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大島博光年譜

ここでは、「大島博光年譜」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


一九四六年(昭和二十一年)三十六歳
 一月、「そんね」(詩)を「新詩人」(小出ふみ子編集)に、「忘られし園」(詩)を「近代詩苑」(北園克衛・岩佐東一郎 「文芸汎論」の後継誌)に発表。二月、長男朋光出生。同月、ルヴェルディ「風と精神」を「新詩人」に発表。同月、長野市で開かれた日本共産党の演説会へ行きその場で入党。「一九四六年二月のある雪の降る日、日本共産党の演説会が長野市でひらかれた。演説をきいて感動したわたしはその場で入党申込書に署名した。わたしにこの決意を堅めさせたものは、学生時代にかいま見た党の姿の雄々しさであり、「帝国主義戦争は敗北に終わるであろう」という党の戦前の見通しの正しさが眼の前で歴史的に証明されたことへの驚嘆であり、そうして戦争中のあの穴倉のなかの詩から抜けでたい、抜けでなければならないという激しい願望と衝動であった。」(『大島博光全詩集』 「あとがき」)「むろんこの入党には、わたしが学生時代に読んだ『共産党宣言』の記憶、その頃の学生運動のなかでかいま見た党の姿などが、わたしのなかによみがえって大きく作用していたのです。」(「千曲川のほとりの思い出 「多喜二・百合子賞」受賞に際して」 「民主長野」 一九八五年三月)この後、日本共産党更植地区委員会結成に参加する。また戦後第一回総選挙闘争のため、松代近在の村々で選挙の応援演説に参加する。三月、「新しき詩のために」(エッセイ)を「新詩人」に発表。五月、「緑の泉」(詩)を「ルネサンス」に、アラゴン「讃歌」を「新詩人」に発表。六月、アラゴン「マニトゴルスク(ママ)の愛人たち」を「新詩人」に発表。七月、「昆蟲記」(詩)を「新詩人」に発表。九月、「詩と詩人について」(エッセイ)を「新詩人」に発表。

一九四七年(昭和二二年)三十七歳
 一月、「ヴァレリイの詩について」を「現代詩」に発表。三月、「詩に音楽性を」(エッセイ)を「新詩人」に発表。五月、ヴァレリー「詩神」を「現代詩」に発表。八月十一日、共産党の文化講座で「詩について」と題して講演をする。十月、「風のように」(詩)を「詩学」(岩谷満編集発行)に、「ランボオの芸術と生活」、「地獄の季節」、「愛の砂漠」を「肉体」(ランボオ特集号)に発表。十一月、「フランス詩壇について」を「新詩人」に発表。十二月、「アルチウル・ランボオ二章」を「文壇」に発表。

(『狼煙』85号 2018年4月 重田暁輝編集)

山中湖



大島博光年譜5(一九四五―一九四七)

一九四五年(昭和二十年)三十五歳
 一月三日、鈴木静江と長野駅にて再会する。二月、再度招集令状を受けるも再び解除となる。
「いよいよ怠惰な詩人にも国民徴用出頭令なるものが、今日参りました。二月五日に出頭、徴用決定までには少なくも廿日位の余猶はありませう。ただ希はくばイオニアの岸に近きところに徴用されたきものです。さらに希はくば、この徴用がウエディング・マーチによって伴奏さるる機会とならむことを!」(一日付鈴木静江宛)
「徴用出頭は、いよいよウエディング・マーチへのアフロディーテのお導きではないかしら……或いはわたしたちの春の流れへのプレリュードではないかしら……/おお しかし、願はくば、わたしのナルシスさまの傷つかぬようなお仕事でありますよう。/かよわい わたしの おこどもさんの堪え得るようなお仕事でありますよう。/あなたよ、けれど どのような事になりませうとも、お力落しになられないで……/あなたになる わたしが居ります故。居ります故。/参りますわ。十一日に。/又、一時半 長野駅着で。」(四日付大島博光宛鈴木静江書簡)
「いま両親と共に、われらの《聖地》渋へきてゐます。君がいっしょでないのが残念です。徴用の方は九分通り解除になるやうです。またしても美神の恩寵といふほかありません。」(六日付鈴木静江宛)
 以降、ギリシャ古典調の詩を混じえた恋愛書簡を頻繁にやり取りする。三月一日付の書簡にプロティノスへの言及がある。
 四月、東京無線に入社する。
「ψ、一日に東京無線へ行き、入社は殆ど決定しましたが、目下会社側の多忙のため、ポストや条件の決定はまだです。近いうちに呼び出しがあるでせう。それまで最後の閑暇をたのしんでゐます。――久しぶりに『マルテの手記』を読みかへし、その中に浸ってゐました。精神を思ふままに転位すること、しかも常に高みへと転位すること、――そのやうな自己操作の訓練をおもってゐます。」(四日付鈴木静江宛)
「会社内では、一番らくなポストを望み、本でも読ましてもらはうと思ってゐたのに、一番頭脳的で、忙しい業務係にまはされてしまゐ、それも、入社早々、主任の次席などを与へられて、本の読めないのには閉口です。しかし、このあひだは、デカルトの「方法序説」をよみ了へました。Bureauで読むデカルトのすばらしさは、今までの読書にない新鮮な歓びです。あの、ただ厳密に真理を追究する方法について簡明に書かれてゐる書が、詩よりも詩的でした。」(五月五月付鈴木静江宛)
 五月二十日、鈴木静江と結婚。
 八月十五日、終戦。
 秋、上高井郡川田村(現在の長野市若穂川田・若穂牛島)に疎開していた鈴木初江を訪ねる。
「そうこうしているうちに八月十五日に敗戦、その秋十月か十一月か、大島博光さんが来てね。政党に入れってすすめたんです。そのころ共産党の人達が釈放されたんです。/私も、かつて左翼的な運動をしたこともあるからか、と思ったりしたけれど、相手が大島さんだったことに非常にびっくりしたんです。というのは、抒情詩人としての大島さんしか私は知らなかったわけ、あの頃は『蝋人形』にいたでしょう。あんな甘い雑誌をやっている大島さんが何で私に?って、非常に以外(ママ)だったわけですよ。」(『長野県現代詩史1955-1989』 柳沢さつき編集代表 しののめ書房 一九九〇年 「座談会編」「東京方面」における鈴木初江の発言。)
(つづく)

(『狼煙』85号 2018年4月 重田暁輝編集)

