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「レジスタンスと詩人たち」

ここでは、「「レジスタンスと詩人たち」」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




収容所内の闘争

(「2 血のしたたる名前アウシュヴィッツ」へつづく)

(『レジスタンスと詩人たち』)

花



ラーフェンス


花


終章 みずからを解き放つパリ
 
1 地獄の扉がひらく

 ヒットラーが権力を握った一九三三年以来、ドイツには強制収容所がつくられた。ナチに反対する数万の人たちが投げこまれて虐殺された。ヒットラーの最初の犠牲者が、ファシズムに反対して闘ったドイツ人自身であったことを忘れてはならない。初め、強制収容所を警備していたのはナチの突撃隊 (SA)であった。まもなくそれに代って、ナチ親衛隊 (SS) が収容所の支配者となり、抑留された者はかれらの思いのままにこき使われる奴隷となった。この制度はまさに、ヒットラーが『わが闘争』のなかで宣言し、実現しようとした目的に一致するものであった。一九三二年に、かれはすでにつぎのように述べた。
 「問題は、不平等をなくなすことではなく、反対にこれを拡大することである……すべての者が同じ権利をもつべきではない. ……それゆえに私は、他国の人民に、ドイツ国民と同じ権利を与えないであろう。ドイツ国民は、世界における新しい貴族階級となるように選ばれた選良である……同志諸君、未来の社会秩序はどうなるのか、私は諸君に言いたい。未来の社会には、闘争によっていろいろな分子のなかから選りぬかれた貴族階級があるだろう。そこにはまた身分制(イエラルシー)によって組織された(ナチの)党員大衆がおり、かれらは中流階級を構成するであろう。つぎに名もない大衆、従僕の大集団、永遠の第四階級があり……いちばん下には、諸外国人種の構成する隷属階級があり、われわれはこれを現代の奴隷階級と呼ぼう。」
 ナチは、強制収容所によってこの計画を実現することになる。抑留者たちには名前のかわりに番号がつけられ、かれらはドイツ大企業の貴族やナチ親衛隊の貴族のために働かされる。しかも親衛隊員はかれらにたいして殺生与奪の権をもっていた。この奴隷たちには、数週間か数ヶ月間、生命を維持するだけのわずかな食糧が与えられた。彼らは、空腹による衰弱・消耗によって死んでいった。その他の者は、とるに足りない口実で、たとえば、親衛隊員に脱帽しなかったというような口実で、首をくくられたり、頭に銃弾をぶち込まれて死んだ。またある者は、モルモット代りの生体実験によって殺された。奴隷たちが死ぬと、その代りに、新しい囚人がヨーロッパじゅうから掻き集められた。こうして二十万人を越えるフランス人がそれらの収容所に送られ、ほとんどの者が二度と帰っては来なかった。連合軍の兵隊が収容所にふみこんだとき、あまりの惨状に兵隊たちも慄然とした。火葬がまのそばには、山のように死体が積まれていた。それらの死者を全部焼き終えるには、あまりにかまが小さかった。生き残った者は、骨と皮だけの骸骨のように見えた。そのうえ、コレラやチフスなどの伝染病が囚人たちのうえに猛威をふるった。詩人口ベール・デスノスの生命を奪ったのもチフスであった……
(「死の旅」へつづく)

花



死の旅



山



レジスタンスにおけるキリスト者・詩人たち

ジャン・カイロール


 「詩は悲劇の第一線でたたかった。詩は多くの死者、聖者、英雄たちをうたった。そして闘いはつづいている。詩は、引き出された武器のように、まだ湯気を立てている……」
                 ジャン・カイロール

