浅間山米軍演習地反対闘争

ここでは、「浅間山米軍演習地反対闘争」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


反対運動を指導した田部井健次

1953年4月2日の米軍の申し入れで大騒ぎになった軽井沢で、土屋善夫さん、荒井輝充さんら若者の素早い行動から反対運動は広がりました。4月5日には西地区の4区長が集まって反対連合が作られ、4月10日には町の連合青年団が理事・代議員会を開き、町民大会を開くよう町に要請、署名運動を始めました。
町議会は対策委員が山中湖富士演習場を視察して実態調査し、4月17日に緊急町議会を招集し、絶対反対を決議しました。連合婦人会をはじめ、教職員組合・電通・国鉄・草軽電鉄などの労働組合も反対を決議して行動しました。
こうした中で、反対運動はかけがえのない指導者を得たのでした。委員長を務めた田部井健次さんです。

◇   ◇   ◇   ◇
町民大会と全町協議会

 四月も末の二十九日になって、ようやく町内二十四集落の区長会議が開かれました。連合青年団も連合婦人会も教職員組合も労働組合もそれぞれ代表を参加させましたが、主体は区長なので発言は控えていました。
 西地区では幾度か区長会も開かれ、区民大会でも話し合われていましたが、もし基地ができれば、開拓者の生活は完全に破壊されて、もう何処へも行くところがないのだと深刻な問題が話され、ほかの農村部の区長からも、強い調子で絶対反対が叫ばれました。中軽井沢や新道・旧道の市街地の人たちも、風紀が乱れ、子供たちが堕落し、観光が成り立たなくなる、と猛反対を表明しました。基地反対では完全に意見が一致したのです。
 しかし、運動の進め方に話がいくと、意見が出なくなりました。西地区の区長会では、きちんとした本部を作って町民大会を開き、近隣市町村に呼びかけることなどが話し合われていたのですが、気後れしたのでしょうか?連合青年団は以前からその方針でしたが、黙っていました。
 最後に発言を求めたのが、千ヶ滝西区の区長、田部井健次さんでした。私はそれまで田部井さんのことは全く知りませんでしたので、とても驚きました。実に静かにゆっくりと話し始めた時、会場はしーんと静まりました。それもそのはず、田部井さんはその道の大ベテランだったのです。
 ちょっと紹介しますと、「満州事変」の前年、昭和五年に労農党の大山郁夫委員長の下で、三十二歳の若さで書記長に任命され、翌年、全国労農大衆党が樹立されて、その中央委員となり、その次の昭和七年には日本労働組合総評議会の書記長に抜てきされました。なぜこのように職務がころころ変わったかというと、当時の政府は治安維持法によって、そうした政党や組合に解散を命じたり、弾圧し、共産党員はすべて監獄にぶち込まれ、「蟹工船」で知られた作家小林多喜二は虐殺されていました。大山郁夫委員長はアメリカに亡命し、田部井さんも拷問を受けたせいでびっこを引くようになりました。運動は壊滅し、刀折れ矢尽きた形で田部井さんは政界を引退し、画家として千ヶ滝集落に住んで、その区長をやっていた人なのです。
 田部井さんは、そもそも米軍が浅間山麓に演習地を作りたいと言い出したのは、日米安全保障条約の行政協定によってであって、米軍が日本の何処にでも「基地を作りたい」と言えば、「日本政府はそれに協力しなければならない」(行政協定第二条・第三条)と決められているからで、ちょっとやそっとの反対ではだめだ、と話されました。
 そうして、町長が誘致の陳情をしたなどの噂もあるなかで、町議会が反対決議をしたからといってとても任してなどおけず、町民全体が一致団結して反対運動を進めるために、しっかりした組織を作って、町民大会を開き、長野県中に呼びかけて大きな運動に発展させなければ勝てない、と長々話されました。
 誠に筋の通った理路整然とした話に異論はなく、二、三質問があって町民大会の段取りに話が進みました。
 実は町会議員の中には「労働組合は入れないほうがよくはないか」とか「赤の運動と思われればマイナスになる」などの声があったようですが、青年たちは断固それを拒否しました。
 町民大会は五月三日、中学校体育館で一千五百人を集めて盛大に開かれました。西地区からはムシロ旗を先頭に、手に手に「聖地軽井沢を守れ」「パンパンの町にするな」「子供達を守れ」などのプラカードを持って堂々と行進し、町役場の前で気勢をあげ、中学校へと進みました。この勢いに、町民に内緒で誘致の陳情をした連中やその取り巻きは、真っ青になっておろおろしていたそうです。
 大会は熱気に包まれました。これだけ集まると、みんな元気が出て、「勝てるだろうか?」「赤の運動と思われはすまいか?」といった声もなくなりました。
 大会の決議によって、全町的な反対運動の中核となる《演習地反対全町協議会》が作られました。
 選ばれた役員は次の方々です。
   委員長  田部井健次(千ヶ滝西区)
   副委員長  一條重美(旧軽井沢)
   同     飯島喜文太(沓掛)=(中軽井沢)
   同     寺島乾三(三石開拓田)