結婚

一九四四年(昭和十九年)三十四歳

 二月、「秋の歌」(詩)を「蝋人形」に発表。この号に龍野咲人による書評「詩人の位置――ルネヴィル「詩的体験」について」が掲載される。なお同号をもって「蝋人形」廃刊となる。同月、『近代名詩選集』(千歳書房 山田岩三郎編集代表)に「生命を変へる」、「竪琴」、「微風に寄す」の詩三編を収録。同月、茨城県下館(現在の筑西市)に疎開していた西條八十を訪ねる。この時西條を訪問していた新川和江を知る。
「肩巾の広い、堂々とした体格の小父様、というのが最初の印象だった。少女の目にはぐんと年嵩の中年紳士と見えたものの、今思えば大島さんは、まだ三四歳で、独身の青年でいらしたのだ。(中略)西條先生は、目を通されていた私のノートを大島さんに示され、「現代詩の悪い影響を受けていないところが、いいね。それに、ボキャブラリーがとても豊富だ」と、同意を求められた。大島さんもひと通り読まれて、「そうですね」、と相槌を打ってくださった。〈現代詩〉も〈ボキャブラリー〉も、はじめて耳にする言葉であったので、私は途方に暮れ、ますます固くなって坐っていた。そんな私に大島さんは、先生と同様、優しいまなざしを向け幾度も頷いてくださった。」(新川和江 「少女の日に出会った詩人――大島博光さん・追慕」 「詩人会議」 二〇〇六年八月)
四月、龍野咲人の斡旋で長野県軽井沢高等女学校への就職が内定し、軽井沢で待機するも教育委員会から辞令がおりず内定取り消しとなる。後日、その理由を思想の故である旨、龍野から知らされる。
「貴方が女学校へ任命されなかったのは 思想のためだと校長が昨日申しました。/貴方の思想を西條先生なり 文学報告会なりに証明してもらって 然るべき人とお逢ひになるがよいでせう/大へんな誤解が 私たちの友情に暗影を投げてをります/昨日は私に不参を命じて学校職員の秘密会議がありました/じつに残念です/この誤解が明白に滅し去るまで 私に逢はないでゐてください/ますます疑を深めるのがよいことではありません/私も苦しい立場となりました/詩の友情が 思想の同志かなんどのやうに校長は考へております/どうか よき解決をして下さい/特高の人にお逢ひになり 貴方がどんな思想かを明白に申し立てられるが一番いいと存じます」(二九日付大島博光宛龍野咲人書簡)
また大島自身は後年次のように回想している。
「雑誌(蝋人形)の編集を手伝っていて 戦争中紙の配給が無くなって いよいよ出せなくなって こっちは失業だから軽井沢の女学校の先生の話があって 荷物も送って行ったら 校長はいいって言ったんだけど あいつは赤だからだめだって そこから二~三時間だから松代に帰って(療養した) でもそれが良かったんだね」(尾池和子「博光語録」)
五月以降、故郷松代で療養しつつ、軽井沢や追分へ頻繁に出かけ思索に没頭する様子が当時の日記から知られる。
「軽井沢沓掛の宿にて/永遠と時間、人間の偉大さと惨めさ、有限と無限……――これら両極のあひだを動揺することによって、わが日日は流れ去る。このやうなイデエたちが友のごとくわれに語りかける。不可見が可視的に身近かに感じられる。光りと闇がだんだん溶けてくる……しかしわれ自ら、わが内なる深淵に溺れはせぬか、それが怖ろしい。しかしまたその時には、翼が役立たう。そのやうな時には、わが深淵を天空に投げかへさう。」(五月七日付日記)
「夜、暗たんとして強き風あり。宿を出でて、追分への道を彷徨す。嵐の夜の底より天空に叫べど、叫び声はただ風に運び去られ、死せる暗黒の天体(ほし)にひとり佇み立てるもののごとし。パスカルの「永遠の沈黙」を想へり。知性の疲れはて、黙する時、心臓が不安に戦くならむ。これは一個の心理学的問題たるべし。──暗黒の夜の天空の彼方になほ永遠の光彩を描き見るは精神の操作のみ。」(五月十一日付日記)
「夕ぐれの微風がさはやかに吹き、全身をゆあみするやうに、立っていると、殆んど恍惚を覚える。そよぐ麦の穂波の音、草葉の微かな音……しばらく陶然として微風に聴き、ゆあみしている……あの伊太利の落日の中で、「生はよきかな!」と晩年の偉大な肯定の幸福に歓喜の声を挙げたニイチエを想はないではいられぬ。緑の風とこの酩酊!このやうな詩を書きたい。苦悩も絶望も忘却せしめ、大地の涯なさを夢みさせ、まるで「不可見」を皮膚の感覚に囁いてくれるやうな微風を創造しなければならぬ。しかし詩では、また苦悩や絶望が深く秘められていなければならぬ。詩では、爽快それ自体といふやうなもののみでは決して深い感動を喚起することができぬ。さはやかな微風でさへ、その対照をもたねば、詩の中を吹くわけにはゆかない。してみれば、この自然の微風のこの魅惑(?)──むしろ心地よさは、如何なる秘密の故に、かくもわれわれを感激させるのであらう……」(六月七日付日記)
「田舎の静けさを今度の隠栖ほど深く味はひ、その静かな時間を瞑想をもって埋めたことはない。空しい都会での彷徨を、今は空しく追想するばかりである。私の彷徨の時代も終わったらしい。いやもう終わらさねばならぬ。それにもう二度と都会へ出ない方が、私にはよいことにちがひない。ピレネエの山の中に引きこもったまま、殆んど巴里に出なかったフランシス・ジャムの聡明さを学ばねばならぬ。プルウストも、社交界より退いて後に、「失ひし時」を求め得たのであった。/東京での青春の浪費と彷徨を──失ひし時を、私も今こそ回復し、とりもどさねばならぬ。田舎で朽ち果てるなら、それは田舎のゆえではなく、自分の想像力の弱さにかかっている。自己を試みるにもかへって田舎はよき荒野であらう。空しい時間の浪費と、神経の消耗と──自己の分散よりは、どんなに倦怠の方が好ましく、自己の集中への道となることだらう。」(七月六日付日記)
「今朝、浅間が爆発した。入道雲のやうな爆煙が、雲一つない麻の蒼穹にそそり立って、朝の太陽に、まるで薔薇のやうに輝いてゐた。やがてこの爆煙は風に流れて、沓掛一帯に灰となって降りつもった。緑の樹木も屋根も、時ならぬ白灰色の雪に覆はれて、陽光に鈍く光って、かへって暑さうに見えた。髪の毛に降りそそいだ灰を、白髪を払ふやうにして歩いて行く外国人もゐた。」(八月十三日付日記)
「千曲河畔にて/この頃は、詩人の見るべき二つの薄明──黎明と黄昏のそれを釣などによって過ごしてゐる。今朝も四時に起きて千曲川へ向ふ。東の空にオリオンが懸ってゐたが、蒼白く瞬きながら、薄っすらとやがて消えて行った。四囲の山々のうへに、空が紅に明けはなれて行くと、まるで巨大な薔薇の花びらの中に立ってゐるやうであった。かうして、素朴な期待にみちて糸を垂れてゐると、時の流れるのも忘れはててゐる。素朴な忘却に浸ってゐると、生も軽やかである。」(八月二九日日記)
「ヴァレリイ の『海辺の墓地』を訳したり、キエルケゴールの『饗宴』(*)を訳してゐながら、絶えずわが脳裡に去来するのは詩と詩人の場所の問題である。詩人の位置といふべきか。」(九月九日付日記)
 十月、詩人の楊明文が平壌へ帰国の途中松代に大島を訪ねる。この時、東京で知り合った鈴木静江(後の大島静江。群馬県前橋市出身。上京して画塾へ通っていた。四四年春に帰郷。この時二十歳。)の住所を知り、手紙を書く。
「その後どうしています?/いつか、ヴァレリイの拙訳を読んで下さったあなたの声を ときどき想い出してゐます。(過日楊君が突然訪ねてきてくれ、その節あなたのことを話しあひ、あなたのアドレスを教へてもらったのです。)/五月、私はこの信州の田舎へ帰ってきましたが、田舎の単調にはやりきれません。七月頃までは、勉強もできましたが、九月・十月は、もう釣ばかりしてゐて、読書もせず、筆ももたないやうな日々です。ゴオガンがタヒチへ逃れたやうに、私は釣の中へ逃れてゐるのです。しかし、釣などには如何なる芸術的収穫もないやうです。完全な忘却─―素朴な期待による時間の意識の喪失があるばかりです。詩の方へ戻って行かねばなりませんが、その詩が私にはもう袋路のやうに行きつまってしまってゐるのです。尤も、この袋路を突き破って進むことが、いつでも芸術の道なのですが、今はその情熱も湧いてきません。癒しがたい倦怠が、どうしても払えないで、釣に走るといふわけです。七月頃作った詩を一篇同封します。一度あなたに朗読してもらひたいと希っています。都合よろしかったら、遊びにきて下さい。電報下されば長野駅まで出てゐます。/美神の恩寵、あなたのうへに厚からむことを。」(十月二十日付鈴木静江宛)
「お手紙とクロッキイありがたう存じました。久しぶりに線の魅惑に接しました。線がそこに描かれていない触感をさへ抱きかかえていることに驚きました。あなたのクロッキイは、私にマイヨオルの或る彫刻を連想させました。今度はあなたの自画像のそれを見せて下さい。/あなたが、豊富な色彩感とプラスティクに対する感覚をもちながら、さらにあの利根川の風景描写の中には音楽的律動を捉えていることは、驚異を私に与へます。ヴァレリイは、コロオの風景画を批評して、たしか「歌っている」と言っていました。あなたの風景画も歌っているに相違ない。あなたはそれをムウヴマンと言っているやうですが。──実を言へば、いつも私に想ひ浮んでくるのは、貴方の声なのです。それは、もう美しいソナタの小楽節、それもピアニッシモでつづくアンダンテのやうに、私の耳に残っているのです。ソプラノには堪えられない私の耳が、どんなにあなたの静かなアルトに憩ふたか、私は今も阿佐ヶ谷の夜を想ひうかべることができます。このやうな音調(タンブル)、音色(トオン)は、またあなたの画面に現れているかも知れない。それはジョン系の色彩と、ブルウ・グレエなどに対するあなたの偏愛が物語っているやうにおもはれます。しかし詩には、かういふ微妙な色彩や音感を盛ることは至難であるのみか、殆ど不可能なのです。ただコレスポンダンスによって、類推によって、近似値を創造するよりほかないのです。しかし、詩もそこまで行けばもう傑作たらざるを得ませんが、とてもいきがたいところです。/もう寒く、フィッシングにも行けず、久しぶりに家に閉じこめられていますと、もう何から手をつけてよいか分りません。あまり永いこと原始人の幸福に浸っていたので、思索することが、迷宮の道を辿るやうに、難事に見えて、一向に進みません。昨日は一日中、プルウストの小説を読み耽って、意識過剰、分析癖、神経の綾織、などに自己を移し入れてみました。しかし、それも倦怠に色どられています。早くマラルメかヴァレリイに戻って行かねばならないのですが、時に、このやうな高度な純粋さは恐怖を与へます。それは、大きな自己集中と努力を要求するからです。しかし、美しい秋を忘却のうちに過ごしたのですから、この冬は何か獲得しなければなりません。精神は何ものかを発見するでせう。/御精進を祈ります。」(十一月十九日付鈴木静江宛)
「光のなかで制作の歓びに浸っているあなたが見えるやうです。あなたの「若き芸術家の肖像」が完成されるやう祈ります。さうしてそのクロッキイの一つを送って下さい。(中略)/もう寒くなって、釣もできないとおもっていましたら、今度は冬の釣を教へられて、また水のほとりへ通っています。これではまた/輝かに、いと澄める芸術(たくみ)の季節、冬の日を…(マラルメ)/空しく釣りに捧げてしまひさうです。 暗い冬籠りの中から生れてくる内なる光は、空しく外光の中に放散されてしまひませう/(中略)音楽に飢えて、来月の日響を聴きに上京しようと思っていましたが、帝都ボムビングで、もう出かける勇気を失ひさうです。それに、プログラムも、余り魅力あるといふほどでもありませんから。/御健筆を祈ります。」(十一月二八日付鈴木静江宛)

