大島博光年譜

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


大島博光年譜(2)(1936年―1938年)

一九三六年(昭和十一年)二十六歳

 二月、ロートレアモン『マルドロオルの歌』を「蝋人形」に連載を始める。(十二月まで計十回。「第六の歌」のうち「第四の歌」まで)四月、西條嫩子の詩「バス」、「夕暮」を「蝋人形」に掲載する。この経緯を西條嫩子は『父 西條八十』(一九七五年 中央公論社)のなかで書いている。
 「(…)ある日、父の主宰している詩誌の主筆で、仏文大学院生の大島博光氏が庭にいる私に話しかけて言うには、「お嬢さん、先生が授業中、ふたばこさんの和歌を読みましたよ。嬉しそうに朗々と。あれは和歌じゃない。詩の感覚だな。僕は面白いと思いましたよ。」/私は口もきけないほどびっくりしてしまった。(略 自作詩「夕暮」の引用の後)/これはまもなく、大島氏が『蝋人形』にのせてくれた私の十四歳の作品である。親馬鹿の父にこたえて私は詩の径をとぼとぼ辿りはじめた。」(なお文中「仏文大学院生」とあるが、大島が大学院に進学していたかどうかは不明)
 また時期は数年前になるが同じく西條嫩子による次のような記述がある。
 「父の主宰する詩誌『蝋人形』の編集をやっていた大島博光氏もランボオの傾倒者で、十三、四歳のお下げ髪の私に声をかけると、/「お嬢ちゃん、おお、季節よ、おお、城よ、ランボオの詩はすばらしいですよ」/と両手を挙げて謳歌して涙ぐみさえしていたのだ。」(『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年)
 五月、ジャン・コクトーが来日し、案内役を務めた堀口大學の付き添いでコクトーに会う。六月、「ランボウの現代的意義」を「エクリバン」(中野秀人・大木惇夫共同編集)に発表。八月、「不眠のうた」(詩)を「蝋人形」に発表。九月、アラゴン「ジョン・ハートフイルドと革命美」を「Ecole de Tokio」(末永胤生(画家)発行)に発表。なおシュルレアリスムの芸術団体「エコール・ド・東京」を結成したメンバーのひとり吉井忠(画家)との交流があったのはこの時期だと推定される。
 「大島 吉井さんは御存じですかね、今の歌舞伎町のあたりに「武蔵野サロン」って喫茶店があって、絵描きさんたち、とりわけ、シュルレアリズムの方たちの会なんかあったでしょう。/吉井(忠) ええ、ええ。/大島 あなたもいらしていたんですか。/吉井 行ってました。あのときは、あなたと滝口修造の話をわれわれは聞いているんです。で、その頃、野田秀夫とか、それから寺田(政明)かな、アメリカから来たばかりのそれを聞いたことがある。だから、それ以来、大島さんと滝口修造の二人は、ずっとわれわれの間ではシュルレアリズムの開拓者になっているんです。/大島 二人ね。あれは何年頃でしたっけ。/吉井 昭和の初め、といっても十年前後かな。」(座談会―『NOVA』の時代を回顧して(上) 『NOVA』通信第一号 一九八八年)  
 同月、イリヤ・エレンブルグ『西方の作家たち』(橡書房)を小出峻と共訳で出版。十二月、「ランボオの手紙」(翻訳)を「文芸汎論」に発表。

