ラテンアメリカ

ここでは、「ラテンアメリカ」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




ほかのひと


(『地殻』1961.7 )

やし


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キューバの声

(『地殻』1961.7)

やし

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マルケス書簡

(『赤旗』2003年2月15日)
 ルイス・カルロス・プレステス
                     ポール・エリュアール/大島博光訳

わたしが 見知らぬよそぐにへ行くと
ひとびとと 樹々は 幽霊のようだ
雲のない空も ひとつの悪夢のうえにかかった丸天井だ

けれども この原始林のなかで
何ものもわたしのよいものを奪いはしない
あかつきの妖怪も
息苦しい夜の怪物も
アウシュビッツで 根を下ろした
ぞっとするような恐ろしい悲痛さも
何ものも わが愛する祖国 ブラジルを
わたしから奪いとることはできぬ
ブラジルのわが兄弟たちは わたしをもとめている
なぜなら兄弟たちは 見たのだから
たくさんの生活が流れてから 書きとめられてきた
あの悲しみ わたしの苦しみを
じぶんたちの 食うや食わずのみじめな生活を

わたしが すべてのひとたちのうちの ひとりにすぎなかろうと
せめてわたしが すべてのひとを信頼しているということを みんなに示したいものだ
みんな めいめいに 永遠の太陽がある
わたしは くらやみや不義不正をゆるせない
わたしに光リをさししめしてくれたのは人民だ
人民は 敗北のどん底でこそ 光りが必要なのだ

わたしは すばらしい生活をめざして
くずおれない人間たろうと つとめてきた
やすみなく前進しながら わたしはみんなの希望をよせあつめる
あんまりたくさんの兄弟たちが 世界にいるので
わたしはもう二どと 孤独にはなれぬだろう
わたしはみんなの力を結びつけ 結びつけるようにと みんなに呼びかける
その力の流れをわれわれは みちびくことができるだろう
勝利から その目的地へと
わたしの祖国では 森は
木によどみかかる斧よりも強い
わたしは祖国にふみとどまって 斧をすりへらしてやる こき使ってやる
斧がうち倒れるまで
わたしの祖国は わたしの力 わたしをひとびとにむすびつける
祖国は 人民のもの わたしのもの
やがてわたしたちは 祖国をわがものとするだろう

わたしの心のなかに脈うっているたくさんの心を
きょう うちくだきうるものは何もない
わたしたちは みんな同じ道をゆく
石ころと いばらの道を
しかし 大地をふむわれらの足どりは たのしく
太陽を仰ぐ われらの頭は やさしい

ブラジルのほの暗い奥処(おくが)から
わたしは 黒いベールをはぎとり
いたるところに 光りをまく
わたしは かたい希望をもったものだ
わたしは 愚行の召使ったいを怒りに駆りたて
エゴイズムの否定をおしすすめるものだ
わたしは しあわせを かちとりたい
わたしは すべての扉をひらきたい

わたしの希望は 世界をかけめぐる
いたるところから たくさんの声がわたしに答える
みじめさは あとじさりする
わたしは前進し いたるところ 素手で用意するのだ
きょうの日の苗床を
あすの日の とりいれを

 *訳注 ルイス・カルロス・プレスレスはブラジル共産党の書記長

<『エリュアール詩選』1956年>

*プレステスの妻オルガ(ユダヤ系ドイツ人)はナチス・ドイツに引き渡され、アウシュビッツ収容所で殺されています。ブラジル映画『Olga オルガ』(2004年)で映画化されているそうです。
 ホ・チ・ミン

ながい旅の終わりに
静かに目覚める ホ・チ・ミン
そのまっ白な衣服に
自由なこころが 燃えあがる
護衛もつけずお付きもなしに
山を越え 荒野を渡ってきた人
もっているのは ただ
白い衣服のなかの 自由なこころ
その 旅のために
ほかには 何ももとめなかった

 *ホ・チ・ミンの死にささげる哀悼
               (訳・徳永三郎)