*註 キルケゴールに『饗宴』と題する(または仏訳されている)著作があるか不詳であるが、この時期に大島が翻訳していたことが確認できるキルケゴールの著作に『反復』がある。

(『狼煙』84号 重田暁輝編集 2017年12月) 

少女


大島博光年譜(4−1)1942-43年

一九四二年(昭和十七年)三十二歳
二月、「偉大なる追憶のために」(詩)を「蝋人形」に発表。三月、「愛国詩について」を「少女画報」に発表。
「暗き夜のうちにひとり坐する詩人よ/われまた夜の詩人 わが夜の歌 第四の歌を書きて/われも夜に訣別を告げむとおもふ/友よ われら大なる朝を 充実の真晝を迎へむかな 真晝と夜とを綜合せむかな/新緑のうちに生の賛歌を見むかな」(四月二十三日付松本隆晴宛)
五月、「わが夜の歌――第四の歌」(詩)、「自然と詩人」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。ヴァレリー「コロオをめぐつて(Ⅱ)」を「生活美術」に発表。六月、「詩についてのノート(1)」を「蝋人形」に発表(八月、十月連載)。六月、『国民詩 第一集』(第一書房 中山省三郎編)に「わが夜の歌」を収録。七月、「微風に寄す」(詩)を「蝋人形」に、ヴァレリー「音楽・建築・劇 ――「アムツィオ」の来歴」を「音楽之友」に発表。また同号の座談会「詩と音楽の交流」に参加。他の出席者は勝承夫、藤浦洸、菊岡久利、深井史郎、吉本明光、堀内敬三、黒崎義英。
「松本隆晴よ/君が朝にはいかなる風の吹く?/君が夕べにはいかなる星のささやくか?/友よ、すこやかなれよ/「肉体は悲し!」われは絶えず痛みて生きるは苦し」(七月十一日付松本隆晴宛書簡)
八月、「真珠」(詩)、「吉田一穂著『黒潮回帰』について」(書評)を「蝋人形」に発表。九月、「天空について」(散文詩)を「知性」に発表。
「松本隆晴よ/近代とは倦怠の時代にあらずや/ヴェルギリウス、オヴィディウスら古代の詩人らは倦怠を知らず/神々を讃へて偉大なるかな/泥にはらばえる近代の人間獣は はや空翔ぶ翼を失へり/神々は讃むべきかな」(九月一日付松本隆晴宛)
「松本隆晴よ/とく病ひより癒え、秋風に髪なびかせよ。/われもまた《ポセイドンよ、わが友に恙がなき航路を与へよ》と祈らむものを。――/ラケダイモンの野に立つシモニデスのごと立ち上がれよ。/汝はまたオルプェウスあり。/ヘブラスの河より蘇へれよ。レスボスの浜辺に――」(九月二八日付松本隆晴宛)
十一月、「ルヴェルディの言葉」(翻訳)を「蝋人形」に、「詩と音楽について」(評論)を「音楽之友」に発表。
「朽葉こがねいろに窓を染め、/太陽は影の秘密を射しつらぬくに、/『秋の嗟嘆』は蒼穹に昇る!/黄金色なる朽葉の林、この頽廃のひとときの畫廊、ま晝に燈れる木の葉のともし火、/その空に黄金なる幻つくりなし/明晰を証さんと、/『秋の嗟嘆』は蒼穹に昇る!」(十一月四日付松本隆晴宛)
「われは朽葉に憑かれたり/「朽葉」――この黄色はマラルメを想はせ、グリスブコフの『八つの道の一隅』の林で瞑想するキエルケガアルを想はせる……/黄金色の朽葉――この言葉のうちに、ヴァルヴァンの秋、ロオマの頽廃期、そしてまだわがうちに結晶せざる『沈黙の酩酊』が隠されてゐる。しかし、これほどのものを如何に歌ひえよう。この原因小さく、内包無限なるわが朽葉を!」(十一月十一日付松本隆晴宛)
十二月、ルヴェルディ「美しき星」(散文詩)を「蝋人形」に発表。

一九四三年(昭和十八年)三十三歳
一月、「音楽に寄す」(詩)を「蝋人形」に、「日本の季節と美」を「生活美術」に発表。この稿にマラルメの詩「嗟嘆」(Soupir)への言及がある。同月、『海軍献納愛国詩謡集』(興亜日本社)に「聴け、神々の聲を」(詩)を発表。二月、「詩と音楽について」(四二年十一月「音楽之友」に発表のものの転載)を「蝋人形」に発表。三月、ルネヴィル「詩人と神秘家」を「蝋人形」に発表(五月まで)。同月、『国民詩 第二集』(第一書房)に「音楽に寄す」を収録。四月、「夜の歌」(詩)を「蝋人形」に発表。五月、『国民詩選』(興亜書房 岡本潤編集代表)に「夜の歌」を収録。六月、ルネヴィル「詩と神話」を「蝋人形」に、(九・十月合併号まで計四回)、「神秘的体験と美的体験――「金棺出現図」にふれて――」を「生活美術」に発表。十月、ルネヴィル『詩的体験』を文明社より刊行。十一月、「藤村詩集にふれて」を「蝋人形」に発表。この号に片山敏彦の初寄稿(「エルネスト・エローのことなど」)がある。

(『狼煙』84号 重田暁輝編集 2017年12月)

少女

大島博光年譜(3−2) 1940年 30才

一九四〇年(昭和十五年)三十歳
一月、「詩人兵士へおくる詩」(詩)を「蝋人形」に、エリュアール「遙かより遠くへ」を「新領土」に、「詩壇時評」を「文芸汎論」(三月まで計三回)に発表。
「夢の中で僕はもう一つの夢を見る/僕は夢の中で一冊の書物を読む/その書物の中にもう一つの夢そのものが見える――青い夢の深淵が/朝 僕は夢の書物に疲れてゐる/天空の河に水浴みするよき魂よ/わが鳥は翼たたみ 夢枯れたる毛髪の中/歌もなく嘴とぢたり かくて/わが眼は虚無に捧げられたる獻灯の如く/凍れる衰弱の中にともるなり/遠き天の焔を映せしはいつのことなりし/エトナの火 わがみうちより噴き輝きし/眼は いま閉ぢたり」(一月十五日付松本隆晴宛)

この頃、屋代小学校の教員をしていた同郷の作曲家小山清茂と交流があった。音楽評論家の丹羽正明が記録している。
「その頃小山氏にとってはまだ本業であった教職の方はというと、その少し前から屋代小学校につとめていた。氏の同郷に詩人の大島博光がいる。当時早稲田の仏文出で西条八十門下の俊秀として活躍していたが、胸を悪くして故郷へ帰っていた時なので、小山氏とも行き来していた。もともと小山氏は詩心があったらしい。中学二年の時、国語の教師が宿題に短歌を作って来いと言いつけたのがきっかけで、短歌を作ることに興味をもつようになった。師範へ入ってからは、寮に皆と一緒に生活していたため、一人で静かに考えることが出来なかったことと、音楽にすっかり熱を上げていたことのため、短歌は作らなかったが、それでも詩を作って同人雑誌「星林」にのせたりしていた。屋代小学校に勤めていた時、或る雪の晩大島博光が帽子もかぶらずやって来て、真白に雪をかぶった頭のまま、自作の詩を小山氏に読んで聞かせた。だんだん気持が高まって来ると涙をながしながら詩を朗読したのだった。一説によると大島氏は涙腺が故障しているせいで、よく涙をながすのだそうだが、それはともかく、聞いていた小山氏もすっかり感激して、その晩一気にこの詩に作曲をしてしまった。これが「消えさりし泉の歌」である。これは演奏に七分以上を要し、かなり長いものだが、ガリ版に刷ってほうぼうへくばったり、大いに自信をもった作品だった。「全くいい気なもんだよ」とおっしゃるが、若い頃のそうした感激は今でも忘れられるものではないようだ。(「作曲家訪問・小山清茂」 丹羽正明「音楽芸術」一九六〇年一月」 『日本の響きをつくる 小山清茂の仕事』 音楽之友社 二〇〇四年 所収)

