フランス紀行 France Travelogue

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 ランスの微笑み

 同じような発見をもう一つ、わたしはランスのカテドラルで経験した。シャルルヴィル・メジェールからパリに帰える途中、わたしはランスで下車してこの有名なカテドラルを訪ねて行った。さっきのアラゴンの国めぐりの詩『涙より美しいもの』のなかには、つぎのような一節がある。

 おん身のみごとな唇に浮かべたランスの微笑みは
 処刑されてゆく聖者や予言者たちが最後に見た
 とある夕ぐれの 夕焼けの色にも似ており
 髪には シャンパーニュの葡萄を絞(しぼ)る匂いがしている

 この「おん身」とは、むろん祖国フランスを擬人化して、こう呼んでいるのである。このくだりを訳したとき、わたしは、カテドラルそのものが微笑みのように美しいのだろうぐらいに思っていた。
 ランスの駅に降り立って、まずわたしは感嘆した。駅前広場の向うに鬱蒼と茂ったノワゼッチェ(はしばみ)の森林公園が横たわり、何本かの通りがこの森のなかを、放射線状に、市内に向かって伸びているのである。駅への往復は、いやでもおうでも、このはしばみ(ノワゼッチェ)の緑のトンネルのなかを通ることになる。なんという優雅さであろう…… 左手の大通りをしばらく行って、右に折れると、小さな広場を前に、ランスのカテドラルはさりげなく立っていた。さりげなくというのは、あたりに門前町らしい雰囲気もなく、観光客もわたしたちのほかにはほとんど見あたらないのである。広場に面した町角はカフェテラスになっていて、市民たちが挨拶を交わしたり、コーヒーやビールを飲みながら歓談していて、ちょっとした町の社交場ともなっているらしい。そこからはカテドラルを仰ぎ見る格好になる。カテドラルは夏の西陽のなかに淡いクリーム色に映えて、西にむかって、高く、やさしく立っていた。十三世紀に建てられたカテドラルは、たび重なる戦争の砲弾で傷ついたり焼かれたりし、ドイツ兵たちが聖堂のなかで焚き火をしたりしたという。長い時間と歴史をくぐり抜けた、その台石の角はもうぼろぼろと崩れて丸くなっていた。そしてわたしの驚いたことに、正面左側の入り口の壁面に、多くの聖者像とならんで、「ランスの微笑み」が立っていたのである。精確にいえば、「微笑みの天使」とよばれる、これももうぼろぼろと剥げ落ちて、背中にせおった翼も傷(いた)んだ石の彫像が、まるでとろけるような、やさしい甘い微笑みを浮かべて立っていたのだ。
 それはあたりにならんだ、暗い、きびしい表情をした聖者像のなかにあって、暗い中世から近世へと微笑みかけているようにさえ見えた。そしてこの「微笑みの天使」は、中世彫刻の一典型として、美術愛好者のあいだでは極めて有名なものだったのである。それらのことを、わたしはランスに来て、カテドラルの正面入口(ファサード)に立っているこの彫刻を見て、ようやく知ったのであった。そしてもう一度、「おん身のみごとな唇に浮かぶ ランスの微笑みは……」と口ずさんで見ると、わたしの初めの解釈は、無知によるものとはいえ滑稽というほかはない。そうしてここでも、アラゴンのこの詩句が、けっして比喩や象徴ではなく、現実の具象的なもの──「微笑みの天使」像にむすびついており、そうしてフランスの歴史的現実にむすびついていることを知るのである。
 カテドラルの内部の壁には、もう色褪せて、そのうえすすけたような感じを与える、大きなタピスリイ(壁掛)が何枚となく、かけてあって、そこに描かれているというか、縫いこまれている聖画はよくわからないながら、わたしはその巨大さに圧倒された。
 カテドラルからの帰り道、はからずもシャペル・フジタの前に出た。これはフジタ・ツグジが壁画を描いた教会であり、またかれの葬式は、さっきのカテドラルでとり行われたという。時刻がもう遅くて、シャペルのなかを見ることはできなかった。シャペルの屋根のうえに立った風見鶏が、夕ぐれのうすらやみのなかに印象的だった……
(おわり)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

天使
微笑みの天使
ランス
ランスの聖堂
フジタ
シャペル・フジタの門




 エイモンの四人息子

 ところで、ランボオ博物館で買った風景の絵はがきの一枚に「エイモンの四人息子」という名がついているのを発見して、わたしははっと驚いた。アラゴンの詩の一節を思い出したからである。

 嵐は ダンケルクからポール・バンドルへと荒れ狂い
 おれたちの愛するすべての
 声を かき消してしまうのか
 いや 誰にもできぬはずだ 伝説を追いちらし
 エイモンの四人息子から アルデンヌの地を奪いとることは
      (飯塚書店版『アラゴン選集』第一巻二五一ページ)

 これは、アラゴンの抵抗詩集『エルザの眼』のなかの『涙よりも美しいもの』という詩の一節である。一九四一年、アラゴンの旧友であり、いまは対独協力者となっていたドリュ・ラ・ロシェルは、ある右翼の機関紙上で、アラゴンを攻撃する。
 「……アラゴンが、レジスタンスとその強化のためにふりまいているあの悲憤梗概、祖国の尊厳に注いでいるあの感涙、あの片言の呼びかけなどは、排他的かつ熱狂的な讃美でフランスをほめたたえているかに見えても、けっしてフランスに奉仕するものではない。……この邪悪な偽作者は、あらゆる価値を変質させて、横取りしてしまい、それを、自分の猿まねの贋金(にせがね)につくり変え、ロシヤ狂(きちが)いでロシヤ贔屓(びいき)の贋金につくり変え、頑迷な国際主義の贋金につくり変えてしまう。彼にとっては、「わが祖国よ」というトレモロも、文学的弥次馬どもがよく使ういんちきなトリックに過ぎない」

 この罵倒にたいして、アラゴンは『涙よりも美しいもの』を書いて、それに答えたのである。
 この詩は、フランスにたいする詩人の祖国愛をあかしだてるために、フランスの国巡(くにめぐ)りをして,地方地方の美しさや、歴史や歴史的人物をうたい描いている。一九四三年の初めには、ド・ゴール将軍もアルジェ放送を通じて、この詩の数行を朗読したのであった。そして、「エイモンの四人息子」というのは、アルデンヌ王の四人息子で、かれらは名馬バイヤールにまたがってシャルルマーニュと戦い、アルデンヌの地を守りぬいたという、十二世紀の武勲詩の主人公たちであり、アラゴンはこの故事を引用して、そこに祖国解放の呼びかけを託したのである。