 伝説によれば、ラベンナの善女たちは、ダンテを指して言ったという。「ごらんよ、このひとは地獄からもどってきたのよ」と。ジャン・カイロールもまた地獄からもどってきた。人類はずっとむかしからこの世に地獄をつくりだしてきた。そして、レジスタンスの時代を生きた多くの人びとがこの地獄におとされた。多くの者は二度とその地獄からもどっては来なかったが、ほんのわずかな人びとがもどってきた。ジャン・カイロールもそのひとりである。
 地獄におちた詩人というのは、べつに新しいものではない。ランボーもまた「地獄の季節」を体験した。しかし、レジスタンスの詩人たちにとって、地獄におちるということは、たんなる精神的な体験ではなく、その血と肉をもって、その生身をもって、じっさいに地獄におちることであった。かれらは、レジスタンスの組織にくわわっていたゆえに、告発され、密告され、ゲシュタポに逮捕されたのである。
 すでに『ユリシーズ』『空飛ぶオランダ人』などの詩集をだしていたカイロールは、一九四一年来、レミ大佐の指揮する地下組織の一員であった。一九四二年六月十日、かれは逮捕されて、フレンヌの牢獄にぶちこまれた。一九四三年三月、かれはドイツのグッセン・マウトハウゼンの強制収容所(キャンプ)に移され、一九四五年五月に解放された。──これがジャン・カイロールの「地獄の季節」である。
 フレンヌの牢獄で、カイロールは最初の牢獄の詩を書く。「壁に書く」もそのひとつである。

  わたしは 沈黙にきき入る
  わが声の影に うずくまる
  「信仰」の ざらざらした壁に
  フランスの堅いパンに 身をゆだねる

  わたしは 帰ることに思いふけり
  閉ざされた扉のもとに うずくまる
  だれだろう 中庭で打ち叩いているのは
  だれだろう 平和をくちずさんでいるのは

  夜明けは 火の泉で
  大地を うるおし
  わたしは青空に 身をゆだねる
  大地のうえで苦しんでいる 青空に

 この詩はまさに、囚われた詩人が独房の壁に書いたものである。かれのあとにつづく人たちのために──かれと同じく、友としてはおのれ自身の声の影しかもたぬ人たちのために、声をひそめてうたった詩である。
 ところで、強制収容所(キャンプ)となると、これはまったく別のものである。これは今世紀に発明されたものであり、今世紀は、のちの世紀から、キャンプの世紀とよばれるかも知れない。キャンプは、強制労働、拷問、死刑などに役立つ。牢獄のあとにはキャンプがひかえているというわけである。まるで人類は、みずから発明した「地獄」なしには済まされないかのようだ。こうして多くの詩人たちもまたキャンプに投げこまれた。ジャン・カイロールもそのひとりである。そしてかれの詩は、キャンプに反対して闘ったものの証言として残るであろう。
 一九四七年に出版されたカイロールの詩集『人間と鳥たちとのたわむれ』のあとがきに、ピエル・エマニュエルはかく。
 「詩という稀なる天賦の才をうけ、象徴的なイメージの感覚、組織者としての息吹き、ヴィジョンなどをもった、ひとりの男──ことばの古風な意味において、深い勇気(ヴエルテュ)をもった、ひとりの男が──人間がそこにまるごと啓示されるような、並はずれたいさおしのうちに、このうえない気高さを示した。ひとりの男──友人たちのなかに身を現わすというだけで、友情をふかめることになり、友人たちに光をもたらす愛の行為となるような、ひとりの男──そしてなんという精神的布地によるのか、おそるべきキャンプの恐怖をくぐりぬけ、神の恩寵に心燃やしながら、永遠の明澄をたずさえて、生きてもどってきたひとりの詩人──かれがわれわれに示すのは、もっとも高貴な芸術は、精神(モラル)的創造につながるものであって、それは混沌たる本能にたいする勝利であると同時に、法律のおしつける諸強制にたいする勝利である、ということである。どうしてこの男の証言を必要として、むしろ天の摂理として、うけとらずにいられよう?ひとりの偉大な詩人が死にうち勝ったのである……」

