新日本新書『アラゴン』

ここでは、「新日本新書『アラゴン』」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 リラと薔薇

 一九四〇年四月、アラゴンの部隊はベルギーに派遣される。彼は医療班長として、第三軽機械化部隊(DLM)に配属されていた。部隊は、ブリュッセル東方のチルルモン郊外のベルギー軍陣地を救援することになっていた。しかし五月初め、アラゴンの部隊がチルルモンの近くに到着したときには、ドイツ軍の先遣部隊はすでに一○○メートル先に迫っていた。この危険な状況のなかで、アラゴンは打撃をうけた戦車から負傷兵を救出する方法を考案して、救助活動に従う。しかし連合軍の敗北による潰走が始まる。アラゴンも部隊とともにチルルモンからダンケルクへむかって、休みなしに退却をつづけ、五月二十九日ダンケルクに到着する……「ダンケルクの悲劇」である。「リラと薔薇」はこの時期を反映している。

  おお 花の咲く月 虫が姿を変える月
  雲のなかった五月と 胸えぐられた六月と
  わたしはけっして忘れまい リラと薔薇とを
  春が その襞(ひだ)のなかで まもった人たちを

  わたしは忘れまい 恐ろしい悲劇の 幻(まぼろし)を
  長い行列や叫び声や むらがる群衆や太陽を
  愛を積み込んだ戦車や ベルギーの贈り物を……

  わたしは忘れまい 消えうせた数世紀の
  ミサの祈疇書にも似た フランスの庭を
  夜な夜なの騒ぎと なぞを秘めた沈黙を……

  こん夜きけば パリはついに陥ちたという
  わたしはけっして忘れまい リラと薔薇とを
  そうしてわれらがうしなった 二つの愛を

 「胸えぐられた六月」というのは、四〇年六月のダンケルクの悲劇につづいて、六月十四日にはパリが陥落し、十八日には独仏休戦条約が調印されたことを指している。
  「愛を積みこんだ戦車やベルギーの贈り物……」という詩句は、ベルギーで受けた歓迎の光景をうたっている。

   こん夜きけば パリはついに陥ちたという

 これについてサドゥールは書いている。「この詩句はいまもわれわれの記憶のなかに鳴りひびいている。かつてユゴーが、単純に直接的に書いた『子どもは頭に二発の弾丸をぶちこまれ た』という詩句と同じように……」(『アラゴン』)

 さて、『断腸詩集』の終りには「一九四〇年の押韻」という詩論が置かれている。これはフランスの抵抗詩を理解するうえで、きわめて重要な文章である。詩の大衆化の問題、敵の検閲の目をくらますための、詩における「密輸」の問題、詩における民族的伝統、民族形式に根ざした詩的表現の問題(新しい押韻の創造、押韻革新の問題)|これらの問題についてアラゴンがすでにずっと以前から考察を加え、研究していたことを、この一文は物語っている。アラゴンは鋭い先見の明をもって「合法的」な抵抗詩の役割を定義づけている。
 「人間がかつてないほど深く辱められ、かつてないほど人間の尊厳が完全に剥奪されているこんにちほど、事物をして歌わせるということが、人間にとって緊急にして気高い使命となったことは、恐らくいまだかつてなかった。このことをはっきりと意識しているわれわれはたぶん少数派かも知れないが、ごうごうたる人間侮辱の騒音のなかでも、われわれは勇気をもって真実の人間の言葉を守りつづけ、そのオーケストラによって夜鳴きうぐいすどもを蒼ざめさせるであろう」

新日本新書『アラゴン』

薔薇




  時間は閉(し)まる戸のついた
  あの三面鏡だ
  未来と過去は消えうせ
  わたしがそこに見る現在は わたしを殺す

 ここに、のちの小説『死刑執行』を構成するイメージを読みとることができよう。

  わたしは世界をペてんにかけるやからには属さない
  わたしは身も心もあの壮大でみじめな人間たちの群のひとりだ
  わたしは嵐から逃げたことはかつて一度もなかった
  火事のたびにわたしは自分の腕で火の粉を払った
  わたしは塹壕にもいた戦車にも乗った
  わたしはいつも自分の危険な考えを臆面もなく公然と口にした
  そしてひとがわたしの顔に睡を吐きかけに来たときにもわたしは引きさがらなかった
  わたしは額に格印を押されて生きた
  わたしは黒いパンを分かちあいみんなと涙を分かちあった
  わたしが乗ったのはただ駆逐艦だけだ
  それは侵されたわが国土からわたしを救い出してくれた
  ……
  ここにわたしの生涯の姿がある
  ここにきみがおりわが悲劇がある
  わが大いなる内なる劇場がある
  ……

 この「大いなる内なる劇場」というイメージからは、やがて「詩人たちの劇場」としての長詩『詩人たち』が書かれ、一九七四年の『劇場/小説』が書かれることになる。
(つづく)