一九三七年(昭和十二年)二十七歳

 一月、エレンブルグ「スュウルレアリスト」を「蝋人形」に、ロートレアモン『マルドロオルの歌』(「第一の歌」)を「Ecole de Tokio」に発表。二月、「蝋人形社」に入社し、門田譲に代わって加藤憲治と共に「蝋人形」編集担当となる。同月、「候鳥」「労働」「交流」(詩)を「蝋人形」に発表。三月、フィリップ・スーポー「大海がある」を「蝋人形」に発表。四月、ランボー「渇」、アンドレ・ブルトン「サンボリスムの曲線に沿ひて」を「蝋人形」に発表。この号に滝口修造の寄稿(エッセイ「貝殻と詩人」)がある。五月、「エレヂー」(詩・ローマ字表記)、「詩壇時評」を「蝋人形」に発表。この号に北園克衛の寄稿(詩)がある。六月、アラゴン「20-Seiki」(ローマ字表記)を「蝋人形」に発表。この号に齋藤磯雄訳ヴィリエ・ド・リラダン「ヴィルジニイとポオル」の寄稿がある。なお、アラゴンの「20-Seiki」が収録された詩集『ウラル万歳!』(一九三四年)の中から他に三篇(「ソフコズの歌」、「同志」(部分)、「一九三〇年」(部分))をノート(「Note1937」)に試訳した。この頃の事を後年のインタビューで回想している。
 「戦争中に、僕が『蝋人形』にいたのは、アラゴンの詩集『ウラル万歳!』の年だからね、あれは一九三〇年くらいですよ。だから、ちょうど学校を出た頃で、詩をわからないながら訳してさ、多少はわかってね。彼がソビエトへ行って、社会主義建設を目の前で見て、それでうたった詩。そのとき僕が訳した詩はね、「彼らは、神を投げ捨てていった」というものですよ。「神」を投げ捨てて、「ゴッド」を、神を投げ捨てて、つまり革命のことをうたった詩。」「(…)『蝋人形』をやるうちでも、「赤い」部分もあったのだよ。だってそんな頃もうアラゴンの革命詩の翻訳をやっているのだから。西條八十のところにいたおかげでね、その詩を、ローマ字で訳しているのだよ、『蝋人形』に、アラゴンのそういう詩を。だから、西條八十の傘に隠れていたのだよ、逆に言えばね。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」一九九九年 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年 所収)
 この頃、楠田一郎の紹介で「新領土」に参加する。
 「思い出せば、もう四十年もむかしの一九三六、七年頃、それは暗い夜の時代だった。新宿一丁目の裏あたりに、まだ怪しげな曖昧な一郭があって、その近くの迷路のような小路に、「山小屋」という小さな酒場(バー)があった。まだうら若い美人の姉妹がでていて、けっこうはやっていた。文学青年やジャーナリストなどがよく集まっていた。楠田一郎も常連のひとりであった。かれはどうやら、姉娘が好きだったらしい。夕ぐれともなれば、毎晩のように、蒼白い顔をした楠田一郎が、ビールのグラスを前にして坐っていた。かれの肉体はもう結核に深くむしばまれていた。かれの席は、入口を背にした右側にあって、坐ったその四角いうしろ姿が、いまも影絵のように眼に浮んでくる…(略)/このグループは、夜も深く酩酊してくると、よくベートーベンの一三五番のクヮルテットを合唱するのであった。クヮルテットを合唱するという表現は奇妙なものだが、ハミングでそれぞれのパートをうたうのである。当時、音楽ファンのあいでは、そういった曲がはやっていたのかも知れない。いまにして思えば、酔いどれたちの、ベートーベンのクヮルテットの、そんなたわいない合唱(?)になんの意味があっただろう? だが、思い出せば、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が、ひとびとの眼にみえないところで、不吉なひびきを立てて回りはじめていた。わたしは同義語を二つならべたが、暗い時代でも、夜の時代だけでも、やはり言いたりない。いや、あの深さ、厚みは、そんな形容詞ではどうにも表現できないものかも知れない。わたしたちは希望という言葉さえ知らなかった。そんな夜のなかで、クヮルテットの合唱者(?)たちは、それによってみずからの存在をわずかにたしかめ、みずからを慰めていたのにちがいない。あるいは港で嵐をさける小舟のように、そうやって夜の過ぎさるのを待っていたのかも知れない。」(「山小屋の頃」 『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年 付録)   
 八月、「私は歩いて行く」(詩)を「蝋人形」に、ブルトン「シュルレアリスムの国境なき限界」を「新領土」に発表。この頃「新領土」を通して服部伸六と知り合う。(推定)
 「わたしが服部伸六とはじめて出会ったのは、一九三七年頃ででもあったろうか。新宿の三越の裏通りあたりに、文学青年や絵描きのよく集まる「ノヴァ」という酒場があって、わたしもよくそこでとぐろをまいていた。新領土の集まりのあと、服部伸六ともそんなところへ行って、いっしょに飲んだような気がする。たしか、かれはまだ慶應の制服をきた美青年であったが、すでに言葉の罠で神秘をからめとったり、重層的なイメージの隙間から地獄をかいま見せるような詩を書いていて、わたしたちをひどく驚かしたのだった。」(『服部伸六詩集』宝文館出版 一九七七年 「解説」)
 九月、「季節はずれの放浪(一)エスプリ・ヌウボオの道」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。(以後断続的に連載、一九三九年四月までの計十五回。)この稿にアポリネール「鎖」の訳がある。同月、「肉体の棘」(詩)を「文芸汎論」に発表。十月、「季節はづれの放浪(二)」を「蝋人形」に発表。この稿にアルフレッド・ジャリ、ブルトン、ジャック・ヴァシエ等への言及がある。十一月、「遠近法」(詩)、エリュアール「持続」、「民衆の外に」を「蝋人形」に発表。この号に楠田一郎訳「テオクリスのエピグラム ミューズとアポロンへの献げもの」の寄稿がある。なおエリュアールの「持続」が収録された詩集『豊かな眼』(一九三六年)を読んでいた頃を後に次のように回想している。
 「思い出せば、昭和十年代の後半、一九三七年頃から一九四五年頃まで、それは暗い夜の時代だった。戦争とファシズムの歯車が不吉な音をたてて回っていた。その始めの頃、わたしは、丸善から最後にとどいたエリュアールの詩集Cours naturel(自然の運行)やLes yeux fertiles(豊かな眼)をふところに入れて、暗い新宿の街をさまよっていたことを思い出す。また、やはりエリュアールの「詩的明白さ」というエッセイに感動して、それを訳出したが、このエッセイほど当時のわたしを鼓舞し、支えてくれたものはなかった。」(『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年 「解説」)
 十二月、「季節はずれの放浪(三)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にトリスタン・ツァラ「ダダの歌」の訳、フランシス・ピカビア、マリー・ローランサン等への言及がある。同月、「抉り取られた眼は抉りとる」(詩)を「新領土」に発表。

