パッチワークに願いを込めて〜ピノチェト軍政下・女性たちの闘い

ここでは、「パッチワークに願いを込めて〜ピノチェト軍政下・女性たちの闘い」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


パッチワークに願いを込めて (10) 終章 The last chapter

パッチワーク

国際的な支援が大きな支えになっています。しかし彼女たちは 希望を持って戦い続けることの難しさを身にしみて感じています。
ドリスさんの夫と子供たちはチリを出て行きました。彼女はこの家でたった一人で暮らしています。
「家の中は空っぽです。ここに坐ってよく思うんです。子どもと一緒にいられないのなら、こんなことをして何になるのだろうって。
軍事政権が私からすべてを奪いました。私は孫をあやしたこともないんです。娘の妊娠や出産にも立ち会ってやれなかった。病気の夫を看病してやることも出来ない。
たとえ息子が殺されていても、遺体にすがって泣くことさえ出来ないのです。」

パッチワーク
パッチワーク
パッチワーク

最近になって 秘密の墓地から軍事政権時代に逮捕され殺された人びとの遺体がぞくぞくと発見されました。軍や警察がつねに否定してきた虐殺の動かぬ証拠です。


パッチワーク
パッチワーク

サンチャゴの墓地にある多くの身元不明者の墓についても解明が求められています。中でもサピオ29と呼ばれる区画にはノーネームを示すNNとかかれた名前の無い墓が100以上もあるのです。

パッチワーク
パッチワーク
パッチワーク

「サピオ29は特別の場所です。1973年以降行方不明になった人がここに埋められているのです。名前の無いお墓に入っているのは息子かも知れない。友達の息子かも知れません。だから誰のお墓かわからなくてもいつもお花を供えていくんです。

パッチワーク

パッチワークによって広まった国際的な抗議の声が力となってチリは民主化に向かって歩み始めました。
1988年、ピノチェト大統領は任期延長をめぐる国民投票で敗れました。二年後、キリスト教民主党のパトリシオ・エルウィンが大統領に就任し、チリは民主制を取り戻しました。
しかしピノチェトは軍部への支配力を持ち続けました。

パッチワーク

エルウィン大統領は紛争と和解全国委員会を設立し、人権侵害の調査を始めました。91年に提出された報告は2000人以上が人権侵害の犠牲となり死亡したと発表しましたが、責任者は特定されませんでした。そのかわり大統領は犠牲者の家族に対し、チリ政府の名で謝罪しました。

パッチワーク
パッチワーク

チリ人の多くは過去を忘れたがっています。政府と軍部との微妙なバランスが崩れることを恐れているのです。

アゴシン

(マージョリー・アゴシン)「過去を忘れた国は心も失います。あのとき国民と軍部がお互いにしたことを忘れてはいけません。同じことを二度と繰り返さないためです。そしてもっと良い歴史をこれから作っていくために記憶にとどめておくべきなのです。」

パッチワーク
パッチワーク

行方不明者の家族の闘いは終わっていません。彼女たちが20年以上問い続けてきた疑問は解決されていないのです。家族に何があったのか、どこに居るのか、まだ生きているのだろうか。

パッチワーク

「あれほどの拷問にあって生き延びるのは難しいでしょう。全員亡くなっているかもしれません。」
エルモシーラ「息子は生きていると信じてきました。山奥にでも監禁されているんだろうって。」

パッチワーク

モラレス「まず家族を探すこと、そして犯罪者を裁きにかけることが私たちの目的です。復讐のためではありません。これを繰り返さないためです。」

パッチワーク

エルモシーラ「デキニン報告を聞いた時、愕然としました。全員が死亡し、大半は海に投げ捨てられたと大統領が発表した時、私はつぶやきました。きっとあの子も死んだんだ。」

パッチワーク

ドリス・メニコーニ「息子が瀕死の状態だったのを見た人がいました。同じ牢獄にいたという人です。お腹をつぶされて、もうダメだと言っていたそうです。息子が生きている可能性がわずかでもあれば。私はそれに掛けてきました。でも、その人の話から察してあの子はもう生きていないでしょう。たぶん」

