(飯塚書店『アラゴン選集』第二巻)
これは、第二次大戦下にくりひろげられた、壮烈な光景のひとつをうたったものである、この溺死者たちとは、むろん、ナチス・ドイツ軍とたたかって虐殺され、ローヌ川に投げこまれた人たちでなければならない。だからこそ、「島々が愛撫」し、「土手の草たちに悼(いた)み 惜しまれ」るのである。アヴィニヨンのあたり、ローヌ川はひろい大河であって、前にも書いたように、川の中には大きな島々がある。「流れが掠める 白い宮殿」も、むろん法王宮殿を指している。そうしてそれらの溺死者たちは、やがて下流のアルル郊外のアリスカン墓地の「名もない墓石の下」に葬られることになる……(「アヴィニヨン ─ エルザの町」『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)
『エルザ』
長詩『エルザ』(一九五九年)は、エルザの小説『月賦の薔薇』にたいする詩による註釈である。この詩はアラゴンの詩集の一つの頂点をしめすものと評価されている。
一九五九年五月七日、モスコーでひらかれた「エルザの夕べ」で、アラゴンはこの詩にふれてつぎのように語っている。
「……わたしの詩は、わたしの小説と同様に、現実主義的(レアリスト)である。したがって『エルザ』はひとつの象徴ではない。わたしが彼女について語っていることは、陰喩のたぐいではない。……ここで語られているのは、ひとりの実在の女性であり、この書の作者との関係、彼女の生きている世界との関係によって、社会的に決定づけられている女性である。そしてここでの彼女と作者との関係は、ダンテがベアトリーチェにたいしてもっていたような非現実的な関係ではない。
わたしがみなさんの注意をうながしたいのは、わたしの小説には、ここかしこに、積極的な人物の映像が現われるにしても、ひとりの積極的な主人公と見なされうるような中心的な人物は見いだされないということである。わたしの積極的な主人公は、おおむね人民であって、ひとりの男やひとりの女ではない。初めて、『エルザ』において、わたしは真にひとりの積極的な主人公をもった本を書いたのである。
このことはむろん、儀礼やパラドックスから言われているのでないことを信じていただきたい。過去の愛の詩において、その本質的特徴を成しているのはつねに愛であり、その愛がささげられている女性の映像は、つねに 多かれ少かれ、詩人の創作にとどまっていた。ところが、この書では、愛はただその対象を照し出すという意図しかもっていない。『エルザ』はひとつの肖像であり、したがってレアリスムの詩である」(『わが手の内を見せる』)
この長詩は、つぎのような歌で始まる。まるで唐突に、「女は時間だ」という詩句で始まる。
おれはおまえに大きな秘密をうち明けよう おまえは時間だ
女は時間だ
時間の機嫌をとって その足もとに座っていなければならない
脱ぎすてられた着物のような時間
はてしなく梳(す)かれる髪のような時間
吐きかける息で曇ったり 曇りをとったりする鏡のような時間
おれが眼覚めている夜明けに眠っているおまえは 時間だ
おれの咽喉(のど)をつき刺す匕首のようなおまえは 時間だ
なんと言ったらいいのか この流れない時間の拷問は
この 青い静脈の中の血のように 停った時間の拷問は
……
おれはおまえに大きな秘密をうち明けよう おれはおまえが怖ろしい
夜 窓の方へゆく おまえのお伴(とも)をしてゆくものが怖ろしい
おまえのしぐさや 口に出さぬ言葉が怖ろしい
早くてのろい時間が怖ろしい おまえが怖ろしい
おれはおまえに大きな秘密をうち明けよう 扉(とびら)を閉めてくれ
愛するよりは死ぬ方が やさしい
だからおれは 生きるのに苦労するのだ
ここでは、愛は時間の意識によって捉えられている。愛は、時間として深く感じとられている。時間の意識は、ここでは生の意識そのものとして歌われているのである。
おまえの愛は おれを細(こまか)く刻むのだ
時をきざむ 砂時計のように
だが それは不思議な単位だ
三十年を たったの一日にもしたのだ
(『おまえの愛は』)
時間の意識は、愛とともに、たえず詩人にまつわりついている。時間は、詩人に愛の歓喜を与えると同時に、また愛の苦悩をも与える。
おまえの愛は おまえにそっくりだ
いっしょくたになった地獄と天国だ
おまえの愛は 走りさる牝鹿だ
指の間から 洩れてゆく水だ
渇きであると同時に 泉だ
泉であると同時に 渇きだ
(『おまえの愛は』)
時間の意識はまた、迫りくる死とのたたかいともなる。アラゴンにおける「未来」は、一面ではまた死とのたたかいでもある。この主題は『エルザ』の最後の歌『いつかわたしの詩エルザは......』のなかに、さらに壮重なひびきをもって取りあげられ、詩人の死後──未来への委託の悲壮な絶唱ともなっている。