 委員長の田部井健次氏は先に紹介したように、こうした運動の得難い指導者でした。副委員長の一條重美氏は旧軽井沢の薬局の主人で、実は東大出身の文学者でした。友人が外務省や文部省にもいて、そちらからの情報も入りましたので、全町協議会は実に有利に活動することができました。同じく副委員長の飯島喜文太氏は中軽井沢のボス的存在で、町長などにも意見のできる人でした。また、寺島乾三氏は反対の意志が最も堅固な三石開拓団の団長でした。おまけに、事務局員に我らが青年団員で、高原塾の仲間だった小川貢君を入れてもらったことは、実に好都合でした。飯島喜文太氏のあっせんで、役場内の一室を事務所として使わせてもらい、反対運動はすべて全町協議会に一本化して、ばらばらな行動は一切取らないことを各方面に徹底し、本格的な第一歩が踏み出されたのです。
(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)

南天


 青年団と高原塾

演習地反対運動で、中核となって活躍したのは青年団の若者たちでした。
終戦後、政治問題に関心をよせ、議論するようになった彼らを手助けしたのが、追分に住み着いた文化人たちが開いた高原塾でした。

◇   ◇   ◇   ◇
西地区連合青年団のルーツ
 三石や大日向の開拓団が入植する以前の追分や借宿はさびしい農村でした。借宿には多少大きな農家もありましたが、追分にはそれがなく、商売として成り立たなくなった旅籠が、あちらこちらと残っている状態で、空き地になった所に自家用の野菜などを作っているぐらいでした。
 そういう中で生まれ育った若者が、演習地反対運動で大活躍しました。
 その背景のひとつに、軽井沢独特の歴史があります。さびれた宿場でけなげに生きている人の姿を見て、言い知れぬ哀れをもよおした文人墨客が大勢やって来るようになりました。彼らは旅籠として唯一つ残っていた脇本陣の油屋に泊まるようになり、若者たちに多大な影響を及ぼすようになったのです。その中には芥川龍之介や高浜虚子、若山牧水などもいたでしょうか?北原白秋の"落葉松"という詩は追分の山野を散策した時に生まれたのではないか、と私には思われます。
 追分をこよなく愛した文人たちの中に堀辰雄さんがいたことが、その後の追分に大きな影響を残したと思います。堀先生は大正の終わり頃、芥川龍之介と追分に来たのが初めでした。その後ちょいちょい油屋で夏を過ごし、また、冬にも訪れ、やがて終のすみかもつくるようになりました。その友達もやって来て、別荘ではなく一年通して住む家をつくるようになりました。その中に我らが橋本福夫先生がいたのです。
 橋本先生はアメリカ文学が専門で、翻訳など少しやっていましたが、終戦になる二年前(一九四三年)、追分の分去れ近くに茅葺き屋根の家と少しの畑を買い、晴耕雨読の生活を始めました。当初は電気のないランプ生活だったそうで。小説家の福永武彦さんや北欧文学の山室静先生は、既に油屋の裏のほうに別荘をもっていました。少し離れた所には加藤周一さんの別荘もあり、その人たちが集まると「今度の戦争は日本の惨めな負けになるだろう」とか、「これからは次世代を担う青年を養成しなきゃあ」などの話が出たそうです。
 とにかく橋本先生は、農業などしたことがないので、農家の人に教えてもらったりしているうちに、村人と仲良くなりました。その農家が小林巻造さんでした。ところが今度は、その「巻さん」に頼まれて追分の区長をやったり開懇組合の組合長をやったり、人のいい橋本先生は何でも引き受けてくれました。我らの「高原塾」の塾長も引き受けてくれたことで、私たちにとって忘れられない恩師になったのです。