 三月、ヴァレリー「美術館の問題」を「アトリエ」に発表。四月、「夢の書物」(エッセイ)を「蝋人形」に、「耳は夢みる」(詩)を「早稲田文学」に、ヴァレリー「マネの勝利」を「アトリエ」に発表。五月、エリュアール「正しき境域」(散文詩)、「幸福の思想」(一九三九年十月「新領土」に発表したものの転載)を「蝋人形」に発表。この号に奈切哲夫の寄稿がある。この号より加藤憲治に代わって編集担当(編集後記の執筆)となる。
「さる三月二十三日夜の「日本詩の夕」のために、二三日の予定でぶらりと信州から上京したら、いろいろな出来事にであつてそのまま帰へることができなくなつてしまつた。そのひとつは、西條主宰の恩師でもあり、私の先生でもあり、本誌でもよく原稿をいただいた吉江喬松博士の逝去であつた。西條主宰はそのために連夜博士の枕頭についてをられたほどであつたが、さうかうしてゐるうちに、今度は主宰のお嬢さん、嫩子さんの御結婚がまぢかに迫つて、御慶事の末席をけがしたいために帰郷をのばしてゐた。すると、本誌の編集者加藤さんが多忙のためにどうしても編輯がつづけられず、そのあとをうけて、私が編輯をするやうに命じられてしまつた。――実はまだからだも完全には恢復してをらず、非才、編輯などには不適であるが、主宰のお言葉にしたがつて、しばらくできるだけのことをしたいと、編輯をお引受けすることになつた。大方の御後援をねがつてやまない。」(「編輯後記」)

六月、「家もなく」(詩)を「蝋人形」に発表。この号に壷井繁治の初寄稿(詩)があり、また松本隆晴、高橋玄一郎等の寄稿始まる。同月、「詩と詩人について」(一九三九年一月「蝋人形」発表の「季節はづれの放浪」(十四)の転載)を「信州モンパルナス」に発表。「信州モンパルナス」は小岩井源一(高橋玄一郎の本名)編集発行人、発行所は信州詩人協会・信州浅間温泉、誌名は大島が命名。主な寄稿は島崎藤村「口語と詩歌の一致について」、日夏耿之介「黄眠草堂詩話──言葉の愛」、龍野咲人(詩)、田中冬二(詩)、西山克太郎(詩)、清澤清志(詩)、高橋玄一郎(詩)など。同月、「美術文化第一回展」を「アトリエ」に発表。七月、「詩は無用である」(エッセイ)を「蝋人形」に、エリュアール「パブロ・ピカソ」(詩)を「アトリエ」に発表。この号の「蝋人形」より龍野咲人の寄稿始まる。八月、「わが棘の高みに」(詩)、アルベール・ティボーデ「マラルメとラムボオ」、エリュアール「有用なる人間」、「脚」を「蝋人形」に発表。この号に吉田一穂、西山克太郎等の初寄稿がある。同月、『現代詩人集 第四集』(山雅房)に「深夜の通行人」の総題のもと計十三編の詩を収録。編集は永田助太郎、他の収録は春山行夫、近藤東、村野四郎、北園克衛、永田助太郎。その扉文は以下。
「象牙の塔は破壊された。詩人は街のなかへ投げだされた。詩人は愉しくまた限りなくかなしくさまよってゆく。智慧の木の実をたべた詩人は限りなくかなしいのである。彼はひとびとの暗い声をききとり、暗い生をひらき真理をひらく。さうしてなほまた荒地の方へさまよい出てゆく。彼の場所は荒野のかなたの夜への入口であり、「夢想の土地」への驛遞である。」

九月、エリュアール「ボオドレエルの鏡」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。十月、「名まえなきものへ」(詩)、ランボー「忍耐」を「蝋人形」に発表。十一月、「よき民族のために」(詩)、ガストン・バシュラール「ロオトレアモンのけものたち」、フリードリッヒ・ヘルダーリン「訣別」、「生命の歳月」(ピエール・ジャン・ジューヴ、ピエール・クロソフスキ―の仏訳からの重訳)を「蝋人形」に発表。十一月、「石の窓より」(詩)、エリュアール「存在」を「蝋人形」に発表。
なお時期は不詳ながらこの前後に堀内規次(画家)と知り合ったと推定される。
「僕が小山田さんと始めて逢ったのは、戦前、一九四〇年頃、新宿のバーであった。その頃、僕は美校を中退して、毎夜新宿で飲んだくれていた。「ナルシス」とか「ノヴァ」というバーには、若い画家や詩人が毎夜たむろしていて、芸術論をぶちまくっていた。詩人の大島博光氏、仏文学者斎藤磯雄氏、小説家古賀剛氏などと毎晩のように顔をあわせていた。」(堀内規次 「小山田二郎」 「みずゑ」 一九六九年二月)
(つづく)

(重田暁輝編集 『狼煙』83号 2017年9月)

博光写真



大島博光年譜(3)(1939年―1941年)

1939年(昭和14年)29歳

一月、「季節はづれの放浪(十四)詩と詩人について」を「蝋人形」に発表。同月、「植物」(詩)を「文芸汎論」に発表。二月、ランボー「鴉」を「蝋人形」に、アンドレ・シュアレス「神々の家、希臘の神殿」を「アトリエ」に発表。同月、『信州詩人詩華集』を共同編集で刊行。三月、「《日本的》をめぐって」(評論)を「蝋人形」に、「地球儀」(詩)を「新領土」に、クリスチャン・ゼルボス「ピカソの魔術的絵画」(評論)、エリュアール「パブロ・ピカソへ」(詩)を「アトリエ」に発表。この頃より松本隆晴との文通(はがき詩)始まる。

「魚と蛇との魔術師よ/君の深淵にして沼地なる眼よ/君の手の中/新しき葡萄酒は醗酵する/魚と蛇とに飲ませるために/そして彼らのために君は飲む/悪夢をして地の底を泳がしめよ/獣たちをして坑道を散歩せしめよ/おお影像の豊穣なる採掘者よ」(三月十四日付松本隆晴宛)
「君は水脈の中に永遠の音を歌った/沈黙の色彩を創造した/もはや存在の見えざる姿も/君には見える音となり 色彩となった/怖るべき釣針をもてる旅人よ」(四月十一日付松本隆晴宛)

四月、「季節はづれの放浪(十五)霊感について」を「蝋人形」に発表。この稿にリルケへの言及がある。なおこの章はロラン・ド・ルネヴィル『詩的体験』に多く負っている。また同号掲載の「加藤夫人を悼む」には「信州の田舎で、突然加藤夫人の訃報に接したとき、(…)」とあることから、この時期故郷の松代に帰省していたことがわかる。
同月、「深夜の通行人」(詩)、「独立展の超現実派」(評論)を「新領土」に、「夜襲」(詩)を「文芸汎論」に発表。五月、「愛のために」(詩)を「文芸汎論」に発表。六月、「悦ばしき知識」(詩)を「早稲田文学」に発表。八月、「戦死せる画家の友へ」(詩)を『戦争詩集』(昭森社)に発表。十月、「幸福の思想」(エッセイ)を「新領土」に発表。

「魚とともに泳ぐ人はつつがなく帰れるか/われはまたひとり/土手の蜂とたはむれ/蟻塚に火を放ち/水の上の空気を魚のごとく呼吸す/詩を歌はうとすれば熱がでる/われもまた忘却の友 沈黙の詩人/また水のほとりで会いませう」(九日付松本隆晴宛)(なお当年譜に引用する松本隆晴宛書簡は、後年松本が原稿用紙に書写して大島へ送ったものに拠っており、書簡そのものの実物は確認できていない。そのため送り元の住所が不明だが、内容から察するとこの十月の書簡は千曲川の土手に近い松代の生家から送ったものであろう。)

十一月、ルヴェルディ「毛の手袋(抄)」を「蝋人形」に、「詩と社会」(評論)を「文芸汎論」に発表。十二月、「ある暮の季節」(随筆)を「蝋人形」に発表。
「暗黒の地と夜の声に眼覚めた/夢想家よ/孤独な魚は群像のなかに郷愁をみたしたであらうか/願わくば睡眠をひき連れて/再び覚醒の野にもどりたまへ/僕は衰弱者/眼覚める力も/夢みる力も弱々しく/常に薄明の中でまどろんでゐる/病める眼は怪しき真昼の幻想に疲れ/人の家のあるところ 人の子らあそぶところより遠くはなれて/葦の穂波はしろく光れるところ/風のそよぎ楽の音となるところ/われはさまよひきて夢をみぬ/生命とよばれるもの何処にありや/存在と名づくるもの何処にありや/かくて葦の弱きくきを杖となし/われは足どり重くさまよひぬ」(四日付松本隆晴宛)
(つづく)