 ところで、この絵はがきに写っている風景はといえば、なんのことはない、博物館のすぐ裏手を流れているムーズ河を前景として、その向こう岸に、長くこんもりと横たわっている丘を背景とした、見るからに美しい眺めである。丘は鬱蒼とした森におおわれていて、むかしはこの森のなかに、例のカスミ網やワナなどがしかけられたのにちがいない……博物館のすぐ上手に橋がかかっていて、向こう岸の丘で夏休みのキャンプ生活を楽しんできたらしい若者たちの一群が、リュクサックをせおって通り過ぎて行った……おそらく、このムーズ河の向う岸の大きな丘が、いまでも「エイモンの四人息子」と呼ばれているのであろう。とにかく、そう名づけられた風景をまのあたりに見ると、あのアラゴンの詩の一節が、たんなる修辞的な引用や比喩ではなく、このような現実の地理と伝説にむすびついているのに、むしろ驚くのである。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

エイモン
Les quatre fils Aymon et Meuse「エイモンの四人息子とムーズ河」

 黒いムーズ河

 博物館を出て向うを見ると、「黒いムーズ」河が、褐色のささにごりを浮かべて、流れるともなくゆっくりと流れていた。水量のたっぷりある、利根川の中流ほどに広い大きな河だが、日本の河のようにせせらぎの音をたてて流れるというおもむきは全くない。この河に面したマドレェヌ河岸は、今はランボオ河岸とよばれていて、三,四人の釣りびとが糸を垂れていた。この河岸の家に、ランボオは1869年から1875年まで住んでいた。『酔いどれ船』はそこで書かれた。ちょっと下流の辺りに船着場があって、むかしは荷物を積んだ船が行き交っていた。ランボオはそれを窓の下に眺めて暮らした。こうしてこの見なれた風景は、『酔いどれ船』の詩想を若い詩人に与えずにはおかなかったのであろう。

 おれは  非情の「川」をくだっていたとき
 もう 舟曳きたちに導かれるわが身を忘れはてた
 ……
 おれは 舟乗りたちのことも 気にかけず
 フラマンの小麦や イギリスの綿を運んだ

 ドラエイの回想によれば、少年のランボオはマドレェヌ河岸から川辺に降りて、兄のフレデリックと一緒に、あたりにつないであった舟に乗り、舟を揺さぶって波を荒だてる遊びに興じたと言う。「アルチュルは舟の中に腹ばいになって、波がだんだん静まって平らになるのを見ていた、彼の眼は食い入るように深い水にじっと注がれていた」(ドラエイ)ランボオはその時もうつぶやいていたのかもしれない。

 おお おれの龍骨よ 砕けろ おれは海へ行こう

 さて、さっきのケースの中の説明書に戻って言えば、ランボオが1871年3月から5月末にかけてのパリ・コミューヌに参加したのかどうか、その期間にパリにいたことがあるのかどうか、ということがよく問題になる。ケースの中の説明書も疑問を投げているわけである。しかし、はっきりわかっていることは──しかも重要なことは、ランボオがコミューヌを讃える『ジャンヌ・マリーの手』を書き、『再び賑わいに返えるパリ』『パリ戦争の歌』などにおいて、コミューヌを圧殺したティエールの輩を痛烈に罵倒し、風刺したことである。
『パリ・コミューヌ史』の著者で詩人のジョルジュ・ソリヤも、なぜコミューヌに関心を抱いたか、という一文のなかに、こう書いている。

 「……わが国のもっとも偉大な詩人であるアルチュル・ランボオは、このパリの春を「輝くばかりの美しさ」と歌い、血にまみれたコミューヌの終焉とともに、「この時代は崩れ去った」とつけ加えた。難破した一つの時代!「頭と二つの乳房を『未来』の方に向けた なかば死んだ首都パリ」の殉難!しかしそれはまた新しい世界の誕生の約束であった。コミューヌはわたしには一度にそれらすべてのもののように思われた……」
 はっきりしていることは、ランボオはパリ・コミューヌの時代の太陽のひかりの下で書いた詩人であり、また書くことをやめた詩人であるということだ。この反抗の天才はパリ・コミューヌのなかに、おのれの反抗を読みとって、これを讃美したのである。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

ムーズ河
ランボオ河岸にて


 とてつもない 至高のかけ

 ランボオ記念室の下の、アルデンヌの郷土資料館もまた独特のものであった。この地方で使われていた、むかしの鍛冶屋の、黒ぐろとした道具類が眼をひく。古いフイゴもある。十八世紀から十九世紀中頃まで、一日十五時間労働で、この鍛冶道具で釘などをつくった──と説明書きがしてある。それらはマニュファクチュアーという言葉に、汗の匂いと労働のひびきで肉付けしているもののように見えた。それから、大きくて重そうな鋤(すき)や、やはり重そうな木靴(サボ)などが、アルデンヌの野づらでの、つらい畑仕事をいまに物語っている。そうかと思うと、森のなかで小鳥やけものたちをとらえるワナやカスミ網に似た網仕掛けなどが陳列されており、その網を操作する絵図や、その網を使って森のなかで猟をしている風景を描いた油絵までが懸けてある。
 またこの地方の古い家具、調度品、陶器、皿、ランプのたぐいも並べてある。それらはいわば、フランスのこの辺境の地方において、人民が遠いむかしから、フイゴを動かして釘をたたき、木靴(サボ)をはいて畑を耕やし、小鳥をとったり狩りをして、一生懸命に生きてきた、その息づかいや、そのなかであげた陽気な歌声さえをも、いまに伝えているのである。ランボオの母親の実家も、この地方の小地主であって、ランボオじしんも時にはそこで畑仕事を手伝ったのだった……

