パブロ・ネルーダ Pablo Neruda

ここでは、「パブロ・ネルーダ Pablo Neruda」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


スライド構成「詩人パブロ・ネルーダの生涯」より「スペイン戦争」


ナレーション 阿部百合子 1974年7月17日 ネルーダ生誕70周年記念チリ人民連帯の夕にて

 ……
 ネルーダはこの時代を回想してこう書いた。
「わたしはマドリードで、生涯のもっとも重大な時期をすごした。われわれはみな、ファシズムにたいする偉大なレジスタンスに魅(ひ)きつけられていた。それがスペイン戦争だった。
 この体験は、わたしにとって何か体験以上のものであった。スペイン戦争の前、わたしは多くの共和派の詩人たちを知っていた。共和国は、スペインにおける文化、文学、芸術のルネッサンスであった。フェデリーコ・ガルシーア・ロルカは、このスペイン史上もっとも輝かしい政治的世代の象徴であった。これらの人間を物理的に破壊するということは、わたしにとって怖るべきドラマであった。こうしてわたしの古い生活はマドリードで終わった……」
(『ネルーダ最後の詩集』解説)

スペイン戦争
 帰国

 スペイン人民戦線を支援したという理由で、ネルーダを領事から解任したチリ政府は、一年後の選挙の結果、チリ人民戦線公認候補アギレ・セルダが大統領となる。新しい政府はスペイン人民戦線の亡命者たちをチリに受け入れることを決定し、その任務をネルーダに託した。かれは数千人の亡命者を乗船させ、一九三九年の終り、フランス船「ウィニペッグ」号でチリに到着する。ネルーダも帰国する。のちにかれはつぎのような詩を書く。

   恐らくそのときだわたしが変ったのは

  わたしは祖国に帰ってきた 戦争が
  わたしの眼の下に入れた
  ちがった眼をもって
  ほかの人びとの涙と血にまみれた戦火のなかで
  焼かれた ちがった眼をもって
  そしてわたしは この世の仕組の厳しい奥底を
  さらに深く さらに遠く見つめ見とどけようとした
  ……
  とつぜん さまざまのアメリカの旗が
  わたしの眼に見せつけた
  国ぐにのありのままの領土を
  畑や路上の貧乏な人びとを
  おびえた農民や死んだインディオたちを
  それから 銅や石炭の出る鉱山の
  地獄のような巨大な坑道を
  しかし もろもろの共和国の内部では
  それがすべてではなかった
  上の方には 大仰にも
  尊大にふんぞり返った冷酷な男が
  犠牲者たちの血に汚れた
  たくさんの勲章を胸に飾っていた
  また上流のクラブの紳士どもは
  優雅な暮らしの羽根のなかを
  もの思わしげに往き来していた
  その一方 しがない哀れな天使や
  つぎはぎだらけのぼろを着た哀れな男は
  石から石へと歩いてきたし いまもまだ
  裸足で 空きっ腹をかかえて歩いているのだ
  彼はどうしたら生き残れるのか だれも知らない   (『イスラ・ネグラの思い出』)

(この章おわり)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

ジーンズ

 「ロルカの思い出」

 一九三六年秋、このようなネルーダのスペイン人民戦線への支援活動はチリ政府の忌諱(きい)にふれて、かれは外交官の職務から解任される。かれはパリに出て、アラゴンとともにスペイン人民支援の「文化擁護国際作家会議」の準備に奔走する。またパリでひらかれたスペイン人民戦線支援集会に出席して、スペインの状況を訴える。「フェデリコ・ガルシア・ロルカの思い出」もそのひとつである。

