ショスタコーヴィチ

ここでは、「ショスタコーヴィチ」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


赤旗

7月17日に音楽評論家の梅津時比古さんがインタビュー記事で「死の直前にショスタコービッチが書いたビオラ・ソナタにはベートーベンのピアノ・ソナタ 『月光』の音形が引用されていて、スターリンによる社会主義リアリズムの強制に対する抵抗とベートーベンへの憧れが込められていると言えます。この曲を聴いて以降『月光』を聴くと、必ずショスタコービッチの苦悩を反映させてしまう」語っていました。

実際に聴いてみたいと思っていましたら、今朝のNHKラジオ第1放送「ユカイなコンポニスト」はショスタコービッチがテーマで、梅津時比古さんがこの2曲を流して解説しました。ショスタコービッチの悲しみをたたえた曲。『月光』を聴くとショスタコービッチの苦悩を、とインタビューで語っていた意味が判りました。

すっぴん

*期間内であればこちらから視聴できるようです。<聞き逃し番組

以前、二瓶龍彦さんのプロデュースで小沢恵美子さんが踊りで表現した「ショスタコーヴィッチ ビオラソナタ」も印象的でした。<ショスタコーヴィッチのヴィオラソナタを踊る小沢恵美子


(大島)静江さんのLPコレクションにショスタコーヴィチの交響曲第七番がありました。
LPはもう聴くことはないだろうと半分は捨て、半分は資料的な価値があるかもと思って残しておいた半分の方に入っていました。

ひのまどかさんの本のおかげでレコードプレーヤーを買うことになってしまいました。

レコード
ショスタコーヴィチ 交響曲第七番
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮/ソビエト国立交響楽団
LP4枚組
ひのまどか著「戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実」は壮大な交響曲のようなドキュメンタリー。読んでいて音楽が聞こえてくるかのようで、交響曲第七番を聴かなければ読了したことにならない、という気分になりました。

ロストロポーヴィチ指揮ナショナル交響楽団による演奏(CD)は迫力がなくて面白くありませんでした。(むかし買った交響曲第5番も全くだめ、「革命」を感じませんでしたが)
 
エリアスベルク指揮による演奏を探したら、ロシア盤のレコードが出されていました。
Eliasberg: Shostakovich Symphony No 7 Leningard, Melodiya M10 45011 003, 2LPs.

レコード
カール・エリアスベルクとレニングラード・フィルによる
ショスタコーヴィチ交響曲第七番の壮大なアカウント。
1964年1月27日、レニングラード・フィラモニーの大ホールでのライブ録音。

この演奏がYou Tubeにアップロードされていて、簡単に聴くことが出来ました。心がこめられた、わかりやすくて素晴らしい演奏だと思いました。


エピローグ──しかし、ミューズは黙らなかった

 《第七番》レニングラード初演は果たされたが、町の封鎖は依然として続いていた。大祖国戦争もまだ前半戦の半ばだった。初演の日、8月9日は包囲345日目に当たった。この後もドイツ軍は周期的に激しい砲撃を加えてきたが、明らかに以前より回数も勢いも劣っていた。ゴーヴォロフ中将らの「包囲解除作戦」がドイツ軍に多大な損害を与えたのと、7月半ばから始まったスターリングラード攻防戦で、ヒトラーの目がレニングラードに向かなくなったからである。

 この間も、エリアスベルクとラジオ・シンフォニーは通常のコンサートや音楽放送に加えて、復活した「オペラ・バレエ・シーズン」の月10回の公演に、エネルギーの全てを使い果たしていた。オーケストラのこの献身的な働きはもちろん市民を励ましたが、それだけではなく、敵にも意外なメッセージを送っていた。戦闘で赤軍の捕虜になったドイツ兵たちは、尋問に答えて異口同音にこう語ったのである。「我々は暫壕の中でいつもレニングラードの放送を聞いていたが、一番驚き、戸惑ったのは、フィラルモニーやスタジオからの音楽放送だった。もし町が、このとてつもない状況の中でクラシック音楽のコンサートをやれているのだとしたら、一体ロシア人はどれだけ強いんだ?そんな敵をやっつけることはとうていできない、と思い、恐ろしくなった」

