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新日本新書『ランボオ』

ここでは、「新日本新書『ランボオ』」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


(4)

 「ところで、この「手紙」のなかにランボオが披瀝した文学的批評を彼の新しい詩論から引き離すことはできない。ラマルチーヌやユゴー、とりわけボードレールには敬意《オマージュ》をささげながらも、彼らにあってはあまりにも古い形式が、透視《ヴォワイヤンス》の可能性を狭めて「締めつけている」と彼はいう。この詩論では古い詩形式への訣別が告げられているのである。
 それから数ヵ月後、一八七一年九月、ランボオがパリにやってきた時、彼はあらゆる既存の文学にたいする侮蔑を抱き、さらに見者の実験を追求するという断固たる意図を抱いてやってきたことになる。そして彼はたちまちみずからを「錯乱させ」、見者の実験をこころみる恰好の機会を見いだすことになる。聖なる道徳的価値を嘲笑しながら、ヴェルレーヌをともなって「地獄」へ落ちながら、ランボオはその異常な愛のなかにもまた「飲んだくれてみずから無頼の徒にする」方法を追求することになる……。

 ここまで「見者の手紙」をほとんど批判抜きで紹介してきたが、この「見者の詩法」こそは、ランボオの詩的なあやまちのみなもととなるものであり、およそ二年後に「言葉の錬金術」(『地獄の季節』)のなかでみずからこれを否定して、「狂気のひとつ」と言い、「ひとつの愚行」と言うにいたるところのものとなる。
 ランボオが未知へ到達するための方法として採用した「あらゆる感覚を錯乱させること」は、M・A・リュフが鋭く指摘するように、「ただ内面的な世界の発見に通ずるだけである」(M. A. Ruff: Rinbaud, p. 73)。この閉ざされた内面的な世界における幻覚・幻想・幻視によって、ランボオは彼本来のレアリスムから逸脱してゆく……。
 アラゴンは、ランボオが「言葉の錬金術」のなかで自分の過去を要約した最後の行文「これは過ぎさってしまったことだ。おれは今日美を讃えることを知っている」の意義を強調した後に書いている。
 「その後沈黙することになる人の最後のメッセージである、ここのところの行文を知らずして、ランボオの教えを行なうのだなどといえたものではない。一八七一年五月のデムニ宛の手紙を好むなどというのは幼稚きわまる話だ……」(『アラゴン選集」第二巻二七〇ページ、服部伸六訳、飯塚書店)
(この項おわり)

新日本新書『ランボオ』

ヨット

(3)

 「手紙」にもどろう。
 「第一次ロマン派は、みずからまったく気がつかずに〝見者〟であった。彼らの魂の練磨は偶然に始まった。それは見捨てられた、しかし石炭の燃えている機関車で、ときどきレールの上を走るのだ。──ラマルチーヌはしばしば見者だが、古い形式に締めつけられている。──あまりに頑固なユゴーも、最後の著作では多くを見ている。『レ・ミゼラブル』は真の詩である。その『懲罰詩集』をおれはひそかに持っている……。
 第二次ロマン派はひじょうに見者である。……ボードレールは最初の見者であり、詩人の王であり、真の神である。その彼もまた、あまりに芸術家的な環境に生きた。かくもほめそやされる彼の形式も平凡なものだ。未知の創作は新しい形式を要求する……高踏派《パナルシアン》には二人の見者がいる。アルベール・メラと(偉大な詩人)ポール・ヴェルレーヌである……」
 そして彼ランボオは、見者の実験を試みる最初の詩人となるだろう。彼のあとには、ほかの怖るべき働き手たちがやってくるだろう。彼らは彼が倒れた地平線から立ち上ってくるだろう。彼は見者の先頭に立つ先駆者となり、指導者となるだろう。
 ここにランボオの傲慢さが顔をのぞかせる。それをみてある批評家たちは、生涯かれは仮面をつけていたと言うが、それはまったく正しくない。ランボオはじっさい自分がなりたいと願った人物になったのだ。彼は彼じしんにも、ほかの人たちにたいしても喜劇を演じはしなかった。彼にはそんな計算はなかった。彼を焼き滅ぼすことになる火の輪をくぐる時にも、彼は殉教者の果敢さでつき進んだのである。

 ところで「五月十五日の手紙」は前述したように、ときには矛盾するいろんな理念《イデエ》、思想のアマルガムをなしている。そこからはまたコミューヌの大事件が若い詩人のうちにかきたてた知的興奮を感じとることができる。たとえば「……詩人はまことに進歩の推進者となるだろう。……この未来は唯物論的であるだろう」という奇妙な一行は、一八七一年の革命家たちの理想と思想にむすびついていることは明らかである。
 またランボオはこの「手紙」のなかで、女性の解放とその未来の役割についても書いている。
 「女性のはてしない隷属がうち破られるであろう時、男性──いままで憎むべきものだった男性が、返すべきものを女性に返して、女性が女性のために女性によって生きるだろう時、女性もまた詩人となるだろう!」
 このような思想の糸口を、ランボオはミシュレ(『フランス革命史』の著者)のなかに見いだしたかも知れないが、このような思想はとりわけ、コミューヌの女たちの行動と闘争を見て、ランボオのうちに形成されたと思われる。ルイズ・ミッシェル、ナタリ・ル・メルなどの女性戦士たちは、ひとり労働者階級の解放のためにたたかったばかりでなく、女性解放のためにもたたかったのである。そして「インタナショナル」支部の活動家たちによって設立された「婦人同盟」は、「性の不平等」という資本主義的な偏見や差別と闘争することの必要を掲げていた。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

ロダン


「見者」の詩論

 一八七一年五月十五日付のポール・デムニ宛の手紙には、じつは「見者」の詩学ばかりでなく、いろいろなイデエ、思想がアマルガムのように書きこまれている。それはギリシャ詩から説き起してロマン派の批判にいたり、「見者」の詩論を展開し、さらに詩の未来を論じ、女性の問題にも触れている。そのいくつかの要点をみてみよう。

