新日本新書『ランボオ』

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千曲川

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パリ戦争
パリ戦争



バリケード
タンブル街のバリケード

  (新日本新書『ランボオ』)
[「パリ戦争の歌」(下)]の続きを読む


 一八七一年五月十五日、ランボオはポール・デムニにあてて、有名な「見者の手紙」といっしょに、「パリ戦争の歌」を送る。彼はこの詩をみずから「時局詩」と呼んでいる。つまり、この詩は、ヴェルサイユ軍によるパリ砲撃の始まった頃の状況の詩である。
 一八七一年四月以来、ヴェルサイユ軍はパリ郊外に砲弾の雨をあびせる。四月三日、モン・ヴァレリアン要塞の砲台は、マイヨ門、ヌーイ、アスニェール、ルヴァロワを砲撃した。ランボオはこの詩で、ヴェルサイユ政府にたいして怒りをぶちまけ、痛撃を加えている。

   パリ戦争の歌

 まぎれもない 春だ なぜなら
 緑の大邸宅のなかから 爆弾を飛ばす
 ティエールとピカール*1の輩は
 満開の栄光を手にしているからだ

 おお五月! なんと気違いじみた丸出しの尻!
 セーブル ムードン バヌー アスニエールは
 聞くがいい 歓迎されたやつらが
 春めいた代物*2を まき散らすのを

 やつらは軍帽 サーベル 太鼓(タムタム)*3をもち
 蠟燭をたてた 古い提燈などもたぬ
 そうして 血で赤く染まった池*4を
 ボートに乗って おし渡るのだ

 いつにもまして おれたち浮かれ騒ごう
 おれたちの あばら屋のうえに
 黄色い玉の 降りそそぐとき
 なみはずれた 特別な夜明けに

 ティエールとピカールは エロス*5だ
 へリオトロープの 抗奪者だ
 やつらは 焼夷弾で コローを描く*6
 やつらの軍隊をやっつけよう

 やつらは「大ぺてん」に馴れている
 ファヴルはグラジオラスの中に寝転んで
 まばたきをして 空涙を流し*7
 こしょうを嗅いで 鼻を鳴らす

 おまえたちの撤く 石油の雨にも拘らず
 偉大な首都は 熱い舗道をもつ*8
 断固として おれたちは そんな
 役柄のおまえたちを 払いのけねばならぬ

 そうして 長いことあぐらをかいて
 もったいぶっていた 「田舎者ども*9」は
 小枝の折れる音を 聞くだろう
 あたりを 赤く掠める音のなかに

注1 ティエールとピカール──ヴェルサイユ政府の首脳であり、コミューヌの弾圧者である。
注2 「春めいた代物」──砲弾を意味する。ヴェルサイユ軍は、ポルト・マイヨ、ヌーイ、テルヌ、アスニエール、ルヴァロワ等を砲撃した。
注3 ランボオはヴェルサイュ軍を、サーベルをさげ、土人の太鼓(タムタム)で進む野蛮な一団として描いている。
注4 パリの中心へ進撃するために、ブーローニュの森の池を渡る。
注5 エロス──コミューヌの風刺家は、ティエール、ピカール、ファヴルを腹のつき出た、醜悪な三美神─愛の神(エロス)として風刺した。
注6 コローを描く──焼夷弾で照らされた風景は、コローの絵のような赤みを帯びる。
注7 ファヴル──ジュル・ファヴルは外務大臣として降伏条約の交渉にあたり、一八七一年五月十日フランクフルト条約に署名する。彼は空涙を流し、よく鼻を鳴らした。コミュナールの新聞「人民の叫び」はティエールとファヴルが国の不幸を嘆いて流した空涙をくりかえし嘲笑している。
注8 熱い舗道をもつ―─首都の人民は力にみちて燃えているの意。
注9 「田舍者」──はボルドー議会の反動的な大地主議員たちを名づけたもので、彼らは終始共和主義に反対し、コミューヌ軍に敵対した。


 この「パリ戦争の歌」はランボオ自身が「時局詩」と名づけた通り、状況の詩である。したがって、それが書かれた時点と状況のなかに置いてみて、はじめてその意味が読みとれるような作品である。
 一八七一年三月十八日、パリ市民の蜂起に怖れをなして、時の権力者ティエールはヴェルサユへ逃亡する。コミューヌが権力を握ると、ブルジョワたち、正規軍、ボルドー議会の議員たちもボルドーに移る。そしてヴェルサイュ政府の首脳ティエール、ピカール、ファヴルらは、一八七一年四月二日以来、首都パリへの爆撃を命令する。

 緑の大邸宅のなかから爆弾を飛ばす/ティエールとピカールの輩は/満開の栄光を手にしているからだ
 この弾圧と秩序の代表者たちを、コミューヌの風刺家たちは、腹のつき出た、醜悪な「三美神」の姿に描いた。こうして彼らはオリンポスの山のグロテスクなエロスとなる。
  ティエールとピカールはエロスだ/へリオトロープの抗奪者だ
 このdes ÉrosはリエゾンしてZéros(ゼロ、くだらない人間)に通じることによって、二重に人民の敵を風刺しているのである。彼らに権力を与えたヴェルサイユ議会はボルドー議会の延長であって、そのボルドー議会は「田舎者たち」の議会と呼ばれ、ヴィクトル・ユゴーを追放した。この「田舎者」 Rurauxという言葉は、当時、百姓という本来の意味から離れて、「反動家」の同義語になっていた。
  やつらは 焼夷弾で コローを描く
 ヴェルサイユ軍は、石油入りの爆弾を使って、コローの絵のような火災をひき起した。しかもその翌日、彼らは「石油女」という言葉をつくって、パリの女たちが石油をまいて放火したというデマをまきちらした。この詩には、このような状況のなかで、作者ランボオをつき動かした感情が反映されていると同時に、それを表現するのに必要なメタフォルが使われている。この詩のなかで微妙にあるいは乱暴に使われている形容、隠語、新造語、あるいは言葉のデフォルマシオンなどによって、ランボオは新しい風刺の効果をひき出そうとしたのである。(つづく)

(『ランボオ』──「パリ戦争の歌」)

アイリス
 「パリ戦争の歌」

 一八七一年四月末、ランボオがパリに出て、コミューヌ軍の志願兵としてバビロンの兵営に入ったということは、すでに書いた。その兵営ぐらしで、彼は兵隊どもから冷やかされ、からかわれて、すっかり幻滅して、「盗まれた心」を書く。

   盗まれた心

 おれの悲しい心は舟のともで泣き言をいう
 おれのこころは安たばこでいっぱいだ
 やつらはそこにスープを流しこむのだ
 おれの悲しい心は舟のともで泣き言をいう
 みんなでどっと笑いこけ笑いとばす
 兵隊どもにひやかされからかわれて
 おれの悲しい心は舟のともで泣き言をいう
 おれのこころは安たばこでいっぱいだ

 このうえもなく淫猥で 兵隊流の
 やつらのひやかしが おれの心を汚した
 このうえもなく淫猥で兵隊流の
 画までが 蛇のうえに描いてある
 おお とてつもない力をもつ波よ
 おれの心をつかんで 洗ってくれ
 このうえもなく淫猥で 兵隊流の
 やつらのひやかしが おれの心を汚した

 やつらの噛みたばこが切れたら
 どうしよう おお 盗まれた心よ
 やつらは噛みたばこが切れたら
 バッカス風のしゃっくりをするだろう
 もしも おれの心が卑しめられるなら
 おれの胃袋は むかつくだろう
 やつらの噛みたばこが切れたら
 どうしよう おお 盗まれた心よ
        一八七一年五月

 ここに描かれているのは、古い水夫の新入りいじめ、古参兵の新兵いびりというところである。ランボオは、「生を変える」ことを夢み、それを革命に期待し、革命の大業をいちずにめざしていたのに、兵隊たちの「ひやかし」や「バッカス風なしゃっくり」にやりこめられた。したがって、この耐えがたい汚辱感と嫌悪は、たんに感覚的なものではなく、精神的なものである。彼は十六歳半である。

