フランス紀行 France Travelogue

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


アヴィニヨン

 
 十一月二十三日 きのうアヴィニヨンにつき法王庁宮殿や有名なアヴィニヨンの橋を見て歩きました。河畔の鈴かけの林が紅葉して絵のように美しい。だいぶ寒くなってきた。あすパリに向います。
 エルザの町で  博光

大島静江、秋光、美枝子、のんちさま

    AVIGNON GARE 23-11-78

アヴィニヨン
 ペール・ラシェーズの墓地

 墓地の高い塀(へい)はツタにおおわれ、鉄の門も高くりっぱなものであった。一八七一年五月二十八日、パリ・コミューヌの「血の週間」の最後の日、この鉄の門も砲撃されたのだ。コミューヌ戦士たち──連盟兵(フェデレ)たちは、墓のあいだで、ヴェルサイユ軍と白兵戦を演じながら、東南のすみの壁ぎわに追いつめられ、そこで全員、銃殺されたのだった……正門からはいってゆくわたしも、ちょうど連盟兵たちのように、墓石のあいだを縫って、最後の壁までのぼってゆくことになる。そこには詩人ミュッセが墓碑銘どおり柳の木の下で眠っていたり、皮肉なことに、コミューヌの残虐な圧殺者ティエールも豪奢(ごうしゃ)な墓におさまっているのだ。
 壁の近くにくると、右手に、ひときわ高く、ブロンズのやせさらばえた群像のモニュマンが、異様な迫力でせまってくる。その下の墓石には「ナチの収容所で倒れた十万の死者たちに」と刻まれている。
 そのとなりの「若者たちに」ささげられたモニュマンには、つぎのような墓碑銘がきざまれていた。「人間はどのように倒れるべきか、そして人間は、勇気と献身によって、どのように人間の名をまもりつづけたか──ねがわくば永遠にこの墓がそれを告げ知らせてくれるように。アラゴン」
 それから、あのシャトーブリアンとモン・バレリアンの殉難者にささげられた墓碑があり、アウシュビッツの死者たちをとむらう記念碑があった……
 ここには、あのレジスタンスの殉難者たちがとむらわれ、レジスタンスの歴史が眠っているのである。
 これらの墓碑につづいて、偉大な名前が並んでいた。「ジャン・リシャール・ブロック──小説家にして詩人」という墓石には、つぎのようなブロック自身のことばが刻まれていた。
 「ああ、作家のインキは、それが血と涙にまみれ、まじりあってこそ、不滅の価値をもつ。一九四三年のラジオ放送より」
 そしてポール・バイヤン・クーチュリエ(ユマニテ編集長、作家)の墓があり、そのとなりに「自由」の詩人エリュアールが眠っており、そのまたとなりに、フランス共産党書記長モーリス・トレーズの黒大理石の墓があった……。
 エリュアールの墓には、バラの枝が、墓石を抱くかのように伸びていて、その前に造花のスミレが供えられていた。わたしはたずさえてきた花束を、エリュアールとトレーズの墓にささげた。さーっとしぐれのような通り雨がさわやかに降って過ぎた。そこへ、老母と中年の労働者夫婦らしい一家がやってきてキクのはちをトレーズの墓にささげた。わたしたちは「カマラード」というあいさつをかわしてきわめて自然に握手した。

「連盟兵の壁」と「さくらんぼの頃」

 「連盟兵(フェデレ)の壁」はこれらの墓の列に向かいあうようにして、道をへだてて、ややそのななめ前にあった。壁の下の芝生のなかに、デージーの花が小さな星のように咲いているのが印象的だった。日本に咲くデージーよりはずっと小さい、かわいい花だった。この一郭の壁だけは、あたりの新しく作り直された、りっぱな壁とはちがって、むかしのままの壁らしく、いかにも古めかしく積みあげた煉瓦がむきだしに見えたり、ところどころ、銃弾のあとらしい不気味な穴も見えるのであった。その壁に「一八七一年五月二十一日~二十八日のコミューンの死者たちにささげる」と刻まれた、蒼然とした銅版がかかっていた。年々、コミューヌの戦士たちを偲ぶ記念祭が、この壁の前でとり行われるのである。一八八七年、ジュール・ジゥイはつぎの詩をささげている。

  茫々としてひろい墓地の奥
  みどりの草の 寝藁の下に
  蛆虫どもに 喰いちらされて
  銃殺された人たちは眠る
  並んだ旗と 花輪が
  壁に残った弾丸痕(たまあと)をかくし
  連盟兵たちが最後に隠れた
  この不吉な壁を 飾る

  祭壇も 蒼いステンドグラスもなく
  十字架も黄金の百合もない墓
  人民は 語り草にするとき
   ここを壁と呼ぶ

  歩兵 騎兵 砲兵どもが
  あの気高い戦士たちを追いつめ
  銃殺者どもの 巣穴のなかに
  追い込んだのが ここだ
  鹿を追いつめた合図のラッパが
  森じゅうに ひびきわたり
  英雄的な抵抗もむなしく 鹿が
  犬どもの前に仆れたのが ここだ

  ……
  殺し屋よ 未来がお前らを苛(さいな)む
  反抗者たちは 地上に戻ってくる
  屍の ひとつひとつから
  思い出の 青草が 伸びる
  ……
  (新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』一九二ページ)

 この壁のすぐ前、スズカケの大樹の下には、なんと雨風にうたれて墓石の文字もうすれ、やっとそれと読める、詩人ジャン・バティスト・クレマンの墓があるではないか。そのとなりには、やはりコミューヌのために英雄的にたたかって仆れた、ロシヤ出身の将軍ドンブラフスキイの墓もある。「思い出の青草が伸びる……」そうだ、このコミューヌ戦士たちの墓の前に、あのレジスタンスの英雄たちのモニュマンや墓が立っているとは、なんと象徴的なことだろう……
 さて、クレマンこそは、コミューヌの頃、パリじゅうで歌われた「さくらんぼの頃」の作者であって、このシャンソンはいまもよく歌われている。

  さくらんぼの 熟れる頃は
  陽気な鶯や 口の悪い鶫(つぐみ)が
   うきうき浮かれて歌い出す
  娘たちも ぽっと のぼせて
  恋する男の胸も ぱっと明るい
  さくらんぼの 熟れる頃は
  口の悪い鶫が よく歌う

  だが さくらんぼの頃は 短いよ
  二人で夢みながら 摘みにゆく
   滴(したたる)る血のように 木の下に
  おんなじ色して 落ちてくる
  耳環のような 恋のさくらんぼ
  だが さくらんぼの頃は 短いよ
  夢みごこちで 珊瑚の耳環を摘むよ

  ……
  さくらんぼの頃が 忘られぬ
  おれのこころにゃ あの頃の
   深い傷手(いたで)が なおうずく
  「幸運」の女神に 出会おうと
  わが苦しみは いやされぬ
  さくらんぼの頃が 忘られぬ
  あの思い出は 消えやらぬ
    (新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』一九二ページ)
 まことにパリ・コミューンは、短くてむごい春であり、さくらんぼの熟れるころだった。
 いつかもう夕ぐれていた。フランス人民のずっしりと重いたたかいの歴史に心ゆすぶられながら、わたしは帰路についた。裏門のあたりで、門衛が、ピピー、ピピーと笛を吹き鳴らしていた。門限の時刻がきていたのである。