 おれは持ってる

おれが 自分を見つめ 自分にさわってみると
なんと きのうの文なし太郎のおれが
きょうはなんでも持ってる 物もち太郎だ
おれはぐるっと見まわして よく見る
自分を見つめ 自分にさわり
つぶやくのだ「どうしてこんなことになったのか」

もうちょっと見てみよう
おれは好きなように 国じゅうを歩きまわることができるし
国にあるものはなんでも自由にすることができる
むかしは近よることも持つこともできなかったものを
すぐ近くで手にとって見ることができる
おれは言うことができる──砂糖キビも
おれは言うことができる──山も
おれは言うことができる──町も
おれは言うことができる──軍隊も
みんなもう永久におれのものだ きみのものだ おれたちのものだと
そうして はてしなく輝く陽光も星も花も

もうちょっと見てみよう
おれは好きなように行くことができる
おれたち農民が 労働者が しがない人間が
好きなように行くことができる
(例えば)
銀行へ頭取と話をしに行くことができる
それも英語で話すのではなく
「旦那」呼ばわりで話すのでもなく
彼にスペイン語で「仲間よ(コンパニエロ」と言うことができる

もうちょつと見てみよう
おれが黒人であっても
ダンス・ホールや酒場(バー)へはいるのを
だれも止めることはできない
またホテルのフロントで 部屋なんかないと
だれもおれに怒鳴ることはできない
小さな部屋で 豪勢な部屋でなくとも
小さな部屋で おれは休むことができる

もうちょっと見てみよう
おれをひっ捕えて牢へぶち込んだり
おれを生まれ故郷から引っこぬいて
街頭のまんなかへ追いたてる
あの田舎のお巡りはもういない・・・

 *キューバ革命勝利の喜びをうたう
               (訳・大島博光)


 原 爆

これは爆弾です よく見て下さい
ただ今 すい眠中ですから どうかそっとしておいて
ステッキや棒で 竿や とがったものでつつかぬこと
投石を禁ず
餌の投入を禁ず
手と目に注意
 (掲示板にはこんな警告文があるのに誰も、大臣閣下も、無視している。
  この動物は
  危倹かつ狂暴なり)
               (訳・徳永三郎)

<『文化評論』1978年6月号>
明日 すべては変るだろう 息子よ
                 エドウィン・カストロ/大島博光訳

明日(あす) すべては変るだろう 息子よ
苦しみは うしろの扉から出て行くだろう
その扉を 新しい人間たちの手は
永遠に 閉めてしまうだろう
農民は これから自分の土地で笑うだろう
──小さくとも 自分の土地で──
楽しい労働にいつくしまれて花咲く土地で
労働者の娘たちも 農民の娘たちも
もう身を売らなくてすむだろう
りっぱな労働で 彼女たちは
パンや着物を 手に入れるだろう
プロレタリヤの家から 涙は消えるだろう

おまえは満足げに 笑いを浮かべて統治するだろう
アスファルトを敷いた街まちを
河の流れを 田舎の道路を

明日 すべては変るだろう 息子よ
もう 思想を抑えつける
鞭もない 牢獄もない 銃弾もない

おまえはすべての町の通りを歩いてゆくだろう
おまえの手に おまえの子供の手を引いて
きょう おれがおまえにしてやれないことをして

牢獄も おまえの青春の歳月を閉じこめないだろう
おれの青春を閉じこめているように
おまえは亡命の身で死なないだろう
ふるえる眼で
祖国の風景を見たいと熱心に願いながら
おれのおやじが死んだように

明日 すべては変るだろう 息子よ

 訳注 エドウィン・カストロ(ニカラグア)の生年月日は不明。彼は四年間の投獄と拷問ののち、一九六〇年五月十八日、ラ・アヴィアシオンの牢獄で殺された。

(自筆原稿)

◇   ◇   ◇
この詩を原詩に林光が合唱曲「告別」を作詞・作曲しています。
博光はニカラグアの詩人二人の詩を訳していました。原稿のコピーでは、33-35ページがクアドラの「輝く二つの星の対話」、36-40ページがエドウィン・カストロのこの詩で、原稿の全体は見つかっていません。全体はどういうものか、何故この2篇をコピーで残したのかは不明です。

