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ソビエト・ロシア文学

ここでは、「ソビエト・ロシア文学」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

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長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




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(『歌ごえ』4号 1947年)

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(『歌ごえ』4号 1947年)

横顔



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(『歌ごえ』4号 1947年)

雪


(5)公爵夫人トゥルベツカーヤ

 ネクラーソフは、一八七〇年に、デカブリストをあつかった長詩「お祖父さん」を書いた直後、公爵夫人トゥルベツカーヤを書こうとおもい立った。一八七一年の冬、精力的に資料あつめにとりかかり、その夏、資料の都合もあってカラビハに行き、そこで、一気かせいにこの一篇を書きあげた。いろいろの資料の中、いちばん根拠としたのは、一八七〇年にライプチッヒで出版された、ローゼン男爵の「デカブリストの手記」であったが、この本は、その当時充分に信用することの出来た「デカブリスト罪罰史」のただひとつのものであった。ことに、元老院広場における反乱の状況と、イルクーツクでの知事とトゥルベツカーヤの交渉のてんまつは、全篇中いちばんローゼンの手記に近いといわれている。
 カラビハで書きあげられたものは、今わたしたちの見るものよりずっと短かった。トゥルベツカーヤの夢に出て来るイタリヤの讃美は、一八七三年に加えられたのであるが、これはすでに一八六七年、彼の外遊中、フロレンスで書かれたものであった。このことが、ネクラーソフ研究者チュコフスキィによって明らかにされている。
 「公爵夫人トゥルベツカーヤ」は一八七二年「祖国の記録」第四号にのせられ、読者の絶賛をえたが、保守的な貴族批評家の陣営からは、「史実を歪曲している」という非難をうけた。ネクラーソフは、一八二〇年代の貴族社会の婦人に、六〇年代「雑階級」の革命的な社会意識をおしつけている、というのがその要点であった。しかしこの場合、ネクラーソフは歷史家の立場でこれを書いているのではなく、むしろ社会批評家、詩人としての立場から書いているので、「否曲」という非難は当らないのである。

 「トゥルベツカーヤ」の成功に力をえたネクラーソフはひきつずいて「公爵夫人ヴォルコーンスカヤ」にとりかかった。このために彼は、マリヤ・ヴォルコーンスカヤのむすこが母の手記をもっていることを知って、再三の頼みの後にそれを読みきかせてもらい、ノートすることが出来た。この一篇は、マリヤの手記を詩に書きなおしたもの、といえるであろう。これは、一八七三年一月号の「祖国の記錄」にのった。

 これまでこの、二篇の総題は、「ロシヤの婦人」として世に知られていた。一九二九年ソ聯版、「ネクラーソフ詩全集」にもこの総題が使われている。しかしその後のネクラーソフ研究は「デカブリストの妻」が正しいことを決定して、一九三一年版には、この総題の下に集錄されている。訳者もまたこれに従った。この決定の主なる理由は──ネクラーソフの原稿に
 デカブリストの妻
    1
 公爵夫人T(トゥ)〔ルベツカーヤ]
     [叙事詩]とあって[ ]の中は後で消されているが、エンビツ書きの標題はそのままのこされていることと、九人のうち三人はフランス系、一人はポーランド系の婦人で、これを一概に「ロシヤの婦人」というのは、事実とかけはなれるきらいがあり、「デカブリストの妻」とする方が、よりぴったりするはずである。しかし、一八七四年版詩集にネクラーソフが「ロシヤの婦人」という総題を用いたのは、それによって多少とも国粋的なひびきをもたせ、検閲を緩和させようという戰術であったと考えられる、という二つの点にある。
 検閲を緩和させるためには、ネクラーソフは少からぬ苦心をした。したがって、最初の原稿と、発表されたものとの間には、かなりのちがいがあって、ソ聯のネクラーソフ研究は、これについてくわしい考證をしている。それを紹介することは、興味深いが、ここには割愛する。

