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満州移民

ここでは、「満州移民」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


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飯島春光さんの講演「満洲へ行った少年たち~満蒙開拓青少年義勇軍と信州の教師たち~」を開催しました。
2
コロナ禍のため4月の予定が延期になったものです。
3
ワイツゼッカー元西ドイツ大統領の演説 「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。
非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」
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長野県民にとって、「満洲」を抜きに戦争を語れない。
全国一の「満蒙開拓団」約33000人(全国27万人)
全国一の満蒙開拓青少年義勇軍(青年義勇隊)」6939人(約7000人)(全国8万7千人)
市町村、教育会ぐるみ、学校ぐるみの割り当てによって、14,5歳の少年たちが渡満。
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「満洲にあこがれ果てし少年に わが教えたる三人まじれり」立澤千尋(箕輪中部小、王滝小に勤務)。
「二・四事件」(1933年2月4日~608人が検挙された)を契機に、長野県の自由教育は押さえつけられ、
信濃教育会は国策に積極的に協力。むしろ先頭に立って「興亜教育」を進めた。
すべての高等小学校(国民学校高等科)で「満蒙開拓青少年義勇軍」への志願を勧めた。
村を挙げて、出征兵士のような壮行会で送られていった。
5
1945年8月9日ソ連軍が侵攻。(ヤルタ会談でドイツ降伏3ヶ月後にソ連の対日参戦決定)
関東軍の主力は南方に移動していたが、ソ連に察知させないために、開拓団はいっさい動かさず、
45年になってもなお、開拓団を送出していた。(阿智村開拓団は1945年5月に「渡満」)。
残った関東軍もいち早く逃げ、残された開拓団、義勇隊の決死の逃避行が始まった。
7
定住化計画…大本営参謀五課・朝枝繁春報告(1945.8.26)「在留邦人および武装解除後の軍人は
ソ連の庇護のもとに鮮満に土着せしめて生活を営むべくソ連側に依頼するを可とす」。その結果、
帰還希望者を30万人と過小に推定し、在満日本人の引き揚げは中国本土の日本軍隊よりはるかに遅れた。
引き揚げの遅れによる膨大な死者。…1945-46年死者約19万人。その後3万人。ポツダム宣言受諾後に
21-22万人が死んだことになる。開拓団関係は8万人。うち自決が1万人余。45年秋には中国本土、台湾、
南方からの引き揚げが博多、佐世保などに殺到していたが、「満州」からの第一陣出航は46年5月14日。
同年10月までに101万余、48年8月までに約105万人が引き揚げ。45年の冬を越せなかった死者が圧倒的多数。
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逃避行の中で、中国人に引き取られた子どもたち。(中国残留日本人孤児)
養父母は「日本人」だということを隠して、いじめや不利益から守ろうとした。
文化大革命の時には自分が迫害されても子どもを守った養父母も多い。
事情を知っているまわりの中国人から「日本人」「小日本鬼子」といじめられた例も少なくない。
中国残留日本人は、日中国交断絶により、戦後27年間放っておかれた。
6
帰国・呼び寄せ家族を地域でどう支えるか。
①帰国者を包み込める地域社会に。差別なく支え合い暮らせる地域社会。
文書、会話など言葉への日常的な配慮。中国文化も尊重し、文化の交流ができる社会。
②帰国者が自立して生きていくための生活の保障。言葉の訓練、仕事の保障。
③歴史を学ぶこと、歴史的背景、中国帰国者が今かかえる困難を学び知ること。
9
(感想文から)
両親、祖父母ともに教員であった事を自分の誇りとしてきましたが、
やはり両親、祖父母の戦争中の役割を考えるとたいへん切ないです。
私に残された人生を日本の平和の為に、全力を尽していきたいです。

満蒙開拓団として旧満州に渡りながら敗戦により現地に取り残された中国残留孤児。川越市の藤沼敏子さんが62人にインタビューして過酷な体験を聞き取り、証言集にして出版したそうです。東京新聞夕刊(8月24日)が報じました。
満蒙開拓団の歴史的経緯や日本政府の冷淡な施策についても解説し、満蒙開拓とは何だったのかとの疑問が消えないといいます。

新聞

歴史館

長野県立歴史館(長野県千曲市)で「戦争体験を語る」シリーズ4回めで「満洲移民を語る」を開いていました。

歴史館
歴史館
下伊那郡の湯澤政一さん(ビデオで出演)
1945年3月、14歳で満州に渡り義勇隊に参加、開拓団を護送中に終戦を迎えました。ハルピンの収容所生活中に多くの団員が病気や栄養失調で亡くなった。中国人のことを悪くいう人がいるが、優しくしてもらった。生き延びて帰国できたほとんどすべての人は、中国の人々のおかげです。終戦70周年の今日、灰色になってきたが、戦争を繰り返してはいけない。

歴史館
久保田諫さん(下伊那郡河野村出身)
開拓団の集団自決の様子を生々しく証言しました。
13歳で河野村開拓団に入植。終戦間際の8月13日に突如召集令状がきました。開拓団は召集されないと思っていたのでびっくり。大人の男性は全員徴兵され、女と子供だけになりました。敗戦となり、開拓団員は棍棒で襲われたりして逃げ惑いました。67歳の団長の力が尽きて「早く楽にしてほしい」と頼まれ、息の根を止めるのに手を貸しました。「潔く私たちも命を絶とう」と女性たちは集団自決を決め、帯やもんぺのひもで自分や子の首にかけました。力の弱い人にかわって力の強い人が首をしめました。自分ともう一人の男性は互いに相手の肩をおさえて石で額を殴りあった。その時の傷は今も額に残っています。血を流して倒れていたが、この二人だけが息を吹き返しました。見ると倒れている全員が着物をはぎとられてすっ裸でした・・・。
戦争だけはくり返してはいけないと強く訴えたい。

歴史館

広い博物館で、常設展では松代の六工製糸場の展示がありました。