大島博光全詩集

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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


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 ところで、1985年は日本軍国主義復活第一年といわれたほどに、日本型ファシズムが圧政と軍国主義をめざして波濤を高めた年であった。「風見鶏」といわれる首相の悪乗りのもとで、日本の支配層は「国家機密法」という治安維持法をも超える弾圧の悪法を日程にのぼせると同時に、政府閣僚による靖国神社公式参拝を憲法をふみにじって強行し、さらに軍事費GNP一%枠をとっぱらうという暴挙に出た。
 こういう情勢は、風刺詩でもって彼らの陰謀とその正体をばくろしてたたかうことを詩人に要求した。わたしも壺井繁治の「頭の中の兵士」、アラゴンの「グレヴァン蝋人形館」、ネルーダの「ニクソンサイドのすすめとチリ革命への賛歌」(『ネルーダ最後の詩集』新日本文庫)などを手本として、「狼の時代」その他いくつかの風刺詩や政治詩を試みた。
 アラゴンは、第二次大戦におけるファシストたちを風刺した『グレヴァン蝋人形館』において、十七世紀のアグリッパ・ド・オビニェ、十九世紀のヴィクトル・ユゴーなど、フランス風刺詩の伝統を復活延長したといわれる。ネルーダが『ニクソンサイドのすすめとチリ革命への賛歌』を書いたのは、一九七三年九月のチリ・クーデターに際して、チリ軍部ファシストがCIAの支援のもとに、謀略、陰謀、武力攻撃をかけてくるという急迫した状況においてであった。ネルーダはその「まえがき」に書いている。
 「歴史は、詩がひとをたたきのめすことができることを証明した。わたしもまた、そうするために詩を採用する……。
 ただ詩人たちだけが、かれ(ニクソン)を壁にはりつけ、痛烈で致命的な詩句によってかれを穴だらけにすることができる。詩の義務は、韻律と脚韻の砲撃によって、かれをぼろくそにうちのめすことである……。
 そこで、洗練された、眼の肥えた芸術至主義者たちは──まだそういう連中がいるとして──そんなわたしの詩にはうんざりするがいい。これらの詩の栄養はある人たちのロにはあわないほど酸っぱくて、辛辣な酢であり、爆楽である。しかしそれは、人民の健康にはきっとよくきくであろう。
 わたしにはそれ以外にやりようがない。わが人民の敵に立ちむかうわたしの歌は攻撃的であり、アラウカニアの石つぶてのように痛烈なのだ……」
 わたしも、それらの詩人たちにはげまされて風刺詩をこころみた。わたしは「政党法」の陰謀に触発されて「狼の時代」を書いたのだが、わたしはそこで初めて、いわゆる特高が「治安維持法」をふりかざして暴虐のかぎりをつくしていたわたしの青春時代の、自分の社会的経験や見聞を詩のなかに書きこむことができた。また「亡者 亡者 亡者ども」を書くにあたっても、戦前・戦中の状況の思い出が大いに役立った。これらの詩を書くのにわたしは五十年ちかくかかった、という想いに駆られる。それはこれらの詩の優劣についてではなく、これらの詩が不充分ながらひとつの歴史的な時代の一側面を描いている点についてである。風刺詩、状況の詩、政治詩を書くことができるようになるまで、わたしは五十年ちかくもかかったのである。
 しかし、こんにちこういう風刺詩を書くことができるのは、思えばあの悪名高い「治安維持法」が日本社会に存在していないからである。したがって、もしも「国家機密法」などがまかり通ったなら、このような風刺詩もふたたび書けなくなるであろう。
 怒りと罵倒のあるところに風刺は生まれる。わたしも風刺の武器をさらに磨いて、情勢の要請にこたえなければならない。ネルーダのように「痛烈な石つぶて」を敵に投げつけなければならない。
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 わたしはまた詩集『ひとを愛するものは』の「あとがき」につぎのようにも書いている。