 ネクラーソフはこれまでわが国へ充分に紹介されていない。しかし、この作品については、訳者の知る限りただ一種、大正十二年版、深見尚行氏訳「ロシヤの婦人」がある。今度ほん訳に当って參照することが出来て、いろいろ教えられる点があった。ただ、帝政時代版テキストに操られた深見氏訳と拙訳とは、諸処異る点があることを書きそえて置く。なお、「トゥルベツカーヤ」の「エピローグ」は、ネクラーソフ研究者エフゲーネフ・マクシモフによって発見され、一九二〇年に発表されたもので、それ以前のどの刊行物にもない。ソ連版詩全集では別のところに印刷されているが、訳書では「トゥルベツカーヤ」の後につけた。
 終りに、このほん訳出版に当って畏友井上滿兄から同志的援助と激励をあたえられたこと、ブブノワ先生から教えをうけ、特に裝ていをしていただいたこと、新星社の丸山、藤田両兄から、とくべつの支援をあたえられたことに、深い感謝の意をあらわして、このあとがきをむすびたいとおもう。
  一九四七年二月       谷耕平

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」 新星社 昭和二十二年十二月)

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(4)デカブリストの反乱

 「デカブリストの妻」は、ロシヤに起った最初の民主々義革命運動、デカブリストの反乱に関係したものがたりをとりあつかっている。
 ロシヤでは、一八一六年ごろから、貴族青年(多くは近衞聯隊の将校)の間に、農奴制を廃して西ヨーロッパ諸國のような、立憲政治の行われることをのぞむ思潮が強くなって、「平安協会」、「南方協会」「北方協会」「スラヴ聯盟」等、いくつかの秘密結社が次々に出来た。これら青年將校にひきいられた近衞聯隊の一部が、一八二五年十二月十四日(旧暦)、かねて將兵の間に人望のなかった新皇帝ニコライに対する宣誓式を機会に、首都ペテルブルグの元老院広場に集結して、反ニコライの氣勢をあげた。この反乱は、運動自体が、大衆的基盤をもたなかったこと、運動者相互の間の連絡が欠けていたこと、その他あらゆる点で準備が不足であったために、たちまちにして鎮圧され、ルイレイエフ以下、この運動の主謀者と見られる者五人が死刑に、八十八人がちょう役に、十八人がシベリヤ流刑に、その他多くの者が追放、官位はく奪、奥地勤務等それぞれの刑に処された。この事件の関係者をデカブリスト(デカーブリは十二月の意)というのである。

 この事件の起った翌一八二六年、十八人の流刑者がシベリヤへ送られたのであったが、その直後、その内九人の人たちの年若い夫人たち、ムラヴィヨーワ、イワーシェワ、トゥルベツカーヤ、ナルイシキナ、ローゼン、ヴォルコーンスカヤ、アンネンコワ、エンタリツェワ、ユシネーフスカヤが、夫の後をしたってシベリヤへ行った。当時ロシヤの法律では、流刑者の妻には離婚の自由が許されていた。それにもかかわらず、この九人の婦人たちは、夫への限りない愛の故に、住みなれた上流の生活をすて、周囲の反対を押しきって、極寒の季節に、何千露里人気ないシベリヤの荒野へ旅立ったのだ。十二月事件の後、ツァーリ政府の進歩的思想へ加えた弾圧はきわめてはげしかった。ゲルツェンが「過去と思素」の中でいっているように、男たちは、昨日まで親しくしていた「これらの人々」へ、一言の同情のことばも敢えて発しなかったような中で、か弱い婦人にしてこの愛の大事業を成しとげたことは、真に歷史的事件といわなければならない。

 ツァーリ・ニコライは一旦この婦人たちのシベリヤ行きをゆるしたものの、その社会におよぼす影響の大きなことをおもって、何とかして途中から引きかえさせようとした。イルクーツクで、一切の財産上、名誉上の権利を放棄し、單に流刑者の妻とよばれる以外もはや貴族の称号も用いることが出来ず、法律はその受けるであろう一切のはずかしめからの保護を保證せず、流刑地で生れ育つ子供は、官営工場の労働者となるべきこと等々の一札に署名させたことは、おどしの一手段であった。しかしデカブリストの妻たちは、その志をまげなかった。かの女らは長いことシベリヤにくらして、老婆となってようやく故郷へ帰えったのであったが、しかも帰えれたのはその九人の全部ではなく、ムラヴィヨーワ、イワーシェワ、トゥルベツカーヤの三人は、流刑地で亡くなったのであった。
(つづく)