 「おそるべきキャンプの恐怖をくぐりぬけ、……生きてもどってきた、ひとりの」男はつぎのように歌われている。

  腕ばかりが ひょろ長く
  痩せさらばえた男
  吐きすてられた痰のように汚らしい男は
  木の幹にしがみつき
  にがい樹皮に くちづけして
  必死に闘っていた
  立っているために

  脚(あし)が まるで
  二本の枯枝のようになり
  裸で 泥にまみれているとき
  立っているとは どんなことか
  あなたに わかるだろうか

  死が 身ぢかに
  すぐそばにあって
  まるで温かいべッドにさわるように
  死に頼をよせているようなとき
  立っているとは どんなことか
  あなたにわかるだろうか

  ひとりの男が 針のようなまなざしで
  発砲の恐怖に
  叫び声もあげず
  じっと 立っている
  いまにもかれをぶち殺す 弾丸(たま)が
  銃身のなかで うずうずしているのを
  男はもう 感じている
  そんな男とは どんなものか
  あなたにわかるだろうか

  そのすべてを 鳥は見た

 この美しい詩は、地獄のなかで、なお毅然と立っている人間の偉大さ、その本質的な高貴さを、読むものに認めさせずにはおかない。これはまた、もっともたしかな証言のひとつである。もしも、かれが心くだけて、たじろぐならば、かれは殺されるだろう。死ぬことは地獄からの解放となるかも知れない。しかしかれは生きながら自由になりたいのだ。そしてかれは、おのれを見据え、敵を見据える針のような力を、おのれのまなざしに与えることができた。そのことをこそ、詩人は告げたかったのだ。この世界で、詩人もまた鳥のまなざしによって見つめられているのである。
 その後、カイロールは主として散文による多くの作品をかいているが、それらの作品は、かれが地獄であじわった決定的な体験と無関係というわけにはいかない。あの地獄から、地獄での体験から、かれはけっして離れられなかったのである。

レジスタンスと詩人たち─第三章 レジスタンスの勝利>

カイロール
Jean Cayrol

 ロワ・マッソンはカトリックの左派であった。「神を信じたものも信じなかったものも」ともにたたかったレジスタンスの共同闘争に、かれほどマッチしたものはいない。かれは神を信じていた。教会の態度にかれは深い嫌悪をいだいていたとはいえ、やはりキリストを信じていた。そうして人間を信頼すると同様に、かれは共産党の同志たちを信頼していた。そこに矛盾はなかった。かれは遠い島からやってきて、突如としてフランス人のあいだに身をおいた。こうしてきわめて自然に、フランス人との友愛、同志愛がかれには必要であった。一方、占領下で苦しんでいるフランスもかれを必要とした。ここに、レジスタンスに参加したキリスト者のひとつの典型がある。レジスタンスにおける、このキリスト者と共産党員との兄弟的な協力の必要を、マッソンは身をもって感じとり、そこに参加し、フランスの歴史の血に染まったこの栄光のページにおのれを結びつけ、そのたたかいを歌ったのである。
 一九三四年、エリュアールは非合法出版によるアンソロジー『詩人の栄光』を編集することになった。そのときかれは、アラゴンのすすめにしたがって、キリスト者のロワ・マッソンとピエール・エマニュエルにも参加を要請したのであった。
 一九四四年の『ポエジー四四』に、マッソンは「自由を失った男の哀歌」を書く。

  わたしはもう歩きまわれぬ わが祖国(くに)の麦畑を
  わたしはもう刈りとれぬ 馬にやるからす麦を
  わたしはもう眺められぬ 雛に餌をはこぶ燕を

  屋根のへりにまで 沈黙は大きくふくれ上がった

  ああ!四十雀(しじゅうから)やうぐいすたちが 飛んでゆく
  やつらはわたしの花冠を一皿の青豆とひきかえに売ってしまった
  やつらはわたしの緋の衣を豚に投げあたえてしまった
  ……