 パリで幻滅を味わったランボオは、また歩いてシャルルヴィルへ帰ることになるが、その帰途は危険にみちていた。政府軍のパトロールが郊外を見張っていた。郊外を出ると、いたるところにプロシャ軍がいた。しかし彼はそういう危険には慣れていて、それをくぐり抜けるこつを心得ていた。村を通るときには、家に帰る復員兵のようにふるまって……五月の始めに彼はシャルルヴィルに帰り着いた。(つづく)

(『ランボオ』──「パリ戦争の歌」)

亀
三月十八日のコミューヌ勝利のニュースがシャルルヴィルに伝えられたのはその翌々日であった。「三月二十日、ランボオは驚くばかり晴れやかな眼をして現われると、〈やったぞサ・イ・エ!〉と言った」─とドゥラエは書いている。ランボオはじっとしていることができず、ドゥラエをうながして外に出た。髪はぼうぼうとのび、眼を輝かせ、勝ちほこった足どりで、彼は口走った。「やったぞ!  秩序が敗けたんだ!」いつもは控えめな彼が労働者たちに話しかける。「きみ、奴隷暮らしはおしまいだ。人民が武器を執って立ち上ったんだ。自由がやってくるぞ、進歩や正義といっしょに!」
  ドゥラェがまたランボオの言葉として伝えているつぎの言葉は有名なものである。
 「打壊しが必要なんだ……伐り倒さねばならぬ樹もある。そのほか幾世紀にもわたる樹蔭もあるが、われわれはそこでの懐かしい習慣もなくすことになる。この社会にだって、斧をいれて伐り倒し、つるはしでおこして、地ならしのローラーを転ばすことになろう。『すべての谷は埋められ、すべての丘は低められ、曲りくねった道はまっすぐにされ、凸凹の道は平らにされるだろう』財産は平均にされ、個人の倣慢はうちくだかれる。〈おれがいちばん権力家で金持ちだ〉などといえる者はいなくなるだろう。ねたみや阿呆らしい讃美に代って、平和な協調と、平等と、みんなのためにみんなが働くという時代がくるだろう……」
 パリで燃えあがっている革命に駆けつけようという思いが彼を離れなかった。それにコミューヌの国民軍が日給三○スーで義勇兵を募集していた。 四月二十日頃、ランボオはパリへ向かったと考えられる。いつものように彼は徒歩で、一日に三○キロから四○キロを歩いてゆく。こんにち「ヒッチ・ハイク」と呼ばれるものを彼も実行する。通りがかった馬車をよびとめて乗せてもらうのである。四月二十三日か二十四日に彼はパリに着いた。徴兵センターで彼は歓迎され、彼のためにカンパが集められる。軍帽のなかに集まった金は二一フラン一三スーだった、とドゥラエは書いている。彼はバビロン兵営の義勇兵遊撃隊に入れられる。兵営には、職業的な兵士、労働者、アルジェリア歩兵、国民軍兵士、海兵などが、ごちゃまぜに詰めこまれていた。こうしてある朝、入墨をした男たちや義勇兵たちの兵舎のなかに、ランボオは眼をさました。外出もできた。フォランという名の同じ年頃の若者といっしょに、彼はパリを歩きまわる。彼が小さなノートに「共産主義憲法」を書いたのは、恐らくこの兵営においてである(このノートは見つかっていない)。
 しかし、ランボオはまもなく兵隊たちとの接触に、吐気のするような嫌悪をおぼえるようになる。噛みたばこ、酒びたり、猥談……兵隊たちはそこから抜けられなかった。彼らの卑猥さ、猥せつ趣味にランボオは耐えられない。四月末、彼は兵営の生活を放棄することになる。彼はこの幻滅をひとつの詩のなかに表現し、この詩を「盗まれた心」「道化師の心」また「責苦にあう心」と名づけている。彼は英雄になろうとしたのに、ひとりの道化師にすぎなかったというわけだ。「パリ戦争の歌」が書かれたのもこの頃である。(この項おわり)

  (新日本新書『ランボオ』)

パリ・コミューン


 このパリ滞在中の生活は悲惨なものであった。デムニ宛の手紙では「ぼくはそこでグラティニの〈赤い鉄〉と〈新しい懲罰〉を読んだ」と書き送っている。それらは過激なパンフレットであった。ランボオはまた、「人民の叫び」紙上のヴェルメルシュの論説に心動かして、彼に会おうと努めている。ヴェルメルシュはのちにコミュナールとなるジャーナリスト・詩人である。

 ランボオがパリで惨めな生活を送った日日は、またパリ市民にとってもきわめて暗い日日であった。パリの民衆は、戦争によって裏切られた後、こんどは反動政府が革命を怖れて締結した講和条約によって裏切られた、という怒りの念を深くしていた。講和条約の署名につづいて、支払停止令(モラトリアム)の廃止が決まる。肩の荷をおろした保守主義者たちは、臆面もなく満足を表明する。パリから逃げ出していた多くのブルジョワがもどってくる。保守的なゴンクールさえ書いている。
 「奇妙な行列、ポン・ド・ヌーイの橋を渡って帰ってくる、男、女、あらゆる人たちの行列。みんなが必需品の鞄や袋をぶらさげ、ポケットは食料品でふくらんでいる。肩に五、六羽の鶏をかついだブルジョワもいれば、二、三匹のウサギを持っているのもいる……」(二月七日付の「日記」)
 一三○日もの間、ドイツ軍に包囲されていたパリは、窮乏のどん底にあった。鶏やウサギを持って帰ってきたのは金持ちのブルジョワだけであった。国民軍の兵士の日給が一・五○フランであった時、チーズ一キロが六○フラン、豚肉一キロ四四フラン、猫一匹一五フラン、鶏卵一個二・ 七五フラン、鼠一匹二・二五フラン……つまり猫や鼠まで食べたのである。─これがランボオの見たパリである。

 一八七一年三月十八日、この飢えたパリのバリケードのうえに、パリ・コミューヌは立ち上った。その日パリ市民は、市民の醵金によって造った大砲をヴェルサイユ軍が奪うことを拒絶して立ち上ったのである。ティエールは恐怖にふるえてヴェルサイユへ逃亡し、コミューヌは権力を獲得する。世界最初のプロレタリア政府である。
 三月二十八日、パリ市庁前の広場でパリ・コミューヌ成立を宣言する人民集会が開かれた。その日の光景を、コミューヌの革命的ジャーナリスト・作家であったジュール・ヴァレースは 「人民の叫び」紙に書く。
 「なんというすばらしい日だろう! 大砲の口を金色に染めている、すがすがしくて明るい太陽。この花束の匂い。この林立する旗のはためき。青い川のように、静かに美しく流れる、この革命のつぶやき。このわくわくするようなうれしさ。この明るい光り。この金管楽器のファンファーレ。この銅像の照り返し。この希望の明るい炎。この光栄のこころよい雰囲気。そこには、勝利した共和主義者たちの軍隊を、誇りと歓喜によって酔わせるに足る何ものかがあった。
 おお、偉大なパリ!
 ……これから何が起ころうと、おれたちがふたたび敗れ、明日は死なねばならぬとしても、 おれたちの世代は慰められた。おれたちの二十年にわたる敗北と苦悩は報われたのだ。
 ラッパよ、風に鳴りひびけ! 太鼓よ、広場にとどろき渡れ!
 うちひしがれ絶望した者たちの息子よ、きみは自由な人間になるだろう!」
 勝利した人民の歓喜を、ヴァレースは精いっぱい歌いあげている。しかしこの歓喜の日は長くはつづかなかった。
 (なお、パリに出てきたランボオは、このヴァレースが発行していた新聞「人民の叫び」紙を読んでいる。ヴァレースは時にランボオより約二十歳年長の三十九歳であった。ヴァレースはコミューヌ敗北後、ロンドンへの亡命に成功し、パリ・コミューヌを自叙伝的に描いた小説『蜂起者たち』〈一八八二年〉を書いている。)
 ティエールとボルドー議会、及び正規軍もヴェルサイユに移る。そして四月二日以来、ヴェルサイユ軍はパリ郊外に砲弾の雨を降らせる。(つづく)



  (新日本新書『ランボオ』)