『狼煙』82号 2017年3月)

林にて
大島博光年譜(2)(1936年―1938年)

一九三六年(昭和十一年)二十六歳

 二月、ロートレアモン『マルドロオルの歌』を「蝋人形」に連載を始める。(十二月まで計十回。「第六の歌」のうち「第四の歌」まで)四月、西條嫩子の詩「バス」、「夕暮」を「蝋人形」に掲載する。この経緯を西條嫩子は『父 西條八十』(一九七五年 中央公論社)のなかで書いている。
 「(…)ある日、父の主宰している詩誌の主筆で、仏文大学院生の大島博光氏が庭にいる私に話しかけて言うには、「お嬢さん、先生が授業中、ふたばこさんの和歌を読みましたよ。嬉しそうに朗々と。あれは和歌じゃない。詩の感覚だな。僕は面白いと思いましたよ。」/私は口もきけないほどびっくりしてしまった。(略 自作詩「夕暮」の引用の後)/これはまもなく、大島氏が『蝋人形』にのせてくれた私の十四歳の作品である。親馬鹿の父にこたえて私は詩の径をとぼとぼ辿りはじめた。」(なお文中「仏文大学院生」とあるが、大島が大学院に進学していたかどうかは不明)
 また時期は数年前になるが同じく西條嫩子による次のような記述がある。
 「父の主宰する詩誌『蝋人形』の編集をやっていた大島博光氏もランボオの傾倒者で、十三、四歳のお下げ髪の私に声をかけると、/「お嬢ちゃん、おお、季節よ、おお、城よ、ランボオの詩はすばらしいですよ」/と両手を挙げて謳歌して涙ぐみさえしていたのだ。」(『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年)
 五月、ジャン・コクトーが来日し、案内役を務めた堀口大學の付き添いでコクトーに会う。六月、「ランボウの現代的意義」を「エクリバン」(中野秀人・大木惇夫共同編集)に発表。八月、「不眠のうた」(詩)を「蝋人形」に発表。九月、アラゴン「ジョン・ハートフイルドと革命美」を「Ecole de Tokio」(末永胤生(画家)発行)に発表。なおシュルレアリスムの芸術団体「エコール・ド・東京」を結成したメンバーのひとり吉井忠(画家)との交流があったのはこの時期だと推定される。
 「大島 吉井さんは御存じですかね、今の歌舞伎町のあたりに「武蔵野サロン」って喫茶店があって、絵描きさんたち、とりわけ、シュルレアリズムの方たちの会なんかあったでしょう。/吉井(忠) ええ、ええ。/大島 あなたもいらしていたんですか。/吉井 行ってました。あのときは、あなたと滝口修造の話をわれわれは聞いているんです。で、その頃、野田秀夫とか、それから寺田(政明)かな、アメリカから来たばかりのそれを聞いたことがある。だから、それ以来、大島さんと滝口修造の二人は、ずっとわれわれの間ではシュルレアリズムの開拓者になっているんです。/大島 二人ね。あれは何年頃でしたっけ。/吉井 昭和の初め、といっても十年前後かな。」(座談会―『NOVA』の時代を回顧して(上) 『NOVA』通信第一号 一九八八年)  
 同月、イリヤ・エレンブルグ『西方の作家たち』(橡書房)を小出峻と共訳で出版。十二月、「ランボオの手紙」(翻訳)を「文芸汎論」に発表。

一九三七年(昭和十二年)二十七歳

 一月、エレンブルグ「スュウルレアリスト」を「蝋人形」に、ロートレアモン『マルドロオルの歌』(「第一の歌」)を「Ecole de Tokio」に発表。二月、「蝋人形社」に入社し、門田譲に代わって加藤憲治と共に「蝋人形」編集担当となる。同月、「候鳥」「労働」「交流」(詩)を「蝋人形」に発表。三月、フィリップ・スーポー「大海がある」を「蝋人形」に発表。四月、ランボー「渇」、アンドレ・ブルトン「サンボリスムの曲線に沿ひて」を「蝋人形」に発表。この号に滝口修造の寄稿(エッセイ「貝殻と詩人」)がある。五月、「エレヂー」(詩・ローマ字表記)、「詩壇時評」を「蝋人形」に発表。この号に北園克衛の寄稿(詩)がある。六月、アラゴン「20-Seiki」(ローマ字表記)を「蝋人形」に発表。この号に齋藤磯雄訳ヴィリエ・ド・リラダン「ヴィルジニイとポオル」の寄稿がある。なお、アラゴンの「20-Seiki」が収録された詩集『ウラル万歳!』(一九三四年)の中から他に三篇(「ソフコズの歌」、「同志」(部分)、「一九三〇年」(部分))をノート(「Note1937」)に試訳した。この頃の事を後年のインタビューで回想している。
 「戦争中に、僕が『蝋人形』にいたのは、アラゴンの詩集『ウラル万歳!』の年だからね、あれは一九三〇年くらいですよ。だから、ちょうど学校を出た頃で、詩をわからないながら訳してさ、多少はわかってね。彼がソビエトへ行って、社会主義建設を目の前で見て、それでうたった詩。そのとき僕が訳した詩はね、「彼らは、神を投げ捨てていった」というものですよ。「神」を投げ捨てて、「ゴッド」を、神を投げ捨てて、つまり革命のことをうたった詩。」「(…)『蝋人形』をやるうちでも、「赤い」部分もあったのだよ。だってそんな頃もうアラゴンの革命詩の翻訳をやっているのだから。西條八十のところにいたおかげでね、その詩を、ローマ字で訳しているのだよ、『蝋人形』に、アラゴンのそういう詩を。だから、西條八十の傘に隠れていたのだよ、逆に言えばね。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」一九九九年 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年 所収)
 この頃、楠田一郎の紹介で「新領土」に参加する。
 「思い出せば、もう四十年もむかしの一九三六、七年頃、それは暗い夜の時代だった。新宿一丁目の裏あたりに、まだ怪しげな曖昧な一郭があって、その近くの迷路のような小路に、「山小屋」という小さな酒場(バー)があった。まだうら若い美人の姉妹がでていて、けっこうはやっていた。文学青年やジャーナリストなどがよく集まっていた。楠田一郎も常連のひとりであった。かれはどうやら、姉娘が好きだったらしい。夕ぐれともなれば、毎晩のように、蒼白い顔をした楠田一郎が、ビールのグラスを前にして坐っていた。かれの肉体はもう結核に深くむしばまれていた。かれの席は、入口を背にした右側にあって、坐ったその四角いうしろ姿が、いまも影絵のように眼に浮んでくる…(略)/このグループは、夜も深く酩酊してくると、よくベートーベンの一三五番のクヮルテットを合唱するのであった。クヮルテットを合唱するという表現は奇妙なものだが、ハミングでそれぞれのパートをうたうのである。当時、音楽ファンのあいでは、そういった曲がはやっていたのかも知れない。いまにして思えば、酔いどれたちの、ベートーベンのクヮルテットの、そんなたわいない合唱(?)になんの意味があっただろう? だが、思い出せば、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が、ひとびとの眼にみえないところで、不吉なひびきを立てて回りはじめていた。わたしは同義語を二つならべたが、暗い時代でも、夜の時代だけでも、やはり言いたりない。いや、あの深さ、厚みは、そんな形容詞ではどうにも表現できないものかも知れない。わたしたちは希望という言葉さえ知らなかった。そんな夜のなかで、クヮルテットの合唱者(?)たちは、それによってみずからの存在をわずかにたしかめ、みずからを慰めていたのにちがいない。あるいは港で嵐をさける小舟のように、そうやって夜の過ぎさるのを待っていたのかも知れない。」(「山小屋の頃」 『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年 付録)   
 八月、「私は歩いて行く」(詩)を「蝋人形」に、ブルトン「シュルレアリスムの国境なき限界」を「新領土」に発表。この頃「新領土」を通して服部伸六と知り合う。(推定)
 「わたしが服部伸六とはじめて出会ったのは、一九三七年頃ででもあったろうか。新宿の三越の裏通りあたりに、文学青年や絵描きのよく集まる「ノヴァ」という酒場があって、わたしもよくそこでとぐろをまいていた。新領土の集まりのあと、服部伸六ともそんなところへ行って、いっしょに飲んだような気がする。たしか、かれはまだ慶應の制服をきた美青年であったが、すでに言葉の罠で神秘をからめとったり、重層的なイメージの隙間から地獄をかいま見せるような詩を書いていて、わたしたちをひどく驚かしたのだった。」(『服部伸六詩集』宝文館出版 一九七七年 「解説」)
 九月、「季節はずれの放浪(一)エスプリ・ヌウボオの道」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。(以後断続的に連載、一九三九年四月までの計十五回。)この稿にアポリネール「鎖」の訳がある。同月、「肉体の棘」(詩)を「文芸汎論」に発表。十月、「季節はづれの放浪(二)」を「蝋人形」に発表。この稿にアルフレッド・ジャリ、ブルトン、ジャック・ヴァシエ等への言及がある。十一月、「遠近法」(詩)、エリュアール「持続」、「民衆の外に」を「蝋人形」に発表。この号に楠田一郎訳「テオクリスのエピグラム ミューズとアポロンへの献げもの」の寄稿がある。なおエリュアールの「持続」が収録された詩集『豊かな眼』(一九三六年)を読んでいた頃を後に次のように回想している。
 「思い出せば、昭和十年代の後半、一九三七年頃から一九四五年頃まで、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が不吉な音をたてて回っていた。その始めの頃、わたしは、丸善から最後にとどいたエリュアールの詩集Cours naturel(自然の運行)やLes yeux fertiles(豊かな眼)をふところに入れて、暗い新宿の街をさまよっていたことを思い出す。また、やはりエリュアールの「詩的明白さ」というエッセイに感動して、それを訳出したが、このエッセイほど当時のわたしを鼓舞し、支えてくれたものはなかった。」(『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年 「解説」)
 十二月、「季節はずれの放浪(三)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にトリスタン・ツァラ「ダダの歌」の訳、フランシス・ピカビア、マリー・ローランサン等への言及がある。同月、「抉り取られた眼は抉りとる」(詩)を「新領土」に発表。

