小白川の詩人たち 土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂

ここでは、「小白川の詩人たち 土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


斎藤林太郎からの手紙(1993年3月5日)

拝啓、奥様静江様が病気のため亡くなられたことを丹野君からお聞きいたし、先生には一方ならぬお悲しみのこととお察し申し上げます。
土谷麓氏、丹野氏と三人で先生をお訪ねしました時は本当に元気の良い美人でした。インタナショナルの歌声はまだ耳底に残っております。(*1)酒をいただきながら詩のお話をお聞きしましたこともありありと覚えております。
三鷹は麦畑の多い田園都市の静かなところでした。
花屋を始められた時で、玄関から水樽に一ぱいの花が置かれてありました。すすきを川辺から取ってきて売った話、水仙を各戸ごと歩いて売った話など、心に残るものがたくさんあります。ほんとうに心やさしい奥様でした。
愛妻に送られた先生の詩には全く感動いたします。
先日の赤旗にのりました伊藤千代子、高橋満兎、田中サガヨ、飯島喜美。先生は土屋文明の教えを受けたとの記事のこと読みまして感動いたしました。あのけなげな乙女たちの生涯。(*2)

長野県と山形県は昔からよく似ております。
教員組合の前身となりましたお互いに綴方運動が行われておりました。私の四歳年上の土谷麓と私小学五年六年と村山俊太郎先生に教わりました。
終戦の年は善光寺裏の師範学校が空っぽで師団司令部が置かれ、私は暗号下士官としてやっておりました。
長野県人は現役の同年兵がおり、がんこでがんばりやです。
古本屋に行くと一目でわかりますが、よく読書をやる県民です。
長野につらなる高山がそう教えるのだと思います。
私 胃のポリープ手術により三分の二を除去しまして、二年半になりました。
よい方向で酒も二号ぐらいは飲んでおります。
早春となりましたが先生はじめご家族様共々にお体を大切になされて下さい。
奥様の静かなお眠りをお祈りいたします。 敬具
                     斎藤林太郎
三月五日
大島博光様

*1「朝の台所から聞こえてきたインターナショナル」

*2「こころざしつつたふれし少女たちのバラード」

水仙
大島静江「アネモネと水仙」

山形・小白川の詩人たちと大島博光
 ─土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂・木村廣のこと

                                  大島朋光

 一九五〇年、大島博光が発行した詩誌『角笛』に山形県から三人の詩人が同人として参加した。土谷麓・斎藤林太郎・丹野茂である。土谷麓は製本工で詩人グループのリーダー、斎藤林太郎は農民詩人で知識人、丹野茂は蔵王の硫黄鉱山で働く労働者であった。三人とも山形市小白川町に生まれ、この地で互いの友情を育みながら、生活詩や労働詩、反戦詩などを書いた。

 博光宅を訪問
 一九五六年の年末、三人は初めて三鷹の大島博光宅を訪れた。この時のことを博光は述懐している。
 「東京にもめずらしく雪が積ったある日、長靴をはいた土谷麓、斎藤林太郎、丹野茂の三人が、どやどやとわたしの家へやってきた。雪深い山形の雪男たちが、雪の東京へさらに雪の匂いをもってやってきたのだ。酒に酔うほどに、彼らは山形弁で熱っぽく詩を論じて飽きなかった」(「筵旗はちぎれ また立った」)
 「大島の家に泊まったとき、朝の台所から聞こえてきた、インターナショナルをうたう大島夫人のうたごえが忘れられない、と三人がこもごもわたしに語ってくれた」と仲間の木村廣が証言している。(「小白川の詩人たち」)