コミューン

パリ市庁前のコミューヌ宣言


 一八七一年三月十八日

 一八七一年二月十五日、中学(コレッジ)が町の劇場を教室として再開することになった(元の中学は傷病兵のための病院に変っていた)。しかしランボオ夫人の最後の希望も絶たれる。息子が勉学をつづけることを拒否したからである。
 二月二十五日、息子は時計を売って、汽車に乗ってパリへ向かう。そうして二月二十五日から三月十日までの二週間、彼はパリに滞在する。
 ランボオが到着したパリは騒然としていた。それはまさにパリ・コミョーヌの前夜であった。ジャン・リッシャール・ブロックはその状況を簡潔に描いている。
 「世界でもっとも豊かでもっとも有名な国のひとつである国の首都─人口百万の大都市が、一三○日このかた包囲されている。この都市は怖るべき苦痛をなめ、その苦痛に英雄的に耐えている。一三○日このかた、この都市の防衛司令官たる将軍は降伏する機会をねらっている。一三○日このかた、首都防衛の保塁の大砲は将校たちの命令によって空に向けて撃たれている。一三○日このかた、町を守っている人民と軍隊はあくまで抗戦することを要求している。かれらは愛国心に燃え、武装し、豊富な弾薬をもち、その数は三九万に達している。これから何が起こるのか。どんなドラマが繰りひろげられるのか。
 これが一八七一年におけるパリのドラマである。……」

 小ナポレオン一味にとってかわった政府は武装した人民に対抗するために、プロシャ軍との和解を望む。パリが勝利すれば、それは共和国の勝利となり、人民の勝利となるだろう。ブルジョワの政府はそれを怖れている。しかし、破滅に投げて捨てられている祖国を救うために、人民は戦い続けることを要求する。ここに、支配層と人民との根本的な矛盾がある。
 ランボオがパリに到着した翌日、二月二十六日に講和予備条約がヴェルサイユで調印され、ボルドー議会でその批准が可決される。ボルドー議会の反民族的態度を見てパリには不安がみなぎる。
 「同じ日、四万人近くの国民軍がパリでデモ行進をした。東駅では武器が民衆に奪い取られた。二日後、モンマルトルは内乱状態になった。場末でも民衆は武装していた。」(デュクロ 『パリ・コミューン』新日本選書)
 この国民軍というのは、労働者、職人、小ブルジョワからなる人民軍であった。小ナポレオン一味にとってかわったティエール政府は、ドイツとの和平を早く実現することによって、人民の革命の危険を避けようとこれ努めていた。条約の規定によってドイツ軍はパリに入城する。その模様をリサガレは次のように描いている。
 「プロイセン軍は三月一日に入城することができた。民衆の手に取りもどされたこのパリは、もはや一八一四年三月三○日(ナポレオンの敗北により、パリがプロイセン、ロシア等の同盟軍に降伏した日)のような貴族と上層ブルジョワのパリではなかった。軒並みにたれている弔旗、ガランとした街路、閉めきった商店、涸れた噴水、覆いのかかったコンコルド広場の銅像たち、晩になっても頑としてつかないガス燈、それらはいずれもこの町は屈服していないのだと語っていた。」(前掲書に引用)このドイツ軍も三月三日にはパリから撤退する。

 ランボオはドイツ軍の示威行進にはなんの関心も示さない。彼は敬愛していた風刺画家アンドレ・ジルを訪れる。アンフェール街にある、画家の留守中のアトリエに上りこんで、長椅子に横たわって寝こんでしまう。帰宅して、眠っている彼を呼び起こしたジルに彼は言う。「ぼくは詩人です。シャルルヴィルからやってきました。とてもいい夢をみていたところです」
 「夢を見るなら、わたしは自分の家でみますよ」─と画家はつぶやいた。
 しかし画家はやさしい男だったので、何がしかの金を与えて、ランボオを立ち去らせる。また宿なしのみじめな浮浪者暮らしである。外套のポケットにひと切れの薫製の鰊(にしん)を入れて、街をさまよい、橋の下や石炭船のなかにも寝た。この生活にうんざりして、三月十日頃、彼は歩いてシャルルヴィルへ帰る。髪は伸び、服はぼろぼろで……ドゥラエに会うや、彼は吐きだすようにいう。「みんな食うことばかり考えている。パリなんかもう胃袋でしかない!」
 のちに『地獄の季節』の「訣別」のなかに描かれているのは、この惨めなパリ暮らしにちがいない。
 「おれの肌は泥とベストにむしばまれ、髪の毛や腋の下は虱(しらみ)だらけ、さらにもっと大きな虫(やつ)が心臓に巣くい、年齢(とし)も、気心も知れぬ連中のあいだに身を横たえて……おれはそこで死んでいたかも知れぬ……」(つづく)


  (新日本新書『ランボオ』

ヌード
  普仏戦争・最初の家出

 学年末がきて、ヴァカンスになって、イザンバール先生は、シャルルヴィルの西北一五○キロほどにあるノール県のドゥエの家に帰ってゆく。帰りしなに彼は、あとにひとり友もなく残るランボオを慰め、自分の蔵書をいつでも読めるようにと、部屋の鍵をランボオに与えてゆく。
 七月十日に普仏(ふふつ)戦争が勃発し、十五日に宣戦が布告された。十六日に、政府の御用新聞「祖国」に、ポール・ド・カサニヤックは檄をとばし、「思い出したまえ!一七九二年に諸君は偉大であった」と書く。この新聞はその二日前に、ナポレオン帝制の未来のためには戦争が必要だと書いたばかりで、いまや独裁者の王座を守るために、厚顔にもフランス革命の先人たち、ヴァルミやフルーリュの死者たちまでも引合いに出したのである。憤慨したランボオは、さっそく「一七九二年と九三年の死者たち」を書き、自由のために倒れた英雄たちをほめたたえ、カサニヤックに辛辣な詩句を浴びせる。

 一七九二年と九三年の死者たち

 「……一八七〇年のフランス人よ、ボナパルティストよ、共和主義者よ、
  思い出し拾え、一七九二年の父祖たちを……」
     ──ポール・ド・カサニヤック「祖国」

 一七九二年と一七九三年の死者たちよ
 おんみらは自由の烈しい接吻(くちづけ)に蒼ざめて
 平然としてその木靴の下に 打ち砕いた
 全人類の魂と額の上にのしかかったくびきを

 嵐のなかに 心高ぶらせた偉大な人たちよ
 その心臓はぼろの下で 愛に高鳴っていた
 おお 高貴な愛人死神が よみがえらせるため
 古い畝(うね)のなかにまき散らした 死者たちよ

 その血は 汚された偉大さを洗いきよめた
 ヴァルミ*注の フルーリュの イタリイの死者たち
 おお 暗くやさしい眼をした百萬のキリストたち

 われらはおんみらを共和国とともに眠らせてきた
 棍棒の下のように王公の下に身をかがめたわれらに
 カサニヤック氏らは再びおんみらについて語るのだ
  *注 ヴァルミの戦いは一七九二年九月二十日に行われた。その日デュムーリェに指揮された浮浪者、仕立屋、靴職人などから成る人民軍は、プロシャ軍の隊列を突破して勝利を博し、フランス革命を守ったのだった。