 とうとう長い長い戦争が終わりました。満州事変から十五年、国民をだました侵略戦争はアジアの人々に多大な損害を与え、自らも原子爆弾の洗礼を受けて無条件降伏したのです。戦時中は、お年寄りと女子供ばかりだった所へ戦地から若者が戻って来ました。彼らはもはや殺すことも殺されることもなくなり、上官から死ぬほど殴られることもなくなり、解放感で朗らかになりましたが、就職する職場はありません。食料事情は回復せず、農家でも米が十分に食べられなかったので、上州(群馬県)へサツマイモの買い出しに行ったり、ヤミ屋という非合法の商売に手を出して、ゆとりのある農家から米を買い集め、都会で高く売って大もうけする人もありました。焼け野原になった東京などから疎開して来た人たちも大勢いて、農村と言えども大変な食料難だったのです。
 村は組合を作って開塾を奨励しました。“増反組合”と言って、主に国有林を払い下げてもらって開塾したのです。組合長を引き受けてくれた橋本先生は営林署や県とも交渉してくれました。三石開拓団の人たちとは開拓という点で共通していましたので、秋には一緒にソバなどを打って、収穫祝いで一杯飲んだりしました。
 冬は、失業対策に営林署が考えた国有林の藪切りや枝打ちの仕事をしました。数年経って戦後復興も進み、景気も少し良くなってくると、復員兵だった人たちは実家の世話にもなり切れないと、ぽつぽつ都会に出て行くようになり、残された私たちが演習地反対運動の中核になったのです。

高原塾のこと
 いつの間にか若者の心の中に「未来は自分たちで切り開かなければ」「大人の言うことを聞いているだけではだめだ」という気概というか情熱が、ひたひたと染み込むように、沸き出すようになってきました。初めは「自分の伴侶は自分で見つけよう」などという、幼稚な反封建の運動でしたが、やがて政治問題にも関心をよせ、寄ると触ると議論するようになりました。そんな時、その手助けをしてくれたのが堀辰雄先生のお友達の先生方でした。
 追分の区長をやっていた橋本福夫先生のところへ、北欧文学の山室静先生がやって来て、「これからは若者を養成しなければだめだ」と言ったのが始まりのようで、先生方は最初、島崎藤村の小諸義塾にちなんで小諸で”高原学舎”というのを始めたのですが、資金が続かず三年ぐらいで破たんしました。その時、我が親友の小川貢君が「追分でやってもらえないか」と頼んだのです。彼はその”高原学舎”に小諸まで通っていたのでした。
 なんとも虫のいい話です。週に一度、夜に寺の小部屋か小学校の教室で開く塾は、学費なし、講師は無償。こんなとんでもないことを橋本先生は引き受けてくれたのです。さあ大変!小川君からの連絡で、追分では久能君、借宿は水沢・林田・土屋善夫君などが駆け回り、二十人ぐらいの人数になりました。昭和二十三(一九四八)年の夏でした。私たちは当時十七歳でした。
 塾は毎週水曜日、教室はその時々都合のつく人が交渉して決めることにしたらしく、ずいぶんと小川君には世話になりました。小川貢君は追分の脇本陣・油屋旅館の一人息子で私とは無二の親友でした。橋本先生を塾長に据えたとはいえ、実質的には小川君が塾長だったのです。先生は橋本先生のほかに、福島要一先生・片山(徹)先生(地質学)・阿部先生(獣医)・木內謙一先生(農業)・佐々木基一先生(文芸評論家)・山室靜先生・福永武彦先生などなど。橋本先生の人脈は驚きで、高原塾の講義に、夏に追分にやってくる学者先生を片っ端から引っ張り出してくれました。その中に、東大総長を務められた矢内原忠雄先生やそのご子息の矢内原伊作先生などにも、無償で講義をしてもらい、恐れ多いことでした。
 高原塾は自分たちが講義してもらうだけでなく、先生方にお願いして、村人を集めた講演会などもしたようですし、先生の都合のつかないこともあって、レコードを聴く会などもしたようです。
 橋本先生は「何事も疑ってかかれ」「新聞を読む時は小さな見出しの記事に注意」などと、普段注意すべきことを教え、また、アメリカフロンティアの話もされました。福島先生は社会問題などを多く話され、終わってから色々と議論したことが思い出されます。特に教育方針はなく、その時その時、先生が「今日はこんなことを話そう」と考えてきたことを講義されたのでしょうが、「これからの未来を託すことのできる若者を育てよう」という大方針がありました。それが私たちに伝わり、逆に「未来は自分たちで切り開かなければ」という若者の情熱が先生方に伝わり、うまくマッチしたのでしょうか。
 片山先生は内村鑑三先生の影響を受けた敬度なクリスチャンで、キリストの生い立ちや、聖書に出てくる言葉などを説明してくれました。政治の話もされて、戦争の罪悪、破防法反対の話など、非常に感銘を受けました。塾で講義していただいた回数は、片山先生が一番多かったと記憶しています。塾は三年近く続きました。御恩は決して忘れません。
(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)