 「わたしが、……資本主義社会では人間は人間にたいして狼であるということ、『肝腎なのは世界を変えることである』(マルクス)ということなどを多少なりと理解しうるようになり、多少なりと詩をたたかう武器とし、状況の詩、政治詩を書くことができるようになったとすれば、それは党のおかげであり、そこに党があったからである。
それらの詩において、わたしもアラゴンやネルーダのような先駆けの偉大な詩人たちのように、美と真実を、夢と翼を、詩と政治を、詩のなかに統一し融けあわせることをめざしたが、むろんそれに成功しえているなどとは思っていない。しかしとにかくわたしもそこをめざしたのである」
 この詩集の、戦前・戦中の詩篇から、戦後の詩篇への転換、推移の過程そのものが、そのことを物語っているであろう。
 「ひとは遠くからやってくる」とは、ポール・ヴァイヤン・クーチュリエのことばである。「深夜の通行人」「夜の歌」の暗い穴倉の中でのうわ言、泣き言から、「わたしのうちにもそとがわにも」の苦悩を通り、「鳩の歌」「狼の時代」のひろびろとした広場へとやってきたわたしは、思えば、われながら遠くからやってきたものだという感慨を禁じえない。そうして遠くからやってきたものはさらに遠くをめざすであろう。おのれの限界を超えて。
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 そしてここでもう一度詩集『ひとを愛するものは』の「あとがき」のつぎの部分をわたしはくり返えしておきたい。
 「偉大な市川正一同志は、一九三一年七月の公判廷で、その陳述の冒頭にこう述べている。
 『……私の全涯は、日本共産員となった時代と、それ以前の時代との二つにわけられる。そして日本共産党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活である』(新日本文庫「日本共産党のハ十年」上巻七七ページ)
 わたしは党員として何ほどの活動もして来なかったが、しかしわたしもまた詩人として『党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活』であったという感懐をもつ……」。それはまた党のおかげで、『生死を賭けるに足る現実世界』(アラゴン)を見いだすことのできた者のもつ感懐でもある……」そしてここでわたしは、あの偉大な反抗の詩人ランボオのことを思い出す。生と詩とをひき離すことを知らなかったこの天才詩人は、ブルジョワ気質の母親の君臨する家庭にも、パリ・コミューヌを絞殺したブルジョワ社会にも、「真の生活はない、欠落しているのだ」La varie vie est absente. と叫んでさまよい歩いた。パリ・コミューヌが勝利していたなら、ランボオはどうなったか、それはわからない。しかし、コミューヌが敗北した後、ブルジョワ社会に「真の生活はない」という飢えに駆られて、かれが放浪をつづけたことはまちがいない。
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 松田解子がいみじくも指摘したように、戦前と戦後のちがいは、戦後には「治安維持法」がなくなっていて、核兵器が出現したことである。しかも人類を数十回も全滅させうるほどの大量の核兵器が蓄積されている。わたしたちは核戦争と「核の冬」が現実となりうる時代に生きている。核廃絶の道のほか、人類の生き残る道はないであろう。わたしは「平和の党の平和の道を」に書いたように、核廃絶の道を先見性と先駆性をもってきりひらいた党にはげまされて、これからも鳩の歌を、春の歌をうたってゆきたい。死を拒否して生きる悦びをうたい、生きる幸福をたたえ、生きる希望をかかげることこそが詩人の任務なのだから。
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 さいごに、解説を書いてくれた土井大助、出版をひきうけてくれた青磁社の阿部慶司、編集整理に力をかしてくれた小熊忠二の諸氏に感謝の意をしるしておきたい。わたしには自分の作品をまとめたり整理する事務能力がなく、それを出版しょうとする意力もきわめて薄弱であった。この全詩集が刊行の運びを迎えることができたのは、妻静江の熱意と行動力のおかげである。あわせて謝意をしるしておきたい。
  一九八五年十一月