 この資料室の上に、二十世紀のうえに大きな影を落した偉大な詩人アルチュール・ランボオの記念室はあった。黄色く色あせた詩人の写真や手紙や詩集などが、ケースに入れて陳列されていた。はかり知れない影響を詩の世界に与えつづけているランボオも、眼で見るその資料といえば、何ほどのこともない。それは当然のことだ。ランボオの偉大さ、その魅惑は、やはりかれの詩のなかにあるのだから……そのケースのひとつの、小さな説明書きがわたしの目をひいた。
 「一八七一年二月二十五日、ランボオは三度目のパリ行きをくわだて、首都の街まちをさまよったのち、徒歩で帰ってきた。かれはコミュ-ヌに参加するため、四月─五月、四度目のパリ行きを敢行したのだろうか?」
 帰えりしなに、博物館の受付の青年は、わたしのノートにつぎの言葉を記念に書いてくれた。(すばらしい達筆で。)
「ランボオは、シャルルヴィルの生んだ、とてつもない賭(かけ)である。
 だが、なんと至高の賭であろう」 
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

博物館
ランボオ博物館

ランボオ博物館

 公園を出ると紅(べに)すももの街路樹のならんだ通りが伸びている。紅すももはまだ植えたばかりの若木だが、赤茶色の葉っぱを夏の陽に輝かせている。あたりには、こんもりと繁った、紅すももの大樹も眼についた。どうやら、紅すももはこの寒い北国によく育つ樹木なのかも知れない。この通りを五百メートルも行って、右手に折れると、ほどなくランボオの生家があり、いまは本屋になっている。さらに百メートルほどゆくと、まんなかに銅像の立った、四角い小さな広場があって、ちょうど市(いち)が立っていて賑わっていた。広場をつっ切った正面に、朱色もあざやかな「ランボオ博物館」という看板が見える。近づいてみると、街通りはそこでムーズ河にぶつかっていて、河岸になっている。それまでムーズ川は家並みにかくれていたのだ。そしてランボオ博物館も、ムーズ川の中州の島にまたがって立っていた。十七世紀に建てられた、三階建ての石の家で、むかしは水車小屋であって、ランボオが少年の頃は、まだ水車が音をたてて廻わり、小麦粉をひいていたという。

 ランボオ博物館といっても、この建物の三階がそれであって、一階と二階はアルデンヌ地方の郷土資料館になっている。フランスではどの町にもこういう郷土資料館というのがあって、そこにその町や地方の生んだ詩人や芸術家の記念室を併設するのがならわしのようである。
 パリ北郊のサン・ドニにあるエリュアール記念館も、サン・ドニ郷土館のなかの一室にある。この郷土館は、パリ・コミューヌの資料を保管していることでも有名である。そのことが、はからずも。詩人と郷土とのむすびつきやかかわりあいを、無言のうちに、しかも具象的に、あるいは歴史的に、物語っていてもくれる。サン・ドニがどんな町か知らずに行っても、ここの郷土資料館にゆけば、「サン・ドニとパリ・コミューヌ」という小冊子を、エリュアールのカタローグや絵はがきといっしょに売っている。そこでこの町は、革命とゆかりのある労働者の町だということが、町のたたずまいとあわせて、よくのみこめるのである。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

ランボオ
ムーズ川に建つランボオ博物館

 この公園の北の入口近く、小さな四角い花園のなかに、ランボオの胸像が町の方に向かって台座のうえに置かれていた。台座には「酔いどれ船の詩人」と刻んであった。しかし、この胸像のランボオは髪も短かく刈りこんで、まるで優等生のような若者で、「酔いどれ船」の詩人にはふさわしくないように思われた。パリのモンパルナス通りの辻公園に立っていたロダンの迫力にみちた「寝まき姿のバルザック」像を見てきたばかりのわたしには、いっそうこの胸像のランボオが小さくあわれに見えた。アラゴンがシェイクスピアにも比すべき詩人だと言った、そのランボオが。──
 じつは、この胸像はいわくつきのものであった。最初は一九〇一年に建てられたが、第一次大戦中、ブロンズの胸像は溶かされて砲弾となり、一九二七年につくられた胸像もまた、第二次大戦で消えてしまい、現在の胸像は一九五四年に建てられたものである。ところで、一九二七年の胸像の除幕式に際しては、当時シュルレアリストであったアラゴン、エリュアールたちが胸像を建てたシャルルヴィルの町長やアルデンヌ詩人協會にあてて激烈な抗議文を書いたのだった。
 「あなた方は今日、ふたたびアルチュール・ランボオ記念像の除幕式をおこない、小さな地方的な祝典を催すということだ。残念なことに、あなた方の企てにはまたしても公的な容認が欠けている……
 あなた方は、愛国的熱狂に赴くには恐らく機会を誤ったことを認められるであろう。あなた方がいまほめ讃える男は、あなた方にむかって、ひたすら嫌悪の身ぶりをふりまき、憎悪の言葉を吐いた男であり、フランスのために死んだ作家の栄光とは全く相反する栄光をになうことになる男である。
 まことにあなた方は、ランボオとは何者であるかを知らない。彼の言葉から彼の正体を見られるがよい。

 <──おれの生まれた町は、田舎の小さな町のなかでもとびきり愚劣だ。こんな所に、おれはもう幻想も抱いていない。この町はメジェールのそばにあるからだ……町の通りを二、三百人の兵隊どもがぶらつき、あの殊勝ぶった町の連中が、メッスやストラスブールの攻囲された人たちとはちがって、勿体ぶった剣客気どりで、身ぶりよろしくまくしたてているからだ。退役軍人の乾物屋の親父が、ふたたび軍服を着込んでいるのには、ぞっとする!公証人、硝子屋、収税吏、指物師など、猫も杓子も、祖国は立てり!とばかりに、勇気りんりん、シャスポ銃を胸に、メジエールの城門でパトロールの真似をしているのは、素敵だ!だが、おれはじっと座った町の方が好きだ。長靴を動かすな!それがおれの信条だ>(一八七〇年八月十五日の手紙)……
 ランボオとは?……かれは酔っぱらった。喧嘩した。橋の下で寝た。虱(しらみ)にたかられた。……
 地上にもどこにも、かれはどんな希望も抱かず、あなた方のけっして知ることのないだろうあの恐るべき嫌悪(アンニュイ)のとりこになって、絶えず遠くへ出かけてゆくことばかりを夢みていた……」
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