エルモシーラ「神を信じることで私は強さと息子を見つける希望を持つことができました。
たとえ息子が生きていなくても、私に返して!埋葬させて欲しいのです。そのためにだけ生きています。」

ドリス・メニコーニ「息子は私の心の一部です。それがかけた状態では何もうまくいかないのです。」

パッチワーク

エルモシーラ「死ぬ瞬間まで彼らを許しません。私は息子のことを何も知らずに死ぬんですから。」

パッチワーク

ドリス・メニコーニ「人間と人間のつながりが何なのかを考えてもらう上で、ぜひ言いたいことがあります。世界じゅうのどこの国であろうと、人間の痛みと命は絶対に尊重されなければならないということです。チリだけでなく、南米、南アフリカ、どこの国であれ、苦しむ人がいてはいけないんです。 

パッチワーク

パッチワーク

"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
制作:カナメディア・プロダクションズ 1992年
NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月12日 放送
(9) 孤独なクエカ

家族を奪われた女性たちは、怒りを表現する方法を他にも見つけました。
1980年、ガラ・トレスさんはチリの伝統音楽を演奏するグループを結成しました。彼女の兄弟もまた行方不明のままです。
彼女はチリの伝統的なダンス・クエカを独特の方法で踊ることにしました。

クエカ

「クエカは本来、男女のペアで踊ります。でも、私たちのパートナーは奪われてしまいました。世界の人にそれを知ってもらうために女性が一人で踊ることにしたのです。」

クエカ
クエカ

このダンスには行方不明になった愛する人への想いが込められています。(音楽)

クエカ

これに心を動かされたイギリスのロック歌手・スティングはチリの女性たちに捧げる歌を作りました。

クエカ
クエカ
クエカ
クエカ
クエカ
クエカ
クエカ
クエカ
クエカ

なぜ女性たちは一人で踊るのだろう
なぜ目には悲しみが宿っているのだろう
なぜ兵士たちは石のように無表情なのか
いったいなにを軽蔑しているのか
許される抵抗は 踊ることだけ
静かな表情の奥で 叫ぶ声が聞える
それを口に出せば 彼女もさらわれて
拷問台に載せられるだけ 他に何ができる?
行方不明者と踊り 死者と踊る
見えない相手と踊る 苦しみを秘めたまま
父親と踊り 息子と踊る
夫と踊り 一人で踊る
たった一人で
いつか墓の上で 自由を歌えると信じ
喜びに笑いながら 踊れる日が来ると信じて



(『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
制作:カナメディア・プロダクションズ 1992年・NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月12日 放送より)

<終章につづく To be continued in the last chapter>
(8) 生活を変えたパッチワーク作り

縫う

パッチワーク作りは家族を探す女性たち、そしてスラム街の女性たちにとって自分たち自身をも変える経験でした。

掃除
二人

「女性たちにとってパッチワークをつくることはバラバラにされた自分たちの生活をつなぎ合わせることでした。パッチワークは心を癒やし、力をあたえました。そして収入だけでなく発言の場を与え、生きている実感をあたえ、ひどい状況にある国の一員だという意識を与えたのです。」(アゴシン)

ヌニアス

スラム街の制作所のリーダー、マリア・ヌニアスさんもパッチワークは収入の手段になっただけでなく、生活を根本から変えたといいます。
「チリの女性たちは夫との間にいろいろ問題を抱えています。ここでは男性優位の考えが根強いのです。夫たちは妻が家を空けるの嫌います。そのかわりもっと家のことをすべきだと考えるんです。」

夫
自信

「以前の女性たちは文句を言われてもじっと堪えるだけでした。今は違います。自分が確立してきたんです。自分をおとしめ黙っている必要なんてないとわかったんです。」

笑い

世界中に広まる

キューソ

チリのパッチワーク作りは他の国の女性達をも勇気づけました。
そしてペルーや南アフリカ、独自のパッチワークをつくりはじめました
カナダの人権擁護団体キューソもパッチワーク作り広めるために協力しました。
彼らはチリから人を招き、学校や女性団体などでパッチワーク作りの実演を行ったのです。
こうした活動によりチリのパッチワーク作りの技術はさらに広まっていきました。