(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

ナチ殉難者
ナチ殉難者の像

コロネル・ファビアン広場

 一九七四年八月十三日
 パリの東北部、ビュット・ショーモンの丘に通ずるだらだら坂を、コロネル・ファビアン広場をめざしてのぼって行った。──広場の一角にあるフランス共産党本部をおとずれ、それからペール・ラシェーズの墓地へまわるためである。
 ところで、パリほど歴史のモニュマン(記念物)や思い出にみちている都市(まち)はない。大革命やパリ・コミューヌ、それに新たに第二次大戦中の対独レジスタンスのモニュマンや思い出が加えられることになった。なんといっても石の町なので、モニュマンが残りやすい、という点もあろうが、市民が積極的にモニュマンや思い出を大事にすると同時に、「天をも衝くパリ労働者」(マルクス)の革命的伝統がものをいってるのにちがいない。その革命的市民にぞくする英雄たちの名前が、町通りや広場に与えられているのには、驚くばかりだ。『責め苦のなかで歌ったもののバラード』(アラゴン)によってひろく知られるようになった、あのガブリエル・ペリは、パリ北部サン・ドニの町通りにその名をとどめている。コロネル・ファビアン広場もそのひとつなのだ。
 レジスタンスの英雄ファビアン大佐ことピエール・ジョルジュは、この広場から始まるヴィレット大通り一〇九番地に生まれた。若くしてフランス共産党員となり、スペイン戦争の折には、十七歳で、有名な国際義勇旅団に参加して戦った。
 対独レジスタンスが始まると、かれは武装した青年学生グループを組織し、指導する。一九四二年八月二十一日の白昼、地下鉄バルベ駅で、かれはドイツ軍将校をピストルで射殺した。この銃声こそ、レジスタンスにおいて銃撃戦が開始される最初の合図となった。のちにロレーヌ戦線で戦死したとき、かれはまだ二十六歳だった。エリュアールはかれの思い出に『人間の尺度で』という詩を書いた。

  ・・・
  かれの愛は
  太陽のために戦ったスペインに
  ささげられた
  かれの愛は
  危険な道にみち
  かわいい子供たちにみちた
  パリ地区にささげられた
  そうして極悪の兵隊どもにたいして
  ぞっとするような死にたいして
  かれが加えた最初の襲撃は
  不幸なひとたちのくらやみを照らす
  最初のひかりとなった
  ・・・

 こうしてコロネル・ファビアンは、パリの広場のひとつに、そしてエリュアールの詩のなかに、その名と思い出を残すことになった・・・
 やはりゆるい斜面の小さな広場のまんなかには、マロニエか何かの大樹が一本立っていて、ゆたかな蔭を落していた。広場のとっつきのところのカフェに、日本の若者が三人坐っていた。ひとりは文学を、ひとりは陶芸を、ひとりは絵画を勉強していると言い、この近くにペンキ塗りのアルバイトに来ているところだ、と言っていた。
 共産党本部は、広場に面して、まだ工事中の高い板べいの向こうに建っていた。
灰色のガラス張りで、弓型の湾曲線を強調した、流線型のモダンな、七階建てのビルディングであった。受付は飾りのない、むきだしのコンクリートのだだっ広い地下の廊下にあって、夏休みのせいか、出入りする人の影もなかった。かたわらのガラスのケースのなかには、新刊の党関係の出版物が並べられており、そのなかにアラゴンの『レ・コミュニスト』も見えた。そのアラゴンもバカンスで、アヴィニョンの方に行っているということであった。
 それから、ヴィレット通りをくだって、わたしたちはペール・ラシェーズへと歩いて行った。
 大通りの中央には亭々とそびえた三列もの街路樹が並んでいて、その木かげに市がひらかれていた。ちょうど花屋もあったので、花束を三つ買った。

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

共産党本部
フランス共産党本部


 アヴィニヨン ─ エルザの町
                 
  城壁のなかの アヴィニヨンのように
  きみを腕のなかに抱いて 十八年
  香ぐわしい たった一日のような十八年
  わたしの愛は しっかりときみを守ってきた
  秋はもう あたりの茂みを紅葉に飾り
  こがねの枝の下に 冬は早くも しのびよる
  だが冬も わが愛するひとに 何ができよう
  われらのなかに すばらしいささやきの残るかぎり
  火が消えたときにも 煙りが立ちのぼり
  夜のなかにも 桑の実のほろ苦い味の残るかぎり
                   アラゴン

 一九七八年十一月二十三日
 コリウールを発って、地中海沿いに、美しい南仏のラングドック地方の、海と沼のあいだを走って、アヴィニヨンに向う。小春日和のやわらかい陽ざしが明るい。スペインのカスチリヤの砂漠や荒野にくらべると、このあたりは、はてしない海べの庭園のように美しい。
 アヴィニヨンの駅に降り立つと、眼の前に城門がそびえ、古い高い城壁が左右につづいている。プラタナスの街路樹が黄色い葉むれを晩秋の陽にかがやかせている。──さながら、中世騎士道物語の映画の舞台を連想させるような風景だが、城壁の下をゆくのは馬に乗った騎士たちではなく、やはり自動車(くるま)の流れである。
 わたしたちは法王宮殿の近くのホテルに宿をとった。やはり鈴懸けの大樹をめぐらした、四角い広場があって、広場に面して市役所や小さな公会堂や、またレストランやホテルがならんでいる。ふと市役所をのぞくと、入口の広間の正面に「一九四〇年~一九五五年の殉難者たちと国外に連れ去られた人たちの記念に」というレジスタンスの銅版が、小さな三色旗に飾られて、かかっていた。公会堂ではちょうどべ-トーベンの第九交響曲の演奏会がひらかれていた。
 夕ぐれになると、盛装した家族連れや老夫婦などが、腕を組んで散歩をたのしんでいる……そういえば、エルザ・トリオレの『アヴィニヨンの恋人たち』を思い出さないわけにはいかなかった。この町のどこかの壁には、「ここでペトラルカはローラのためにこよなき愛をはぐくみ歌い、その歌ゆえに彼らは不滅となった」と刻んであるという。そしてエルザはつづけて書いている。「この町は、かずかずの伝説で織りなされている。毎日、ここでは伝説の糸が一本そこに織り込まれる。ここではめいめいがペトラルカであり、ひとりひとりの女がローラなのだ……この恋の町、この神秘で粋(いき)な町の通りには、なんと多くの不滅の夫婦たちがいることか……」
 十四世紀に建てられたという法王宮殿は、ちよっと小高いところに、石だたみを敷きつめた広場を前にして、ひとを威圧せずにはおかぬといった風に、灰色に、厳(いか)めしく聳え立っていた。中に入ってみると、もう調度品もない裸かの大きな部屋がいくつかあり、法王のいろいろの儀式が行われたという大広間は、右手の棟の二階にあった。ここに法王廳が置かれた十四世紀の威容はもう想像するほかはない。
 宮殿の横手はさらに小高い岩山の公園になっていて、すぐ下に「アヴィニヨンの橋で輪になって踊る」という歌で有名な聖ベネゼの橋が、ひろいローヌ河のまんなかで、ぽつんと折れたままに横たわっているのが見える。まるで腕を半分切り落とされたまま、その腕を伸ばしているひとのようだ。この橋は十三世紀に造られたが、十七世紀に洪水で流されて、半分だけが残ったのだという。その向うの川の中に大きな島があって、島に生い茂ったポプラか何かの林が、いちめん明るい茶色に紅葉して輝やいていた。そのまた向こうの高みにヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニヨンの村が見え、聖アンドレ要塞が秋の陽のなかに煙っていた……その村に、一九四〇年、アラゴンとエルザは隠れ住んで、レジスタンスをたたかったのだった。のちにアラゴンは『アヴィニヨン』を歌い、『溺死者たち』を書く。