 マッソンの詩には、フランス文化の伝統にぞくさない、遠くて深いところからやってきたあるものがある。それは、生まれ故郷モーリス島の湿ったモンスーン(季節風)から抜けることのできない素朴さと野性である。かれには、人間同士のあいだの融合が必要であっただけでなく、人間と自然との融合、人間と神との融合──いやむしろ人間とキリストとの融合が必要であった。キリストはかれにとって、神が人間の姿をとったものであると同時に、人間が神の姿をとったものであった。

<レジスタンスと詩人たち─第三章 レジスタンスの勝利>

教会
土井ノ浦教会(大島秋光撮影)


レジスタンスにおけるキリスト者・詩人たち

ロワ・マッソン


 大戦前夜の一九三九年のある晴れた朝、詩人ロワ・マッソンは、インド洋のモーリス島(当時は仏領)からフランスにやってきた。生きてゆくために、外人部隊に入隊するほかなかった。まもなくフランスは敗れ、ドイツ軍の占領がはじまった。除隊後、かれはヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンにやってきて、詩人ピエル・セゲールスと知りあい、詩誌『ボエジー』の協力者となる。
 その頃のロワ・マッソンの肖像を、クロード・ロワはつぎのように描いている。
 「かれは詩人らしい詩人のひとりで、灰色をしていた。わるいざら紙のような灰色であり、腹べこのときの灰色であり、蒼みがかった灰色であった。かれはrの音を発音することができず、子供の眼をしていた。かれは天からわれわれのところに落ちてきた。それがロワ・マッソンであった。……」
 かれはヴィルヌーヴで多くの詩をかき、『エスプリ』(精神)、『コンフルアンス』、スイスの『フォンテーヌ』(泉)などの雑誌に発表した。一九四一年、かれは「集団避難のノートル・ダム」を『エスプリ』誌にかく。

 聖母(おんはは)よ この殺戮という献納をおうけとりください
 八つ裂きにされた女たち 血にまみれた壕
 永遠に消えうせたたくさんの子供たち
 空家のように腹をえぐりとられた たくさんの死体……
 ごらんください 畑のあぜに並んでいる
 十字架もない たくさんの土まんじゅうを
 霧のしなやかな指のしたで
 それは 数殊玉のつらなりとなるのです
 ……
 聖母(おんはは)よ へロデ王は不死身です
 わたしたちのために祈ってください
 ……)

<『レジスタンスと詩人たち』─第三章 レジスタンスの勝利>

マッソン
Loys Masson


 敗戦と休戦条約と占領……

 一九四〇年六月五日、ロンメルとフォン・マンシュタイン指揮のドイツ機械化部隊は、ソンムの戦闘に突入する。ロンメルは独特の戦術で、フランスの防衝線にくさびを打ちこんで、これを突破し、フランス軍を背後から攻撃する。六月十日、フォン・ボックのドイツ軍部隊はセーヌ川を越えてエブルーに到達する。また東部戦線においてもランスが陥落し、ドイツ軍はマルヌ川を越える。もはやドイツ軍の怒涛の進撃をおしとどめるものはない。「フランス軍は陽を浴びた雪のように融けさった」といわれる。
 フランスじゅうに不安がひろがり、高まるが、真実をつたえるニュースはなく、いたずらに敗戦の事態を糊塗するニュースが流される。しかも市民たちの驚いたことに、六月十一日、フランス政府は首都パリを放棄してツールに移った。そして一九四〇年六月十四日、無防備都市を宣言したパリに、ドイツ軍が入城した。

 みんなが黙りこみ 敵は闇のなかに休んでいる
 こよいきけば パリはついに陥ちたという
               (アラゴン「リラと薔薇」)