キューソ

「小さなパッチワークは世界中に広まりました。特に南アフリカのソラトの女性たちに影響を与えたのは非常に素晴らしいことでした。
パッチワークは大変な状況のなかで普通の人間が勇気を持って行動すれば特別な人間になれるということを示したのです。」(アゴシン)

(つづく to be continued)

『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』
"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
・制作:カナメディア・プロダクションズ 1992年
・NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月12日 放送
(7) 体に鎖を巻いて抗議 Women chained to parliament gates

集会
放水

年月がたつにつれ家族を探す女性たちのあせりは募りました。国際的な支援に勇気づけられ、さらに大胆な抗議運動をするようになりました。

鎖

むかしの国会議事堂の門に体を縛って抗議しました。私たちはそれを前から計画していたんです。鎖をしばってて錠ををかけてしまえばもう外すことはできません。

鎖
パッチワークに

こわくて足が震えていました。どうなるかわかりませんでした。
私たちの勇気をみんなが称えましたが、カネを貰っているんだろうなどと侮辱する人もいました。

警察

警官が鎖を外そうとして鍵はどこだと聞くので、川に捨てましたとか、家においてきましたと答えました。
警官が鎖を手にとってこれはなんだというので犬の鎖だと言いました。貞操帯の代わりにつけているんですと言いました。
拘束されて家に帰ると娘たちが悲しんでいました。私を抱いて「お母さん、抗議運動をするのは正しいけれど、もう無理よ。いつまで続けるの」とききました。私は答えました。「真実がわかるまで」

ろうそくを持ってデモ行進

元気を

子供が行方不明になった母親たちは毎年集会を開いていました。イメリアさんは集会の知らせをハンカチに書いて近所の人達に配っていました。
「息子のことを思い出してほしくて」「元気を出してね」
「また一年たったわね。昨日みんなで そう話していたのよ。」

みんなで
ハンカチ

(ろうそくを持ってデモ行進、シュプレヒコールと合唱)

ロウソク
あの子が

あの子がいない間にバラの木を植えましょう
あの子が好きな木を気長に世話しましょう
あの子が戻った時に バラの花を摘めるように
みんなで手を差し伸べ 手を取り合いましょう
希望を確かめるために

みんなで

家族を失った女性たちの不安と苦しみ

デモ

20年間にもわたる捜索 そして不安と苦しみは家族を失った女性たちの心に重くのしかかってきました。
「私たちが一番つらいのは情報がないことです。なにがおきたかわからないのは、はい、彼は死にましたといわれるよりも苦しいことなんです。」(モラレス)
「家族が生きているか死んでいるかわからない状況では嘆くことさえ出来ません。家族がどこに監禁され、どこで死んだかもわからないのです。彼女たちには行って泣くべき場所、いなくなった家族を思い出し、一緒になれる場所さえないのです。」(アゴシン)

不在

「精神的にまいってしまった人もいます。子供を失なった母親ほどつらいものはありません。
独裁政権の狙いはまさにそこでした。家族の一員を拉致することで家族全体を崩壊させたのです。
国外に追放されたり、投獄されたり、路上で殺された人もいます。まずその苦しみを克服しなければ葬儀さえ出来ないのです。」(モラレス)

「息子を失って4年間は最悪でした。自殺しようと思いました。本気でそう思ったのです。」(イメリア)

家族

「夫は家族みんなでチリを出ようと言いました。他の子供達にも私にも言いました。
でもあたしはそれを聞き入れませんでした。息子を探すためにここにとどまったのです。」(メニコーニ)

(つづく to be continued)

『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』
"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
・制作:カナメディア・プロダクションズ 1992年
・NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月12日 放送
(6) 海外の人びとの心をつかむ Get the interest of overseas people

パッチワークに
パッチワークに

スラム街にはパッチワークの製作所が80以上も出来、沢山の作品が作られました。しかし人に見てもらえず、売れなければ努力も無駄になってしまいます。そこでなんとしてもチリ国外にパッチワークを持ちだそうとした人びとがいました。
制作活動責任者ウイニー・リラさんもその一人です。