 土谷麓の葬式で山形へ
 一九六二年、土谷麓が亡くなり、博光は初めて小白川を訪れた。葬儀に列席したあと、斎藤林太郎の家に泊まり、翌日には山形大学で講演したあと蔵王鉱山を訪れ、丹野茂の家に泊まった。
 「わたしは馬見ケ崎川の岸べを歩いた。それはごろた石が乱雑にならべられた勾配のある階段のような川だった。その勾配の道を登ってゆくと、そこに小白川があり、斎藤林太郎の家があり、わたしはそのがっしりと建てられた、少し薄暗い家に泊めてもらった。」(「筵旗はちぎれ また立った」)
 「土谷麓の葬儀があった翌日、大島さんは、山大教授新関岳雄さんのすすめで、山形大学でランボーの詩について講演された。……大島さんが新関さん同伴で蔵王鉱山に立ち寄られた。タ方になり、大島さんが『ここまで来たんだから、鉱山の共同風呂にはいっていきたい』と言った。新関さんは気がすすまないようだったが、鉱山(やま)のひとにまじって両人も入浴した。社宅とは名ばかりの杉皮葺きのハーモニカ長屋が建ち並び、鉱山(やま)のひとびとの暮らしは庶民的で活気があった。その一画のわたしの住居で、湯あがりあとに三人いっしょに酒を飲み、明けがた近くまで話がはずんだ。(丹野茂「なつかしい思い出」)
 この時に博光から「詩人会議が発足するので『角笛』を発展的に解散して合流したい」との話があり、斎藤林太郎と丹野茂も賛同し、詩人会議に参加することになった。

 斎藤林太郎と丹野茂の死
 一九九四年、斎藤林太郎が亡くなり、翌年七月、丹野茂が亡くなる。博光は追悼文を書いた。
 「七月の初め。山形の斎藤範雄さんから電話で、丹野茂が死んだと知らせてきた。脳梗塞によるもので六十六歳だったという。牡牛のように頑丈だった生前の丹野茂を想って、わたしは暗然とした。梅雨空が低く、どんよりとくもっていた」「一九六二年、土谷麓が五十歳そこそこで死んだ。堅固なレアリスム詩を大きく構築した斎藤林太郎は昨年七十七歳で世を去った。そうしてこんど、ユーモアにみちた丹野茂が死んでしまった。山形の三羽鴉はみんな遠く飛びさってしまった……いや、かれらはみんな鴉ではなくて、鳩だった。
  山形の大地の色をした詩人よ
  馬見ヶ崎川の風のように歌った詩人よ
  丹野茂よ さようなら」
   (「飼いならされる朝はない─丹野茂追悼」)

 後を継いだ木村廣
 三人の仲間だった木村廣は敬愛する土谷の土地に家を建てて小白川の住人となった。「三人は我家に集い、酒を酌み交わし、詩の話をした。時に陽気に、時には取っ組み合いもある激論だった」と、娘の木村泉さんが書いている。(「明日への脈絡」)
 三人亡きあとを継いで精力的に詩作を続け、毎年のように詩集を出し、『詩人会議』に発表した。二〇一一年、三人を追憶し、その足跡を刻んだ「反戦詩の流れ 明日への脈絡─小白川の詩人たち」を『新やまがた』に連載した。これを小冊子にして大島博光記念館に送ってくれた。その三年前の二〇〇八年、大島博光記念館建設の際には詩人会議の呼びかけに応えて詩碑建立募金をしていた。彼にお礼を述べなければと気がついて連絡をとったのが二〇一五年秋だが、その年の七月にすでに他界していたことを知らされた。彼にひとことも言葉をかわさずに終わったことを申し訳なく、無念に思った。

 博光は彼らを回想し、詠嘆している。
  山形の 小白川の斜面の懐かしきかな
  心美しく 志高い 三人の詩人たち
  ここに住んで酒を汲み 詩を語り
  また未来を論じて 詩人共和国を生きた
  山形の 小白川の斜面を 流れる
  馬見ヶ崎川とそのごろたやの 懐かしきかな
  三人の詩人たちを はぐくみ育て
  雨降れば詩人の如く激しく流れた

(出典)
• 大島博光「筵旗はちぎれ また立った『斎藤林太郎詩集を読む』」(『詩人会議』一九八八年六月号)
• 丹野茂「なつかしい思い出」(『詩人会議』一九九二年二月号)
• 大島博光「飼いならされる朝はない─丹野茂追悼」(『詩人会議』一九九五年十一月号)
• 木村廣「反戦詩の流れ 明日への脈絡─小白川の詩人たち」(『新やまがた』二〇一一年四月)
• 木村泉「明日への脈絡」(『うたごえ新聞』二〇一六年二月)

(『狼煙』84号 2017年12月)