   溺死者たち

  わたしのこころの中は この町の風情にそっくりだ
  どこからともない すさまじい風が吹き荒れている
  おお 流れに浮かぶ溺死者たち きみらを島々が愛撫する
  きみらは 見知らぬ 長い夢に沿って くだってゆく
  土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれて きみらは急ぐ
  はるか遠いアリスカンの 約束の憩いの場所へ
  英雄たちが眠り 死者たちも宿をとる ところ
  とある夕べ ひとはみんな そこにたどり着く
  だが 星ちりばめた空に 何も見えぬ眼を向け
  さまざまな身の上話を抱いて 岸べを離れると
  きみらは 仰向けに 橋のしたを流れてゆく
  流れが掠(かす)める 白い宮殿も きみらには見えない
  さあ アルルが待っているから 急ぎたまえ もう遅いのだ

  きみらは向うの 名もない墓石の下で泣くだろう
  ここでは 夜どおし ギターがかなで
  わたしの愛は アヴィニヨンに似て はてしない
     (飯塚書店『アラゴン選集』第二巻二一三ページ)

 これは、第二次大戦下にくりひろげられた、壮烈な光景のひとつをうたったものである、この溺死者たちとは、むろん、ナチス・ドイツ軍とたたかって虐殺され、ローヌ川に投げこまれた人たちでなければならない。だからこそ、「島々が愛撫」し、「土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれ」るのである。アヴィニヨンのあたり、ローヌ川はひろい大河であって、前にも書いたように、川の中には大きな島々がある。「流れが掠める 白い宮殿」も、むろん法王宮殿を指している。そうしてそれらの溺死者たちは、やがて下流のアルル郊外のアリスカン墓地の「名もない墓石の下」に葬られることになる……

(完成原稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)


アヴィニヨン橋
アヴィニヨンの橋を望んで

パリの赤い街区をゆく 旅のノートから
                          大島博光(詩人)

 やっぱり、運命はわたしをパリの赤い街区へと運んだ。わたしに与えられた宿は、パリ十区のコロネル・ファビアン広場に近い、ヴィレット大通り。レジスタンスの時代、地下鉄のソルフェリーノ駅でピストルでナチのドイツ軍将校を射殺して、最初の武装闘争の火ぶたを切った英雄が、共産党員コロネル・ファビアンである。彼の名前が、彼の生まれたこのヴイレット大通りの小さな広場に与えられでいるのである。
 この広場に面して、黒いガラス張りのフランス共産党本部のモダンなビルが立っている。数年前にここを訪れたときには、広場に面して羽目板の柵をめぐらしてまだエ事中であったが、こんど見て驚いたことに、本部の前の広い芝生のなかに、直径十㍍ほどもあるコンクリートの丸いドームが、ちょうど大きなお椀(わん)をふせたように盛り上がっている。新しい抽象的構図の庭園設計かと思ったら、このドームの下が地下の会議室となっているらしい。

 ゾラの「居酒屋」の舞台で

 ヴィレット大通りには、左石三つの車道のあいだに、二列のマロニエの街路樹を並べた広い分離帯があって、その街路樹のあいだに八百屋や肉屋の市がならんだり、駐車場になったりしている。
 広場から見て右側の歩道に、また一列、にせアカシアの街路樹がつづいている。広場からベルヴィルの方へくだっていくにつれて、街の汚れや、ぼろとまではゆかなくとも、汚い脹を着た人たちが目につく。それから左側の奥の方が、ゾラの「居酒屋」の舞台で知られるメニルモンタンである。それから、ペールラシェーズの墓地の方に近づくと、また街はきれいになってゆく。こんな街を、子どものファビアンは遊びまわったのにちがいない。
 ファビアン広場から、共産党本部の前のなだらかな坂道をのぼってゆくと、ほどなくビュット・ショーモン公園の前に出る。あたりの壁には、さすがに地元らしく、赤地に白の共産党のビラがはってある。
 「物価値上げ反対の統一行動を共産党とともに!」「政治の流れを変えるために より強大な共産党を──入党されよ」
 まるで、そのまま日本共産党のビラを読んでいるような気がする……。
 また、九月十三日、十四日にパリ北郊ラ・クールヌーヴでひらかれるユマニテ祭のビラもはってあり、「真実をもとめて、わたしはユマニテを読む」というポスターも見られる。
 ビュット・ショーモン公園にはいると、とっつきの築山の黒松とひいらぎの陰にクローヴィス・ユグの小さな胸像が立っているのに気がつく。ユグはバリ・コミューンの詩人で、ペール・ラシェーズの「連盟兵の壁」のまえで、ベルサイユ軍とブルジョアジーがコミューンの戦士を虐殺した事件を告発しつづけた。そしてこのビュット・ショーモンの丘でも、当時、巨大な火葬場がつくられて、コミューン戦士や市民の死体を幾日も焼き続けたということだ。
                 
 ジョギング姿に見とれて…

 丘の下に、ちょうど井の頭公園の池の半分くらいの池がある。何人もの老若男女が、いま流行のジョギングというか、マラソンというか、をやっている。若い美しいパリ娘が、二、三人ならんで大きな乳房をブルンブルンとゆさぶりながら、足どりも軽やかに、踊るように走っている。思わず見とれてしまうほどだ。
 この池で数人の釣り師が、鯉釣りをしている。リールで投げ込んだ浮き釣りで、釣針にはパンをまるめたのや、ジャガイモの角切りを使っている。
 四十センチほどのが一尾釣れたが、あまり釣れないらしい。魚影が少いからだ。水が澄んでいて泳いでいる鯉が見える。全部の鯉を数えても数十尾はいないだろう。こんなに自由に釣り上げても稚魚を放流することはしないらしい。わが多摩川の魚影の濃い釣り場を思うことしきりである……。
 (一九八〇年八月十二日 記、大島さんはパリ滞在中)

<『赤旗』 1980年8月>

パリ

コロネル・ファビアン広場から見たフランス共産党本部

パリ

ビュット・ショーモン公園の池
エリュアールの生地 サン・ドニ(下)

 さて、エリュアールはこの労働者の街サン・ドニに生まれた。父親のクレマン・コジェヌ・グランデルはノルマンディの農民の出で、はじめ会計事務員であったが、のちにはパリに出て不動産屋をいとなむ。かれはまた社会主義的な思想と精神の持ち主で、無宗教でもあった。父親はノルマンディ出ではあったが、エリュアール自身は、パリ市内の労働者街で育ったパリ市民である。一九四七年、五二才のエリュアールはきわめて謙虚に書いている。

 もう ずいぶんと遠い きのうのこと
 わたしは 鎖をつけたまま 生まれた
 わたしは 敗北として 生まれた

 それほど 遠くない きのうのこと
 わたしは 貧乏で心やさしい家族の
 顛える 腕のなかに 生まれた
 生まれながらに 手には何んにもなかった

 みんなひそひそ話して そっとうなずいた
 わたしの家族は だれの記憶にも残っていない
 なんの余映(はえ)もない 影のような人民から生まれた
・・・

 ところで、エリュアールの墓はぺール・ラシェーズの墓地にある。べつの日、わたしは、エリュアールの墓と「連盟兵の壁」に花束をささげに行った。
 エリュアールの墓は、道をへだてて、この壁の前にあった。三十年前の対独レジスタンスの殉難者たち、コロネル・ファビアン、ピエル・タンボー、ギイ・モッケなどの名の刻まれた墓碑とならび、アンリ・バルビュスやジャン・リッシャール・ブロックとならんで、「自由」と愛の詩人は、伸びたバラの枝かげに眠っていた。造花のスミレが一束、供えられていた。わたしはつぎのようなエリュアールの詩を思い出した。