ウイニー

「私たちはパッチワークを世界中で売ることに力を注ぎました。簡単なことではありませんでした。パッチワークを買おうと言ってくれる外国の人たちはいましたが、それにはまず、パッチワークつくってチリから持ちださなくてはならなかったのです。
税関でパッチワークがひっかかると色々と嘘をついてごまかしました。」

警察
カナダ
マライカ

トロントに住むカナダ人マライカ・アウダギーストさんもチリ国外でパッチワークを売るためにに奔走しました。
「当時パッチワークは余り売れていませんでした。完成したパッチワークがただ積み重ねられていたのです。女性たちはハッとするような物語を懸命にパッチワークに縫いこんでいましたが、売れなかったのです。」

パッチワークに

パッチワークはまるで密輸品のようにこっそりチリから持ちださなくてはなりませんでした。外国人であろうと逮捕される危険があり、マライカさんはチリにいる間に何度も脅迫電話を受けました。しかし、それでも彼女はあきらめませんでした。

展示会
展示会

「カナダの教会、大学、YWCAなどの団体に協力してもらってカナダで大きな展示会を開くことになりました。展示会はマスコミに何度も取り上げられ、ずい分関心が集まりました。もちろんパッチワークもたくさん売れました。」

パッチワークに

チリのパッチワークは海外の人びとの心をつかみました。カナダではいくつかの教会が協力してパッチワークを販売しました。また様々な女性団体が展示会を開いてパッチワークを売り、時には数千ドルもの売り上げがありました。
パッチワークの写真の入った絵葉書も作られました。
チリの情勢はこうして世界に知られるようになり、国際的な関心が高まりました。そして外国政府から独裁政権への批判が増すようになりました。

展示会
展示会

アムネスティ・インターナショナルはチリの人権侵害問題について報告書を作りました。またパッチワークの写真をカレンダーにして世界中に配布しました。

(つづく to be continued)

『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』
"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
(5) スラム街の生活を描く

パッチワークに

軍事政権は経済を自由化し、一時的に景気を回復させましたが、貧富の差を広げました。
教会の依頼を受け、ビオレータさんたちはスラム街に住む人びとのためにパッチワークの製作所を作りました。
活動に参加した女性のひとりマリア・ロメロさんは失業中の夫と子供を食べさせなければなりませんでした。

パッチワークに

「パッチワーク作りは子どもたちのための無料食堂から始まりました。そこには親の収入が少なくて食べるものも満足にもらえない子どもたちがいました。そういう子どもたちのためにカトリック教会が無料食堂を作ったのです。

パッチワークに

そして今度はその子どもたちの母親が少しでも収入を増やしたいという思いからここでパッチワークを作り始めたんです。」

作業所
アルピジェラ
パッチワークに
アルピジェラ

彼女たちの作ったパッチワークにはスラム街での生活が描かれています。無料食堂の様子、外で洗濯をする様子、共同の釜でパンを焼く様子、消火栓から水を出す様子、そして電線から電気を引く様子。

パッチワークに
顔

(アゴシン)「自分から何かをするために家を出たことと、パッチワークでいくらかでも収入を得たことで女性たちは強くなったのです。
夫や子供から離れて家の中から新しい世界に出て自由になれたのです。もっと重要なのは、社会的経済的にも様々な背景を持つ女性たちが集まったことで、新しい創造的な雰囲気ができたことです。そして、軍事政権とは対照的に人間を愛し慈しむ姿勢が根付いたのです。」

(つづく to be continued)

『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』
"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
(4) 抗議運動を始める Start of the protest movement

デモ

女性たちはついに通りに出て独裁に対する抗議運動を始めました。彼女たちの勇気は多くのチリ人を奮いたたせました。
「軍の狙いは人びとを黙らせることでした。でも彼女たちはそれを拒んだのです。」(マージョリー・アゴシン)

デモ
デモ
デモ

女性たちは行方不明の家族の写真を胸にかけ、抗議しました。
軍事政権は女性が自分たちを脅かすとは思ってもいませんでした。危機感を持った軍や警察は彼女たちを殴ったり逮捕するようになりました。そして女性なども留置場に送るようになったのです。