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」 昭和二十二年)

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(3)詩人としてのネクラーソフの仕事

 詩人としての、ネクラーソフの仕事はどうであったか?ベリンスキィと知りあってからの彼の詩が、先人にはない独自のひびきをもつようになったことはすでにのべた。そしてそのひびきは、現実の廣さと深さを見きわめた詩人だけがとらえることの出来る、民衆のこころの底のさけびであった。
 このひびきは、初めのうち、すすり泣きに似て弱々しく、絶望的な暗ささえおびていた。たとえば、さきにあげた「途上」の中に、一八四六年作「ふるさと」の中に、一八四七年作「夜ふけて、暗いまちをゆく時」という書き出しの無題の詩の中に、さらに一八五四年作「刈りのこされたうね」の中に、わたしたちはこのひびきを聞くのである。しかし、革命的民主々義思想の波が高まった五十年代末から六十年代に入ると、このひびきは次第に強くなって来る。ネクラーソフにとって民衆は、もはや永遠にしいたげられる力弱い者ではなく、革命のにない手としての強さ、明るさをもって来たのである。一八六三年作「赤鼻のマロース」の農奴の寡婦ダーリャは、外見には弱々しく、限りなくやさしくとも、こころの底には、どんな圧迫にも苦しみにも負けない強さをもった、スラヴ女の美しい典型として描き、うたわれている。
 この詩境がさらに高まったのが、ここに譯出した「デカブリストの妻」であり、また晚年の大作で且つ傑作「ロシヤはだれに住みよいか」であろう。
 ネクラーソフの、非常に多量な、詩作品の中には、「途上」、「ふるさと」、「ヴォルガのほとりで」、「ドブロリューボフをおもう」「兵たいの母オリーナ」「ひと時の騎士」のように、すぐれた短詩ももちろん多いが、ものがたり的構成をもった長詩(ポエーマ)の中に、より多くすぐれたものがある。少くとも、リアリスト詩人としての彼の本領が見られるとおもう。「赤鼻のマロース」にしても「デカブリストの妻」にしても、「ロシヤはだれに住みよいか」にしても、すべてこの種のポエーマである。
(つづく)

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」 昭和二十二年)

彫像


(2)雑誌編集者として不滅の功績

 一八四三年から、ネクラーソフとベリンスキィの親密な関係が結ばれるようになった。ベリンスキィは、そのまわりにあつまる貴族の知識青年とはちがった、民衆的精神につらぬかれた素質をネクラーソフの中に見出して、熱心に年若い詩人を教育した。ベリンスキィのよい影きょうの下で、これまでの詩には――ヂゥコーフスキィにも、プーシキンにもレルモントフにも――ない、ネクラーソフ独自のひびきをもつ詩が書かれるようになった。一八四五年、民衆のことばで、民衆の深い悲しみをうたった「途上」が、ベリンスキィのまえで讀まれた時に、目に涙をたたえたベリンスキィはネクラーソフをしっかりと抱いて「きみは、詩人であることを、ほんとうの詩人であることを知っているか?」といった話は有名である。

 一八四三年から、ネクラーソフは、いくつかの文集の編集、出版をはじめたが、それがしだいに成功した。とりわけ、一八四六年に出した「ペテルブルグ文集」には、ドストエフスキィの處女作「貧しき人々」をのせて、非常な評判をとった。 一八四七年からは、友人とそう談して、第二次「ソブレメンニク(同時代人)」(プーシキンがはじめて、その死後ふるわなかった雑誌)の発行をはじめ、その編集と経営に精根をうちこんだ。ベリンスキィは、一党の作家、批評家をひきいてこの雑誌に拠り、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、オストロフスキィ、レフ・トルストイ、サルトゥィコフ・シチェードリン等々、後世ロシヤ文學の巨星といわれた人たちが、すべてこの雑誌に書いた。