(新日本新書『アラゴン』)

トランペット


  『エルザ』

 『未完の物語』のつぎに書かれた『エルザ』(一九五九年)は一二五ページに達する長詩で、まるで唐突に「女は時間だ」という詩句で始まる。

  わたしはきみに大きな秘密をうち明けよう きみは時間なのだ
  女は時間なのだ
  時間の機嫌をとって その足もとに坐っていなければならない
  脱ぎすてられた着物のような時間
  はてしなく梳(す)かれる髪のような時間
  吐きかける息で曇ったり 曇りをとったりする鏡のような時間
  わたしが眼覚めている夜明けに眠っているきみは時間だ
  わたしの咽喉(のど)を突きさす匕首のようなきみは時間だ
  なんと言ったらいいのか この流れない時間の拷問は
  青い静脈の中の血のように この停った時間の拷問は

 ここでは愛は時間の意識によって捉えられ、時間の意識は生の意識そのものとして歌われる。ここにはエルザとアラゴンに近づいた老いが反映されている。
(つづく)

新日本新書『アラゴン』


笛


 『未完の物語』

 一九五六年二月、ソヴェト共産党第二十回大会におけるフルシチョフ報告は初めてスターリンの犯罪を公然と告発した。このフルシチョフ報告がフランスで「ブルジョア」新聞に公表されたのは四カ月後の六月であった。それはフランスじゅうに、とりわけ左翼の知識人たちに前例のない衝撃を与えた。

 つぎの七月、アーヴルでひらかれたフランス共産党の第十四回大会は厳しい大会となった。党の文化担当カナパはその発言で、「ジュダーノフ主義は芸術、文学、文化の諸問題における党の精神(党派性)以外の何ものでもない。われわれはこの党の精神を保持するだろう」と言って、スターリン批判には出なかった。アラゴンは党の方針に従う。それはほかの態度をとるものと彼に期待していた人たちを失望させた。
 しかし九月になって長詩『未完の物語』が刊行されてみると、アラゴンの詩世界がまったくそのようには運んでいないことがわかった。『未完の物語』は苦悩の調子、ときには悲壮なひびきに彩られていた。それはスターリン批判がアラゴンに与えた深刻な打撃、動揺、苦悩、自己批判、再出発などの内面的状況を反映していたからである。

  千九百五十六年がやってきた 瞼に突きつけられた匕首のように
  わが見るすべてはわが十字架となり わが愛するすべては危機に瀕する
  きみがいなかったら わたしはただ石を投げつけられる男でしかなかったろう
                  (「幸福とエルザについての散文」)

 しかし苦悩と絶望とを混同してはならない。偉大な歴史的前進には、望ましくはないが、いろいろな矛盾やあやまちや悲劇を伴わずにはいなかったのである。だがアラゴンは、「スターリン時代の悲劇」がひとたび暴露されると、それは自分にはかかわりのないことだ、とかんがえるような人びとにはぞくさなかった。かれはこの問題を自分の傷口として受けとめる。かれはフランシス・クレミユにこう語る。
 「たとえ、かれらが何も知らなかったとしても、たとえ、多くのひとが戦争犯罪について無罪でありうるという意味で、無罪であるとしても……やはりかれらは、理解しなかったという事実について自分にも罪のあることを感じるのだ」(『クレミユとの対話』)

 アラゴンは左右から浴びせられる非難にたいして、「モスクワの夜」のなかでおのれの苦悩を語る。

  ひとはわれらをあざ笑うだろう 精神のエリートだといって
  ひとはわれらをあざ笑うだろう おのれ自身
  火にそそぐ油となるほどにも炎を愛したといって
  ……
  ひとはわれらをあざ笑うだろう われらの献身のゆえに

  要するに わたしはいく度となく道を誤った
  きみらは 懐疑といううしろ向きの美徳を讃(たた)え       
  石橋を杖でたたいて渡るような慎重さをほめそやす
  ところでわたしは人生を誤り 靴まで失(な)くした
  穴の中に落っこちて わたしは傷口を数えている
  わたしは夜の果てまでは 辿りつけないだろう

  ついに夜が裂けて そこに暁があらわれ出で
  夜が白みだそうと もう どうでもいいのだ
  この怖るべき不幸のさなかにも わたしは雄鶏の歌うのを聞く
  わが蹉跌のさなかにも わたしは勝利をささえる
  きみらはすべての偉人たちの眼を抉りとろうというのか
  わがくらやみのなかにも わたしは太陽をもつ

 ここでビエル・デクスは言う。「こう書いたとき、アラゴンは偉大さに到達し、とつぜん彼の真の高さに立つ」と。

『未完の物語』(下)につづく>

(新日本新書『アラゴン』)