ランボオ像

 この詩のとおり、木立やベゴニヤの花壇などでこぎれいな公園をつっきろうとすると、かたわらのベンチで休んでいた若い女と老婆が立ち上ってきて、「東洋(ロリヤン)からきたのか」とたずねる。「日本人だ」と答えると、両手にもった杖で身を支えていた老婆が「わたしも日本人です」という。そういわれてみれば、小柄な顔だちに日本人らしいところもなくはないが、尖ったワシ鼻や身ぶりなど、とても日本人とは見わけがつかない。聞けば、出身は東京で、イトオ・ヒロという名前で、娘がルージレールとかいう提督の息子と結婚したので、いっしょについてきて、この町に住みついてしまったのだという。もう九十歳になるとも言った。老婆は思いがけぬ日本人にめぐり会ったなつかしさを、小さなからだいっぱいに表現していた。逆にいえば、遠い異国にただひとり残された者の、それは口では言いあらわしえない孤独と寂寥をのぞかせていた……わたしもまたランボオの故郷で、帰化した日本婦人に出会おうとは夢にも思わなかった。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

音楽堂


ランボオの故郷シャルルヴィル

 一九七四年八月十六日
 パリの東駅(ガール・レスト)から、ランボオの生地シャルルヴィル──いまはシャルルヴィル・メッチエールと呼ばれている──へ向う。東駅(ガール・レスト)は、ギリシャ風なレリーフの正面(フロントン)をもった、がらんとした古い大きな建物である。およそ百年前、家出したランボオは無銭乗車でこの駅に着いたところを捕まって、マザスの牢獄へぶちこまれたのだった。そんなことを想いながら、わたしは古ぼけた急行に乗った。シャルルヴィルは、パリから急行で二時間半ほどの距離で、もうベルギーとの国境にちかい。パリをはなれると、なだらかで広い小麦畑、とうむろこし畑、ぶどう畑が、これまた広大な森とこもごもにつづく……部落や人家というものが、たいへん少ない。ひろいぶどう畑のうえに、ランスのカテドラルの尖塔がひょっこりと現われたりした。あたりはもうアルデンヌの野である。

 「風をはいた男」ランボオが、パリをめざしてかぜのように歩いた野である。そうして、普仏戦争や二回にわたる世界大戦で、激戦地となったところであり、第二次大戦ではドイツの機械化部隊は、ムーズ河を渡って、この美しい野に轍(わだち)の跡を刻み、パリに向けて怒涛の進撃をした。しかし、いまはそんな爪跡は見えない。ほとんど山も見えず、ときおり低いなだらかな丘が見えるばかり。川も濃いみどり色によどんだまま、流れるともなく、ゆっくりと流れている。ときおり、岸べや舟で、釣り糸を垂れているひとが見える。

 シャルルヴィルの駅は、アルデンヌ県の県庁所在地にしては貧弱な印象を与える小さな駅だ。駅前には、小さな音楽堂のある小さな辻公園があった。ランボオが『音楽堂で』という詩で歌った、その辻公園そのままである。

   音楽堂で
          シャルルヴィル駅前広場

  木立も花も みんな こぎれいな辻公園
  見すぼらしい芝生をあしらった 広場のうえ
  毎木曜日の夕ぐれ 暑さにうだったブルジョワどもが
  喘(あ)えぎ喘(あ)えぎ 愚劣さを大事にかかえてやってくる

  公園のまんなかでは 軍楽隊が 軍帽を振りふり
  「横笛のワルツ」などを かなでている
  そのまわり いちばん前には きざな洒落者が陣どり
  公証人は 頭文字のついた鎖などをぶらさげている

  鼻めがねをかけた金利生活者(くらし)は 調子っぱずれの音楽に聞き入り
  でっぷり ふとった役人は でぶっちょの細君と連れ立ち
  そのわきを おせっかいな案内人たちが歩いてゆく
  細君たちの裾飾りは 広告のように あでやかだ

  緑のベンチのうえには、乾物屋の隠居どもが集まり
  握りのついたステッキで 砂地をかきたてながら
  ひどく大まじめに 講和条約などを論じ合っている
  銀の嗅(か)ぎたばこ入れを嗅(か)いでは また始める「つまり……」

  はでなボタンを飾りつけ フラマン風な太鼓腹をした
  ブルジョワがひとり 丸い尻をどっかとベンチに据えて
  こぼれるばかり 煙草をつめたパイプをふかしている
  ──おわかりかな これは 密輸入ものですぜ!

  緑の芝生のふちでは ちんぴらどもがひやかし笑い
  トロンボーンの歌をきいて 恋ごころをあふられた
  うぶな兵隊どもは ばらの香りを吸いながら
  子守女をくどこうと 赤ん坊らをあやしている

  ──おれはといえば 学生のようにだらしない身なりで
  緑のマロニエの下で すばしっこい小娘たちを追い廻す
  彼女たちはそれを承知で 笑いながら振り返える
  いたずらっぽい 色気たっぷりのながし目で

  おれは ものも言わずに じっと見つめるのだ
  みだれ髪のしたにのぞいた 白いうなじを
  彼女たちの胴着や うすい衣装のしたの
  まるい肩から みごとな背なかを 目で追うのだ

  おれはすばやく 小さな靴や靴下まで見ねまわし
  美しい熱の燃えるからだを 胸に思い描いてみる
  彼女たちは おかしな男と思って ささやき合い
  おれの激しい欲望はもう 彼女らの唇に吸いついて離れない……

 少し長く引用したが、それはランボオが自分の町のブルジョワたちを描いているそのレアリズムと、彼の反抗の精神をちょっとばかし思い出すためである。
(つづく)

(自筆原稿)

(「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

シャルルヴィル


アヴィニヨン

 
 十一月二十三日 きのうアヴィニヨンにつき法王庁宮殿や有名なアヴィニヨンの橋を見て歩きました。河畔の鈴かけの林が紅葉して絵のように美しい。だいぶ寒くなってきた。あすパリに向います。
 エルザの町で  博光