 このフランス軍の崩壊について、アメリカの歴史家ウィリアム・L・レーンジャーは書く。
「一九四〇年六月におけるフランス共和国の敗北と降伏ほどに破局的な事件は、近代史上きわめて稀である。一八〇六年、ナポレオンがプロシャにたいして行った電撃作戦以来、ひとつの大軍隊が運命によってかくも無残に、かくも冷酷にうちのめされたことはなかった。六週間足らずのうちに、世界屈指の軍事力のひとつが国際舞台から消えさったのである……」
 灰色の朝の空に、最初のハーケンクロイツの旗が、コンコルド広場にひるがえった。十一時に、ドイツ軍レンジャー部隊がシャンゼリゼを入城行進した。拡声器から流れる金属的な声が市民に告げる。
 「ドイツ軍最高司令部は、わが占領軍にたいするいかなる敵対行為をも許さない。わが軍にたいするあらゆる破壊行為および攻撃は死刑に処せられる。二十時以降は、夜間外出を禁止する。」
 フランス北部、東部、とりわけパリの市民たちは恐慌状態におちいる。市民たちはあらゆる方法で避難を開始する。ドイツ軍から逃れようとする避難民の行列が、フランスじゅうの街道や道路を埋めた。
 詩人マックス・ジャコブは、一九四○年七月二十三日付セゲールス宛の手紙に、この恐慌状態を描いている。当時、マックス・ジャコブはパリ南方のサン・ブノワ・シュル・ロワールに隠遁して、信仰生活に身をささげていた。
 「列車も自動車ももう動いていない。ガソリンがないので、自動車のたぐいも稀なのです……わたしは動かずに、同時代人たちの気違い沙汰に立ち会っています。どこへ行くというあてもなしに出発したり、街道わきのどぶに荷物や財産を捨てたり、自動車のなかで自殺したりする、気違いじみた恐慌状態……そう、わたしも、自分で自分の静脈に穴をあけた一家族の面倒をみています……告白すれば、わたしも少なからず涙を、ほんとうの涙を流しました。わたしも看護をしました。(瓶を開けたり、べッドをしつらえたり、病人の世話をして)……」(つづく)


  (『レジスタンスと詩人たち』──第一章 鉄かぶとをかぶった詩人)

 
水元公園

 7 ゲルニカ市民虐殺の衝撃

 一九三七年四月二十六日、ヒットラーのドイツ空軍は、バスク地方の小さな町ゲルニカにたいして急降下爆撃をくわえ、市民を虐殺し、町を廃墟にした。当時この事件は、スペイン戦争においてナチの犯したもっとも残酷なエピソードのひとつとして、全世界に大きな衝撃をあたえ、多くの反響をよび起こさずにはいなかった。ピカソは有名な「ゲルニカ」を描いて、一九三七年、パリ万国博覧会のスペイン館の壁を飾った。そしてエリュアールは詩で「ゲルニカの勝利」をかいた。これらの作品は、レジスタンス芸術の先駆的な役割をはたすことになる。「解放」後の一九五〇年、アラン・レスネの監修で、ピカソの「ゲルニカ」を主題とした映画がつくられたとき、エリュアールは、詩「ゲルニカの勝利」をとり入れて、映画の解説「ゲルニカ」をかいた。そこにはファシズムにたいする詩人の深い怒りが鳴りひびいている。

   ゲルニカ
              ポール・エリュアール

ゲルニカ。それはビスカヤの小さな町だが、バスク地方の由緒ある古都である。そこにバスクの伝統と自由を象徴する樫の木がそびえていた。だがいまやゲルニカは、ただ歴史的な、涙をそそる思い出の地でしかない。
 一九三七年四月二十六日、市(いち)のたつ日の昼さがり、フランコを支援するドイツ空軍がぞくぞくと編隊をくりだし、三時間半にわたってゲルニカを爆撃した。
 町は全焼し全滅した。死者は二千にのぼった。みんな非戦闘員の市民だった。この爆撃の目的は、爆弾と焼夷弾との併用効果を、非戦闘員の住民にたいして実験してみることにあった。