 夜明けは 青年にも老年にもいいものだ
 ということを疑わずに生きた男 ここに眠る
 死ぬとき かれは 生れることを考えた
 なぜなら 太陽はまた のぼってきたから

 この墓碑銘を、かれはみずからのために書いたにちがいない。
 アラゴンやエリュアールなどの、フランスのシュルレアリストたちはどうして共産党員になったのだろう、という素朴な疑問を、わたしは以前からいだいていた。「赤い町」サン・ドニから、ペール・ラシェーズの赤い壁の前を訪れてみると、わたしの疑問の一半はおのずと解かれたような気がした。
(この項おわり)

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>
エリュアールの生地 サン・ドニ(中)

 サン・ドニの博物館(郷土資料館)に入ると、受付のところで、絵はがきやエリュアールのカタローグといっしょに、『パリ・コミューヌ』という本を売っていた。これは、一九七一年、ここでひらかれたパリ・コミューヌ百周年記念展覧会に出品された、コミューヌの頃のビラ、デッサン、版画、その他の資料を編集したものである。絵はがきのなかにも、やはりその頃のサン・ドニ風景で、洗濯工場の女たちを描いた油絵をうつしたものがあった。それはゾラの『ナナ』の一場面を思い出させもする。
 エリュアールの原稿や写真やその他の資料は、二階の奥の二つの部屋にならべられており、いちばん奥の小さな部屋は、エリュアールの書斎を再現していた。壁にはピカソの「鳩」が飾られ、ボードレールの小さな胸像の置かれている本だなには、ほかの本にまじって、大佛次郎の『パリ燃ゆ』二巻がならんでいて、わたしを驚かせたり、なつかしがらせたりした。『パリ燃ゆ』を書くための資料しらべのため、大佛次郎はたしか一九六一年に、この博物館を訪れているのである。おそらく、そのとき世話になった返礼に、『パリ燃ゆ』二巻がここに寄贈され、博物館の側では置く適当な場所もなく、エリュアールの本棚にならべたのでもあろう・・・

 エリュアールの資料のなかでは、もう黄色くなった一枚の記念写真が、わたしの興味をひいた。それは一九二一年、パリのサン・ジュリアン・ル・ポーブルの空き地でおこなわれたダダのデモンストレーションの時の写真で、エリュアール、ブルトン、アラゴン、スーポーなど当時の「文学」誌同人の面々が写っている。これらの若き反抗者たちは、ステッキやこうもり傘などをもって、なかなかのダンディとして写っている。アラゴンはその頃のことをつぎのように書いている。

 その怒りを 石膏の神神と銅像の影にむかって
 投げつけていた 新しいドン・キホーテたち
 わたしたちは 奇怪な美徳を罵倒するために
 あの時代が呼び集め よせ集めた一群だった

 わたしたちは 不幸のはけぐちを呪文にたくして
 とことんまで 世の中の灰汁(あく)とたたかった
 だがわたしたちは ののしりあざける叫びのほかは
 道徳も目的もない 作り話のたぐいに耽っていたのだ

 わたしたち自身の歌に 禁止宣言を投げつけて
 わたしたちは 呪いのストライキをくわだてた
 わたしたちはその物語をこまごまと語ることもできよう
 サン・ジュリアン・ル・ポーブルの事やその喜劇などを
    (飯塚書店『アラゴン選集』第三巻二七ページ)
(つづく)

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>
エリュアールの生地 サン・ドニ(上)

 一九七四年八月十四日
 蚤の市で知られる、パリの北門クリニアンクールを出ると、ひろびろとした灰色の工場地帯となり、バスで二十分もゆかぬうちにサン・ドニに着く。ここがエリュアールの生地で、「王の町にしてまた赤い町」(アラゴン)といわれる町だ。バスを降りると、古めかしく黒い大伽藍がそびえている。むかしのフランス歴代の王たちの墓のある有名なサン・ドニのバジリックであり、ここが「王の町」といわれるゆえんである。ここでは王たちの戴冠式なども行なわれたというから、むかしは華麗な馬車行列がパリとの間を往復したことであろう。ちょうど前の大通りは深く掘りさげられて、たしか地下鉄の工事が行われているようであった。大寺院のなかに入ってみると、うす暗い内陣には、いくつもの石や大理石の寝棺がならんでいて、墓のうえには、胸のうえで合掌している横臥像が置かれていて、なんとも鬼気せまるものであった。案内書によると、一七八九年の大革命に際して、これらの王たちの墓は、革命的な人民によって運びだされて破壊された。それをいまの状態に復原したのはナポレオンであった。
 
 この大寺院の前に、道はばの狭い田舎町がじかにつづいていて、きわだった異様な対照をみせていた。エリュアールの記念室のあるサン・ドニ博物館は、この寺院の斜めまえの小路にあった。行ってみると、ちょうど昼食時にぶつかっていて、「午後二時まで閉館」という札がぶらさがっていた。そこでわたしたちも、近くの通りの小さなレストランにはいることにした。通りの石だたみは擦り減って、でこぼこだらけで、ゴミなども散らかったままで汚れていた。少年のエリュアールもこんな街通りを駆けまわったことだろう。入ったところは、レストランなどとハイカラなところではなく、日本の土蔵を思わせるような奥まった哀れな部屋で、まさに、場末のそまつな一杯めしやといった風情である。ちょっと汚れの見える、白い上衣を着た男が四人、ぶどう酒を飲んでいた。恐らく肉屋の男たちかも知れない。わたしたちも赤ぶどう酒と、この店のおすすめ料理の「仔牛の頭(テート・ド・ヴォ)」というのを注文した。四角に切った肉とじゃがいものクリーム煮で、あっさりと塩味のきいた、とろけるような肉のうまさに、わたしは舌づつみをうった。こんなうまいものを、その後パリでもたべたことがない。
(つづく)

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>
『両替橋の不寝番』の詩人ロベール・デスノス(下)

 一九二七年、アラゴン、エリュアール、ピエル・ユニクなどのシュルレアリストたちが共産党に入党したとき、デスノスはあらゆる束縛に反対するというアナーキスト的な自由の立場をとって、入党を拒み、シュルレアリスト・グループの外に立っていた。しかし、一九三三年から三四年にかけての、ドイツにおけるファシスムの台頭、ヒットラーによる政権奪取、フランスにおける左右対立の激化、といった情勢は、デスノスの態度を変えさせずにはおかなかった。
 彼もまたほかの仲間たちとともに、ファシスムの危険を訴え、反ファシスム闘争と平和をまもる運動に参加するようになる。彼はガストン・ベルジュリの「共同戦線」に加盟し、社共協力の反ファシスムのデモンストレーションに参加する。彼はまた一九三七年七月にひらかれた「革命的芸術家作家会議」にも協力する。
 レジスタンスの運動が始まると、抵抗しないことは結局ファシスムを甘受することだと考え、デスノスは「行動」という組織に加わると同時に、親独新聞「今日(こんにち)」紙によってジャーナリストとして活動する。この親独新聞というポストは、例えば逮捕をまぬかれるといった特典を保証するかに思われたが、そんな特典はなにひとつなかった。
 一九四四年二月二十二日、デスノスは友人のルネ・ラコートとおなじ日に逮捕された。ビラをくばっていて捕(つか)まった少年が、ナチに追及されて、デスノスの名まえと住所を吐いてしまったのだ。こうして両替橋(ポン・ト・シャンジュ)に近いマザリーヌ街一九番地のデスノスの家にゲシュタポが現われた・・・かれの伝記作者ピエル・ベルジェは書いている。
 「一九四四年二月二十二日、有力な地位にいる女友達からデスノスの処へ、まもなくゲシュタポが行く、という電話の知らせがあった。デスノスは、自分のかわりに妻のユキが逮捕されることを恐れて、逃げようとはしなかった。ゲシュタポがやってきたとき、かれはすっかり覚悟をきめ、微笑をうかべて待っていた。「みなさん、おはいりください。たいへん来るのが遅かったですね」・・・