輝く二つの星の対話
               パブロ・アントニオ・クアドラ/大島博光訳

自由のために戦い倒れた戦士が
勲(いさおし)を賛えられて ひとつの星となった
彼を生んで死んだ 輝く母親の星の隣に

──お母さんの苦しみは たいへんだったでしょうね?
と 戦士はたずねた

──新しい人間(こ)を世に生みだす幸福(しあわせ)
それにくらべれば なんでもありません

──ところで おまえの傷は深くて
さぞ痛んだでしょう──と母親はつけ加えた

──人間(こども)に新しい世界を与える幸福(しあわせ)
それにくらべれば なんでもありません

──それでおまえは 自分の息子を見たのかい?
──いいえ 一度も

──おまえは自分の戦いの戦果を見たのかい?
──ぼくは その前に死んだのです

──お母さんは 眠っているの?
──わたしは夢みているのです
母親は そう答えた

注 パブロ・アントニオ・クアドラ(ニカラグア)は一九一二年に生まれた。

(自筆原稿)
ニカラグア人民とチリ人民への挨拶
                                   大島博光

北アメリカと南アメリカのあいだ
くびれて廊下のようになり こぶが二つあるようなところ

そこに 地図にも小さく色どられて
小さな 小さな ニカラグアがある

だが 国は小さくとも ソモサをうち倒したニカラグア人民の
歌ごえは高い

悪名高い 早射ちガン・マンよ
ニカラグアは 西部劇の舞台ではない

迷彩服を着た ならず者どもの
コントラをニカラグアにけしかけるな

ニカラグアの大地 風 水 森 空を
黒い手で汚すな ふみにじるな

性こりもなく グリーンベレなど送りこむな
もう ヴェトナムの二の舞を演じるな
    *
辺境の山のなか 森のなかで
とうもろこしの薄焼きパンをたべながら

文盲を一掃するために
読み書きの勉強をしながら

一九七九年七月十九日
ソモサをうち倒した勝利の果実を

堅く守り 発展させている
サンディニスタの若者たち

湧きあがる ニカラグア人民の雄叫びに
遠く アンデスがこだまを返えす

ピノチェット打倒の チリ人民のデモの叫びを
独裁者や無法者を追い出す 人民のこだまを叫びを

わたしは見た テレビの画面に
自動小銃を構えた兵隊どもにむかって

堂堂とつめよっている チリの女たちを
連れ去った夫 恋人 子供たちを返えせと

いたいけな十三歳の少女を射ち殺しても
若者に石油をぶっかけて焼き殺しても

英雄たちの顔に銃弾を射ちこんでも
それはやつらの弱さの現われでしかない

どんなにおまえがわるあがきに あがいても
おまえの命運はもう盡きはてているのだ

チリをアメリカの手に売り渡した独裁者に
もう明日の日はない あるのは墓穴ばかり

血を流してもなお闘う英雄的なチリ人民よ
われわれは戦闘的な連帯の挨拶をおくる

(自筆原稿)