 火にも耐えた顔 寒さにも耐えた顔
 手荒い仕打ちにも夜にも耐えた顔

 侮辱にも殴打にも すべてに耐えた顔たち
 いまあなた方を定着させているのは空虚(うつろ)さだ
 いけにえとなった 哀れな顔たち
 あなた方の死は 模範となるだろう

 死 ひっくり返された心臓
 やつらはあなた方にパンをあがなわせた  
 あなた方の生命(いのち)で

 やつらはあなた方に空と大地と水と眠りをあがなわせた

 そして眼を蔽うばかりの惨(みじ)めささえをも
 あなた方の生命(いのち)で

 心優しい役者たち かくも悲しくかくもいじらしい役者たち
 はてしないドラマの役者たち

 あなた方は死などを考えたことはなかった

 生と死への恐怖や勇気などを 
 かくもむずかしく かくもたやすい死などを

 ゲルニカのひとたちはつつましやかな庶民だ。かれらはずっとむかしから自分の町で暮らしている。ほんのひと握りの金持ちとたくさんの貧乏人とで、暮らしは成りたっている。かれらはじぶんの子供を愛している。暮らしは、ささやかな幸福と、明日を思いわずらう、大きな心配苦労から成りたっている。明日も食わなければならないし、明日も生きなければならない。だからきょうは希望を抱き、きょうは働くのだ。
 わたしたちはコーヒーを飲みながら新聞で読んだ。──ヨーロッパのどこかで、殺人部隊が人びとを蟻の群のように踏みつぶしていると。腹をえぐられた子供だとか、首を斬りおとされた女だとか、全身の血をどっと一挙に吐きだした男だとか、ほとんど想像もつかない。だが、スペインは遠い。国境の向こうだ。コーヒーを飲んだら、自分の仕事に行かねばならない。よそで何かが起こっていることなど、考えるひまもない。そうしてわたしたちは良心の呵責(かしゃく)をおしころしてしまう。 
 明日(あす)は、苦悩と恐怖と死を堪えしのぶことになろう。 

 しかも虐殺をやめさせるにはもう遅すぎ
 女たち子供たちはおなじ宝をもっている
 春の若芽と きよらかな乳と
 生の持続を
 澄んだ眼のなかに
 女たち子供たちはおなじ宝をもっている
 眼のなかに
 男たちは力のかぎり それを守る

 女たち子供たちはおなじ赤い薔薇をもっているだろう。

 機関銃の弾丸が瀕死の人びとの息の根をとめ
 機関銃の弾丸が風よりも上手に子供たちと戯れる

 銃と火によって
 人間が炭坑のようにぶち抜かれ
 船のいない港のように凌(さら)えられ
 火のない竃(かまど)のように抉(えぐ)られる
 
 眼のなかに
 めいめいが自分の血の色を見せる

 わたしたちの多くは、なんと嵐に怖れおののいたことか。こんにち、人生とは嵐だ、ということはわかりきっている。それなのに、わたしたちの多くは、なん稲妻を怖れ、雷を怖れたのだろう。雷鳴は天使の声で、稲妻は天使の翼だ、などと思うとは、なんとわたしたちは愚かなお人よしだったのだろう。だがわたしたちは、燃えあがる自然の怖ろしさを見まいとして、地下の穴倉に降りて行ったことはなかった。こんにち、世界の終りはわたしたちにかかっている。めいめいが自分の血を見せるのだ。

 ついに
 子供たちはぼんやり放心した風をし
 わたしたちはいやでもおうでも
 いちばん単純な表現をとる羽目になる

 なんとそこには喜びの涙があった
 男は腕をひろげて愛(いと)しい妻を迎え
 慰められた子供たちは笑いながら泣きじゃくった
 死者たちの眼は深い恐怖の色をうかペ
 死者たちの眼は非情な大地の酷薄さをたたえ

