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上田進

ここでは、「上田進」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 一八七一・三・一八の巴里

  叙事詩「巴里コムミュン」第一章
                             上田進
  
鐘だ!…… 鐘だ!……
めちゃくちゃに打鳴らす警鐘!
おい! 起きろ! 支度をしろ!
銃だ! 劍だ! 旗だ! ラッパだ!
さあ、行こう
お父つあん、おつ母さん、姉さん
小っちゃなジャン、お前もだ!
ほら、銃声がきこえる
狼の様なチェールの軍が攻めて来たんだ
おれたちは、殺されるか、自由になるか
だがおれたちは勝つ!
見ろ! 見ろ!
──出て来る ──出て来る!
歪んだ戸口から、破れた窓から
じめじめした地下室から……
おれたちの仲間だ!
ボロボロの服を着た労働者達
髮を振乱した裸足の若い女達
煤と埃にまみれた子供達……
みんな同志だ!
ナポレオン以末の圧制と搾取と
屈辱と苦痛とに対する
不満、憤怒が、反抗が
今こそ一気に戸外に飛び出したのだ
広場に集ったのだ
巴里の大道を埋めたのだ
積年の敵に向って進軍を初めたのだ
ラッパを吹け! 太鼓を叩け! 足音を高く踏みならせ!
おれたちの憤りの爆発だ!
銃を握った拳の固さを見ろ! おれたちの力だ!
旗を振っている腕の太さを見ろ! おれたちの力だ!

何?やつらの軍勢は三万だと?
よし、おれたちはここに数万居る
何を恐れることがあろう!
その上、国内に数百万の仲間!
ドイツの数千万の同志もおれたちを支持している
イギリスにも、スペインにも……、そうだ世界中に
後押をする無数の同志!
何? やつらには精鋭の武器があると?
よし、おれたちにもある
二十サンチの大砲から鋳びた短銃まで…….
だが、おれたちの最大の武器は団結だ!
かがやけるブロレタリアの魂だ!
進め! この赤旗につゞけ!
おお、赤旗、おれたちの勝利、おれたちの自由のシムボル!
進め! モンマルトルへ
(巴里の夜明けだ!)
やつらがねらっているのは二百五十門の大砲だ
おれたちの武器を渡してはならない
モンマルトルへ、よし、モンマルトルへ……
女達は大砲を守って立った.
胸を叩いて叫んだ――「打て!この胸を」
銃……三発……五発……
おい同志をころすな!
やつらの銃を叩き折れ!
進め! この赤旗につゞけ!
朝だ!
敵の士官は気狂の様に軍刀を振りまわした
だが、おい、見ろ! 兵士達は動かない
おお兵士諸君! そうだ、それでいいのだ
君達の真実の敵は君達の背後にあることが
わかったか! ともだちよ
よし、君達の武器を君達の指揮者にむけろ!
ブルジョアの走狗──將軍ルコントを打倒せ!
群集の前に引出された將軍ルコントよ
泣きわめいたとて何になるか?
おまえの心臓を打拔いた彈丸の数は
お前が俺達に向って放った彈丸の数の幾万分の一か?

おれたちの進軍を妨げる奴をおれたちは容捨しない!
腕を組め!
突き進め! 巴里の混乱の中に……
邪魔ものは踏みころせ!
奪われた大砲を奪い返せ!
三色旗を焼棄てろ!
プロレタリアの旗と並んで
労働者の都、おれたちの巴里を攻める旗だ!
おれたちの呪もその旗を塗りつぶせ!
一色に──一色でいいのだ
そして全世界が……
.
おれたちの進む足音が銃声を消した!
おれたちの喚声が兵士達の限かくしを取った
おれたちの波がかれらをまき込んで流れた
みんなの手と手が、心と心とが、固く結ばれ……
俺達は暴風──やつらをヴェルサイユまで吹き飛ばした
おれたちは春風──赤い花片を巴里に撒き散らした
赤旗に飾られた三・一八の巴里よ! おれたちの巴里!
おれたちの行列は市庁前の広場へ……
同志の屍骸を越え、街上に流れた血潮を踏んで……
おお、屍よ! 見てくれ!
市庁の円屋根に今日こそ、俺達の旗が翻っているのだ!
微風・太陽は中天に、柔かい熱と光……
君たちの血潮もて彩られた何と輝かしき旗!

市庁のバルコンから、コムミュンが宣言された。
広場に集まった群衆──おれたちだ! おれたちみんなだ! おれたちだけだ!
乱舞する……乱舞する……
旗が躍る
帽子が飛ぶ
歌が……
笑が……
今まで搾取されしめつけられていたおれたちが
勝ったんだ! 自由になったんだ
おれたちのものがおれたちに帰って来たんだ!

この喜びを全世界の同志と分けよう
この力を全世界の同志に自覚させよう
この確信を全世界にぶちまけよう
──パリ・コムミュン万歳!
──パリ・コムミュン万歳!
躍れ!歌え!
だが、銃を放すな
戰は継続する

おい! 第二の戦に備えるんだ!
おれたちは組織されねばならないのだ!
全世界の同志よ!
輝かしきブロレタリアの旗の下に!
最後の勝利はおれたちのもの!
だが、その道は険しいのだ!
              ── 一九二八・三 ──

(『日本解放詩集』飯塚書店 1950年)

パリ・コミューン


上田進の逝去のおりに、新日本文学会青森県支部で上田と同志であった沙和宋一が追悼文を書いています。

人間 上田進について

人間肯定       沙和宋一

 赤旗と党員証で飾った同志上田進の枕辺に、三十冊にあまる著書を並べた。日本共産党葬をおわった翌日に、しらべてみると、そのほかに深く隠れていた作品が発見された。

 上田進が早大露文科を卒業したのは昭和六年で、同時にプロレタリア作家同盟に入ったのだが、爾来十四年にしとげた文学的業績は、秋田雨雀氏もいうとおり、『精力的な作家が一生かかってやる仕事を短い歳月で完成』したものであった。机にばかりへばりついて、個の殻にこもる文学の虫ではなかったはずなのに、上田進の驚くべきエネルギーは、どこから生まれたのだろうかと、私は、おびただしい著書の前に頭をさげた。