 普仏戦争が始まって、シャルルヴィルのほとんどの市民たちが、好戦的なナショナリズムに沸き立っていた時、十六歳のランボオはそれにまったく心動かしていない。パリでは、労働者階級のもっとも先進的な部分が戦争反対のデモをくりひろげていたが、その影響がシャルルヴィルまでとどいたとは思われない。ランボオの対応はまったく個人的なものである。八月二十五日付のイザンバールへの手紙は驚くべきものである。
 「あなたはシャルルヴィルに住んでいなくて幸せです。
 ぼくの生まれた町は、田舎の小さな町のなかでもとびきり愚劣です。こんな町にぼくはもう幻想を抱いていません。この町はメジエールのそばにあるからです……町の通りを二、三百人の兵隊どもがぶらつき、あの殊勝ぶった町の連中が、メッスやストラスブールの攻囲された人たちとはちがって、勿体ぶった剣客気どりで身ぶりよろしくまくしたてているからです。退役軍人の乾物屋の親父がふたたび軍服を着こんでいるのにはぞっとします! 公証人、硝子屋、収税吏、指物師など、猫も杓子も、祖国は立てり! とばかり勇気りんりんシャスポ銃を胸に、メジエールの城門でパトロールの真似をしているのは素敵なものです。だがぼくはじっと坐った町の方が好きです。長靴を動かすな! それがぼくの信条です……ぼくは、日光浴、はてしない散歩、旅行、冒険、それから放浪三昧がしたいのです……」
 この手紙のなかで、彼はシャルルヴィルの小ブルジョワたちに侮蔑をもって反抗している。ランボオの体格が変わる。チビといわれていた彼が、急に一メートル七七に背が伸びる。彼の振舞いも変わる。髪を伸ばし、顔も洗わず、煙草をふかし、不良少年のようにベンチに横たわるようになる。
 ランボオ夫人は、いままで息子にきびしくしつけてきた行儀作法が、数週間のうちに崩れ去ったのを見て茫然とする。息子のなかで何が起こったのか──それは単なる思春期の危機などではなかった。ナポレオン帝制の崩壊、戦争による混乱などの影響をうけて、長いこと抑圧されてきたランボオの性格が暴発したのである。こうして八月二十九日の家出が決行される。
 その日、ランボオは母親や妹たちとムーズ河のほとりを散歩していた。母親たちがふと気がつくと、彼の姿がなかった。驚いて彼女たちは町じゅうを、それも「悪所」まで探してまわったが、むだだった。プロシャ軍のパトロール隊にでもつかまったのではないか、とさえ彼女たちは想いめぐらした。──実はそのとき、ランボオはすでにパリゆきの列車に乗っていたのだ。
 ランボオは学校のコンクールの賞としてもらった本を売って駅にゆく。戦乱のためにパリ直通の線は不通であった。そこでベルギーのシャルルロワに出て、そこでブリュッセルーパリ急行に乗ろうと考えた。しかし、遠廻りのおかげで旅費が足らず、途中のサン・カンタンまでの切符しか買えない。結局、サン・カンタンからパリまでは切符なしで行くことになる。パリの北駅では警官が見張っていた。首都には暴動が起き、スパイを警戒していた。ランボオは逮捕されて、ディドロ大通りのマザスの牢獄にぶちこまれる。彼はさっそくイザンバールに手紙を書く。
 「あなたがしてはいけないと忠告してくれたことをぼくはやってしまいました。母の家を出てパリにやってきたのです。この旅には八月二十九日に出たのです。一文なしで、汽車賃が一三フラン不足したために、客車から降りると捕まって警察に連行され、きょうマザスで裁判を待っているのです。──いつもあなたはぼくにとって兄きのようでした。どうかぜひぼくを助けてください……」
 イザンバールはただちにランボオの釈放に必要な手続きをとった。ランボオはすっかり恐縮して、小さくなって、ドゥエに到着し、先生とジャンドル家の三姉妹に迎え入れられる。イザンバール先生は三姉妹を叔母と呼んでいたが、彼女たちはイザンバール家の友人で、イザンバールが幼少のときに母親を失ったので、彼女たちが彼を育てたのである。いちばん上の姉のカロリーヌは三十八歳であった。姉妹は、ランボオがマザスの牢獄からしょいこんできた虱(しらみ)をとってくれる。一八七一年に、彼は優しい姉妹を思い出して「虱(しらみ)をとる女たち」を書く。

     虱をとる女たち

  赤いあらしにみちた 少年の額が
  白い夢の群れを 請いもとめるとき
  彼のベッドのそばに 魅惑的な姉妹が二人
  やってくる 銀の爪のか細い手をして

  彼女らは少年を大きく開いた窓の前に坐らせる
  青い空気が咲きみだれた花花を浸している
  露の降りた彼の濃い髪のなかを 彼女らの
  魅惑的で怖ろしい かぼそい指がさまよう

  少年は聞く 彼女らのおどおどとした息の歌うのを
  におやかなバラの蜜の匂いをただよわせて
  それもときおり途ぎれる 唇の唾(つば)を
  のみこむのか 接吻(くちづけ)したいと思って

  香る沈黙のなか 彼女らの黒い睫毛の
  しばたくのが聞こえる 電気のような優しい指が
  美しい爪の下で 虱を潰す音が聞こえる
  少年の もの憂い ほろ酔い心地のなかに

  いまや 彼には「けだるさ」の酒がまわって
  ハーモニカの溜息にも 我を忘れんばかり
  少年は感じる ゆっくりとした愛撫につれて絶えず
  泣きたいような想いが生れたり消えたりするのを

 この詩には、ランボオのきわめて早熟な感覚・官能──少年のものとは思われぬような繊細微妙な官能表現が見られる。「黒い睫毛のしばたき」「美しい爪の下で虱を潰す音」など心にくいばかりである。第三節では、「蜜の匂い」の嗅覚と、くちびるのうえの唾の音の聴覚の印象を暗示すると同時に、「おどおどした息」や「接吻したい思い」などの漠然とした微妙な感情をあらわすことに成功している。

   (新日本新書『ランボオ』

駅


 『ランボオ』 目次

1.
2. 生地・シャルルヴィルヘ
3. ランボオとその時代
4. ランボオ家・「七歳の詩人たち」
5. 神 童
6. 恩師イザンバール・「鍛冶屋」
7. 普仏戟争・最初の家出 (「一七九二年と九三年の死者たち」虱をとる女たち」)
8. 街道の詩・「居酒屋緑亭」 (「居酒屋緑亭にて」「いたずら好きな女」)「冬の夢」「谷間で眠る男
9. 一八七一年三月十八日
10.「パリ戦争の歌」
11.「ジャンヌ・マリーの手」
12.「見者の手紙」
13.「パリのどんちゃん騒ぎ」
14. コミューヌが敗北して
15.「酔いどれ船」
16.「酔いどれ船」について
17. パ リ
18. ランボオとヴュルレーヌと
19. ロンドンへ
20. ロッシュの農場「悪い血」
21. ブリュッセルの悲劇
22.『地獄の季節』
23.『イリュミナシオン』について
24. 風の靴を穿いた男


ランボオ
 それからちょっと後の一八七○年十月に書かれた「悪」というソネットは、「タルチョフの懲罰」とおなじように神を攻撃し、宗教の偽善をあばいている。それはもはや懐疑主義などでなく、まさに反抗である。

   

 一斉射撃の吐きだす赤い痰が 一日じゅう
 はてしない青い空に唸りをあげている時にも
 それを興がる王のちかく 真紅の大隊や
 緑衣の大隊が 砲火の中にどっと倒れる時にも

 怖るべき狂気が十万の人びとを撃ち砕き
 血にまみれた かばねの山に変える時にもー
 夏の中 草の中 自然の歓喜の中の哀れな死者たち!
 おおこの人たちをおごそかに作り給うたおん身 自然よ!

 その時にも 神は 緞子どんすの祭壇布や 香や
 大きな黄金の聖餐杯に ほほ笑みながら
 讃美歌のふしにゆすられて まどろんでいる
 そうして母親たちが 怖れに身をすくめて
 古びた黒い 帽 子 ボンネットの下に泣きながら ハンカチに
 包んだお賽銭を投げる時 神は眼を覚ますのだ!

 「哀れな死者たち!」─戦争で虐殺された庶民たちのみじめさが、「緞子の祭壇布」「黄金の聖餐杯」など、教会の豪華さにたいしてあざやかな対比をみせている。「神、それは悪である」と言ったのはプルードンである。

 さて、ドヴェリエールとブルターニュはランボオに革命的民主主義を吹きこみ、他方、イザンバールは彼に唯物論哲学を教えた。イザンバールはギリシャの詩人リュクレスによってランボオを酔わせる。彼は己のなかに、ふつふつと湧きあがるもの、溢れでる生、愛の躍動を感じとる。小さい時、絵入り新聞を読んだときの冒険への夢想が、彼のなかでますます大きくなる……。
 ランボオは夢みる。すばらしい国ぐにへの冒険だけではない。過ぎさった世紀の生、明日の日の人類の生を想い描く。彼は、リベラルで無神論者の歴史家・哲学者エドガ・キネ(一八〇三ー一八七五)や社会主義者ビエル・ルルー(一七九一ー一八七一)などの著書を読んで、人類は自由と愛の未来にむかって前進している、と信じるようになる。─古い強制はなくなり、人めいめいの努力が、共同の幸福をめざした万人の努力と結びつくような未来が来るだろう。この進歩にとって、科学はすぐれてその手段となるだろう。いままで科学は少数者によって研究されてきたが万人によって追求され、かくて人類は統一を見いだし、万物の秘密をさぐり、 「理想の征服」にむかって前進する日が、いつかくるだろう
 一八七〇年五月、ランボオはイザンバールのすすめで、高踏派の高名な詩人テオドル・ド・ パンヴィルの詩集をよみ、『パルナッス』誌を手に入れる。彼は同誌に自分の詩が掲載されることを夢みる。そこで五月二十四日、彼はバンヴィルに手紙をかき、「感覚」「肉体と太陽」 「オフェリア」などの詩を同封し、『パルナッス』誌に載せてくれるようにと懇願する。─その「感覚」という詩は、ほかの先輩詩人たちの影響から脱した、ランボオそのもののひびきをもつものとして、後に高く評価されることになる。

