
今日の散歩は千曲川右岸の堤防道路・赤坂橋付近から南に向かいます。
高速道路(長野自動車道)の向こう側、鞍骨山(左)と天城山に囲まれた地域が松代町の西がわ・清野地区になります。

幹線道路を渡ってすぐ、小学校がありました。

清野小学校。金次郎の像があって、古い学校のようです。

すぐ先に鳥居が見えたので行ってみると、

妻女山への散策路、わずか7分で展望台に着くというので、喜んで行くことに。

すぐにイノシシの防護柵。扉が沈んでいて開けるのが大変でした。

厚い落ち葉の道、人が通った形跡はありません。

すぐに展望台が見えてきました。

妻女山展望台

川中島の合戦のおり、上杉謙信はここに陣取って戦場を展望したのでした。

北側の展望。眼下は岩野地域の畑と千曲川河川敷の畑。遠景は雄大な飯縄山と槍ヶ岳。


妻女山招魂社は戊辰戦争で戦死した松代藩士52柱を祀るために建てられた神社だと。


立派な句碑、深谷ラン生句碑とありました。地域の俳人だったようです。

神社の下は参拝するための石段になっていました。

帰り道、清野小学校を経て東に向かうと、廃線になった長野電鉄の線路の跡が歩行者道路と草場になっています。

畑の向こうに奇妙山、皆神山、狼煙山など、松代の東がわの山々。右手前が地下壕のある象山。

左(北)に曲がると、畑の先にマイホーム、レストランはなやの草色の屋根が見えてきました。

春のようなそよ風のなかを6Km、気持ち良い汗をかきました。

松代・清野地域の南側の壁・鞍骨山と

天城山。向こう側はどんな風景があるのでしょうか?
妻女山から尾根伝いに天城山を経由して鞍骨山に行くハイキングコースがあることがわかっています。
(妻女山から倉科坂林道を行く)
尾根から向こう側とこちら側を眺めたいと思っていました。

山なみの西端にある妻女山展望台が登山口になります。

登山口。左が前回行った林道。右が尾根のハイキングコース。

めざす鞍骨山がうっすら見えます。無風でモヤがかかったような天気が3日続いています。

「あんずの里」とは千曲市の森地区と倉科地区のこと。
松代東条のあんずの里より規模も大きく、行政も力を入れているようです。
8時20分スタート

林道に前回なかった倒木。

ここからがハイキングコース。いざ出発!

このあたりは川中島の戦いで上杉側の陣地だった

左が林道から別かれるハイキングコース
尾根伝いと言っても木々が立っていて眺望はありません。
日差しはさえぎられていいのですが。

やっと得られた北側の眺望。千曲川と高速道路、その手前にレストランはなやの屋根が白っぽく見えます。

南側は千曲市。高速道路の篠ノ井分岐と新幹線が。

すぐ下に突然現れたカモシカ。じっとこちらを見つめたあと、さっと走っていってしまいました。
軽井沢の霧積山で遭遇したときも同じ挙動でした。

天城山を迂回した道で二本松峠に出てしまいました。清野と倉科(千曲市)の間ををつなぐ峠

いよいよ鞍骨山の案内。肝心の距離が取れています。

お城を守るための窪地が二箇所

花を撮影していると男性が追いついてきました。「やっとお花が咲いていますね」

スマホで調べて「あと15分くらいです」と教えてくれました。

鉄塔に到着。あと少しです

大きな岩がゴロゴロ、城跡の雰囲気が。

城垣があり、すぐ上に

鞍骨城跡(山頂)

百坪ほどの広さの城跡。夏草だけが元気。

かろうじて北東側の眺望。高速道路と石切場、ロイヤルホテル。

少し行くと眺望の取れる高まった場所が

北側遠くに赤坂橋と畑

南側は千曲市の山でしょうか。すぐ近くなのですが見渡せません。

この山は何故か柏の木が多いです。


ここで昼食。

さらに行くと急な下り坂とそのさきが登りなので、ここまでで引き返すことにしました。
とたんに下り道でこけて足指を表皮剥離。
戦意喪失してつらい復路となりました。

それでも天城山に登頂。名前だけの小さな山頂。

そばに井戸のような石の建造物が。ここも軍事的な拠点だったのか?

大きな岩が意地悪。来るときはこんな岩あったっけ?