一九三八年(昭和十三年)二十八歳

 一月、エリュアール「壁にぶつけられた頭」を「蝋人形」に、「新しき愛の天体」(詩)を「新領土」に発表。二月、「季節はずれの放浪(四)ダダ地方」を「蝋人形」に発表。この稿にジャック・リガオへの言及がある。またこの号に鮎川信夫の投稿詩「逃亡」が掲載される。同月、「失われた愛の歌」(詩)を「新領土」に、ル・コルビジェ「建築は絵画に何を要求するか」を「アトリエ」に発表。三月、ジュール・シュペルヴィエル「眼に見えない獣たち」、「季節はずれの放浪(四)ダダの終焉とその足跡」を「蝋人形」に発表。この稿にロートレアモン、ピエール・ルヴェルディ等への言及がある。同月、「惨めな歌」(詩)を「新領土」に発表。四月、「飢ゑの歌」(詩)、エリュアール「過去への一瞥」(エッセイ)、「季節はずれの放浪(六)シュルレアリスムの四つ角へ」を「蝋人形」に、「夜襲」(詩)を「文芸汎論」に発表。同月、ランボー『地獄の季節』を春陽堂から出版。五月、バンジャマン・ペレ「自然は進歩を貪りくひ進歩を追ひこす」(散文詩)、「季節はずれの放浪(七)」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴンのシュルレアリスム小説『夢の波』、ブルトン、スーポーの共著『磁場』への言及がある。同月、「深夜の通行人」(詩)、ロラン・ド・ルネヴィル「夜の意味」(八月と計二回)を「新領土」に発表。この頃、「蝋人形」の詩欄に投稿した松本隆晴を知る。
 「ある日僕に宛てた一通の封筒が届いた。それは蝋人形社の社用封筒で、差出人は特徴のある書体で大島博光とあった。僕ははっとした。蝋人形にロートレアモンの〈マルドロールの歌〉を翻訳したり、毎号〈季節はずれの放浪〉という題名で、フランスにおける超現実主義の誕生とその発展について、極めてユニークな文章を書き綴っている人の名前である。僕はその文と、またその詩に強くひかれていて、その影響も受け初めていたのだ。/「前略ごめん下さいませ。」で始まるその手紙は、自分が埴科郡西寺尾村(現在長野市)の出身であることを告げ、今度刊行されることになった信州詩人詞華集への参加を誘っているのである。後に知ったことであるが、大島博光は旧制屋代中学から早稲田大学の仏文科にすすみ、在学中からずば抜けたフランス語の力と豊かな詩魂とで知られ、西条八十の門下でも最も注目されていた詩人であった。/人生における出会いの不思議さはここにもあって、この一通の手紙が機縁となって二人の交友は極めて急速に進み、ほとんど連日のはがき交換は、スーツケースに溢れるほどになったのである。やがて大島が蝋人形の編集者となってから、僕にとって高嶺の花にも等しかったその雑誌の本欄に、毎号僕の詩が載る日がやって来るのであり、更にその編集も手伝うことにもなる。そしてその原稿依頼や入手のための走り使いには、藤村、白秋、河井酔名等の明治、大正時代以来の日本の大詩人に接する機会も与えられるのであるが、それは暫く後の日のことになる。」(松本隆晴 「大島博光と交友」 「信濃毎日新聞」 一九七六年一月二十一日)
 六月、アンドレ・サルモン「アルチウル・ラムボオ」(詩)、「季節はずれの放浪(八)」を「蝋人形」に発表。この稿にエリュアールの演説「詩の摂理」(「詩的明白さ」)の訳出がある。同月、「眼覚めない獣」、「修道轆」(詩)を「新領土」に、ワシリー・カンディンスキー「具象絵画」を「アトリエ」に発表。七月、ポール・ヴァレリー「海への凝視」(散文)、フィリップ・スーポー「夜の方に」、「詩壇時評」を「蝋人形」に、「不幸なものは見てゐる」(詩)を「三田文学」に、ル・コルビジェ「絵画」を「アトリエ」に発表。