一九三八年(昭和十三年)二十八歳

 一月、エリュアール「壁にぶつけられた頭」を「蝋人形」に、「新しき愛の天体」(詩)を「新領土」に発表。二月、「季節はずれの放浪(四)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にジャック・リガオへの言及がある。またこの号に鮎川信夫の投稿詩「逃亡」が掲載される。同月、「失われた愛の歌」(詩)を「新領土」に、ル・コルビジェ「建築は絵画に何を要求するか」を「アトリエ」に発表。三月、ジュール・シュペルヴィエル「眼に見えない獣たち」、「季節はずれの放浪(四)ダダの終焉とその足跡」を「蝋人形」に発表。この稿にロートレアモン、ピエール・ルヴェルディ等への言及がある。同月、「惨めな歌」(詩)を「新領土」に発表。四月、「飢ゑの歌」(詩)、エリュアール「過去への一瞥」(エッセイ)、「季節はずれの放浪(六)シュルレアリスムの四つ角へ」を「蝋人形」に、「夜襲」(詩)を「文芸汎論」に発表。同月、ランボー『地獄の季節』を春陽堂から出版。五月、バンジャマン・ペレ「自然は進歩を貪りくひ進歩を追ひこす」(散文詩)、「季節はずれの放浪(七)」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴンのシュルレアリスム小説『夢の波』、ブルトン、スーポーの共著『磁場』への言及がある。同月、「深夜の通行人」(詩)、ロラン・ド・ルネヴィル「夜の意味」(八月と計二回)を「新領土」に発表。この頃、「蝋人形」の詩欄に投稿した松本隆晴を知る。
 「ある日僕に宛てた一通の封筒が届いた。それは蝋人形社の社用封筒で、差出人は特徴のある書体で大島博光とあった。僕ははっとした。蝋人形にロートレアモンの〈マルドロールの歌〉を翻訳したり、毎号〈季節はずれの放浪〉という題名で、フランスにおける超現実主義の誕生とその発展について、極めてユニークな文章を書き綴っている人の名前である。僕はその文と、またその詩に強くひかれていて、その影響も受け初めていたのだ。/「前略ごめん下さいませ。」で始まるその手紙は、自分が埴科郡西寺尾村(現在長野市)の出身であることを告げ、今度刊行されることになった信州詩人詞華集への参加を誘っているのである。後に知ったことであるが、大島博光は旧制屋代中学から早稲田大学の仏文科にすすみ、在学中からずば抜けたフランス語の力と豊かな詩魂とで知られ、西条八十の門下でも最も注目されていた詩人であった。/人生における出会いの不思議さはここにもあって、この一通の手紙が機縁となって二人の交友は極めて急速に進み、ほとんど連日のはがき交換は、スーツケースに溢れるほどになったのである。やがて大島が蝋人形の編集者となってから、僕にとって高嶺の花にも等しかったその雑誌の本欄に、毎号僕の詩が載る日がやって来るのであり、更にその編集も手伝うことにもなる。そしてその原稿依頼や入手のための走り使いには、藤村、白秋、河井酔名等の明治、大正時代以来の日本の大詩人に接する機会も与えられるのであるが、それは暫く後の日のことになる。」(松本隆晴 「大島博光と交友」 「信濃毎日新聞」 一九七六年一月二十一日)
 六月、アンドレ・サルモン「アルチウル・ラムボオ」(詩)、「季節はずれの放浪(八)」を「蝋人形」に発表。この稿にエリュアールの演説「詩の摂理」(「詩的明白さ」)の訳出がある。同月、「眼覚めない獣」、「修道轆」(詩)を「新領土」に、ワシリー・カンディンスキー「具象絵画」を「アトリエ」に発表。七月、ポール・ヴァレリー「海への凝視」(散文)、フィリップ・スーポー「夜の方に」、「詩壇時評」を「蝋人形」に、「不幸なものは見てゐる」(詩)を「三田文学」に、ル・コルビジェ「絵画」を「アトリエ」に発表。また「新領土」に楠田一郎による大島訳『地獄の季節』の書評「ラムボオの血液」が発表される。八月、「抉りとられた臓腑」(詩)、「季節はずれの放浪(九)影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴン、ブルトン、ルヴェルディ、エリュアール、ルネ・シャール、松尾芭蕉等への言及がある。この号より「新領土」を通して知り合った永田助太郎の寄稿(「英国最近の詩壇1」)始まる。同月、「伐りはらはれた林」(詩)を「新領土」に、ルネ・ユイグ「ブールデルは如何にして創造したか」、ピエル・マビイユ「スウラの素描」を「アトリエ」に発表。九月、「季節はずれの放浪(十)ふたたび影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にボードレール、ランボー、マラルメ等への言及がある。同月、「幸福」(詩)を「新領土」に、「小宇宙のために」(詩)を「文芸汎論」に、「詩学的見地からみた俳句〈主として超現実主義の立場より〉」を「俳句研究」(改造社)に発表。十月、「季節はずれの放浪(十一)詩人の使命」を「蝋人形」に発表。この稿にノヴァーリス、ランボー、ロートレアモン、ヴィクトル・ユゴー等への言及がある。この頃壷井繁治と知り合う。(推定)「あの戦争前夜の 一九三八年頃の秋/はじめてわたしは あなたに会った/新宿の ひどい ひとごみのなかで/あなたは 灰いろのソフトをかぶって/脇には 黒皮の鞄をかかえていた/勤め先からの 帰りらしく……」(「壷井繁治への挽歌」 「詩人会議」 一九七五年十一月)十一月、「季節はずれの放浪(十二)詩人とその時代」を「蝋人形」に発表。この稿にジャン・カッスー、イヴァン・ゴル、シュペルヴィエル等への言及がある。同月、「詩と社会」(評論)を「文芸汎論」に、カンディンスキー「わが木版画」、マン・レイ「写真は慰める」を「アトリエ」に発表。十二月、「季節はずれの放浪(十三)言葉について」を「蝋人形」に発表。この稿にハイデッガーのヘルダーリン論(『ヘルダーリンの詩の本質』 斎藤信治訳 理想社 一九三八年)への言及がある。同月、「欲望のやうに」、「沈黙」(詩)を「新領土」に発表。
                    (重田暁輝編集・大島朋光監修)

参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 一九八六年
『服部伸六詩集』 宝文館出版 一九七七年
『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年
『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年
『西條八十全集 十八巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 二〇一四年
西條嫩子 『父 西條八十』 中央公論社 一九七五年
西條嫩子 『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年
稲木信夫 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年
和田博文監修 鶴岡善久編『コレクション・都市モダニズム詩誌3 シュールレアリスム』 ゆまに書房 二〇〇九年 
森獏郎 「西条八十と『蝋人形』と大島博光」 「狼煙」 二〇〇六年十月
森獏郎 「『新領土』の詩人大島博光」 同右
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討3」 「學苑」 二〇一〇年三月
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討4」 「學苑」 二〇一三月一月
秋元裕子 「一九二五年一〇月~一九四一年八月におけるSurréalismeの著作物の翻訳(および解説・注釈)」 「年報新人文学」 二〇一五年十二月

(『狼煙』82号 2017年3月)