 「我とはひとりの他者である。もしも銅がラッパとしてめざめたとしても、それは銅のあやまちではない。それはおれにはわかりきった明白なことだ。おれはおれの思考の開花に出っくわす。おれはそれを見つめ、それに耳傾ける。おれは弓をひと弾きひく。すると交響楽が奥深いところから鳴り出すのだ……」
 ここでランボオは、運命が彼を詩人にしたのだ、ということを言おうとしている。「我(おれ)とはひとりの他者である」Jeest un autre. ──この有名なテーゼは、「おれは考える、と言うのはまちがっている。ひとがおれを考える、と言うべきであろう」という言葉によって補完される。詩人の霊感は外部から、ひとりの「他者」からやってくる、と解釈する批評家もいる。
 いよいよ「見者」の詩論である。
 「おれは言おう、〝見者〟にならなければならない。おのれを〝見者〟にしなければならない。
 詩人は、すべての感覚を、長いこと、はてしなく、理論的に、錯乱させることによって、見者となる。あらゆる形式の愛、苦悩、狂気──詩人はおのれ自身を追求し、おのれのうちからあらゆる毒を汲みつくし、ひたすらおのれのうちの精髄だけを守る。それは避けることのできない拷問だ。そこで詩人は、信頼、超人的な力を必要とする。そこで詩人はとりわけ、偉大な病める者、偉大な罪人、偉大な呪われ人となり──しかも最高の〝賢者《サヴァン》〟となる。なぜなら詩人は〝未知〟へ到達するからだ……」
 ランボオがここで用いている、見者Voyantという言葉の意味をちょっと考えてみる。Voyantという語には、辞引では、見者のほかに千里眼とか透視者という訳語があてられている。辞書『プチ・ロベール』には、すでに文学用語として、ランボオの意味したところを取り入れて、つぎのようにしるされている。「ほかの人には知られないものを見、感じるにいたった者とみなされた詩人」──ランボオ自身、「見者」の内包として、「火の盗人」と言ったり、予言者とも言っている。それは詩人の使命としての側面であって、その後、この詩論によって実践され、制作された、詩の内容からみると、「見者」はむしろ幻視者と言った方がふさわしいように思われる。いわば、体系的な、あるいは科学的な幻視者ともいえよう。
 ランボオが未知に到達するために、「あらゆる感覚を錯乱させる(狂わせる)」という方法を提起しているのは興味ぶかい。詩人は意識的な「理論的な」やり方で、「おのれの魂を耕し」経験を重ね、おのれの幻視能力を自由に解き放つ。そのためのもっとも容易な手段は、時間と空間の観念を忘れさせてくれる麻薬の力をかりることである。この点で彼はボードレールの「人工楽園」から影響をうけていると思われる。ランボオが大麻《ハシッシュ》を試みたことは疑いない。一八七二年のある日、オテル・デゼトランジェで、友人カバネといっしょに大麻を吸っている彼を見た、とドゥラエは語っている。『イリュミナシオン』のなかの「酩酊の朝」もそのような体験を描いている。「おれたちはきみに断言する、方法だ!おれたちは毒を信じる。」また後の「言葉の錬金術」のなかでは、ランボオは奇妙な実験・体験をほのめかし、どのようにして幻覚を手に入れ、「あらゆる狂気のソフィスム(詭弁)」に訴えたかを物語っている。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

1

 「見者の手紙」

 ここでは、コミューヌのさなかに書かれた、有名な「見者の手紙」について見てみよう。一八七一年五月十五日付ポール・デムニ宛の手紙が「見者の手紙」ともいわれているが、その二日前の五月十三日付イザンバール宛に書かれた手紙にも、すでに「見者」の考えが現われている。そこでまずイザンバール宛の手紙から見てみよう。
 いまや昔の恩師イザンバールとランボオとの間はまずくなっていた。イザンバールはいまはランボオ夫人の味方になって、こんな手紙をランボオに書く。
 「きみが詩人になりたいというのはたいへん結構だ。だがまず、きみの大学入学資格試験のことを考えたまえ。もしもきみが家に耐えられなかったら、あるいは家の方がきみに耐えられなかったら、何らかの手だてできみの生活費をかせぎたまえ。しかしきみの勉強をやめないように」
 ランボオは幻滅した。かつてランボオに夢を吹きこんでくれたイザンバールも、いまは、臆病者にすぎなかった。セント・ペテルスブルグにいる兄弟が、ロシアのある王族の家庭教師の職を彼に紹介したのに、彼はドゥエの高等中学《リセ》の代用教師となることで満足していた。ランボオが一八七一年五月十三日付のイザンバール宛の手紙を書いた時の事情はこのようなものであった。この手紙は冒頭から皮肉にみちている。
 「あなたはまた教師《プロフェスール》になった。ひとはみな社会につくす義務がある――そうあなたはぼくに言いました。あなたは教職について、結構な軌道のうえを転がっているのです」
 やがてそれは、先生にたいする無礼な言葉へと高まる。
 「しかしあなたは結局、ひとりの満ち足りた男が何もしようとせず、何もしなかったように、そんな風になるでしょう……ぼくは労働者になろう──この考えがぼくを引きとめているのです、狂おしい怒りがパリの戦闘へぼくを駆りたてている時にも。こうしてあなたに手紙を書いている間にも、パリではなおたくさんの労働者たちが死んでいるのです! 働くなんて、いまはとてもとてもできません。ぼくはストライキ中です」(「手紙のこの部分はコミューヌが戦っていたパリにはランボオは行かなかった、行けなかった、という証明によく使われる。)
 つづけて彼は「見者」になるために勉強していると書き、侮蔑をもって書き加える。「あなたには(「見者」のことなど)全然わからないでしょう。そしてぼくもあなたに説明することはできないでしょう」
 そして「見者」になるため「いまぼくはできる限り、飲んだくれてみずからを無頼の徒にしているのです」
 この手紙にたいして、イザンバールも辛辣な返事を書く。
 「きみの 《見者》の理論には気をつけたまえ。そしてきみ自身もまた大口をたたく者で終らぬように――詩神《ミューズ》の殿堂の怪物よ」
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