軽井沢を

 満蒙開拓団

浅間山のすそ野、標高千メートル附近、追分に隣接した三石・大日向地区には元満蒙開拓団の人々が入植し、集落を作っていました。その集落から数百メートルのところが接収されて演習地にされようとしたのでした。

◇   ◇   ◇   ◇
 ……その時から開拓団の死の逃避行が始まったのです。昼間はコーリャン畑に隠れて夜だけ移動する。何ヶ月もかかってやっと引き揚げ船にたどり着き、日本に帰って来たのですが、それからもまた大変でした。元の村に帰ることはできず、引揚援護局と相談して入植地が決まるまでに、かなりの時間がかかりました。
 軽井沢に入植した三石・大日向開拓団の人たちも、戦争のとんでもない犠牲者だったのです。三石開拓団の人たちは入植地が南の方だったので終戦の次の年に追分の三石地区にたどり着きましたが、大日向の人たちは黒龍江省に近い北部だったので、借宿部落の北方一キロの地点に入植を果たすまでには二年かかりました。
 昼間、コーリャン畑に隠れている時に乳飲み子が泣いて、見つかるのを恐れて、母親がおんぶしていたひもでわが子を絞め殺すのを見てしまった人が大日向にいました。「ずーっと長い間、誰にも話せなかった」と、後年になって、関東軍に捨てられての逃避行の悲惨な体験を話してくれました。
 こんな苦労をして入植し、ようやく生活の目処が立ち始めた時、目の前が米軍の演習地に接収されたら、今度は何処へ行けというのでしょう。「絶対に負けられない、負けるわけにはいかない」という堅い覚悟が、開拓者たちの胸に宿ったことは間違いないと思われます。
(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)

彫像

問題の起こる前年、軽井沢町長は外務省国際協力局長に陳情していました。それは軽井沢を米駐留軍駐屯地として指定するよう懇願する内容でした。
荒井輝充さんはこの陳情書と、その後の反対運動が、町の歴史に大いに関係があったと述べて、軽井沢の歴史について書いています。