 1943年10月23日、全ソ・ラジオ委員会代表の作曲家カバレフスキーが、レニングラード・ラジオ委員会の働きを調査するためモスクワから派遣されてきた。10日間の滞在中カバレフスキーは多くのコンサートを聴き、後日詳細な報告書を作成した。その冒頭にはこう書かれていた。
<レニングラード・ラジオ委員会の芸術番組は高いレベルにあり、政治的・芸術的要請に対応している。特に素晴らしいのは、エリアスベルク指揮の大シンフォニー・オーケストラだ。この団体を、ソビエト連邦の四指に入る第一級のオーケストラに認定すべきである>
 エリアスベルクは封鎖の困難な状況の中で、ラジオ・シンフォニーを疎開中のレニングラード・フィルや首都のモスクワ放送交響楽団と肩を並べる名団体に育て上げたのだった。

 レニングラード封鎖が解けたのは、1944年1月27日だった。これによって2年5ヵ月、900日(正確には881日)にも及んだ封鎖は終わった。政府は封鎖の期間の死者は63万人と発表したが、市民は誰も信じなかった。死者数は推定130万〜150万人に上っていたが、もはやそれを口に出せば「反逆者」にされるのは明らかだった。開戦時の解放感、連帯感は、戦況の好転とともに消え去り、人々の生活には再び以前の黒い影、監視と密告と粛清の影が覆い被さっていた。その影はラジオ委員会にも及んだ。封鎖が解ける直前、ラジオ委員会の芸術監督バーブシキンは「人民の敵」という理由で秘密警察に逮捕され、最前線ナルヴァに送られたその日に戦死した。死の直前、彼は友人の記者フリドレンドルに手紙を送っていた。
《僕は、我々の国の悲惨な年の歴史に、自分の仕事の結果が少しでも入っていることを誇りに思う》
 ラジオ・シンフォニーの復活も、《第七番》レニングラード初演も、バーブシキンの優れた指導力なくしては不可能だった。その最大の功労者の彼が「人民の敵」扱いされたのは、戦時中鳴りを潜めていた「反ユダヤ主義」が再び台頭してきたからだった。しかも彼は、戦死ではなく殺されたのだということを、弾は後ろから飛んで来たのだということを、ラジオ委員会の同僚たちは確信していた。バーブシキンの死を知り、その直後に届いた手紙を見た全員が、激しく泣いた。彼はまだ30歳だった。同僚たちは党本部に真相を問いつめに行ったが、党は党員であるバーブシキンの記録を消し去っていた。

 1945年5月9日、スターリンは大祖国戦争の勝利を宣言し、6月24日にモスクワの「赤の広場」で盛大な祝勝パレードを催した。これに先立っこと約ふた月、ヒトラーは4月30日にベルリンの総統官邸地下壕で自決していた。

 1960年代に入り、第235番中学校の教師と生徒たちの間で、レニングラード封鎖の間の町の文化と芸術を記録する博物館を作ろう、というアイデアが持ち上がった。一人一人が親や親戚や知人に呼びかけて、封鎖の時に使っていた品々を持ち寄った。ショスタコーヴィチもエリアスベルクもラジオ・シンフォニーのメンバーもほとんどが健在だったので、《第七番》レニングラード初演に関する資料や楽器や個人の証言が大量に集まった。
 1968年3月16日、校舎内に、ショスタコーヴィチと900日封鎖の中で行われた《交響曲第七番》初演に捧げる、世界でも類を見ないユニークな博物館がオープンした。博物館は、「大砲が鳴る時、ミューズは黙る」というロシアの諺を覆した英雄音楽家たちと市民を讃えて、「しかし、ミューズは黙らなかった」と名付けられた。

 一つの音楽作品が、これほど巨大な歴史的・政治的・社会的背景を持って生まれ、それが、これほど膨大な人間ドラマを生んだ例を、私は知らない。
(完)

(ひのまどか「戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実」新潮社 2014年3月)

