松代時代(昭和20年〜25年)

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 おれんとこの細胞

きょうはひとつ、おれんとこの細胞をヒロしよう。
なんしろ、この古くさいむかしの城下町、奥さんたちの井戸端会議にさえ、まだ家柄だの、血すじだのと、いまだに古い過去の影、封建の亡霊が尾をひいている城下町。だがここにもこんど、細胞ができたんだ。それでうれしくてたまらんから、ヒロをするというわけだ。
まず、車職人の北君がいる。まるで中共の若もののように活動するんだ。しっかりした行動的なやつだよ。年はまだ十九だが、よく本はよむ、仕事はする、そのひまん、革命のエネルギイでふくらんでいるようだ。町中にたくさんの赤旗を毎日くばってあるく。集会だの大会にはイの一番にかけつける。
かれにもただひとつ嘆きがある。それはおやじさんと二人で働いているその荷車製造にふれてのことだが、こいつが、手工業でいかんというのだ。もっと早く、近代的な機械をあやつる労働者になりたいというのだ。そうだ、北君、早く人民の近代工場をもたねばならんのだ。
北君、かれはまた、とても愛嬌者で、人真似芝居がうまくて、よくみんなを笑わせる。たとえば、或る指導者の口まね手まねで、やってみせる。
「つまりですな、民主人民政府はですな、」
つぎには全テイの林君がいる。これはまた、なんでもキチンとしなければ気のすまぬ、きまじめで、責任感でこりかたまったような男。
全くもって、タノモシイ同志。理論もゲンミツ、討論もセイカク、わが細胞の名議長、
このジョウダンひとついわないかれ
そのつぎに、うら若き岡村嬢がいる。詩を書いたり、うら若いながら演説はうまいもの、女性解放の尖兵だ。だがこの岡嬢、少しルーズでこまりもの、ときどきレンラクがとぎれたり、やりっぱなし、それもどうやら家庭がわるいらしい。元気をだしてくれ、岡嬢よ。
そのつぎは、山崎君。
学校出のインテリ職工。
疎開工場につとめてる。
このまた工場の組合が、全くの御用組合。
何と、この時世に山崎君のサラリーが手どり五百円。
いくらアジっても、よりつかないと思っていたら、こんど越冬資金闘争をもり立て、ぐんぐん、御用組合をきりくずし、みごとに闘争を勝ちとった。だが、学校出の山崎君、歯切れのよい東京弁はよいが、ちょっと演説が学生調でムズかしく、浮いていたという自己批判。
この田舎町の工場の中にも、山崎君の音頭で『インター』が高らかに鳴り響ひびいたのだ!
   (ノート1946年)

桜堤


博光の桐原時代の家のことで先日お会いした栗原さんから「当時の家の写真が見つかった」と連絡があり、お訪ねして見せて頂きました。
桐原
東側の写真。2階の窓から博光が声をかけた

桐原
西側の写真。畑は今と変わりない

桐原
南側。あの2階の窓でハチ騒動があった

栗原九市さんが日記をつけていて、博光がきた日時・経緯がわかりました。知り合いだった博光の転居先を世話しようと2,3軒先の家を静江と訪ねてお願いしたが、返事がもらえず、責任を感じて九市さんの家の2階に住んでもらうことにした。
昭和23年4月23日トラックで引っ越してきたが、荷物が多いのにびっくりした。本が多かった。
9月に西寺尾に戻った。9月24日はバイクで荷物を博光が運び、25日は自転車で運んだ。栗原さんの家を出たのは狭すぎたからだったようです。

博光の桐原時代のことがわかり、とても有難かった。栗原さんの奥さんは、九市さんが生きていれば沢山のことが聞けたのに本当に残念だと言われました。