    感 覚

 夏の青い夕ぐれ おれは小道を行くだろう
 小麦にちくちく刺され 小草を踏んで
 夢みながら 足には草の冷たさを感じ
 むきだしの頭を 風に浸しているだろう

 おれは口もきかず 何も考えぬだろう
 だが果てしない愛が こころに昇ってくるだろう
 おれは遠く遠く 流浪者ボへミアンのように行くだろう
 大自然の中を 女といっしょのように幸福に

 最後の詩句、「大自然の中を 女といっしょのように幸福に」は、ランボオの汎神論的傾向をしめすものとして知られている。
 さて高名な詩人バンヴィルは返事をくれたが、それはこんにち残っていない。内容もわからない。ただわかっていることは、ランボオの詩が『パルナッス』に載らなかったことである。
 若き詩人の幻滅は大きかった。ついで彼の生活をめちゃくちゃにするような二つの大事件が起こる。ひとつは、一八七○年七月の普仏戦争の勃発である。もうひとつは、イザンバール先生がシャルルヴィルから去るということであった。
 ランボオには何が残るのか。彼はどうするのか。─イザンバール先生の愛情と指導なしに、中学の勉強をつづける……学校から帰れば、また息のつまるような家庭が待っている。もし田舎にとどまっていれば、詩で名をあげたいという彼の夢はとうてい実現されないだろう。そして彼は次第に憂鬱と倦怠のなかに沈みこむだろう。─このような前途への見通しを前に して、彼はどのような決意をすることができたろう?彼の前には、シャルルヴィルからの脱出の道しかない……彼は家出を決意する。 (この項おわり)

草原

 中学の第二学年になると、ランボオの革命的情熱はきわめて激しい調子をおびる。一八七〇年五月に書かれた「鍛治屋」には、ヴィクトル・ユゴーの「諸世紀の伝説」の影響がみられるが、そこにはたくましい自由な人間の夢がみいだされる。この自由な人間は、暴君をうち倒すために、いつでも銃を手にして街へくり出してゆく用意をしている。そこにはまた人類の進歩、人類の未来にたいするランボオの信仰がみいだされる。この詩を書いたランボオは、ユゴーの『懲罰詩集』をとおしてフランスの歴史を見つめ、ミシュレの『フランス革命史』に夢中になっている。

   鍛治屋(抄)
           ──一七九二年八月十日──
 でっかい かなづちのうえに 腕ついて
 酔っぱらった図体も 怖ろしいけんまく
 ひろい額で 赤銅のラッパのように大口で笑いながら
 肥っちょの王を 残忍な眼つきでにらみながら
 ある日 「鍛治屋」はルイ十六世にまくしたてた
 そこにいた民衆は あたりをねり歩きながら
 金ぴかの床のうえに 汚い服をひきずっていた
 ところで お人好しの王は 腹つきだして立っていた
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「さて 陸下(ムッシュウ) おいらは歌ったトラララ
 そして牛どもを他人の畑へ追いやった
 坊主は金貨をつらねたきれいな数珠で
 だらだらお念仏をならべていた 陽あたりで
 お殿さまは角笛吹きならしながら馬でお通り
 片手には綱 片手には鞭 それでおいらをめった打ち
 おいらの眼は牡牛の眼のように どろんとぼやけて
 もう涙さえ出なかった おいらは働いた 働いた
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「だが おいらは今こそ知った! この額と
 たくましい二つの手と鉄槌(かなづち)をもっているかぎり
 おいらはもう信じるものか だまされるものか
 外査のしたに匕首をしのばせた男がやってきて
 『こら わたしの土地に種子をまけ』などと言ってもー
  また戦争にでもなれば またぞろやってきて
 おいらの家から息子をひったてて行くのだ!
 おいらが下臣で おまえさんが王さまだったら
 言うだろう『余は欲する!』と 全くばかげたことだ
 おまえさんのすばらしい小屋や金びかの将校どもや
 たくさんのならず者どもや 孔雀のように
 ねり歩くおまえさんのたいへんな私生児どもを
 おいらは見るのが好きだとあんたは思っている
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「いや そんな汚辱はおいらのおやじの頃のこと
 おお人民たちはもう浮売婦ではない 三歩動いて
 おいらは バスチーユをこっぱみじんにした
 このけだものはその石の一つ一つで血を吸って
 胸が悪くなるほどだった バスチーユはそそり立ち
 その癩病みの壁は すべてを物語りながら
 いつもその闇のなかにおいらを閉じこめてきた!
 市民よ市民よ おいらが塔を奪いとったとき
 暗い過去は崩れおち 断末魔の呻きをあげた
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 鍛治屋は王の腕をとると ビロードの窓掛けを
 さっと開いて 下のひろい中庭をさし示す
 そこには群衆がむらがり沸き返っている
    「あれはろくでなしだ 旦那
 あれは壁によだれを垂らし 群がりふくれ上る
 みんな食えないから みんな乞食どもなんだ
 おいらは鍛治屋だ おいらの女房もあの中にいる
 チュイルリー宮殿に行けば パンがあると
 血眼になって あれは思いこんでいるのだ
 おいら貧乏人は パン屋では相手にされぬ
 おいらはがきが三人 おいらもろくでなしだ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 鍛治屋は金槌をふたたび肩にかついだ 群衆は
 この男が近づくと うっとりと酔い心地になった
 そして広い中庭のなか 街の家家のなか
 パリじゅうが息を切らして どよめいていた
 はてしもない群衆の波を 戦慄がゆさぶった
 そのとき 垢だらけのでかい手を振りあげて
 鍛治屋は ぱっと赤い縁なし帽を投げつけた
 太鼓腹をした 汗まみれの王の額めがけて!

 「鍛治屋」の傍題「一七九二年八月十日」というのはまちがいで、史実上では「一七九二年六月二十日」が正しい。じっさいに群衆がチュイルリー宮殿におし入り、「肉屋のルジャンドルが進みでて、国王に〈ムシュー〉とよびかけ、嘘つき、裏切り者と攻撃し、猛烈な請願文を読みあげた」(ミシュレ『フランス革命史』中央公論社版)のは六月二十日であった。ランボオは 詩のなかに、ルジャンドルの代りに鍛治屋を登場させている。この月、国王は群衆をなだめるために、群衆のひとりが槍の刃先にひっかけて差しだした赤い縁なし帽をかぶったといわれるが、ランボオの詩では、鍛治屋が国王の額にそれを投げつけたことになっている。なお、フランス革命の時代に、革命派がかぶった赤い縁なし帽(ボンネット)──フリジア帽はローマ人にあっては解放のしるしであった。ブリッソという人物が、一七九二年の初め、この赤い縁なし帽を愛国者のしるしとして採用するように提案したといわれる。
 この詩のなかで、鍛治屋が「おいらもろくでなしだ」と叫ぶところがある。この「ろくでなし」(la crapule)という表現は、ドゥラエがランボオに語ってきかせた話に由来する。 「ある日、シャルルヴィルのデュカール広場で、哀れな労働者風情の男がひどく酔っばらって、よろよろとして、三歩も歩けず、熱い涙を流しながら唸っていた。〈ろくでなしだ! おれはろくでなしなんだ……そして自分自身をこらしめるように、大きな拳で自分の腹をぶっていた……〉(ドゥラェ「うち明けた回想録」)
ヴィクトル・ユゴーのように、ランボオもまた、あくせくと働き、控取され、侮蔑される人びと──「ろくでなし」の味方となる。この詩によって、ランボオはその怒りを時の皇帝ナポレオン三世に間接的にぶつけている。そしてこの象徴的な鍛治屋は、まさに自由と平等をもとめる人民の夢をあらわしているのである。 この政治的反抗は、教会と聖職者への反抗をともなう。ランボオの烈しい、一種の反教権主義は、「タルチュフの懲罰」「法衣の下の心」のなかに爆発する。ドゥラェは書いている。 「あの超人間的な権利に挑戦するという英雄主義……わたしたちがシャルルヴィルの公園を散歩中、わたしはランボオがベンチのうえに〈神なんかくそくらえ!〉と白墨で書くのを見たが、そのとき彼は恐らくその英雄主義を発揮していたのだ……」 (つづく)