蔵王
 なつかしい思い出
                      丹野茂

 わたしが詩人会議発足のことを聞いたのは、同郷の先輩詩人土谷麓が亡くなられて、大島博光さんが来形された折だった。
 その以前から、大島さんは詩誌『角笛』を主宰されていた。土谷麓・斎藤林太郎・わたしもその同人になっていた。
 大島さんの話では、『角笛』を発展的に解散・同人にも詩人会議への参加をすすめるとのこと。斎藤林太郎とわたしも賛同して、参加することになった。
 土谷麓の葬儀があった翌日、大島さんは、山大教授新関岳雄(故人)さんのすすめで、山形大学でランボーの詩について講演された。
 わたしは、その頃、蔵王山の中腹で山形県側にあった蔵王硫黄鉱山に勤務していた。斎藤茂吉の歌碑が建っている蔵王山頂の直下近くまで、網の目のように坑道が伸びていた。百人ほどの鉱夫仲間が硫化鉱を採掘し、坑内からの退避が済む午後四時ともなれば、坑道の奥の切羽に仕込まれた何百発のダイナマイトが次々と炸裂し、付近の山や建物がいつとき揺れつづけた。索道がまわり、三キロ位下った箇所に精錬所があり、息苦しいガスが立ちこめ、赤茶けた付近の山や林のほうになびいていた。
 大島さんが新関さん同伴で蔵王鉱山に立ち寄られた。タ方になり、大島さんが「ここまで来たんだから、鉱山の共同風呂にはいっていきたい」と言った。新関さんは気がすすまないようだったが、鉱山(やま)のひとにまじって両人も入浴した。社宅とは名ばかりの杉皮葺きのハーモニカ長屋が建ち並び、鉱山(やま)のひとびとの暮らしは庶民的で活気があった。その一画のわたしの住居で、湯あがりあとに三人いっしょに酒を飲み、明けがた近くまで話がはずんだ。
 ──二十九年まえのなつかしい思い出である。

 貿易自由化のあおりをうけて、間もなく蔵王鉱山は閉山した。その後、転職のためわたしは実家があった山形市内で暮らし、板金工となり町工場に勤務。労働組合活動に身を入れて、この時期、大衆としての言葉をさぐり詩作は途絶えがちだった。
 新藤マサ子の第一詩集『紅』の出版が契機となり、一九七八年に山形詩人会議を結成。詩誌『火窪(ほくぼ)』が創刊された。若い書き手の活力に刺激され、なりをひそめていた斎藤林太郎・木村廣、わたしも息をふきかえして詩作をはじめた。
 以来、山形詩人会議のあゆみは比較的遅々たるものだが、そのなかから若い魅力ある書き手が次々と育っている。それがはげみとなり、ときには仲間のつきあげをくいながら、わたしは詩の大衆化を探り、いまも詩作ととりくんでいる。

(『詩人会議』 1992年2月号)

*博光が山形大学で講義した経緯については木村廣「小白川の詩人たち」で触れています。

たんの

丹野茂(1962年初秋)

 はじらい  赤松俊子『原爆の図』に
                            斎藤林太郎

ヒロシマの原爆で死んだおとめが
全裸のまま顔に手をあてている姿
焦げただれたミイラの肉、
ねじれた骨、
顔だけに童顔のふくらみが残っている。

高熱にうちのめされた一瞬。
誰にも見せなかったはじらいの部分をかくそうと
死の間際まで思ったにちがいない。
幾度か身もだえしたにちがいない。

しかしもうそこを覆う一物もなく、
手のとどく、かすかに眼の見えるどこにも、
草の葉一枚、着物の一片すら残っていない。
急速にいのちを襲った死。

へし曲った手は何を覆う役に立つというか、
かろうじて膝をちぢめ地を割るように突き立てる。
何もかも奪われたにくしみののたうち。
生けるものの最後の抵抗に細くなってくねった胴。

硬ばりゆく体に死を意識した切那、
もはや口をむすんだまま顔をかくすより外にない。
殺される青春を一片のはなびら程も残そうと、
原始からのおとめのはじらいのしぐさで、
いのるように顔に近づけた双つの手

彼女たちは異国兵も売春の女も見ていない。
うちひしがれた基地の人々も、死の灰も見ていない。
しかし彼女たちの無拓の死の姿はみんなの眼底にしんじゅのように残っている。
彼女たちの死こそ世界死の終幕であらしめよ。

(『角笛』12号 1955年1月)

枯柳

あしたへの脈絡
(「うたごえ新聞」2016年2月15日号)