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   
 著者はヴァイオリニストで音楽作家。現地取材、膨大な資料とインタヴューを駆使して奇跡の史実を再現した。
 極限状況の下、音楽を通して闘った音楽家たちとレニングラード市民への讃歌、そして侵略者を打ち破ったソビエトの人々への讃歌である。

レニングラード初演
ショスタコーヴィチの交響曲第7番。 1942年8月9日。
レニングラードラジオ委員会の交響楽団。指揮カール・イリイチ・エリアスベルク
(http://nashenasledie.livejournal.com/1360921.html)


幻の名演
 何をもって名演と呼ぶか?
 それは、演奏の現場に居合わせた人だけが、個々に判断すること。
 その演奏と自分の気持が一体となる瞬間がどのくらいあったか?
 その音楽が自分の心に一生忘れられない感動を刻んだか?
 演奏者がその音楽にどれだけ共鳴し、全身全霊を捧げて演奏したか?

 《交響曲第七番》レニングラード初演は、これまで数々の証言を通して紹介してきた音楽家たちによって行われた。親・兄弟姉妹、恋人、友人たちを砲爆撃で失った人たち。戦場で戦い、戦死した友の屍を乗り越え、自らも銃弾を浴びた人たち。町に残り、町を防衛し、爆死や凍死や餓死の極限状態からかろうじて生還した人たち……
 おそらく、作曲家が音符に込めた何倍、何十倍もの思いを演奏に託しただろう。だからといって、演奏が表現過剰になったり、アンサンブルが乱れたりしたとは思えない。ラジオ・シンフォニーはエリアスベルクの巧みで的確なコントロール下にあり、楽団員の大半はオーケストラに精通したベテラン奏者や、ソリストとしても活躍する名手たちだ。最後の二週間の集中リハーサルで磨かれた「芸術的仕上げ」とは、最高度の演奏技術と音楽性をもって作品の真髄に切り込む作業を意味する。
 しかしこの歴史的なレニングラード初演は、電力不足のため録音されなかった。その印象は人々の心の中にしか残らなかった。
 だからここでは、初演の場に立ち会った様々な分野、様々な立場の人々の証言を集めてみた。

<8人の証言を紹介>

 録音技師長、ベリャーエフ。後日の証言。
「戦後、私は《第七番》を優れた指揮者や優れたオーケストラで幾度も放送し、コンサートでも聴いた。しかし、一九四二年八月九日の、エリアスベルクの指揮によるあの演奏で味わった感動と比べられるものは、一つもなかった。
 あの時、あのコンサートに出席した人々は永久にその思い出を胸に刻むだろう。私の同僚たち、日々防衛や当直や爆撃の中で働いた同僚たちも同じ思いだ。私は幸いにもあの初演に参加し、ラジオでこの素晴らしい初演を伝えた人間であることを、誇りに思う」

 かくして、《第七番》レニングラード初演は、「幻の名演」となった。
(つづく)

19420809演奏
1942年8月9日。レニングラードラジオ委員会のオーケストラ。
グランド・フィルハーモニー・ホール。指揮カール・エリアスベルク
(http://il-canone.livejournal.com/211146.html)

 戦火の町に《第七番》が響いた!弦楽器の力強い合奏が、第一楽章の開始を告げた。明るく健康的な旋律は、全国民が営んでいた平和な生活と労働の歓びを活き活きと描いていた。やがて音楽は、弦と木管が奏でる牧歌的な調べに変わった。
 トロンボーン奏者、スモリャクの証言。
「交響曲が鳴り響いて五分が過ぎた頃、急に砲撃音が聞こえてきた。私は隣に座る同僚と頷き合った。我々軍人音楽家は、極秘のシュクワール作戦のことを知っていたからだ。私は「我が軍の砲兵隊が作戦を開始した」と分り、どうにかしてオーケストラのfで砲兵隊に応えたい、と願った」
 一斉砲撃の余波でフィラルモニーの建物はかすかに振動し、八基のシャンデリアが天井で揺れた。遠雷のような轟音がフィラルモニーの中にまで届いたが、市民はこういう音には慣れっこになっていたので、微動だにせず音楽に聴き入っていた。

