読書メモ

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



第二次大戦中、パリの家々の門番は多くのレジスタントを見逃し、かくまい、フランスの戦局を有利に導くのに貢献したが、誰もが重圧の下でレジスタントを表口から迎え、食糧をあたえ裏口から逃がしてやるほどの個人の自由をもっていた。

 在仏中、私の下宿の食卓ではしばしば文学論が闘わされた。学生はもとより、下宿のマダムにいたるまで、自分の好きな作品については自分の創作であるかのようによく記憶しており、その作品の思想性をしっかりとつかんでいた。フランスの初等教育からの、厳しい大意をまとめさせる方法がこの人たちの一人々々に身についたためでもあるが、何よりも自国の文学を熱愛することに起因しているように思われた。
・・・このようにこれらの芸術作品で育くまれ、とぎすまされた精神は、直接人間に対する評価ともなって現われる。
 「この人なら間違いない」と下宿人に選んだ人に悪かったためしはない、と四十年の経験をほこるこの下宿のマダムは、人間評価に対する強い自信をもっていた。F・ストロウスキーは、フランスでは心理観察家とモラリストとが巷に溢れ、「世の中でもっともすぐれた心理観察家はパリの家々の門番である」という。
 このパリの家々を守る門番は厳しいおふれを守りながら、第二次大戦中自らの判断で多くのレジスタントを見逃し、かくまい、ついにはフランスの戦局を有利に導いたかくれた手柄の持主でもあるのである。いや誰しもがお上の重圧の下にあっても、レジスタントを表口から迎え、食糧をあたえ裏口から逃がしてやるほどの個人の自由をもっていたことを物語っている。
 思想性の乏しい日本文学は、美文と情緒で引つけはするが、幾度も読み返すうちに、新しさを感じさせ、発見させるものはほとんどない。それに反して、ラ・フォンテーヌやモンテーニュやパスカルをつねに座右において毎年読み返したり、アランがスタンダールの『パルムの僧院」を六十一回読んだという話は、とても日本の身辺雑記を綴った私小説では想像も及ばないことであろう。
 本当に優れた作品は幾度もの読破にたえ、その度につねに新鮮さを見出すものである。
 すぐれた書物は友にも勝るが、毎年一回めぐり合う旧友のように、その作品を年ごとに読み返す習慣は素晴らしいものである。その行為の中にこそ生きた知恵は泉のごとく湧き出るであろう。

   (蜷川譲『フランス文学散歩』<1 生きた知恵は泉のごとく>現代教養文庫 1959年)

パリの街

フランスの田舎で聴いた素人の男性のピアノ演奏が日本の大家の演奏よりも素晴らしかった。その原因は文化的環境と伝統の違いにあるという。

 私は読者にフランス文学理解の手引として、まず、フランスへ案内したいと思う。私の目的は文学を通じて読者に眼を見開き、胸を大きく張って自由の精神を呼吸してもらうことにある。旅行には地理的方法の名所見物、視察という名の行楽、スリルを追う探険……等々あろうが、フランス精神の真髄に触れうるものは文学散歩以外にはないと信ずるからである。
 私の印象から始めよう。
 フランスのある田舎で即興に演奏された、ベートーヴェンのピアノソナタ一〇一番が素晴らしかったことは、今だに記憶に新たである。この演奏者であった半ば白髪のその男は、毎日一時間ずつ、楽しみのためにピアノに向っている一素人である。
 その後、日本に帰ってから「べートーヴェン連続演奏会」という名の下に行われた老大家のリサイタルに足を運んだ時、その音楽性の稀薄さにひどく失望し、フランスの一老爺の優れた演奏を思い出したものである。
 文学者ジィドのショパンや、ロランのべートーヴェン演奏などは、素人の域をはるかに越えたものであったことはよく知られているが、フランスでは近隣同志の間で、ちょっとピアノが弾けるといわれるほどの人の水準が素晴らしく高度なことは一驚に値する。 音楽を育くむ環境とその伝統の集積、一口にいえばその継承の度合いの相違であろう。
 日本では、今日まで驚くほど大量にフランス文学が紹介され、そのことだけを限ってみれば、世界有数の国であることはたしかであろう。フランスのある日本通の学者は「ピレネー山脈以西(スペイン、ポルトガルなど)はヨーロッパではないが、日本は西欧文化圏の国である」とさえ断言している。たしかに翻訳書物の発行数から言えばうなずける点もあろうが、はたして、個々人のフランス文学愛好の熱意とあわせて消化の度合とが一致するものかは疑問である。
 文学に限らず芸術作品は愛し親しまれ、文字通り熟読玩味され、その人の生活に融けこんでこそはじめて真髄に近ずきうるのである。

(蜷川譲『フランス文学散歩』<1 生きた知恵は泉のごとく>現代教養文庫 1959年)

フランス文学散歩