解説 詩人アストゥリアスについて

 ミゲール・アンヘル・アストゥリアスは、一八九九年一〇月一九日、グァテマラ市北一三番街一三番地に生まれた。父親エルネストは弁護士で、母親のマリア・ロサレスは女教師であった。アストゥリアス家は一七七〇年頃、スペインからグァテマラに移ってきた。ミゲール・アンヘルの血のなかには、母親をとおしてインディオの血が、父親のスペインの血といりまじっているといわれる。じつさい、大柄で、どっしりとして、かぎ鼻をした顔には、マヤの石像のマスクを想わせるものがある。
 かれは子供のころ、母親の物語ってくれるインディオの不思議な伝説にしたしんで育った。その魔術のような伝説の世界は、のちにかれの文学のなかにふしぎな影響をあたえ、「魔術的レアリズム」へと発展する。
一九九八年来、グァテマラの運命をその手に握った独裁者マヌユエル・エストラーダ・カブレラは、一八九九年にはユナイテッド・フルーツ会社に、グァテマラの門戸をひろくあけはなち、グァテマラを「外国独占体のなかにある国家」にかえてしまった。そうしてこの独裁者は、反抗的な自由主義者たちまで迫害するにいたった。アストゥリアスの一家も、一九〇三年この迫害をのがれて、首都から田舎町のサラマに移る。
 一九一六年、アストゥリアスは大学にはいり、はじめ医学部に籍をおいた。しかし、解剖台にならべられた死体を見たとき、かれは自分が医師にむかないことを知り、つぎの年に法学部にうつる。
 当時、独裁打倒の運動はさかんになった。自由を要求する人民を、聖職者までがはげました。一九一九年三月、「グァテマラ人民へおくる声明」のなかで、ファセリの司教はいう。「諸君は一国の人民であって、羊の群ではない。」
 一九二〇年一月、統一党が創立され、イデオロギーと信教のちがいを越えて、民主主義の隊列を大きくするよう、すべての愛国者たちによびかけた。大学では、「エル・エストゥディアンテ」誌が警察の圧力にも屈しない闘争を展開した。アストゥリアスはこの機関誌の創立者のひとりであり、主要な執筆者でもあった。また、全国大学生連盟が組織されたが、かれはその指導者のひとりとなった。
 アストゥリアスは、そのあいだも、政治運動を放棄することなく、文学の勉強をつづけ、一九一八年には、最初の詩を「ラ・オピニオン」紙および「ラ・カンパーニヤ」紙に発表し、「クルトゥラ」 誌に協力する。独裁打倒に積極的に参加したゆえに「一九二〇年代の世代」と呼ばれる人たちが、この「クルトゥラ」誌に、スペイン古典詩─たとえばガルシラソー・デ・ラ・べガやフレイ・ルイス・デ・レオン風な詩をかいていたし、そこにはまた前衛的なエッセイや詩も紹介された。とくにペルーの詩人サントス・チョカノがこの世代につよい影響をあたえた。かれはメキシコ革命にも参加した詩人で、「原住民の野性的なアメリカ」をうたい、詩の分野に、インディオの問題を提起した。─インディオは、あらゆる権利を奪いとられた貧乏人で、奪いとられた土地でへとへとになるまで働かされていた。インディオは数百年来うばれてきたその権利を回復する日を待っている。そのとき、偉大な作家・詩人たちが、イソディオの偉大な過去とその伝統の美しさを表現するであろう。アストゥリアスもそれらの作家・詩人のひとりに成長することになる。
 一九二一年、アストゥリアスは大学の卒業論文として「インディオの社会問題」にとりくむ。大学で、社会学の講座でこの問題を研究すると同時に、かれはヨーロッパや北アメリカの社会学の著作を読む。この年、メキシコでひらかれた第一回学生国際会議にグァテマラ代表として出席し、そこでメキシコの学生詩人カルロス・ペリセル、ジェイム・トレス・ボデットなどと識りあう。かれはまた、十年来、革命をすすめているメキシコの新しい現実にふれる。グァテマラに帰ると、マヤ地方の町や田舎をおとずれて、土着民の資料や証言をあつめる。それは、かれの卒業論文のなかにとりいれられ、研究の対象となる。