また「新領土」に楠田一郎による大島訳『地獄の季節』の書評「ラムボオの血液」が発表される。八月、「抉りとられた臓腑」(詩)、「季節はずれの放浪(九)影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にアラゴン、ブルトン、ルヴェルディ、エリュアール、ルネ・シャール、松尾芭蕉等への言及がある。この号より「新領土」を通して知り合った永田助太郎の寄稿(「英国最近の詩壇1」)始まる。同月、「伐りはらはれた林」(詩)を「新領土」に、ルネ・ユイグ「ブールデルは如何にして創造したか」、ピエル・マビイユ「スウラの素描」を「アトリエ」に発表。九月、「季節はずれの放浪(十)ふたたび影像について」を「蝋人形」に発表。この稿にボードレール、ランボー、マラルメ等への言及がある。同月、「幸福」(詩)を「新領土」に、「小宇宙のために」(詩)を「文芸汎論」に、「詩学的見地からみた俳句〈主として超現実主義の立場より〉」を「俳句研究」(改造社)に発表。十月、「季節はずれの放浪(十一)詩人の使命」を「蝋人形」に発表。この稿にノヴァーリス、ランボー、ロートレアモン、ヴィクトル・ユゴー等への言及がある。この頃壷井繁治と知り合う。(推定)「あの戦争前夜の 一九三八年頃の秋/はじめてわたしは あなたに会った/新宿の ひどい ひとごみのなかで/あなたは 灰いろのソフトをかぶって/脇には 黒皮の鞄をかかえていた/勤め先からの 帰りらしく……」(「壷井繁治への挽歌」 「詩人会議」 一九七五年十一月)十一月、「季節はずれの放浪(十二)詩人とその時代」を「蝋人形」に発表。この稿にジャン・カッスー、イヴァン・ゴル、シュペルヴィエル等への言及がある。同月、「詩と社会」(評論)を「文芸汎論」に、カンディンスキー「わが木版画」、マン・レイ「写真は慰める」を「アトリエ」に発表。十二月、「季節はずれの放浪(十三)言葉について」を「蝋人形」に発表。この稿にハイデッガーのヘルダーリン論(『ヘルダーリンの詩の本質』 斎藤信治訳 理想社 一九三八年)への言及がある。同月、「欲望のやうに」、「沈黙」(詩)を「新領土」に発表。
                    (重田暁輝編集・大島朋光監修)

参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 一九八六年
『服部伸六詩集』 宝文館出版 一九七七年
『松本隆晴詩集』 宝文館出版 一九七七年
『楠田一郎詩集』 蜘蛛出版社 一九七七年
『西條八十全集 十八巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 二〇一四年
西條嫩子 『父 西條八十』 中央公論社 一九七五年
西條嫩子 『父西條八十は私の白鳥だった』 集英社 一九七八年
稲木信夫 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 二〇一四年
和田博文監修 鶴岡善久編『コレクション・都市モダニズム詩誌3 シュールレアリスム』 ゆまに書房 二〇〇九年 
森獏郎 「西条八十と『蝋人形』と大島博光」 「狼煙」 二〇〇六年十月
森獏郎 「『新領土』の詩人大島博光」 同右
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討3」 「學苑」 二〇一〇年三月
猪熊雄治 「『蝋人形』の検討4」 「學苑」 二〇一三月一月
秋元裕子 「一九二五年一〇月~一九四一年八月におけるSurréalismeの著作物の翻訳(および解説・注釈)」 「年報新人文学」 二〇一五年十二月

(『狼煙』82号 2017年3月)