水仙

   どのようにして水は澄んだか

  茫漠とした春がやってくる 雪どけ水は
  四方に流れだし さまよい流れ 合流し
  ふしぎな道をとおって 流れつづけて
  ふたたび 深い地層のなかに よどむ

  あの人びとの流れも 四方からやってくる
  高台から 低地から氷原からやってくる
  また鉱滓(かなくそ)が 白土や鉱石から出てくるように
  沼地からも 窪地からも 湧きでてくる

  彼らは 夢を抱いて 四方からやってくる
  古い砂と泥とを ごっちゃにころがせながら
  四方からやってくる いかに美しいうそ八百も
  彼らを おしとどめることはできなかろう

  彼らは四方からやってくる 論争と風波の
  いつはてるともないざわめきを立てながら
  彼らは 自然の海へとむかって流れこみ
  ついに澄んだ水は そこに寄り合いとけあう

 そうして詩人はみずからが入党した頃の、青年時代の自分自身の姿を描いている。

  毛虫は その身を蝶にかえようとする瞬間(とき)
  羽根や大気のことも知らずに青空の悪口を言うものだ
  きみは あわてふためいて書いてしまったのだ
  あとで読んだら びっくりするようなことを

  見たまえ わたしはやっぱり大道をえらんだ
  わたしも時おり息が切れ 音(ね)をあげたものだ
  わたしの歌が 労働者の足どりで歌えるように
  わたしもみんなと 足なみをそろえたのだ

  みんながめいめい 自分の歴史を物語るべきだ
  どのように党へやってきて どのように変ったか
  どのようにして水は澄んだかを そうすれば
      みんながそこから階級なき未来を飲むだろう

 そうして詩人はさいごに党への信頼と忠誠をつぎのようにうたう。

  党よ 挨拶を送る 今こそみんなが党を選ぶべき時だ
  すべてが明らかとなり 危険が迫っているこのとき
  おお 生活をつくりだし 万人にわけるパンを
      その緑地(オアシス)でつくりだす井戸よ

  党よ 挨拶を送る 路線の上を走る走り手に
  党は伝言(ことづけ)を託し 走り手もそれで学習する
  あなたに挨拶を送る 英知の党よ すがすがしい党よ
      あらゆる木の実をつけた大樹よ

  党 わが新しい家庭よ あなたに挨拶を送る
  党 これからはわが父 あなたに挨拶を送る
  そうして メーデーの朝のように 光美しい
      あなたの家に わたしははいる
                     (『眼と記憶』)
(この項おわり)

新日本新書『アラゴン』

水仙

 『眼と記憶』

 「最後の審判はないだろう」

 一九四八年から一九五三年にかけて世界における「冷戦」は朝鮮戦争においてその頂点に達する。一九五〇年十二月、アメリカのトルーマン大統領は朝鮮戦争で原爆使用もありうると言明する。一九五二年、ビキニにおいてアメリカの水爆実験が行なわれ、日本人の漁夫がその犠牲になる。原爆にたいする世界的な恐怖は、未来への見通しをもった人たちをも昏迷におとしいれた。
 『眼と記憶』は原水爆の脅威・恐怖が現実のものとなり、人類の生死にかかわる問題としてクローズアップしてきた状況のなかで書かれた。アラゴンはこの詩の由来についてこの詩の注で書いている(「この詩」と書いたのは一六〇ページに及ぶ『眼と記憶』を、作者は詩集と呼ばずに一つの詩と定義しているからである)。

 「この詩は、エルザ・トリオレの小説『赤い馬、あるいは人間の意志』の余白に想を得のである……
 作者は一九五三年十一月中旬からこの詩にとりかかった。ところで、この小説がかき立てたいろいろな反省やこの小説がよび起こした公開討論などが、作者をして『赤い馬』の読後に生まれたいろいろな感情の表現を、現代詩にあっては異例の規模で発展せしめたのである。
 この小説は原子爆弾その他が爆発した翌日に始まる。原子爆弾の爆発によって人類は破滅し、相互の交通手段もなく孤立した小さなグループにわかれ、滅亡にさらされ、『長くひき延ばされた死』に脅かされる。あたかもこの小説が出版されて数カ月後、太平洋での『実験』の犠牲となった日本の漁夫たちは、この『長くひき延ばされた死』に出っくわしたのである。
 この世界の終り、つまり地球上の生命の減亡という仮説からこの小説は始まる。そうしてこの詩はこの小説の対位法として始まるのである」

 冒頭の歌「最後の審判はないだろう」は、原子兵器の使用によって引き起こされるかも知れない世界終末の光景を詩人は想像によって描いている。

  ひとびとが閉じた その眼で見たのは
  鉄と 火と 飢えと 家々のかまどと
  太鼓におおわれた かずかずの銃と
  マストにまでかかげられた苦闘の姿

  われらがぶつかる この試練には
  もう 病院も 手術も 役立たない
  まさに ヒロシマ廃墟の絵図さながら

  もはや すべてのざわめきも とだえ
  もはや 絶望するものさえ いない

  この 魔法のような 大虐殺は
  われらを 有史以前へとつれもどす
  殺そうにも 生きもののいない屠殺場
  墓碑銘をかこうにも 書き手がいない
  死が勝ちほこる 蒼ざめた岩のうえに
  化石と化した われらのすがたを
  いったい だれが読みとるのだろう