海からの風

ランボオの母親について

 ここでアルチュールの母親ランボオ夫人についてちょっと弁護する必要があるように思われる。ほとんどすべてのランボオの伝記作者は、彼女を冷酷な鉄のような女として描いている。また息子の詩人も「闇の口」などと言って、かなり誇張して母親を描いている。しかし、息子がヴェルレーヌにピストルで撃たれて手に負傷した時には、さっそくブリュッセルに駆けつけて、ヴェルレーヌに息子から別れるようにと諭して、いかにもしっかり者の母親として振舞っている。またヌーボオに置いてきぼりにされたランボオに呼ばれると、娘を連れてはるばるロンドンまで出むいて、息子の急場をしのいでやったり、就職口をさがして働くようにと促している。そして妹ヴィタリの「日記」によれば、母親は涙を流して息子の将来を案じている。そればかりではない。放浪の旅に出かけたと思えば、帰巣本能をもった渡り鳥のように、その都度ランボオが帰ってゆくところは、母親のいるロッシュかシャルルヴィルである。もしも母親がほんとうに冷酷な鉄のような女だったら、ランボオがいくら旅で困ったからといって、このように帰ってゆくことはできなかっただろう。死ぬ前にも、梅毒による右膝の関節炎にかかったランボオは、エチオピヤのハラルからゼイラを通ってマルセイユの施療病院に運びこまれた時、母親に電報を打っている。――「きょう、あなたかイザベルか、急行でマルセイユに来られたし。月曜日朝、右脚切断。死の危険あり……」(一八九一年五月二十二日)
 それにたいして、ランボオ夫人ははげましの返電を打つ。──「出発する。明晩着く。勇気を出し我慢せよ……」
 このようなランボオ夫人を、どうして血も涙もない冷酷な女と見ることができよう。まだ小さかった四人の子供とともに、彼女は夫のランボオ大尉に捨てられた。ちょっとした農場を経営しながら、彼女は信心深さと後家のがんばりで、子供たちをきびしく育てなければならなかった。彼女の世間態を重んずるプチ・ブルジョア意識は、息子の詩人には耐えがたいものであったろう。しかし、後家のがんばりで、しっかり者にならざるをえなかった彼女の境遇と立場も同情されるべきであろう。
(この項おわり──「『イリュミナシオン』について」につづく)

新日本新書『ランボオ』

ランボオ夫人



 ランボオ夫人は十六歳の妹娘ヴィタリを連れてロンドンに駆けつけた。その頃ヴィタリが「日記」をつけていたおかげで、彼女たちのロンドン滞在の細部を知ることができる。ランボオ夫人と娘は、一八七四年七月五日にシャルルヴィルを出発して、翌日ロンドンに着いている。ランボオはアージル・スケーア一二番地に手頃なホテルをみつけておいた。そのホテルに感嘆してヴィタリは書く。「どこもかしこも、じゅうたんが敷いてある、……」数日、ランボオは議事堂、シチイ、テームズ河などの市内見物に母親たちを案内する。夕方、彼女たちはくたくたに疲れて帰ってくる。そんな風にして三日を休むと、ランボオはまた大英博物館の閲覧室へ勉強に出かけて、夕食だけに帰ってくる。暑くて、ヴィタリは言いようのない憂鬱のとりことなった。「わたしの悪い気分はひどくなる。もの悲しい想いにとりつかれる。寂しくなって、ひとりで泣けてくる……」
 七月十一日土曜日、母親は三つの勤め口をランボオに示すが、彼はそれらをはねのける。そこで母親は、息子が就職してもしなくても次の週には帰る決意をする。
 十六日木曜日、状況は変らない。ヴィタリは悲観する。「兄さんがどうしても職に就かないなら、とても不幸になるでしょう。ママンはとても悲しがって、すっかりふさぎ込んでいる」
 二十三日木曜日、母親たちは相変らず動けない。ヴィタリは我慢できずに書く。「就職の口があるのだから、兄さんがその気になれば職に就けて、わたしたちは帰れるのに」
 二十七日、こんな状況のなかで、ランボオは母親たちといっしょに大英博物館へ行き、一八六八年に死んだエチオピア皇帝テオドロス展を見る。皇帝の王冠、豪華な服装、武器類、宝石類が陳列されていた。ガラスのケースの中には原稿や彩色挿画のある書物があった。カタローグにはその彩色挿画が「イリュミナシオン」としるされていた。
 母親たちはもうこれ以上ロンドンにとどまってはいられなかった。暑さはひどくなって、ヴィタリはしのぎやすい夏のシャルルヴィルを恋しがり、ランボオ夫人は絶えず悲しみに閉ざされていた。
 ついに七月二十九日、ランボオは朝の九時、いらいらした暗い顔をして、夕食には帰らないと言って出かけるが、まもなく戻ってきて、明日出発すると告げる。
 彼は覚悟をきめて翌日出かけてゆく。一八七四年七月三十一日の「日記」にヴィタリは書く。「まるで息もつまるような想い。アルチュール兄さんは四時半に出発した。悲しそうだった……」――このさりげない言葉には、兄を見送った妹の、何か知ら悲壮な哀惜がある。「あんなに朝早くランボオはどこへ行ったのか。──信頼できる行先はスカーブラである。この町はロンドンの北東三八〇キロにある港町で、海水浴場でも知られている。『イリュミナシオン』のなかの「岬」という詩は、このスカーブラの町を精確な写真のように描いており、詩のなかにも「スカーブロ」というその地方の省略した呼び名が使われている。したがってランボオがこの町に滞在しなかったとは考えられない。
 また、ロンドンからオクスフォードの方へ六〇キロほど離れた小さな町レージングに、ランボオがいたという形跡がある。一八七四年十一月七日と九日の「タイムズ」紙につぎのような広告が載った。
 「きわめて高い文学的および語学的教養に富み、会話に優れたパリジャン(二十歳)が、南方あるいは東洋の諸国への旅行計画を有する紳士《ジェントルマン》(とりわけ芸術家)あるいは家族のお伴を希望。身元証明あり。A・R、レージング、キングス・ロード一六五番地」
 ランボオの手によって訂正を書き加えられたこの広告文の草案はのちに発見されて、いまはシャルルヴィルのランボオ博物館に保存されている。しかし、「タイムズ」紙の広告にはなんの反応もなかったらしい。まもなくランボオはシャルルヴィルへ帰る決心をしたからである。
 一八七四年のクリスマスを、彼は家族といっしょに過ごしたと考えられる……。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