川が海の方へ……
(略)
ひとりの男が窓の下を通りながら歌う
(略)
男の歌につれて群衆から湧きあがる歌声
(略)
おまえの愛は
(略)
いつかわが詩『エルザ』は……
(略)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)
長詩『エルザ』(一九五九年)は、エルザの小説『月賦の薔薇』にたいする詩による註釈である。この詩はアラゴンの詩集の一つの頂点をしめすものと評価されている。
一九五九年五月七日、モスコーでひらかれた「エルザの夕べ」で、アラゴンはこの詩にふれてつぎのように語っている。
「……わたしの詩は、わたしの小説と同様に、現実主義的(レアリスト)である。したがって『エルザ』はひとつの象徴ではない。わたしが彼女について語っていることは、陰喩のたぐいではない。……ここで語られているのは、ひとりの実在の女性であり、この書の作者との関係、彼女の生きている世界との関係によって、社会的に決定づけられている女性である。そしてここでの彼女と作者との関係は、ダンテがベアトリーチェにたいしてもっていたような非現実的な関係ではない。
わたしがみなさんの注意をうながしたいのは、わたしの小説には、ここかしこに、積極的な人物の映像が現われるにしても、ひとりの積極的な主人公と見なされうるような中心的な人物は見いだされないということである。わたしの積極的な主人公は、おおむね人民であって、ひとりの男やひとりの女ではない。初めて、『エルザ』において、わたしは真にひとりの積極的な主人公をもった本を書いたのである。
このことはむろん、儀礼やパラドックスから言われているのでないことを信じていただきたい。過去の愛の詩において、その本質的特徴を成しているのはつねに愛であり、その愛がささげられている女性の映像は、つねに 多かれ少かれ、詩人の創作にとどまっていた。ところが、この書では、愛はただその対象を照し出すという意図しかもっていない。『エルザ』はひとつの肖像であり、したがってレアリスムの詩である」(『わが手の内を見せる』)
この長詩は、つぎのような歌で始まる。まるで唐突に、「女は時間だ」という詩句で始まる。
おれはおまえに大きな秘密をうち明けよう おまえは時間だ
女は時間だ
時間の機嫌をとって その足もとに座っていなければならない
脱ぎすてられた着物のような時間
はてしなく梳(す)かれる髪のような時間
吐きかける息で曇ったり 曇りをとったりする鏡のような時間
おれが眼覚めている夜明けに眠っているおまえは 時間だ
おれの咽喉(のど)をつき刺す匕首のようなおまえは 時間だ
なんと言ったらいいのか この流れない時間の拷問は
この 青い静脈の中の血のように 停った時間の拷問は
……
おれはおまえに大きな秘密をうち明けよう おれはおまえが怖ろしい
夜 窓の方へゆく おまえのお伴(とも)をしてゆくものが怖ろしい
おまえのしぐさや 口に出さぬ言葉が怖ろしい
早くてのろい時間が怖ろしい おまえが怖ろしい
おれはおまえに大きな秘密をうち明けよう 扉(とびら)を閉めてくれ
愛するよりは死ぬ方が やさしい
だからおれは 生きるのに苦労するのだ
ここでは、愛は時間の意識によって捉えられている。愛は、時間として深く感じとられている。時間の意識は、ここでは生の意識そのものとして歌われているのである。
おまえの愛は おれを細(こまか)く刻むのだ
時をきざむ 砂時計のように
だが それは不思議な単位だ
三十年を たったの一日にもしたのだ
(『おまえの愛は』)
時間の意識は、愛とともに、たえず詩人にまつわりついている。時間は、詩人に愛の歓喜を与えると同時に、また愛の苦悩をも与える。
おまえの愛は おまえにそっくりだ
いっしょくたになった地獄と天国だ
おまえの愛は 走りさる牝鹿だ
指の間から 洩れてゆく水だ
渇きであると同時に 泉だ
泉であると同時に 渇きだ
(『おまえの愛は』)
時間の意識はまた、迫りくる死とのたたかいともなる。アラゴンにおける「未来」は、一面ではまた死とのたたかいでもある。この主題は『エルザ』の最後の歌『いつかわたしの詩エルザは......』のなかに、さらに壮重なひびきをもって取りあげられ、詩人の死後──未来への委託の悲壮な絶唱ともなっている。
川が海の方へ……
(略)
ひとりの男が窓の下を通りながら歌う
(略)
男の歌につれて群衆から湧きあがる歌声
(略)
おまえの愛は
(略)
いつかわが詩『エルザ』は……
(略)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)