 一九二四年七月一二日、アストゥリアスはパリに着く。パリ祭の賑わいと歓喜にすっかり魅せられる。モンパルナスのカフェー、 クーポールやロトンドには、ラテン・アメリカの作家や芸術家たちがよく集っていたし、大学ではマヤが研究対象となっていた。かれはソルボンヌ広場の小さなホテルに身を落ちつけて、それから三年にわたる研究と文学勉強と詩作のパリ生活をはじめる。かれはソルボンヌで、古代アメリカ文明およびマヤ文明に関するキャピタン博士の講義に出席する。また、ジォルジュ・レイノーの指導する、古代アメリカ宗教のゼミナールに参加する。レイノーは、キチェ族の 神話、『古代グァテマラの神神と英雄と人間たち』を仕上げていた。 それは、キチェ族の聖書といわれる「ポポル・ブフ」の新しい仏訳でもあった。そしてレイノーの提案で、アストゥリアスと同学のメ キシコ人J・M・ウルタード・メンドーサは、この書をスペイン語にほんやくすることになった。このスペイン訳は一九二七年にパリで出版され、一九三〇年には、アストゥリアスの最初の著書『グァテマラの伝説』がマドリードで出版される。
 夜、アストゥリアスはモンパルナスのカフェーで、多くの詩人や作家・芸術家たちに会った。ポール・フォールやレオン・ポール・ファルグなどの詩人、アンリ・バルビュスやロマン・ローランなどの小説家たち。とりわけシュルレアリストたち─アンドレ・ブルトン、アラゴン、ポール・エリュアール、トリスタン・ツアラ、パンジャマン・ペレ、そしてロベール・デスノスなど。また、パリ滞在下の外国作家、イリヤ・エレンブルグ、ガートルード・スタイン、トーマス・マン、ルイジ・ピランデルロ、ミーゲル・デ・ウナミムノなど。
 のちにアストゥリアスは、シュルレアリズムについて、こう述懐している。
 「われわれはスペイン系アメリカ人として、生れからして偶像破壊者である。わがアメリカ大陸の風土の荒荒しさは、破壊の魅力をわれわれに吹きこんだ。そしてシュルレアリズムは、すべてを投げすてて、新しいものを獲得しようとするわれわれの若若しい渇きをいやしてくれた。けれども、ひとびとがわたしの或る作品に指摘するシュルレアリズムは、フランスの影響であるよりは遙かに、マヤ・キチェ族の神話伝説に鼓舞された精神をあらわしている。たとえば、『ポポル・ブフ』や『ザイールの年代記』のなかには、われわれの知っているすべてに先だつ時代の、植物的で明敏なシュルレアリズムとも呼びうるものが見いだされる。」
 「わたしの思うに、フランスのシュルレアリズムはきわめて知的である。一方、わたしの本のなかでは、シュルレアリズムはまったく魔術的な、まったくちがった性格をもっている。原始素朴な、小児的な精神で、現実と想像とを、現実と夢とを、ないまぜにするのが、インディオのやり方なのだ。」
 グァテマラは超現実主義的な国である。すべてが─人間も風景も事物も、すべてがそこでは、対照にみちた並存的なイメージと狂気の、超現実主義的な寡囲気のなかにただよっている。」
じっさい、この頃かかれたアストゥリアスの詩は、ほとんど超現実主義的なものではない。むしろそこにはほかのいろんな影響がみられる。一九二五年のソネットには、ヴァレリーの純粋詩の影響がみられるし、つぎの時期の詩には、ヴェルレーヌ風の象徴主義や、フランシス・ジャムの内面主義の影響がみられる。
 アストゥリアスは、自分が抱いている内密の世界を表現するのに、詩がそれに適当な表現形式でないことに気がついて、詩から散文にうつる。こうして生れたのが、みごとな散文詩『グァテマラの伝説』であった。
 これらの物語は、インディオの古い民話から発想をえているものではあるが、そのままの描写ではない。それは作者のゆたかな想像によって、民話のはじめの内容よりはるかに魅惑あるものとなっている。「金の肌」という年もわからぬ老人が、ドン・チェペとニィーナ・ティーナに出会う。二人の信頼をえようとかれは、子供の頃さまよい歩いた森の話をする。こうして物語ははじまるが、読者はたちまち、魔法のような世界にひきこまれる。ここでは、神人同形論(アントロポモルフィズム)は独特なかたちをとっている。動物たちは話をしないが、反対に、生命のない物たちが活動する。アストゥリアスの魔法の指輪のままに、山や木や草が擬人化され、石や木の葉や音が、生命をあたえられて、異常な世界をつくり出す。