 小太鼓が、遠方から近付いて来るかすかな軍靴の行進音を刻み始めた。小太鼓を叩いていたのは、アパートの部屋で死にかけていたところをエリアスベルクに発見された元キーロフ劇場の打楽器奏者、アイダロフだった。
 小太鼓に乗った「侵攻のテーマ」は繰り返されるたびに音量を増し、全オーケストラに波及しながら、遂に狂暴な悪魔となって全貌を現した。音楽は破壊と殺戮のシーンに変わり、金管群が大音響で咆哮し、金管の二群が「抵抗のテーマ」で決然と立ち向かった。聴き手は血塗られた悲惨な砲爆撃の町と、兵士たちが倒れていった戦場の情景を眼前に甦らせ、恐怖と怒りに身震いした。
 やがて音楽は、葬送の足取りに乗ってファゴットのソロが奏でる、深い悲しみに満ちたレクイエムに変わった。最後に今一度、平和な生活を回想するかのように冒頭の明るいメロディーが現れたが、遠くでは戦争が続いていることを表す「侵攻のテーマ」がかすかに響いていた。

 第二楽章は、激烈な第一楽章とは対照的に、優美で軽やかな音楽で始まった。弦楽器が室内楽のように親密なアンサンブルを響かせるのに続いて、オーボエのソロが哀秋に満ちた美しいメロディーを伸び伸びと奏でた。平和な生活の思い出が漂うような優しさに満ちた音楽の中に、突如不安な戦闘のシーンが紛れ込んで来たが、金管と打楽器と弦の楽観的で力強い合奏がこれを退けた。音楽は再び美しい憂愁に彩られた静かな調べに変わり、バスクラリネットとハープのソロで消えるように閉じて行った。ショスタコーヴィチが述べた《穏やかな悲しみと憂愁が、霧のように包み込んでいる》楽章だった。

 第三楽章は木管とホルンとハープによる荘重なファンファーレと、弦楽器の語りかけるような力強い楽句で、堂々と開始された。続いて現れたフルートのソロの長い詩的なテーマはヴァイオリンに受け継がれ、やがて全オーケストラは情熱的で雄大なクライマックスを築いて行った。
 ショスタコーヴィチはこの楽章で《生きる歓びと自然崇拝》を劇的に描いたと述べたが、その言葉通りに悲観的な要素の全くない、生命力に満ちた音楽が続いた。
 再び弦のユニゾンが力強く奏でられた後、バスクラリネットの低いモノローグに重ねてタムタム(銅鑼)が弱音で三回鳴り、それを境に音楽は切れ目なく第四楽章へ入った。

 第一楽章では破壊と殺戮と怒りを描いたショスタコーヴィチは、第四楽章では全国民の悲願である「輝かしい勝利」を描いた。
 死屍累々の戦場を思わせる弦とティンパニの暗い導入部に続いて、チェロとコントラバスが決然とした楽句を奏し、音楽は瞬く間に進軍と決戦のシーンに突入した。勇敢な兵士たちの死をも恐れぬ戦闘を眼前に見るような激烈な音楽が、猛り狂う管や弦によって華々しく盛大に展開された後、曲想は次第に戦場で倒れた英雄たちに捧げる厳粛で気高い調べに移って行った。重厚で悲痛な弦の調べが、英雄たちの死を悼んだ。
 最後に、情熱的でドラマティックな勝利の瞬間が訪れた。二群も加わった金管群の咆哮と、打楽器群の強打と、全オーケストラの笛は「全世界に轟け!」とばかりに鳴り渡り、そのとてつもない大音響はホールのみならず、フィラルモニーの建物全体を揺るがした。
 若いトロンボーン奏者、カルペツの証言。
「それは、言葉では言い表せない強烈な体験だった。この偉大な瞬間、私の心は人々と祖国への、無限の愛に燃え上がった!」
(つづく)