紀元節
早稲田大学仏文科の頃、仲間と(前列中央が大島博光)
大島博光年譜(1910年―1935年)

1910年(明治43年)
 11月18日、長野県更級郡西寺尾村(現在の長野市松代町西寺尾)954番地に生まれる。父確光、母きよ(きゃう・小杏)の長男。生家は農業、養蚕を営む自作小地主。

1922年(大正11年)12歳
 県立屋代中学校(現在の長野県屋代高校)に一期生として入学。

1924年(大正13年)14歳
 春、母きよ死去(享年39歳)。強いショックを受け、メタフィジックとペシミズムの傾向を抱くようになる。「(13歳の)そんな小さな胸でだよ、人は何ぞやとかね、生きているのは、とかさ、そういう疑問が出て来るのだよ。それがやはり言葉は知らなくても、それがメタフィジックスなのだよ。つまり唯物論も何も知らず、観念論も知らないけれども、それはメタフィジックスにそういうことを、提起をして疑問に思っているわけだよ。それで一種のペシミズムになって、それから世をはかなんで、それで小説を読み漁るというわけだ。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」1999年)「詩は悲しみからはじまった。13歳の時にママンが死んでからだ。」(尾池和子『大島博光語録Ⅰ』)
 9月末日、中学の作文ノートに詩「夏の夕」を書く。

  燃え下りる強烈な陽光
  黒赤い光線
  お丶この恐ろしいものに
  焼きに焼かれる總て
  併し衰はくる
  夕はくる
  日は落ちる
  判然と
  燃かれる總ては
  透明な夕空──夕焼を含んだ赤い空の下に
  影をうすて(ママ)ゐる
  夕風はそよぐ
  向ふ屋敷の向ふに
  そっと並んで聳へてゐるポプラに
  そして梢のをちこちに
  淡い光が見える
  星も懶く瞬き始める
  小守唄も幽かに
  夕風を流れて聞えてくる

 10月、作文「母 暑中休暇中で一番印象の深かった事」を書く。
 「夏休中は自分の家で一番多忙な時だ。/養蚕で自分は毎日父と桑を採りに行った。畠で何日も父は自分に、今年の春逝った母の事から、勇気を付けて下さるやうに色々とさとして下さった。自分は何日も涙で有難く受けた。そして追憶に沈むのであった。/ある時などはこんな夢を見た。/母が盛装をして、突然帰ってきた。病が全治したので退院したのだと。にこにこして言ふのではないか。自分は天に上ったやうな心持で見た。ふと目が醒めた。相変らず、自分は床の中に居るのだった。自分は悄然として、起きる元気もなく、自分の不幸を亦々考へ込んだ。そして、限りなく自分を悲しく憐に思った。/こんな事で一寸の事でも母の事を思い浮べる。そして、陰気な心持になる。/おヽこの夏休!!悲しく過ごせし休!!/自分は如何にしてこの印象深き休暇を忘れ得よう。母の逝きし日と同じく。」

1928年(昭和3年)18歳
 3月、屋代中学校卒業。この頃、芥川龍之介、ドストエフスキー、トルストイ、アナトール・フランスなどを耽読。フランス映画「レ・ミゼラブル」を長野市の映画館で観て深い感銘を受ける。10月上京。文京区春日町に下宿、駿河台予備校に通う。この頃ニコライ堂下の神田図書館でロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を耽読する。

1929年(昭和4年)19歳
 4月、早稲田大学第二高等学院に入学。
「わたしが早稲田第二高等学院仏文科に入学したのは1929年(昭和4年)の春だった。/それは嵐を前ぶれする稲妻がひらめくと同時に、一瞬陽光がまぶしく射すような時代だった。世界恐慌が始まっていた…しかしその当時、わたしはそんなことに気がつかなかった。/その頃、わたしは小石川区第六天町に下宿していた。切支丹坂を登って、関口台町の灰色の表通りを歩き、坂をくだって江戸橋に降り、江戸川公園の樹木の下を歩いて、学校へ通った。公園のわきの小川にはまだ水車が残っていた。/公園のなかで写生をしていた若い女の画家と、知ったかぶりをして、ヴァンドンゲンの話をしたことを覚えている。その頃、ヴァンドンゲンの嵐の絵などに感動していたせいかも知れない。」(「ワセダの思い出」 掲載誌不詳)

 この頃、ロシア革命、社会主義の存在を知り、ルナチャルスキーの『革命と文学』やエンゲルス『空想より科学へ』、『共産党宣言』を読む。
 「その頃、第二高等学院は、道路をへだてて、安部球場の南側に建っていた。学院の正門の前に、二階建てのクラブ・ハウスがあって、その二階に「新興文学研究会」という表札をかかげた部屋があった。ロマンティクな新しい文学を夢みていたわたしは、そういう文学の研究会だと思って、そこに入ることにした。入ってみると、そこでは、ルナチャルスキーの『革命と文学』とか、エンゲルスの『空想より科学へ』といった本がテクストに使われていて、わたしはびっくりした。田舎の文学青年だったわたしは、革命という言葉もその意味も知らなかったのである…」(同前)

1930年(昭和5年)20歳
 6月、落合のゴム工場にビラ配りに行き帰途つかまり、高田馬場警察に29日間留置された。9月、学校より退学処分の通告があったが以後運動をしないという一札を入れて学校に留まる。「そのときは、学校へ、ブタ箱にぶち込まれて、今で言えば民青同盟の下っ端ぐらいにいて、もうどこにもまだ登録されていないから、ブタ箱へぶち込まれても僕は上へ行かないで済んだわけだよ。」(稲木信夫前掲文)
 9月9日、松本城を友人らと訪れ写真の裏に次のことを書く。
 「封建主義ノ化石ノナカデ、オレハ歴史ニツイテ感傷デアッタラウカ。ソコデ、タンナル、エトランヂェトシテ 封建主義ノ建築ヲ視覚シテキタニ過ギナイダロウカ。/白晝ノ不眠症ニ、オレハ、恐迫サレテイル。オレハ毛髪ノ陰ニ逃避スル、憂鬱ナ黄色ヲ把握スル。」
 12月、田村泰次郎を中心とした雑誌「東京派」創刊号に「アキレス」(短編)、「マックス・ジャコブ抄」を発表。他の同人には秋田滋、河田誠一、滝口俊吉(滝口修造の甥)等がおり、後の号には春山行夫、安西冬衛、神西清、宗瑛(歌人片山廣子の娘片山聡子の筆名)等も寄稿している。「当時パリやニューヨークで新しい実験的文学を推進しているグループがあり、前衛雑誌をだしていたが、それに呼応する意気込みで、東京グループという意味で「東京派」を名乗った。」(田村泰次郎『わが文壇青春期』)

1931年(昭和6年)21歳
 1月、「肥厚性鼻炎」(短編)、ルイ・アラゴン「巴里の農夫」(抄)を「東京派」第2号に発表。4月、早稲田大学文学部フランス文学科に進学。同級生に秋田滋、田村泰次郎、一級下に楠田一郎、村上菊一郎等がいた。フランス文学科の教授陣は吉江喬松、西條八十、山内義雄(助教授)、英文科の教授には日夏耿之介がいた。
 「1931年の春、わたしが学院から文学部へ進んだ時、高田牧舎の前の門から入って、芝生の広場をへだてて、四階建てのショウシャな文学部の新館が完成した。屋根には、校歌にうたわれている「イラカ」を配していた。(いまは文学部ではないらしい。)そして道路ぎわの杉木立のかげには、坪内逍遥や片上伸などの伝説にみちた、緑色の木造の二階建ての古い校舎が建っていたが、それはまもなくとり拂われた。/その頃、吉江喬松先生のフランス文学史や文学概論の講義が評判で、大きな教室がいつもいっぱいだった。それから西條八十教授の、校門近くの喫茶店での講義は、その後やはり伝説ともなった。」(「ワセダの思い出」)
 同月「遂げず」(短編)、ルネ・クルヴェル「死と疾患と文学と」、サルヴァドル・ダリ「腐敗した驢馬」、ジャック・プレヴェール「一つの整理 或ひは海馬の歴史」、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール「人間」を「東京派」第3号「若き仏蘭西文学号」に、ステファン・プリアセル「露西亜演劇の生命」(田村泰次郎との共訳)を「新文学研究」第2号に発表。6月、ピエール・オーダル「ロオトレアモン 虚無の犠牲」を「東京派」第4号「ロオトレアモン特輯」に発表。8月、「ヴァリエテ―或ひはUn Vagabond―」(短編)、ハッベル「スタインへの書簡」を「東京派」第5号「特輯アメリカ文学」に発表。

1933年(昭和8年)23歳
 9月、西條八十主宰詩誌「蝋人形」に「アルチウル・ランボオ伝」の連載を始める。(昭和9年6月まで計9回)