 しかし、原水爆の脅威とその怖ろしさにただ怖れおののいているなら、それは原水爆をふりかざして世界の人民を脅かしているやからの思うつぼにはまることになろう。アラゴンはその脅迫にたいして「人間の意志」を対置させる。

  だがたとえ 歌が煙りのように消えてゆこうと
  わたしに耳傾けるひとが ひとりもいなかろうと
  街まちに ひとの足音がとだえようと
  気も狂わんばかりの 狂おしさで
  わたしは 歌をうたいつづけよう
  愛の歌で きみに答えつづけよう
  愛するひとよ わたしのただ一つのこだまよ

 ここでも詩人はエルザをうたい、おのれをうたっているが、『眼と記憶』では作者自身のいうように「政治的側面」が支配的である。とりわけ「どのようにして水は澄んだか」は、恐らく詩の歴史のうえで初めて歌われた壮大な党の詩である。
(つづく)

新日本新書『アラゴン』

海



 この頃、一九四三年三月、アラゴンの合法的な最後の詩で、後に有名になる「薔薇と木犀草」が発表される。

   薔薇と木犀草 (抄)

  神を信じたものも
  信じなかったものも
  ドイツ兵に囚われた あの
  美しきものをともに讃えた
  ……
  神を信じたものも
  信じなかったものも
  ひとりは地を駆けひとりは空をとぶ
  ブルターニュから ジュラの山から
  蝦夷苺よ すももよ
  蟋蟀(こおろぎ)もなお歌いつづけよ
  語れ フリュートよ セロよ 
  雲雀と燕とを
  薔薇と木犀草とを
  ともに燃えたたせたあの愛を
           (『フランスの起床ラッパ』)

 この詩はキリスト者のエティアンヌ・ドルヴとジルベエル・ドリュと同時に共産党員ペリとモケーにささげられている。この詩は、思想と信仰はちがっていても、ともに祖国解放のために倒れていった英雄たちと、その共同のたたかいへの讃歌として、ひろい統一行動への呼びかけとして、ひろく知られている。
 この詩がささげられているひとりジルベエル・ドリュはカトリックの学生で、一九四四年七月二十七日、リヨン市のベルクール広場でドイツ軍によって銃殺された。「手を触れるべからず」というドイツ軍の布告のために、遺体は三十日午後四時まで放置された……。ドリュの遺体が収容されたとき、そのポケットから赤い表紙の小さな詩集が出てきた。アラゴンの『ブロセリアンドの森』だった。アラゴンは書く。 
 「こうしてこの唯物論者の詩集は、見知らぬフランスの若者の、キリスト者としての情熱に結びつくことになった……」
 共産党員とキリスト者との共同闘争はレジスタンスにおいては日常的な事実であった。詩の領域においても、多くのキリスト者詩人、たとえば大詩人ピエル・ジャン・ジゥヴ、ピエル・エマニュエルを始めとして、ロワ・マッソン、ジャン・カイロールなどがレジスタンスに参加し、共産党員詩人たちとの共同のたたかいをすすめたのだった。
(「ガブリエル・ペリの死──責苦のなかで歌った者のバラード」へつづく)

新日本新書『アラゴン』

ダンス


 一九四二年十二月三十一日、アラゴンとエルザは「天国」を去る。二ヶ月足らずの滞在である。行先はリヨンのモンシャにあるルネ・タヴェルニエの家である。「Confluences」誌の編集者タヴェルニエが彼らをかくまってくれる。

「リヨンは当時、方ぼうからやってきたあらゆる種類の人びとであふれて、たちまちレジスタンスの首都となった都市(まち)で、活気と危険にみちみちて、とつぜん一斉検挙が襲いかかり、その牢獄では人びとが苦しんでいた……」(エルザ「地下生活への序文」)
 ここで、アラゴンとエルザは、思想、政治的傾向のちがう知識人たちを糾合して、南部地帯における「作家全国委員会」の活動を進める。そこにはピエル・エマニュエルのようなカトリックの詩人もいれば、アンリ・マレルブのような、かつて右翼の「火の十字架」団の副団長であり、ゴンクール賞を受賞した作家もいた。
 アラゴンとエルザがパリに出て、エリュアールと再会したのも、一九四三年の初めである。かれらがパリに着くと、エリュアールとニューシュがリヨン駅で待っていた。二人の詩人の再会はあの一九三三年の決別以来であった。その頃エリュアールは入党したばかりであった。

  なんとエリュアールの花束の心うったことか
  パリ・リョン・地中海線の駅で

  ここで兄弟がまた手を結んだのだ
  あんなに長いこと別れていた兄弟が
                  (『眼と記憶』)