 「わたしは森のなかにはいって、酋長たちの行列のような木木の下を歩いた・・・気がつくと、たちまち、森の木木は人間に似ていた。石が眼をもっていて、あたりを見まわし、木の葉が言葉をはなし、流れが笑った。太陽、月、星、空、そして大地が、みんな自分の意志で動いていた・・・松の木は、ロマンティックな女の睫毛でできていた、・・・歩くたびに、こだまのすばやい兎が、はねて、走り、 飛んだ・・・神さまは、気まぐれな歯医者のように、風の手で、木木を根こそぎ抜きとった・・・」
 アストゥリアスは、このマヤ・キチェ族の神話伝説にもとづく手法を、小説のなかにもとりいれる。たとえば、小説『トウモロコシの人びと』について、それを見よう。高橋勝之氏は、つぎのように書いている。
 「それは人間がトウモロコシからつくられたというマヤ=キチェ族の神話にもとづいている。つまり、トウモロコシの子孫であり、トウモロコシを神聖な作物と考える人びとと、トウモロコシを金もうけの手段だと考えている外部からきた人びとの闘争である。この紛争は、幻想的な形で措かれている。・・・五つのエピソードからなっている『トウモロコシの人びと』は、現在もグァテマラの農民のあいだで生きつづけている「ポポル・ブフ」の呪術的な世界を、かれらがいや応なしに直面している苛酷な現実と重ねあわせて提示しており、ときにはその神秘性が物語をしばりつけて、事件の論理的発展を妨げているかのようにみえる。しかしこのような原始的、アニミスト的な表象によって動く雰囲気のなかにも、搾取されるインディオと、野蛮な資本家たちの現実的なはげしい闘争が感じられるのである。このようなアストゥリアスの文学的手法を、ある批評家たちは、ラテンアメリカの前衛芸術の一つの傾向としての「魔術的リアリズム」だといっている。しかし、現代のラテンアメリカの文学にも、アフリカの文学にもあらわれているこのような神話的幻想的な意識をぬけきれない主人公たちの表象と、じっさいにその主人公たちがおこなっている闘争とを対比して考えてみるとき、これはたんに手法のうえのあたらしい傾向とだけ考えることはできない。現代のラテンアメリカでも、アジアでも、アフリカでも、帝国主義の植民地支配の結果として、社会発展のひじょうにことなった段階にあるいろいろの人民が、解放闘争に参加するようになっているからである。これらの人民の帝国主義的な現実にたいする抗議は、はじめの段階では、しばしば素朴な、おくれた、宗教的、神秘的なイデオロギーの形態をとってあらわれてくる。『トウモロコシの人びと』も、この抗議がはじめてあらわれた、もっともおくれた形態で表現されているのである』(新日本出版社『緑の法王』四一五ページ)
 一九四九年、アストゥリアスは青年時代から書いてきた詩をまとめて、詩集『ひばりのこめかみ』を出版する。この詩集では、小説家としてのアストゥリアスではなく、旅をし、愛し、悩み、熱中する、アストゥリアスの人間的な側面がうたわれている。いわば、詩という形式をとった一種の日記ということもできよう。とはいっても、ここに訳出した「インディオがメキシコから降りてくる」という詩のように、インディオの世界もそこには反映されている。
 アストゥリアスにとって、詩とは、人生のいろいろな体験・できごとをうつす鏡である。こういう態度をとっていたから、かれはどのような詩の流派にぞくすることもなかった。初期にみられるシュルレアリスムの影響も、前述したように、アストゥリアスにあっては、まったく独特の意味あいをとっていた。詩的表現、詩の手法などに関する理論的追求は、あまりかれの注意をひかなかったようである。この散文における革新家も、詩にあっては伝統的な形式で満足しているのである。
 一九六五年、アストゥリアスはフランスで『春の明るい宵』を出版している。この長い詩は、『グァテマラの伝説』の世界をうたったもので、ただ表現手段が変っているだけである。つまり、散文のかわりに、詩の形式が採用されている。そして詩は、やはり、神秘的なイメージ、妖精の世界の幻想的な活力にみちている。