 「フェデリコ・ガルシア・ロルカ……かれはギターのように大衆的だった。子どものように、民衆のように、陽気で、淋しがりやで、奥ぶかくて、明るかった。ひとつの象徴を犠牲(いけにえ)に供するために、誰を犠牲にしたらいいか。国の隅から隅へ、一歩一歩、苦労を重ねて探しまわったとしても、どんな存在、どんな対象のうちにも、ここに選ばれた者のうちにおけるほどに、潑剌深奥なるスペイン人民の魂をみつけだすことはできなかったろう。かれらはまさにかれを選びだし、かれを銃殺しながら、かれの民族の心そのものを狙い撃とうとしたのだ。スペインを屈服させ、拷問にかけるため、かれらはスペインのもっともかぐわしい香りを吹き散らし、スペインのもっとも熱烈な息吹きをおしつぶし、スペインのもっとも不滅な笑いを断ち切る道を選んだ。かれの死とともに、人びとはけっして相容れることのない二つのスペインをまざまざと見た。ひづめの割れた、悪魔の足をした、蒼黒いスペイン、呪われた地下のスペイン、大罪を犯した王党派と聖職者たちの、十字架につけられるべき有毒なスペイン──それにたいして、誇りに輝く潑剌としたスペイン、精神のスペイン、直観と伝統継承と発見のスペイン、フェデリコ・ガルシア・ロルカのスペイン……」

 スペイン市民戦争は人民戦線側の敗北におわり、フランスに退避した数千人の兵士・亡命者たちは、反動勢力に屈服したフランスのダラディエ政府によって虐待される。そのなかに大詩人アントニオ・マチャードもいた。かれは国境を越えてすぐの仏領コリウールで息をひきとり、そこに葬られた。
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

坐像


 『心のなかのスペイン』において、ネルーダは政治詩の修業をする。政治詩は、スローガンや空疎なきまり文句の反対で、極限の暗喩や風刺を必要とする。それは人民のために、人民によって、人民とともに書かれる詩である。
 一九三八年、バルセロナ戦線の人民戦線兵士たちは自分たちで紙をつくり、活字を組んで、詩集『心のなかのスペイン』を刊行した。それは、この詩集がいかに兵士たちに愛誦されていたかを物語っている。

 詩集『心のなかのスペイン』は、ピカソの「ゲルニカ」、エリュアールの「一九六六年十一月」「ゲルニカの勝利」などと並んで、抵抗芸術の模範として位置づけられよう。じっさい、スペイン戦争につづいて勃発する第二次大戦のなかから湧きあがる、フランス・レジスタンスの詩にたいして、『心のなかのスペイン』は先駆的な模範として深い影響をあたえることになる。この詩集はただちにルイ・パロとアラゴンの共訳によって仏訳され、その序文にアラゴンは書く。
 「……このすばらしい言葉にもっとも気高い運命をあたえるのは、生の役割だった。そして霊感の創造的な炎が、これらアメリカの紅玉(ルビー)を磨きあげ、つくりあげたのは、赤あかと燃えあがった戦火のためにほかならなかった。戦火のなかで、詩の宝石は血の滴(したた)りに変わった。生はパプロ・ネルーダと詩をみちびいて、詩そのものが永遠に失われ、詩人そのものが死んでゆくような光景の前に置いた。そのとき奇蹟がおこった。
 その奇蹟とはこうだ──パプロ・ネルーダは、あのいつもと変わらぬ同じ声で、あの同じ静かな言葉で、戦火のうえ高く、市民戦争のさなかから、あのすばらしい、もろくさえ見える、彼独特の声を鳴りひびかせたのだ。ひとびとは結局、かれのその言葉を、肉と血をもつ人間の言葉そのものとして認めて、驚嘆したのである」
 ネルーダは、「禿鷹が飛ぶとき鴬は沈黙する」(アラゴン)という伝説をうち破って、禿鷹のとぶ地獄のなかから声をあげたのである。
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

夏

鈴木瑞穂朗読による「そのわけを話そう」


1974年7月17日、ネルーダ生誕70周年記念チリ人民連帯の夕にて上演されたスライド構成「詩人パブロ・ネルーダの生涯」より

  悪党どもは飛行機にのり モール人たちを連れ
  悪党どもは指環をはめ 公爵夫人たちを連れ
  悪党どもは祝福をたれる黒衣の坊主どもを従え
  悪党どもは空の高みからやってきて 子供たちを殺した
  街じゅうに子供たちの血が
  子供の血として素朴に流れた

  きみたちは尋ねる──なぜわたしの詩が
  夢や木の葉をうたわないのか
  故国の大きな火山をうたわないのかと

  来て見てくれ 街街に流れてる血を!
  来て見てくれ 街街に流れてる血を!
  来て見てくれ 街街に流れてるこの血を!!