ロダン

ジェルマン・ヌーボオとロンドンへ

 さて、『地獄の季節』を出版しなければならない。ランボオはブリュッセルの印刷屋ジャック・プートを知っていた。両者のあいだで出版の条件がきまった。印刷部数五〇〇部、本の売価一フラン、印刷代の前払い金と引換えに、著者への贈呈部数は七部あるいは八部、未払金は出来上った本と引換えに払う。ランボオ夫人はついに請求された前払い金を彼に渡した。
 一八七三年十月、ランボオの夢は実現する。五二ページの小冊子『地獄の季節』ができあがった。ランボオは著者分の部数を受けとりにブリュッセルへ行く。その翌日、ヴェルレーヌはモンスの拘置所に移された。ランボオはヴェルレーヌにその一冊を贈るために、拘置所の守衛に託したものと考えられる。「P・ヴェルレーヌへ──A・ランボオ」という簡単な献詞のしるされた『地獄の季節』の初版本を、後にヴェルレーヌは自分の息子に珍品として贈っているからである。むろん、ドゥラエ、フォラン、リシュパンなどにも贈られた。
 十月末にランボオはロッシュからパリに出る。自分の本をパリに紹介するためである。ブリュッセルの忌わしい事件は、ランボオがパリに行くよりも先にカルチェ・ラタンに知れわたっていた。ジャン・リシュパンによると、当時ランボオはその作品よりも彼の冒険《アヴァンチュール》によって有名だったという。そうして彼へのいやがらせのように、みんなが彼に背を向けた。カルチェ・ラタンに集まる詩人たちは、ヴェルレーヌの不幸と不名誉をランボオの責任に帰した。悲劇の犠牲者であった彼が人殺しにされたのである。それに、一八七一年から七二年にかけての冬のパリ滞在中、ランボオがふるまった傲慢不遜な態度をひとびとは忘れなかった。ランボオは自分で蒔いた種子をいま自分で刈りとることになった。だれも彼を相手にしたり、彼に取り入ろうとはしなかった。
 ある夜、ひとりカフェにいたランボオのところへ、若い詩人ジェルマン・ヌーボオがやってきて慰めのことばをかけた。二人はすでに旧知の仲でもあった。ランボオがあの冬の滞在中に出入りした「サークル・ツーティク」にヌーボオもまた顔を出していたからである。体つきも精神も彼はランボオとは対照的であった。ランボオは背が高く、青い眼をして栗色がかった金髪で、無愛想でとっつきにくい。それにひきかえ、ヌーボオは背が低くてがっしりとしていて、褐色の髪で、陽気で愛想がよかった。たちまち二人は意気投合して親友となる。ランボオが自分の夢は世界を駆けめぐることだと言うと、ヌーボオはどこへでもいっしょについて行くと約束する。春にまた会おうといって二人は別れた。
 いまやランボオは、パリではほとんど相手にされず、することがない。文学にたいする、あるいは文壇にたいする深い嫌悪におそわれる。彼はロッシュに帰って冬を温かく過ごす。ある日、彼は自己嫌悪に駆られてか、手もとにあった『地獄の季節』の数冊を火に投げこんだ。おのれの過去を焼く火が、炉のなかで炎となって燃えあがった。その火を見てランボオの眼には悦びの色が浮かんだが、十三歳の妹イザベルにはそれが何故なのか、わからなかった。母親のランボオ夫人はそのさまを見て自分の眼を疑った。狂気から癒え、正気にかえった息子を見て、彼女は幸せだった。みじめで苦しかった辛い過去は、一瞬のうちに灰と化したかのようだった。
 幸いに「地獄の季節」の残りの部数は、印刷代が全部支払われなかったので、印刷屋の倉庫に眠っていて、のちに(一九〇一年)発見されることになる。

 一八七四年の春、ランボオは昨秋ジェルマン・ヌーボオと交した約束を思い出してパリに出たらしい。とにかくヌーボオがジャン・リシュパンに書いた一八七四年三月二十六日付の手紙は、彼がランボオといっしょにロンドンにいたことを伝えている。ヌーボオはロンドンがすっかり気に入り、ランボオはくつろいだ気分になって案内役を買って出る。彼らはスタンフォード・ストリートのステファン夫人の一室を借りる。二人はさっそく仕事を探さねばならなかった。ヌーボオの僅かな持ち金はたちまち消えうせたからである。もう仕送りをしてくれるヴェルレーヌ夫人はいなかった……。彼らはやりくり算段で生きていた。「英国に帰化した元フランス人のデュポンの処では、ジャガイモのフライと大きな魚の一皿が、なんと四スーだ……」とヌーボオは書いている。南仏生まれのヌーボオは努力家ではない。だが「ラ・ルネッサンス』誌のようなパリの雑誌に詩や雑文を書いて生きるのにうんざりするというほどでもない。
 ランボオはふたたび詩を書き始める。のちに『イリュミナシオン』となるものである。いくつかの作品の一部分(「都市」の始めとか、「メトロポリタン」の終りの部分とか)を、ヌーボオはコッピーして、ランボオの手助けをする。また二人が苦しい生活をきり抜けるために力を合わせたことも疑いない。
 しかし突然ジェルマン・ヌーボオは、なんの理由も告げずに、ランボオを置いてきぼりにしてパリへ帰ってしまう。理由はかんたんなものだった。ランボオといっしょにいても、文学的な未来はない、ということにヌーボオは気がついたのだ。ブリュッセルの醜聞《スキャンダル》を思い出すだけで充分だった。といって二人の関係にはなんら疑わしい点はなかった。ヌーボオにはヴェルレーヌのような趣味はなかったし、ランボオもまたある人びとが不当に考えているような男ではなかったからだ。
 またしてもランボオはひとりあとに残されて、どうしていいかわからない。それは一八七二年十二月の状況と奇妙にもよく似ていた。あの時には、ランボオが突然ヴェルレーヌを置いてきぼりにしてロンドンを去ったので、ヴェルレーヌは母親をロンドンに呼びよせて、寂しさをまぎらわした。こんど一八七四年六月、ヌーボオが突然ランボオを置いてきぼりにすると、ランボオもまた母親に助けをもとめて、友達に去られた孤独の寂しさをのり越えようとする。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