 一九四三年、メキシコ駐在総領事だったネルーダは、帰国の途中、グァテマラにアストゥリアスを訪れている。そのとき、この二人の詩人が意気投合したであろうことは想像に難くない。なぜなら、二人とも、インディオをふくめて、それぞれの祖国の解放、南アメリカ諸国人民の解放を、それぞれの作品のなかで主要な主題として描き、うたっているからである。
 アストゥリアスは、一九六六年、レーニン平和賞を、一九六七年にはノーベル文学賞を受賞している。
 なお、アストゥリアスの小説『緑の法王』は新日本出版社より邦訳書がでており、その巻末に、高橋勝之氏が、アストゥリアスの伝記と小説作品の解説をかいている。

<「詩人会議」ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの詩(下) 訳・解説 大島博光 /1974年>
グァテマラよ こんにちは
                      ミゲル・アンヘル・アストゥリアス/大島博光訳

グァテマラよ こんにちは
やさしい ブロンドの翼よ
人びとの愛がつくりあげた グァテマラよ
音楽のような沈黙のなかで
じっと耐えているグァテマラよ
こんにちは 恵みの手よ
こんにちは 神の手よ
おまえの息子たちの背中は 扉だ
この世の戸口を閉ざしている 肉と骨の扉だ
この扉のむこうを 見るな
町には叫び声があがり
軍人どもの長靴は 血でひかっている
むこうを見るな
つながれた男の背中がかくしているのは
鎖の音をたてる牢獄の光景だ
穴だらけになった壁
うちひしがれて 伸びている道だ・・・
思い出すな 野に花咲いた きのうの楽しさを
市民だった日の祭りのよろこびを
ちえっ! きょうは くびきだ 晒(さら)し台だ
祖国よ しあわせなめくらよ
だがおれたちは おまえを見うしないはしない
おまえは 花嫁であり 母であり 娘だ
しかもきょうは 外国に売られた若い娘だ
おまえを売ったやつらに 懲罰を 懲罰を!
だれも くちびるひとつ動かさない
しかし こんなことがあっていいものかと
みんなが 見ているのだ 昼も夜も
おまえが見ないものをじっと見ているのだ
骨ばった 肉食獣のような海賊どもが
おまえのゆたかな胸の ご馳走の皿に
かぶりついているのだ おお愛する祖国よ
そうして おまえを売ったやつらが
この黄金の饗宴を邪魔されぬようにと
あたりを見張っているのだ

・・・・・

祖国は 海賊どもに売られてしまった
冬 木木がねむりこむように
祖国も ねむりこむがいい
海賊どもが無数の番犬を使って支配する間
おまえが奴隷のように 縛られている間
祖国よ おまえも 眠るがいい
星たちに 光りまたたけと 告げ
鳴りどよもす空のよろこびを映せと 水に告げ
死者たちに 眼をさませと 告げてまわる
その日のくるまで
祖国よ おまえも眠りこむがいい
国じゅうに死刑執行人(ひとごろし)がいなくなり
暮らしにテロがなくなり
土地に地主がいなくなり
種子をまいて 大切な穀物をとりいれる
そんなしあわせな時代がやってきて
腕をひらいて 祖国を迎え
祖国のくびねっこに抱きついて
眼に幸福の涙をいっぱいためて
おまえは 息子たちの手にもどってきた
おまえは息子たちといっしょになって
そう言えるその日まで──

<「詩人会議」ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの詩(中) 訳・解説 大島博光 /1974年>


インディオがメキシコから降りてくる
                      ミゲル・アンヘル・アストゥリアス/訳 大島博光

インディオが メキシコから降りてくる
青い夜の重荷を 背なかにせおって
町はあそこだ 町はかれらを迎える
街通りは 一匹の兎で 大騒ぎ
夜が明けそめると 街通りの
ともしびはみんな 星のように消える
かれらの手は 二つの櫓のように
風のなかを 漕いでゆく
高鳴る 心臓の音が のこる
そうして かれらの通ったあとに
小さな足跡が こぼれ落ちて残る
はてしない道の ほこりのなかに

メキシコにあらわれる 星たちは
メキシコにのこる なぜならば
インディオたちが それをつかまえ
それを籠に編んで そのなかに
黄金いろのユカの枝で 摘んだ
白い花房や にわとりを入れる
インディオたちは おれたちよりも
音もたてずに ひっそり生きる
かれらがメキシコから降りてくるとき
きこえるのは 熱い息使いばかり
ときにそれは 銀いろのまむしのような
かれらのくちびるの上で 口笛となる
    (『ひばりのこめかみ』一九二九~一九三二年)