(つづく)

(新日本新書『アラゴン』)

花束


 地下生活

 一九四二年十一月八日、連合軍が北アフリカに上陸すると、さっそくドイツ軍はフランスの南部地帯に侵攻し、三日後にはムッソリーニの軍隊がニースに侵入する。アラゴンとエルザは最後の列車でニースを離れる。エルザは書く。
 「身の回りの物はごちゃまぜにトランクに入れた。ビエル・セゲールスがそこにいて、わたしたちといっしょに列車に乗った。アンリ・マチスの女秘書リディアが手伝ってくれて駅まで見送ってくれた。わたしたちはディニュで宿をとった……翌日わたしはヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニヨンに着く……あなたはあのディウルフィの上の方のあばら家へ向かった……。
 隠れ家は、ディウルフィの上の方の山の中にあって、そこへ辿りつくには歩いてゆくよりほかなかった。わたしたちはこの隠れ家を陰謀めかしく『天国』と呼んだ。それは三つの村をむすぶ四つ辻にぼつんと立ったあばら家だった。だから、三つの村のどれに属するのか、はっきりわからなかった。まるでだれも気にとめないような家だった」(「地下生活への序文」)
 この「天国」は安全な隠れ家ではあっても、山の中にあったために地下活動には不便でもあり不可能でもあった。それにエルザはこの「天国」に耐えられなかった。このあばら家と土地になじめないエルザの嫌悪感は夫婦のあいだの危機をも招くことになる。地下生活に入ったことで突然もちあがった危機である。
 「幸福な愛はない」はその状況を反映している。

  人間にたしかなものとては何もない その強さも 
  弱さも心さえも 腕をひらいて友を迎えたと
  思うとき その影は十字架のかたちをしている
  幸福を抱きしめたと思う時 ひとは幸福をぶち壊す
  人生とは痛苦にみちみちた無常な別れだ
   幸福な愛はない

  ……
  苦しみをともなわないような愛はない
  ひとの心を疼かせないような愛はない
  ひとの心に熱い火傷(やけど)とならないような愛はない
  そしてきみへの愛も 祖国への愛も同じもの
  涙で養われないような愛はない
   幸福な愛はない
   しかしそれこそわれら二人の愛なのだ

 アラゴンはこの詩にふれて、その頃の状況と詩の関係を語っている。
 「この詩は一九四三年の初めに書かれたものです。その頃、エルザはわたしと別居しようと思っていました。それはけっして私的な性質のものではなかったのです。どうしてそうなのか、その理由(わけ)を話しましょう。当時わたしたちが属していた抵抗運動には、守らなければなら一つの規律があったのです。それは夫と妻であれ、あるいはその関係がどうであれ、二人のものは同居をつづけてはならないというものです。二人でいっしょに住んでいれば、警察につけられる可能性も大きくなり、したがってたくさんの人たち、ひいては運動そのものを危険におとし入れるからです。その頃、略して言われていたように、わたしは働いていた(活動していた) のですが、わたしはエルザの書いていたものが充分に社会的な活動だと言って、かの女の説得につとめ、それで事態を適当に処理しうると思い込んでいたのです。エルザはそうは考えずに わたしに言ったのです。『いまにこの戦争が終って、戦争中あなたは何をしたかと訊かれた時、何もしませんでしたと答えねばならないなんて、そんなことを考えるとわたしはじっとしいられないのです』と。そして彼女が活動すれば、わたしたちはいっしょにいるわけにはいかないから、彼女は別居する決心をしたのです……このわたしたちの間のドラマは、防衛上の規律にちょっとばかし従わないということで、かたがついたのです。そこでエルザは活動を始め、わたしも活動をつづけ、しかもわたしたちは同居をつづけたのです。ただわたしたちは誰の危険にもならぬように必要なだけの用心をしました。そしてじっさい占領の終るまで、どちらにもなんの事故も起らなかったのです……」(『F・クレミュとの対話』)
 (つづく)

新日本新書『アラゴン』

海

 ガブリエル・ペリの英雄的な殉難は伝説としてひろまり、ペリの三周忌にアラゴンは「ガブリエル・ペリの伝説」を書く。

    ガブリエル・ペリの伝説(抄)

  墓場はイヴリイ
  その共同墓地の奥に
  月も出ぬ闇のなかに
  横たわる ガブリエル・ペリ

  殉難者(かれ)はなおも悩まし現れる
  あの暗殺者どものこころに
  民衆の涙の落ちるところに
  かずかずの奇跡があらわれる

  伝説的な死者たちの眠るところ
  影は つねに叫びつづける
  そこに あやしく花咲きつづける
  青い紫陽花(あじさい)の花が 日暮れ頃

  そこ イヴリイの墓地にひらく
  その扉を閉ざしても むだだ
  夜ごと誰かが 花を捧げにくるのだ
  かくて ガブリエル・ペリは花咲く

  ああ イヴリイの墓地に
  われらの不幸の花束は重い
  だが その花の色はかるい
  ガブリエル・ペリの気に入るように

  やつらは もみ消し去ろうと企てる
  だが ここ イヴリイの墓地に
  吹きゆく風は 過ぎゆくひとに
  ガブリエル・ペリの名を告げる
  こころなき 冷たい大地のしたに
  フランスのため いまも高鳴る
  ガブリエル・ペリの心臓は高鳴る
  そこ イヴリイの墓地に
               (『フランスの起床ラッパ』)