大島静江、秋光、美枝子、のんちさま

    AVIGNON GARE 23-11-78

アヴィニヨン
 ペール・ラシェーズの墓地

 墓地の高い塀(へい)はツタにおおわれ、鉄の門も高くりっぱなものであった。一八七一年五月二十八日、パリ・コミューヌの「血の週間」の最後の日、この鉄の門も砲撃されたのだ。コミューヌ戦士たち──連盟兵(フェデレ)たちは、墓のあいだで、ヴェルサイユ軍と白兵戦を演じながら、東南のすみの壁ぎわに追いつめられ、そこで全員、銃殺されたのだった……正門からはいってゆくわたしも、ちょうど連盟兵たちのように、墓石のあいだを縫って、最後の壁までのぼってゆくことになる。そこには詩人ミュッセが墓碑銘どおり柳の木の下で眠っていたり、皮肉なことに、コミューヌの残虐な圧殺者ティエールも豪奢(ごうしゃ)な墓におさまっているのだ。
 壁の近くにくると、右手に、ひときわ高く、ブロンズのやせさらばえた群像のモニュマンが、異様な迫力でせまってくる。その下の墓石には「ナチの収容所で倒れた十万の死者たちに」と刻まれている。
 そのとなりの「若者たちに」ささげられたモニュマンには、つぎのような墓碑銘がきざまれていた。「人間はどのように倒れるべきか、そして人間は、勇気と献身によって、どのように人間の名をまもりつづけたか──ねがわくば永遠にこの墓がそれを告げ知らせてくれるように。アラゴン」
 それから、あのシャトーブリアンとモン・バレリアンの殉難者にささげられた墓碑があり、アウシュビッツの死者たちをとむらう記念碑があった……
 ここには、あのレジスタンスの殉難者たちがとむらわれ、レジスタンスの歴史が眠っているのである。
 これらの墓碑につづいて、偉大な名前が並んでいた。「ジャン・リシャール・ブロック──小説家にして詩人」という墓石には、つぎのようなブロック自身のことばが刻まれていた。
 「ああ、作家のインキは、それが血と涙にまみれ、まじりあってこそ、不滅の価値をもつ。一九四三年のラジオ放送より」
 そしてポール・バイヤン・クーチュリエ(ユマニテ編集長、作家)の墓があり、そのとなりに「自由」の詩人エリュアールが眠っており、そのまたとなりに、フランス共産党書記長モーリス・トレーズの黒大理石の墓があった……。
 エリュアールの墓には、バラの枝が、墓石を抱くかのように伸びていて、その前に造花のスミレが供えられていた。わたしはたずさえてきた花束を、エリュアールとトレーズの墓にささげた。さーっとしぐれのような通り雨がさわやかに降って過ぎた。そこへ、老母と中年の労働者夫婦らしい一家がやってきてキクのはちをトレーズの墓にささげた。わたしたちは「カマラード」というあいさつをかわしてきわめて自然に握手した。

「連盟兵の壁」と「さくらんぼの頃」

 「連盟兵(フェデレ)の壁」はこれらの墓の列に向かいあうようにして、道をへだてて、ややそのななめ前にあった。壁の下の芝生のなかに、デージーの花が小さな星のように咲いているのが印象的だった。日本に咲くデージーよりはずっと小さい、かわいい花だった。この一郭の壁だけは、あたりの新しく作り直された、りっぱな壁とはちがって、むかしのままの壁らしく、いかにも古めかしく積みあげた煉瓦がむきだしに見えたり、ところどころ、銃弾のあとらしい不気味な穴も見えるのであった。その壁に「一八七一年五月二十一日~二十八日のコミューンの死者たちにささげる」と刻まれた、蒼然とした銅版がかかっていた。年々、コミューヌの戦士たちを偲ぶ記念祭が、この壁の前でとり行われるのである。一八八七年、ジュール・ジゥイはつぎの詩をささげている。

  茫々としてひろい墓地の奥
  みどりの草の 寝藁の下に
  蛆虫どもに 喰いちらされて
  銃殺された人たちは眠る
  並んだ旗と 花輪が
  壁に残った弾丸痕(たまあと)をかくし
  連盟兵たちが最後に隠れた
  この不吉な壁を 飾る

  祭壇も 蒼いステンドグラスもなく
  十字架も黄金の百合もない墓
  人民は 語り草にするとき
   ここを壁と呼ぶ

  歩兵 騎兵 砲兵どもが
  あの気高い戦士たちを追いつめ
  銃殺者どもの 巣穴のなかに
  追い込んだのが ここだ
  鹿を追いつめた合図のラッパが
  森じゅうに ひびきわたり
  英雄的な抵抗もむなしく 鹿が
  犬どもの前に仆れたのが ここだ

  ……
  殺し屋よ 未来がお前らを苛(さいな)む
  反抗者たちは 地上に戻ってくる
  屍の ひとつひとつから
  思い出の 青草が 伸びる
  ……
  (新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』一九二ページ)

 この壁のすぐ前、スズカケの大樹の下には、なんと雨風にうたれて墓石の文字もうすれ、やっとそれと読める、詩人ジャン・バティスト・クレマンの墓があるではないか。そのとなりには、やはりコミューヌのために英雄的にたたかって仆れた、ロシヤ出身の将軍ドンブラフスキイの墓もある。「思い出の青草が伸びる……」そうだ、このコミューヌ戦士たちの墓の前に、あのレジスタンスの英雄たちのモニュマンや墓が立っているとは、なんと象徴的なことだろう……
 さて、クレマンこそは、コミューヌの頃、パリじゅうで歌われた「さくらんぼの頃」の作者であって、このシャンソンはいまもよく歌われている。

  さくらんぼの 熟れる頃は
  陽気な鶯や 口の悪い鶫(つぐみ)が
   うきうき浮かれて歌い出す
  娘たちも ぽっと のぼせて
  恋する男の胸も ぱっと明るい
  さくらんぼの 熟れる頃は
  口の悪い鶫が よく歌う

  だが さくらんぼの頃は 短いよ
  二人で夢みながら 摘みにゆく
   滴(したたる)る血のように 木の下に
  おんなじ色して 落ちてくる
  耳環のような 恋のさくらんぼ
  だが さくらんぼの頃は 短いよ
  夢みごこちで 珊瑚の耳環を摘むよ

  ……
  さくらんぼの頃が 忘られぬ
  おれのこころにゃ あの頃の
   深い傷手(いたで)が なおうずく
  「幸運」の女神に 出会おうと
  わが苦しみは いやされぬ
  さくらんぼの頃が 忘られぬ
  あの思い出は 消えやらぬ
    (新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』一九二ページ)
 まことにパリ・コミューンは、短くてむごい春であり、さくらんぼの熟れるころだった。
 いつかもう夕ぐれていた。フランス人民のずっしりと重いたたかいの歴史に心ゆすぶられながら、わたしは帰路についた。裏門のあたりで、門衛が、ピピー、ピピーと笛を吹き鳴らしていた。門限の時刻がきていたのである。