 一八四八年、フランス二月革命の後には、とうとうとしてロシヤヘ流れこむ革新の波を抑え、農奴制を維持しようとするツァーリ專制の、あらゆる進步的思想に加えるだん圧が烈しくなった。気ちがいのような検閲のあらしと闘って、民主的精神を高くかかげる雜誌をまもることはとうていひととおりふたとおりの苦ろうでは出来なかった。少年から青年への時代にどん底の生活の中で自分をきたえ上げ、高い詩人的精神とともに実際家としての手腕をもかねもつことが出来たネクラーソフにして、はじめてやりとげられることであった。
 一八五〇年代になると、没落地主・下級官吏・僧侶の子弟等、ロシヤ社会史の上で雑階級(ラズノチンツィ)とよばれる知識青年層が、それまで支配的であった上流貴族知識層に代って思想界に頭をもたげて来た。チェルヌイシェフスキィ、ドブロリューボフ、ミハイロフ等がその代表者である。これらの人たちは、貴族知識層が上からの人民解放をのぞむのに對して、人民の力による人民の解放の道をもとめる、革命的民主々義を主張した。
 一八五三年、ネクラーソフはチェルヌイシェフスキィと知り合って、その論文を雜誌にのせるようになったが、五五年にはドブロリューボフを見出し、五六ー五七年にかけての外遊(主,としてイタリヤ滞在)から歸えった後には當時検閲が少しくゆるくなったのを機会に「同時代人」を革命的民主々義陣営の合法的機関誌とする決心をした。しかしこのためには、たとえばツルゲーネフのような、昔からの僚友と別れなければならないというような、個人的にはたえ難いものがあったのである。しかし、かつてベリンスキィの忠告によって処女詩集を廃棄したと同じ勇氣をもって、ネクラーソフはこれをだん行した。そしてこのことは正しかった。一八六一年には、アレクサンドル二世の手によって、農奴制の廃止が実施された。しかしこれは、真の人民解放ではなかった。その後の歴史が證明するように、真のロシヤ人民の解放は下から盛りあがる人民の力にまつ、革命の道以外にはなかったのである。

 一時ゆるやかになった検閲の手は、またもやその暴力を強めて、一八六二年、「同時代人」は八ヶ月間の発行停止にあい、チェルヌイシェフスキィが検挙された。一八六六年、ついに決定的な発行禁止の命令が、「同世代人」の上に下され、ネクラーソフは、雜誌無しの二ヶ年をすごさなければならなかった。一八六八年、經營的に行きずまっていた雑誌「祖國の記錄(アチェチェストヴェンヌイエ・ザピースキ)」の発行權を買い、これに「同時代人」の内容を盛ることになった。今度は、サルトゥイコフ・シチェードリンが、主な働き手として編集局に入った。こうして、ネクラーソフの雑誌編集、經營の仕事は、死ぬ(一八七八年一月)までつずけられたのであった。
 彼が、よし一生の中に一行の詩をも書かなかったとしても、編集者として、たとえばドストエフスキィ、ゴンチャロフ、トルストイ、チェルヌイシェフスキィ、ドブロリューボフ等の才能を、その書き出し作家の中にいち早くも重大に評價し、歴史発展の正しい方向に雜誌を維持、経営して、ロシヤ解放運動史の上にはたした功績は、不滅のものとして永遠に記念されるであろう。
(つづく)

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」 昭和二十二年)

図書館



「デカブリストの妻」 あとがき     谷耕平

(1)ネクラーソフの青年時代──半餓えの生活

 昨一九四六年十二月は、ネクラーソフ(ニコライ・アレクセーヴィチ)が生れ(一八二一年十二月四日……新暦)てから、満百二十五年にあたった。ソ聯ではこの詩人を記念するために、大規模な全集の発行が計畫、實行され、全聯邦をあげて盛大なお祭が行われた。十九世紀ロシヤ詩人の中で、彼ほどに民衆に親しまれ、今もなお廣く讀まれている詩人は少い。