博光
大島博光全詩集あとがき(中)

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 一九四六年二月のある雪の降る日、日本共産党の演説会が長野市でひらかれた。演説をきいて感動したわたしはその場で入党申込書に署名した。わたしにこの決意を堅めさせたものは、学生時代にかいま見た党の姿の雄々しさであり、「帝国主義戦争は敗北に終わるであろう」という党の戦前の見通しの正しさが眼の前で歴史的に証明されたことへの驚嘆であり、そうして戦争中のあの穴倉のなかの詩から抜けでたい、抜けでなければならないという激しい願望と衝動であった。そのときわたしは三十六歳であった。
 戦後のわたしの詩については、『民主文学』(一九八五年五月号)の「誌上インタビュー」において触れているので、それを引用しておきたい。
 わたしは詩集『ひとを愛するものは』の「あとがき」につぎのように書いている。
 「わたしは元来レアリスムからは遠いところ、むしろレアリスムとは相反するところから出発した。わたしは戦前から戦中にかけて青春を送った世代にぞくしているが、党員になる前のわたしは多かれ少なかれ芸術至上主義者であって、きわめて狭い内面生活をうたうことしか知らなかった。外部では、苛烈な階級闘争がおこなわれ、治安維持法をふりかざした特高によって小林多喜二が虐殺され、とうとうとファシズムがのさばり、侵略戦争がおし進められていたのに、それがそのものとして見えなかった。見ようともしなかった。……そういう外部世界、状況、歴史は、詩とは無縁のものだとわたしは思いこんでいた」
 戦争中のわたしが詩について抱いていたこのような考え方、態度は、詩の分野におけるブルジョワ・イデオローグたちが、こんにちもなお宣伝にこれつとめているところのものである。新しいよそおいやニュアンスなどのちがいはあるとしても。戦後のわたしの詩は、このような自分の戦争中の詩にたいするアンチ・テーゼであった。
 といっても、このアンチ・テーゼをどれほど実現しえているかは、わたしじしんにはわからないが、それはわたしにとって容易なことではなかった。現実世界を発展してゆく姿において捉えること、しかもその典型をとらえて描くということを知らずに、観念的にひとりよがりに書いてきた、古いおのれの詩を変えることは、単なる頭の切り換えだけでできることではないからである。おのれの古い詩を変えるには、新しい思想を身につけると同時に、実践をとおしておのれの古い人間そのものを変えるよりほかに道はない。つまり意識と話法を変えるには長い時間にわたる実践的過程が必要なのである。
 詩になにを書くかの問題についていえば、たとえば状況の詩、政治詩を否定するブルジョワ・イデオローグたちは、外部世界、状況を詩にもちこむことは詩の後退であり、詩の貧困であって、詩に政治をもちこんではならないと説教している。戦争中のわたしはこういう禁制をうけいれていたのであって、わたしにもたくさんの「禁じられた言葉」があった。したがって新しい詩を書く第一歩はまずこういう禁制をみずからとっぱらい、みずからに禁じていた言葉を解放することであった。
 詩における形式の問題についていえば、たとえば定型という問題がある。日本には、俳句、短歌という定型詩型があるが、詩にはそれほど決定的な定型はないし、現代詩にあってはそんなことを問題にする意識すらないようである。それにもかかわらず、わたしが形式らしいもの、ソネット形式などを採用しているのは、アラゴンの詩論に負うところが大きい。アラゴンは、詩の内容における個人主義を克服すると同時に、形式における個人主義を克服しなければならないといって、フランス詩における民族形式──伝統的な定型の採用を主張し、実践し、その定型に新しいひびきを与えた。フランス詩の定型は、脚韻、胸韻、一定のシラブルなどをもった詩句versのさまざまな組み合わせから成り立っている。むろんわれわれのところには、そのような詩句の概念はない。しかし、われわれのところにも伝統的な音数律があり、語呂あわせにみられるようなかたちでの頭韻、脚韻も考えられるのだから、それらを採用して、定型とまではゆかなくとも、形式にたいする意識なり精神をもって詩を書くことはまったく無意味というわけではあるまい。──それが、わたしが形式らしいもの、ソネット形式などを採用した理由である。それがどれほどの効果をあげているかどうかは、わたしにはわからない。ただ、何ほどかの言葉のひびき合いを創りだし得たと思ったとき、創りだした者のひそかな悦びのあったことを、わたしは告白しておきたい。言葉の音楽といわれるものが、詩を構成するところの要素のひとつであるとすれば、それを否定しさるよりは利用した方が詩の豊かさのためにも役立つであろう。そしてそれは、なんら詩におけるレアリスムをそこねるものでも、それに相反するものでもないのである……」
 こんにち、詩にはなんの禁制もタブーもない。状況の詩は時局詩にすぎないというような嘲笑や禁制をとっぱらって、詩人はすべてを歌うことができるし、また歌わねばならない。
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つづく

大島博光全詩集あとがき(上)

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