◇   ◇   ◇   ◇
 軽井沢町を東西に貫く国道十号線(現在十八号)は、旧中山道と呼ばれ、江戸時代は五街道の一つでしたが、町内には追分・沓掛・軽井沢という三つの宿場があり、浅間三宿などと呼ばれていて、それぞれに飯盛女を置いた旅籠が並び、旅人をもてなしたそうです。中でも追分宿は北国街道との分岐点に当たり、越後からは北前船で運ばれた北海道や越前からの珍品、中山道は名古屋や江戸からの珍品と、様々な物品が集まり、それらの取引がおこなわれていました。商売が成立すると芸子をあげて宴会となります。その頃が最も繁盛したようでした。
 幕府は遊郭(吉原)だけを黙認して、他の宿場女郎は厳しく取り締まったようですが、水のみ百姓など、貧乏人をなくすことができない以上、法の網の目をくぐった「めしもり女」を減らすことはできなかったのです。
 もっとも、すべての旅籠があこぎな商売をしていたわけでもなく、可愛いがって育てた家もあり、人気の上がった芸子は吉原に転身させたり、逆に吉原で売れなくなった彼女らを受け入れることもあったようで、追分の諏訪神社には遊郭吉原から寄進された神興が奉納されていました。
 この歴史が、町長一派を演習地誘致の陳情に向かわせたのだと思います。ほかには考えられません。

  浅間根腰の 焼け野の中で
  あやめ咲くとは しおらしや

  浅間山さん なぜ焼けしゃんす
  すそに三宿 もちながら

 追分節に謡われたように、浅間山から吹き出された小石まじりの砂地は農業には適さず、旅人の置いていくお金が唯一の収入源だった頃、めしもり女は重要な役割を果たしたのです。江戸時代の栄えた頃には追分だけでも茶屋・旅籠だけで九十戸を数え、それらに抱えられためしもり女は二百人から三百人などという記録があるそうです。これらは昭和初期、追分小学校の校長を務められた岩井博重先生の著された『江戸時代東信濃宿村の歴史」という本に詳しく紹介されています。

 とにかく江戸時代の軽井沢は、中山道・浅間三宿によって成り立ち、追分の隣の借宿、そのまた隣の古宿などの部落は「助郷」などと呼ばれて、参勤交代の大名行列が通る時など、人馬・人足などに駆り出されたものと思われますが、江戸の末期、皇女和宮の東下りの頃を最後にさびれはじめ、明治・大正と進むにつれて次第に宿場は成り立たなくなっていきました。明治二十六年、信越線に汽車が走るようになったのが決定的でした。中でも追分は最もひどく、借金で首の回らなくなった一家が、夜中にこっそりと家を捨てて逃げ出す、いわゆる夜逃げが続出しました。住む人のいなくなった家の傷みは早く、寒い冬の真夜中に、雪の重みでつぶれる家が出るようになりました。「どどーん、と大きな音と地響きで、そりゃーこわかったよ」と、最後まで旅籠として残った脇本陣の主人、小川誠一郎さんが話してくれたことがあります。(荒井輝充「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)

追分

(5)
一九五二年四月
そして 遂に
わたしたちが忘れることができない
その日がきた
あの燃えるような反対のどよめきのなか
わたしら大多数国民のねがいと意志を切り裂いて
一部少数の支配者によって取引された
あの屈辱ににえたぎる植民地承認条約
サンフランシスコ条約
猿芝居
日本の独立
資本主義の防波堤計画設計図 日本
それは朝鮮侵略戦争の
当然の敗色を補うための 基地化の設計
彼等の基地 日本
日本の土地に着々と巧妙にすすめられていった
彼らの計画
まず 日本民衆の比較的眼にたちやすい
ビルやホテルの接収を解除し
進駐軍専用列車を削減し
そうしながら彼らは
背後へ黒い手をのばし
ひそかに吉田政府とめくばせし
あらゆるところ 土地に作りあげた基地
演習地
その疥癬のようにふきでた基地
その数七三三箇所
奪われていく家
おかされていく娘
ふえていくパンパン
二十数万のパンパン
三十数万の混血児
つぶされていく畠
だめになっていくあぜ道
あらされていく収穫
くすぶる山林
とざされていく渚

(つづく)

(『呼子』10号 1953年7月)

ヤシ

(4)
わたしたちの絶えざる噴煙。
わたしたちの浅間。
わたしたちのふるさと。
わたしたちの歴史。
わたしたちの祖国。
永遠に燃える浅間には
いかりとかなしみ よろこびとなげきを
わたしたちの祖先が そして今日まで
日々祈りこめて。