紀元節
早稲田大学仏文科の頃、仲間と(前列中央が大島博光)
大島博光年譜(1910年―1935年)

1910年(明治43年)
 11月18日、長野県更級郡西寺尾村(現在の長野市松代町西寺尾)954番地に生まれる。父確光、母きよ(きゃう・小杏)の長男。生家は農業、養蚕を営む自作小地主。

1922年(大正11年)12歳
 県立屋代中学校(現在の長野県屋代高校)に一期生として入学。

1924年(大正13年)14歳
 春、母きよ死去(享年39歳)。強いショックを受け、メタフィジックとペシミズムの傾向を抱くようになる。「(13歳の)そんな小さな胸でだよ、人は何ぞやとかね、生きているのは、とかさ、そういう疑問が出て来るのだよ。それがやはり言葉は知らなくても、それがメタフィジックスなのだよ。つまり唯物論も何も知らず、観念論も知らないけれども、それはメタフィジックスにそういうことを、提起をして疑問に思っているわけだよ。それで一種のペシミズムになって、それから世をはかなんで、それで小説を読み漁るというわけだ。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」1999年)「詩は悲しみからはじまった。13歳の時にママンが死んでからだ。」(尾池和子『大島博光語録Ⅰ』)
 9月末日、中学の作文ノートに詩「夏の夕」を書く。

  燃え下りる強烈な陽光
  黒赤い光線
  お丶この恐ろしいものに
  焼きに焼かれる總て
  併し衰はくる
  夕はくる
  日は落ちる
  判然と
  燃かれる總ては
  透明な夕空──夕焼を含んだ赤い空の下に
  影をうすて(ママ)ゐる
  夕風はそよぐ
  向ふ屋敷の向ふに
  そっと並んで聳へてゐるポプラに
  そして梢のをちこちに
  淡い光が見える
  星も懶く瞬き始める
  小守唄も幽かに
  夕風を流れて聞えてくる

 10月、作文「母 暑中休暇中で一番印象の深かった事」を書く。
 「夏休中は自分の家で一番多忙な時だ。/養蚕で自分は毎日父と桑を採りに行った。畠で何日も父は自分に、今年の春逝った母の事から、勇気を付けて下さるやうに色々とさとして下さった。自分は何日も涙で有難く受けた。そして追憶に沈むのであった。/ある時などはこんな夢を見た。/母が盛装をして、突然帰ってきた。病が全治したので退院したのだと。にこにこして言ふのではないか。自分は天に上ったやうな心持で見た。ふと目が醒めた。相変らず、自分は床の中に居るのだった。自分は悄然として、起きる元気もなく、自分の不幸を亦々考へ込んだ。そして、限りなく自分を悲しく憐に思った。/こんな事で一寸の事でも母の事を思い浮べる。そして、陰気な心持になる。/おヽこの夏休!!悲しく過ごせし休!!/自分は如何にしてこの印象深き休暇を忘れ得よう。母の逝きし日と同じく。」

1928年(昭和3年)18歳
 3月、屋代中学校卒業。この頃、芥川龍之介、ドストエフスキー、トルストイ、アナトール・フランスなどを耽読。フランス映画「レ・ミゼラブル」を長野市の映画館で観て深い感銘を受ける。10月上京。文京区春日町に下宿、駿河台予備校に通う。この頃ニコライ堂下の神田図書館でロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を耽読する。

1929年(昭和4年)19歳
 4月、早稲田大学第二高等学院に入学。
「わたしが早稲田第二高等学院仏文科に入学したのは1929年(昭和4年)の春だった。/それは嵐を前ぶれする稲妻がひらめくと同時に、一瞬陽光がまぶしく射すような時代だった。世界恐慌が始まっていた…しかしその当時、わたしはそんなことに気がつかなかった。/その頃、わたしは小石川区第六天町に下宿していた。切支丹坂を登って、関口台町の灰色の表通りを歩き、坂をくだって江戸橋に降り、江戸川公園の樹木の下を歩いて、学校へ通った。公園のわきの小川にはまだ水車が残っていた。/公園のなかで写生をしていた若い女の画家と、知ったかぶりをして、ヴァンドンゲンの話をしたことを覚えている。その頃、ヴァンドンゲンの嵐の絵などに感動していたせいかも知れない。」(「ワセダの思い出」 掲載誌不詳)