 デスノスはフレーヌ刑務所にぶちこまれ、のちにコンピエーニュに移された。一九四四年四月二十七日、かれはほかの流刑囚たちといっしょに、錠をかけられた貨車のなかにすし詰めにされて、コンピエーニュからブッヘンヴァルトの収容所に送られた。終戦になって、かれは収容所から解放されたが、故国フランスの地をふむことはできなかった。チェコスロヴァキアのテレジンで、デスノスはチフスのために死んだ。
 チェコスロヴァキアにおけるフランス詩の紹介者であり訳者であるアドルフ・クルーパの伝えるところによると、チェコの一大学生が、テレジンにやってきた流刑囚名簿のなかにロべール・デスノスの名まえを見つけた。こうしてデスノスは詩人として見つけだされて、ひじょうによろこんだが、もう遅かった。翌朝かれは、大学生が握らせてくれた一輪の野ばらの花を手にしたまま、息をひきとった。「けさは生涯で、いちばん朝らしい朝です・・・」それがロベール・デスノスの最後の言葉だった。
 クルーパはまたデスノスの「最後の詩」について語っているが、デスノスの身から発見されたといわれる、紙きれに書かれた詩はつぎのようなものである。

 おれは あんまり おまえを夢みつづけ
 おまえにむかって 歩き 語りかけ
 あんまり おまえの影を愛したので
 おれにはもう おまえのほか何もない

 おれはもう 亡霊のなかの亡霊となり
 亡霊よりも 百倍も亡霊となり
 ひかりかがやく おまえの生のなかに
 おれはふたたび もどってゆくだろう
 
 この詩はじっさいはデスノスのものではなく、デスノスが紙きれに書きつけたノートをもとに、プラハで作られたもののようである。とはいえ、デスノスがいつも想いを馳せていた愛妻ユキヘの熱い思慕の情は、この詩に溢れている・・・
(この項おわり)

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>


フランス紀行 2

『両替橋の不寝番』の詩人ロベール・デスノス(中)


 一九四四年五月、レジスタンスの詞華集『ユーロープ』が非合法に出版された。そこに、Valentin Guilloisという匿名で『両替橋(ボン・ト・シャンジュ)の不寝番』という詩が収められていた。この注目すべき詩の作者はいったい誰であろう?とみんながいぶかった。──その作者はロベール・デスノスだった。

 両替橋(ボン・ト・シャンジュ)の不寝番

 おれは フランドル街(注1)の不寝番だ
 眠るパリを 見まもるのだ
 遠い北の夜空が 戦火で赤く燃えている
 町の上をよぎる 飛行機の爆音がきこえてくる

 おれは ポワン・デュ・ジゥール(注2)の不寝番だ
 オートゥイユの陸橋のかなた 闇のなか セーヌは流れる
 二十三の橋をくぐり パリを縫って
 西の方から 爆弾の音がきこえてくる

 おれは 金の城門(ポルト・ドレ)(注3)の不寝番だ
 お城の塔のあたり ヴァンサンヌの森に 闇は深い
 クレティユの方から 叫び声がきこえてきた
 列車が 反抗の歌をひびかせながら 東へ走りさる

 おれは ポルテヌ・デ・プープリエ(注4)通りの不寝番だ
 南風が運んでくる きなくさい煙りや
 怪しげなざわめきや 坤めき声は どこか
 プレザンスやヴォジラールの方へ 消えてゆく
 南から 北から 東から 西から
 パリにおしよせてくるのは 凄(すさ)まじい戦争の音ばかり

 おれは 両替橋(ポン・ト・シャンジュ)(注5)の不寝番だ
 パリのまんなかで見守れば ますます高まるざわめきの中
 敵軍は 怖るべき悪夢をくりひろげ
 友軍とフランス軍の 勝利の雄叫びが聞こえてくる
 ヒットラーのドイツ軍の 拷問にかけられて
 苦しみ叫ぶ 兄弟たちの声がきこえてくる

 おれは 両替橋の不寝番だ
 だが こよい見守るのは ひとりパリだけじゃない
 この嵐の夜の 疲れはてて熱っぽいパリだけではない
 おれたちをとり巻き せきたてる全世界を見守るのだ
 冷めたい大気のなか 戦争のすさまじい音が
 遠いむかしから(注6) 人間の住んでいる
 この場所にまで 押しよせてくる

 叫び声や歌ごえ 坤めき声や爆音などが
 四方八方から やってくる
 勝利の声 苦しみの声 死の坤めき声よ
 白葡萄酒の色と紅茶の色をした空よ
 地平のすみずみから 地上の障害物を越えて
 あのざわめきといっしょに やってくるのは
 ヴァニラの匂い 湿った土の匂い 血の匂いだ
 汚水の匂い 火薬の匂い 火刑(ひあぶり)の匂いだ
 人類の肉で脂(あぶら)ぎった大地のなかに ひと足ごとに
 深くはまりこんだ未知の巨人の くちづけの匂いだ

 おれは 両替橋の不寝番だ
 約束の日の門出に おれはきみたちに挨拶をおくる
 フランドル街からポテルヌ・デ・プープリエにいたる仲間たち
 ポワン・デュ・ジゥールからポルト・ドレにいたる同志たち

 きみたちみんなに 挨拶をおくる
 きびしい地下活動を終えて 眠ってるきみたち
 地下印刷をひきうけ 線路のボルトをはずし
 爆弾をはこび 敵軍に火を放ち ビラをまき
 発禁の文書をもちこみ 連絡(レポ)をとる きみたち
 たたかうきみたち みんなに 挨拶をおくる
 こばれるような微笑(ほおえ)みをうかべた 二十(はたち)の若者よ
 橋よりも年をとった 白髪の老人よ
 たくましい男たち あらゆる年頃の人たち
 新しい朝の門出に おれはきみたちに挨拶をおくる

 テームズのほとり 古いイギリスの首都に
 古いロンドンに 古いブルターニュに
 集合している すべての国の同志たち
 ひろい 大西洋のかなた
 カナダから メキシコにいたる
 ブラジルから キューバにいたる
 すべての旗と すべての種族の アメリカ人よ
 リオの ラワンテペクの ニューヨークの
 そしてサンフランシスコの 同志たち
 きみたち みんなに 挨拶をおくる

 両替橋のうえで 地球上のみんなに会いたいと願いながら
 おれも きみたちのように戦い 見張りをしている
 ついいま 舗道にあんまり重くひびいた靴音に かっとなって
 おれも 敵兵をひとり うち倒したところだ

 名も知れぬ 憎いヒットラーのドイツ兵は どぶの中で死んだ
 顔は泥まみれで 死体はもう腐りはじめている
 その間も きみたちの四季の声はきこえてきた
 友よ 連合国の友よ 兄弟たちよ

 きみたちの声はきこえてきた アフリカのオレンジの
 匂いのなかから 太平洋の鼻つく潮の香のなかから
 暗闇のなかに救いの手をさし伸ばす 白い艦隊よ
 アルジェの ホノルルの チョンチンの 仲間たち
 フェスの ダカールの アジャクシオの 兄弟たち