 上田進は、人民のなかからうまれる文学を育てるために努力を惜しまなかった。労働者農民のよい友であり、その文学のにない手であった。長野県の農村青年のルポルタージュ集『農村青年報告』四冊は、彼の献身なくては存在しえかった。この本は、歴史を客観的に真実として描きうる階級の文学の健在な萌芽であり、われわれにあたえる教訓は大きい。
 ゴーゴリ、プーシュキン、ゴーリキイ、トルストイと翻訳の仕事も大きいが、とくにソヴェートになってからのショーロホフの『開かれた処女地』『静かなドン』、イリフ・ペトロフの『黄金の仔牛』は不朽の作品であろう。上田進は、とおり一遍の翻訳家ではなかった。その作家的資質が訳文に生かされ、たとえば郷里信州の方言を、ウクライナの方言の翻訳として生かすなどの配慮が行われ、行き届いた日本の文章としての  が隈なく配せられ、他のおなじ翻訳と比較すると、いかに抜群の名訳であるかがわかる。
 翻訳家としての上田進は、作家上田進をある程度  にしたといえるのではないかとさえ思われる。私は、昭和十年ころの『文学評論』で『はげしい空』という短編をよんでから、上田進の短編をよんできた。平明で、水のような滋味をもつ恬淡たるスタイルが、上田文学の身上であった。否定と懐疑と自己分裂の、近来の日本文学に、これはまた、特筆すべき肯定的な全人間像の把握があった。この世界観の優位が、そうさせたのはいうまでもないが、上田進の  な、明るく、希望多く、おおらかな人柄にも因しているのは、うたがいない。
 長編『佐久間象山』第一部八百枚が、ちかく刊行される。上田進は象山と格闘して、数年の戦時下に、ひそかな大野心をもやしていた。その本が出ぬうちに、倒れた口惜しさは、もはや、上田進ひとりの問題ではない。
 なお多くの未来をもった作家であった。
(「月刊東奥」22年3・4月合併号)

*沙和宋一(昭和43年1月没)は作家、元「月刊東奥」編集長、初代の新日本文学会青森県支部長)

あじさい

秋田雨雀日記に上田進の葬儀の様子が記されています。青森県で最初の党葬だったそうです。

◇    ◇    ◇    ◇
二月二十七日(1947年)
 今日は立派な党葬の祭壇ができた。立派な金屏風の上に二枚の赤旗(日本共産党弘前地区委員会の旗と共青同盟の旗)がかけられ、上田の遺骨は赤い布につつまれている。赤旗の左には党員証の詩が、右は僕の短歌が雲板にいれられて飾られて、その下には上田の描いた紫白花がたてかけられ、二つの箱には飜訳、著書、草稿、日記の類が飾られていた。
 午後二時から共産党葬が行われた。田村葬儀委員長の発声で党葬開始が宣せられた。田村委員長の簡単なあいさつの後に、自分はしんせき代表としてお礼をのべ、故人の生涯、作家としての業績をのべ、故人のライブラリーを土台にして立派なライブラリーを創造していくように、また故人が党員としていったことは人類の進歩を信じていったことを示すもので、自分として満足であり、本人もさぞ満足であろうという意味のことを述べた。つづいて黙祷に入り、党、地区委員会、共青等の弔辞、"党員証"その他の詩が友人たちによって朗読された。朝鮮人連盟の会長尹君も弔辞を読んでくれた。この人は終戦前にたびたび自分を訪ねてくれた人だ。約二百名ほどの人が党葬に参加したほか、弘前地方の文化人のほとんど悉くが集ってくれた。鳴海うらはる、鳴海完造、松井泰、中原春雄、伊藤という画家なぞも来ていた。共産青年男女の"インターナショナル"と"赤旗"の歌は強い印象を与えた。
(「秋田雨雀日記」 第4巻)

日記



上田進が亡くなった日の様子が秋田雨雀日記に記録されています。

◇    ◇    ◇    ◇
二月二十四日(1947年)
 葛西さんに送られて駅へ出た。駅では大福さんが弘前ゆきの切符を手に入れて待っていた。なにかあわただしい不安な心で乗車。弘前駅から更生車を病院まで走らせた。旧鷹揚社の二階へ行く津川武一君、一枝さん、義母信子、異母弟三人その他七、八人の同志にかこまれていた。ほぼシャイネストックの状態でいた。一枝さんはよく看護してくれた。主観的な女だが、この主観性が上田を最後まで看護したといっていい。旧鷹揚社(第一診療所)の医者たちもよく看護してくれた。午後一時十分に呼吸をとどめた。ほとんど苦しみを示さなかったといっていい。弘前共産党の若い同志たちは新しくかりた富田新町の家に上田の遺骸をはこんでくれた。一枝さんはやはり主観的態度をとるのでみんな弱らされた。木村隆昭夫人、党員木村夫人なぞがよく世話をしていてくれる。若い肖像画家が死顔を写生してくれた。半通夜。党員証といういい詩を書いている。

 党員証枕元におき寝るという
   友は赤旗につつまれてゆき

 春を待たで友は赤旅につつまれてゆく
                     雨雀

(「秋田雨雀日記」第4巻)

