FC2ブログ

長田三郎

ここでは、「長田三郎」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


長田三郎から博光に寄贈された「原爆の子」(岩波文庫)の裏表紙にメッセージが書いてありました。
表紙カバーに「原爆の図」の一部分が使われているのは出版社の商業主義のためで、本書の内容とは関係がないと苦言を呈しています。
1

戦争から復員した私が31歳のとき、多忙な父に協力して編集した本でございます。当時私は早大露文科に在籍しておりました。
「原爆の図」は岩波の商業主義です。「原爆の子」には縁もゆかりもありません。長田三郎

2

目をアジアに
                 長田三郎

「原爆で日本が降伏し
アジアが救われた」
「原爆は日本の侵略の当然の報いだ」
天皇の軍隊に肉親を虐殺された
アジアの人民の声が聞こえてくる

アジアの人民の心には 広島は
「被爆都市」であるより前に
「アジアを侵略した日本の基地」
として認識されている
「軍都」としての戦前の広島の役割を知る
アジア人は怒りを隠さない
「だから広島に原爆が落とされたんだ」
原爆すらも「加害の延長」として捉える
アジアの人民の声が高い

これを聞いた被爆者からは
「悲しいかぎりだ」
「罪もない女・子どもたちの死は
これでは浮かばれない」
涙声が聞こえてくる

瞬時にして「生き地獄」と化した
原爆の惨禍を体験し
今なお原爆後遺症に苦しむ
被爆者の思いも痛切だ
広島はこれまで被爆体験を
歴史の流れの中からすっぽり切り離して
受けた被害の大きさを語ってきた
逆に アジアの人民には
「原爆が 日本の侵略による
すべての抑圧を解放してくれた」
との思いがある
その溝は 四十八年たった今も
埋まっていない
その溝を埋める糸口は
互いに相手の被害の実相を知ることにある

市民団体の招きで 広島を訪れ
原爆資料館を見学した
マレーシアやフィリピンの被害者は
「日本にも 罪のない多くの
戦争犠牲者がいたことに気づいた」
と語っている

広島・長崎を訪れ 被爆者から取材した
韓国の記者は
「被爆者の痛みや放射能の恐怖を知った」
としみじみ話している
「中国青年報」の記者殷・紅さんは語る
「広島は 第一幕の悲劇であり
同時に 最後の一幕であるべきだ」

アジアの人たちも
広島の被害の実態を知れば
単純に「加害責任」だけで
切り捨てられないことが分かる

核実験禁止や核廃絶を求める広島の訴えは
これまで 米ソをはじめ
核保有国や国連が中心であった
しかし今後は
広島から積極的に
アジアの人々に被爆の実相を伝え
同時に
アジアの人々が受けた被害について
深く知ってゆくなら
やがて被害・加害の関係を超えて
同じ「戦争犠牲者」としての立場から
広島の痛みや教訓も
共有されるに違いない

天皇の軍隊にとっては
敵も味方も 人民は虫けらに過ぎなかった

マレー半島では非戦闘員の女子どもを
無残に虐殺した
南京二十万の虐殺
ハルピン郊外の七三一部隊で
「丸太」と呼ばれ
細菌兵器の実験材料にされた
中国人・モンゴル人・ロシア人
大久野島で毒ガス弾を製造し
各戦線で投下
従軍慰安婦強制連行
沖縄島に逆上陸した皇軍は
住民に自決を強要し銃剣で刺殺

天皇制軍国主義とアメリカ帝国主義──
人民はいつもつんぼ桟敷に置かれていた
原爆投下の二カ月前に
ジェームズ・バーンズ長官は
「ソビエトをコントロールするために
原爆投下は必要である」
と明言している

少数とはいえ
広島を知るかつての留学生は
「被爆の実相をアジアにもっと伝えてほしい」
「広島は反核運動のリーダーシップを取ってほしい」
との注文を強く出している

核拡散が第三世界に広がり
プルトニウムの蓄積による日本の核保有にも懸念を抱く彼らは
核時代における広島の持つ重要性を
強く意識している

アジアの幅広い人々の理解を得るとともに
被爆地の役割に熱い視線を注ぐ人たちの
期待に応えることが
今 広島に求められている新たな課題だ

マレーシアのニュースカメラマン
オマー・サレーさんは訴える
「アジア諸国の人々は 今日本が
自らもアジアの一部だと
気がつくのを
待ち続けているのだ」
            (一九九三・九・一〇)

