びには答えない
そういう詩人にはなりたくない
わたしは何より人間でありたい

わたしは何より人間でありたい
人間の歌を わたしはうたいたい
身も顛える そのよろこびを
おのれを越えるそのたたかいを

梢の小鳥のようにうたいたい
羽根をふるわせて囀りたい
ひとを生きさせる愛の力を
きみの眼のおくにひらめく炎を

音楽が 音の建築であるように
詩も ことばの建築となるように
骨組も柱も堅牢にしたい
絵画(イメージ)や彫刻で飾りたい

言葉の錬金術を手に入れて
遁走曲(フーガ)や対位法をとり入れて
言葉の交響曲のような歌を
おのれの限界を越える歌を
すべてがひびきあうような歌を

ヴィオロンもヴィオラも弾きたい
トランペットも吹き鳴らしたい
わたしもまたすべてを歌おう
わたしも遠くをめざしてゆこう

人間を人間たらしめるものを
人間を偉大にするものを
わたしは歌でほめ賛えたい
賛えて風に投げてやりたい
            一九九五年一月

(草稿「大島博光詩集1995〜2003」)

チューリップ




私が詩だと思って


  (『狼煙』9号、詩集『老いたるオルフェの歌』あとがき)


国会
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 息をするように 詩を書く
                          大島博光

息をするように 詩を書く
つぶやくように 詩を書く
すすり泣くように 詩を書く
怒り叫ぶように 詩を書く

愛するように 詩を書く
たたかうように 詩を書く
そうしていつも 歌うように 詩を書く

春を告げる雲雀のように 歌う
息も絶えだえの白鳥のように 歌う

道にしゃがみこんでくだを巻く
よれよれの酔いどれのように 歌う
嵐にざわめく木のように 歌う
陽に乱反射するせせらぎのように 歌う

ててぽっぽおのように 素朴に歌う
気まぐれに吹く風のように 歌う
湧きあがる大合唱のように 歌う

          一九九二年二月

(自筆原稿)

白樺




 おまえの眼は
               大島博光

わたしは みずから鞭うち 問いただす
雨あがりの 山ひだのように くっきりと
わたしの うちとそとを 見つめるために
そうして見たものを よりよくうたうために
わたしは みずから鞭うち 問いただす

おまえの眼は まだまだ くもっていないか
みずからは 澄んだひとみを みひらいて
美と真実を みつめてると 信じながら
いろいろの いろめがねに くらんでいて
おまえの眼は まだまだ くもっていないか

祖国の ひろい地平線を 見わすれていないか
せまいところ かたよった窪地に眼をとられて
よそぐにに 手あし首ねを しばられようとも
ゆたかな 大地のうねりで ひらけている
祖国の ひろい地平線を 見わすれていないか

深みの力と 典型を みおとしていないか
石ころや 行きずりのものを なでまわして
森のなか 士のなかに 芽ぶいているものを
せりあがる ぼた山のかげに息ぶいてるものを
深みの力と 典型を みおとしていないか

人間の偉大さを うたいわすれていないか
とり残された がらくたばかりに とらわれて
人間の弱さ ちいささばかりに 眼をつけて
立ちあらわれている あたらしい英雄たちを
入間の偉大さを うたいわすれていないか

ゆたかに 夢みるすべを みうしなっていないか
プロコフィエフの 七番めの交響曲のように
夢のなかからのように ひびいてくるものを
ひとに光りをあたえ ふるいたたせるものを
ゆたかに 夢みるすべを みうしなっていないか

うたの魅力と みずみずしさで とらえているか
おまえのうちを 水のように流れているものを
雲まの太陽のように 鳥影のように映るものを
そうして せききって こみあげてくるものを
うたの魅力と みずみずしさで とらえているか

まなうらに見えるほどに よみとっているか
ふるさとの 杭をうちこまれた くろ士のうえに
ひとびとが たたかい ながした血のいろを
こめかみを鳴らしながら 流した涙のいろを
まなうらに見えるほどに よみとっているか

硝煙くさい風や雲を うたい告げているか
祖国の山はだに オネスト・ジョンがうちこまれ
ふるさとの空に 水爆がふりかざされているとき
嵐をまえぶれて 鳴きさけぶ ひわほどにも
硝煙くさい 風や雲を うたい告げているか