去年、ネルーダの死に際して、追悼詩『生けるネルーダ』をかいた詩人作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスが、さる六月九日、マドリードで七五歳の生涯をとじた。ここに作品を紹介しわれわれの追悼の意をあらわしたい。

<「詩人会議」ミゲル・アンヘル・アストゥリアスの詩(上) 訳・解説 大島博光 /1974年>
松戸チラシ

<4月3日の上映会の感想文を宮本さんからいただきました>
[「ラテンアメリカの目覚め」松戸でも上映]の続きを読む
チャベス
2月にキューバの人びとの生活について眼にウロコの面白い話をしてくださった宮本眞樹子さんからDVD上映の案内がきました。中南米諸国の解放の闘いを描いて感動的とのお話で、ぜひ見たいと思いました。
アジアアフリカ
千葉県AALA葛南ブロックのつどいはキューバ在住の宮本眞樹子さんにキューバの近況を語っていただく企画でしたが、面白い話ばかりで眼にウロコでした。ショーで踊るキューバの女性のからだは美しくて女からみてもよだれが出る、キューバ旅行に行ったら絶対ショーをみるべき、ただし手を出したらアウトよ・・・など柔らかい話も面白かったが、すごいのは国が国民の生存権を全面的に守っていること。家も主食も無料で支給、ただし車は原則ダメ、もちろん医療費はタダ、所得税も住民税も消費税もない。国は国民にどうやって豊かさを与えられるかを目標に政治をしている。従ってホームレスも自殺も孤独死もない。経済的に豊かなはずの日本で自殺が多いことがキューバ人には理解できないといいます。
ムーア監督が映画「シッコ」で、キューバの医療が無料で誰にでも提供されていることを紹介しましたが、きょうの話で、国民生活全般について同じ考え方でつらぬかれていることがわかりました。貧困に対する不満が鬱積して政治的な不安定がありうるのでは?と訊きましたら、資本主義に戻りたいと思っているキューバ人はいないと言われました。キューバの社会主義についてもっと学びたいと思いました。
(宮本さんから補足)「主食も無料で支給」ではなく「僅少の金額」で、すべての国民に支給されています。 キューバの配給は、一応有料です。大変わずかな金額ですが。そして、すべての国民に年金がありますので、この配給の品の支払いが不可能なことはないようです。
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宮本眞樹子さんに挨拶しましたら、大学時代に大島博光の本を読んで知っている、4月18日の津田沼でのつどいにも参加したかったがキューバに帰る予定になっていると言われ、またの機会ということになりました。

1992年に来日して植前武彦さんと結婚したマリアさんの話が革新懇通信「いちかわ」137号に載っていました。

 マリアさんは日本人に対して不思議に思うことが二つあります。なぜ日本の人たちは、いま生きている目の前の人生を楽しまないのか。ペルーでは毎週末には家族や友人その又知り合いと、大勢が集って、飲んだり唄ったり踊ったりと一日中遊び、語り、楽しみます。土・日になるとごろごろ寝ている夫を見て最初は病気かな、と思ったそうです。しかし今なら休日にはゆっくり休みたいと思う、余裕のない状態に置かれた労働者たちの気持ちは分かるといいます。
また、ミ・アモール(私の愛)、ミ・ビーダ(私の人生)、ミ・シェーロ(私の星)、「私の宝」、「私の全て」などと日常的に呼びかけるロマンチックなペルーの男性たち、それに比べて日本の男性たちは妻や女性たちを言葉で楽しませようとしない、と言います。それを脇で聞いていた武彦さんが、「照れくさくてそんなこと言えないよ」、と恥ずかしそうに言うと、すかさず、「何で恥ずかしいの、人間でしょ」、とラテン美人のマリアさんが大きな目で睨みました。
 日本語は十分に話せるマリアさんですが、微妙な言い回しが見つからなくスペイン語で話すと、武彦さんが通訳し、それでもぴったりしないときは辞書を手 に、何度もマリアさんと確認し合いながら説明してくれました。分かったつもりになることではなく、分かるまで理解しようと努力する二人の姿は、大げさな言 い方をすれば他民族理解の基礎なのだと思いました。 (聞き手・荒川玲子)
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