 この頃、ロシア革命、社会主義の存在を知り、ルナチャルスキーの『革命と文学』やエンゲルス『空想より科学へ』、『共産党宣言』を読む。
 「その頃、第二高等学院は、道路をへだてて、安部球場の南側に建っていた。学院の正門の前に、二階建てのクラブ・ハウスがあって、その二階に「新興文学研究会」という表札をかかげた部屋があった。ロマンティクな新しい文学を夢みていたわたしは、そういう文学の研究会だと思って、そこに入ることにした。入ってみると、そこでは、ルナチャルスキーの『革命と文学』とか、エンゲルスの『空想より科学へ』といった本がテクストに使われていて、わたしはびっくりした。田舎の文学青年だったわたしは、革命という言葉もその意味も知らなかったのである…」(同前)

1930年(昭和5年)20歳
 6月、落合のゴム工場にビラ配りに行き帰途つかまり、高田馬場警察に29日間留置された。9月、学校より退学処分の通告があったが以後運動をしないという一札を入れて学校に留まる。「そのときは、学校へ、ブタ箱にぶち込まれて、今で言えば民青同盟の下っ端ぐらいにいて、もうどこにもまだ登録されていないから、ブタ箱へぶち込まれても僕は上へ行かないで済んだわけだよ。」(稲木信夫前掲文)
 9月9日、松本城を友人らと訪れ写真の裏に次のことを書く。
 「封建主義ノ化石ノナカデ、オレハ歴史ニツイテ感傷デアッタラウカ。ソコデ、タンナル、エトランヂェトシテ 封建主義ノ建築ヲ視覚シテキタニ過ギナイダロウカ。/白晝ノ不眠症ニ、オレハ、恐迫サレテイル。オレハ毛髪ノ陰ニ逃避スル、憂鬱ナ黄色ヲ把握スル。」
 12月、田村泰次郎を中心とした雑誌「東京派」創刊号に「アキレス」(短編)、「マックス・ジャコブ抄」を発表。他の同人には秋田滋、河田誠一、滝口俊吉(滝口修造の甥)等がおり、後の号には春山行夫、安西冬衛、神西清、宗瑛(歌人片山廣子の娘片山聡子の筆名)等も寄稿している。「当時パリやニューヨークで新しい実験的文学を推進しているグループがあり、前衛雑誌をだしていたが、それに呼応する意気込みで、東京グループという意味で「東京派」を名乗った。」(田村泰次郎『わが文壇青春期』)

1931年(昭和6年)21歳
 1月、「肥厚性鼻炎」(短編)、ルイ・アラゴン「巴里の農夫」(抄)を「東京派」第2号に発表。4月、早稲田大学文学部フランス文学科に進学。同級生に秋田滋、田村泰次郎、一級下に楠田一郎、村上菊一郎等がいた。フランス文学科の教授陣は吉江喬松、西條八十、山内義雄(助教授)、英文科の教授には日夏耿之介がいた。
 「1931年の春、わたしが学院から文学部へ進んだ時、高田牧舎の前の門から入って、芝生の広場をへだてて、四階建てのショウシャな文学部の新館が完成した。屋根には、校歌にうたわれている「イラカ」を配していた。(いまは文学部ではないらしい。)そして道路ぎわの杉木立のかげには、坪内逍遥や片上伸などの伝説にみちた、緑色の木造の二階建ての古い校舎が建っていたが、それはまもなくとり拂われた。/その頃、吉江喬松先生のフランス文学史や文学概論の講義が評判で、大きな教室がいつもいっぱいだった。それから西條八十教授の、校門近くの喫茶店での講義は、その後やはり伝説ともなった。」(「ワセダの思い出」)
 同月「遂げず」(短編)、ルネ・クルヴェル「死と疾患と文学と」、サルヴァドル・ダリ「腐敗した驢馬」、ジャック・プレヴェール「一つの整理 或ひは海馬の歴史」、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール「人間」を「東京派」第3号「若き仏蘭西文学号」に、ステファン・プリアセル「露西亜演劇の生命」(田村泰次郎との共訳)を「新文学研究」第2号に発表。6月、ピエール・オーダル「ロオトレアモン 虚無の犠牲」を「東京派」第4号「ロオトレアモン特輯」に発表。8月、「ヴァリエテ―或ひはUn Vagabond―」(短編)、ハッベル「スタインへの書簡」を「東京派」第5号「特輯アメリカ文学」に発表。

1933年(昭和8年)23歳
 9月、西條八十主宰詩誌「蝋人形」に「アルチウル・ランボオ伝」の連載を始める。(昭和9年6月まで計9回)