(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

ナチ殉難者
ナチ殉難者の像

コロネル・ファビアン広場

 一九七四年八月十三日
 パリの東北部、ビュット・ショーモンの丘に通ずるだらだら坂を、コロネル・ファビアン広場をめざしてのぼって行った。──広場の一角にあるフランス共産党本部をおとずれ、それからペール・ラシェーズの墓地へまわるためである。
 ところで、パリほど歴史のモニュマン(記念物)や思い出にみちている都市(まち)はない。大革命やパリ・コミューヌ、それに新たに第二次大戦中の対独レジスタンスのモニュマンや思い出が加えられることになった。なんといっても石の町なので、モニュマンが残りやすい、という点もあろうが、市民が積極的にモニュマンや思い出を大事にすると同時に、「天をも衝くパリ労働者」(マルクス)の革命的伝統がものをいってるのにちがいない。その革命的市民にぞくする英雄たちの名前が、町通りや広場に与えられているのには、驚くばかりだ。『責め苦のなかで歌ったもののバラード』(アラゴン)によってひろく知られるようになった、あのガブリエル・ペリは、パリ北部サン・ドニの町通りにその名をとどめている。コロネル・ファビアン広場もそのひとつなのだ。
 レジスタンスの英雄ファビアン大佐ことピエール・ジョルジュは、この広場から始まるヴィレット大通り一〇九番地に生まれた。若くしてフランス共産党員となり、スペイン戦争の折には、十七歳で、有名な国際義勇旅団に参加して戦った。
 対独レジスタンスが始まると、かれは武装した青年学生グループを組織し、指導する。一九四二年八月二十一日の白昼、地下鉄バルベ駅で、かれはドイツ軍将校をピストルで射殺した。この銃声こそ、レジスタンスにおいて銃撃戦が開始される最初の合図となった。のちにロレーヌ戦線で戦死したとき、かれはまだ二十六歳だった。エリュアールはかれの思い出に『人間の尺度で』という詩を書いた。

  ・・・
  かれの愛は
  太陽のために戦ったスペインに
  ささげられた
  かれの愛は
  危険な道にみち
  かわいい子供たちにみちた
  パリ地区にささげられた
  そうして極悪の兵隊どもにたいして
  ぞっとするような死にたいして
  かれが加えた最初の襲撃は
  不幸なひとたちのくらやみを照らす
  最初のひかりとなった
  ・・・

 こうしてコロネル・ファビアンは、パリの広場のひとつに、そしてエリュアールの詩のなかに、その名と思い出を残すことになった・・・
 やはりゆるい斜面の小さな広場のまんなかには、マロニエか何かの大樹が一本立っていて、ゆたかな蔭を落していた。広場のとっつきのところのカフェに、日本の若者が三人坐っていた。ひとりは文学を、ひとりは陶芸を、ひとりは絵画を勉強していると言い、この近くにペンキ塗りのアルバイトに来ているところだ、と言っていた。
 共産党本部は、広場に面して、まだ工事中の高い板べいの向こうに建っていた。
灰色のガラス張りで、弓型の湾曲線を強調した、流線型のモダンな、七階建てのビルディングであった。受付は飾りのない、むきだしのコンクリートのだだっ広い地下の廊下にあって、夏休みのせいか、出入りする人の影もなかった。かたわらのガラスのケースのなかには、新刊の党関係の出版物が並べられており、そのなかにアラゴンの『レ・コミュニスト』も見えた。そのアラゴンもバカンスで、アヴィニョンの方に行っているということであった。
 それから、ヴィレット通りをくだって、わたしたちはペール・ラシェーズへと歩いて行った。
 大通りの中央には亭々とそびえた三列もの街路樹が並んでいて、その木かげに市がひらかれていた。ちょうど花屋もあったので、花束を三つ買った。

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

共産党本部
フランス共産党本部


 アヴィニヨン ─ エルザの町
                 
  城壁のなかの アヴィニヨンのように
  きみを腕のなかに抱いて 十八年
  香ぐわしい たった一日のような十八年
  わたしの愛は しっかりときみを守ってきた
  秋はもう あたりの茂みを紅葉に飾り
  こがねの枝の下に 冬は早くも しのびよる
  だが冬も わが愛するひとに 何ができよう
  われらのなかに すばらしいささやきの残るかぎり
  火が消えたときにも 煙りが立ちのぼり
  夜のなかにも 桑の実のほろ苦い味の残るかぎり
                   アラゴン

 一九七八年十一月二十三日
 コリウールを発って、地中海沿いに、美しい南仏のラングドック地方の、海と沼のあいだを走って、アヴィニヨンに向う。小春日和のやわらかい陽ざしが明るい。スペインのカスチリヤの砂漠や荒野にくらべると、このあたりは、はてしない海べの庭園のように美しい。
 アヴィニヨンの駅に降り立つと、眼の前に城門がそびえ、古い高い城壁が左右につづいている。プラタナスの街路樹が黄色い葉むれを晩秋の陽にかがやかせている。──さながら、中世騎士道物語の映画の舞台を連想させるような風景だが、城壁の下をゆくのは馬に乗った騎士たちではなく、やはり自動車(くるま)の流れである。
 わたしたちは法王宮殿の近くのホテルに宿をとった。やはり鈴懸けの大樹をめぐらした、四角い広場があって、広場に面して市役所や小さな公会堂や、またレストランやホテルがならんでいる。ふと市役所をのぞくと、入口の広間の正面に「一九四〇年~一九五五年の殉難者たちと国外に連れ去られた人たちの記念に」というレジスタンスの銅版が、小さな三色旗に飾られて、かかっていた。公会堂ではちょうどべ-トーベンの第九交響曲の演奏会がひらかれていた。
 夕ぐれになると、盛装した家族連れや老夫婦などが、腕を組んで散歩をたのしんでいる……そういえば、エルザ・トリオレの『アヴィニヨンの恋人たち』を思い出さないわけにはいかなかった。この町のどこかの壁には、「ここでペトラルカはローラのためにこよなき愛をはぐくみ歌い、その歌ゆえに彼らは不滅となった」と刻んであるという。そしてエルザはつづけて書いている。「この町は、かずかずの伝説で織りなされている。毎日、ここでは伝説の糸が一本そこに織り込まれる。ここではめいめいがペトラルカであり、ひとりひとりの女がローラなのだ……この恋の町、この神秘で粋(いき)な町の通りには、なんと多くの不滅の夫婦たちがいることか……」
 十四世紀に建てられたという法王宮殿は、ちよっと小高いところに、石だたみを敷きつめた広場を前にして、ひとを威圧せずにはおかぬといった風に、灰色に、厳(いか)めしく聳え立っていた。中に入ってみると、もう調度品もない裸かの大きな部屋がいくつかあり、法王のいろいろの儀式が行われたという大広間は、右手の棟の二階にあった。ここに法王廳が置かれた十四世紀の威容はもう想像するほかはない。
 宮殿の横手はさらに小高い岩山の公園になっていて、すぐ下に「アヴィニヨンの橋で輪になって踊る」という歌で有名な聖ベネゼの橋が、ひろいローヌ河のまんなかで、ぽつんと折れたままに横たわっているのが見える。まるで腕を半分切り落とされたまま、その腕を伸ばしているひとのようだ。この橋は十三世紀に造られたが、十七世紀に洪水で流されて、半分だけが残ったのだという。その向うの川の中に大きな島があって、島に生い茂ったポプラか何かの林が、いちめん明るい茶色に紅葉して輝やいていた。そのまた向こうの高みにヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニヨンの村が見え、聖アンドレ要塞が秋の陽のなかに煙っていた……その村に、一九四〇年、アラゴンとエルザは隠れ住んで、レジスタンスをたたかったのだった。のちにアラゴンは『アヴィニヨン』を歌い、『溺死者たち』を書く。