 ひとを酔わせる たくましい鬨(とき)の声よ
 高鳴る心臓と肺腑から湧きあがる 歌声よ
 数百万の胸から ほとばしりでた その声は
 イリメニ湖から キエフにいたる
 ドニエプルから プリピャチにいたる
 雪のなかに燃えあがるロシヤ戦線から
 おれの耳にも きこえてくるのだ

 おれは耳傾けて きみたちの声をきく
 ノルウェーの デンマークの オランダの ベルギーの
 チェコの ポーランドの ギリシャの アルバニヤの
 ユーゴスラヴィヤの ルクセンブルグの 戦う同志たち
 おれは きみたちの声をきいて 呼びかける
 みんなが知っている言葉で よびかける
 自由!
 という ただひとつのことばで よびかける
 そしてきみたちに言おう おれは不寝番をしていて
 ヒットラーの兵隊をひとり うち倒したと
 かれは ひと影もない 街なかで死んだ
 非情な町のまんなかで おれは復讐した
 フォル・ドゥ・ロマンビル要塞や モン・バレリヤンで
 虐殺された兄弟たちの仇を討ったのだ
 この世や町や季節の 消えては生まれるこだまのなかで

 そしてほかの人たちも おれのように
 不寝番をして 敵をやっつけている
 おれのように かれらもまた
 人影もない街なかに鳴りひびく足音を窺っている
 おれのように かれらもまた
 大地のざわめきや 爆発の音に 耳傾けている

 ポルト・ドレで ポワン・デュ・ジゥールで
 フランドル街で ポテルヌ・デ・プープリエで
 フランスじゅうの町まちで 野で
 わが同志たちは 夜の足音をうかがい
 大地のざわめきや すさまじい爆発の音で
 自分たちの孤独を なぐさめている

 なぜなら 大地は無数の燈火に照らされた野営地(キャンプ)で
 戦闘のまえには みんなが地上に露営するのだから
 同志たちよ おれたちの声がきみたちにも聞こえるだろう

 このおれたちの声は 夜が降りると
 くちづけに飢えたくちびるをついて 湧きあがり
 ながいこと あたりの空を飛びまわるのだ
 ちょうど 燈台のひかりに眼がくらんで
 輝く窓にぶつかって傷つく渡り鳥のように

 どうか おれの声も きみたちの耳にとどいてくれるように
 悔恨もない 恐怖の念もない
 情熱的で陽気で 確信にみちたおれの声が
 どうか わが同志たちの声もろともに
 きみたちの耳にとどいてくれるように
 待ち伏せする フランス前衛の声が

 こんどは きみたちがおれたちの声を聞いてくれる番だ
 水兵よ 操縦士よ 兵士たちよ
 おれたちは きみたちにお早ようを言おう
 おれたちが語るのは 苦しみではなく 希望なのだ
 ま近い朝を迎えて きみたちに 挨拶をおくる
 すぐ近くにいる きみたちにも
 また 藁束のような夜明けが 家のなかに射し込むとき
 おれたちの朝の挨拶をうけとるだろう きみたちにも
 とにかく お早よう 明日のために お早よう!
 心の底から お早よう 熱い血で お早よう!
 お早よう お早よう 太陽はパリにのぼるだろう
 たとえ雲が隠そうと 太陽はそこにあるだろう
 お早よう お早よう 心から お早よう!

(注1)フランドル街──パリの北東端の街。第十九区にある。
(注2)ポワン・デュ・ジゥール──パリの南西端にあるセーヌ川の河岸。
(注3)ポルト・ドレ──ヴァンサンヌの森とともに、パリの南東端にある。
(注4)ポテルヌ・デ・プープリエ──パリの南端にある街通り。
(注5)両替橋──ボン・ト・シャンジュは、パリの中心、シテ島と右岸を結ぶ橋。ポン・ヌーフと並んでいる。むかし、この橋の上に両替商が店をつらねていた。デスノスはこの橋の近くのサン・マルタン街に生まれた。
(注6)遠い昔から──有史以前、ゴール人の漁師や舟乗りが、セーヌ川の湾曲部に浮かぶシテ島とサン・ルイ島に小部落をつくつた。小部落はやがてガロ・ロマン人の小さな町となり、パリ発祥の地となる。

 この詩が発表されたとき、ロベール・デスノスはすでに逮捕されて、ブッヘンヴァルトの収容所へ向って、追い立てられていた・・・

(つづく)
両替橋
両替橋

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>
フランス紀行 2

『両替橋の不寝番』の詩人ロベール・デスノス(上)


 一九四三年四月、ロベール・デスノスの詩集『両替橋の不寝番』がパリで出版された。この詩集には、題名となった詩とともに、有名な「サン・マルタン街の歌」が収められている。

  サン・マルタン街の歌

 サン・マルタン街なんか もう好きじゃない
 アンドレ・プラタールが 姿を消してから
 もう サン・マルタン街なんか 好きじゃない
 なにもかも ぶどう酒さえも 好きじゃない

 サン・マルタン街なんか もう好きじゃない
 アンドレ・プラタールが 姿を消してから
 あいつは おれの友だち 相棒だった
 おれたちや パンも 部屋も わかちあった
 もう サン・マルタン街なんか 好きじゃない

 あいつは おれの友だち 相棒だった
 ある朝 あいつの姿は 消えちゃった
 しょっぴかれた というほか 何も分らぬ
 もうサン・マルタン街で あいつに逢えぬ

 メリイやジャック ジェルべやマルタンの
 聖者たちにきいても尋ねても わからない
 丘に身をかくした 聖ヴァレリアンもご存じない
 サン・マルタン街に アンドレ・プラタールはもういない
                     一九四二年

 この詩は、友人のアンドレ・プラタールがパリ第三区のサン・マルタン街で逮捕された後に書かれた。プラタールは、ドイツ軍によって収容所に連行されたのか、モン・ヴァレリアンの丘で銃殺されたのか、なにも知られていない。つまり「聖ヴァレリアンもご存じない」というわけである。モン・ヴァレリアンはむかしは巡礼の行われた聖地であって、一七世紀には礼拝堂が建てられた。一八世紀、ルイ・フィリップの治下、そこに要塞が作られた。
 一九四〇年から四四年まで、ドイツ軍はここで四五〇〇人の人質と愛国者を処刑した。こんにち、それらの愛国者たちのレジスタンスを記念して、この要塞の南西の斜面のすぐ下に、つまり大きなロレーヌ十字架(横木の二本ある十字架)を中央にした大きな壁がつくられ、そこにレジスタンスを型どったいくつかのレリーフが飾られ、十字架の前には戦士たちに捧げられた永遠の火が燃えている。壁の前は砂利を敷いた広場となっている。
(つづく)

フランス紀行 1

ミラボー橋の詩人アポリネール(下)──そのむかし ボヘミヤに


 さらに、アポリネールがおびただしい詩を書きおくった恋びとにルーという若い女がいる。一九一四年の九月、アポリネールはニースでひとりの若い女に出会い、たちまちその魅惑にとりつかれる。その女こそ、アポリネールがルーという愛称で呼んだ、ルイズ・ド・コリニィ・シャチヨンである。彼女は名門の娘で、気性のはげしい、はすっぱな女であった。言い寄るアポリネールに、彼女はたわむれに身を任せたかと思うと、またきっぱりと拒絶したりする。十二月六日、アポリネールがニームの第三八野砲連帯に入隊すると、その翌日、彼女はニームにアポリネールを訪ねてゆく。それから八日の間、彼は彼女のそばで情熱的な時を過ごす。アポリネールは彼女がニームに来て彼のそばに住むようにと頼み込むが、彼女はそれをあっさりと拒絶する。そればかりか、「トートー」と呼ぶ、彼女のもうひとりの男との関係を、彼女はアポリネールに隠さなかった。こうした彼女の気まぐれさに、さすがのアポリネールも耐えきれなかったことだろう。つぎの詩には、そんな詩人の心情がよく現れているように思われる。