平和と春を ふかく よびもとめているか
きのこ雲に灼かれたひとの いたみとねがいで
もう子どもたちを 原子の炎でころさせぬ
こいびとたちが なが生きできるようにと
平和と春を ふかく よびもとめているか

しらべゆたかに おまえは歌いあげているか
おまえの眼を ふるえるくちびるに つないで
草むらにかくれた きよらかな小川のように
ひとびとの 胸から胸ヘと ながれているものを
しらべゆたかに おまえは歌いあげているか

握りあった手のひらのぬくみを つたえているか
おまえの詩のなかの「わたし」が おまえの
脈うつ血のいろと たかなりをもちながら
ひとびとにひびきあい つながり むすびつき
握りあった手のひらのぬくみを つたえているか

おまえはこたえるだけの優しさを たたえているか
木枯しのなかで 笑いさざめく 子どもたちと
おまえのしあわせと 新しい日々をつくりだし
苦しみたたかいながら おまえを愛しているひとに
おまえはこたえるだけの優しさを たたえているか

たたかいのなか ふかく ふみこんでいるか
夜の稲妻のように くらやみをひきさいて
くらやみの くらいふところを 照しだし
えぐりとった おまえのうたを たずさえて
たたかいのなか ふかく ふみこんでいるか

そうして 党にさしだすにたる詩をめざしているか
労働者階級の 党の詩人のひとりにふさわしく
マヤコフスキーのように アラゴンのように
党が 高くかかげた光りと方法にみちびかれて
そうして 党にさしだすにたる詩をめざしているか

(『現代詩』1956年2月号)

壺井繁治と
壺井繁治と
 詩に翼をあたえよう
                        大島博光

 サンフランシスコ講和條約と安全保障條約は、奇怪な一部の日本人たちによって批准された。(奇怪な日本人という意味は、それがはたして日本と、日本民族をほんとうに愛し、その運命にこころを痛めるほんとうの日本人かどうか疑わしいからである。)英国の隷属にくるしんでいるエジプト人たちさえ、「日本はエジプトのようにあとで後悔するような條約をむすぶべきではない」と警告している。それは、平和の條約でもなければ、日本人の安全を保障する條約でもなく、「死と戦争と破壊を意味する」(クライヴ・エヴァット)條約だ。われわれ日本民族の運命が祖国の運命が、奇怪な相場師の手によって賭けられているのだ。
 これが、われわれにはどうでもよい、どうにもならない問題だなどと言って、おられるだろうか。われわれの首がしめられ、手くびに手錠がはめられようとしているのに、狼の民主主義によって、羊の自由が締め殺されようとしているのにわれわれはなお沈黙にふけっていられるだろうか。しかも、ここには、われわれのいたいけな子供たちの運命まで賭けられ、われわれの未来まで賭けられているのに、なおわれわれがおし黙っているなら、われわれはもう愛を口にすることはできないだろう。
 われわれは、平和と自由のための全面講和をなお主張し、そのためにたたかうことができるのだ。
 街では、いたるところから、パチンコの鉛玉のはじけるうつろな音がきこえてくる。子供たちの紙芝居にまで、二挺拳銃の西部劇があらわれ、新しいファシズムの子供版がよみがえって来ている。競輪場行の特別バスがしたてられ、競馬場行の特別電車がしたてられる。オペラ・ハウスの巨大な賭博台とビンゴ屋の緑テーブルとは無縁ではない。汚辱と退廃と忘却がみちみち、奇怪な日本人たちによって奨励されている。
 戦争を放棄した憲法が、いまやふみにじられ、怪しげな自衛力の名のもとに、暴力の部隊が──おそらく兄弟に向けられるだろう機関銃や大砲が、ふたたびととのえられようとしている。外国の部隊だけでは足りないのだろう! 働いても働いても、ひとびとの米びつは空っぼなのに、もう機関銃や弾丸ばかりつくられている。誰が、それを平和と独立のためだとあかしすることができよう。
 しかし、去年の暮には、デパートの従業員組合さえストライキに立ち上った。立ち上らざるをえなかったのだ。しかし、悪どい弾圧にもかかわらず、闘争は高まった。
 これらすべてのことは、ばらばらの現実でもなければ、とるに足らない現実でもなければ、詩人に無縁な現実でもない。人間が脅かされ、文化が脅かされ、自由が脅かされ、平和が脅かされながら、それがなお詩人に無縁だなどと言うことができるだろうか。
 「いまやすべての詩人が、ほかのひとびとの生活のなかに、共通の生活のなかに、根深くはいりこんでいるということを、主張する権利と責務とをもつ時がきた。……詩人の孤独は消えさった。」とエリュアールは語った。
 詩人はいまこそひととびの生活のなかに、現実のなかに、人間の運命を、文化の運命を、自由の運命を、祖国の運命を、平和の運命を読みとり、歌い告げるべき時である。詩人の運命そのものが、ほかのひとびとの運命、祖国の運命と深くむすびつき、ひき離すことはできないのだから。飢えのなかで、なお絵に描いたパンやまぼろしの洒を歌うのは、悲しい奴隷のなぐさめでしかない。ふたたび若ものたちが死へ駆りたてられようとしているとき、死の讃歌をうたったり、奴隷の眠りの歌をうたっていられるだろうか。いまこそ、小さな生活のひだのなかからさえ、現実の本質をとらえ、眼に見えるものに変えなければならない。露路でのささやきや呻めき、若ものたちの怒りや深い希望、ひとびとの涙とねがいは、生きた言葉に変えられ、高められ、深い詩のひびきをとって、真実と希望をかきたてるだろう。詩は、現実をうつす鏡であるばかりでなく、現実を変えるエネルギイと希望をつくり出すだろう。いまこそ、詩が、四月の風のように、ひとびとの胸に春と光りをささやく、深いひびきをとりもどすべき時だ。いまほど、詩人のふかい愛の歌が、待たれている時はない。闇が深ければ深いほど、詩は闇の意味をあばきだし、ひとびとの眼に光りを投げなければならないのだ。
 詩の風たち、雹に荒された葡萄畑から、雲のたれこめた山はざまから、原子沙漠の瓦礫の街から、灰いろの裏街から、坑山のしめった窪地から、さまざまな現実のひびきをとらえ、大きなコーラスとなって鳴りひびけ。