      (新日本新書『ランボオ』)

きつね


 恩師イザンバール・「鍛治屋」

 中学(コレッジ)の頃のランボオは、背の低い少年であった。ちょっと上向きの鼻で、髪は明るい栗色で、青い眼をしていた。「世にもやさしい眼」とドゥラエは書いている。その瞳は「つるにち草のような青色の濃い輪にとり巻かれていた」ランボオは背の低いことに劣等感を抱いていて、「チビ!」と言われるのをきらっていた。身なりもきちんとして、こぎれいで、髪にポマードをつけていた。黒い上着、灰色のズボン、のりのついた白いカラーをつけて、ドゥラェによれば「非のうちどころのない」身なりであった。
 ところで、ドゥラエの証言によれば、第四学年のとき、ドゥラエ(十四歳)がランボオ(十三歳)に「一八五一年十二月二日のクーデターをどう思うか」とたずねると、彼ははっきりと答えたという。「ナポレオン三世は囚人船行きがいいところだ」と。
 またランボオは、宿題の作文のなかに書いた。「ロベスピエールよ、サン・ジュストよ、クートンよ、若者たちはあなた方を待っている」
 一八七○年の初め、修辞学の教師ジョルジュ・イザンバールが新たに赴任してきた。彼は学校を出たての二十一歳の青年で、詩を愛し、当時ガンジー島に亡命していたユゴーを愛し、時の皇帝ナポレオン三世を憎悪する共和主義者であった。彼はまもなく、異常な天分にめぐまれた少年ランボオに注目する。彼はランボオの詩的天才に驚嘆して、詩の道へとランボオをはげますようになる。彼は教室において教えるだけでなく、放課後もランボオといっしょに散歩しながら話しあったり、いろいろの本を貸し与える。ラブレー、ユゴー、ボードレールなどとともに、プルードン、ルイ・ブラン、ミシュレなどの社会主義的な本がランボオの手にはいる。 ランボオはたくさんの本を読みあさり、町の図書館にも通う。
 その時代のブルジョワの母親たちと同じように、ランボオ夫人もまた、詩のもつ危険な力を思い知ることはできなかった。彼女にとって詩などというものはなんら危険のないものであった。しかし、ランボオがユゴーの小説『ノートル・ダム・ド・パリ』 を読んでいるのを見つけると、彼女はイザンバールに激越な手紙を書く。「子供に読ませる本を選ぶには用心深くなければならない、ということを、先生はわたくしなどよりもよくご存じのはずです……」彼女は『ノートル・ダム・ド・パリ』を『レ・ミゼラブル』と思いちがいして、自分の息子をユゴーのような危険思想をもった作家の共犯者にしないでほしい、と責めたてたのである。 ランボオ夫人はユゴーのような文学を読むことを禁じたが、少年はイザンバール先生のところへ本を読みに行くことで、母親に反撃した。先生は留守のあいだ、部室の鍵をランボオにあずけていた。
 イザンバールはシャルルヴィルにやってきて、二人の男と知りあいになった。レオン・ドヴュリエールとポール・オーギュスト・ブルターニュの二人である。前者はロッサ学院の教師で、気前のいい、楽天的で行動的な大男であった。後者のブルターニュは変り者で、音楽家で、すぐれたヴァイオリン奏者であって、自分の家に小さな室内楽団をつくっていた。彼は教養に富み、たくさんの蔵書をもっていた。彼はまた多才で、ヴェルレーヌの言によれば、当時の酒神バッカス詩人であり、素描家であり、昆虫学者であった。そのうえ彼は大のビール党 で、プチ・ボワ街のカフェ・デュテルムで、ジョッキからジョッキへとあふって数時間を過ごしていた……。
 この二人は若いランボオにたいへん興味をいだいた。ドヴェリエールはランボオに煙草をあたえ、いろいろの本を貸しあたえた。ブルターニュはカフェ・デュテルムで、中学生のランボオを自分の前に坐らせ、ビールを前にして話もせずにパイプをふかしていた……。
 ランボオ夫人は、こうして息子がイザンバールのグループと交って、彼女のねがっている世界とは反対の思想の世界に眼をひらいていたことに気がつかなかった。
 この三人はいずれも共和主義者であり、また神を信じなかった。この二人とまじわって、ランボオは政治的反抗と同時に宗教上の反抗をもおし進める……。
 この小さなグループは反体制の新聞をよんでいた。後のパリ・コミューヌを準備していたとも言える、「ラ・ランテルヌ」(街灯)紙、「マルセイエーズ」紙などを読んでいたのである。
  ところで、このような階級制にたいする反抗は、ひとりランボオが出入りしていたこの小さなグループだけの特殊なものではなかった。当時、ナポレオン三世の帝制末期にあっては、フランスの街まちにおけると同じように、シャルルヴィルにおいても、中学の上級生と教師たちは、時局問題について、熱心に公然と議論していた。学校当局もなかばそれをみとめて、見て見ぬふりをしていた。この点についてドゥラエは驚くべき証言をのこしている。教師たちは、 歴史、哲学、文学のあらゆる科目において、異論反論を奨励していた。真の「討論会」が組織され、そこでは意識の自由から政治的自由までがみとめられ、「宗教裁判」から「小ナポレオンの十二月二日のクーデター」までが論じられた。度を越した大胆不敵な議論にも、教師たちはただ微笑むにとどめていた。校長までが討論にまきこまれることもあった……。
  このドゥラエの証言をよめば、パリ・コミューヌ前夜の躍動するような雰囲気が、シャルルヴィルのような田舎町の空気のなかにもすでにただよっていたことが察せられる。
 また、このドゥラエの話から、ランボオが中学(コレッジ)の自由闘達な雰囲気によってどんなにか励まされ、どのようにおのれの態度をきめていったかを知ることができよう。 (つづく)

  (新日本新書『ランボオ』)

イザンバール

恩師・イザンバール

 神 童 

 一八六二年十月、八歳のランボオはアルクビュズ街の私立ロッサ学院に入学。そこで初級科の三学年を終える。一八六五年(十一歳)から、サン・セビョルシュル広場にあった町立の中学に入学、第六学級の課程を始める。彼はひじょうに勉強したので、その年のうちに第五学級に進む。(フランスの教育制度では、十二歳から中学第六学級に入り、年を追って、第五、第四、第三学級と進み、十五歳から高校の第二学級、十六歳第一学級、十七歳には最終学級となる。)この学級では、ルーリエ先生がジュル・ヴェルヌの小説などを生徒に読んできかせた。 第三学級に進むと、レリティエ先生がボワローの詩の美しさを教え、ランボオはそれに夢中になる。
 この頃から、ランボオは中学の教師たちの注目をひくようになる。校長はかれの優秀な成績を遠くから見守っていた。その成績がいっそう上がるように、校長はレリティエ先生に命じて、特別の授業をランボオに与えるようにした。
 ランボオは中学に入学したときから、きわめて優秀な生徒であった。けれどもまだ、異常な天才としては話題にならなかった。第五学級では、かれは暗誦による賞と次席賞を獲得したにすぎない。しかし、第四学級になると、かれはすぐれた資質をあらわし始める。ラテン語のヴィルジルの詩によって、かれは自分を発見してゆく。この時から、理科の勉強をそっちのけにして文科の勉強に専念し、クラスの最優秀の生徒となる。学年末に、かれは二つの一等賞と一つの二等賞を獲得する。第三学級の学年末には、四つの一等賞と四つの次席賞を獲得する。一八六九年、第二学級の学年末には、八つの一等賞を獲得し、ドゥエ・アカデミーのコンクールで一等賞と次席賞を獲得する。
 ランボオはとりわけラテン語の作詩・作文に輝かしい成績を残した。その頃の同級生の語るところによれば、彼は理科の授業中に、ラテン語の先生が宿題として出した主題について、数篇のラテン語の作詩を書きあげて、それをクラスの仲間に配った。即興で書かれたにもかかわらず、それらの数篇はそれぞれまったくちがっていたという。日本風にいえば、一中学生がきわめてみごとな漢詩を自由自在に書きあげたということにもなろう。そして現に、一八六八 (十四歳)から一八七○年(十六歳)にかけて書かれたラテン語の詩数篇が、プレアド版ランボオ全集の冒頭を飾っている。さらに驚くべきことに、それらの宿題の作詩のなかに、早くもランボオの深い個性が現われていたのである。
 このように、ランボオは中学(コレッジ)で多くの賞と早熟な創作力とに輝ていたとはいえ、彼はまた中学の心配のたねでもあった。その気むずかしい性質、手に負えない振舞いを見てとっていた校長はつぎのように予言したものだった。「この頭脳のなかには平凡なものは何ひとつ芽ばえぬだろう!……かれは悪の天才になるか善の天才になるだろう!」