1934年(昭和9年)24歳
 3月、早稲田大学文学部フランス文学科を卒業。卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。主査西條八十、副査吉江喬松。「西條八十先生がね、そのとき早稲田の仏文の先生で、僕の卒業論文の審査をしてくれて、そして私の卒論を評価してもらって。私がランボオをやって先生もランボオ専門家だから、そういう関係で。」(稲木信夫前掲文)「(西條)先生はランボオを研究していてね、僕がランボオを卒論にしたら吉江先生がほめてくれたんだよ。西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね。それで西條先生も評価してくれたわけだ。」(尾池和子前掲文)
 4月、「ランボウの精神的発展」(研究論文)を「仏蘭西文芸」(吉江喬松の門下生を中心とした学術誌)に発表。(5月、6月にわたり連載。)7月、「現代の古典的性格への一瞥」を「仏蘭西文芸」に発表。9月、カルロ・シュアレス「Autarchie」(エッセイ)を「仏蘭西文芸」に発表。11月、召集令状を受けたが、結核の為即日帰郷。この頃中野区江古田に住む。

1935年(昭和10年)25歳
 1月、アラゴン「Imaginationの対話」を「JANGLE」(アルクイユのクラブ 北園克衛編集)第1号に発表。3月、西條八十のすすめで「蝋人形」の編集に携わる。編集室は柏木町にあった西條邸の茶の間。同月「革命的神秘家ロオトレアモン」を「蝋人形」に発表。(4月まで)6月、「スウルレアリズムの精神」(評論)を「蝋人形」に発表。7月、「ヴァシエの手紙 1918・8・17」(翻訳)を「VOU」(北園克衛主宰)第1号に発表。8月、「壁―星に」、「敗北」(詩)を「蝋人形」に、「スウルレアリストの抗議」(翻訳)を「文芸汎論」(城左門・岩佐東一郎 1931年創刊)に発表。12月、「自殺せる詩人たち ネルヴァル リガオ クルヴエル」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。この頃杉並区馬橋(現在の杉並区阿佐ヶ谷)に住む。
                   (重田暁輝編集・大島朋光監修)

参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 1986年
『西條八十全集 18巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 2014年
田村泰次郎『わが文壇青春期』 1962年 新潮社
紅野敏郎「逍遥・文学誌7・8「東京派」田村泰次郎・大島博光・河田誠一ら」 上・下 「国文学 解釈と教材の研究」 1992年1月・2月
腰原哲朗「大島博光の青春時代―田村泰次郎との交友」 「狼煙」 2014年9月
稲木信夫 「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 2014年
尾池和子 『大島博光語録 Ⅰ・Ⅱ』(私家版) 2007年

(『狼煙』81号 2016年11月)

博光写真
尋常小学校の頃。母、弟(?)と

大島博光 略年譜
      
1910年 (M43) 11月18日、長野県更級郡西寺尾村(現長野市松代町西寺尾)954番地に生まれる。
父・確光、母・きよの長男。生家は自作小地主。
1922年 (T12) 13歳 旧制県立屋代中学(現県立屋代高校)に一期生として入学。
 春、母きよ死去。強いショックを受け、ペシミズムの傾向を抱くようになる。
1928年 (S3) 18歳 3月、屋代中学卒業。この頃、芥川龍之介、ドストエフスキー、トルストイ、アナトール・フランスなどを耽読。フランス映画「レ・ミゼラブル」を長野市の映画館でみて深い感銘を受ける。
 10月に上京。文京区春日町に下宿、駿河台予備校に通う。その頃ニコライ堂下の神田図書館にて、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を耽読する。
1929年 (S4) 4月、早稲田大学第二高等学院に入学。小石川区第六天町、大成館に下宿。
 この頃、ロシア革命、社会主義の存在を知り、エンゲルス「空想より科学へ」や「共産党宣言」を読む。
1930年 (S5) 20歳 落合のゴム工場にビラ配りに行き、帰路つかまり、高田馬場警察に29日間留置された。
1930年 (S5) 12月 同級生の田村泰次郎、河田誠一ら同人誌『東京派』創刊した
1931年 (S6) 21歳 早稲田大学文学部フランス文学科に進学。
1934年 (S9) 24歳 3月、卒業論文にアルチュル・ランボオ論を書き、西条八十教授の知遇を得る。中野区江古田。
            11月、召集令状を受けたが、結核のため即日帰郷。
1935年 (S10) 25歳 3月、西条八十主宰詩誌『蝋人形』の編纂にあたる。杉並区阿佐ヶ谷6丁目に住む。
1939年 (S14) 29歳 詩誌『新領土』に参加。
1940年 (S15) 30歳 詩論集『近代詩の方向』(山雅房)を刊行。
1943年 (S18) 33歳 『詩的体験』ローラン・ド・ルネヴィル(文明社)
1944年 (S19) 34歳 2月、『蝋人形』が戦争のため休刊。
1944年 (S19) 34歳 4月、郷里松代町に疎開。結核療養。
1945年 (S20) 35歳 5月15日、鈴木静江と結婚。長野市松代町西寺尾に住む。
1946年 (S21) 36歳 2月、日本共産党に入党。長男・朋光出生。
1947年 (S22) 37歳 『ランボオ詩集』(蒼樹社)を刊行。
1948年 (S23) 38歳 詩誌「歌ごえ」を発刊。11月、次男・秋光出生。
1950年 (S25) 40歳 2月、東京都三鷹市下連雀に居を構える。
1951年 (S26) 41歳 アラゴン『フランスの起床ラッパ』(三一書房)。
1952年 (S27) 42歳 2月、詩誌「角笛」を発刊。同人に田村正也、小熊忠二、斉藤林太郎、末次正寛、丹野茂。1962年、23号まで続く。
   5月、中野の織本病院にて肺結核のため胸郭成形手術を受ける。9月、長女・桃子出生。
1956年 (S31) 46歳 『エリュアール詩選』(緑書房)
1962年 (S37) 52歳7月、壷井繁治、坂井徳三らとともに「詩人会議」結成に参加する。
1968年 (S43) 58歳 『ベトナム詩集』(飯塚書店)
1969年 (S44) 59歳  『アラゴン詩集』(飯塚書店)
1970年 (S45) 60歳 『ギュヴィック詩集』(飯塚書店)
1971年 (S46) 61歳 『抵抗と愛の讃歌』(東邦出版社)、『パリ・コミューンの詩人たち』(新日本出版社)
1972年 (S47) 62歳 『ネルーダ詩集』(角川書店)
1973年 (S48) 63歳 『アラゴン詩集』(角川書店)
1974年 (S49) 64歳 8月、初めて渡仏、シャルルヴィルにランボオ博物館を訪ねる。
    『ネルーダ最後の詩集』(新日本出版社)、『愛と革命の詩人ネルーダ』(大月書店)
1975年 (S50) 65歳 パリ滞在。『ネルーダ詩集』(角川文庫版)
1978年 (S53) 68歳 11月、マドリードにおけるチリ支援世界大会に出席。帰途、グラナダ、バルセロナ、コリウール、アヴィニヨンなどを訪ねる。
1979年 (S54) 69歳 パリ滞在。『アラゴン選集』(全三巻・共訳)(飯塚書店)
1981年 (S56) 71歳 『レジスタンスと詩人たち』(白石書店)
1984年 (S59) 74歳 詩集『ひとを愛するものは』(新日本出版社)
1985年 (S60) 75歳  『ひとを愛するものは』によって第17回多喜二・百合子賞を受賞。
1986年 (S61) 76歳 『大島博光全詩集』(青磁社)、『ピカソ』(新日本新書)
1987年 (S62) 77歳 『ランボオ』(新日本新書)
1988年 (S63) 78歳 『エリュアール』(新日本新書)
1989年 (H1) 79歳  妻・静江、篠原病院入院。
1990年 (H2) 80歳 『アラゴン』(新日本新書)
1991年 (H3) 81歳 『冬の歌』(青樹社)
1993年 (H5) 83歳 2月9日、妻・静江、篠原病院にて永眠。
1994年 (H6) 5月『稜線』同人に参加。
1995年 (H7) 85歳『老いたるオルフェの歌』(宝文館出版)
1996年 (H8) 86歳『パブロ・ネルーダ』(新日本新書)
1997年 (H9) 87歳『マチャード・アルベルティ詩集』(土曜美術社出版販売)『フイ・カーン詩集』(日曜舎)
1999年 (H11) 6月 大腸ガンのため立川相互病院に入院、手術。
2000年 (H12)  尾池和子さんがホームヘルパーとしてくる。
2001年 (H13)  ジャック・ゴーシュロンと文通。
2003年 (H15)  『ジャック・ゴーシュロン詩集 不寝番』(光陽出版社)
2004年 (H16) 5月 イレウスのため杏林大学病院に入院。
2006年 (H18) 1月9日 肺炎のため武蔵野中央病院にて永眠。95歳