青葉の森

「不可能事」にふれて

 「地獄に堕ちた者」という主題《テーマ》が、「無垢な異教徒」という主題《テーマ》のあとにやってくる。「無垢な異教徒」はブルジョワの世界からは「けだものだ、黒ん坊だ」とののしられてきた。しかしこの異教徒は彼をさげすんだ連中よりも純潔をまもり、汚れや妥協とはたたかってきた。ランボオは絶えず腐敗した西洋世界を侮蔑し、キリスト教的な西洋を嘲笑している。「お利巧なプリュドム氏はキリストとともに生まれた」と彼は「不可能事」のなかに書く。そしてランボオは、自分が純潔を失ったという「胸をひき裂く不幸」と西洋への侮蔑のあいだに揺れている。その西洋にたいして「原始の国、東洋の英知」を対置する。彼は「不可能事」のなかで、ノスタルジーをもって原罪以前のエデンを喚起し、「眼覚めの一瞬」にしかかいま見ることのできない純潔に絶望的に呼びかける。「おお、純潔よ!純潔よ!」しかし、この身を灼くような危機からランボオはついに脱け出る……『地獄の季節』の終りの二つの作品、「朝」と「訣別」は、彼の地獄への訣別である。この二つの作品は、地獄に堕ちた男の現実への帰還、──「ざらざらした現実を抱きしめ」るための、大地への帰還を謳い、「天国の歌」と「新しい労働の誕生」を、「人民の前進」と「ほんとうの地上クリスマス」とを統一しようとしている。またここには、「新しい労働の誕生」「人民の前進」というような近代的社会主義的な理念と、「太陽の子」「道士」といったような、いわゆる天啓論illuminismeやメシアニスム(救世主待望)の理念とがいりまじっていることは、きわめて興味ぶかい。これらの宗教的な思想が、パリ・コミューヌの時代には、プルードンらの空想的社会主義などといっしょに流布していたのにちがいない。(マルクスの科学的社会主義に指導されたインタナショナルは当時少数派であった。)そういう思想状況が、ランボオのなかにも反映していたと見ることができる。
 ジャン・フォランはその間の事情についてつぎのように言う。
 「ひとはよく、ランボオはパリ・コミューヌに参加したのか、しなかったのか、と疑問に思ってきた。コミューヌという矛盾にみちた運動の時代には、いろいろなイデオロギーがあった。それらのイデオロギーがどのようなものであれ、あの当時作られていたような運命にたいするひそかな反抗は、すでに数多くのコミューヌの士を集めていた。ランボオはより現実的で真実の世界を熱望して、その反抗に参加したのである……」(『ウーロップ』誌一九七三年五・六月号)
 そして詩人は未来への希望をつぎのようにうたう。

  そしてあけぼのには、輝かしい都市《まち》へ入ろう。

 この「輝かしい都市《まち》」は、ミュシレが未来の都市について語った表現を、ランボオが思い出したものとも考えられるし、あるいは「悲惨の港」(『イリュミナシオン」)に対置された未来の都市とも考えられる。何れにせよ、ランボオは未来に希望を託したのである。
 しかし、西洋を嫌悪し憎悪したランボオの「輝かしい都市《まち》」はどこにあったのだろう。彼はそれをどこに夢みていたのだろう。彼は「東洋へ、最高で永遠の英知へ還るのだ」(「不可能事」)とも書いている。それはランボオがロッシュの農場で描いた、単なる東洋へのあこがれ、むなしい夢想だったのか……そうは思われない。ランボオにあっては、生と詩とはべつべつのものではなかった。いつ消えてもふしぎでない夢想を、しかしランボオは現実のなかに追求する。それから七年後の一八八〇年、詩を捨て、西洋を捨てたランボオはじっさいにアラブの岸べに上陸し、エチオピアのハラルへと向かう。あの夢を追って……。
 ランボオは生と詩とをひきはなすことを知らなかった。「地獄の季節」の最後の言葉は「魂のなかにも肉体のなかにも真理をもつことがおれにも許されよう」である。生と詩にはただ一つの真理しかない……。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

笛

「言葉の錬金術」について

 『地獄の季節』を、ランボオの作品の頂点とみなすとすれば、また「錯乱」の第二部をなす「言葉の錬金術」は『地獄の季節』の中心軸をなすともいえよう。

「聞いてくれ。おれの気狂い沙汰のひとつの物語。
もう永いこと、おれはありうるあらゆる風景をわがものにしたと誇ってきた。……
……おれは母音の色彩を発明した……おれはおのおの子音の形と動きを調整し、いつの日か、あらゆる意味にとれる詩的な言葉を発明できると思い込んでいた……
……おれは単純な幻覚に慣れていた。おれははっきりと見た、工場のかわりにモスクを、天使たちの太鼓の学校を、空の街道をゆく四輪馬車を、湖水の底のサロンを……」

 ランボオはここで、彼がそれまで考え出してきた自分の詩法、実践してきた自分の詩法と詩について回想し、そこに風変りな自己批判を加えている。その詩法とは「見者の詩法」と呼ばれるものであった。それはランボオの社会的・道徳的反抗に対応する、芸術の分野における反抗、詩的反抗の試みであった。「生を変える」希望を託したパリ・コミューヌは潰えさった。彼は詩の分野で「生を変える」ためには詩的形式を変えねばならぬと思いいたった。こうして「あらゆる感覚の錯乱」は極限にまでおしすすめられた。そこに工場があった。モスクが現われた。アルコールによる酩酊のなかの時間と空間……やがてモスクは消え、そこにあるのは相変らず工場でしかない。何ひとつ変らなかった。何ひとつ修正されなかった。あの未知への追求も、いまやばかげたものであることが、はっきりとしてきた。それは、「気狂い沙汰のひとつの物語」であり、いまや愚行でしかなかった。そして、「いと高き塔の歌」「飢え」「おお季節よ おお城よ」などの詩を並べて回想したあと、この「言葉の錬金術」はつぎのまことに簡潔な一行によって締めくくられる。
「これは過ぎ去ってしまったことだ。おれは今日美を讃えることを知っている」──
この一行のあざやかな歯切れのよさは、その後のランボオの沈黙の、あの思い切りのよさに通ずるもののようである。
 なお、この一行について、アラゴンが加えているあざやかな論評──ランボオの本質をつく論評をここに引用しなければなるまい。
 「……もしランボオの考えでもって現代の美学を明らかにするつもりなら、その決定的表現がみつかるのは「見者の手紙」のなかでではなくて、「地獄の一季節」のなかの『言葉の錬金術』と呼ばれる部分にあるのだ……。
 『言葉の錬金術』は重要なテキストであるから、その主張するところをよく理解し、受け入れる必要がある。その主張とは、ランオがただの一行に縮めようとしたものである。彼の『気ちがい沙汰』をのべた六ページのあとに来る一行、『これは過ぎさってしまったことだ。おれは今日美を讃えることを知っている』である。詩人の永遠の沈黙を前にしてのこの短い言葉は、いまわれわれの手もとにある『季節』の草稿にある数語によって解き明かされるものである。この一行だけしか残さなかったという過程、彼の思考の草案というものは次のとおりだ。