   (新日本新書『ランボオ』)

海
 運命というよりはむしろ遺伝のほの暗い力に駆られて、彼女は成人してゆく子供たちと対立し衝突するようになる。とりわけアルチュールは激しく母親に反抗する。妹のイザベルもパテラルヌ・ペリションと結婚しょうとした時、娘と母のあいだにはしばしば険悪ないさかいの場面が見られたという。(ルイ・ピエルカンの証言) 
 ランボオ夫人は自分の信条を子供たちにきびしく守らせようとした。ランボオ一家が日曜日の十一時のミサに出かける時の、シャルルヴィルの街道りをゆく奇妙な列は、町の評判であった。前には手をつないだ二人の小娘。そのあとを、二人の男の子がめいめい青い木綿の雨傘を手にして、滑稽なほどきちんと服を着こんで進む。すべて流行おくれの大きな靴に丸い帽子、白いカラー、最後に、ランボオ夫人が顔つきもいかめしく、黒絹の胴着に身をつつんで、絹の手袋をはめて、しんがりをつとめる……。
 もっとひどいことには、ランボオ家にあっては子供たちがしばしば頬をひっぱたかれたことである。ドゥラエはランボオの告白した、このような家庭における母親のテロリスムについて書いている。さらに母親は子供たちにパンと水だけを与えるという罰を科したり、部屋に閉じこめたりした。ランボオ夫人は家のなかで暴君だったのである。母子家庭における後家のがんばりがそういう酷薄さを生んだのでもあろう。
 ランボオ夫人は少しも息子アルチュールを理解しなかった。母親のこの無理解は息子の反抗をかきたてると同時に、他方では従順をよそおった芝居を演じさせることにもなる。「七歳の詩人たち」のなかのつぎの詩章がそれを物語っている。

  さて おふくろは 宿題の本をさっと閉じると
  満足そうに勝ち誇ったように 出て行った
  息子の青い眼のなかに おでこの額のしたに
  嫌悪に燃えているその魂には 気がつかず

  一日じゅう子供は母の言いつけに従って汗をかいた
  とてもおりこうに だが暗く顔をひきつらせた
  そんな顔つきは 猫をかぶってることを示していた

 ランボオが六歳から七歳にいたる間、つまり一八六〇年から一八六一年にいたる間、かれの一家は庶民的な古いブルボン街に住んでいた。ペリションの語るところによれば、ランボオはそこで「労働者の社会との近所づきあいを知った。──その労働者街では、放ったらかしにされた子供たちが、階段で、中庭で、街なかで、思いのままに遊びまわっていた。」子供のランボオはその街が好きだった。そこから引越してからも、その労働者街を彼は愛していた。そこでいっしょに遊んだ遊び友だち、貧相で汚いその街の子供たちを、「七歳の詩人たち」のなかで彼は思い出している。彼がその子供たちと遊んでいるところを母親に見つかった時の、その母親の怒りようを彼は思い出している。また夕ぐれ、仕事着を着て帰ってくる、その街の労働者を彼は思い出している。

  かわいそうに! その子供たちだけが彼の友達だった
  みすぼらしく 額をむきだし 眼は頬の上に色褪せ
  下痢の臭いのする 古ぼけたその着物のしたに
  泥まみれの黒くて 黄いろい痩せた手を隠した
  その子供たちは 白痴のやさしさで話し合った
  ふとそんな汚ならしい哀れな彼を見つけると
  母親はぎょっとした そして子供の深いやさしさは
  そのびっくり仰天した母親に 身を投げかけた
  よかった 母親は青い眼をしていた──うそつきの!
  ……
  十二月のどんより曇った日曜日は 大嫌いだった
  髪にポマードをつけて マホガニイの円テーブルで
  彼は 緑のキャベツ色にふちどった聖書を読んだ
  毎晩 夢までが ベッドの中の彼をさいなんだ
  神は好きでなかったが 鹿子色の夕ぐれ 仕事着で
  真黒になって場末に帰ってくる人たちは好きだった……

 「下痢の臭いのする 古ぼけた着物……」というのは、子供たちがズボンの中に下痢をもらしていたのであって、まさに七歳の詩人しかとらえることのできないレアリスムがそこにある。この「七歳の詩人たち」は早熟な少年ランボオの内面をよく伝えている。母親の圧制にたいして反抗する前に、彼はまず想像の世界、夢の世界に逃避する。人間が自由である世界、ひろい沙漠の世界に、少年は夢を馳せる。

  七歳 彼はひろい沙漠の生活に思いを馳せて
  すばらしい「自由」の輝いている物語を描いた
  森よ 太陽よ 岸べよ 草原よ!
  種本にした絵入り新聞の中で笑っているスペイン女や
  イタリイ女に 彼は顔を赤らめて 見入った

 またここには、ランボオの早熟な性の眼覚め、ヴィタ・セクスアリスを描いた詩章もある。

  インド更紗の服を着て 栗色の眼をした 隣りの
  労働者の 八歳のおてんば娘がやってきたとき
  乱暴なこの小娘は長い編毛を振り立てながら
  とある隅で かれの背なかに 飛びかかった
  下敷になった彼は 彼女のお尻に噛みついた
  かの女は パンティなど はいていなかった
  そして彼女に拳や足蹴で 痛めつけられて
  彼は彼女の肌の味わいを 部屋へと持ち帰った

(この項おわり)

   (新日本新書『ランボオ』)