1934年(昭和9年)24歳
 3月、早稲田大学文学部フランス文学科を卒業。卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。主査西條八十、副査吉江喬松。「西條八十先生がね、そのとき早稲田の仏文の先生で、僕の卒業論文の審査をしてくれて、そして私の卒論を評価してもらって。私がランボオをやって先生もランボオ専門家だから、そういう関係で。」(稲木信夫前掲文)「(西條)先生はランボオを研究していてね、僕がランボオを卒論にしたら吉江先生がほめてくれたんだよ。西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね。それで西條先生も評価してくれたわけだ。」(尾池和子前掲文)
 4月、「ランボウの精神的発展」(研究論文)を「仏蘭西文芸」(吉江喬松の門下生を中心とした学術誌)に発表。(5月、6月にわたり連載。)7月、「現代の古典的性格への一瞥」を「仏蘭西文芸」に発表。9月、カルロ・シュアレス「Autarchie」(エッセイ)を「仏蘭西文芸」に発表。11月、召集令状を受けたが、結核の為即日帰郷。この頃中野区江古田に住む。

1935年(昭和10年)25歳
 1月、アラゴン「Imaginationの対話」を「JANGLE」(アルクイユのクラブ 北園克衛編集)第1号に発表。3月、西條八十のすすめで「蝋人形」の編集に携わる。編集室は柏木町にあった西條邸の茶の間。同月「革命的神秘家ロオトレアモン」を「蝋人形」に発表。(4月まで)6月、「スウルレアリズムの精神」(評論)を「蝋人形」に発表。7月、「ヴァシエの手紙 1918・8・17」(翻訳)を「VOU」(北園克衛主宰)第1号に発表。8月、「壁―星に」、「敗北」(詩)を「蝋人形」に、「スウルレアリストの抗議」(翻訳)を「文芸汎論」(城左門・岩佐東一郎 1931年創刊)に発表。12月、「自殺せる詩人たち ネルヴァル リガオ クルヴエル」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。この頃杉並区馬橋(現在の杉並区阿佐ヶ谷)に住む。
                   (重田暁輝編集・大島朋光監修)

参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 1986年
『西條八十全集 18巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 2014年
田村泰次郎『わが文壇青春期』 1962年 新潮社
紅野敏郎「逍遥・文学誌7・8「東京派」田村泰次郎・大島博光・河田誠一ら」 上・下 「国文学 解釈と教材の研究」 1992年1月・2月
腰原哲朗「大島博光の青春時代―田村泰次郎との交友」 「狼煙」 2014年9月
稲木信夫 「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 2014年
尾池和子 『大島博光語録 Ⅰ・Ⅱ』(私家版) 2007年

(『狼煙』81号 2016年11月)