  そのむかし ボヘミヤに

 そのむかし ボヘミヤに ひとりの詩人がいたそうな
 ひとを恋うては泣き 太陽にむかって歌っていた
 そのむかし 雲雀(アルーエット)伯爵夫人がいたそうな
 たいへん瞞(だま)すのがうまかったので 詩人はのぼせて
 自分の歌を忘れてしまい 夜も眠れなかった

 ある日 彼女は言った「愛しているわ わたしの詩人よ」
 だが 彼はそれをまにうけず 悲しげに微笑んだ
 「囀(さえず)れ 雲雀(ひばり)よ」と歌いながら 彼は出て行き
 うつくしい 小さな森の奥に その身をかくした

 ある晩 すてきな声で さえずりながら
 雲雀伯爵夫人が 小さな森のなかへやってきた
 「おお 詩人よ 愛しているわ そう言ったでしょう
 永遠に愛しているわ とうとうあなたを見つけたわ!
 さあ 恋いこがれる わたしの魂をいつまでも抱いて」

 おお 禿鷹のような無情な心をもった 酷(むご)い雲雀よ
 またしてもあなたは 信じやすい詩人をだました
 夕ぐれ すすり泣く森の声が わたしにきこえてくる
 伯爵夫人は出かけて行って ある日 もどってきた
 「詩人よ わたしを愛して わたしはほかの人を 愛してるの」

 そのむかし ボヘミヤに ひとりの詩人がいたそうな
 なぜか知らぬが かれは 戦争に出て行った
 愛されたいと思っても ひとを愛さぬがいい
 「伯爵夫人 愛しているよ」 そう言いながら 彼は死んだ
 そうしてとても寒い明け方 砲弾のとび去る音が
 わたしの耳に聞こえてくる 恋の消え去るように

 しかし、アポリネールはまた期待にふるえながら、つぎのように歌わずにはいられなかったのである。

 わたしはわが希望に与える
 はるか森のなかの小さな灯し火のように顛えている未来を
     (『ルーにおくる詩』─「愛と侮蔑と希望と」)

 ミラボー橋の上に立って、上手の方を見ると、グルネル橋の中洲に立つ「自由の女神」が銀色にまぶしく輝き、その向うにエッフェル塔が青空にすっくとそびえている。しかし、左岸の方を見ると、がっかりする。現代的なビルディングが群立していて、あの均整のとれたパリの街並の、その均整を破っているからである。しかも、左岸の橋のたもとは、砂利船の荷揚げ場となり、そこにセメント工場がつくられている・・・
 「エスプリ・ヌーヴォ」(新しい精神)を提唱していたアポリネールが、この風景を見たら、なんと思ったことだろう。アポリネールの頃には、むろんこんな風景は見られず、恐らく橋のたもとの岸べも、まだコンクリートで堅められずに、草の生えた土の岸べであったろう。左岸とはちがって、右岸のオートゥイフの方は、むかしながらの街並がうつくしい。河岸のプラタナスの並木もそよ風に静かに葉をひるがえしている。

ミラボー橋

(この項終わり)
フランス紀行 1

ミラボー橋の詩人アポリネール(中)──異国に連れさられた女

 まことに、日日は去り、アポリネールは死んだが、彼の詩は残った。失恋の悲しみと無常をうたいながら、この詩には東洋風な諦観の心情は流れていないように思われる。「わたしは残る」ということばは諦念とは無縁のものである。
 それかあらぬか、マリイがほかの男と結婚したあとになっても、なおいくつもの詩をアポリネールはマリイに書き贈っているのだ。一九一五年に書かれた『異国に連れ去られた美女』もそのひとつである。当時、彼女はドイツ人の画家と結婚してスペインに行っていた。それもどうやら、アポリネールを避けての逃避行であったらしい。しかもなお、彼はマリイへの未練をうたわずにはいられなかったのである。この詩で、虹とはマリイそのひとであり、恋しい女は、ひとときの幸せののち、美しい虹のようにはかなく過去のなかに消えてゆく・・・虹のイメージは、マリイの美しさを浮かびあがらせると同時に、「消えさるもの」の象徴として、二重に美しい、みごとな効果をあげている。

  異国に連れさられた女

 行ってしまえ 行ってしまえ わたしの虹よ
 行ってしまうがいい 愛くる色艶(いろつや)よ
 遠く 消えさるのが きみの本性なのだ
 こころの変りやすい 女(ひと)よ

 こうして虹は連れ去られた──連れさって
 だれが彼女を 虹色に輝やかせるのだろう
 だがここには 彼女のかわりに 旗がひとつ
 へんぽんと 北風にひるがえっている

(つづく)
フランス紀行 1

ミラボー橋の詩人アポリネール
(上) Apollinaire - Poète de Le Pont Mirabeau

 一九八〇年八月十日
 きょう、パリはたいへん暑い。ヴィッテル鉱水の瓶をぶらさげて歩いている若者もいる。それほどのどがかわくのだ。エッフェル塔のあたり、セーヌの河岸のポプラ林のかげで、上着をぬいで半裸の若者たちが昼寝をしている。やはり半裸で、へそをあらわにした娘たちが、サンダルを手にぶらぶらさせて、芝生のうえを素足で歩いている。イエナの橋を渡るとシャイヨー宮の前庭の池では、まるで噴水の祭典だ。四方から噴水が勢いよく吹きあげて、水の放射による水の森が出現する。池のふちで素足になって、しぶきを浴びながら涼をとっている人たちもいる。暑いので、みんながここに涼をとりに集まっているようにも見える。ゆりかごのなかに赤ん坊をいれて、両端を持って歩いている幸せそうな黒人の夫婦もいる。さっき、エッフェル塔の下でコーヒーを飲んできたばかりなのに、もうのどがかわく。あたりの林のなかのキオスクにとびこんでジュースなどを飲む。それから美しいセーヌに沿って、ビル・アッケムの鉄橋の方に歩き出す。そのあたり、セーヌの岸部で、水着姿の若者たちが日光浴をしている。彼らはこのインキのようなセーヌの流れで泳ぐのでもあろうか。──よく映画などで見かけるビル・アッケムの鉄橋には、地下鉄が走っている。そしてあの「自由の女神」の立っているグルネル橋を過ぎて、シトロエン河岸をゆくと、やがて鋼鉄のアーチを描いたミラボー橋が見えてくる。

 このミラボー橋はアポリネールの詩によってひろく知られて有名になった。そしてアポリネール自身の名声と栄光の大半も、その『ミラボー橋』の詩に負うているのである。
 アポリネールは幾人もの女に失恋した詩人として知られている。まず、アンニイという女に失恋して、『振られた男の歌』 La Chanson du mal-aimé という難解な長い詩を書いている。そして『ミラボー橋』もまた失恋の詩なのだ。アポリネールが女流画家マリイ・ローランサンに失恋した話は有名である。一九〇七年、アポリネールは、才気溢れるマリイに出会ってたちまち彼女のとりことなった。当時、マリイはおよそ二十五歳、ミラボー橋にちかい、右岸のラ・フォンテーヌ街に母親と二人で住んでいた。マリイとの親交を深めるために、アポリネールはわざわざその近くのグロ街に引っ越したほどである。しかし、二人の仲はうまくゆかなかった。アポリネールの失恋の悲しみは、有名な『ミラボー橋』のなかにみごとに結晶することになる。過ぎ去ってゆく恋と過ぎさる時の流れとを重ねあわせて、詩人は失恋の悲しみをうたうと同時に、時の流れの無常さをうたっているのである。

