増岡敏和は先輩の詩人赤木健介の作品を整理して詩集を発行したり、追悼文をまとめて「赤木健介追悼集」を発行しています。彼のおかげで赤木健介の晩年の詩作品が世に残されたわけで、まさに「赤木健介のことは増岡に聞け」とわれて然るべきです。反戦詩人の会の同志であった長田三郎の詩集や遺稿集を発行して世に残した鈴木初江のことが連想されます。
(「赤木健介追悼集」 一九九三年四月)
(「赤木健介追悼集」 一九九三年四月)
増岡敏和さんが発行していた詩誌『日曜』144号(2004年5月)が大島博光の蔵書に残されていました。この頃博光は入院していたはずだが見たのかな?と思って中を見ると博光の字で「宮本勝夫、増岡 2004.7.17」とメモ書きがありました。日曜詩の会の会員名簿には宮本勝夫さんと山岡和範さん、増岡敏和さんの名前があり、杏林大学病院のお見舞い写真の3人は日曜詩の会のつながりで、7月17日にこの詩誌を持ってお見舞いにきてくれたのだとわかりました。『日曜』の発行元の日曜舎は大島博光の『フイ・カーン詩集』も発行しており、増岡さんのおかげで『フイ・カーン詩集』が出版できたこともわかりました。
*増岡敏和は広島出身の詩人で、『原爆詩集』の峠三吉と一緒に詩のサークルで活動した。その後東京で民医連運動に参加しながら反核の詩を書いた。「戦争に反対する詩人の会」(982年10月〜2002年1月)に参加して「反戦のこえ」の編集に携わった。鈴木初江とも親しく、詩誌『稜線』の前号評を書いた。
*2010年に奥様が大島博光記念館を訪れています。<増岡敏和さんの奥様>
*「反戦詩人と市民の集い」(上田市民会館)における講演<抵抗詩について>
*わたしは歴史のなかに坐っていた<メニルモンタンの坂の街で>