『こんなに弱ってしまって、おれはもう社会のなかで生きて行けないような気がする……
それはだんだん過ぎ去って行った。
今ではおれは神秘な高揚や奇をてらった文体がいやになった。
今やおれは言うことができる、芸術はくだらないと。……
善イに敬礼!』

 『今ではおれは神秘な高揚や奇をてらった文体がいやになった』というこの一言は、『地獄の一季節」とイジドール・デュカスの『詩論』とが平行線にあることを承認するに十分である。これはランボオによって、ランボオ主義それ自体に対して向けられたもっとも激しい打撃のひとつであり、彼の過去を要約する最後の行文(これは過ぎ去ってしまったことだ。おれは今日では知っている...)の乾いた文言をいきいきとさせる一撃である。その後沈黙することになる人の最後のメッセージである、ここのところの行文を知らずして、ランボオの教えを行なうのだなどといえたものではない。一八七一年五月のデムニ宛の手紙を好むなどというのは幼稚きわまる話だ。……
……だからわたしは、まるで昨日かかれたもののように思われる『地獄の一季節』の最後のくだりを一種の満足なしに読むことができないのだ。……」(『アラゴン選集』第二巻二六九ページ、服部伸六訳・飯塚書店)
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

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『地獄の季節』

 裁判のあと間もなく、一八七三年八月十日頃、ランボオはふたたびロッシュの農場に帰った。「わたしが前から言っていた通りだ……」というランボオの母親の苦にがしい勝利感を察することができる。妹イザベルの思い出によれば、ランボオは「ヴェルレーヌ、ヴェルレーヌ……」と泣きじゃくりながらくずおれたという。そのとき恐らく彼は、じぶんの責任の大きさをおしはかっていた。彼の悪魔のような強情さが、友だちを牢獄暮らしへと追いこんだのだ……だがいくら後悔しても後の祭りだ。この過ちをつぐなうには彼の全生涯をもってしても足りないだろう。

 事件はけりがついた。農場ではみんなが取入れに追われていた。ランボオはふたたび納屋にこもって仕事を始めた。「異教徒の書」あるいは「黒ん坊の書」──彼はこの題名をさっと消して、かわりに『地獄の季節』と書いた。
 彼は「地獄堕ち」という主題を見つけたのである。これでこの書はまとまりをもつことになる。調子が変わる。これを書きはじめた四月の頃には、彼はひどい憂鬱にとらわれた自分がまだ不憫でならなかった。しかし、血まみれの惨めな闘いから抜け出てきたいま、彼はそれによってたくましくなり、したたかになった自分を見いだした。彼の「地獄に堕ちた男の手帖」は、無類の美しさをもった、閃光を放ち顫える散文詩によって埋められてゆく。

思い出せば、かっておれの生活は、すべての心が開き、すべての酒が流れた祭りだった。
ある夜、おれは美神を膝のうえに据えた。──見れば彼女は苦《にが》りきっていた。――そこでおれは彼女に毒づいた。
おれは正義にたいして武装した。
……
おれは死刑執行人どもを呼んだ。命果てながら、やつらの銃床に噛みついてやるために
……

 『地獄の季節』はヴェルレーヌによって「驚嘆すべき自叙伝」と呼ばれたが、それはまた「ダイヤモンドの散文」(ヴェルレーヌ)によって書かれていると言われる。それはフランス文学史上もっとも異常な散文詩であり、危機にある意識の深部を抉り出した稀有な作品である。
 パリにおける詩人たちの祭りの思い出とおのれの反抗ぶりを書いた序詩についで、「悪い血」が収められる。

「おれはゴール人の祖先から、青白い眼と、狭量な脳味噌と、不器用な喧嘩っぷりを受けついだ……。
おれがつねに劣等人種だったことは、おれにははっきりしているのだ……」

 このようにここには劣等人種のテーマが出てくる。それにつづいて、ヨーロッパ文明にたいする恐怖と軽蔑を叫ぶ「黒ん坊」のテーマがでてくる。またキリスト教と汎神論との闘いも歌われ、ランボオは「老婆や子供たちといっしょに魔法使いの夜宴《サバト》を踊って」もいる。そうかと思うと、またコミュナールの夢があらわれる。

  「科学、新しい貴族!この世は進む!」

 ここには危機におけるランボオの意識が、その矛盾のままに、渾沌のままに現われているように見える。むろんランボオらしいミスティフィカシオン(韜晦)をまじえながら。
 さて、ランボオを灼く地獄の火のさまは、「地獄の夜」のなかに描かれる。

「おれは咽喉《のど》いっぱい毒をあふった。──おれの受けた忠告には、せいぜいお礼を言おう!──臓腑《はらわた》が焼けつく。ものすごい猛毒に手足はねじれ、顔はひきつり、おれは地をのたうちまわる。咽喉が乾いて死にそうだ。息がつまる。わめこうにも声も出ぬ。地獄だ、永遠の責苦だ! 見ろ、この火の燃えあがりよう!……」

 この「地獄の夜」の草稿には「にせの改宗」という題名がついている。ランボオはヴェルレーヌにピストルで撃たれて負傷して、ブリュッセルの病院に入っていた時、危うくふたたび信仰にもどろうとした。その「天使との闘い」がここに語られている。前作の「悪い血」とは大きなへだたりがある。つまり異教徒や「黒ん坊」は地獄には堕ちない。なぜなら「地獄も異教徒をおとしめることはできぬ」からだ。ランボオは彼のうけた洗礼によって地獄に堕ちたという考えをここで強調している。「おれは自分が地獄にいると信じている。だからおれは地獄にいるのだ」