長い長い帰り道、帰還したのはちょうど3時。
眺望もない、山の風もない、ケガもした。
けれどもとにかく行きました。

さきほど出会った男性がメモをワイパーにはさんでおいてくれました。林道から帰ればずっと早いんだ!
永禄4(1561)年9月10日、八幡原を中心とする川中島平の広い範囲で、武田・上杉両軍による4回目の戦が行われた。上杉軍は8月16日に13,000の本隊を率いて海津城を眼下に見ながらここ妻女山に着陣した。一方、海津城を守る高坂(香坂)昌信(春日虎綱)からの援軍要請をうけた武田軍は20,000の兵を率いて8月29日に海津城に入った。両軍とも過去3度の戦を超える最大の兵を動員し決戦の準備に臨んだ。9月9日、武田軍は山本勘助(菅助)の進言により兵を二手に分け、主力である12,000の兵を夜中に妻女山へ向かわせ、残り8,000の武田軍の本隊が八幡原で迎え撃つ作戦をとった。いわゆる「きつつき戦法」と呼ばれるものである。これを察知した上杉軍は夜中に山を下り、千曲川の雨宮の渡しを渡って川中島平に出て夜明けを待った。この夜は霧が深く、夜明けとともに霧がはれた瞬間、両軍がすぐ間近に遭遇することになった。上杉軍の予期せぬ「車がかりの戦法」に劣勢となった武田軍は苦戦し、信玄の弟信繁角豊後守(両角虎光)、山本勘助らが戦死した。その後、妻女山からの別働隊の参戦によって形勢は逆転し、上杉軍も多くの戦死者を出し退却した。対決を避けてきた信玄がこの戦で多くの犠牲をはらいながらも上杉軍を押し返したことで川中島は武田の支配下となり、上杉を頼った村上義清、高梨政頼は信濃川中島への復帰の願いを絶たれることとなった。

左の倉科坂林道は清野地区の南に連なる鞍骨山などの山塊の中腹を東進し、象山にいたる道で、前回は車で通りました。

右の道を上るとあんずの里ハイキングコースで、尾根道を伝って鞍骨山(くらほねやま)に行けるようです。

レンゲツツジやヤマブキをはじめいろいろ咲いています。






中央の山が鞍骨山で、ここから登るのは相当たいへんそうです。




清野から見る山塊。右端が妻女山から林道への入り口、左が天城(てしろ)山で、ここにも城があった。

東方向で一番高いのが鞍骨山で、海津城(松代城)を眼下に見下ろす山城がありました。

松代の街の北側すぐ近くにある皆神山。山頂が平坦で広く、特徴的な形をしています。
あそこにはなにがあるのでしょうか?

ちょうど黄葉に彩られています。

登山道(自動車が登れる)

登り切ると野原と畑が広がり、とても山頂とは思えません。

皆神神社の山門


クロサンショウウオが産卵する池があるそうです

自然に同化したような池が四つ、境内の脇にありました。



カエデの紅葉が鮮やかでひときわ目立ちました。

本堂

東側が小高い丘になっていますが、大規模な太陽光パネルが作られていて、眺望が得られません。

西側に北アルプスと松代の街がおぼろに見えます。千曲川は見分けが困難。

東側の山は下りたほうがよく見えました。

奇妙山の隣の山

一番大きい奇妙山

尼巌山(あまかざりやま)

今日は栄村九条の会の人たちによる象山の地下壕見学がありました。

象山もきれいに紅葉していました。

記念館の前の山も美しく色づいています。

今年も松代真田十万石まつりは好天に恵まれました。


「杏おこわを松代名物に育てる会(杏おこわプロジェクト)」が発足し、松代真田まつりで3店舗が自慢のおこわを出品。


二人でレストランはなやの元祖あんずおこわを宣伝。



大名行列が始まりました。

始祖から廃藩置県で最後となるまでの歴代の藩主が登場。

馬に乗った小松様。前の小松様のほうが格好よかった。





千曲川の土手(桜堤公園付近)から下流を眺めると、左手(北)に飯縄山、右手に石切場が望めます。

思い出せば 子供の頃は
世界と自分とは ひとつだった
・・・
日本アルプスの向うに沈んでゆく太陽も
夕焼けに映える 石切場の切り立った岩肌も
・・・
みんな 自分とひとつだった
そこから自分を切り離すことを知らずに溶けこんでいた
(千曲川の歌──子供の頃)
博光がなつかしんで歌った石切場が紅葉に包まれているように見えます。

東寺尾にある山は紅葉の盛りでした。


近づいて真下から見ると、その巨大さ、その迫力に圧倒されました。
観光マップに載っていない素晴らしい奇観を発見!機会があれば、ぜひ近くに行って見てください!

妻女山から南へ行く林道。

タラの芽を探しましたが、採り尽くされていました。

野のたんぽぽ、山のすみれ

眼下に清野の畑地帯と松井須磨子の育った集落、中央に象山とその鼻の先が松代市街。奥が奇妙山と東条地区。
イノシシの居る気配を感じた小林さん、車に戻ることに。

山吹の群生に目を奪われて。七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき

イノシシよけの柵。この下は人家になります。

村の道わきに芝桜の絨毯。この近くのおばあさんが育てたそうです。

その先では花桃が花ざかり。

独特の赤味の強いエンジ色。白やピンクも同じ株で咲いています。

はなやの芝生には星のようにたんぽぽが咲いていました。

収穫は少なくとも 花がたくさん見れました。