*『日本解放詩集』(飯塚書店 1950年)の執筆者録に<上田進:終戦後「党員証」という一詩を「アカハタ」によせて、日本解放のよろこびをうたったが、病にたおれて再起できず、青森の疎開先にて没>とあります。『日本解放詩集』にはパリ・コミューンを称える叙事詩「一八七一・三・一八の巴里」が掲載されています。

浅間

 ロシア文学者の上田進は昭和22年2月24日、わずか39年4か月の短い生涯を閉じました。「月刊東奥」の3、4月号合併号に「人間上田進について」と題して追悼文集が編まれ、秋田雨雀、沙和宋一、津川武一らが稿を寄せました。

人間上田進について

短かい生涯  秋田雨雀


 私は大正10年(1921)頃から自分の娘の自由教育を始めた。私は日本の封建主義的倫理教育に反抗して、生物学を基礎として、世界主義的感情によって教育してみたいと思った。私はトルストイ風のヒューマニズムの影響からまだ抜けきれない時代であった。私は娘を学校制度から抜き出して教育してみたいと思った。
 私は娘を教えるために、生物学や社会学に関する小さなライブラリを作ろうとした。私は娘を教える必要から自分でいろいろのものを読みふけった。しかし、その小さなライブラリーの内容がだんだん変わっていった。それはヨーロッパは大きな激動の中にあったからである。いや、そんなことではない、ロシアを先頭として、ドイツ、フランス、スペイン、イタリー、中国の民衆は大きな力を持って立ちあがった時代だった。わが国もまた多くの矛盾をはらんで成長して行った。
 上田進が私のこの小さな書斎の中に姿を現したのはいつ頃のことだったろうか。大正の終わりに近いころだったろうか。上田は1917年の革命前から日本に来ていられたロシヤのブブ・ノワ女史によってロシヤ語およびロシヤ文学を学んでいるということだった。ブブ・ノワ女史は文学に対する深い理解のある人で、またすぐれた画家でもある。上田のロシヤ文学に対する理解は、全く女史の影響によるものだと思う。

 上田進が私の書斎に現れたころは、わが国の青年たち、ことに知識的青年たちが大きな激動を起こしている時代であった私は娘の教育を一通り終えた時は、私自身もまた書斎の中にじっとしていることの出来ない時であった。帰ってくるといつでも喜んで迎えてくれるはずの娘の姿はあまり見られなくなった上田と娘の結婚生活の始まったのはこのころだった。二人は小さな巣を作っていったのだ。しかし私は少しも淋しくなかった。なぜなれば、上田はいつもわたしたちの世界にいると思ったからである。
 上田と娘との生活はあまり長くもなく、また必ずしも幸福であったとはいえない。しかし、上田はよく働いた。上田は言語に対する特別な愛情を持っていた。彼は生活の大部分をロシア文学の移植に費やしていたが、彼ほど日本語を愛したものは珍しい。彼の晩年書き残していった短い詩は。いつか高く評価される時があるかもしれないと思う。
 ロシヤ文学の移植者として彼の仕事は、一般に言語の技術上の問題のように言われがちであるが、それは単に言語の技術の問題ではなく、生活および言語に対する理解の問題であろうと思う。プーシキン、トルストイ、ドストエフスキー、ゴーゴリ、ゴーリキー、ショーロホフの系列の中に、彼の人間として生長のあとをわれわれははっきり見ることが出来るのではなかろうか。
 上田は信州の上田に生まれたものであるが、私は私の生まれた故郷、しかも自分の青年期をおくった弘前の土地で別れを告げたということを感慨ふかく思う。殊に上田の遺骸を日本共産党弘前地区党員の温かい手にゆだねたことを、生涯の喜びとするものである。
(一九四七、三、四 ──アオモリ、エスペラント、ドーモにて)

(「月間東奥」 昭和22年4月)

上田

 2)白口シヤ

 白口シヤにうつると、ここには民族共和国を通じての最大の詩人であるヤンカ・クパラがいる。彼はソビエート詩壇全体の水準からいっても、優に一流詩人の地位を占めることができる人である。彼は一九○五年ごろから文学活動をはじめている古い詩人である。革命前の彼の作品には、悲哀と憂愁のいろがみなぎっている。彼は白ロシヤの農民の窮乏と困窮とを歌い、その悲惨な生活を力ずよく描き出している。しかしその影には、いつも輝かしい未来にたいする希望の調子がひびいていた。彼はブルジョア的な民族主義の教養を深く身につけていたので、十月の風がきた時にも、すぐにそれを受け容れることができなかった。けれど、まもなく新しい世界の発展こそ抑圧されている弱小民族を本当に解放するものであることを理解し、進んで新しい政権の側にうつってきた。今日では彼は白口シヤの第一の詩人として、さかんに活躍している。彼は白ロシヤのソビェート政府から国民詩人の称号をうけた。
 同じく白ロシヤの詩人であるアレクサンドロウイチは、一九〇六年生れの若い詩人で、本当に十月革命から生れてきた詩人である。ヤンカ・クパラがほとんど農民ばかりを歌っているのに反して、アレクサンドロウイチは主として工業化されつつある白ロシヤを歌っている。だから彼の作品には、煙突や汽笛や工場や電気や労働者などばかりが、さかんにでてくるのだ。彼は最近の詩においては、社会主義建設の成功を歌っている。
(つづく)

(『歌ごえ』3号 昭和23年6月)