 この詩には作者の注がついていて、この詩が人びとの口から口へと伝えられていた伝説にもとづいて書かれた事情を興味深く物語っている。
 「この詩はガブリエル・ペリの三周忌のために書かれたもので、じっさいに伝説に属していて、歴史には属していない。ガブリエル・ペリが埋葬されたのは、じっきいはイヴリイの墓地ではなく、シュランヌの墓地であり、共同墓地ではなく、登録された墓地である。しかしながら、作者は当時地下にもぐっていたが、この詩の細部にいたっては、ひとつも創作していない。青い紫陽花(あじさい)の話も作者の創作ではなく、恐らく、多のひとびとによってつくりだされ、語り伝えられたものにちがいない。ペリの死後、二年も経たないうち、早くもペリについての口伝えがひろまり、それがこのじっさいとはちがった詩を、作者にもたらしたのであり、こうして『ローランの歌』や『吟遊詩人たち』の時代のように、こんにち、ひとつの伝説が生まれたのだ。『ローランの歌」の時代にも、こんにちと同じように、フランスは老いぼれ兵と怪物どもにふみ荒らされ、ゆだねられ、フランスじゅうを多くの詩が口から口へと伝えられたのだった」

 ペリの武勲(いさおし)や思い出を讃えたこれらの詩はたちまち大衆的な詩となって、ひろくひろめられた。
 「責苦のなかで歌ったもののパラード」は、アラゴンのところにも作者とは知らずにとどけられた。彼の仲間でさえ、それが彼の詩だとは気がつかなかった。
 学校を出てから詩などを読んだことのないようなたくさんの男女が、この「バラード」やエリュアールの『自由』のような詩を読んでいっしょにたたかった。詩は民衆に溶けこみ、民衆は詩人と結びついたのである。
(つづく)

(新日本新書『アラゴン』)

シャトーブリアン
シャトーブリアンの殉難者の記念碑

 また一九四三年三月、「レットル・フランセーズ」紙の責任者クロード・モルガンがアラゴンと連絡をとるためにパリからリヨンにやってくる。帰りに彼は、アラゴンの詩「義勇兵の歌」「責苦のなかで歌った者のバラード」をたずさえてゆく。これらの有名な抵抗詩はアラゴンが地下生活に入った時期に書かれたものである。

   責苦のなかで歌った者のバラード(抄)

  もし もう一度 行けとなら
  わたしはまた この道を行こう
  ひとつの声 牢獄より起こり
  明日の日を 告げる

  だが もう一度行けとなら
  わたしはまた この道を行こう
  牢獄より湧きあがる声は
  明日の日のために 語りかける

  おお 友よ わたしが死んだら
  わたしの愛と わたしの拒否とが
  なんのためだったか わかるだろう
  わたしは死ぬが フランスは残る

  弾丸(たま)のしたでも 彼は歌った
  「血に染む旗は 挙げられぬ」と
  二度目の斉射までに その歌を
  歌いおわらねばならなかった

  マルセイエーズを歌いおわった時
  もうひとつの フランスの歌が
  かれの唇をついて 湧きあがった
  全人類のための インターナショナルが
                      (『フランスの起床ラッパ』)
(訳注)「血に染む旗は 挙げられぬ」はラ・マルセイエーズの歌詞の一行。

 この詩はガブリエル・ペリの一周忌を記念して書かれた。ペリは一九四一年十二月十五日モン・ヴァレリアンで人質として銃殺された。ペリはフランス共産党の指導者の一人で、国会議員であり、ドイツ・ファシズムにたいする仮借なき批判者であった。一九四一年夏、かれはヴィシィの売国政府によって逮捕されたのちドイツ軍に引き渡された。ドイツ軍はかれを裏切らせるために、あらゆる甘言と拷問を用いたが、かれは毅然として拒否した。処刑の前夜にペリが書いた最後の手紙は共産党員の忠実さ、未来への信頼、ゆるぎない確信にみちた遺言として有名である。
 「わたしは最後にもう一度じぶんの良心をふりかえってみた。少しもやましいことはない。もしも、 もう一度人生をやりなおさねばならぬなら、わたしは同じ道を行くだろう。わたしは今夜もやはり信じている。『共産主義は世界の青春であり』そして『それは歌うたう明日の日を準備する』と言った親愛なるポール・ヴァイヤン・ クーチュリエの言葉の正しかったことを。わたしはまもなく『歌うたう明日の日』を準備するだろう。わたしは死に直面する力をもちあわせているように思う。さようなら、フランス万歳!」
(つづく)