 彼の父、アレクセイは、中流の地主貴族であったが、ニコライが生れると間もなく、陸軍士官(少佐)の職をやめ、ヤロスラーヴリの市からほど近い、親ゆずりの領地グリシェネヴォという、ヴォルガ河のほとりの小村にひっこんで、當時のロシヤ小地主に通有の無氣力で淫蕩な生活の中で、しだいに家産をかたむけてしまった。母のエレーナは、當時ロシヤよりも文化の高かったポーランド、ワルソーの生れで、こころやさしく文學にも音樂にも通じて、教養の高い婦人であった。ネクラーソフの詩人としての素質は、この母からうけている、といわれる。
 ヤロスラーヴリのギムナジャヤ(帝制時代の八年制中學校)へ入るまでの十二年間を、父の家でくらしたネクラーソフの幼いこころには、農奴制のおそろしい笞の下で、「地主の家の最下等の犬のくらしさえ、うらやんでいる」ような(一八四六年作「ふるさと」)、あわれな農奴のすがたが焼きつけられ、この苛酷な制度に対する、はげしい反逆といかりが芽ばえたことである。
 一八三八年(七月)近衛聯隊に入れという父のいいつけで、ネクラーソフは、ペテルブルグへ出たが、彼は父のいいつけにしたがわずに、大學文科の聴講生になってしまった。没落地主の父からは、いいつけにそむいたむすこへの送金は一錢もなかった。これから長い間の半餓えの生活がはじまる。安い家庭教師、手紙や届書の代筆、雑誌編集の手つだい、……出来る仕事は何でもしたが、なおかつ滿足な食事をとることが出来ず、嚴塞のさ中に屋根裏の貸間からさえ追い出されて、浮浪者の集まる地下室の木賃宿を轉々としなければならないような狀態の中で、大都會の生活の波に押し流されたみじめな民衆の生活を、底の底まで彼は知りつくした。後年民衆の「涙と復讐の歌い手」として大をなした詩人の精神は、この時代にきたえられたのであった。
 こうしたむざんな生活の中でも、すでに少年の日にめざめた文學への情熱は失せなかった。
 一八四〇年の初め、或る親切な人の援けによって詩集「まぼろしとひびき」が出版された。これは当時ロシヤの讀書界に流布していた、ロマンチックな、誇張的な詩で、その年三月、民主的批評家の第一人者ベリンスキィは、こうした詩が「現實の乱展のために」有害である、というきびしい批評を、雑誌「祖國の記錄」に乱表した。ネクラーソフはこの意見にしたがって、まだ売れ残っている本屋の店頭から自作の詩集を全部買いあつめ、これを廃棄してしまった。
(つづく)

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」新星社 昭和二十二年)

表紙


 3)ユダヤ、アルメニヤ

 ユダヤに移ろう。そこにはフェフェルとハリクという二人のすぐれた詩人がいる。フェフェルはソビェート時代になってから詩作をはじめた若い詩人で、ユダヤの詩壇にはじめてコムソモール的な勇ましい抒情詩を提供し、市民戦争や社会主義建設における闘争的な精神をひきいれた作家だ。フェフェルは、社会主義建設の主題をとくに積極的にとり入れ、歌いあげたという点で、注目されていい人だ。彼はおそらくソビェート文学において最も早く、ドニエブロストロイを歌った詩を、五ヶ年計計画の工業化と電化の事業の詩を、あるいは社会主義文化の繁栄を称えた詩をかいた詩人の一人であろう。もう一人の詩人ハリクは、やはり立派な社会主義建設期の詩人である。彼はユダヤの村落における建設の過程と人間の意識の改造とを描きだしている。最近はまたユダヤにおける富農と貧農との階級的相剋を描いた大きな作品をかいている。

 アルメニヤでは、女流作家のシャギニンは別としておいて、国民詩人の称号を与えられたアコブ・アコビヤンについて書こう。アコビヤンは一八九〇年から詩作をはじめているほどの古い詩人だ。革命前から早くも労働運動に参加して、すでにはっきりとしたプロレタリヤ的な意識をもった詩をかいていた。ソビェートになってからは、いちはやく新しい政権の側にたち、レーニンを讃美した詩やメンシエビイキーを諷刺した詩をさかんに書きまくった。最近の社会主義建設の時代に入っても、なおさかんな創作力を示し、「ウォルホフストロイ」その他の大作を次々にと発表している。その他にはフシトウーニ、チャレンツなどの詩人がいる。
 なお、タタール、ジョルジヤ、タジキスタン、アゼルバイジャン、ウズベク、トルクメン等の諸共和成の詩についても書き、とくにタジキスタンの詩人ラフーチについて少し書きたいと思ったが、もはや与えられた紙数もつきたので割愛することにする。
(完)

(『歌ごえ』3号 昭和23年6月)

花