 「錯乱Ⅰ」に登場する「気狂い娘」がヴェルレーヌであり、「地獄の夫」がランボオであることは疑いがない。この作品には、ヴェルレーヌとランボオの二人の肖像が描かれており、ロンドン滞在中の二人の同棲生活をわれわれは知ることができる。ヴェルレーヌの弱さ、彼にたいするランボオの軽蔑、ランボオの怒鳴ったり、優しくしたりを繰り返す態度、「奇妙な夫婦暮し」の精根を使い果させる生活ぶり、それらすべてにここでは光があてられている。このヴェルレーヌの「告白」は、ランボオによって書かれているとはいえ、重要なドキュメントである。とくに注目すべきはランボオが、どれほど自分がヴェルレーヌに理解されていないと思っていたかが、ここに描かれている点である。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

1




 六月の初め、ヴェルレーヌはこういう生活をおしまいにしようと決心した。彼はランボオから逃げだす計画をひそかに練った。その計画を実行する日が来る。
 六月三日水曜日、ヴェルレーヌは片手に油の壜(びん)をぶらさげ、もう一つの手に鰊(にしん)をもって市場から帰ってきた。その格好を窓から見ていたランボオが叫んだ。
 「油と魚をぶらさげて、まるで尼っ子のようだぜ!」
 この気に障る失敬な嘲笑が、ヴェルレーヌが行動を起こすきっかけとなった。彼はさっそく旅行鞄を手にして外へ出た。ランボオはあっけにとられて、大股に遠ざかってゆくヴェルレーヌのうしろ姿を見送っていた。やがてそれが冗談でないことに気がつくと、彼のあとを追った。ヴェルレーヌはセント・カサリーン・ドックの波止場から、ベルギーのアントワープ行きの船に乗った。正午にサイレンが鳴って船が出た。ランボオは波止場にひとり残された。一文なしで、途方に暮れて。

 ランボオは翌日どこへ送るという宛先もわからずに手紙を書いて、ヴェルレーヌが自分をゆるしてくれるようにと懇願する。彼は自分のあやまちを認め、自分の友情を吐露し、ヴェルレーヌの欲するどこへでも行って一緒になるつもりだと伝える。さもなければ、ランボオは軍隊か海軍に入ってしまうと告げる。

 翌日、ヴェルレーヌが船の上で書いた手紙がとどいた。手紙は悲壮な調子で、じぶんの執った行動はたんなる失踪ではなく、ランボオとの決定的な絶交を意味すると説明する。「もしもこれから三日のうちに、完全な条件で妻といっしょになれなかったら、ぼくはピストルで頭を撃ちぬいて自殺する……」さらに追伸はきっぱりとしたものであった。「いずれにせよ、ぼくらはもう二度と会うことはないだろう」そして彼は、三日間有効のブリュッセル局留郵便という宛先を知らせてきた。

 この絶交状を読んで、ランボオは怒りに燃えた。こんどは調子のちがう、激しい手紙を書く。「きみの妻君が、三カ月のうちに、三年のうちに、来るか来ないか、そんなことはぼくの知ったことか。くたばるなんて言ったって、ぼくはきみをよく知っているのだ」。それから、ヴェルレーヌの将来について警告する。
 「これから永年にわたって自由を失い、怖るべき退屈に見舞われて、きみは後悔するだろう……そのとき、ぼくを知る前のきみがどんなだったか、思ってもみたまえ」
 ランボオはロンドンを離れてパリへ行くつもりであった。
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

残骸



 さて、ロンドンに亡命していたコミュナールたち──ヴェルレーヌのむかしの友人たちであったヴェルメルシュ、レガメエ、アンドリュなどのあいだでは、二人の醜聞について嘲笑や悪口が交されていた。ある日、ランボオがアンドリュを訪ねてゆくと、アンドリュは彼を戸口の外へつまみ出すという悶着がもち上がった。この話はすぐ亡命者仲間にひろがって、ヴェルレーヌとランボオは彼らから閉め出されることになる。

 二人はたがいに、人生を台なしにしたという非難を投げつけあう。ヴェルレーヌには、気に障るようなことがあると、いつも暴飲する癖があった。そんなとき、二人の関係は、激しい、乱暴な暴力沙汰に及んだ。ドゥラエによれば、二人の口論はしばしば拳による殴りあいから、ドイツ学生の決闘のような、ナイフをもった立ち廻りにまで及んだという。ランボオはそれをつぎのように描いている。

「幾夜も幾夜も、あの人の悪魔がわたしをひっとらえ、わたしたち二人は転げまわり、わたしはあの人と闘ったものです......」(「錯乱」Ⅰ)

 やがて彼らは、このように傷つけあい血を流す暴力沙汰をかくすことができなくなる。一八七三年八月一日付の警察の調書によれば、「この両人は、仲直りの悦びを味わうために、猛獣のようにたたかい、ひっ掻き合った」とある。事態はこのままつづくべくもなかったのである。(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

闘い

ブリュッセルの悲劇



 ふたたびロンドンに行ったヴェルレーヌとランボオは、グレート・カレッジ・ストリート八番地──こんにちのロイヤル・カレッジ・ストリートに部屋をみつけた。アレキサンダー・スミス夫人の家の一室で、住み心地がよかった。あたりは多くの芸術家たちが住んでいる街で、初め二人は静かな日日を送る。ランボオは例の『異教徒の書』の草稿に手を加えたり、大英博物館の閲覧室へ読書にでかける。ヴェルレーヌも詩作と読書にとり組む。
 二人は、いつまでもヴェルレーヌの母親の仕送りで暮すわけにはゆかず、フランス語の家庭教師の口をみつける。のちの一八七三年七月十二日、ブリュッセルの予審判事の「あなたはロンドンでどうやって暮らしていましたか」という質問にたいしてランボオは答えている。「主として、ヴェルレーヌ夫人が息子に送ってきたかねで暮らしていました。わたくしたちはまた二人でいっしょにフランス語の教師をしていましたが、大したかねにはならず、週に一二フランでした。」
 しかし、うわべの静けさの下に、火がくすぶっていた。その頃の二人の共同生活の模様は、「放浪者たち」(『イリュミナシオン』)のなかにもこれを見ることができる。