 犠牲(いけにえ)となった人たちは自分の涙を飲んだ
 毒のように苦(にが)い涙を

 飛行帽をかむり、長靴をはき、きりっとした美青年の航空兵たちが、爆弾を落すのだ。狙いをつけて。精確に。地上では、上を下への大混乱となる。善に心をくだく偉大な哲学者なら、そこからひとつの理論体系をひきだすまえに、この事態をじっくりと見つめるだろう。なぜなら、現在とともにいま四散するのは、過去と未来なのだ。爆撃の猛火のなかで断ち切られ、焼きほろぼされるのは、過去・現在・未来という一連の連続なのだ。蝋燭のように吹き消されるのは、生の記憶なのだ。

 人びとの上に血が流れ 動物の上に血が流れ
 まるでむかつくような悪臭にみちた葡萄のとりいれだ
 それにくらべれば 死刑執行人の方がまだきれいだ
 眼はすべて抉りとられ 心臓の音はみんなとだえた
 
 さあ、死臭を嗅いでいる獣(けだもの)をとりおさえにゆくがいい。さあ、母親のところに行って、子供の死をよく話して聞かせるがいい。さあ、燃える炎に想いを打ち明けにゆくがいい。この世の大人たちが、子供たちを敵にまわし、まるで戦争の機械に襲いかかるように、揺りかごに襲いかかるのを、どうやって理解させることができよう。あるのは夜だけだ。それも戦争の夜だけだ。悲惨の姉で、怖ろしくもいまわしい死の娘である戦争の──

 男たちよ きみらのためにこの宝は歌われた
 男たちよ きみらのためにこの宝は浪費された

 想ってもみたまえ、きみらの母親、兄弟、子供たちの、その断末魔の苦しみを。想ってもみたまえ、あのいのちの果ての、死との格闘を、愛するひとたちの死の苦しみを。さあ、殺し屋どもからきみら自身を守るがいい。子供や老人は、この怖るべき喪の中で、とてつもない生の恐怖に腹を締めつけられるのを感じる。こうして生命(いのち)はてようとして、かれらは突然、生きたいという希いのばからしさを感じとるのだ。何もかもが泥と化し、太陽も暗くかげる。

 惨禍の記念碑(マニュマン)
 崩れ落ちた家家と瓦礫の山と
 野っ原の 美しい世界
 兄弟たち あなた方はここで腐肉と化し
 ばらばらに砕かれた骸骨と変りはて
 地球はあなた方の眼窟のなかで廻り
 あなた方は腐った砂漠となり
 死は時間の均衡を破ってしまった

 あなた方はいまや姐虫と鴉の餌食だ
 だがあなた方は顫えるわたしたちの希望だったのだ

 ゲルニカの焼け焦げた樫の木のしたに、ゲルニカの廃墟のうえに、ゲルニカの澄んだ空のしたに、ひとりの男が帰ってきた。腕のなかに鳴く仔山羊を抱え、心のなかには一羽の鳩を抱いていた。かれはすべての人びとのために、きよらかな反抗の歌をうたうのだ。愛にはありがとうと言い、圧制には反対だと叫ぶ、反抗の歌を。心からの素直な言葉ほどにすばらしいものはない。かれは歌う──ゲルニカはオラドゥールとおなじように、ヒロシマとおなじように、生ける平和の町だ。これらの廃墟は、恐怖(テロル)よりももっと力強い抗議の声を挙げているのだ。
 男はうたい、男は希望をかかげる。かれの苦しみは雀蜂のように、険(けわ)しくなった青空のなかへ飛びさってゆく。そうしてかれの歌はやはり蜜蜂のように、人びとの心のなかに蜜をつくった。
 ゲルニカよ! 無辜(むこ)の人民は虐殺にうち勝つだろう。
 ゲルニカよ!……
       (ガリマール版『エリュアール全集』より訳出)

<「レジスタンスと詩人たち」1981年 白石書店>

羊を抱いた男
ピカソ「羊を抱いた男」