戦争にやぶれ
軽井沢の別荘地帯の人々は入れ替わった。
訪れるものは政治家や大闇商人 そして
国際観光の名に眼をつけたアメリカ軍だった。
彼等は平和を唱え 民主主義をかたり
飢えて傷ついた民衆に
少しのとうもろこしとキューバ糖を与えながら
次々と日本の焼け残った主要地や美しい観光地の
それも設備の整ったビルやホテルを接収していった。
日本ファシズムを倒してくれたのだから
日本は負けたのだから
仕方の無いことだ事だと 民衆はあきらめの眼をとじた。
やがて軽井沢には
アメリカ高級軍人とその家族達が
からまつ林のなかで楽しそうに群れ
むき出しの肉体を陽にかがやかせ
接収された万平ホテル、ニューグランドホテルの玄関には
東京から走らせてきた色とりどりの自動車が満ち
日本の土地でありながら 日本人立入禁止の立て札を貼り
それらのホテルに使用される六〇〇の日本人要員は
他に働く場所のないまま
唇を噛んで働くより仕方なかった。
町はすべてアメリカのどこかのようであり
昔から軽井沢に住む外国人達さえ
彼等の専横に ひそかに眉をひそめていた。

(つづく)

(執筆 青山伸、岡沢光忠、小熊忠二、斉藤政雄、南出好子、中村武 『呼子』10号 1953年7月)

浅間

(3)

わたしたちの絶えざる噴煙。
わたしたちの浅間。
わたしたちのふるさと。
わたしたちの歴史。
わたしたちの祖国。
永遠にもえる浅間には
いかりとかなしみ よろこびとなげきを
わたしたちの祖先が そして今日まで
日々祈りこめて。

窓の外は吹雪とファシズムが荒れ狂っていた。
一九四〇年の第二次大戦下
焼けただれた都会の戦禍から
ファシズムの黒い手先から
のがれ得た老作家や詩人 画家たちは
浅間の麓 国際観光避暑地軽井沢の
いたみはてた別荘地帯にかくれ
沈黙さえ許されない言論弾圧の中
人々は冷えた暖炉の前で 手をさすりさすり
ガラス戸を叩く吹雪をきき
ガラス戸を叩く爆撃機に耳をひそませ
彼等は語り合った。

彼等は語り合った。
日本ファシズム末期の行方を
年月を重ねるに従い 敗戦の焦燥に狂暴をもってし
女や子供 学生さえ動員し
日の丸鉢巻の中にヒロイズムを植えつけ
都市には焼死体が散乱し 硝煙くすぶり
人手の無い田畠には雑草がはびこり
民衆の放心した中に勝利のデマを吹きこんだ。
そしてなお
疎開できない詩人作家を徴用し
或は無理にファシズムを謳歌させ
反対するものを牢獄につなぎ
或はひそかに獄死させた事実を
仲間だけの
暖炉の前だけの
ひそかな怒りに瞳をガラス戸に燃やして
彼等は語り合った

それらの現実の苦難から
退くことが出来た孤独者達にさえ
日本ファシズムの忠実な手先は
監視の眼をゆるめなかった。
芸術を論じただけで
軽井沢警察署へ呼びつけられ
老外国人と立話をしただけで
憲兵隊につけこまれ
思想をききただし 執筆中止を云いわたし
ファシズムの隷を強いた。
だが彼等孤独者達は
怒りを額の奥にきざみこんで
浅間の如く沈黙した。
吹雪の止む日を待っていた。
からまつの再び色づく日をひそかに指折っていた。

だがその日 遂にやって来た。
日本ファシズムの倒れる日が
一九四五年八月十五日
その日 日本の空はあくまで晴れ渡り
真夏の激しい陽光の下
日本ファシズムは解けはてた。
放心の静けさの中で
空白の瞳の中で
荒れはてた山河 燃えつきた家がくずれていた。
ミズリー号で署名がおこなわれ
広島 長崎の原爆虐殺にほうかむりし
平和と民主主義を配給して行った。
民衆は初めて知った日本ファシズムの真相に驚き、
永久に軍備の放棄を憲法にちかい 世界に宣言した。
(つづく)