木村泉さんが父親の木村廣さんと小白川の3人の詩人について書いたエッセイ。
記念館ニュース1月号の記事の波紋できらめいた言葉に出会えました。
今はなき阿部文勇さん(労演の初代事務局長)も小白川の詩人たちと親しかった方で、知人だった西島史子さん(朗読家)が阿部夫人にこの記念館ニュース36号をお見せしたら懐かしがられたそうです。




 
  硫黄 
    ──蔵王鉱山閉山にあたって──
                   丹野茂

きみは いま どこにいる。
きみは いま どこにでてゆく。
きみたちは──そしておれもだ
ながい間 鉱石を掘り 硫黄をつくり
硫黄とともに生きてきた。
硫黄をつくる労働者として 誇りをもって生きぬいてきた。

きょう 鉱山(やま)は坑口を閉ざし
おれたちは 鉱塵とガスのしみこんだ作業着をぬぐ。
索道はとまり クラッシャーの音もなく
しのびよる春をよそに 鉱山(やま)は不気味に静かだ。
もうはいることができなくなった 坑道よ。 切羽よ。
窯(かま)の火が消えた製錬場よ。 投げだされたスクラップよ。
ひくい屋並よ。 ゆがんだ窓よ。 破れ障子よ。 古畳よ。
荒れはてた杉皮葺きの長屋のむれよ。
そして ともに働き ともに生きた多くの仲間よ。
台所のにおいのする主婦(かみ)さんよ。
昼なお暗い長屋のトンネルのなか 無邪気にはねまわる子どもらよ。
──きみたちともお別れだ。
だが しかし おれたちの
からだにしみこんだものはなんだろう。
おれたちには──硫黄のにおいがしみこんでいる。
吐く息さえ 言葉さえ 硫黄のにおいがしているのだ。

硫黄とともに生きたおれたち。
硫黄のために死んだ仲間。
おれはいま仲間に 悲痛をこめて さよならをいう。
──落盤し 下敷きになり 一瞬にして死んだ仲間。
「よろけ」で死んだ仲間。
くたびれて めまいがして 窯に落ち 焼け死んだ仲間。
傷つき たおれ 焼けだされ すくいをもとめ
死んでいった仲間を おもう。
とりのこされた遺族をおもう。
いくども鉱山(やま)をふりかえり 手をふり
おらが鉱山(やま)と おらが仲間の 記憶をたぐる。
いくばくかの金をふところに 多くの仲間も去ってゆく。
──ちりじりに。

硫黄
硫黄をつくらせ──利益だけをねらったもの。
あるいはそれにつながるもの。
貿易の「自由化」を きめ
自国の鉱山を 企業をつぶすもの。
かれらはどこにいるのだろう。
かれらは いま どこにどうしているのだろう。
かれらは おそらく でかい邸宅にいるだろう。
ニッポンという 混沌とした 手あかによごれた古地図のうえで
かれらは密議をこらすだろう。
かれらは おそらく あたらしいもうけ仕事をねらうだろう。
安くつかえる労働者をさがすだろう。
安くつかえる労働者に してしまおうともするだろう。
自分の国をも 国民をも
もうけるためには売るだろう。
──ドルをつぎこみ かれらに少く利益をあたえ
取引きを押しつけてくる 買いとる勢力があるだろう。
そしてかれらは つぶれゆく鉱山を 炭鉱を 中小企業を
おれたち仲間を
ふりむこうともしないのだ。

硫黄とともに生きたおれたち。
おれたちとともにたたかい 支援しあった多くの仲間。
石炭とともに生き ふきだす汗で 石炭のように黒びかりする仲間。
銅のにおいのする仲間。
鉄のにおいのする仲間。
労働をよろこびとして 生きがいとするおれたち仲間。
そして 利益だけをねらったかれら。
このような現実が
ニッポンのいたるところにあるだろう。
いたるところでおれたちを待ちぶせていよう。
だが しかし おれたちは生きねばならぬ。
働くものが幸せになる世の中をつくるため
生きて たたかってゆかねばならぬ。
そのような国のしくみが 国の政治が
海のむこうの対岸にまできているのだ。
いまここで おれたちはもう一度握手をしよう。 硫黄のにおう手をもって。
おれたちの骨太の手から手につたわる この血のぬくもりを大切に!
しっかりと握りかえすおれたちの手の この力のこもるゆすぶりをわすれずに!