(『日本ヒューマニズム詩集』1952年度* 三一書房)
*11人の編集委員の選によるアンソロジー
・大島博光の選(15篇)
・大島博光 詩に翼をあたえよう(選者の序文)
・高橋玄一郎 無力性
・中村慎吉 春への歩み
・小熊忠二 妻への便り
・谷川雁 人間A
・田村正也 硫黄島
・丹野茂 安夫の牛が殺された夜
・関口政男 木々の歌
・北條さなえ この街
・斎藤林太郎 冬
・島田利夫 ふるさとの川の岸べに
・末次正寛 こころに告げる歌
・さとうかずお 村の夜警小屋
・竹山直七 死の十字
・瓜生年夫 算盤よ
・大島博光 夜の街で

三鷹の自宅にて
末次正寛さんと(1952年ころ)

 北条さなえさんと定型
                         大島博光

 北条さなえさんのことといえば、わたしはまず、アントロジー「平和のうたごえ」第二集に収められている「戦にたおれた兵士のうた」という詩を思いだす。そうして、このアントロジーを批評したソヴエトのイ・ルボバ I.Lvova というひとが、北条さんのこの詩にふれて書いているのを思いだすのである。
 イ・ルボバは、一九五四年1月号の「ソヴエト文学」にかいた「平和とたたかいのうた」のなかで、こう書いている。
「日本の詩人たちの作品にあって、祖国をふみにじる圧制者たちにたいするたたかいは、平和のためのたたかい、新しい戦争準備にたいするたたかい、日本の再軍備に反対するたたかいと、ひきはなしがたく結びついている。こないだの戦争の惨禍は、まだひとびとの記憶のなかに生ま生ましい。このアントロジー(「平和のうたごえ」)に収められているたくさんの詩がそのことをあかしだてている。それらの詩のなかで、もっともすぐれたひとつは、女流詩人北条さなえの詩「戦にたおれた兵士のうた」である。夜な夜な、什れた兵士たちの亡霊が、まだ爆撃と戦火の痕をとどめている町々の通りをさまよっている、とこの詩はうたっている。