わし

 「そのわけを話そう」

 ファシズムの暴虐をまのあたりに見て、ネルーダが最初のヒュマニスムの声、怒りの声をあげる。それが有名な「そのわけを話そう」という詩である。

  きみたちは尋ねる──リラの花はどこにある?
  ひなげしに蔽われた形面上学は?
  そして空白と鳥たちにみちみちた
  言葉の雨は どこにある?
  わたしは何が起きたか それを話そう
  ……
  兄弟よ
  市場の広場には 塩が積まれ
  焼きたてのパンの山があり
  屋台には 魚がならび
  ……
  ある朝 大地からまっ赤な火が吹き出し
  ひとびとをなめつくした
  そのときから 戦火が燃えあがり
  そのときから 血が流れた
  悪党どもは飛行機にのりモール人をひき連れ
  悪党どもは指環をはめ 公爵夫人たちを連れ
  悪党どもは祝福をたれる黒衣の坊主どもを従え
  悪党どもは空からやってきて子供たちを殺した
  子供の血が街じゅうに
  子供の血として流れた
  ……
  きみたちは尋ねる──なぜわたしの詩が
  夢や木の葉をうたわないのか
  故国の火山をうたわないのかと

  来て見てくれ 街街に流れる血を
  来て見てくれ 街街に流れてるこの血を!    (『心のなかのスペイン』)

 ネルーダは初めて状況の詩を書く。「ひなげしに蔽われた形面上学」の詩のかわりに、戦火に焼かれる家を──街に流れる血を書く。かれは説明し、「兄弟たち」と呼びかける。詩のなかで対話を始める。かれは生ける現実のスペインを描くために、日常のスペイン──家、街、市場を、抑制のきいた詩句で描く。戦争が人間を殺しているとき、詩もまた安閑としてはいられない。「故国の火山」を歌っているときではない。では、この連帯の新しい詩はどのようにして成り立つのか。「ゲルニカ」におけるピカソのように、ネルーダもまたファシズムの暴力をあばき、告発する。彼は廃墟を調べ、その詳細な目録をつくりあげる。悲劇を世界に告げ知らせるだけでは充分ではない。ファシズムという敵にたいする憎しみを叫ばなければならない。こうして叫びは呪詛となり、激昂へと高まる。

  山犬にさえ侮蔑される この山犬ども!
  のどの渇いたあざみさえ
  噛みついてもつばを吐きかける この石ども
  蝮(まむし)にさえ嫌われる この蝮ども!   (「そのわけを話そう」)
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

夕焼け


 一九三六年九月四日付の、「反ファシズム知識人同盟の機関誌「エル・モノ・アスル」(菜っぱ服)五月号に、「死んだ義勇兵の母親たちにささげる歌」という詩が掲載され、「この詩はある大詩人の筆になるものであるが、本誌編集部は現時点ではその名前を明らかにしない方がいいと考える」という注が書き添えられていた。むろんそれは、そのときマドリード駐在チリ総領事パブロ・ネルーダにほかならない。外交官の立場上、その名前を公表することがはばかられたのだ。このすばらしい詩は恐らくスペインの悲劇について外国の詩人が書いた最初のものであった。

  彼らは死にはしない 彼らは硝煙のただなかに
  すっくと 立っている
  燃える蠟燭の芯のように

  お母さんがた 彼らは麦畑の中に立っている
  深い正午のように高く
  ひろい野っぱらを見おろして

  彼らは 音も陰陰と鳴りひびく鐘だ
  殺された鋼(はがね)の身をとおして
  勝利を告げるのだ
  ……
  悲しみと死に心もひき裂かれたお母さんがた
  ご覧なさい 大地からあなたがたの死者たちが微笑みかけ
  その拳(こぶし)を表畑のうえに振り上げているのを  (『地上の住みか』)