博光写真
尋常小学校の頃。母、弟(?)と

大島博光 略年譜
      
1910年 (M43) 11月18日、長野県更級郡西寺尾村(現長野市松代町西寺尾)954番地に生まれる。
父・確光、母・きよの長男。生家は自作小地主。
1922年 (T12) 13歳 旧制県立屋代中学(現県立屋代高校)に一期生として入学。
 春、母きよ死去。強いショックを受け、ペシミズムの傾向を抱くようになる。
1928年 (S3) 18歳 3月、屋代中学卒業。この頃、芥川龍之介、ドストエフスキー、トルストイ、アナトール・フランスなどを耽読。フランス映画「レ・ミゼラブル」を長野市の映画館でみて深い感銘を受ける。
 10月に上京。文京区春日町に下宿、駿河台予備校に通う。その頃ニコライ堂下の神田図書館にて、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を耽読する。
1929年 (S4) 4月、早稲田大学第二高等学院に入学。小石川区第六天町、大成館に下宿。
 この頃、ロシア革命、社会主義の存在を知り、エンゲルス「空想より科学へ」や「共産党宣言」を読む。
1930年 (S5) 20歳 落合のゴム工場にビラ配りに行き、帰路つかまり、高田馬場警察に29日間留置された。
1930年 (S5) 12月 同級生の田村泰次郎、河田誠一ら同人誌『東京派』創刊した
1931年 (S6) 21歳 早稲田大学文学部フランス文学科に進学。
1934年 (S9) 24歳 3月、卒業論文にアルチュル・ランボオ論を書き、西条八十教授の知遇を得る。中野区江古田。
            11月、召集令状を受けたが、結核のため即日帰郷。
1935年 (S10) 25歳 3月、西条八十主宰詩誌『蝋人形』の編纂にあたる。杉並区阿佐ヶ谷6丁目に住む。
1939年 (S14) 29歳 詩誌『新領土』に参加。
1940年 (S15) 30歳 詩論集『近代詩の方向』(山雅房)を刊行。
1943年 (S18) 33歳 『詩的体験』ローラン・ド・ルネヴィル(文明社)
1944年 (S19) 34歳 2月、『蝋人形』が戦争のため休刊。
1944年 (S19) 34歳 4月、郷里松代町に疎開。結核療養。
1945年 (S20) 35歳 5月15日、鈴木静江と結婚。長野市松代町西寺尾に住む。
1946年 (S21) 36歳 2月、日本共産党に入党。長男・朋光出生。
1947年 (S22) 37歳 『ランボオ詩集』(蒼樹社)を刊行。
1948年 (S23) 38歳 詩誌「歌ごえ」を発刊。11月、次男・秋光出生。
1950年 (S25) 40歳 2月、東京都三鷹市下連雀に居を構える。
1951年 (S26) 41歳 アラゴン『フランスの起床ラッパ』(三一書房)。
1952年 (S27) 42歳 2月、詩誌「角笛」を発刊。同人に田村正也、小熊忠二、斉藤林太郎、末次正寛、丹野茂。1962年、23号まで続く。
   5月、中野の織本病院にて肺結核のため胸郭成形手術を受ける。9月、長女・桃子出生。
1956年 (S31) 46歳 『エリュアール詩選』(緑書房)
1962年 (S37) 52歳7月、壷井繁治、坂井徳三らとともに「詩人会議」結成に参加する。
1968年 (S43) 58歳 『ベトナム詩集』(飯塚書店)
1969年 (S44) 59歳  『アラゴン詩集』(飯塚書店)
1970年 (S45) 60歳 『ギュヴィック詩集』(飯塚書店)
1971年 (S46) 61歳 『抵抗と愛の讃歌』(東邦出版社)、『パリ・コミューンの詩人たち』(新日本出版社)
1972年 (S47) 62歳 『ネルーダ詩集』(角川書店)
1973年 (S48) 63歳 『アラゴン詩集』(角川書店)
1974年 (S49) 64歳 8月、初めて渡仏、シャルルヴィルにランボオ博物館を訪ねる。
    『ネルーダ最後の詩集』(新日本出版社)、『愛と革命の詩人ネルーダ』(大月書店)
1975年 (S50) 65歳 パリ滞在。『ネルーダ詩集』(角川文庫版)
1978年 (S53) 68歳 11月、マドリードにおけるチリ支援世界大会に出席。帰途、グラナダ、バルセロナ、コリウール、アヴィニヨンなどを訪ねる。
1979年 (S54) 69歳 パリ滞在。『アラゴン選集』(全三巻・共訳)(飯塚書店)
1981年 (S56) 71歳 『レジスタンスと詩人たち』(白石書店)
1984年 (S59) 74歳 詩集『ひとを愛するものは』(新日本出版社)
1985年 (S60) 75歳  『ひとを愛するものは』によって第17回多喜二・百合子賞を受賞。
1986年 (S61) 76歳 『大島博光全詩集』(青磁社)、『ピカソ』(新日本新書)
1987年 (S62) 77歳 『ランボオ』(新日本新書)
1988年 (S63) 78歳 『エリュアール』(新日本新書)
1989年 (H1) 79歳  妻・静江、篠原病院入院。
1990年 (H2) 80歳 『アラゴン』(新日本新書)
1991年 (H3) 81歳 『冬の歌』(青樹社)
1993年 (H5) 83歳 2月9日、妻・静江、篠原病院にて永眠。
1994年 (H6) 5月『稜線』同人に参加。
1995年 (H7) 85歳『老いたるオルフェの歌』(宝文館出版)
1996年 (H8) 86歳『パブロ・ネルーダ』(新日本新書)
1997年 (H9) 87歳『マチャード・アルベルティ詩集』(土曜美術社出版販売)『フイ・カーン詩集』(日曜舎)
1999年 (H11) 6月 大腸ガンのため立川相互病院に入院、手術。
2000年 (H12)  尾池和子さんがホームヘルパーとしてくる。
2001年 (H13)  ジャック・ゴーシュロンと文通。
2003年 (H15)  『ジャック・ゴーシュロン詩集 不寝番』(光陽出版社)
2004年 (H16) 5月 イレウスのため杏林大学病院に入院。
2006年 (H18) 1月9日 肺炎のため武蔵野中央病院にて永眠。95歳