   溺死者たち

  わたしのこころの中は この町の風情にそっくりだ
  どこからともない すさまじい風が吹き荒れている
  おお 流れに浮かぶ溺死者たち きみらを島々が愛撫する
  きみらは 見知らぬ 長い夢に沿って くだってゆく
  土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれて きみらは急ぐ
  はるか遠いアリスカンの 約束の憩いの場所へ
  英雄たちが眠り 死者たちも宿をとる ところ
  とある夕べ ひとはみんな そこにたどり着く
  だが 星ちりばめた空に 何も見えぬ眼を向け
  さまざまな身の上話を抱いて 岸べを離れると
  きみらは 仰向けに 橋のしたを流れてゆく
  流れが掠(かす)める 白い宮殿も きみらには見えない
  さあ アルルが待っているから 急ぎたまえ もう遅いのだ

  きみらは向うの 名もない墓石の下で泣くだろう
  ここでは 夜どおし ギターがかなで
  わたしの愛は アヴィニヨンに似て はてしない
     (飯塚書店『アラゴン選集』第二巻二一三ページ)

 これは、第二次大戦下にくりひろげられた、壮烈な光景のひとつをうたったものである、この溺死者たちとは、むろん、ナチス・ドイツ軍とたたかって虐殺され、ローヌ川に投げこまれた人たちでなければならない。だからこそ、「島々が愛撫」し、「土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれ」るのである。アヴィニヨンのあたり、ローヌ川はひろい大河であって、前にも書いたように、川の中には大きな島々がある。「流れが掠める 白い宮殿」も、むろん法王宮殿を指している。そうしてそれらの溺死者たちは、やがて下流のアルル郊外のアリスカン墓地の「名もない墓石の下」に葬られることになる……

(完成原稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)


アヴィニヨン橋
アヴィニヨンの橋を望んで

パリの赤い街区をゆく 旅のノートから
                          大島博光(詩人)

 やっぱり、運命はわたしをパリの赤い街区へと運んだ。わたしに与えられた宿は、パリ十区のコロネル・ファビアン広場に近い、ヴィレット大通り。レジスタンスの時代、地下鉄のソルフェリーノ駅でピストルでナチのドイツ軍将校を射殺して、最初の武装闘争の火ぶたを切った英雄が、共産党員コロネル・ファビアンである。彼の名前が、彼の生まれたこのヴイレット大通りの小さな広場に与えられでいるのである。
 この広場に面して、黒いガラス張りのフランス共産党本部のモダンなビルが立っている。数年前にここを訪れたときには、広場に面して羽目板の柵をめぐらしてまだエ事中であったが、こんど見て驚いたことに、本部の前の広い芝生のなかに、直径十㍍ほどもあるコンクリートの丸いドームが、ちょうど大きなお椀(わん)をふせたように盛り上がっている。新しい抽象的構図の庭園設計かと思ったら、このドームの下が地下の会議室となっているらしい。

 ゾラの「居酒屋」の舞台で

 ヴィレット大通りには、左石三つの車道のあいだに、二列のマロニエの街路樹を並べた広い分離帯があって、その街路樹のあいだに八百屋や肉屋の市がならんだり、駐車場になったりしている。
 広場から見て右側の歩道に、また一列、にせアカシアの街路樹がつづいている。広場からベルヴィルの方へくだっていくにつれて、街の汚れや、ぼろとまではゆかなくとも、汚い脹を着た人たちが目につく。それから左側の奥の方が、ゾラの「居酒屋」の舞台で知られるメニルモンタンである。それから、ペールラシェーズの墓地の方に近づくと、また街はきれいになってゆく。こんな街を、子どものファビアンは遊びまわったのにちがいない。
 ファビアン広場から、共産党本部の前のなだらかな坂道をのぼってゆくと、ほどなくビュット・ショーモン公園の前に出る。あたりの壁には、さすがに地元らしく、赤地に白の共産党のビラがはってある。
 「物価値上げ反対の統一行動を共産党とともに!」「政治の流れを変えるために より強大な共産党を──入党されよ」
 まるで、そのまま日本共産党のビラを読んでいるような気がする……。
 また、九月十三日、十四日にパリ北郊ラ・クールヌーヴでひらかれるユマニテ祭のビラもはってあり、「真実をもとめて、わたしはユマニテを読む」というポスターも見られる。
 ビュット・ショーモン公園にはいると、とっつきの築山の黒松とひいらぎの陰にクローヴィス・ユグの小さな胸像が立っているのに気がつく。ユグはバリ・コミューンの詩人で、ペール・ラシェーズの「連盟兵の壁」のまえで、ベルサイユ軍とブルジョアジーがコミューンの戦士を虐殺した事件を告発しつづけた。そしてこのビュット・ショーモンの丘でも、当時、巨大な火葬場がつくられて、コミューン戦士や市民の死体を幾日も焼き続けたということだ。
                 