(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

鳩と


 スペイン戦争

 一九三六年七月一七日、ヒットラーとムッソリーニに支援されたファシスト・フランコの反乱が、北アフリカ・スペイン領モロッコから始まり、ここに三三ヶ月にわたるスペイン市民戦争の幕がきっておとされる。早くも八月一八日には、親友のガルシア・ロルカがファシストの血祭りにあげられて、その故郷グラナダ郊外で虐殺される。ネルーダはすでに『フェデリコ・ガルシア・ロルカへのオード』を書いていた。

  元気で蝶のような若者よ
  いつも自由な黒い稲妻にも似た
  純粋な若者よ
  胸を割って話しあおう
  ありのままのきみを
  ありのままのぼくを
  もしも 詩が
  ひとをうるおす露となるためでないなら
  詩は なんの役にたつだろう?
  もしも むごい匕首(あいくち)がぼくらを探しまわっている
  この夜のために
  心臓をぶち抜かれた人間が死にかかっている
  この日のために この夕ぐれのために
  この崩れおちた片隅のために
  詩があるのでないなら
  …… 詩はなんの役にたつだろう?      (『地上の住みか』)

 この詩は一九三五年に書かれたものだが、まるでロルカの死を予感しているような書きぶりにも見える。
 純粋詩に反対し、詩を生活と現実のなかに据えようとしたネルーダの約束は、早くも現実に燃えさかる戦火のなかで果たされることになる。スペイン市民戦争は、生死を賭けたファシズムとの闘争をとおして、真実はどこにあるか、人類の未来と希望はだれの肩にかかっているかを、ネルーダにさし示した。それまで抽象的な理論であり、漢然とした感情であったところのものが、戦争によってはっきりとしたかたちをとり、詩人を飛躍的に前進させる。
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

\ロルカ
 『緑の馬』

 さて一九三五年、スペインの詩人たちのネルーダへの友情、信頼は、グループの詩誌『詩のための緑の馬』の編集をネルーダに委託することになる。そしてこの編集・主宰をとおして、──スペインの詩人たちとの交流をとおしてネルーダ自身が変ってゆく。純粋詩から非純粋詩への移行、個人主義から社会主義への移行が始まったのだ。ネルーダは非純粋詩の必然性を理解する。詩は行動・生活とむすびついている。したがって言葉の正確な意味で、永遠のための詩というものは存在しない。書くことは、書く人間の自我の全的な参加を要求する。ネルーダは『緑の馬』に書く。
「われわれの追求する詩は、酸にむしばまれたように手仕事ですりきれ、汗と煙りがしみこみ、小便と百合の匂いがし、法の内外で営まれるさまざまな職業のしみがついているような詩である。
 非純粋詩は、着物や肉体のように、食べもののしみ、恥ずかしげな身ぶり、皺、観察、夢、徹夜、愛の告白、憎しみの表明、野獣、動揺、恋歌、政治的信念、否定、懐疑、断定、負わされる物たち、などをもつ。」
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

千曲川


 ケヴェード

 このスペイン黄金世紀の呪われた詩人は、言うべきことはすべて言って、既成の秩序をおびやかし、時の政府の敵となり、こうして必然的に牢獄に投げこまれることになる。役人はかれを黙らせようとしたが、かれは依然として機智と風刺にみちた文体で語りつづけたのだ。かれは脅かされた葦ではあったが、やはり「歌う葦」だった。そこにこそ重要な発見がある。詩人が人民の顔をもち、人民のために歌うにつれ、その詩は権力にとって無害ではなくなるということである。
 ネルーダはケヴェードをとおしてスペインに深く根をおろした物理的な死を認識するにいたる。『死のソネット』の詩人ケヴェードほどに、死から多くの仮面をはぎとり、ありのままの死に面とむかったものはなかった。ネルーダはかれにみちびかれて、肉体が死んで塵(ちり)となる、その塵(ちり)の果てまでたどってゆく。だがたとえある日、肉体や血が塵となるにしても、それは「愛する塵」となるだろう。「おのれの死すべき構造そのものに依拠しながら、存在と物の最後の破滅にうち勝つのは、悪魔でもプロメテュースでもなく、また神の裁きにもとづいて罪人を殺す大天使でもなく、じつに人間という物体なのである。」──『死のソネット』をとおしてケヴェードが語っているのは、愛による復活であり、明るい生物学的な教訓であり、何よりも生きることへの教訓なのである。
 ネルーダはのちに、『マチュ・ピチュの高み』と『一○○のソネット』のなかで、死についての自分自身の考察と思索とファンタジーを追求し、表現することになる。
 また最後の詩集『ニクソンサイドのすすめとチリ革命の賛歌』(一九七三年)のなかで、ネルーダはケヴェードに想いを馳せている。

