FC2ブログ

小熊忠二との書簡

ここでは、「小熊忠二との書簡」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


小熊さんへの手紙
小熊さんへの手紙
小熊さんへの手紙
小熊さんへの手紙
小熊さんへの手紙


こないだはわざわざありがとう
ご香典もたくさんもらって お礼を申します
おかげさまで彼女をさわやかに送ることができました
そのとき また彼女を送るよい言葉を贈ってくれて何よりありがたく思っています
さわやかに送っても残されたわたしはさわやかどころか 途方にくれるばかり
そうして また 泣くばかり

わたしを愛して支えてくれたすべては
 消えうせてしまった
わたしのよろこびだったすべてはもう
 消えさってしまった
わたしのいのちそのものだった女(ひと)は
 もうこの地上にいない

きょうは彼女が地上に いなくなった最初の日
一九九三年二月十三日
 とりあえずお礼まで

小熊忠二様 ふさ江様          博光


*静江の告別式に参列された小熊忠二夫妻にたいして、博光はお礼の手紙を書き、その控えがとってありました。
最初の涙」という詩になっています。

うれしいお便り頂けたのに、返事おくれ申し訳ありません.
さしてすることもないのに。ただ座るのがつらいだけ。
……
八月のはじめ、鈴木初江さん上田での長田三郎氏の追悼のイベントに参加するついでに、長野にこられ、駅前の店で逢いました。世情について疑問を口にした穂苅栄一さんに向って、信頼できるのは共産党だけ!と云って、大声で鈴木大姉、強調したので、脇にいた和服の女性店員たち、びっくらこいて。─酒も随分とみんなでのみ、お陰でわたしの背中の痛みもいっとき、霧散ました。
   ☆
いまの、先生にはもうお伝えしてもよい事と思いますが、お盆には息子たちのさそいで戸隠へ行き、あのかつての、奥様と歩いたプロムナードを歩きました。あのとき、先生が見つけた鳥「ウソ」がひくく飛び去った、モミの巨木の脇で、食事などして。
  その水に わたしは
  青い 青い魚をみた
帰ってから、二日ばかり起きあがれませんでした。酒の故か。
   ☆
もっか、わたしの前の家がとりこわし中。地ひびきたています。まわりみんな二階だてにするのです。女房はだからそのほこりと音に夕方まで雲隠れ。困ったことに吾が家は窪の境遇になります。すると、そして詩が生れる。
……
また、三鷹へ出かけます。よろしく酒のおつきあいの程を。けっして酒摘のなかに過去を”笑い話”にしませんから。
          忠二
博光先生
(1995年8月18日)

   *   *   *   *

小熊忠二のこの手紙から、博光の毛筆文「戸隠高原のモミの木や」が、この手紙に対する返書の控えだったことがわかりました。
小熊忠二は戦後の詩誌『角笛』からの詩友で、生涯にわたり博光と熱く交流してきました。おびただしい数にのぼる彼からの手紙は二人の足跡を示す貴重な資料になります。
彼は早くから『稜線』の同人に参加して鈴木初江と交友しますが、ずっと参加していなかった博光と『稜線』との橋渡しの役をしていました。そして1994年夏に博光が参加することになります。

*「戸隠高原のモミの木や
博光が『稜線』同人に参加

戸隠
戸隠高原にて小熊忠二夫妻と(1985年5月8日)

戸隠1
戸隠2
戸隠3


(注)
信州の友人への書翰の形で心境を書いています。書いた時期は鈴木初江さん(「稜線」主宰、2002年6月没)がお元気な頃なので、2001年以前でしょう。

[戸隠高原のモミの木や]の続きを読む