谷

 五 民族共和国の詩 1)ウクライナ

 最後に民族共和国の詩について、簡単に述べておこう。帝政時代には、いわゆる大口シヤ人以外の各弱小民族は、自分の文化をもつことを許されなかった。それが、ソビェート政府になるとともに、事情が一変して、各民族の文化はすばらしい繁栄を示すようになった。形式的には民族的な、内容的には社会主義的な文化──それが今日のソビェート文化の目標なのである。各民族共和国では、学校網が拡張され、知識が普及され、立派な学術研究所がつくられた。書物の出版部数はすばらしく増大した。なかには、革命後になってはじめて文字がつくられ、それによってやっと印刷文化の普及ができるようになった民族さえある。とにかくソビェート連邦では、七十二の民族語で書物が印刷されているのである。ソビェートになってからの各民族共和国の詩のすばらしい開花は、こういった土台の上にもたらされたものである。
 まず民族共和国のなかで一番大きなウクライナから見てゆこう。この国にはバーヴェル・トイチナというすぐれた詩人がいる。彼は革命前から活躍していた詩人で、はじめは象徴主義的な傾向をみせていた。そして、ソビエートになってからも、初期のあいだは傍観者的な態度をとって、冷たい眼で革命の動きをながめていた。けれど現実の社会の進展に押されて、彼はだんだんにプロレタリヤ的な立場に近づいてきた。一九二〇年にでた詩集「鋤」では、もはやそれがはっきりとあらわれ、新しい時代の讃美の声がひびいている。その後に出た多くの詩集はいよいよ彼の立場がはっきりしてきたことを示し、同伴者インテリゲンチャの詩人としての彼を遺憾なく発揮している。トイチナより少しおくれて出た詩人にソシューラがある。彼はトイチナとはちがって、熱情的な詩人であって、市民戦争時代には自らも銃をとってそれに参加しているほどだ。だから彼は十月のヒロイズムを讃美した、ロマンティックな詩を主にかいている。そういった傾向をもつていたので、鍛冶屋派の詩人たちと同じように、新経済政策の時代に入ると、いささか思想的な動揺をみせたが、しかしその後また立ちなおって、最近では、ドニエロストロイを歌った大きな時をかいている。その他にウクライナの詩人として有名なのはベルヴォマイスキイなどである。
(つづく)

(『歌ごえ』3号 昭和23年6月)

ピンク


4)アセエフその他

 以上述べた詩人たちのほかに、活躍している主な詩人たちの名前だけでもならべておこう。
 アセエフはマヤコフスキイ等とともに、革命前から活躍していた詩人で、今日でもちょっと類いまれな美しい抒情詩をたくさんかいている。ヴェーラ・インベルも革命前からの詩人だが、女流詩人の第一人者として現在でも第一線にたってはたらいている。それから非常に元気のいい、単純な、大衆的な詩をかいているスルコフ。ついでコロドスイ、ゲーセフ、チェルカツスキイ、ウシヤコフ、ブロコフイエフ、アルダウゼン等の名も忘れられない。ジャーロフや、ウートキンや、スヴェトロフも、いろいろな批判を蒙りながらも、とにかくまた立ちなおって、立派な仕事をみせている。最近頭をだしてきた新しい詩人の中では、レニングラード派のニコライ・ブラウンが一番注目されていいと思う。それから、少し変わり種として、外国から亡命してきて、ソビェートの詩壇で活躍している詩人たちがあげられる。その中で最も興味あるのは、ハンガリーの詩人アナトール・ヒダスである。彼は新しい社会主義的人間の感情や氣分をうたう新しい抒情詩を提唱し、それが最近のソビェート詩の一つの傾向を形づくっている。エス・ハビブ・ヴァッハやブルノ・ヤセンスキイの名もおとすことはできない。
 第一回の全ソ作家同盟の大会で、ブハーリンの報告の中で非常な賞讃をうけて、かえって大きな問題をひきおこした詩人パステルナックは、ソビェート詩壇における持異な存在であるにちがいない。彼は一口にいえば、深い教養とデリケートな感受性とをもった抒情詩人である。彼は、はじめは革命にたいして頑固な局外中立の立場をとっていたが、ソビェートの社会が発展するにつれて、だんだんにその立場がぐらついてき、叙事詩「一九〇五年」や「シュミット少佐」などを通して、最近の詩集「第二の誕生」にいたると、もうはっきりと現実に即した立場をとっている。今日では彼は、自己の創作の観念的な哲学的基礎を徹底的にあらためようとしているのがはっきりとわかる。
(つづく)

『歌ごえ』3号 昭和23年6月)

花

2)バグリツキイ

 ペズイミョンスキイについで、めざましい活躍をみせたのは、バグリツキイであった。彼の叙事詩「最後の夜」は、ペズイミョンスキイの「悲劇の夜」とならんで、建設時代の詩の最大の傑作といわれている。
 バグリツキイは十月革命の生んだ最も特色のある詩人の一人である。彼ははじめは消極的な、観照的な浪曼家として出發し、社会的な問題からはなれてもっぱら自然や生のよろこびを歌っている抒情詩人であった。だが、やがて彼は「いたるところ牛乳と蜂蜜でいっぱいになっている」占い口マンティックな世界にわかれをつげて、政治的な主題に移っていった。市民戦争が彼の詩の主な主題となった。彼は自分でも赤衛軍に加わって実際に戦争にでたり、又その後は口スタ通信社で働いたりした。それでもはじめは市民戦争を一種の美しい自然現象としてながめ、抒情的な解釈をくだしていたが、一九二六年に叙事詩「オバナスの歌」をかいたことによって飛躍的な彼展をとげた。この詩は市民戦争下の矛盾した情勢において、ある農民が階級的にめざめる過程を描いた深刻な作品で、市民戦争に取材した詩作品の中で最大の傑作といわれたものである。
 それから後、新經濟政策時代のよくない氣分にひきづられて、彼も一時懐疑的な狀態におちいり、自分の詩の運命について不安を抱き、停頓の氣味があった。けれど社会主義建設の時代に入るとともに、また立派に立ちなおって、新しい創作の段階に進んでいった。彼は初期の幻想的な要素とはっきり手をきって、現実のリアリステイックな、広汎な把握に向った。それとともに、技術的にはいよいよ円熟をみせてきた。そうして「勝利者」が生れ「最後の夜」が生れたのであった。社会主義的現実と古い世界との衝突、そして古い世界の崩壊──それが「最後の夜」の主題である。
 バグリツキイは、叙情的な主題と社会的な思想、社会的な観念とを結びつけた詩人であった。しかし彼はその境地に止まっているわけはなかった。彼はさらに大規模な構成をもった綜合的な詩の建設を目ざしていたのだ。そして、ようやくその第一歩をふみだしたばかりの所で、惜しくもこの世を去ったのである。一九三四年であった。
(つづく)