草原

 ランボオ家・「七歳の詩人たち」

 シャルルヴィル・ブルボン街のアパートに輝くランプは、二人の少年と二人の少女とランボオ夫人から成る一家を照らしている。この世界をこんな風にも描くことができよう。
 「ぼくの両親はあまり金持ちではなかったが、たいへん正直な人たちだった。全財産としては小さな家しかなかったが、その家はずっと両親のもので、ぼくがまだ生まれない二十年もむかしから両親のもので、数千フラン以上の値うちがあり、それにまた母親のためたへそくりをつけ加えねばならない……
 父親は王の軍隊の士官だった。痩せた大男で、黒い髪でひげを生やし、眼と肌は同じ色をしていた……ぼくが生まれた時、父親はおよそ四十八歳か五十歳であったのに、ほとんど五十八歳か六十歳に見えた。父親は怒りっぽくて激しやすい性格で、しばしば怒鳴りちらして、自分の気に入らないことは何んでも我慢しようとはしなかった。
 母親はまったくちがっていた。やさしい、もの静かな女で、ちょっとしたことにもおびえたが、家の中をきちんと整頓していた。母親がそんなにおとなしかったので、しばしば父親は、まるで若いお嬢さんをからかうように、母親をからかった。ぼくはいちばん可愛がられていた。」(『プロローグ』)
 これはランボオが八歳か九歳の頃に書いた想像の世界であり、作り話である。ここには、やさしい母親のイメージを夢みる少年ランボオの願望を見いだすことができる。
 しかし現実はまったくちがっていた。一八六〇年、ランボオが六歳の時、両親は離別していた。父親が家にいない淋しさを少年は痛感している。世間にたいして、ランボオ夫人はますますきびしく、品位を保って、りっぱに振舞って見せなければならない。
 ここでちょっと、ランボオの両親についてふれておこう。
 永いあいだ、ランボオの伝記のなかで、彼の放浪癖、冒険好き、飲酒癖、冒涜的な呪誼趣味などは父親ゆずりとされてきた。こんにち、じつさいのところはちがうことがわかってきた。
《Rimbaud, Edition Hachette57p》のなかで、アントワヌ・アダムはそう書いている。その論旨をたどってみよう。
 父親のランボオ大尉は優秀な士官で、その生涯はまったく誠実で、りっぱなものであった。彼は大の勉強家で、アラブ語の文法書を著わした。もしも彼の特徴で、その息子のなかに見いだされるものがあるとすれば、それは勉強好きの点であり、研究にたいする積極的な態度である。
 ランボオがその激しい性格をうけついだのは父親の方からではなくて、母親の家系からである。
 母親のヴィタリ・キュイフには二人の兄がいた。つまりランボオの伯父である。長兄のジャン・シャルル・フェリックスは、一六四一年頃、軽罪裁判所の判決を避けるために、アフリカの部隊に入隊しなければならなかった。もうひとりの兄はもっと悪かった。シャルル・オーギュスト・キュイフは飲んだくれては妻をなぐりつけた。妻は彼から逃げだした。彼は農業労働者となり、宿なしの浮浪者におちた。彼を知っている者の証言によれば、彼は鉄のように頑健で、優秀な頭脳をもっていた。しかし、怠惰と酒浸りによって、身をもちくずしたのである。彼はシャトー・ポルシオンの救済院で生を終えるが、死の床でも彼は最後の祈りを拒否して、わめきちらしながら赤ぶどう酒を要求したのである。 
 ランボオの母親はその兄たちとはちがって見えたとしても、やはりキュイフ家のひとりであった。彼女もまた二人の兄のように、強情な意志と野性的な精力の持ち主であった。ちがっていたのは、彼女はこの強い意志と精力を傾けて、ブルジョワ的な厳格さをもって、恥かしくないりっぱな家庭をつくろうとした点である。
 ランボオ大尉と彼女との結婚は恐らく幸せなものではなかった。二人が知り合ったのは、シャルルヴィルの駅前公園で軍楽隊の演奏会がひらかれた夜であった。結婚しても二人が会えたのは、大尉の休暇のあいだだけであった。それで五人の子供が生まれた。ひとりは早く死んだ。一八六〇年八月、ランボオ大尉がシャルルヴィルからさらに西北の、ノール地方のカンプレの駐屯地に転任になってから、夫婦の別離は決定的なものとなった。
 そのときから、家族を養い育てるという重荷が彼女の肩にかかってきた。生活は彼女にとってきびしいものであった。一八五八年、彼女の父親が死んだ時、彼女はシャルルヴィルの南方のロッシュ村にいて、父親からうけついだ農場を管理していた。しばしば彼女は、あのやくざな兄が彼女の家に住みたいと言って来るのを追い払わねばならなかった。こういう若い頃の彼女の苦労、困難、兄たちの醜聞や不始末を知らなければ、彼女が家の遺産と名誉をまもるために異常な努力を傾けたことが理解できないだろう。
 しかし、どうして彼女は、自分の子供たちや隣人たちや世間にたいして一徹で強情な態度をとらねばならなかったのだろう?彼女を知っていた者はみな、彼女は怖るべき女だったという。ランボオの恩師イザンバールは書いている。「ていねいな言葉の影もなければ、やさしい応対もなければ、まったく礼儀正しい感謝の念もない」と。ランボオの友人のルイ・ピエルカンはいう。「彼女が笑ったり、微笑んだりするのを一度も見たことがない」と。彼女は鉄の女であったばかりでなく、氷の女でもあった。
(つづく)

鉄の女

 ランボオとその時代

  ジャン・ニコラス・アルチュール・ランボオは、一八五四年十月二十日、北仏アルデンヌのシャルルヴィルで生まれた。父親フレデリック・ランボオは、メジェール駐屯の歩兵連隊付大尉であった。母親ヴィタリ・キュイフはロッシュの小地主の娘であった。
 ランボオの生まれた一八五四年には、三年前の一八五一年十二月二日のクーデターによって皇位を纂奪した、ナポレオン三世の第二帝制が始まっていた。パリ・コミューヌを扱った大佛次郎の『パリ燃ゆ』の冒頭には、このクーデターの模様が詳しく描かれている。大ナポレオンの甥のルイ・ナポレオンによるクーデクーの陰謀、そのために恐怖をふりまく、恐怖をふりまくために無辜の市民たちを虐殺する、──この犯罪をヴィクトル・ユゴーは『ある犯罪の物語』のなかに記録した。
 『パリ燃ゆ』からちょっと引用しよう。
 「……街にいるのが罪悪とされ、家の中にいるのも罪として咎められた。人殺しは屋内に踏込んで来て存分に人を殺した『やっちまえ』と兵士たちは喚(わめ)いていた。
 ポアッソニエル街一七番地の書店の主人は戸口に立っていた。彼らは、これを殺した。……ランクリ街五番地の家主チリオン・ド・モントーバンが、やはり門口にいて殺され、チクトンヌ街では道を歩いていた七歳の少年ブールシェがやられた。タンプラ街一九六番地のスウラック嬢は窓をあけたところを射殺された。……
 ユゴーは、しつこく、こう言う陰惨な挿話を挙げて書き残している。凄惨で目もあてられぬような地獄の情景なのである。この容赦ない流血が権力のある立場の暴虐な性格をパリの労働者に思い知らせ、深く記憶させて、二十年後のコミューンの内乱の折りの抵抗の気力を培ったものなのだが、この場合の市民は、すべて無関心でいたものを、不意に軍隊の襲撃を受けたのである」(大佛次郎ノンフィクション全集第三巻『パリ燃ゆ』八一ページ)
 一八五一年十二月の血なまぐさいクーデターが、二十年後の一八七一年三月のパリ・コミューヌの「抵抗の気力を培ったものなのだ」という大佛次郎の指摘は重要なものである。こうして一八五〇年代初頭に生まれた者は、パリ・コミューヌの折に青春を迎える世代として生まれついたのだった。それに参加すると否とにかかわらずに──。
 ナポレオン三世の第二帝制は一八五二年から始まった。そして選挙において、体制側の候補者は、たとえばつぎのようなポンジボーの炭坑労働者にたいする呼びかけによって、選挙民に圧力を加えることができた。
 「勇敢な炭坑労働者諸君、選挙が迫ったこの時、余は諸君に若干の忠告を呈することを余の義務と信ずる。余の忠告をよく聞かれたい……ドュ・ミレイユ氏に投票することは、ルーエ氏に投票することである。それは諸君の炭坑の繁栄を保証するものである。それは諸君の生活の手だてであり、諸君の子供たちを諸君のような勇敢で正直な人間に育てあげる手だてである……」(南仏中央山地プュイ・ド・ドム古文書。ポンジボー炭坑もこの地方にある)こんにちで言う「会社ぐるみの選挙」をおしつけたのである。
 一方、クリミヤ戦争を始めたフランス軍はセバストポリに迫っていた。
 一八五四年十月に生まれた子供たちは、すでにこの呼びかけと同じ轍(わだち)のあとを辿るように運命づけられていたのである。
 一八五四年に生まれて、一八七三年に十九歳を迎える者たちにとって、その世界とはいったいどんなものだったろう? 為政者の公約は、秩序、治安、平和である。ランボオは彼の同世代人とともに彼の時代を見いだす。この平和がやがて普仏戦争におけるフランスの敗北という破局につながり、その治安が不平等を小さくするどころかますますそれを増大させるのを、まもなくランボオは見ることになる。はっきりしているのは秩序である。家族や、学校、御用文学や宗教をとおして秩序が強制される。そこからごく自然に「生を変えよう」という要求が出てくる。そしてランボオは未成年者の執狂をもって、ちがったほかの世界を夢みるようになる。
 少年のランボオは、旅行者というよりはむしろ放浪者の好奇心をもって世界を見る。家にあった絵本や地図などが、遠くのほかの土地へ行きたいという夢をはぐくむ……。
   (新日本新書『ランボオ』)

ランボオ