『誰が私を殺したのだ?』と、これらの亡霊たちはつぶやく。
 私もかっては生きていたものを
 若く 楽しく 美しい
 妻や子供があったのに
 だが今はひとくれの土 むなしい灰
 おお かっては生きていたものを
 そうして亡霊たちは、彼らを死へと追いやったものにたいする呪いのうたをうたう……」

 これが、イ・ルボバの批評である。わたしはこの批評がたいへん大切なものをふくんでいるように思う。それは、北条さんの詩をふくめて、日本の詩人たちの詩がどのようなものであり、どのようなものであるべきかを、端的に指摘している点である。それはわかりきっているようで、わかりきっていないのではないだろうか。
 北条さんのこの詩は、七行一節の定型をとっており、第三行が、最後の行で繰り返えされるが、このルフランはひじょうに効果的である。北条さんのヒューマニズムと、詩人のしらべとは、この形式のなかに結びつき、とけあっているのであろう。
 北条さんは、ほんとうにまれな定型の追求者のひとりであるが、いよいよこの道を追求しつづけてほしいとわたしはねがっている。こんにち詩は内容の点でも形式の点でも、国民大衆から遠ざかり、ますますアナーキーなものとなり、せまいセクト的なものとなっているが、そこから詩をひろい大道にひきもどすためには、どうしても定型をふたたび採用する必要がある、とわたしは考えているからである。

(『ポエトロア』9巻 現代女流詩人集 昭和33年9月)

雪

 夢みる
                      大島博光

おれは 損得など考えなかった
あと先のことなど 見えなかった
そして詩人なんかになってしまった

いつも夢ばかり 見ていた
遠い空ばかり はるかに見上げて
見果てぬ夢ばかり ゆめみていた

おれも むかしは歌っていた
春の夜の 栗の花の匂いや
荒地に消えた 泉の歌など

そんな おれの眼にも見えるのだ
この世の中が いんちき舞台で
この世の中が 狂っているのが
 
お偉方(えらがた)は 献金という名の
ワイロや 汚れた金や株を
ふところに入れて ふんぞり返る

それを裁くはずの 裁判官どもも
その手のひらに 乗っているから
黒を白と言って しらを切る

そんな おれの眼にも見えるのだ
ペてん師どもの ペてんにかかって
この世の中が 腐ってゆくのが

金で買った 政府をだしに
しこたま儲ける 資本の仕組
まるで いかさまの賭場のようだ

日ごと おれたち貧乏人からは
雑巾(ぞうきん)のように搾りとる 掠めとる
まるでこの世の中は さかさまだ

そんなことを 書きたてた詩など
この世の中で 売れるかどうか
そんな計算なども しないのだ

こんなにこの世が 狂ってるから
やっぱりおれは 夢みるのだ
人民(みんな)が主人になる 世の中を

いや 夢みるだけではすまされぬ
人民の自由や 平和のためなら
足を引きずってでも おれも行く

(『赤旗』1989.7.18、詩集『冬の歌』

 わたしたちは待っている
                   大島博光

白い影像のむなしい手品師たち
うつろな白の影像をつみ重ねて
君たちはただ画そらごとにふける
血と肉の影像が繰りひろげられようというのに

蜃気楼に住む夢想家たち
そのまぼろしの鏡には映らぬのか
裏切られた祖国の叫ぶ姿も
売られゆくみじめな奴隷の姿も

まやかしの神話をあむ魔術師たち
その魔法の鏡には映らぬのか
空とぶ異国の禿鷹の群も
ふるさとの丘や港の兵器廠も

微風と星の占師たち
その純粋な耳にはきこえぬのか
象牙の塔の崩れる音も
鎖の音も 飢えの叫びも

忘却の海の酩酊者たち
君たちの耳は貝殻だというのに
「わだつみの声」はきこえぬのか
原子沙漠の呻めきはきこえぬのか

いまこそ眼をひらくべきときなのに
眠りの歌うたうギターたち
眠るには 戦争の足音が高すぎる
眠るには 祖国の闇は深すぎる

傷つくことのない鵠たち
虚空にたわむれる幸福な鳥たち
君たちは甘い絶望と死を歌う
とびゆく空さえ奪われながら

滴れた泉のナルシスたち
まぼろしの泉に 君たちは
奴隷に落ちゆく姿を映しながら
悲しいまぼろしの「自我」を抱く

君たちの美しいこよみには
のどかに四つの季節がめぐってくる
世界には嵐も雲もないかのように
地獄の季節はないかのように

人間と真実を歌うべきとき
人間の血をあかしすべきとき
愛と希望の火を燃やすべきとき
祖国を歌いつくるべきとき

わたしたちは待っている
嵐のなかにもなお 雲雀のように
春をうたい告げる詩人たちを
たたかいの果てに春はくるのだと

わたしたちは待っている
暗い冬の夜にも 鶏のように
夜明けを歌い告げる詩人たちを
夜明けは血と涙でたたかいとるのだと

(『現代詩代表選集』1953.10 『大島博光全詩集』)