戦火のシンフォニー

 交響曲第7番レニングラード初演の日、1943年8月9日は、朝から太陽が出ていたが気温は低く、夏とは思えない肌寒い日だった。町はお祭り気分に満ちていた。市民は、運良くチケットを手に入れた人も、チケットを持たない人も、早くからフィラルモニーの前の芸術広場や近くのミハイロフスキー公園に集まって歓談していた。大ホールの最大収容人員は1,500人だが、この日は招待客が大勢来るため一般向けのチケットは半分くらいしか売り出されず、前日の内にクジ引きで幸運な当選者が決まっていた。
 開演一時間前の午後6時、黒光りする機関銃が置かれたフィラルモニーの玄関が開き、待っていた群衆がどっと流れ込んだ。誰もが興奮して我先に入ろうとしたが、大理石の円柱が立ち並ぶ大ホールに足を踏み入れると、その荘厳な雰囲気に圧倒されて礼儀正しくなった。一般客が席に着いた後、党とソビエトの指導部、軍の高官たち多数が入って来て、前方の席に着いた。市民の招待客も大勢来た。多くの音楽家・作家・美術家・学者たちが居た。開演時間が近付いたころ、急に会場がざわめき、出席していた大勢の軍人がザッと音を立てて起立した。人々の視線は一斉に入り口に注がれ、どよめきが広がった。「ゴーヴォロフ将軍だー夫人と一緒だ!」ゴーヴォロフ中将はバラ色のドレスに身を包んだ愛らしい夫人に腕を貸し、陸海軍の指導部を後ろに従えて中央通路をゆっくりと進み、最前列に座った。それを合図に、マイクが何本も立つステージにオーケストラが登場してきた。

 楽団員が全員着席すると、会場のスピーカーからアナウンサーの声が流れた。「同志の皆さん。今日我々の町の文化生活に大きな出来事があります。数分後に皆さんは、レニングラードで初めて演奏されるドミトリー・ドミトリエヴィチの交響曲第7番を聴きます。我々の傑出した同郷人である彼は、この非凡な作品をここ我々の町で書きました。大祖国戦争の日々、卑劣な敵がレニングラードを砲撃している時、我々の町を集中爆撃している時、ナチスが全ヨーロッパにレニングラード陥落は間近だと言い立てている時に。交響曲第7番は包囲下のレニングラード市民の証言です。不屈の精神、勝利への信念、敵との流血の戦いと、勝利を勝ち取る決意。それらを語る交響曲を、レニングラード自身が演奏します。同志の皆さん、聴いて下さい」
 アールキンが立ってオーボエに合図し、しばしチューニング音が会場を満たした。それが終わり、静まり返ったステージに、燕尾服と純白のシャツで正装したエリアスベルクが登場した。大拍手が鳴り響き、エリアスベルクはそれに応えて一礼した後、向きを変えて指揮台に上った。静寂の中でオーケストラ全員の真剣なまなざしを受け止めた彼は、サッと指揮棒を振り上げた。
(つづく)

エリア図ブルグ

 交響曲第7番のオーケストラ編成は三管編成を基本にクラリンネットが4本、金管に至っては通常の倍、ホルン4+4、トランペット3+3、トロンボーン3+3,打楽器群とハープ2、ピアノ1、弦5部という巨大編成だった。金管は完全に不足している。現在のメンバー45名に対して80名は必要だ。「前線に配属されている音楽家を戻そう、軍楽隊も洗い直そう」エリアスベルクは党書記クズネツォフに会って要請した。「開戦時に軍に徴用された音楽家たちを前線から戻して下さい。交響曲第7番の初演のためにはどうしても彼らが必要です」事の重大性を理解したクズネツォフは前線司令部に指示を出す約束をした。前線の軍人音楽家の情報を集めるための努力が始まった。かくして、スモーリヌィ軍司令部の命令により、ラジオ委員会には軍楽隊を含む現役の軍人たちが次々に派遣されてきた。レニングラードの音楽家だけでなく、各共和国出身の軍人音楽家も集められた。
 パート譜の作成も難題だった。巨大編成のため、必要なパート譜は70冊を下らない。戦時下、楽譜出版はないので、音楽家たちは手分けして手書きでかいた。2週間で完成させた。