   (丹野茂詩集『硫黄』)

蔵王


  太郎挽歌 
                丹野茂

燃えつきた鑞のようになって太郎は死んだ。
白いヴェールのそとは深い暗闇。
すすりなきや鳴咽(おえつ)とともに太郎はほろんだ。

  二十ワットの星明り
  古ぼけた家は慣習にとざされて 暗く
  貧しさにいざこざの絶間もない。
  父母(ちちはは)とともに太郎はそこに生活し
  とらわれの「宿命」の
  その変革に若者の生命(いのち)をかけた。

  太郎よ
  ちからつきて死んだ太郎よ。
  太郎の心はかえってこない。
  太郎は 苦悶の顔をひとの心にのこして死んだ。

すすりなきや鳴咽とともに夜はきて
夜は夜でかわりがない。
 ──仏壇にはかぼそい灯りのもえる音。
 ──屋根裏のくもの巣のなかでは鼠の騒音。
 ──鶏舎の白鶏の狂いなき。
その夜に小川はながれ
夜を徹して小川はながれ
いずこへともなくながれてゆくのである。

夢が夢をこえることへのかすかな期待。
期待を抱いて太郎はほろび
太郎のなかに芽生えた数多くの夢も力も行動も
太郎とともにほろんでいった。
そしてひとびとは いまも深い忍耐のなかに落ちている。
貧困と 疲労と そこからくる無智をだいて
びとびとはどこへ押しながされてゆくのだろう。
どこへ押しながされてゆくのだろう。

夜はふけて
まばらにともる灯りも消えた。
眠るために
闇のなかにいすわるために灯りも消えた。
だが しかし 空のいろだけはかわらない。
空は暗黒の夜をのみ
そのちっぽけな住居をのんで
底青い瞳のようにひかっている。
──静寂のなかにいきづいている。

そして その天の一角に
太郎はいまもほほえんでいるのかも知れない。
太郎の顔は面やせ 眼はくぼみ
肺は病菌にむしばまれ
かっての 頑健な 農夫としての姿なく
淫虐な唇もあるにはあったが
太郎の眼はすみきっていたから
そこには部厚な闇をつきぬけた太郎のほほえみがあったから
太郎は 自己の そしてわれわれの勝利を信じていたから
自分が捨石にすぎないことを知っていたから
それが ぬきさしならない魂の要求であったから──

太郎は いまも わたしたちをみつめている。
厳粛な だが やさしい眼でみつめている。
生きることは絶間のない闘争であることを
夢みるものは死も恐れないということを
死をのりこえて さらに新しいものが湧きあがってくることを
太臥は いまも語っている。


   (詩集『硫黄』)

北穂高にて

 
  蕎 麦 
                  丹野茂

けさもひどく冷えるじゃあないか。
鳥海山に初雪がおとづれて
まるでお山が頬かむりでもしたようじゃあないか。
この痩地からありったけの力をすって
おらたちはけさも素朴な顔で素朴にほほえもうとする。
──蝶も死んだ。
──蜂も死んだ。
──虻も死んだ。
みんな生活の花園をもとめ もとめあぐねて
かよわいはばたきをのこして
おらたちのまわりをとびくるい
とびくるいつきてこごえ死んでいったものたちだ。
おらたちの顔にもしわがよって
おらたちの顔は土いろだ。
土に芽生えたおらたちが 土に根をはって成長し
一粒一粒の実になって ぽろりぽろりと涙のように大地散ってゆく秋だ。
野山のいろも 血のように このひとときを真赤にもえる。
もうじき冬がくるのだ。
あの おらたちが寡黙になる 暗い冬が
あの暗い冬に埋もれたなかでの生活の予感がする。
この寒い 身ぶるいする予感のなかで
おらたちはけさも しょぼついた血族の眼とともに
つぶらな瞳をみはっている。


(丹野茂詩集『硫黄』)