(『呼子』10号 1953年7月)

浅間山



此の頃 諸国に飢饉があり 疫病流行し
とりわけ火山灰に田畠を焼かれ
山野に草木の芽も枯れて
緑の影は何処にもない
浅間山麓一帯の農民の貧窮甚しく
城主に再度の救助請願にも空しかった。

真夏の陽光に焼ける火山灰道路に
消失して藁が無く はだしのままの農民たちの
空腹に倒れるもの次第に数をまして
秋に入るも遂に一粒も実らず
このままでは死を待つだけだとさとった。
上野国磯部村の農民約二七〇人は
妻や子が 夜更けの暗い土間で
祈りをこめて とぼしい藁で編んだ
むしろを旗に
祖父の涙 父の汗のしみこんだ
スキ クワを手に
最後に残った米を竹筒にこめ
子の寝顔に別れを告げ
妻の渡すお守袋と不安の表情には
笑みをかえし
天明三年九月二十四日未明を期し
ひそかに鎮守の森に集った。

東の峯がほのかに明るさをとりもどし
浅間さまの煙が見えはじめた時
寝静まる横川の関所を一気につきやぶり
碓氷峠を越えた時 あれはてた村々が
朝もやにおおわれた明るさの中で
息苦しく呼吸するのが見下ろせ
新しい怒声を叫び 仲間を呼び合い
軽井沢に乱入した。
まず穀物商 地主 庄屋の倉戸をたたきわり
怨嗟の的であり
火山弾にさえあけられなかった厚い白壁をくずし
農民達から かすめとり しぼりとった米を
痩せ細った農民 町民にわけあたえた。

その時すでに地元の農民も加わり
同勢五〇〇人
余勢をかって岩村田 志賀の村になだれ入り
幕府の穀倉を開放した時は
三〇〇〇の怒れる農民の集団となり
浅間の麓をめぐる
固い土にとぎすまされたスキ クワの
刃先の列はすすきのように陽に映え
むしろ旗は風にふるえ
小諸の城をめざして進撃した。

男も女も子供も
あまりにも大きくふくれあがった農民のかたまりに
城では消極的作戦をねり
手向かえば飛び道具にて打ち取るべしと
大筒 火矢を浅間の方向にかまえていた。
応戦の準備全くなり
農具ではかなわずと知った農民は
小諸附近の豪農 豪商の倉から米をうばいかえし
喚声をあげてひきかえした。

やがて天明の大騒動が静まり
人々の団結のゆるんだ隙をみて
捕吏達は村落の軒下から路地 田んぼの中へ
首謀者と判定する農民十二人を捕え
農民達のみせしめに
千曲川の岸で首を切りおとし
浅間に向けてさらし首にした。
だが ある雨と風の夜
十二の首はいつのまにか持ち去られ
そこには わらじの跡が乱れていた。
(つづく)

(『呼子』10号 1953年7月)

浅間


 長篇詩 怒る浅間山

  執筆者 青山伸、岡沢光忠、小熊忠二、斉藤政雄、南出好子、中村武

わたしたちの絶えざる噴炎。
わたしたちの浅間。
わたしたちの歴史。
わたしたちの祖国。
永遠にもえる浅間には
いかりとかなしみ よろこびとなげきを
わたしたちの祖先が そして今日まで
日々祈りこめて

浅間の麓、碓氷峠を越えて
江戸に通ずる仲仙道。
加賀百万石の城主が駕籠に揺られ
一茶が浅間の煙に俳句を筆にし
江戸と信越北陸を結ぶ街道の難所
ひとびとの重い足どりを火山灰にしるしたところ。

天明三年七月八日の晴れた空に
その日 浅間は入道雲を背負い
ひときわ噴煙を中天に吹きあげ
麓に住む村人が不安のまなざしを
空に向けていた午前十時過
突然 人々の耳をつんざき
大地をふるわせ
怒る火柱を天につきたて
熔岩、熱泥を吐きだした