(『長田三郎遺稿集 目をアジアに』1994年)

1



刊行のことば ──多くの友情を謝して──   鈴木初江

 四十九年目の八月が間もなくくる。ことしの八月は更に追憶の頁が加わることになるだろう。「死んだ人との約束は守らなければならない。死者は破ることがないのだから」といったのは二年前に亡くなった土屋二三男氏。その言葉が妙に私のなかに沈んでいる。
 昨年十月、埼玉飯能病院のベッドで、長田さんはペン、私は言葉で「燕」以後の詩をまとめようと話しあった。長田さんは「八月までにだして頂けたら」とかいた。八月六日の原爆、七日は第七回上田平和音楽祭。私はしっかりとうなづいた。「大丈夫よ」と。それが遺稿集として出すことになろうとは。
 長田さんの病状は十二月半ばごろから悪化したようだ。生きる力がなくなりました"死だけを考えます"というハガキが続いた。私は病院に駆けつけた。狛江と飯能は、新幹線で名古屋へ行くより遠い。ナースに聞いたら「食事を召上らないんです」という。不安になって「食べなければだめよ、気力がなくなるから」と強くいったが、私は帰宅後手紙をかいた。"反戦反核をめざすものは最後まで生きることを考えねばならない"と。
 歳暮迫って『十二月二十八日医療センターに移りました"のハガキがきて正月早々とんでいった。十二月は食べることができるのに自ら食べなかった(と思った)。今度は肉体的条件が食べることを拒否した。点滴の連続である。肺の出血が呼吸を犯さないことを祈るばかり。一月末の彼は酸素マスクのままもはや筆談の力はなかった。別れる時握った手は柔らかく、ドアを離れる時ふり返ると彼はうるんだ眼で合掌していた。それが最後だった。
 二月五日の午後若生武男さんから、長田さんの死を伝えられた。その夜更け私はひとり通夜の酒を汲みながら、涙は流れるに任せた。しばらくは仕事が手につかなかった。
 僅か十余年のおつきあいであったが、土屋さんと同様、私の生の最後までの友人であり同志である。そんな思いが深くなる。

 遺稿集の整理をしていて十年前の「第四回反戦・詩人と市民の上田集会」の資料を読み返すと、長田さんがその成功にいかに情熱を傾け献身したかが痛いほど伝わってくる。それは彼の反戦反核への希求の深さであろう。講演者も今は亡き藤原定氏を始め大島博光、長谷川龍生、森田宗一、増岡敏和氏や地元の故人となった小崎軍司氏など、補助椅子を何度もだすほどの盛況、熱気溢れるとはこのことをいうのであろう。長田さんを支える人々の心の結晶のように思えた。彼をとりまく友情の輪はまことに大きく厚い。「燕」出版の際もそれは充分あらわれていた。そして詩人以外の人の協力が大きかったことも。
 十年経つと日本の政治情勢はいよいよ好ましからざる方向に進み、長田さんの反戦反核の思惟は止むことなく高揚した。『詩人はもっと敏感な反応を示さなければ"、ペンと言葉でそんなやりとりを度々した。近藤芳美賞になった。歴史より教へらるるはただ一つ人は歴史につひに学ばず"には長田さんの押え切れない怒りがこめられている。
切ないまでの反戦反核の志は、長田さんの血潮のようにも思える。戦場の惨(むご)たらしさ、被爆─そこには愛する肉親もいた。それらを背負いながら長田さんの思惟は、人間として生き得るための戦争悪へのたしかな視点、思想はヒューマンな前進を遂げつつあった。(彼の詩はそれらの全面的全身的表現である。詩についてはいつか改めてかくことがあると思うが)彼の思想は生そのもの―強靱な意思を支えるものはつつましさとはじらいのナイーヴな精神ではなかったか。時にみせるはげしさは、二つのものの相克であったかもしれない。
 それはまた、反戦反核の思想は彼の眼を、日本人の心に疎かにされていた"アジア"へ向かわせたこと、今ようやく南ア自身の再生と世界の目がアフリカへ大きく開かれてきたことと合わせて、彼は人間の未来への、希求と信頼に満ちていたことを特筆したい。私はこの遺稿集の題名を「目をアジアに」の彼の詩からとることにした。
 長田さんと私との交友は、彼の反戦反核の志にあるといっても過言ではない。したがって他のことは殆んどしらない。血縁について彼が話した(かいた)のは、娘さんが大学院を出て助手になった、ということだけだったが、その時の彼の顔はすなおな喜びに溢れていた。
 私は思いだす。詩の先輩深尾須磨子がよく口にしていた言葉を。「私がどう生きたかではない、私が何を志していたか、をしっかり受けとめてほしい」と。長田さんもそう願うのではないだろうか。もちろん生き方と志がバラバラでいいというのではない。しかし人間の生活には、他のふみこめないものやどろどろしいものがつきまとうこともある。超克への道程をたどりながら志を貫こうとしたであろう長田さんの"生"を大切にし、真に悼むのであれば反戦反核の思想を、いかに私たちの人生に根づかせ広げるかにあるのではないだろうか。
 最後に私はかいておきたいことがある。彼は「戦争に反対する詩人の会」の世話人であったが、所属に必ずそのことを明記していた。おそらく彼は誇りをもって記したのではないかと思う。
 一九九二年出版の詩集「燕」は、彼への私の友情の贈りもの、そしてこの遺稿集は、上田在住の内田貞夫、金沢道弘、杉山洋子氏らを始め山の友人若生武男氏は本書に入れることができた「太郎山のお地蔵さん」という詩を、長田さんが太郎山の頂上で朗読したという思い出とともに送ってくださった。またわだつみ会の前副理事長中村猛夫氏、梅靖三氏、地中海信濃支社の鈴木直臣氏、構想の会清野竜氏、旧友石井茂氏など、詩人の池田錬二、増岡敏和、山岡和範氏など、その他多くの方の惜しみなき協力があったからこそ、出版することができたと思う。「燕」の時と同様「稜線」同人の安在孝夫氏に、今回も校正をお願いしたことと併せて皆様の友情に深い感謝をささげます。長田さんへの限りなき哀悼をこめ、この遺稿集が、人間の哀しみと尊厳をしるすべての人に読んでもらいたい、と切に願うものです。
    1994年6月