 いまは叫ぶことが大事だ
                 大島博光

君はいう 詩はことばで築きあげられるものだ
ぎりぎりの体験をそれにふさわしい言葉でうたうものだ
日本の詩は日本語の花だったと
そうだそのとおりだそれはりっぱな言葉だ

君はいう 原爆時代の人間のありようを追求し
悲惨や荒廃を訴えたりするような詩作品では
表現の言葉などに心をくばってはいられない
内容だけで詩になると考えられているようだと

こんどは そうだそのとおりだとぼくには言えぬ
傷つき倒れ死ぬかも知れぬものを目に見ながら
ひとは医者のこころえをもたぬからといって
手もくださず 叫びもあげずにいるだろうか

そこでひとは のどからほとばしりでる声で
叫んだのだ 人びとを呼びみんなの手と心で
死ぬかも知れぬものを生きかえらせようと
叫んだのだ それが詩となるかどうかも知らずに

しかも 医者の心得をもつものが必ずしも
死ぬかも知れぬものの傷ぐちの深さをはかり
以前にもまして元気なものによみがえらせ
生きる道への希望を示してくれるとは限らぬのだ

むろんぼくも叫びさえすればよいとは思わぬ
うつくしい叫びこそひとびとのこころにひびき
そのとも鳴りを呼ぶほどに歌われねばならぬ
春をよぶ歌はひばりの声でうたわれるのがよい

友よ忘れるまい ぼくらはいまどこにいるのか
ほんとうに誰が日本と日本語をうらぎり
ふたたびぼくらの愛するもの美しいものを
ぼくらの手からもぎとろうとしているのか

友よ忘れるまい みんなの叫びから逃げかくれて
羽田をとびたっていった不吉なからすどもを
そうして彼らが太平洋の向う岸のわしどもに
何を売りわたす証文を書き書かされてきたかを

みんながもうヒロシマはいやだと叫んでいるのに
殺しやを救い手といいどろぼうを友人だといって
かれらの原爆水爆をぼくらの畑にかつぎこませ
再びぼくらの血と涙をしぼろうとするやからを

友よ そのとき死ぬかも知れぬものはなんと
きみの娘たちであり ぼくの息子たちであり
ぼくらを育ててくれた美しい千曲の岸べであり
きみの愛する日本語でありぼくらの祖国なのだ

そのとき いったい責められるべきは誰だろうか
声もあげず叫ぼうともしなかったものだろうか
それとも かすれた声で叫んだものだろうか
そのとき 詩のための詩は誰に役立つだろうか

友よ君も知るように ぼくもきのうは歌っていた
白夜のうたや 雨だれや 絶望や さまよいを
ひび割れた鏡や そよ風や 暗い孤独のうたを
ぼくも毛虫が蝶になるということを知らなかった

詩人は書斎で言葉をみがくだけではまだ足りぬ
蝶のうたをうたうには身と心を変えねばならぬ
ひとびとの生活のなか泉のなか深くはいって
闘いのひびきと生きた声をききとらねばならぬ

なぜなら詩人もまたひとびとの中のひとりであり
みんなとおなじ苦しみをなめおなじ不幸をもち
みんなとおなじ花やよろこびを愛するからだ
詩人はみんなのしあわせのためにこそ歌うものだ

友よ ぼくは君のむかしの友情をいまも感謝している
君は裏山のあさつきを掘ってたべさせてくれた
そうして共にべートーベンの第九にきき入ったが
ぼくはいつか君と新しい歓喜の合唱をききたいのだ

(『詩学』一九五〇年四月号、『大島博光全詩集』)
*『長野県年刊詩集』(長野県詩人協会 1960年)には「竜野咲人さんへ」という副題がついて収録されている。