 ヒトラーは「レニングラードを9月初旬までに占領せよ」と命じ、支援のための軍をレニングラード前線に振り向けた。7月19日、ドイツ軍は文書でスモーリヌィ総司令部に「レニングラードを占領するための攻撃を開始する」と通達してきた。
 レニングラード方面軍司令官に任命されたゴーヴォロフ中将は、砲兵中隊を率いて数々の戦場で勇名を馳せた英雄で、迎撃砲火の専門家だった。着任した日から前線を視察してまわり、砲台を防衛から攻勢に転じさせようとの結論を出し、砲弾・軍用機の増量と砲兵部隊の配置転換を行った。
 8月9日に迫った交響曲第7番のレニングラード初演についてもジダーノフと話し合った。「政治的に重要なこの初演にたいし、ドイツ軍は確実に砲撃を仕掛けてくる」とジダーノフは恐れた。「コンサートはソビエト全土にラジオ中継され、ヨーロッパや北米にも短波で送られる。砲撃のために途中で止まることだけは避けたい。たくさん出席する党指導部の人間の命もまもらなくてはならない」ゴーヴォロフは頼もしく請け負った。「ご安心下さい。8月9日の夜には敵が町を撃てないように、前線に豪雨のごとく砲弾を浴びせてやります。弾幕砲火で敵が一門も砲火を開けないように先制攻撃をかけます」

 ラジオの家には80名の音楽家が集結した。個々の楽団員に演奏レベルの差があるので、パート練習から始められ、個人レッスンも重ねられた。本番2週間前の7月25日からは他のコンサート活動は中止して集中リハーサルに切り替えられた。
(つづく)

ショスタコ

1942年3月29日、交響曲第7番のモスクワ初演が空襲警報の鳴り続ける中で行われた。ドイツ軍に対するソビエト国民の勝利を表すシンフォニー、首都での大プロパガンダを成功させた功績によりショスタコーヴィチはスターリン賞を授与された。
この時も演奏を中継したラジオ放送はレニングラードに届かなかった。肝腎のレニングラードは置き去りにされていた。

オーケストラを復活させて、ラジオ委員会芸術監督のバーブシキンは交響曲第7番のレニングラード初演を実現するのは自分の使命と考えていた。「交響曲第7番はレニングラードで演奏される時こそが真の初演だ、包囲されたレニングラードは精神生活のピークを迎えるだろう」と言ってラジオ・シンフォニーのメンバーと指揮者エリアスベルクを説得する。「ショスタコーヴィチの演奏は確かに困難でしょう。しかし、その困難に挑んでこそ希望が見えてくるとは思いませんか」
7月1日、交響曲第7番のスコア(楽譜)が軍用貨物機で届いた。待ちに待ったスコアを開いた瞬間、エリアスベルクらは頭を抱え込んでしまった。これほどの壁が立ち塞がっていようとは誰も想像していなかった。大編成用の曲で、演奏者の数が圧倒的に足りないのだ。7月半ばの初演予定は急遽撤回された。
(つづく)

7番

11月、ラドガ湖が結氷し、氷上道路『命の道』が開通、トラック輸送が始まる。氷が厚くなり氷上道路が60本に増えると食料供給は安定した。最高司令官ジダーノフは栄養失調患者を救うために「スタツィオナール」(病院・施設)の開設を命じた。
3月の初め、市は活気を取り戻しつつあるのにラジオから聞こえるのは政府のプロパガンダとメトロノームの無機質な音だけ、音楽の消えた陰鬱な放送を聞いたジダーノフはラジオ委員会に電話した。「何でこんな陰気な雰囲気を作っている!何か音楽をやらんか!」彼のひと言はスターリンのひと言に等しい。ここからラジオ・シンフォニー復活への動きが始まる。
楽団員のうち27名が死亡、なんとか働けるのは16名しかいなかった。「生き残った音楽家は全員ラジオの家に来て登録して下さい」と毎日放送され、面接が行われた。軍人音楽家2名を迎え入れ、新生ラジオ・シンフォニーは40名の団員でスタート、4月5日、4ヶ月ぶりに公演を再開した。