雪原

 あとがき

わたくしが詩に関心をもったのは、郷土が生んだすぐれた詩人、土谷麓氏を知ってからである。
当時のわたくしは、十八才の少年だった。まずしい農家の、そしてなかば植木職でもあった家の、八人きょうだいの末っ子として生れ、育ったわたくしには、格別の学歴とてなかった。新聞さえすらすら読めないような少年だった。それが、ときどき彼をたずねるようになり、彼の詩をきき、ともに語り、彼の蔵書にしたしんでいるうちに、いつとはなしに詩を読み、詩を書くようになっていた。以来十余年間、彼のいつにかわらぬあたたかい愛情と、おたがい労働者であるということの親近感のきびしい指導のもとで書いてきたのである。
昨年、その彼が、多年の無理な労働がかさなって、腎性高血圧でたおれ、なくなられた。彼の死は、わたくしにとっておおきな衝撃であった。いまここで、彼にどう感謝し、どう追悼してよいのかわたくしにはわからない。
生前、彼から詩集出版をすすめられていたが、経済的な理由ではたせなかった。ここに一冊の詩集にまとめ、彼の霊前にささげる。彼が書きのこした作品は、すえながく多くのひとびとにしたしまれ愛されるであろう。彼が育てた詩人たちは、彼の遺業をまもり、書きつづけてゆく。彼の魂はわたくしたちの精神のなかに生きているのだ。

ここに収めた作品は、一九五一年から現在までのもののなかから自分で選んだ。わたくしの年令から書けば、だいたい、二十一才から三十三才までの間に書いたことになる。
作品は二部にわけた。作品Ⅰにいれたものは、山形県最上郡萩野村二枚橋部落で、開墾していた当時のものが多く、作品Ⅱにいれたものは、その後、同じく県内の蔵王鉱山に就職し、鉱員として働きながら、書いたものである。
これらの作品は、すでに二、三をのぞいて発表している。おもに、詩誌「詩炉」「角笛」「街」「時の家」「詩人会議」などに発表し、そのなかの一部の作品は、金属鉱山関係の組合機関紙にあわせて発表した。

この詩集を出版するにあたって、終始愛情をもってわたくしの成長を見まもってくださった、郷土の先輩詩人 斎藤林太郎氏、並びに装本してくださった布施哲太郎氏、校正の労をとってくれた村川幸次郎 木村広の両氏、印刷の面でご協力いただいた 石黒幸一氏、そして最後ながら、わたしたちの眼にみえない職場で、この詩集のために活字をひろい、すりあげてくださった山形刑務所の印刷係のみなさんに、あつくお礼申上げます。

                        一九六三年一二月  丹野 茂

(詩集『硫黄』1964年3月)

硫黄



河原  


   (斎藤林太郎詩集『暗い田園』)

「自分の肉体をいつも傷めつけている農民生活の中で、本をよみ、ものを書くことは容易なことではない。やはり仲間同志でそうした環境を作りながら互いにはげまし、立上がり、高めてゆく外にない。
 われわれのグループも戦前から幾度となく高まり、あるひは崩れそしてまた立上がって来た。その盛衰のなかでいつも元気づけてくれたものは馬見ヶ崎川を近くにした奥羽山脈の自然の風土と野良と労働であった。
 それは馬見ヶ崎の激流に洗われながらけなげな繁茂をつづけているアカシヤの群落のようなものであった……。」
(『暗い田園』あとがき)


アカシヤ




草の葉は歌う


  (詩集『暗い田園』1956年)