(新日本新書『アラゴン』)

*「責苦のなかで歌った者のバラード
*「ガブリエル・ペリ最後の手紙

レジスタンス

 一九四七年三月、アメリカの「ソヴェト封じ込め」政策とともに「冷戦」が猛威をふるい始める。このアメリカの露骨な帝国主義的干渉はフランスにも影響をあたえ、一九四七年五月、時のラマディエ内閣からトレーズほか四名の共産党閣僚がしめ出される。フランスでは、「冷戦」はアメリカでのように「魔女狩り」を誘発しなかったが、しかし大部分の新聞や雑誌はアラゴンを始めとする左翼の作家詩人たちについては沈黙を守る。六月にはヨーロッパからソヴェトをしめ出す「マーシャル・プラン」が実施される。

  吹きまくる大風に抗して わたしは書くのだ
  大風に服ふくらませるやからの気に入るまいが
  あの風をもっと強く吹き起そう 埋れ火が赤あかと燃え立つように

  歴史とわたしの愛とは おなじ歩幅をもつ
  わたしは書くのだ 吹きまくる大風に抗して
  黄金の麦畑の下に 未来(あす)のパンを読みとれぬ連中にはかまうまい 
          (「はてしない逢曳き」)

 「吹きまくる大風」が何を意味し、それに対比された「あの風」が何を意味するかは、もはや言う必要もないだろう。批評家たちは『新断腸詩集』の政治性にたいする攻撃をやめなかった。しかもアラゴンの詩を引用することさえしなかった。

 一九四九年、アラゴンは平和運動に献身的に尽力する。一九四九年四月パリでひらかれた「第一回世界平和擁護大会」の組織者のひとりとなる。レジスタンスの名所、オラドゥール、ヴェルコール(ドローム県の山岳地帯でドイツ軍によるマキ団壊滅の悲劇の地)コルシカ、ヴィミ(パ・ド・カレ県)などにむかって行われた平和行進(キャラヴァン)の組織者のひとりとなる。それはアラゴンにとって地方と接触する貴重な機会となった。そこから詩集『わが平和行進(キャラヴァン)』が書かれる。
 戦後、アラゴンはとりわけ膨大な小説『共産党員たち(レ・コミュニスト)』の執筆に没頭する。この六冊に及ぶ小説は、一九三九年二月から一九四○年六月にいたる、奇妙な戦争からフランスの壊滅までを語る。この叙事詩的な作品は、一九五○年の初めに中断されることになる。
 一九五一年、アラゴンはパリから七○キロほどの南西の郊外サン・タルヌー・タン・イヴリースの風車小屋を手に入れて、別荘とする。閑をみつけると、そこで蔵書の整理をしたり、みずから庭園づくりに精を出した。長年の疲労をいやすためでもある。のちにその庭園はエルザとアラゴンの墓所ともなる……
(この項おわり)

新日本新書『アラゴン』

浜辺にて

 レジスタンスの詩を歪曲し、抹消しようとして、ジャン・ペリュという批評家は言う。
 ……〈レジスタンスの詩〉などというものはない。それは一九四○年後の占領下に現われ、〈解放〉の翌日に占領とともに消えうせた、特殊な性質をもった詩の観念を言い現わそうとしたものである。それはフランス詩の歴史にあってはほんのつけたしのエピソードのごときものだ。純粋詩の表面に、歴史的な事件の渦巻きによって一瞬つくられた、いわばひとつのさざ波のようなものだ……」(『ウーロップ』誌一九七四年七・八月号ジャック・ゴーシュロンによる引用)
 はっきり言えば、反共主義の波が詩の分野でも高まってきたのであり、アラゴンはその標的となる。非難攻撃は反共主義者たちからやってくる。かつてのヴィシィ派や、共産党が強力になるのを恐れた、かつての愛国者たちである。しかも、アラゴンのイニシアチーブは党の路線から遠いものだと言って、党内の一部からも非難が現われた。
 また、シュールレアリストたちは、アラゴンはその愛国的な詩で公然とシュールレアリスムの理想をうらぎったと非難する。ブルトンとパンジャマン・ペレも帰国すると、同じ立場に立ってアラゴンを攻撃する。『詩人たちの名誉』と名づけられたレジスタンスの非合法詩華集に反対して、ペレは『詩人たちの不名誉』を書く。
 このような状況を、エルザはいみじくも「幻滅」と名づけた。
 『新断腸詩集』(一九四八年)はこの状況を反映している。

    解 放

  それはウナギか それともウグイか
  養魚池の主として 振舞ってるのは
  いったい いつから ヒバリは
  ハエタカ を追っ払ったのか
  男は 手押し車を 押し
  女は 流し場で 洗う
  開き戸のうえで フクロウは言う
  きみらは 夢をみていたのだと