    海とケヴェードへの愛と

  イスラ・ネグラのわが家で わたしは読む
  海のなか わが愛誦する詩のなかに
  その波うち 脈うつ躍動のなかに

  荒海と 呪われた愛に きらめくものを
  おんなじひとつの詩の泡を──
  波が砕けて きらめく海

  そうしてケヴェードの愛と 不運を
  憂鬱な心で 読んでいるわたし
  きっと わたしの運命は ちがうだろう
  わたしの戦闘的な 戦士の心は わたしを
  人民政府の ゲリラへとみちびくだろう  (新日本文庫『ネルーダ最後の詩集』)

(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

イスラ・ネグラ



 スペイン共和国

 一九三一年四月、スペイン各地で行われた地方選挙の結果、共和制を支持した人民が決定的な勝利を収めた。こうしてブルボン王朝は崩壊して、共和制が宣言され、革命は流血をみることなく、平和のうちに行われ、ここにスペイン共和国が誕生したのだった。スペイン人民の、この偉大な夢の実現と希望とは、一九三四年にはまだ何ものにも脅かされていないかに見えた。自分が殉教者として、犠牲として狙われていることに、人民のスペインはまだ気がつかなかった。しかし国際的反動とファシストたちは、若い共和国の隙をうかがい、おのれの出番を待っていたのである。
 ネルーダを歓迎した若いスペインの詩人たちはみな共和国の支持者であり、共和国の誕生とともに花咲いたスペイン・ルネッサンスのにない手であった。
 ネルーダはまたスペインの古典的詩人たちを友人をとおして知ることになる。ゴンゴーラの『孤愁』を暗誦していたアルベルティはゴンゴーラをかれに教える。また友人のヴィセンテ・アレサンドレといっしょに、かれはペドロ・デ・エスピノーザを読み、ヴィラメディアナを読む。そして友人の詩人たちはみな、みずからゴンゴーラとケヴェードの弟子をもって任じていた。そこには、たんにスペイン詩の伝統的なつながりがあっただけでなく、生ける現実から出発した、絶えざる継承発展があった。過去の詩人たちが、こんにちの詩の創造生成に参与し、影響をあたえることをやめなかったのである。
 スペインの文学的遺産を発見したことによって、ネルーダはスペインの心に触れ、自分自身を再構築する。詩的技法をひきしめ、おのれの視野をひろげ、表現における厳密さの重要さを学びとる。その点で、フランシスコ・デ・ケヴェードとの出会いは決定的だった。かれはケヴェードを「あらゆる時代をとおしてもっとも機智にあふれた偉大な詩人」といって、ほめたたえている。スペインの心をもとめて旅ゆくネルーダにとって、ケヴェードは案内人の役割を演じる。
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