デモ

(ビオレータ・モラレス)「警官は私たちを逮捕すると体の傷あとや名前について尋問し、ファイルを作りました。でも一番怖い思いをしたのは、”お前たちも全員殺しておくべきだった”と警官に言われ時でした。」

デモ
パッチワークに

「私は女性刑務所に送られました。そこに5日間、警察署に2日間拘束されていました。警官には残酷でとても下品な扱いを受け、いままでにないつらい経験をしました。
でも、時間がたつにつれ恐怖心が薄れていくのが分かりました。恐怖心も克服し、乗り越えることができるのです。」
(マージョリー・アゴシン)「街に出て抗議した人たちは国に子供を奪われた母親たちでした。ラテンアメリカでは伝統的に女性たちに母親としての役割を強く求めます。
そこで女性たちはいいました。私たちは母親です。でも国が私たちの子供を奪ってしまったので、取り戻します。
政府にとっては反体制的な母親たちでした。」

デモ
デモ

拷問


逮捕されている人びとがひどい拷問にあっているという情報が次第に市民の耳にも入るようになりました。拷問の方法は電気ショックや火あぶり、水攻め、レイプ、手足の切断まで、残酷を極めていました。住宅街のなかにある、一見それとは分からない建物の中でも人びとが監禁され拷問されていました。

デモ

「1974年の9月の朝早く、私は息子がこの留置場に監禁されているのではないかと思い、探しに行きました。近所に住む男性がこう言いました。「いかない方がいい、夜明け近くに大勢が拷問されて、まるで犬の遠吠えみたいなうめき声がするんだ。」私は息子がいるはずだから行ってみますと答えて建物に入ろうとしました。でもメンバーが病院だと言いはって、中に入れませんでした。

51 刑務所

(つづく to be continued)

『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』
"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
・制作:カナメディア・プロダクションズ 1992年
・NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月12日 放送
(3) パッチワークを作り始める Patchwork production began

家

ビオレータ・モラレスさんの家はサンチャゴ市北部にあります。行方不明になった兄のニュートンは一家の大黒柱でした。残された家族は必死で生計を立てなければなりませんでした。
「収入がなくなってからは、食べるものを買うために母が持っていた宝石やなにかを売らなくてはなりませんでした。とにかくお金に困っていたんです。家の中がこんな状況では軍事政権に抗議すらできません。バス代さえないんですから。そこでパッチワークを作ることを思いついたんです。」(ビオレータ・モラレス) 

教会

教会の援助のもと、女性たちはアルピジェラというパッチワークを作り始めました。布の切れ端を縫い合わせ、軍事政権のもとに起きたことを描いたのです。彼女たちはこのパッチワークを外国で展示し、販売しようとしました。しかし政府はこれを反体制的な活動として弾圧したのです。女性たちは出来上がったパッチワークをこっそり教会に持ち込み、保管しました。

長靴
35 プラカード
馬

ニエール

ドリス・メニコーニさんもパッチワークを作り続けてきました。農民の組合を組織していた息子ニエールは逮捕された時23歳、消息は今も分からないままです。
「私は声に出せない心の叫びをパッチワークに込めています。それは軍事政権への反抗、息子を探し求める叫びや嘆きなのです。」(ドリス・メニコーニ)

縫う

パッチワークという新しい芸術

アンデス

ラテンアメリカでは政治運動家の肖像を壁に描く伝統があります。それがチリの女性に代々伝わる裁縫技術と結びつき、パッチワークという新しい芸術が生まれました。パッチワークの明るい色調と単純な絵柄には、女性たちの力強く複雑な思いが込められています。

壁絵

パッチワークのもつ重要性に気づく

新聞

国外でこのパッチワークのもつ重要性に最初に気づいたのはアメリカに移住したチリの詩人マージョリー・アゴシンさんでした。パッチワークを作る女性について本も出版しています。