『歌ごえ』3号 昭和23年6月)

赤


 上田進が1947年2月に39才の若さで亡くなったとき、『新日本文学』に谷耕平(元早稲田大学文学部教授)が追悼の文章「上田進の歩いた道」を書いています。そこでは、彼が早稲田大学露文の卒業論文でマヤコフスキーを書いて大きな一歩をしるしたこと、多数の翻訳を成し遂げて反動の時代にロシア文学紹介の第一人者であったことを讃えています。
◇    ◇    ◇    ◇    ◇    
 上田進の歩いた道
                 谷耕平

 上田進が早稲田の露文科を出たのは、昭和六年(一九三一年)だったが、その時の卒業論文は、「マヤコフスキー」だった。それまでは、その前の年に横田瑞穂が「エセーニン」を書いたのを除くと、ほとんど全部といってよいほど、十九世紀作家、批評家に関するものばかりだった。当時は(今でもなおそうだが)この国に入っているソヴィエト文学研究の資料がきわめて少く、誰もが新しいものへの食欲を感じたり、未開拓の分野へ踏み入ることに野心をもちながらも、卒業論文として取り組むことにはしりごみしているようなわけだったので、彼らより一、二年後の学生たちは、横田や上田の飛やく的な気組みに、すっかり圧とうされたかたちだった。十月革命といっしよに出て来た詩人マヤコフスキーの研究は、当時ソヴィエト・ロシヤにも少なかった頃だから、上田の「マヤコフスキー」が研究報告としてどの程度のものだったか、想像できるような気もするが、とにかくこの気組みは、その後の彼の口シヤ文学研究、紹介の方向を示したもののようにおもわれる。
 彼の仕事は、比較的短い生涯になされた多くのほん訳のどの一つを取って見ても、すべて進步的な線に沿ったものばかりだし、多くは、誰もまだ手をつけていなかったものばかりだった。今、手もとに遺作の全部は集っていないので、数え落しがあるかと思うが、その手に成ったほん訳をならべて見ると、十九世紀文学では=プーシキン──「プーシキン詩抄」(抒情詩)「コーカサスの俘虜」「盗賊の兄弟」「ポルタワ」(叙事詩)、ゴーゴリー──「死せる魂」(上巻)、ドストイェノスキー──「死の家の記録」、コロレンコ──「森はざわめく」、ゴーリキー──「イゼルギリ婆さん」「幼年時代」。ソヴィエト文学ではショーロホフ「開かれた処女地」「静かなドン」(第一部)、イリフ、ペトロフ──「黄金の仔牛」。芸術理論では=マルクス・エンゲルスの「芸術理論」に関するもの二冊(岩波、改造文庫)。なお阪井徳三氏によると、「社合主義的リアリズム」を一ばん先きに紹介したのは上田進であったという。
 ·上田が仕事をはじめた頃から、この国の反動の波が次第に高まって、支那事変以後はますますはげしく、ソヴィエト文学はもち論、十九世紀文学でも、ペリンスキーのいわゆる「解放者文學」のほん訳を出すことなど、容易にできなくなってしまった。こういう時代に、一方ジャーナリズムの要求にこたえながら、あくまで進歩的方向からはなれなかった、ほん訳者、紹介者としての上田の苦労はなみたいていのものでなかった。一歩ふみはずせば、牢ごくに投げこまれるか、さもなければ反動に落ちこむという、真にすれすれの稜線上を渡りながら、蔵原惟人以後、この国へ導き入れられたロシヤ文学紹介の科学的態度を上田はよくもちこたえた。そしてこの任務は、ほとんど彼一人が遂行したといってもよい。

 先きにあげたように、一人でいろいろ作家のほん訳をしなければならなかった上田が、一作家、一作品に深く沈潜することができなかったのは、やむを得ないことだった。単に語学的でない誤りが時たまそのほん訳の中に見出されるのは彼のために残念であると同時に、今の「ソ・研」のような組織をもたなかった、いやもてなかったわれわれ研究者全部の責任であり、不幸であった。
 上田のほん訳は、訳語の一つ一つについても、それまでにない新鮮さをもっていた。それは、文学の精神に徹することがでて彼自ら作家であり詩人だった才能にもよるが、大衆にわかりやすいことばで書くことを、常にこころがけていた努力の結果であった。彼が「静かなドン」の翻訳中ばで死んだことは残念でならない。
(『新日本文学』1947年9号)

裸婦像



 それと同時にマヤコフスキイは、又一方では、新しい時代の社會の姿を全体的に描き出さうと志している。そのような作品として、まず代表的なものは「一五○、〇〇〇、〇〇〇」である。これは資本主義と社會主義との闘争を全面的に描き出そうとした、大規模な叙事詩である。それにつづいては、一九二四年に出た叙事詩「レーニン」があげられる。これはレーニンの單なる個人的な肖像画ではなく、彼を人類の歴史の流れを推し進める一つの環として描きだしているのだ。そういう點で、これはレーニンを歌った數多くの詩の中で最も意義のある作品とされている。革命十周年を記念してかかれた「ハラショー」という詩も、このカテゴリーに属するすぐれた作品である。これは十月革命以後十年間の闘争を歌いあげ、ソヴェートの新しい生活を稱へた叙事詩である。