 「解放」のよろこびを歌った「パリ」にくらべてみると、この「解放」を染めている皮肉と絶望の色あいがきわ立ってくる。
(つづく)

(新日本新書『アラゴン』)

夕暮れ

 パリ解放の日、アラゴンとエルザはドローム県の草深いサン・ドナの村にいた。一九四四年九月初め、パリの家に帰ったとき、パリは自由になっていた。アラゴンはふたたび「ス・ソワール」紙の編集の任務に就き、その論説を書く。また、レジスタンスに参加した知識人グループを結集して、「思想の家」を創設する。ここを根拠として「全国作家委員会」の作家たちがふたたび会合し、文化的集会や芸術的行事を行なう。彼はまたエルザとともに「全国作家委員会」による書籍販売を組織する。

 しかし、このような活動にもかかわらず、解放後の状況はけっして平穏で幸せなものではなかった。アラゴンとエルザを標的にして反共攻撃と中傷が激しくなる。その雰囲気をエルザは書く。

 「……数年間の占領時代の遺産は重かった。〈解放〉はビフテキや石験や心の安らぎを一挙に返してくれる魔法の指輪ではなかった。おお、それどころではない、新たな闘いが始まったのだった。〈解放〉をめざしてわたしたちが操ってきた美しい舟が水平線のかなたに消えてゆくのを、わたしたちは絶望をもって見た。信頼、友情、誠実、連帯、英雄主義の舟が……。
 わたしたちは意見の相違、憎しみを示す申し分のない象徴となり、憎しみはわたしたちの身を越えて襲いかからずにはいなかった。それは始まると、わたしたちを個人的に傷つけ、わたしたちがもちうる影響力を骨抜きにせずにはやまなかった。政治的であれその他であれ、中傷はその頃異常な段階に達した。ひとびとはわたしたち二人を激しく攻撃して、わたしたちを醜悪な人物に──ペスト患者のように忌みきらわれる人物につくりあげた」(『交又小説全集』九巻「幻滅への序文」)

 詩の分野でひとつの象徴的な「タべ」が催された。一九四四年十月二十七日、テアトル・フランセにおいてド・ゴール将軍の主催による「レジスタンスの詩人たちを讃える夕べ」が大々的にひらかれた。ロベール・デスノスの抵抗詩「両替橋の不寝番」が朗読されると同時に、奇妙なことにポール・クローデルの「フランスは語る」もまた朗読された。これはド・ゴール将軍に捧げられた詩で、ナショナリスムの調子を帯びていた。ここにこの「夕べ」の主要な目的があった。この「タべ」はレジスタンスの詩に終止符をうとうとしただけでなく、レジスタンスそのものを終らせようとしたものだった。セゲールスは書く。「一九四四年十月二十七日……この日付をもって、数年にわたるレジスタンスの深い歌のうえに幕が下(おろ)される。テアトル・フランセのお祭り騒ぎとともに、レジスタンスは終りを告げる。弔花もなく、弔辞もなく……」(セゲールス『レジスタンスとその詩人たち』)
(つづく)

(新日本新書『アラゴン』)

エルザ
エルザ(1945年)


 解放と幻滅
              返してくれ わがパリを ルーヴルを トゥルネルを

 ついに解放の希いはかなえられてパリは解放される。一九四四年八月二十四日、暑い夜の十一時ごろ、突然、狂ったようにノートル・ダムの大鐘が鳴り出した。それにこたえるように、対岸のサン・ジェルヴェ寺院の鐘が鳴りだし、つづいてパリじゅうの鐘という鐘が鳴りだした。またたく星空の下、燈火のない暗いパリは夢のような歓喜の大合奏につつまれた。市民は外に飛びだし、街や大通りを埋めた。──自由になったぞ!
 アラゴンは解放の歓びをつぎのように歌う。

    パリ

  嵐のさなかでさえ さわやかなところ  夜のさなかでさえ 明るいところ 
  大気はひとを酔わせ 不幸も勇気となる
  うち砕かれた舗石にも 希望は輝き
  崩れ落ちた壁のなかから 歌声はあがる

  硝煙のなかのパリほどに 輝かしいものはない
  蜂起したパリの額ほどに 清らかなものはない
  危険をものともせぬ わがパリほどに
  何ものも 砲火も 火矢(ほや)も 強くはない
  わが抱くこのパリほどに 美しいものはない

  勝利したわが人民の あの歓呼の声ほどに
  わたしの心をうったものは かつてなかった
  かくもわたしを歓ばせ 泣かせたものはなかった
  経帷子(きょうかたびら)を引き裂くほどに 偉大なことはない
  パリ パリ みずからを解き放ったパリよ
                    (『フランスの起床ラッパ』)

(つづく)

新日本新書『アラゴン』

パリ