 ジョギング姿に見とれて…

 丘の下に、ちょうど井の頭公園の池の半分くらいの池がある。何人もの老若男女が、いま流行のジョギングというか、マラソンというか、をやっている。若い美しいパリ娘が、二、三人ならんで大きな乳房をブルンブルンとゆさぶりながら、足どりも軽やかに、踊るように走っている。思わず見とれてしまうほどだ。
 この池で数人の釣り師が、鯉釣りをしている。リールで投げ込んだ浮き釣りで、釣針にはパンをまるめたのや、ジャガイモの角切りを使っている。
 四十センチほどのが一尾釣れたが、あまり釣れないらしい。魚影が少いからだ。水が澄んでいて泳いでいる鯉が見える。全部の鯉を数えても数十尾はいないだろう。こんなに自由に釣り上げても稚魚を放流することはしないらしい。わが多摩川の魚影の濃い釣り場を思うことしきりである……。
 (一九八〇年八月十二日 記、大島さんはパリ滞在中)

<『赤旗』 1980年8月>

パリ

コロネル・ファビアン広場から見たフランス共産党本部

パリ

ビュット・ショーモン公園の池
エリュアールの生地 サン・ドニ(下)

 さて、エリュアールはこの労働者の街サン・ドニに生まれた。父親のクレマン・コジェヌ・グランデルはノルマンディの農民の出で、はじめ会計事務員であったが、のちにはパリに出て不動産屋をいとなむ。かれはまた社会主義的な思想と精神の持ち主で、無宗教でもあった。父親はノルマンディ出ではあったが、エリュアール自身は、パリ市内の労働者街で育ったパリ市民である。一九四七年、五二才のエリュアールはきわめて謙虚に書いている。

 もう ずいぶんと遠い きのうのこと
 わたしは 鎖をつけたまま 生まれた
 わたしは 敗北として 生まれた

 それほど 遠くない きのうのこと
 わたしは 貧乏で心やさしい家族の
 顛える 腕のなかに 生まれた
 生まれながらに 手には何んにもなかった

 みんなひそひそ話して そっとうなずいた
 わたしの家族は だれの記憶にも残っていない
 なんの余映(はえ)もない 影のような人民から生まれた
・・・

 ところで、エリュアールの墓はぺール・ラシェーズの墓地にある。べつの日、わたしは、エリュアールの墓と「連盟兵の壁」に花束をささげに行った。
 エリュアールの墓は、道をへだてて、この壁の前にあった。三十年前の対独レジスタンスの殉難者たち、コロネル・ファビアン、ピエル・タンボー、ギイ・モッケなどの名の刻まれた墓碑とならび、アンリ・バルビュスやジャン・リッシャール・ブロックとならんで、「自由」と愛の詩人は、伸びたバラの枝かげに眠っていた。造花のスミレが一束、供えられていた。わたしはつぎのようなエリュアールの詩を思い出した。

 夜明けは 青年にも老年にもいいものだ
 ということを疑わずに生きた男 ここに眠る
 死ぬとき かれは 生れることを考えた
 なぜなら 太陽はまた のぼってきたから

 この墓碑銘を、かれはみずからのために書いたにちがいない。
 アラゴンやエリュアールなどの、フランスのシュルレアリストたちはどうして共産党員になったのだろう、という素朴な疑問を、わたしは以前からいだいていた。「赤い町」サン・ドニから、ペール・ラシェーズの赤い壁の前を訪れてみると、わたしの疑問の一半はおのずと解かれたような気がした。
(この項おわり)

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>
エリュアールの生地 サン・ドニ(中)

 サン・ドニの博物館(郷土資料館)に入ると、受付のところで、絵はがきやエリュアールのカタローグといっしょに、『パリ・コミューヌ』という本を売っていた。これは、一九七一年、ここでひらかれたパリ・コミューヌ百周年記念展覧会に出品された、コミューヌの頃のビラ、デッサン、版画、その他の資料を編集したものである。絵はがきのなかにも、やはりその頃のサン・ドニ風景で、洗濯工場の女たちを描いた油絵をうつしたものがあった。それはゾラの『ナナ』の一場面を思い出させもする。
 エリュアールの原稿や写真やその他の資料は、二階の奥の二つの部屋にならべられており、いちばん奥の小さな部屋は、エリュアールの書斎を再現していた。壁にはピカソの「鳩」が飾られ、ボードレールの小さな胸像の置かれている本だなには、ほかの本にまじって、大佛次郎の『パリ燃ゆ』二巻がならんでいて、わたしを驚かせたり、なつかしがらせたりした。『パリ燃ゆ』を書くための資料しらべのため、大佛次郎はたしか一九六一年に、この博物館を訪れているのである。おそらく、そのとき世話になった返礼に、『パリ燃ゆ』二巻がここに寄贈され、博物館の側では置く適当な場所もなく、エリュアールの本棚にならべたのでもあろう・・・

 エリュアールの資料のなかでは、もう黄色くなった一枚の記念写真が、わたしの興味をひいた。それは一九二一年、パリのサン・ジュリアン・ル・ポーブルの空き地でおこなわれたダダのデモンストレーションの時の写真で、エリュアール、ブルトン、アラゴン、スーポーなど当時の「文学」誌同人の面々が写っている。これらの若き反抗者たちは、ステッキやこうもり傘などをもって、なかなかのダンディとして写っている。アラゴンはその頃のことをつぎのように書いている。

 その怒りを 石膏の神神と銅像の影にむかって
 投げつけていた 新しいドン・キホーテたち
 わたしたちは 奇怪な美徳を罵倒するために
 あの時代が呼び集め よせ集めた一群だった

 わたしたちは 不幸のはけぐちを呪文にたくして
 とことんまで 世の中の灰汁(あく)とたたかった
 だがわたしたちは ののしりあざける叫びのほかは
 道徳も目的もない 作り話のたぐいに耽っていたのだ

 わたしたち自身の歌に 禁止宣言を投げつけて
 わたしたちは 呪いのストライキをくわだてた
 わたしたちはその物語をこまごまと語ることもできよう
 サン・ジュリアン・ル・ポーブルの事やその喜劇などを
    (飯塚書店『アラゴン選集』第三巻二七ページ)
(つづく)

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>