 マヤコフスキイは、小ブルジョア的な、ボヘミャン的な氣分をもったインテリゲンチャとして出發した。彼は十月革命の洗礼をうけて、ソヴェート政権の側に移行した。彼はその世界観、人生觀を改造し、小ブルジョア的な意識と氣分とを清算しなければならなかった。彼の苦しい内面の闘争が進行する。社會主義建設の時代に入るとともに、彼は長い間の道づれであった「レフ」の一派と訣別してラップ(ロシヤ・プロレタリア作家同盟)に入った。これは彼がはっきりとプロレタリアートの立場にたった詩人としての進出を意味した。だが、過去の残滓の力はつよかった。彼の世界観における矛盾はついに完全には克服されなかつた。
 一九三〇年の四月、彼はピストルでおのれの額に弾丸をうちこんだ。直接の原因は戀愛の三角關係の破綻だといわれている。だが、それも結局は、世界觀の矛盾がもたらした自己分裂の結果に他ならない。
 自殺は敗北である。けれどそれにもかかわらず、マヤコフスキイは事実において、立派にプロレタリアートの世界観を把握しており、偉大なプロレタリア詩人であったということは、認めなければならない。
 マヤコフスキイの最も大きな意義は、彼がまったく新しい型の詩人であったという點にある。從來の詩人という概念をぶちこわし、まったく新しい詩人の型を創造したのだ。
 「マヤコフスキーは、われわれのソヴェートの時代の最もすぐれた才能豊かな詩人であったし、いまでもなおそうである。彼をおろそかにし、また彼の作品に冷淡であることは、罪悪である。」──これは一昨年スターリンが述べた言葉であるが、これが今日のソヴェートにおけるマヤコフスキイ評價の規準となっている。マヤコフスキイこそは、今日のソヴェート詩人たちがまず第一に手本としなければならない詩人とされているのだ。(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

マヤコフスキー
マヤコフスキー「仕事で組織しなさい」(「ロスタの窓」のポスター 1921年)


  Ⅲ−3 マヤコフスキイ(1)

 ソヴェート詩の史上におけるマヤコフスキイの存在は大きい。十月革命の当時から社會主義建設にいたるまでの各時代にわたって、彼はつねにソヴェートの第一線にたって活躍していた。だから、どの時代でも、まづ第一にマヤコフスキイの詩について述べるべきが當然なのだが、そうしては叙述が散漫になって、却ってマヤコフスキイの全貌をつかむことがむづかしくなるような惧れがあるので僕はちょうどこの辺が適当だと思うから、便宜上ここで一括して述べておくことにする。

 マヤコフスキイの活動は、未來派の頭將として、すでに革命前からはじめられていた。未來派は常時の小ブルジョア的なインテリゲンチャのアナーキスティックな、反抗的な気分を表現したものであった。その時代にはマヤコフスキイも、過去のあらゆる芸術を否定し新しい芸術を追求するあまり、形式的新奇に走り、かなり難解な詩ばかり書いたものである。
 だが多くの未來派の詩人たちと違い、マヤコフスキイにあって、ブルジョア芸術にたいする反抗が、やがてブルジョア社会にたいする反抗にまで發展した。世界大戦時代にかいた叙事詩「戦争と世界」には、すでに鋭い社會批判がみられる。
 彼は十月革命を何の文句もなしにうけいれ、ただちに全身をもってそれに奉仕した。その時代の彼の活動を語る一つのエピソードとして、「ロスタの窓」がある。彼はロスタ通信社ではたらいていた。新しい宣伝の方法が考案された。空屋になった大商店のショーウインドに、毎日大きなポスターをはりだして、戦線の状況やその他の電報通信を報告するのである。これを名づけて「ロスタの窓」──マヤコフスキイは、この「ロスタの窓」のポスターの絵を書いたり、文句を綴ったりしたのだ。彼は三千のボスターと六干の標語を作ったといわれている。そして、その主題の範囲はおそろしく広い──コミンテルンのアジ、ウランゲルに対する闘争、国債の宣傳、チブスと虱とにたいする闘い、古新聞の保存、電力の節約……
 これはマヤコフスキイの芸術の一つの基本的な特徴を示している。それは、政治的活動と芸術とを直接に結びつけることだ。生産と芸術とを直接に結びつけることだ。だから彼にとっては、自分の作品は一個の武器であった。そして詩人たちに向っては「芸術軍に與へる命令」をかくのであった。

 マヤコフスキイの芸術のもう一つの特徴は鋭い風刺である。彼は新しい時代の流れを邪魔するものに、片っぱしから痛烈な風刺のメスをふるったのであった。その風刺の対象となったのは、まず第一に小市民性である。小市民のカナリヤ的な生活だ。俗物性だ。「小市民性はウランゲルよりもおそろしい」といった彼の言葉は有名である。それからブルジョア政治家、官僚、ネップマン、西欧やアメリカの文明など、すべて彼の風刺の的となったのだ。レーニンに激賞された「會議に耽る人々」という詩では、常時のソヴェートの官僚主義を辛辣に皮肉っている。
(つづく)
(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

マヤコフスキー
マヤコフスキー「同志たちよ、労働組合活動週間に参加せよ!」(「ロスタの窓」のポスター 1921年)