本
アゴシン

「不思議なタペストリーです。青や黄色といった鮮やかな色がつかわれ、明るい太陽も描かれています。ところが絵の本当の内容は深い悲しみと政府による暴力なのです。ここに表されているのは希望・改革・生命力なんです。そしてこの生命力は制作活動の現場には溢れています。活動現場に行けば分かりますが、そこは死者を想って嘆き悲しむ場所ではありません。命について語る場所です。たとえ生活が独裁政権に支配されても、心まで死の恐怖に支配されてはいけないのです。」

襲撃
輪
笑い

危険をおかして作る

連行

「何か新しいことをして政権に抗議したかったのです。パッチワークはそこから生まれました。でも最初の頃は2ドルでしか売れませんでした。夜中の2時3時にロウソクの明かりをたよりに縫ったんです。夜は外出禁止令が出ていたので、明かりが外に漏れないように窓や隙間に毛布を下げました。家にパッチワークがあるのは銃を隠し持っているのと同じでした。ましてや作るのはもっと危険でした。」(ビオレータ・モラレス)
 秘密警察は危険分子と見た人を独断で逮捕できることになっていました。女性たちはパッチワークを布団の中に隠しました。見つかれば留置場に入れられるだけでは済まないこともあったのです。

警察軍
弾圧

パッチワークに手紙を入れる

手紙

「最初の頃つくったパッチワークには後ろにポケットをつけて手紙を入れました。パッチワークを作った理由を世界の人に知って欲しかったのです。」(ビオレータ・モラレス)

アゴシン

「手紙には自分たちが動物のように虐待されていること、平和を望んでいること、愛する家族を探していることまでが書かれています。この手紙が、パッチワークを作った人と受け取った人との間に共通の秘密をつくり、心を動かしたのです。」
(つづく to be continued)

『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』
"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS
・制作:カナメディア・プロダクションズ 1992年
・NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月12日 放送
(2) 恐怖政治の幕開け Beginning of the reign of terror

パッチワークに

1973年9月11日 、チリの首都サンチアゴでピノチェト率いる軍部がクーデターを起こし、アジェンデ社会主義政権を打倒しました。彼らは数日のうちにチリ全土を掌握しました。

パッチワークに
パッチワークに

軍事政権はただちに戒厳令を施きました。議会を閉鎖し、言論や報道を規制、そして政権を批判するあらゆる活動を厳しく取り締まりました。クーデターから間もないうちにチリ全土で4万人以上が逮捕されました。恐怖政治の幕開けです。

パッチワークに

当時39歳だったニュートン・モラレスさんは化学工場に勤め、労働組合の委員長をしていました。

パッチワークに

「3人の秘密警察官がきて、私たちの目の前で兄を捕まえたのです。警官の一人は、ちょっと話を聞くだけだ、すぐに返すから、といって兄を連れて行ったんです。」

パッチワークに
パッチワークに

イネリアさんの息子チトは当時19歳の学生でした。彼もまた母親の目の前で連れ去られました。

パッチワークに

「私は警官にどういうことか説明して下さいと言いました。ついてくると痛い目にあうぞと脅されましたが、必死にあとを追いました。ここにトラックが止まっていました。警官が息子をトラックに押し込んだのです。私もトラックによじ登ろうとしたんです。でもその途端、警官が殴りつけてきました。その上蹴られたのです。私は倒れてしまったんです。」

パッチワークに

逮捕された人びとは過酷な取り調べを受けました。大勢が拷問され、処刑されました。殺された人たちは路上に放置されたり、ヘリコプターから川に投げ捨てられたり、秘密の墓地に埋められたりしました。

パッチワークに

家族を連れ去られた女性たちは必死で彼らを探しました。警察署、刑務所、病院、そして死体置き場まで。あらゆるところを見て回りました。

パッチワークに

「死体置き場の係員が昨日7つの死体がみつかったと言いました。私は頭が真っ白になりました。無我夢中で全部ひっくり返してみました。息子は背中と肩に傷があったからです。でもそのなかにあの子はいませんでした。」(イネリア・エルモシーラ)

パッチワークに

サンチャゴの国立競技場には何百人もが勾留され、その後刑務所に送られた人もいれば、釈放された人もいます。しかし、大部分の人はどうなったか分からないままです。軍事政権側はそれについて一切関知しないと言い続けました。