※詩とエッセイの殆どは「稜線」と「反戦のこえ」に掲載されたもの、短歌とエッセイのなかには同工異曲のもの(同表現も)があり、短歌は酷似のものは省きましたが、エッセイについては大方そのままであることをご諒承下さい。なお誤りがありましたらど訂正などお願いできたら幸いです。

(『長田三郎遺稿集 目をアジアに』)

目をアジアに



岩崎信子さんの朗読とお話の会で長田三郎の詩「太郎山のお地蔵さん」を朗読。長田三郎が中心となって「戦争に反対する詩人の会」全国集会を上田で開催したとき、アナウンサーだった岩崎さんが協力して取材した縁がありました。

1

(『長田三郎遺稿集 目をアジアに』1994年8月 稜線の会)

1

 詩人長田三郎が上田で暮らした15年は、学習塾を経営しながら太郎山に登り、反戦詩人の会の世話人として平和音楽祭などに取り組んだ時期でした。
 杉山洋子さんが同人誌の長田三郎追悼特集で書いています。
    ◇    ◇    ◇    ◇
「教育学とは真に子供を守り育てる学問である。」といわれる長田教授は一九六一年に亡くなるまで「原爆孤児精神養子運動」などに献身的にとりくまれ、三郎氏は父君と共に活動されつつ児童文学者の道を歩まれたという。
 さて、その三郎氏は上田に住み上田原の駅前にミネルバという学習塾を構えておられた。十余年前世話人をされていた「戦争に反対する詩人の会」のつどいが上田で開かれ、そこで知り合ったのが最初である。六十を少しすぎたくらいのお年の割りには老けてみえた。しかしかなりシャイで、少年のようにはにかんで話す姿は皆に好感を与えた。七年前、長野の平和音楽祭に行ってきて感激した人々が喫茶店「木の実」に集まって「上田でも平和音楽祭をやろう。」となったとき、三郎氏と私もそこにいた。おっちょこちょいの私は、事務局を引き受けさせられ、パンフレットやポスター作りにとびまわることになった。(略)そのときはじめて毎日太郎山へ登っているということをおききした。
 毎朝三時には起きてロシア文学の翻訳をやり六時になったら朝食をとって登山靴ででかけるという。上田原の駅前から山を目ざしてテクテク。年間登山日数二五七日は、たしか太郎山最多登山回数として表彰されたのである。太郎山の帰りは郵便局へより、本屋へよりして、午後三時ころミネルバへかえる。四時ころからは勉強に来る子供達の相手をしている。という生活ぶりであった。かなり熱心な塾の先生であったらしく一九九一年に彼が脳出血で倒れた時面倒をみてくださったのは子供達の親たちであった。
(略)
 脳出血で右半身不自由になって鹿教湯で療養していた三郎氏は喉頭ガンになり新宿の国立医療センターで手術をされ声を失われた。しかし精神は強靭でますます冴えわたり、毎年病院のベッドの上から詩やPKOや世界情勢を憂慮した長文のメッセージを送ってくださり、実行委員長の役を立派に努めてくださっていた。お元気でガンなど克服しているかにみえたのに、昨年お兄さんがとつぜん亡くなられ、大変ショックをうけられたときく。十二月から点滴だけで命をつなぐ状態、ついに二月五日を迎えてしまったのである。
 ところで病床の三郎氏にある日突然若々しい奥様と大学院生である娘さんが現われたのである。
 仙人に妻子がいたような感じでびっくり仰天したのであるが、安心もした。
  大学院に受かりましたと吾娘の声
       電話にはずむ春雷の朝
親としてのこんな歌ものこされている。
(以下略)