1942年3月5日、交響曲第7番はクイビシェフのボリショイ・オペラ・バレエ劇場で、サモスード指揮ボリショイ劇場管弦楽団によって初演された。演奏に先立ち、ショスタコーヴィチが聴衆に向かって述べた。「私はこの交響曲第7番をファシズムに対する我々の闘争と、来るべき勝利と、そして私の故郷レニングラードに捧げます」
この演説と、続く初演の模様はラジオでソビエト全土、同盟国イギリスとアメリカに中継されたといわれるが、唯一中継されていない場所があった。放送が届いていない場所、レニングラードである。
(つづく)

戦火のシンフォニー

10月12日、1500人収容のフィラルモニー大ホールは市民であふれた。チャイコフスキーを熱演する間も外では砲弾の爆発音が轟いていたが、人々は貪るように音楽に耳を傾けていた。楽団員たちもクラシック音楽の殿堂で演奏できる歓びに浸っていた。
11月7日からの3日間、市民は革命記念日を音楽で盛大に祝った。フィラルモニー大ホールではチャイコフスキーの序曲『1812年』、ベートーヴェンの『運命』、『第九』他が演奏された。

マローズ(酷寒)がはじまるなか、石油が入らないため「ラジオの家」も暖房が止まり、電話は繋がらなくなった。ドイツ軍機による爆撃で食糧供給も絶たれ、市民への配給量はさらに引き下げられた。栄養失調に苦しみながら楽団員はリハーサルや本番の演奏、防空防衛隊の仕事、慰問演奏を続けた。
12月31日、イギリス向けにチャイコフスキーの『交響曲第5番』を演奏したのを最後にラジオ・シンフォニーは活動を停止した。楽団員の餓死が続くなか、電気配給が止まったためである。

12月27日、クイビシェフに疎開していたショスタコーヴィチは交響曲7番を完成させ、音楽家、友人たちを招いてピアノで全曲を弾いて聴かせた。しかし、レニングラード市民のために書かれた交響曲の完成を、陸の孤島と化したレニングラードでは市民も楽団員も知らなかった。
(つづく)

戦火のシンフォニー

レニングラード封鎖の中で鳴り響いた交響曲─ひのまどか「戦火のシンフォニー」(1)

現地取材、膨大な資料とインタヴューを駆使して奇跡のような史実を再現したドキュメンタリー。

ドイツがソビエト侵攻に突入、レニングラードに向かって怒涛の進撃をしていた1941年7月、ショスタコーヴィチは愛するレニングラードに捧げる交響曲第7番の作曲に着手した。レニングラード市民を鼓舞すべくレニングラード初演をめざして。しかし、第3楽章を完成させた時に疎開を命じられ、レニングラードを離れる。レニングラード・フィルとムラヴィンスキーも他の芸術団体とともに命じられて疎開した。

ドイツ軍に包囲されたレニングラードに残って演奏を続けたのが本書の主人公・ラジオ・シンフォニーと指揮者エリアスベルクである。ラジオ・シンフォニーはレニングラードラジオ情報委員会(「ラジオの家」)直属の交響楽団。
政府の重要なプロパガンダ機関である「ラジオの家」では、「非常時に音楽は不要だ、芸術は何の役にも立たない」として音楽は片隅に追いやられた。音楽家は解雇され、残った音楽家も勤労動員された。

文化都市レニングラードは8月末に完全封鎖され、9月には空襲が始まるが、空襲警報の合間を縫ってコンサートが続けられ、多くの市民が楽しんだ。

ヒットラーは「レニングラードは明日にも陥落する」「地上から抹殺する」との宣伝を世界に向けて放送していた。これに対してラジオ委員会はレニングラードは生きて戦っていることを世界に知らせる必要があった。オーケストラによるコンサートを世界に実況放送することが最強の文化的プロパガンダだとするラジオ委員会委員長ホドリェンコと芸術監督バーブシキンの主張が認められ、ラジオ・シンフォニーの活動再開が指令された。
9月29日の深夜、チャイコフスキーの交響曲5番が響き渡り、イギリス向けに放送された。夜が明けると放送を聴き感激した市民が押し寄せ、電話が鳴り止まなかった。「音楽が聴けてとても幸せでした!」「もっともっと聴かせてください!」

(つづく)

戦火の
新潮社2014年