パッチワークに

教会が支援

パッチワークに

恐怖と混乱の中で人びとは教会に救いを求めました。
「最初に私たちに救いの手を差し伸べてくれたのは教会でした」(ビオレータ・モラレス)

パッチワークに

うちのめされた国民を守るためにカトリック教会のシルバ大司教が軍事政権に抵抗しました。大聖堂の離れにある宗教関連の書店を傷ついた人びとの避難場所として開放したのです。教会の庇護のもとにあるこの場所には警官も手出しが出来ませんでした。

パッチワークに

聖職者に加え、医者や弁護士、ソーシャルワーカーが力を合わせ始めました。彼らは行方不明者に関するファイルを作成し、それを保管するセンターも設立しました。軍事政権による人権侵害に立ち向かうため、動き始めたのです。

犠牲者

(つづく to be continued)

パッチワークに願いを込めて

『パッチワークに願いを込めて ~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~』
"Threads of Hope" produced by CANAMEDIA PRODUCTIONS 1992
・制作:カナメディア・プロダクションズ 1992年
・NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月12日 放送

パッチワークに願いを込めて

(1) パッチワークで軍事政権に抗議 Women protested against the military regime by patchwork

パッチワークに願いを込めて

1973年、チリではアウグスト・ピノチェト将軍をリーダーとする軍事クーデターにより軍事政権が発足しました。首都サンチャゴを中心に大勢の人々が逮捕され、その後行方不明になりました。そんな中、家族を見つけ出すために布と針だけを武器に闘い続けた女性たちがいます。

パッチワークに願いを込めて

女性たちはパッチワークに思いを綴ることで軍事政権に抗議してきました。20年以上の歳月が過ぎ、チリが再び民主化に向かって歩み始めた今も彼女たちの闘いは終わっていません。

パッチワークに

国連やヨーロッパの女性たちもこの闘いに加わりました。カトリック教会の協力の下、パッチワークは海外にも送られました。パッチワークに込められた声が世界に届くようになりました。

パッチワークに

大統領に就任した後、ピノチェトは左翼主義者の活動を弾圧するため秘密警察を組織しました。多くの市民が逮捕され、強制収容所に送られました。91年には少なくとも2,000人の市民が犠牲になったと見られていましたが、現在ではその数は3.000人を上回るとされています。

行方不明になった家族を探し続けている女性たち

20年以上前に行方不明になった家族をずっと探し続けている女性たちがいます。

パッチワークに

ドリス・メンコールさんは1975年に行方不明がわからなくなった息子ニメールを探しています。

パッチワークに

パッチワーク制作活動のリーダー、ビオレータ・モラレスさんの兄は1974年に消息を絶ちました。

パッチワークに

そしてイネリア・エルモシーラさんの息子チトも同じく1974年に警察に連行され、その後の行方がわからないままです。
(つづく To be continued)

*21年前に制作され、その後NHK教育で放送されたドキュメンタリー。貴重なその内容を紹介させていただきます。
パッチワーク

ドキュメンタリー番組「パッチワークに願いを込めて~ピノチェト軍政下・女性たちの闘い~」を鑑賞しました。「カナメディア・プロダクションズ」(カナダ)1992年制作、NHK教育「海外ドキュメンタリー」1999年2月放送)

家族が警察に連行されたまま行方不明になっている女性3人の証言を中心に、警察軍の弾圧の様子や犠牲者の映像、女性たちの街頭行動の実写を交えて、軍政下で苦しみ、闘う女性たちの姿を生き生きと伝えています。
<感想から>
*とても勉強になった。もっと多くの人に知ってほしい。
*民主主義の大切さ、軍のこわさが身にしみた。日本にも危険な動きがあるので無関心ではいられない。
*人びとを救済する上で教会が大きな役割を果たしたことがわかった。キリスト教の人にも見てもらいたい。
*チリの女性たちがアルピジェラを作った背景がよくわかった。
*同じ人間なのに、なぜ拷問をするのか? 

パッチワーク