マドリードにて
ネルーダを中心にスペインの詩人たち。1936年マドリードにて

 心のなかのスペイン

 一九三四年五月、ネルーダは領事としてバルセロナに赴任し、翌年二月にはマドリードへ総領事として転任する。
 バルセロナに着いたとき、ネルーダは忘れていたスペインに上陸し、忘れていた言語上の母国スペインを発見することになる。
 「人生は、わたしをして世界のもっとも遠い国ぐにを遍歴させたのち、わたしの出発点となる地スペインへとわたしをみちびいた」(「ケヴェードへの心の旅」)
 一九三四年にスペインへ行くまで、スペインはネルーダの人生と詩には現われて来ない。欠落しているのだ。ネルーダは中学生の頃から、教師だったガブリエラ・ミストラルのおかげでロシア文学に親しみ、つねにスペイン文化ではなくヨーロッパ文化に傾倒してきた。彼はジュール・ヴェルヌ、ディドロ、アナトール・フランス、ストリンドべルグ、ゴーリキーを読む。彼は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の人物たちとともに苦しみ、心を痛め、ベルナルダン・ド・サン・ヒェルの『ポールとヴィルジニー』の愛について泣く……(『わたしの少年時代と詩』)
 初期の詩においても、彼はフランス語の詩人たちに傾倒しているだけでなく、そこから霊感をうけて、例えば「エレーヌへの新しいソネット」(ロンサール)にならった詩を書く。ネルーダはヴェルレーヌへは言及していないが、詩集『たそがれ』の言葉は、ヴュルレーヌの「艶なる宴」や「土星びとの詩」のそれにきわめて近い。こうして、『地上の住みか』の最初の二部まで、ネルーダの詩のなかには、スペインやスペイン詩の影響はほとんど見られない。『地上の住みか』のネルーダは、根もなく、支えもなく、生と死にとりまかれ、ただ絶えざる世界の動きの一員となることを受け入れている。しかも詩人の根強い個人主義は、民衆の声に耳を傾け、その闘争を理解することをさまたげていた。では、どのようにしてネルーダはスペインを発見し、スペインをおのれの出発点とすることができたのか。それはまずスペインの詩人たちの歓迎と友情のおかげであった。彼らはすでにネルーダを自分たちの仲間のひとりとして認めていた。一九二七年以来、マドリードの雑誌『エル・ソル』や『レ・ヴィスタ・デ・オクシデンテ』はネルーダの詩を掲載し、『地上の住みか』はすでにマドリードの詩人たちにひろく知られていた。数年前からネルーダと文通していたラファエル・アルベルティが詩集を手に入れていて、彼らに読んできかせていたからである。こうしてスペインの若い詩人たち、ロルカ、アルヴェルティ、セルヌーダ、サリナス、ミゲル・エルナンデス、マノロ・アルトラギーレなどの詩人たちがネルーダを歓迎し、ネルーダをとりまいてカフェーで、あるいは酒場で、詩の祭りがひらかれる。そうして詩人たちは、生まれたばかりのスペイン共和国の未来と希望のために乾杯したのだった……
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

ネルーダ写真
1935年マドリードにて 左からベルガミン、アルベルティ、ネルーダ、セルヌーダ、アルトラギーレ


 こうしてラングーンには一年ほど滞在し、一九二八年にはコロンボ(セイロン)の領事となり、一九三○年にはパタヴイア(ジャワ)の領事となり、翌年にはシンガポール領事となる。

  わたしは サイゴン マドラス
  カンディの町町を駆けぬけ
  荘厳なアヌラダブラの石塔にまで足をはこび
  鯨のようなセイロンの岩のうえ
  悉達多(シッタルダ)の像のあいだを通りぬけて
  さらに遠くまで行った
  ピナンの挨(ほこり)のなかを通り
  ……
  バンコックのかなた 石膏の仮面をつけた
  舞姫たちの衣装のあいだを行った: ……     (『大いなる歌』)

 ネルーダのこのアジア滞在は五年間つづく。その孤独と倦怠のなかで『地上の住みか』の大半が書かれたが、その精神状況はつぎのような詩に歌われている

  ……
  わたしは自分の足や爪や髪の毛や
  自分の影に飽きることがある
  わたしは人間であることに飽きることがある

  わたしは自分にこんなに多くの不幸を望まない
  わたしはもう根っこであることも墓であることも
  孤独な穴倉であることも 凍えるような死者たちの
  地下埋葬所であることも望まない 悲しみで自分も死にそうだ  (『地上の住みか』)

 この孤独な五年のあいだ、ネルーダは自分の詩的技法をみがき、自分の詩のスタイルを確立し、『地上の住みか』(一九三三年)によって詩人としての名声を確立する。しかし、思想的にはネルーダはまだ自己中心的な個人主義のなかをさまよっていて、そこから抜け出すためには、スペィン戦争を待たなければならない。
(この項おわり)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