 「哀れな兄き!おかげで、おれはどれほど辛い、眠れぬ夜を過ごしたことか!《こんな放浪の企てに、おれはこころから熱中したわけではない。おれはかれの弱さをからかっていたのだ。おれのあやまちで、おれたちはまた流浪の身となり、奴隷の身におちるのかも知れぬ》兄きは、おれをとても風変りな、不運な男、無邪気な男と決めて、いろいろ気をもたせる理屈を並べたてたものだ。おれはあざ笑いながら、この悪魔的な先生に口答えして、窓べへゆくのがおちだった。おれは、奇妙な楽隊のよぎってゆく野の彼方に、未来の豪奢な夜のまぼろしを想い描いていた。
こんなわずかに衛生的な気晴らしのあと、おれは藁ぶとんの上に横になった。すると、ほとんど毎晩のように、眠ったかと思えば、哀れな兄きは起きあがり、腐ったようなくさい口で、眼をむきだし──まるで自分の夢でも見ていたように──おれを部屋のなかに引きずり出すのだった。白痴のばかげた悲しいたわごとをわめきながら。」
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

大水



 しかしこんにち情勢は逆転する。その劣等人種が、「すべてを奪い返」したのである。
  「……劣等人種はすべてを蔽った──いわゆる人民を、理性を、国家を、そして科学を!おお、科学!すべてが奪い返された。……
  科学、新しい貴族!進歩。世界は進む。なぜ逆廻りしないのか」
 ここにふたたびコミューヌの頃のランボオの言葉、思想が顔をのぞかせている。「なぜ逆廻りしないのか」という言葉は、ガリレオの「けれども地球は廻っている」という言葉にたいする皮肉なのである。
  「おれはヨーロッパから出て行くのだ。海の潮風がおれの肺を灼くだろう。ひどい気候がおれの肌を褐色になめすだろう。……
  『おれは帰ってくるだろう、鉄のような手足をして、暗くくすんだ肌で、眼をぎょろつかせて。おれのつら構えを見て、ひとは強い逞しい人種だと思うだろう。おれは金をため、ぶらぶら遊び暮らし、狂暴にふるまうだろう。熱帯をかけめぐって帰ってきた、この凶暴な病人を、女たちは介抱してくれるだろう。おれは政治問題に巻きこまれるだろう。そうしてやっと救われるのだ」
 ここでランボオは、またしてもおのれの将来を──その後に実際に送ることになる、エチオピアの砂漠での生活を予言的に描いている。まるで熱帯をかけめぐれば、「劣等人種」も「強い逞しい人種」になれるものと信じこんでいたように。
 そしてまた子供の頃や過去の思い出が現われる。
  「まだほんの子供の頃、いつも徒刑場に閉じこめられている、手のつけられぬ徒刑囚に、おれはうっとりと見とれたものだ。徒刑囚が泊って、祝福した宿屋や木賃宿をものめずらしそうに見に行った。おれは徒刑囚の気持ちになって青空を見あげたり、田舎の生き生きとした野良仕事を眺めたりした……。
  ……おれは激昂した群衆の前で、死刑執行班に面とむかって立っていたこともある。彼らの理解することのできぬ不幸に泣きながら、しかもゆるしながら!──まるでジャンヌ・ダルクのように……」
 「手のつけられぬ徒刑囚」というのは、子供の頃によんだユゴーの『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンを指すといわれる。この章には、ふたたび反抗にたいするランボオの讃美がみられる。「おれは激昂した群衆の前で、死刑執行班に面とむかって立っていたこともある」というイメージは、死刑執行班の前に立ったコミューヌ戦士のイメージに重ならずにはいないだろう。ランボオの反抗は根深く、根本的だったのである。

 さて、一八七三年五月二十五日、ランボオはヴェルレーヌと連れ立って、リエージュとアントワープを通って、ふたたびロンドンへと向かう。ロッシュにはおよそひと月滞在したに過ぎない。くされ縁とも見える二人の詩人の関係も、こうして破局へと向かう。
(この項おわり)

(新日本新書『ランボオ』)

森



 ここに言われている三つの物語のうちのひとつは、後に『地獄の季節』に収められる「悪い血」であるといわれる。それはランボオが抱いていた多くの矛盾、対立から成る散文詩である。「悪い血」の前半の部分にはミシュレの思想の影響がみられる。ランボオは、フランスの大地に深くむすびついたゴール族──あの征服された民族のなかに自分の祖先をみいだし、自分の資質の説明をもそこに見いだしている。(古代ゴール族は紀元前五〇年頃シーザーによって征服された。三世紀には、ゲルマン、西ゴート、ブルグント、フランクなど、諸族の侵略をうけた。)彼は自分の青い眼も、身についた悪徳もゴールから受けついだと考える。また絶えず街道を歩いて行きたいという欲求もゴールに負うていた。彼はあの中世の人びとがおのれのなかに生きているのを感じる……。
 「おれはゴール人の祖先から受けついだ、白みがかった青い眼を、狭量な脳味噌を、不器用な闘いぶりを。おれの身なりも彼らのと同様に野蛮だ。しかし、おれは髪にバターなど塗りはしない。
 ゴール人は獣の皮を剥ぎ、草を燃やし、当時もっとも無能な人種だった。」
「悪い血」の始めの部分は、ランボオ個人の叙述と見なすよりは、彼が歴史的展望のなかにおのれを位置づけて見ようとした試みと見なすことができる。ランボオは、いままでの自分の生きざまを、たんに彼ひとりだけのものとは考えずに、ひとつの種族から受けついだものだと考える。M・A・リュフの指摘によれば、この始めの部分は、ミシュレの『フランス史』を読んだ思い出によって書かれている。「異教徒の書」という初めの題名や、悪魔(サタン)の喚起も、ミシュレの「魔法使」に負うているという。ミシュレは、ある民族が汎神論と悪魔を手段としてキリスト教とたたかったことを描いている。「おれは林のなかの赤い空地で魔法使の夜宴(サバト)を踊っている。老婆や子供たちといっしょに。」という部分などは、直接ミシュレから借りているようである。ミシュレは「夜宴(サバト)」の章で、「悪魔(サタン)の女司祭はつねに老婆である」と書き「赤い焚き火」で照らされていたといい、「そこには子供たちもいた」と書き加えている。
 むろん問題は、この部分の源流をさぐることにはない。問題は、ランボオがここで自分をゴールの祖先にむすびつけていることである。ランボオの生きざまは、「おれはいつも劣等人種だった」という想いに支配されていた。「それはほとんど、ランボオが、その詩的な形式で、自分自身について示したマルクス主義的解明であると言えよう」とM・A・リュフは書いている。
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

森