  Ⅲ−2「若き親衛隊」ジャーロフとウートキン

 ベズイミョンスキイとならんで「コムソモールの三羽烏」といわれていたのが、ジャーロフとウートキンである。ジャーロフの詩はペズイミョンスキイの詩よりも、またいっそう明るい。そこには光と歓喜が横溢している。太陽の光と工場の煙、それが彼の詩を織りだしている縦と横の糸である。ジャーロフの詩ほどたくさんに太陽のでてくる詩はない。そして工場の煙も、彼にあつては、太陽の光をさまたげるものではない。この二つの敵對的な要素は、平和に、自然に、綜合されて美しいハーモニイをかなでている。
 彼もベズイミョンスキイと同じように、日常の生活の中に、新しい世界の動きをみることを知っている。けれど彼の詩があまりに明るすぎるので、多くの人々は、そのためにソヴェートの現實の暗い否定的な面がおおいかくされ、闘争的な気分がにぶらされてしまいはしないかと心配したほどであった。だが、このジャーロフの樂観主義は、けっして現実からまいあがった、荒唐無稽な陽気さではなく、古い世界の桎梏から解放された新しい世界の新しい人間の現實の悦びであつたのである。彼はこの新しい歓喜の中に何の遠慮もなく、まっしぐらにとびこんでいったのである。

 これに比べると、ウートキンの詩には哀愁の色が濃い。ウートキンの詩の中で、深い物思いにしづんだり、自信なげに動揺したりしている。それだけに彼の詩はいつそう調子が高く、美しく、哀切な音色をおびている。ある批評家がウートキンを「プロレタリヤ的口マンスの詩人」を名づけたのは、適評であると思う。まったく彼の詩はほとんどすべて、音楽のロマンスのテキストとして役立つほどに、いい調子をもつているといえる。彼はロマンスのあらゆる特性を詩にとりいれているのだ──ゆたかな情緒の抒情的な流露、音楽的な美しい階調、哀切きわまりない悲歌の調子、歓喜にもえる愛のささやき……
 このウートキンの詩は、若い世代の人間の意識の多様性を表現したものとして意義があつたのである。

 經濟的復興の時代に活躍した若い詩人としては、いま述べた三人のほかに、スヴェトロフ、ゴロドヌイ、ヤースヌイなどがあげられる。スヴェトロフの詩には憂愁の影が濃い。この時代の青年たちが体験した悲劇的な面を、彼は主として歌つているのである。ゴロドヌイは、愛について多くの詩をかいている。そしてその愛には、過去の暗い思い出が、いつも静な影をなげている。しかし、その暗い影のうしろから、健康なひびきが脈うつているのが感じられる。ヤースヌイの詩も思い出にみたされているが、彼の場合にはそれがつよい復讐心でいろどられている。だが同時に彼の詩には、深い愛情の調子がこもっているのを見のがすことはできない。

 その他に、すぐれた叙事詩人のマラホフ、工場と農村の結びつきを主として歌つているドローニン、それからユーリン、コヴィニョフ、クズネツォフなどの名をあげておかなければならない。とにかく、「若き親衛隊」の詩人たちの詩は、実に多種多様な主題をとりあげ、その中には憂愁や回顧の色の濃いものもあるが、一般的にいっては、明るい歓喜とおさえることのできない激しい生活力とにみちあふれているのである。つまり、この時代の青年の氣分を一樣に反映しているのであるが、しかも同時に個々の詩人たちの個性もはっきりとあらわれてきているのだ。その点に詩としての大きな進歩があつたといえる。
(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

花



   Ⅲ−1「若き親衛隊」ロマンティズムからリアリズムへ

 ソヴェートは市民戦争の時代から新經済政策の時代にうつっていった。これは華やかな武力闘事の場面から、地味な經濟闘争への移行であった。うちつづく混乱によって破壊された生産部面の根本的な建てなおしの時代に入っていったのである。
 革命の蜜月のロマンティックな氣分の歌い手であつた「鍛冶屋」派の詩人たちは、この新しい段階を理解することができなかった。日常の闘争が主要な課題となったところの新しい情勢に、彼らはついてゆくことができなかったのだ。そして鍛冶屋派の詩人たちのあいだには、絶望的な、悲観的な、懐疑的な気分がうまれてきた。もはや彼らはプロレタリアの闘争の詩的表現者たるの意義を失ってきたのであった。
 この新しい社會情勢に応じて、ソヴェート文學一般の主要傾向は、ロマンティックな、ヒロイスティックな、プロレタリアの闘争の讃美から、市民戦争時代の經驗の藝術的統括へ、現實の諸事件のリアリスティックな表現へ、生きた人間の描写へとうつっていった。ロマンティズムからリアリズムへの發展である。そして、いままでとは反對に、散文藝術がずっと優勢になってきた。この時代の文學の基本的な主題となったのは市民戦争であつて、セラフィモウィチの「鐵の流れ」、リベヂンスキイの「一週間」、フルマノフの「チャパエフ」と「反乱」に、少しおくれてファディエフの「壊滅」等のすぐれた小説が輩出した。だがそれらについて書くのは僕の任務ではない。僕はもつぱら詩の方面の動きをみてゆくことになっているのだ。
 「一九二二年の十二月に、プロレタリヤ作家の群が、雑誌「若き親衛隊」の編輯室にあつまって、新しい団体「十月」を結成した。これは鍛冶屋派の終焉を意味すると同時に、新しい詩の出発を意味した。このグループは鍛冶屋派のロマシティズムや抽象的なヒロイズム、宇宙主義に反対して、日常の現實の生活と生きている人間、個性をもった人間の表現とを主張した。新しい段階に入ったソヴェートの社會は、この派の若い詩人たちによつて、はじめて正しい詩的表現をあたえられた。この派の詩は、新しい世界の建設のための闘争の中から生れてきた新しい人間の新しい世界観によって貫かれていた。