  ミラボー橋 Le Pont Mirabeau

 ミラボー橋の下 セーヌは流れ
     われらの恋も 流れさる
   思い出さねばならぬのか
 苦しみのあとには いつも悦びがきたのを

  早く夜となれ 鐘よ 鳴れ
  日日は去り わたしは残る

 手と手をとり 顔向きあわせていよう
      そのあいだにも
    つないだわれらの腕の 橋の下
 永遠の眼(まな)ざしの 疲れた波は流れさる

 早く夜となれ 鐘よ 鳴れ
 日日は去り わたしは残る

 恋も過ぎさる 流れるこの水のように
      恋も過ぎ去る
    なんと 人の生ののろいこと
 そして希望のなんと 激しいこと

  早く夜となれ 鐘よ 鳴れ
  日日は去り わたしは残る

  日日は去り 月日は過ぎ去る
      過ぎ去った時も
   恋も 二度とはもどって来ない
 ミラボー橋の下 セーヌは流れる

  早く夜となれ 鐘よ 鳴れ
  日日は去り わたしは残る

(つづく)
フランス紀行 下
 ファビアン広場とペール・ラシェーズ墓地

 モニュマンにみちた町

 パリの東北部、ビュット・ショーモンの丘に通ずるだらだら坂を、コロネル・ファビアン広場をめざしてのぼって行った。──広場の一角にあるフランス共産党本部をおとずれ、それからペール・ラシェーズの墓地へまわるためである。
 ところで、パリほど歴史のモニュマン(記念物)や思い出にみちている町はない。大革命とパリ・コミューン、それに新たに三十年前の対独レジスタンスのモニュマンと思い出が加えられることになった。コロネル・ファビアン広場もそのひとつなのだ。──レジスタンスの英雄ファビアン大佐ことピエル・ジョルジュは、共産党員であり、この広場から始まるビレット通り一〇九番地に生まれた。一九四二年八月二十一日の白昼、地下鉄バルベ駅で、かれはドイツ軍将校をピストルで射殺した。それは、レジスタンスにおいて銃撃戦が開始される最初の合図となった。ロレーヌ戦線で死んだとき、かれはまだ二十六歳であった・・・。
 共産党本部は、広場に面して、まだ工事中の高い板べいの向こうに建っていた。
灰色のガラス張りで、弓型の湾曲線を強調した、流線型のモダンな、七階建てのビルディングであった。受付は飾りのない、むきだしのコンクリートのだだっ広い地下の廊下にあって、夏休みのせいか、出入りする人の影もなかった。かたわらのガラスのケースのなかには、新刊の党関係の出版物が並べられており、そのなかにアラゴンの『レ・コミュニスト』も見えた。そのアラゴンもバカンスで、アビニョンの方に行っているということであった。
それから、ビレット通りをくだって、わたしはペール・ラシェーズへと歩いて行った。
 大通りの中央には三列もの街路樹が並んでいて、その木かげに市がひらかれていた。ちょうど花屋もあったので、花束を三つ買った。

 アラゴンの「若者たちに」

 墓地の高いへいはツタにおおわれ、鉄の門はりっぱなものであった。パリ・コミューンの「血の週間」には、この門も砲撃されコミューン戦士たち──連盟兵たちは、墓のあいだで、ベルサイユ軍と白兵戦を演じながら、東南のすみの壁ぎわに追いつめられ、そこで全員、銃殺されたのであった・・・正門からはいってゆくわたしも、ちょうど連盟兵たちのように、墓石のあいだをさまよいながら、最後の壁までのぼってゆくことになる。
 そこには詩人ミュッセが柳の木の下で眠っていたり、皮肉なことに、コミューンの残虐な圧殺者ティエールも豪奢な墓におさまっているのだ。
 壁の近くにくると、右手に、ひときわ高く、ブロンズのやせさらばえた群像のモニュマンが、異様な迫力でせまってくる。その下の墓石には「ナチの収容所で倒れた十万の死者たちに」と刻まれている。
 そのとなりの「若者たちに」ささげられたモニュマンには、つぎのような墓碑銘がきざまれていた。
 「人間はどのように倒れるべきか、そして人間は、勇気と献身によって、どのように人間の名をまもりつづけたか──ねがわくば永遠にこの墓がそれを告げ知らせてくれるように。アラゴン」

 レジスタンスの歴史がある

 それから、あのシャトーブリアンとモン・バレリアンの殉難者にささげられた墓碑があり、アウシュビッツの死者たちをとむらう記念碑があった・・・
 ここには、あのレジスタンスの殉難者たちがとむらわれ、レジスタンスの歴史が眠っているのである。
 これらの墓碑につづいて、偉大な名前が並んでいた。「ジャン・リシャール・ブロック──小説家にして詩人」という墓石には、つぎのようなブロック自身のことばが刻まれていた。
 「ああ、作家のインキは、それが血と涙にまみれ、まじりあってこそ、不滅の価値をもつ。一九四三年のラジオ放送より」
 そしてポール・バイヤン・クーチュリエ(ユマニテ編集長、作家)の墓があり、そのとなりに「自由」の詩人エリュアールが眠っており、そのまたとなりに、フランス共産党書記長モーリス・トレーズの黒大理石の墓があった・・・。
 エリュアールの墓には、バラの枝が、墓石を抱くかのように伸びていて、その前に造花のスミレが供えられていた。わたしはたずさえてきた花束を、エリュアールとトレーズの墓にささげた。さーっとしぐれのような通り雨がさわやかに降って過ぎた。そこへ、老母と中年の労働者夫婦らしい一家がやってきてキクのはちをトレーズの墓にささげた。わたしたちは「カマラード」というあいさつをかわしてきわめて自然に握手した。

 「さくらんぼのうれるころ」

 「連盟兵の壁」はこれらの墓の列に向かいあうようにして、道をへだてて、ややそのななめ前にあった。
 この一郭の壁だけは、あたりの新しいりっぱな壁にくらべると、むかしのままらしく、いかにも古めかしく積みあげたれんがが見えたり、ところどころ、銃弾のあとらしい不気味な穴が見えるのであった。その壁に
 「一八七一年五月二十一日~二十八日のコミューンの死者たちにささげる」
 と刻まれた、蒼然とした銅版がかかっていた。
 この壁のすぐ前、スズカケの大樹のかげには、墓石の文字もうすれて、あの「さくらんぼの熟れる頃」の詩人クレマンの墓があった。

 さくらんぼのころが 忘られぬ
 おれのこころにゃ あのころの
 深い傷手が なおうずく

 まことにパリ・コミューンは、短くてむごい春であり、さくらんぼの熟れるころだった。
 いつかもう夕ぐれていた。フランス人民のずっしりと重いたたかいの歴史に心ゆすぶられながら、わたしは帰路についた。裏門のあたりで、門衛が、ピピー、ピピーと笛を吹き鳴らしていた。門限の時刻がきていたのである。(詩人) おわり

(写真)ナチ・ドイツの強制収容所で死んだ人たちの記念碑(ペール・ラシェーズ墓地)

<「赤旗──海外レポート」>