タンポポ


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 「暗い田園」について

 この詩集は斎藤林太郎が二十年来書きつづけてきたおびただしい作品の中から比較的よいと思はれるものを選んで編集した処女詩集である。
 わが小白川が生み且育てた詩人たちは異質的な個性美を展開しながら共通する根底をもっている点で興味深いものをもっているが、とりわけ彼の場合は生活の場が田園である故か、奔放で情熱的でありしかもことばの線がふとく、また反対にほそく極めて微妙である。感情の振幅に素直な点、多分に生活記録的である。
 この詩集は編集の都合で三部にわけた。
 第一部「草の葉は歌う」には初期少年期の作品及び、第二次大戦に参加、満州、蒙古、南支、印度支那と彼の生涯中最大の旅行ともいうべき戦闘生活中の作品を収録したが「草の葉は歌う」一篇のもつ逞しい抒情精神がこれらの作品に同一の光を投げていると思はれたからである。
 第二部「暗い田園」には終戦を迎え召集解除となり、故郷に帰り書き続けた生活記録的なもの、比較的農民としての生活詩が主なテーマとなっているものを収録した。
 第三部「はじらい」には彼のポエジイが大きな展開を示した近年のもの、つまり社会的な諸事情に興味と関心をもち、すぐれたヒューマニズムの詩人として本格的な構えをもち始めた新らしい作品を収録した。
 以上は大体編集上の要略であるが、彼が詩を書き始めたのは確か一九三五年頃と記憶している。
 この小白川町で貧窮と孤独と絶望の中で詩作に苦闘していた僕のところに、姿を現わした彼は、実に紅顔の美少年であった。その頃この町には若い詩人が輩出した。彼のほかに山口作右エ門、今野吉次、斎藤金男、長橋貞夫、佐藤隆夫、土谷徹と言った十代の詩人が僕を訪れ、時折り深更迄詩を語り文学を語った。それは最も美しく愉しい時、精神の揺籃期でもあった。
 われわれは誰にも教えようとはしなかった。僕らは唯語ったのである。人生の真実と美しさについて、悲しみと辛さについて、耐え励むことについて、僕らはそこで魂の触れ合うことを感じていたのだ。ノートの詩をそのまま読み合い語り合ったのである。その素朴な感動は詩人のより強烈な素直な精神をいつのまにか育くみ次代えの強大な根底を植えつけてしまっていた。しかしこの愉しい美しい友愛的結合も長くはつづかなかった。先づ斎藤林太郎が兵隊にとられ、僕も一身上の都合で東京にでてしまった。その後まもなく第二次大戦が深刻化し、山口、斎藤金男、今野、佐藤、長橋、土谷徹、らもまるで野菜をひきぬくように戦争にもってゆかれ相ついで戦死し、現在残っているものは山口、斎藤林太郎、僕だけとなった。
 しかし第二次大戦も僕らの詩精神を奪うことはできなかった。多くの正義と抵抗の友情を虐殺した戦争も星座の光を消すことはできない。─次来八年間彼は除隊─招集─のるつぼの中で満州、蒙古、南支、印度支那、日本と彷徨した。彼はその間無数の作品をノートに書きしるしていた。彼にとっては生地小白川も、蒙古も、南支も、印度支那もさしたる変化を示さなかった。
 彼の眼にはすべてがわが友としてうつり、あるひは故郷の人々とさしたる変化を及ぼさなかった。彼は常に自己の在るところに於いて詩作した。このような広やかな友愛的精神はいつどこでどのようにしてかち得たものであろうか、─そのような対象に対しての包容力は彼のひとつの優れた特質として享受できるものであるが、その人間的な善性は、彼の場合強烈な個性色となって試作品の上に血液のような斑点を示している。その斑点は不思議な絶対性をもち、彼の詩人としての特徴をゆるがないものにしていると思う。
 「草の葉は歌う」から「死の灰」に至る道程は複雑な交錯音をひびかせ一種の振幅ある生命音となっているのもけだし彼が新らしいヒューマニティの詩人としてその特質を今后充分に歌いあげることを前提としてはじめて許容される運命をもつ農民詩人だからであると思う。
 僕らは生れいでたものは生れいでたものとして肯定したい、存在を甘受し、愛し、うけいれたい、あたたかく抱擁したい。
 農民詩人斎藤林太郎を律するものは広くは世界の田園である。
 どのような辺境の田園も彼には神の与えた土地だからである。土地を愛撫する、それは農民でなくて誰にできよう。彼は与えられた土地を愛している。その土地に定住しその土地に家畜を飼い、その土地に家族を養う。彼は土地と共に行き闘いそして死ぬ典型的な農民である。そのような強烈な想いと意志はこの一巻の処女詩集の至るところに潜んでいると思う。
 少女のようなはじらいを含んで──。

                     一九五六年八月  土谷麓

(詩集『暗い田園』1956年9月)

暗い田園




小白川の




山形の 小白川の 斜面の 懐かしきかな
心美しく 志高い 三人の詩人たち
ここに住んで酒を汲み 詩を語り
また未来を論じて 詩人共和国を生きた

山形の 小白川の 斜面を 流れる
馬見ヶ崎川とそのごろたやの 懐かしきかな
三人の詩人たちを はぐくみ育て
雨降れば詩人の如く激しく流れた

           (作年月不詳)

反戦詩のながれ あしたへの脈絡──小白川の詩人たち(7)