(杉山洋子「長田三郎氏のこと」『稜線』51号 1994.7)

太郎山


『原爆の子』は広島で被爆した少年少女たちの体験記集で、1951年に刊行されました。自らも被爆した広島大学教授で教育学者だった長田新は平和教育の資料にする目的で被爆体験の手記を集める計画をたて、学校をまわって執筆を依頼、多数の手記が集められました。これを編集して出版すると国際的にも反響を呼び、多国語で翻訳出版され、国内では映画『原爆の子』や『ひろしま』が制作されました。

長田新の息子の長田三郎が『原爆の子』出版の原動力となって働いたことを増岡さんが本人から聞き取り、書き記しています。

1
2


(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

1

長田三郎は1942年、松本連隊に入隊するとき、一高は自動的に卒業になると言われたが、「一高の在学生として戦死したいので籍を残しておいてほしい」と希望しました。エッセイ「奴隷兵士」にそのことを書いています。


1
2
3
4


( 『稜線』46号 1993年4月)

49




ブブノワ女史は戦前と戦後、早稲田大学文学部でロシア語を教えた名物講師で、たとえばロシア文学者の上田進も多くの影響を受けたといいます。(<人間上田進について> 短かい生涯 秋田雨雀)
 長田三郎も戦後、ブブノワ女史の講義をうけて影響を受けたことを長谷川七郎が「長田三郎をいたむ」で書いています。なお、長田は一高在学中に出征したが、通常一高では繰上げ卒業の扱いをしたが「長田さんは必らず復学するから在籍のまま兵役に服したいと云って、戦後に予定通り一高に復学された。これは異例のことで長田さんの自慢の一つであったようだ」(内田貞夫「長田三郎氏を悼む」)

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 長田が敗戦後復員し私大のロ文科に入学し「デカブリストの妻」を訳した谷耕平や同じロシア語の講師ブブノワからプーシキンの「オネーギン」の朗読の指導をうけその美しいロシア語の発音を通じて、はじめて詩のリズムとハーモニーに触れたと述懐している。
 ローマン的な傾向をこのむわたしは、アナトール・フランスやメリメとともにプーシキンの小説は愛読してきたが、「オネーギン」や「ルスランとリュドミーラ」の物語り詩をすじを追う読物としてたのしむことはあっても厳格な韻を踏む詩として取り組んだことはなかった、「オネーギン」の本文だけでも五千三百行余の大部である。プーシキンの詩をいく分か読み返した動機は、長田にならったわけではなく、わたしの友人の詩人で、長田と同じ学校でロシア語を学んだ、草鹿外吉のプーシキン詩集の訳業によるものである。(プーシキン全集全六巻中、一巻、六三〇頁を占める、抒情時、物語詩<河出書房新社>)草鹿も近年死んだ。
 長田の詩を形成している方法の特性には韻文的なものと朗読性が色濃い、語学の修得を主とした戦前の旧制高校時代、ドイツ人講師ベッオルトから、ハイネの詩の朗読を、復員後の大学では、ロシア人、ブブノワからのプーシキンの詩の朗読をと、感受性の強い時期での長田が受けた影響は当然であったろう。
 各人の資質によるものであったろうが、長田より十年年上のわたしが詩にかかわった時期は与謝野鉄幹らの朗詠調の韻律詩から、すでにフリーヴァースの自由詩の時代に入っていた。