 「若き親衛隊」の代表的な詩人は、ベズイミョンスキイである。「鍛冶屋派の詩人たちに」といふ彼の詩は、彼および「若き親衛隊」の立場をはっきり示したものであった。──「空をすてろ! 抽象的な事物をなげすてろ! 
そして地球と、生きた人間とを與へよ!」といふ詩句は、大きな意義をもつている。
 この時代のベズイミョンスキイの詩は、いわば禁欲主義的な、殺伐な戦時狀態がすぎさつて、ふたたび人間の感情のあらゆる音階がにぎやかに歌いだし、怒りも愛も憎しみも、労働も生活の喜びも、すべてがいつせいに美しい花を咲かせたやうなものである。彼の詩には、征服者の喜ばしい感情がみなぎり、あたたかい愛情と明るさと歓喜と笑ひとがみちあふれてみる。
 この勝利感は、彼に、滅亡してゆく古い世界にたいしてさえも、寛仁な気持をいだかせる。だから彼は、滅んでゆく農村にむかつても、勝利者のめぐみぶかい寛容さをもつてのぞんでいる。あの恐ろしい革命の嵐の中で生みだされた多くの悲劇が、彼の手にかかるとたちまちやさしい牧歌にかわってしまう。
 彼はこの地上に生れてきた、香ばしい生活を歌い、新しい人間性を歌う。古い封建的社會とのあらゆる桎梏をなげすてて、新しい世界のなかで個性の自由な發展を約束された新しい人間――それがこの時代のベズイミョンスキイの詩の主人公であった。ベズイミョンスキイのことは、あとでもう一度書く。
(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

子供


    Ⅱ−2 デミヤン・ペドヌイ

 一九一七年以後は、率直な言葉で、自由にかたり、歌ふことができるやうになったので、いよいよ彼のめざましい活躍が展開された。彼は古い寓話詩やロマンスや民謡や俗謡などの手法をとり人れると同時に、一方では公式の單純さやポスターの力強さやスローガンの明瞭さをとりいれ、また公文書や新聞記事の抜き書を挿入したり、民衆の口語をそのまま使用したりして、時時刻刻におこつてくるいろんな社會的、政治的事件を歌ひあげた。彼は自分の詩を「煽動詩」と名づけ、ことさらに從來の「文學性」に反對した。彼は自分の詩を、大砲や機關銃と同様な武器であると考へた。彼は自分の心に靈感がうまれたときに詩をかくのではなく、なんらかの政治的な、あるひは文化的な課題があたえられたときに、ペンをとってその課題をはたすために、詩をかくのであった。だから彼はあらゆる題目について書く。──穀物徴発について、賄路について、帝政時代の大臣たちの捜索について、赤軍の功績について、文盲撲滅について、異民族の女性の解放について、トルクシブについて、労働規律について、飲酒反對について、反宗教について……
 さうして彼の詩は、ひろく大衆のあひだにはいりこんでいった。その中のいくつかのものは、ソヴェートの全民衆に愛唱された。
 おそらく市民戦争時代が、デミヤン・ペドヌイの一番はなばなしい時代であったと思はれる。けれどその後新經濟政策の時代をへて五ヶ年計畫の時代にいたるまでも、けっして彼の創作的活動は衰へをみせはしなかった。社會主義建設の諸課題や、その他いろんな時期のいろんな政治的問題にささげられた彼の時は、たヘず「プラウダ」や「イズヴェスチャ」の紙上にみられるのであつた。

 一九三四年の第一回全ソ作家大會の席上、ブハーリンがソヴェート詩に関する報告の中で、ペドヌイを過去の詩人としてあつかっているやうな口吻をもらした。それにたいして、ペドヌイは激しく抗議した。いまそのことをひょいと思ひだしたので書きつけておく。むろんペドメイの詩は今日でも、けっしてその直接的な積極的な意義を失ってはいない。けれど、デミヤン・ペドヌイという存在は、もう現役を去った退役の將軍といったやうな感じが、なんとなくするといふことも否めない。
 とにかくペドヌイは、ロシヤのクラシックの詩の傳統と古い民謡の傳統とをとりいれ、それに新しい内容をもりこんで、詩に全く新しい音色を賦与したといへる。彼は民謡の手法やメロデイを豊富に利用することによつて、重大な高級な政治的内容を、民衆に親しみやすい形式に、民衆が日常話している言葉にむすびつけ、そうして広汎な大衆のなかにゆきわたらせたのだ。ここに、デミヤン・ペドヌイの詩人としての功績がある。デミヤン・ペドヌイの詩は、たしかにソヴェート文学における一つの独特なジャンルであつた。
(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

*「上田進 作家解説」が青森県近代文学館のホームページにありました。

 本名は尾崎義一。東京市生まれ。郷里が長野県で、県立上田中学に入学したことから上田をペンネームにした。
 大正15年、早稲田大学露文科に進み、在学中から左翼文学者・プロレタリア作家同盟の一員として活躍した。黒石市出身の秋田雨雀の影響を受け、その長女千代と結婚したことの縁から、昭和19年に弘前に疎開し、敗戦後は民主化の追風を受けて日本共産党に入党、津川武一らと日本共産党県支部・新日本文学会青森県支部再建のために尽力した。戦後の物心両面にわたる混乱の中で、社会全体の民主化と新しい時代にふさわしい文学の創造のために献身した。
  しかし、不慣れな土地での心労から病を得て、昭和22年2月24日、わずか39年4か月の短い生涯を閉じた。
 22年、「月刊東奥」の3、4月号合併号に「人間上田進について」と題して追悼文集が編まれ、秋田雨雀・沙和宋一・津川武一らが稿を寄せた。
死後には未定稿「佐久間象山」(小説)が残された。
(「青森県近代文学館」青森県ゆかりの作家)
   ◇       ◇       ◇
上田進の遺稿にあたると思われる「ソヴェートの詩」が何故『歌ごえ』に掲載されたのかは不明ですが、大島博光も新日本文学会中央委員として長野支部結成のために働いたので、新日本文学会が上田進と大島博光との接点だったのかもしれません。

あじさい