その頃 浅間の北麓六里ヶ原は
いくかかえもある十数丈の原始林におおわれ
里人はここを「梛(なぎ)の御林」と呼んでいたが
北川銚子口より流れ出る
大熔石龍になぎ倒され 埋没し
いまの「鬼押出し」の草木のない
当時の地獄図を想像させる奇観を作った

わけてもの悲劇は
噴出せる熱泥の大流に衝撃を直接かぶった
吾妻郡鎌原村の全村五九七人の中
四六六人の焼死者を一度に出し
親子兄弟を呼び合いのがれるいとまもなく
全村土石の下に隠れてしまった

やがて熱泥の奔流は北上州方面に崩落し
吾妻川に押出して利根川にそそぎこみ
関東一円の流域の村落を蕩尽して
死者一、一五一人
死傷者総計二〇、〇〇〇余
流失家屋一、〇六一戸
火山灰は関東信濃の田畠を枯らし
軽井沢 坂本の如きは
数尺に及ぶ落石と降灰に
家屋は殆ど焼失し
江戸においてすら太陽はかすみ 夕暮れの如く
遠く尾張 銚子方面までも降灰した。
(つづく)

(『呼子』10号 1953年7月)

 一九五三年、浅間山米軍演習地化反対運動という長野県内を揺るがす大闘争がありました。
 一九五一年に調印された日米安全保障条約が根源となり日本中に米軍の基地や演習地が作られました。浅間山は朝鮮戦争における山岳戦で苦しんだ米軍が山岳戦の演習最適地として選んだと言われます。県内の政党・労組・農民組合・教育団体・婦人団体・青年団などが反対に立ち上がり、県民の団結によって演習地化を阻み、「二百万人の勝利」とよばれました。
 長野の詩人たちは集団で長篇詩を書きました。「小熊忠二は軽井沢の軍事基地反対運動のデモに直接参加し、現地の生々しい動きを、身をもってさぐり、又、呼子の詩人以外に、この運動に加った農民や商人、労組の人々の声をとりいれ、記録と詩を結びつけ、実験的だが、行動の詩とも言えた。会員六名が、それぞれの項目を分担し、千八百行に及ぶ長篇詩「怒る浅間山」を発表し、大きな反響を呼んだ。」(青山伸「戦後・長野県詩人の活動─北信地方」『長野県年刊詩集一九六〇』)


呼子


大島博光記念館ニュース38号」でふれた浅間山米軍演習地反対闘争について、当時、青年団の一員として闘争に参加した荒井輝充さんが執筆し、本にしていました。(2014年、ウインかもがわ) 
運動を担った青年たちや指導した人びとの姿、当時の軽井沢の状況(入植していた満蒙開拓団の人たち、青年たちを教育した文化人など)がわかり、興味深いです。

「はじめに」でこの本の目的をのべています。

 当時のことを記録した本は二冊あるだけです。反対組織の委員長を務めた田部井健次先生の『軽井沢を守った人々』(1981年)と、県の反対期成同盟でまとめた『二百万人の勝利』(1953年)です。ここには運動の中核になって活躍した開拓者や青年、婦人、村の人たちなどがどんな様子だったのかは、あまり出てきません。この二冊だけでは浅間闘争の真の姿が見えてこない……。
 この本は、反対運動の中核となって活躍した青年たちの立場から書いたものです。誰から命令されたのでも頼まれたのでもない、名もなき若者たちの情熱が、浅間山演習地化をくい止め、米軍から軽井沢を守る偉大な勝利を勝ち取ったことを、ぜひ多くの人に分かってもらいたいのです。
 当時日本には六百以上の米軍基地があり、各地で反対運動が展開されていましたが、成功した所はほとんどなく、浅間山ほど見事に勝利した例はありません。ずいぶん昔の話ですが、いまだに基地問題は日本中でくすぶっていて、特に沖縄では米軍基地移設が大問題になっています。各地の基地反対闘争、何かそのヒントになることでも見つかり、お役に立つことができれば幸いです。(「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」)

浅間山闘争