地上の住み家
『地上の住みか』

 ラングーンにおけるネルーダの生活は倦怠に悩まされる孤独なものであった。「わたしの公務の仕事は、三ヶ月に一回、チリ向けに固型パラフィンと大きな茶箱がカルカッタから到着したときに行うだけだった。わたしは熱に浮かされたように、書類に捺印したり、署名したりしなければならなかった。それからまた、何もしないで、市場や寺院をひとりで見てまわる、新しい三ヶ月がつづいた。それはわたしの詩にとって、もっとも苦悩にみちた時代だった……」(『回想録』)
 この詩人の孤独を、エキゾチックで情熱的なビルマの女との愛が色どり、さらには詩人を悩ますことにもなる。
 「彼女はイギリス風な服装をしていて、街での名前はジョシー・ブリスであった。しかし、まもなくわたしが共にするようになった二人の水入らずの生活では、彼女はこの衣服と名前を脱ぎ棄てて、まばゆいばかりのサロンを着、彼女の神秘的なビルマ名を名のった。……夜、ときどき、明りで眼が覚めると、幽霊が蚊帳のかげをうごめいていた。それは白衣を着た彼女で、土着民の長くて鋭い包丁を振りかざしていた。彼女は数時間というもの、わたしを殺す決心をきめかねて、わたしのベッドのまわりを行ったり来たりしていた……」(「回想錄」)
 この奔放で嫉妬ぶかいジョシー・ブリスは、翌年ネルーダがセイロン領事となって、コロンボに転勤になると、そこまで彼を追いかけてくる。しかし、彼女はついにこの恋をあきらめて別れてゆく。別れの船の上で──「彼女は愛と悲しみに駆られてわたしを抱擁し、わたしの顔を涙でぬらした。彼女は儀式でもするように、わたしの腕や上着に接吻し、わたしの避けるまもなく、とつぜんわたしの靴まで身をかがめた。立ち上ったとき、彼女の顔は白いチョークにまみれていた……その日わたしは、消えることのない傷痕を心にうけた。あの荒れ狂うような悲しみ、白いチョークだらけの顔のうえを流れていた恐るべき涙は、いまもわたしの記憶に刻みこまれて残っている」(『回想録』)
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

ネルーダ


 アジアの旅・滞在

 一九二七年、ネルーダは友人の紹介でラングーン(ビルマ)駐在名誉領事に任命され、外交官生活に入る。外交官になった事情について、かれはこう語っている。「チリ人はみんな旅行好きで、航海好きだ。チリでは、みんなが外国へ行きたがる。わたしも外国へ出かけて行くうまい方法はないものかと探した。金がなかったからである。そのときわたしは、領事になったらいい、と教えられた。そこでわたしは外務省に出かけて行って、どこか、ポストをあたえてくれるように頼みこんだ。ある日、ある人がわたしに言った。
 ──領事になりたいというのはきみか? やさしいことだ。いっしょにきたまえ。──
 外務省のその事務室には世界地図が掛けてあった。わたしが赴任するように命じられた場所には、まさしく一つの穴がしるしてあった。わたしはあまりうれしくなって、それがどこなのか、尋ねることも忘れてしまった。──その穴のしるしてあった場所は、ビルマのラングーンだったのだ。
 一九二七年六月一四日、ネルーダはラングーンに向けてサンティアゴを発ち、ブェノス・アイレス経由でリスボンまで「バーデン」号に乗船する。七月一六日マドリードに着き、二○日にはパリを訪れ、それからマルセイユへ行き、そこからふたたび船に乗ってラングーンへの旅に出る。初めて訪れたパリについてはつぎのように歌われる。

  パリ 魅惑的な薔薇
  蜘蛛の巣のような古い建物が
  銀色に輝いてそこにあった
  流れる河の時間と
  ノートル・ダムにひざまずく時間のあいだに
  さまよう密蜂の群
  人類家族にひらかれた都市(みやこ)……      (『イスラ・ネグラの思い出』)
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』

パリ
オペラ・コミック座