丹野茂の労働詩

 丹野茂は五反百姓に生まれ、海軍を志願、実戦を経験する。敗戦となり、大蔵村萩野村で土地開墾の仕事に就いた。「蕎麦」は、その時代の初期作品である。

   蕎麦
・・・
この痩せ地からありったけのちからをすって
おれたちはけさも素朴な顔で素朴にほほえもうとする
 ─ 蝶は死んだ
 ─ 蜂も死んだ
 ─ 蚊も死んだ
みんな生活の花園をもとめ もとめあぐねて
かよわいはばたきをのこして
おらたちのまわりをとびくるい
とびくるいつきてこごえ死んでいったものたちだ
おらたちの顔にもしわがよって
おらたちの顔は土いろだ
土に芽生えたおらたちが 土に根をはって生長し
一粒一粒の実になって ぽろぽろと涙のように大地にちってゆくのだ
・・・

なつかしい川と山

 土谷麓は、1962年9月3日、腎性高血圧がもとで、49歳でなくなった。
 斎藤林太郎は、1994年8月28日、急性心不全のため、77歳でなくなった。
 丹野茂は、その翌年1995年7月5日、脳梗塞のため、66歳でなくなった。
 土谷と斎藤と三人で義兄弟の盃を交わしたという村川幸次郎は、毎日新聞記者をやめたあと、「劇団山形」の発足を指導し、わたしも土谷に紹介され、いろいろ教えてもらった。同じく同年代を生き、いまなお絵筆を握る画伯、布施哲太郎さんは、村川と山中(いまの山東高)同級で、丹野の詩集「硫黄」の装丁を仕上げるなど、小白川との交流がふかい。大正ロマンの匂う、小白川ゆかりの芸術創造家と会えるのは、わたしだけになった。

 わたしが土谷の土地をわけてもらい、馬見ヶ崎河畔に家を建ててから久しい。
 わが家に近く、馬畔の風景をワイドに眺められる喫茶店がある。土谷麓が愛したチャイコフスキーならぬ世界の音楽を聞きに行く。
 なつかしい川と山を前にして、小白川の詩人たちの風貌と声をしのびながら、あしたへの脈絡と二十一世紀の平和をおもう。(了)

小白川の詩人


*小白川の詩人たちについて語り継いできた木村廣さんも今年の7月22日に亡くなりました。木村さんが本連載をはじめ、「詩人会議」などに書き残された文章は貴重です。「新やまがた」に連載された記事の利用を承諾くださった木村廣さんの奥様に感謝します。
 反戦詩のながれ あしたへの脈絡──小白川の詩人たち(6)

 壁──入営に近い日に

のけられない熱い壁
俺はもはや野良着も地下足袋も脱がねばならない
そこはどんなに暗く悲しいかを知っている
そこでは火でない火が燃えている
そこには忍従があるばかりだ
森や村や友ともお別れだ
俺は沼底のような予感に悶えながら
深夜の薄い布団にちじこまる
冷たく窓から入る夜気
窓をよぎる黒い旗々
あの日の岩陰のぬくもりよ
あの一面の黄色い落葉
紅とみどりの斑点模様の高い崖よ
暗い夜の吸い込まれそうな星々が
俺を呼んでいる

 斎藤は、除隊して東京の連隊に帰還すると、在京していた土谷麓の案内で、前田夕暮の自宅「青樫荘」を訪ねる。戦後間もなく、夕暮が斎藤茂吉の生家を訪ねるため、山形に来たとき、仙台、栃木の詩友と土谷麓と上山に同行する。夕暮は、斎藤宅に三泊する。百姓と軍隊の経験しかないと言いながら、斎藤はすぐれた詩魂をもつ知識人だった。歌集『炎天』、郷土史『馬見ヶ崎川流域の変遷』、詩と旅行記『シルクロード紀行』の著書がある。わたしが、「農、自然、反戦の詩魂−斎藤林太郎の作品とその周辺−」を『詩人会議』一九九九年(平成11)六月号に書いた。

 斎藤は、一九七〇年(昭和45)の真壁仁を実行委員長とする「安保廃棄・山形文化の集い」で自作詩を朗読。丹野茂、木村廣も参加する。一九八八年(昭和63)の「第十三回反戦・詩人と市民の集い山形集会」で実行委員長となる。県内は勿論、全国から増岡敏和ら著名な詩人が集まり成功した。丹野茂、木村廣が主要な役割りを果たした。
一九九〇年(平成2)、「馬見ヶ崎川と北蔵王の自然を守る会」の代表世話人となり、新たなスキー場の開発を止めさせ、成功に導いた。

小白川6

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