 一九六四年の夏、北コーカサス以来二〇年の友人であるオデッサ大学のガッカエフ夫妻からの招待でわたしども夫婦は黒海周遊の旅をした、ヤルタでモスクワに向うガッカエフ夫妻と別れ、わたしどもは黒海航路の終点に近い、いま民族独立問題でゆれているアブハジア自治共和国のスフミに向った。スフミで数日をすごし、バルト三国に行く予定であったが、悪名高い政府機関のトラブルにあいスフミにしばらく足止めされ、その後モスクワ経由で日本に直送されるように措置された。
 日本で三十六年間も暮らし、老後を黒海の保養地のここスフミで隠世している程度のブブノワ姉妹の消息は知っていたので、無聊の一日を割いて訪ねることを思いついたが、昼は海水浴、夜はバーでのグルジアワインにかまけて、ついに果さなかった、ブブノワは死ぬ三年前に生地のレニングラードに帰り九十七才の長寿を全うした、その後ブブノワの日本の風物を素材にした水彩画を特集したソビエトの代表的月刊美術雑誌がとどいた。
(以下略)

(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

少女

長田三郎は戦争に反対する詩人の会の世話人として熱心に活動し、毎年2回全国各地で開かれる「反戦詩人と市民の集い」には欠かさず参加して反核の詩を朗読していました。体力の限界を越えて活動した、と松本の詩人・池田錬二さん(故人)が書いています。
    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
追悼

(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

太郎山


鈴木初江が主宰した詩誌『稜線』の51号(1994年7月)で、同人だった長田三郎の追悼特集をしています。同年2月に亡くなった長田さんへの追悼の文章を池田錬二、増岡敏和、山岡和範、安在孝夫、長谷川七郎ら10名の方が寄せています。
中正敏さんの「羽斑蚊(はまだらか)に襲われ」は、長田さんの詩「燕」の由来について書いています。
   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

羽斑蚊(はまだらか)に襲われ      中正敏

 岩波の『原爆の子』の編集に協力したヒロシマ生まれの詩人長田三郎さんに、初めて神楽坂上の都教育会館でお会いすることができたのは、忘れられぬ出来ごとであった。
 『反戦・詩人のつどい』が開かれるので、金子光晴が名古屋から移ってきて卒業した津久戸小学校の向かいのマンションに住んでいる私は、赤城神社横の会館が近いせいもあって、会場に出かけて行ったところ、長田さんがご自身の作品、「燕」を朗読された。

  つばくろよ
  遠い南の国から 今年も巡ってきたつばくろよ
  きかせておくれ
  南十字星のかがやく異邦(くに)の便りを

 この第一連に始まる作品は、長田さんが一兵士として駆りだされ、また捕虜となったバイアス湾沿岸の戦場の想いでの詩篇である。それは、入江を見おろす丘の斜面に長田さんが遺してきた、青春の墓標でもあるのだろう。
 十五年戦争で、多くの若い人命が失われた。長田さんは辛じて生き帰ることはできたものの、兵営で一緒に労苦を共にしたのにサイパン島に不帰の命を落した人たちへの痛い思いは、拭い去ることができないのが感じられる。

 私のエッセイ集「詩とともに」を読んでおられたのか、表紙に本郷新の「鶏を抱く女」の写真をあしらっていることに触れ、長田さんは「わだつみの会」の会員である旨を告げられた。
 わだつみの像は本郷新が作成したものであり、それを末川博教授が立命のキャンパスに誘致して建立されたものであった。
 「末川博と愛」について私が書いていることも知っておられ、実は長田さんのご尊父長田新さんは末川博と親交のあったことなども、お話くださったのであった。
 それいらい、山本宣治の碑が信州上田の人たちによって守られ再建されたことや、太郎山のある上田が長田さんの、<南風と共に千曲川に渡ってきた燕の声を聞くと、バイアス湾の洞窟で聞いた忘れ得ぬ燕の声を思い出す>日びとなったことなど、上田平和音楽祭のお知らせと共にいただくこととなったのである。
 真に人間の尊さを知った長田さんであった。川口の病院にお見舞いしたとき、声帯を切除されていて、筆談により末川博の思想、言論、表現の自由の闘いを称賛されたのが、強く印象に残っている。

(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

稜線